2012年3月7日水曜日

中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』

昨日、今日と、曇ってはいるが気温が少し上がって、風邪気味のわたしとしては助かる日々になっている。ある古文書研究会の人たちと話をしていて、「ひらがな」の当て字(万葉仮名なのだから当然ではあるが)の読み下しの難しさを感じて、もともと日本語は書かれた言葉ではなく語られた言語に重点が置かれていたのではないかと思ったりした。

 言語学でいう「パロール(書き言葉)」と「ラング(話し言葉)」の区別で言えば、日本語は「ラング」が中心の言語ではないかと思ったのである。だから「誤字」ということはなく、「音」で区別するだけだったのではないだろうか。昔の人たちは、漢字を自由に音で使っていたのだ。比較的当て字を使うことの多いわたしは、そんなことをふと思った。

 昨日、中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』(2007年 実業之日本社)を読み終えたので記しておく。作者は、1949年栃木県の生まれで、いくつかの文学書を受賞され、1994年に『二つの山河』で直木賞を受賞された後も、1995年に『落花は枝に還らずとも』で新田次郎賞などを受賞されている。

 わたしはこの作家の作品を読むのはこれが初めてであるが、図書館の書架に並べられている著作のタイトルを眺めていると、いくつかの歴史的な人物を掘り下げていく歴史小説とでもいうべき作品が多いのに気づいた。歴史の主役たちではなく、むしろ騒ぎ立てることなく静かに世を去りながらも、凛とした姿勢を崩さずに生きた人を描いた作品を書かれているのだろうと思った。会津に深い関心があるのか会津の武士たちを取り扱った作品が多いような気がする。

 『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』は、そのタイトルの通り、天保というひどい政治状況の下で名南町奉行といわれた矢部定謙の生涯を描いたもので、史実に基づきながら優れた筆法で読む者を魅了する作品だった。

 矢部定謙(1789-1842年)は、その剛直な性格と才能で小姓組(将軍の日常生活の雑用をするもの)から先手鉄炮頭、火付盗賊改めを経て、1831年(天保2年)に堺奉行、1833年(天保4年)に大阪西町奉行へと順調に経歴を重ねていった人物で、この経歴は、彼がいかに優れた人物であったかを物語るものとなっている。だからといって、彼は、人におもねることもなかったし、たとえば小姓時代に先輩たちのいじめに遭い、これを厳然とはね除けたエピソードが本書でも記されているが、自ら出世を望むようなところもなかった。自ら保身に走ることもなく、ただ、誠実な務め振りと見識の深さ、才能と人格的な懐の深さが彼を奉行職へと進ませたのである。

 大阪西町奉行の時、元与力であった大塩平八郎とも昵懇になり、飢饉であえぐ人々のために大塩平八郎の意見なども考慮して、飢餓対策を施したりしている。運の良さもあって、やがて大塩平八郎が貧民救済を掲げて乱を起こしたとき(1937-天保7年)には、すでに大阪西町奉行から江戸幕府の勘定奉行となって大阪を去っていた。

 だが、江戸幕府の大塩平八郎に対する処遇をめぐっては、これを逆賊とした老中水野忠邦と対立し、大塩平八郎に注がれた汚名を晴らそうとしている。しかし、そのために水野忠邦から勘定奉行の職を追われ、閑職であった西の丸留守居にさせられた。だが、その処遇を平然と受け止め、やがて、3年後の1840年(天保11年)に小普請組支配となり、翌1841年(天保12年)に南町奉行となった。

 この時に彼が行った名裁きがいくつか残っており、その中でも、やむにやまれぬ事情から新吉原で火をつけた遊女に対して、その事情を考慮して、刑期を80年にしてこれを助けた話は著名である。

 彼が南町奉行であったとき、天保の改革を無理やり推し進めようとする老中水野忠邦の強引な政策に対して、北町奉行であった遠山景元(遠山の金さん)と共に、それが江戸の経済を疲弊させ人々を困らせるものだと反対する。

 だが、そのことが原因で、水野忠邦におもねて町奉行の座を狙った鳥居耀蔵につけねらわれ、明白な理由もなしに鳥居耀蔵の策謀によって、1年足らずで南町奉行を罷免され、伊勢桑名藩預かりとなった。そして、桑名藩に預けられたまま、自ら絶食して死去した。彼の死は、いわば憤死であるが、死後も彼の高い見識が見直され、その非業の死は惜しまれた。自ら餓死を選んで非業の死を遂げるのは相当の覚悟がいるし、意志の強さがなければできないことで、武人としての彼の姿がそこに結実している気がする。

 彼は、本書のタイトルか示すとおり気骨の人で、「剛の者」であり、それだけに弱者や貧しい者に対しては限りなく優しい「情の人」でもあった。家臣はもちろん、江戸市民にも絶大に支持され、彼が取り止めさせた三方領地替え(三つの藩の領地を替えること)によって救われた出羽庄内藩では、復領の恩人として祭神に祀られているほどの人である。

 本書は、この矢部定謙の生涯をその人物像や数々のエピソードを交えて描き出したもので、単に史実を述べるのではなく、物語の形式で綴り、それによっていっそう生き生きと人物を浮かび上がらせたものである。わずか一年足らずの町奉行職だったとはいえ、人間としての筋を通した名奉行と言えるだろう。矢部定謙という人物を知る上では、少なくとも名著といえるかも知れない。

2012年3月5日月曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集7 かくれさと苦界行』

このところの急激な気温の変化に身体がついていかないで、風邪気味で、だるくて思考力に持続性がないのを感じる。こんな時は、ゆっくりコーヒーでも入れて、SF冒険映画でも見るといいのだろうが、年度末の慌ただしさもあってそうもいかない。そういえば、昨年もちょうど東日本大震災の時に手ひどい風邪をこじらせて、もう駄目かもしれないなどと思っていたことがあるが、今回はそれよりも軽いので大丈夫だと思っている。

 昨日も若干の発熱と怠さを覚えていたが、隆慶一郎『隆慶一郎全集7 かくれさと苦界行』(2009年 新潮社)を面白く読んだので、働かない脳細胞のままでも記しておくことにする。

 これは、先の『隆慶一郎全集1 吉原御免状』の続編で、1986年(昭和61年)に「週刊新潮」7月十日号から翌年の4月23日号まで連載された作品だから、前作から2年後に書かれたことになる。前作は、江戸の遊郭吉原を山窩(さんか-山の民)の流れをもつ自由の民としての傀儡子(くぐつ-傀儡)の自由を守る砦として描き、徳川家康から「御免状」をもらったいきさつと、その自由を許さない幕閣との争いを、吉原を守る後水尾天皇の落胤である主人公松永誠一郎らと裏柳生である柳生列堂儀仙との死闘として描いたものであった。

 本作では、その柳生列堂義仙との死闘に決着がつけられると同時に、吉原を創設した庄司甚右衛門(甚内)の死が描かれている。物語は、寛文3年(1663年)から寛文8年(1668年)の時代を背景としており、この時代の徳川将軍は四代将軍家綱で、老中首座のひとりが本作でも陰謀を画策して自己保身のために吉原を仇敵と狙う酒井忠清であった。酒井忠清は、政治に全く無関心であった家綱を尻目に、権勢をほしいままにして独占欲の強い専横的人物だったといわれている。

 江戸時代、政治の中心を担った幕閣に、どうも人品の卑しい人物しか出てこなかったのはなぜだろうか、と思ったりもする。もっとも、身分制度という者は、それがどのような制度であれ人間の人格を育てるというところからは遠くある。身分にあぐらをかき、またそれに固執する人間が輩出してくるからだろう。酒井忠清もそういう人物だった。

 それはともかく、本書で「幻斎」として登場する庄司甚右衛門(甚内)は、謎の多い人物で、1575年(天正3年)生まれだといわれるから、もし生きていれば90歳近いわけだが、歴史的には1664年(正保元年)に死去したとされている。しかし、本書では彼が生きて、しかも自由の砦としての吉原を守る要として活躍するのである。

 また、本書には荒木又右衛門も登場し、荒木又右衛門は1599年(慶長4年)に生まれ、鳥取の池田家で1642年(寛永19年)に急死をしたと伝えられたが、実際には、1643年(寛永20年)に死んだとの説もある。荒木又右衛門は柳生宗矩に師事したことがあるといわれているが、詳細は不明である。しかし、本書には、この荒木又右衛門が柳生の里に匿われて生きのび、しかも「お館さま」と呼ばれて恐れられる存在であり、老中酒井忠清の陰謀によって危機に瀕した柳生家を守り、またそのために松永誠一郎や幻斎と争うことになって、幻斎との死闘の中で相打ちして死を迎えるという筋立てになっている。本書は、ある意味で、幻斎と荒木又右衛門という二人の武人の死を描くものでもある。

 酒井忠清の意を受けて吉原を襲う裏柳生の柳生列堂儀仙は、松永誠一郎との争いで片腕を斬られたが、なお、吉原を狙い続ける。大阪の遊郭と手を結び、江戸で禁制の岡場所を作り、吉原の力を弱めて襲撃する計画を立てたりして、吉原の総名主となった松永誠一郎に私怨を晴らそうとする。だが、柳生新陰流の極意でもある「無刀取り」の争いに敗れ、一命を取り留めて、松永誠一郎の何ものにも捕らわれずあるがままに生きていく姿に感じ、自らの固執や我執を捨てて、仏門に入り生きていく姿を選んでいくのである。我執を捨てた柳生列堂儀仙の姿は、それまでとは全く変わって爽やかである。それが本書の終わりで記されていく。

 主人公の松永誠一郎は、自由の砦としての吉原を幻斎らと共に守り、女を食い物にする岡場所を潰すこととも繋がる柳生列堂儀仙との争いを繰り返しながら、「おしゃぶ」との間に子どもができ、幻斎や荒木又右衛門の死を看取りながら、老中酒井忠清の野望を打ち砕いていくのである。

 この後、裏柳生に代わって上野寛永寺が幕府の吉原撲滅の手先となり、それと争っていく姿や松永誠一郎や「おしゃぶ」の死までが描かれる予定であったそうだ。特に、上野寛永寺は徳川家の菩提寺であると同時に、第三世貫主が後水尾天皇の第三皇子守澄法親王であり(1654年)、以後ずっと天皇の猶子や皇子が貫主を務めて、朝廷と徳川幕府の関係の要ともなり、御三家に匹敵する権力をもっていたので、そこでの争いが描かれる予定であったのだろう。

 本書の物語の展開も、そのひとつひとつの要素や剣術争いなども面白いし、ある種の剣豪小説のような趣を持ちながらも、「自由」と「愛」が描かれているのだが、もうひとつ面白いのは、文中で突然作者の顔が見えるように書かれているところである。特に、争いの中で戦争中の作者の体験や思いが表出し、作者の「勢い」のようなものが感じられた。もちろん、物語としての面白さはいうまでもない。

 本書には、このほかに、「吉原遊女の張り」と言われた、いわば「自由」にまつわる短編が「張りの吉原」という題で書かれ、これが収録されている。「自由」を守るために厳格な戒律をもった亡八たちの姿が描き出されるのである。ここでは大阪で太夫であった花扇という女性の眼を通してそれが描かれていく。本書で描き出されるエロティシズムが1980年代のものだなあ、と思ったりもする作品だった。

 いずれにしろ、隆慶一郎の作品は、後の時代の剣豪小説などにも大きな影響を与えて、活劇としての時代小説を開花させている作品で、その点でも面白いと思っている。

2012年3月2日金曜日

高橋義夫『御隠居忍法 鬼切丸』

寒さが戻っているのだが、1923年(大正12年)に百田宗治という人が発表した「どこかで春が生まれてる」という童謡をふと思い起こすような弥生になり、そんな気がしている。「弥生(やよい)」という言葉の響きはとても柔らかい。「弥生」という言葉そのものは草木が生い茂ることをいうのだろうが、よくぞ三月にこの名を付けてくれたものだと感心する。だが、今年はまだまだ寒い。

 閑話休題。時代小説の多くは気楽な娯楽作品として読んでいるのだが、その一つである高橋義夫『御隠居忍法』のシリーズで、『御隠居忍法 鬼切丸』(1999年 実業之日本社 2002年 中公文庫)を、これもまた気楽に読んだ。

 このシリーズは、隠居した鹿間狸斎という元公儀御庭番の伊賀者を主人公にした活劇小説で、隠居して奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになり、彼が関係する人々の事件や元の上司で御庭番を束ねる人物からの依頼などで、隠居の身とはいえ探索する事件に関わっていく話が展開されているもので、本書では、主に五合枡村や近郊で起こる事件が取り上げられている。

 一話完結形式の連作で、本書には「鬼切丸」、「闇の羅刹」、「地下法門」、「火勢鳥の怪」、「犬抱峠」、「びいどろ天狗」、「ただしい隠居道」、「虎の牙」の八話が収められている。

 「鬼切丸」は、剣術修行中という武士が五合枡村にやってきて、おもだった者をたぶらかして五合枡村に道場を開くと言いはじめるところから始まる。彼は、老人や婦人たちの人受けもよく、「鬼切丸」という伝来の刀を持ち、押し出しも立派だった。鹿間狸斎は、そこにいぶかしさを感じたが、多くの者はころりと騙されてしまう。そして、金をだまし取って逐電するのである。

 この話の結末は、見た目に人受けがよい彼が、実はもと修験者で、里で女犯をおかし、金をだまし取ったことが露見して追われていたことがわかり、彼を追ってきた修験者仲間によって成敗されるというものである。

 「闇の羅刹」の設定は、五合枡村を縄張りにしている岡っ引きの文次のところに柔術使いがやってきて、強い者が好きな文次は彼に肩入れして柔術の稽古を子分たちにさせるようになるというものである。だが、その男は幼児を犯して殺すことに快感を覚える人間で、被害者が出る。鹿間狸斎は男の正体を見抜き、対峙して捕らえるのである。

 「地下法門」は、文次の女房で五合枡村の近くの大黒湊で旅籠の雁金屋を切り盛りする「おきみ」と古道具屋の婆さんが突然いなくなり、怪しげな宗教に取り込まれているのを狸斎が助け出していく話である。古道具屋の婆さんの遺体が川から上がったことから、二人が同じ村の出身で、その寒村で怪しげな宗教でその村の住人たちを取り込んでいるという出来事が起こっていたのである。

 「火勢鳥の怪」は、大黒湊の薪炭問屋の真木屋でぼや騒ぎがあり、その火付けと思われる男が、藁の編物を頭からかぶって騒ぎ廻るという行事の格好をして自死しているのが発見され、その事件の真相を探るという話である。狸斎の見分で、その男が自死ではなく殺されたことが判り、薪炭問屋の真木屋も何者かに大金を脅し取られていることがわかっていく。どうやら仕入れている炭のことで揉め事が起こっているらしいということで、狸斎は、炭の産地である蕨沢村まで出かけていくことにするのである。

 そこには、かつて飢饉の時に搗き米屋が襲われ、その責任を捕らされた隣村の加津木村の肝煎りの三男が、修行を積んで不動坊と名乗る男となって帰って来て、蕨沢村の村人たちにいうことを聞かなければ呪い殺すと脅して寄進を強要しているという出来事が背景としてあったのである。

 狸斎はその男と対峙し、男は身につけていた藁に火がついて自ら焼死する。呪術というのが信じられていたので、それを利用して村を乗っ取るという出来事が起こるが、結局は自滅を招くという話である。

 「犬抱峠」は、岡っ引きの文次がほおけたように帰って来て、その理由が犬抱峠の山伏に襲われたことがわかり、犬抱峠のある合ノ海という寒村に狸斎がでかけ、そこで、合ノ海村にかつてあった砦の跡を使って独立を企む出来事にあうという話である。

 「びいどろ天狗」は、金箱の封印を巧妙に仕掛けて大金を盗む「びいどろ天狗」という泥棒を捕まえる話で、利用される人間の悲哀が盛り込まれている。

 「ただしい隠居道」と「虎の牙」は、鹿間狸斎が江戸に出かけていき、かつての上司から行くへ不明になっている隠密の捜査を依頼されたり、昔の俳句仲間が非道な旗本に殺されたことを暴いて仇を討ったりする話である。

 これらの物語そのものは、事件が比較的あっさりとかたづけられて、主人公の活躍が光ると同時に、隠居して女中に手をつけて子どもまで作ってしまった主人公の苦労などが描かれていて、それなりに軽妙で面白く読める。少しあっさり過ぎるというきらいはあり、娯楽時代小説と言ってしまえばそれまでだが、村でなんとか糊口をしのぎながら、しかも頼りにされて隠居生活を送るという、いってみれば羨ましい生活をする姿が面白く描かれているのである。しかし、主人公の生活は何とも騒がしい隠居生活ではある。隠居できるだけまだましかもしれないが。

2012年2月29日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集6 鬼麿斬人剣』

目覚めたら一面真っ白な雪景色が広がり、街並みが白く煙って、今もしんしんと雪が舞い落ちている。積雪もかなりあって、横浜では今年いちばんの大雪だろう。車も人通りも少ない。こんな日は、炬燵で雪見酒でも静かに飲むのがいいかもしれないと思いつつ、朝から仕事にせいを出していた。

 昨夕、隆慶一郎『隆慶一郎全集6 鬼麿斬人剣』(2009年 新潮社)を面白く読み終わった。先に、この全集の第一巻『吉原御免状』を読んで、「山の民(山窩―さんか)」を自由の民として描き出したり、徳川の幕閣と、独自の形態をもった遊郭である吉原の攻防を自由のための闘いとしてエンターテイメントの要素も加えて描き出したりして、味わい深く読んでいたので、この全集を読むことにしていたが、第二巻から第五巻までは『影武者徳川家康』で、読むのに少し時間がかかりそうなので、先に、この第六巻『鬼麿斬人剣』を読むことにした。

 本書には、表題の『鬼麿斬人剣』と『狼の眼』、『異説 猿ヶ辻の変』、『死出の雪』の三編の短編が収められている。

 最初の長編『鬼麿斬人剣』は、四谷正宗と呼ばれた江戸時代の不世出の名刀鍛冶であった山浦清麿の弟子の鬼麿という人物を主人公にした冒険活劇譚である。1986年(昭和61年)の「小説新潮」3月号から3ヵ月ごとに1987年(昭和62年)4月号まで掲載されたもので、巻末の縄田一男の「解題」に、作者自身が1986年(昭和61年)の雑誌「波」2月号で本書の構想を次のように語っているのが紹介されている。少し長くなるが、本書の内容もよく表していると思われるので抜き書きしておく。

 「四谷正宗と謳われた不世出の刀鍛冶がいまして、これが水もしたたる美男子で剣術もかなり強かった。彼は、天保十三年の春に突然江戸を出奔して、その年の春には長州萩に現れている。出奔の理由も、どこをどう旅したのかも判らない。しかも、嘉永七年、ペリー来航の翌年に、便所の中で腹をかき切って四十二歳で死んでいる。
 この清麿のことを一番最初に書いたのは吉川英治さんだったと思いますが、吉川さんの書いたのは全くのフィクションで、清麿研究家が怒ってしまったということがあるんです。余り清麿人気が高いものだから、彼をストレートに書くとまた抵抗が生じると思って、その弟子を主人公にしたんです。
 弟子の鬼麿は巨漢で、三尺二寸五分という異例に長い刀を持っている。試し斬りの達人で、これがまためっぽう強い。この鬼麿が清麿の遺志で、中山道、野麦街道、丹波路、山陰道と師の足跡をたどりながら、清麿が路銀のために打った出来の悪い刀を、数打ちというんですが、それを一本、一本、折っていくという話です」(本書428-429ページ)

 そして、縄田一男は、この作品の「解題」として、清麿を扱った吉川英治の作品『山浦清麿』が昭和13年という当時の時局を反映したもので、隆慶一郎は、この作品で清麿の江戸出奔の理由として、清麿の家が四谷北伊賀町の伊賀者組屋敷の側にあったことから発想して、将軍家斉の側室となった伊賀者組頭の娘との不義密通というところに求めたのではないかと記している。こういうところは、本書の「解題」として非常に優れている。隆慶一郎は、清麿の自死が、酒毒のために手が使えなくなり、そのため満足のいく刀を打つことができなくなって、刀鍛冶としての誇りから自分の姿に耐えきれなくなったとしている。実際、山浦清麿は、誇り高い人間で、刀工としても相当の自負があった人である。

 清麿は美男子で、行く先々で酒と女がつきまとうが、本書での弟子の鬼麿は、その名の通りの巨漢でいかつい男として設定されている。また、彼は、幼児の時に厳寒の山中に捨てられ、備わった生命力のたくましさで生きのび、山窩の一族に助けられて育てられ、自由人として生きのびる術や知識を身につけ、通常の倫理観やしきたりなどに捕らわれない自由人の気質を全面的に押し出していくような人物として設定されている。

 山窩の一族のもとを出た鬼麿が、盗みなどをして生きのびていた少年のころに、山陰道を放浪していた清麿と出会い、彼の弟子となり、刀鍛冶として修業していく中で、試し斬りの腕も磨き、背中を後ろにそらす奇妙な格好ながらも剣術の抜群の達人となっていたという設定で、その鬼麿が便所で腹を切った師の清麿の最後に立ち会って、路銀のために数打ちしてしまった駄作の刀が残っていては恥だから、これを探し出して折ってくれという遺言を聞き、その遺志を果たすために江戸を出るところから始まっていく。

 他方、清麿が不義密通をした家斉の側室の父親である伊賀者の組頭は、自分の娘の不義を隠すために清麿を殺そうと狙っていたが、清麿にことごとくはね除けられ、その清麿自身が死に、次に「四谷正宗」と呼ばれるほどの名刀工となった清麿の名を辱めるために彼が数打ちした駄作の刀を探し出して、これを公にすることへと恨みを変えていく。

 かくして、清麿の駄作を求めて、鬼麿と伊賀者との争いが始まっていくのである。こうして舞台は中山道、野麦街道、丹波路へと移っていき、その場所それぞれで、清麿の駄作を探し出そうとする鬼麿の姿や、それを奪い取ろうとする伊賀者との闘いが展開されていき、途中で拾った山窩の子どもや彼を追いかけてきた伊賀者組頭の娘「おりん」との出会いや、「おりん」が鬼麿のとりこになっていくことなどがエンターテイメントの要素たっぷりに描かれていく。

 最後の舞台となるのは、朝廷と繋がりをもつことで幕府の統制外に置かれた「かやの里」と呼ばれる一種の桃源郷であるが、これは、第一巻で記された自由の民の砦としての吉原に繋がるものであろう。こうした理想郷のような世界は他の作品でも現れるが、こうした世界を作者が理想としてもっていたこと、それが作品をさらに面白いものにしていることを改めて思ったりした。なにせ、面白い。つくづくそう思う。

 『狼の眼』は、1988年(昭和63年)に「小説新潮臨時増刊号」1月号に発表された作品で、ふとしたことで刃傷沙汰を起こしたために放逐の身となった秋山要助という剣客が、次第に身を持ち崩して放浪生活をする中で多くの人間を斬り、やくざなどから「人斬り要助」と恐れられるようになって、獲物を狙う「狼の眼」のような眼をするようになり、やがて、自分が放逐される原因となったのが、兄弟子の謀略であったことを知り、自分を嵌めた兄弟子に復讐をする話である。

 『異説 猿ヶ辻の変』は、同じ1988年(昭和63年)「別冊歴史読本・時代小説特集号」に発表された作品で、幕末の暗殺事件でも大きな影響を与えた姉小路公知(あねがこうじ きんとも)の暗殺事件を取り扱ったものである。

 姉小路公知(1840-1863年)は、幕末の公家の中で三条実美とともに攘夷派の急先鋒であったが、1863年(文久3年)に京都禁裏朔平門外の猿ヶ辻で何者かに襲われて死去した人である。その事件は、残された証拠から薩摩藩の「人斬り新兵衛」と言われた田中新兵衛が捕らえられるが、新兵衛が自害したために真相が不明のままになっている事件である。

 本書では、そこに土佐藩の攘夷論者で土佐勤王党を組織した武市半平太瑞山と三条実美の策謀があり、田中新兵衛は自死したのではなく、武市半平太の意を受けた岡田以蔵が殺したのではないかとの説をとっている。いずれにしても、この事件が幕末と維新の姿を大きく変えたのは事実で、当時、政治的な策謀が渦巻き、醜い争いが繰り返されていた。こういう事件を考えると、策謀に走る人間の愚かさと哀れさを感じるだけだが、作者も同じように感じた気がしないでもない。

 『死出の雪』は、1989年(平成元年)「別冊歴史読本・時代小説特集号7」に発表された作品で、「崇禅寺馬場の仇討ち事件」を描いたものである。「崇禅寺馬場の仇討ち事件」というのは、浄瑠璃などでもよく上演されるが、1715年(正徳5年)11月に摂津国西成郡(現:大阪府)の崇禅寺の松林の中で起こった仇討ち事件で、大和国(現:奈良県)郡山藩の槍術師範であった遠城治郞左衛門の子である治左衛門と安藤喜八郎の兄弟が、弟宗左衛門の仇である生田伝八郎を討とうとして、反対に返り討ちにあった事件である。

 この作品の中で、最初に生田伝八郎に殺された宗左衛門を鼻持ちならない傲慢な若者として描き、怖いもの知らずで無思慮、暴力を笠に着るようなつまらない人間として描き、その母親の単なる溺愛が子に事件を招き、生田伝八郎も返り討ちにあった遠城治左衛門も安藤喜八郎も、共に、どうにもならない現状を黙って受けて、武士としてその「儀」を果たして死んでいったものとして描き出されている。この視点も、作者ならではの視点だろうと思う。

 しかし、これらの短編よりも、やはり長編の方が作者の力量がもっとも発揮されているように感じた。もちろん、短編も優れているし、その歴史解釈も面白い。だが、作者は、やはり、本質的に物語作家ではないだろうか。まだ数作品しか読んでいないが、そんな気がする。

2012年2月27日月曜日

山本周五郎『新潮記』

再び寒さが戻ってきて、今週は水曜日頃まで寒いらしい。雲が薄く広がっている。植物に水をやり、いくつか片づけなければならない物をぼんやり眺めたりしていた。

 週末から日曜日の夜にかけて、山本周五郎『新潮記』(1985年 新潮文庫)を読んだので記しておく。本書の巻末に収められている奥野健夫の「解説」によれば、本書は、昭和18年(1943年)に北海タイムス(現:北海道新聞)に連載された小説で、作者40歳の時の作品となる。太平洋戦争の末期で、戦後も作者は生前にこの作品の刊行を許可しなかったそうで、奥野健夫はその理由を文学上の問題としてあげているが、わたしはむしろ、この作品の中に描かれている勤王思想と皇国思想に、戦後の山本周五郎が自戒的なものを感じていたのではないかと思っている。

 本書は、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた藤田東湖が水戸に在住しているところが描かれているので、嘉永3年(1850年)頃の時代を背景として、その中で自らの生き方を求めていく青年武士の姿を描いたものである。ちょうど、古いものと新しいものが相克している時代で、その意味で、新しい流れとして『新潮記』という表題がつけられているのだろう。

 本書の主人公は、水戸の徳川家と姻戚関係などで親密であった讃岐の高松藩松平家の藩士で、高松藩の中で尊皇攘夷思想の中心的人物である校川宗兵衛の妾腹の子である早水秀之進という青年である。彼は、学業も優秀で、剣の腕も藩内で並ぶ者がないほど優れていたが、自分が庶子(妾腹の子)で、父親からも捨てられたのではないかと思い、何事にも冷ややかで、人を突き放してしまうようなところのある青年だった。

 だが、その彼の優れたところを見抜き、行動を共にするのが、藩内尊王攘夷派を経済的に支えた豪商「太橋家」の次男の太橋大助で、大助自身も優秀であり、また、困った人を助けずにはおれないような人情家であった。この二人がそれぞれに自分の人生を模索していく姿が描き出されているのである。

 水戸徳川家と高松藩松平家は、養子を交換するなどしてきて特別に親密であったが、高松藩松平家の頼胤(よりたね)が幕府の重臣となり、叔父であった水戸の徳川斉昭の引退を計らねばならなくなり(「申辰の事」と呼ばれる)、両家に齟齬が生じてしまったのである。水戸の徳川斉昭に信服し、国許で隠棲している頼胤の兄の頼該(よりかね)は、高松藩松平家と弟の頼胤のことを思いやってなんとか水戸藩と高松藩の間を取りもとうと斉昭のもとに書を送りたいと願い、その密使として早水秀之進を選んで送り出すのである。

 早水秀之進と太橋大助は水戸に向かう途中で、突然、山開き前の嵐の富士山に登ることにし、そこで尊皇攘夷思想を持って脱藩し、瀕死の状態になった兄と彼を看病している藤尾という娘と出会うところから物語が始まっていくのである。厳寒の富士への登山というのが、いわば、主人公たちのこれからの歩みの象徴でもあるだろう。冷徹な早水秀之進は登山の後もさっさと下山していくが、人情家の太橋大助は、その兄妹が気になり、結局、瀕死だった兄の死を看取り、妹を連れて江戸まで向かう。そして、知り合いの人情本作家である竹亭寒笑や彼が引き取っている元名妓の梅八などに彼女を託して世話をしていくのである。

 だが、早水秀之進は、江戸で実父の校川宗兵衛と会うが、激烈な尊皇攘夷思想の持ち主である校川宗兵衛と親子の情を交わすこともできずに、迷いの中に置かれ、校川宗兵衛の手紙をもらって水戸の藤田東湖を尋ねるのである。ただ、江戸屋敷に泊まった夜、深夜に「ゆるせ」という校川宗兵衛の言葉を部屋越しに聞くのである。

 途中で、頼該の意を阻止しようとする刺客との死闘などもあったが、水戸で藤田東湖に出会った早水秀之進は、東湖の人柄に深く感銘を受ける。思想よりもむしろその人柄に感銘を受け、水戸の時代は終わり、新しい時代の潮流の中に身を置いていくことを決心していくのである。そして、身寄りのない藤尾と結婚し、ひとりの無名の人間として新しい時代の幕開けを志そうとする。

 本書の大筋は、こんなところである。ただ、皇国思想を真正面から取り上げているだけに、主人公や東湖などの登場人物たちの思想(考え)が長饒舌で述べられたり、純粋さということではうなずけるのだが、その思想もいささか「青臭い」ところがあったりして、必ずしも物語の展開が十分な形で昇華されていないところも感じた。

 しかし、描写は抜群で、いくつか抜き書きしておこう。

 まず、主人公が北浦の海岸で海を望んだとき、「この大洋のかなたに亜米利加あり」を実感した時の海の描写が次のように記されている。

 「吹きわたって来る風は海の青に染まっているかと思われ、むせるほども潮の香に満ちていた。眼もとどかぬ沖のかなたで盛りあがる波は、運命のようにじりじりと、高く低くたゆたいつつ寄せて来る。そして磯の近くまで来るとにわかに逞しく肩を揺りあげ、まるで蹲(しゃが)んでいたものが起ちあがりでもするようにぐっと頭を擡(もた)げるとみるや、颯(さっ)と白い飛沫(しぶき)をあげて崩れたち、右へ左へとその飛沫の線を延ばしながら歓声をあげて水面を叩き、揺れあい押しあいつつ眩しいほど雪白の泡となって汀を掩(おお)う・・・これらはすべて或る諧調をもっていた。旋律のない壮大な音楽ともいえよう、いや旋律さえ無いとはいえない。耳でこそ聞きわけられないが感覚には訴えてくる。ただその音色が現実的に説明しがたいだけだ。・・・」(本書 85ページ)

 この海の表現は、激動していく時代の波をかぶる青年の心情でもあるだろう。擬人法の表現は、それを示唆する。かすかに感じ取られる波の旋律。それを主人公が聞いていくということがこの描写には込められていて、こういう情景描写は驚嘆に値する。

 次に、藤田東湖が詠んだ「瓢兮歌(ひさごのうた)」という詩が次のように記されて、藤田東湖という人間の人物像を浮かび上がらせるものになっている。

 「瓢兮瓢兮吾れ汝を愛す/汝能く酒を愛して天に愧(は)ぢず/消息盈虚(えいきょ)時と与(とも)に移る/酒ある時跪座(きざ)し酒なき時顚(ころ)ぶ/汝の跪座(きざ)する時吾れ未だ酔はず/汝まさに顚(ころ)ばんとする時吾れ眠らんと欲す/一酔一眠吾が事足る/地上の窮通何処の辺」(114ページ)

 そして、「一酔一眠吾が事足る/地上の窮通何処の辺」におおらかに生きる東湖の姿を見るのである。

 また、江戸の「粋」といわれる文化に触れて、かつて名妓といわれた梅八の姿を借りて、次のように語られている。

 「梅八は江戸文化の爛熟末期から衰退期にかけて、その文化がもっとも端的に集約される世界で生きてきた。現実を無視することを誇り、ものごとの正常さを蔑み、虚栄と衒気(げんき)と詠嘆とを命としてきた。はかなさ、脆さ、弱さ、そういうものにもっとも美を感じ、風流洒落のほかに生活はないと思ってきた」(本書122ページ)

 そして、この梅八が自らの命さえかけて生き抜こうとする藤尾の姿に打たれて、実のある生活へと向かおうとするのである。名妓と言われて浮世を生きてきた梅八もまた、時代の潮の中で自ら考える女性となっていくのである。こういう明確な文化理解には、もちろん、異論もあるが、作品の中ではこれが生きている。そういう表現の巧みさを、わたしはここに感じた。

 あと一箇所、山本周五郎が作家として自らの足場を固めたと思われる箇所が、主人公の新しい潮流を生きようとする姿勢で語られている場面がある。早水秀之進が親友の太橋大助に自らの考えを語る場面である。

 「歴史の変転は少なくなかったが、概して最大多数の国民とは無関係なところで行われた。平氏が天下を取ろうと、源氏が政権を握ろうと、農夫町民に及ぼす影響はいつも極めて些少だった。云ってみれば、平氏になっても衣食住が豊かになる訳ではないし、源氏になったから飢えるということもない。合戦は常に武士と武士との問題だし、城郭の攻防になれば土着の民は立退いてしまう。戦火が収まれば帰って来てああこんどは源氏の大将かといった具合なんだ。・・・いいか、この二つの上に豊富な自然の美がある。春の花、秋の紅葉、、雪見や、枯野や、蛍狩り、時雨、霧や霞、四季それぞれの美しい変化、山なみの幽遠なすがた。水の清さ、これらは貧富の差別なく誰にでも観賞することができる。夏の暑さも冬の寒気も、木と泥と竹や紙で造った簡易な住居で充分に凌げる・・・こういう経済地理と政治条件の下では、どうしても宗教に救いを求めなければならないという状態は有り得ないんだ」(221-222ページ)

 という一文である。ここで使われている「最大多数の国民」とか「経済地理」、「政治条件」という概念などは、もちろん、江戸期の概念ではないし、論理も「青臭さ」が残るものであるが、言い回しの妙がある。そして、貧富の差なく豊かさを感じることができるものというところに作者の視点は向かっていく。そして、おそらくこれが当時の作者のむき出しの考えだったのだろうと思われるのである。わたしは、ここで語られている思想の内容とは別に、自分の心情を素朴に露吐する作者の姿勢を感じるわけで、こうした素朴さが、後に市井の人々を描き出す重要な視点になっているだろうと思えたのである。

 また、小説の作法として、主人公を実際の歴史の中で動かしていくという方法が採られて、これもまた、昭和18年(1843年)の時点での画期的な方法だったのではないだろうか。個人的な考えを述べれば、わたしは日本には国家論は似合わない気がしているので、国家論が語られるときは政治や社会に歪みが生じたときのように思う。その意味では、これは歪んだ時代の中で書かれた小説ではあると思う。

2012年2月24日金曜日

宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』

ようやく寒さがゆるみ始め、近所の花屋さんの店先では花を咲かせたチューリップが売られていた。また寒さがぶり返したりして、今の季節はどことなく中途半端なところがあるが、それでも早春を感じられるのは嬉しいことである。梅がほころび始めるだろう。

 宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』(2008年 角川書店)を読んでいたので記しておくことにする。

 「百物語」というのは、もともと、江戸時代に一種のブームともなった怪談話をする集まりでなされた話で、集まった人たちがそれぞれに不思議な体験や因縁話をし、百話が話し終えられると本物の「ものの怪」が現れるとされ、肝試しのようなものとしても行われていたもので、それを集めたものを「百物語」と称したりしていた。

 本書は、こうした怪談会の趣向とは異なって、身辺に起こったある事件のために傷心を受け、叔父である江戸神田の袋物屋「三島屋」に引き取られた「おちか」という娘が、叔父の計らいで他の人の因縁話を聞くことで、自分が関わった事件の姿や自分自身を、それぞれの因縁話の解決と共に解き放ち、自分の姿を取り戻していくというものである。

 個人的な所感を最初に言えば、こうした設定の仕方に、いささか無理があるし、「ものの怪」によって事柄が解決していくという出来事は、わたしのような人間にとってはいささか読むのに忍耐がいる。しかし、「現代の語り部」としての宮部みゆきの本領はよく発揮され、人間の回復というものが結局は自分自身で納得することによって行われていくものであることを改めて感じたりした。

 「おちか」のもとを訪れた最初の人間は、兄を見捨てたことに悩む弟である。兄弟思いで親代わりとなって育ててくれた兄が、喧嘩でかっとなって人を殺めてしまい、遠島となる。そして、赦免されて帰ってくる。しかし、幼い頃から兄に育てられ、兄を慕っていたはずの弟は、世間体を考えて帰ってきた兄とも会おうともしない。むしろ身内の犯罪者として疎ましく思い始めるのである。そして、そのことを知った兄が自ら首をくくって自死してしまうのである。その自責の念にかられた人物が自分の心情を「おちか」に露吐する(第一話「曼珠沙華」)。

 次に「おちか」を訪れた人間は、家族が不思議な家に魅了され、それに取り込まれてしまい、自分の魂もそこに閉じ込められてしまった女性である。貧しいながらも助け合って暮らしていた錠前直しの一家が、あるとき不思議な家の蔵の錠前直しを依頼されたところ、その家に住めば百両の金を出すといわれ、なにかの因縁があると思いつつもその家に住むようになり、ついにはその家に取り込まれてしまうのである。「おちか」のもとを訪れた女性は、錠前直しの父親の師匠からかろうじて助け出されるが、魂はその家に置きっぱなしであった。この不思議な家は、人間の魂を喰う家で、やがて物語の関係者がすべてこの家に集められることとなる。(こういう展開に、わたしはちょっと無理を感じるが。)

 第三話「邪恋」は、主人公である「おちか」自身に起こった出来事で、「おちか」は他の人の不幸話を聞く中で、自分の身に起こった事件を徐々に整理していくのだが、「おちか」をめぐって男同士の殺人事件が起こったことが記されている。

 「おちか」は川崎の老舗の宿の娘であった。彼女がまだ幼い頃、雪混じりの雨が降る寒いよるにひとりの男の子が街道沿いの斜面に捨てられて死にかけているのを父親が助け、父親は彼を引き取り、一緒に育てあげていた。家族同様と言いながらも奉公人として使っており、都合のよいときには家族として、都合の悪いときには捨て子の奉公人として扱っていたのである。彼は次第に「おちか」に思慕を抱くようになっていたし、「おちか」の心にも彼があった。だが、自分が捨て子であることで、彼はひたすら「おちか」の幸せを願っていた。やがて「おちか」に縁談が持ち込まれ、その縁談相手に「おちか」を頼むと言い、「おちか」の縁談相手は「おまえのような人間に言われたくない」と争い、ついに彼は「おちか」の縁談相手を鉈で殺してしまい、自らも死んでしまうのである。

 「おちか」もまた、その争いの瞬間に、彼を余所者として見捨ててしまい、以後、自責の念に駆られて閉じこもりの生活をしていたのである。「おちか」は自分のために二人の人間が死んでしまったという自責に縛りつけられて、叔父の家に引き取られていたのである。そういう「おちか」自身の事情がここで語られるのである。

 こうした「おちか」自身の話の後で、次に「おちか」のもとを訪れたのは、病身のために離れて育っていた姉が健康を取り戻して帰り、美男の兄と美女の姉が、相思相愛の仲となってしまって、互いに自死した妹である(第四話「魔鏡」)。

 そして、百の物語ではないが、「おちか」自身のことを含めて四つの出来事が、一つになって大演壇を結んでいくのが「最終話 家鳴り」で、第二話で語られた不思議な家が、これまでの登場人物たちの魂をすべて集め、なお「おちか」自身を欲するようになり、「おちか」は、多くの人たちの力を借りながらその家と対決し、すべての集められた魂を解放し、それによって自分自身も解放していくというものである。

 これまでも宮部みゆきは「ものの怪」を扱った作品を書いているが、本書は少し違った毛色の作品で、なにかの事件が解決されることよりも、過去に縛りつけられ身動きの取れなくなった女性が、他者の不幸と因縁の話を聞き、自分自身の問題を直面し、それと真正面から対峙していくことで自らを回復させていくことに重点が置かれている気がする。

 しかし、私見ではあるが、彼女の時代小説の最高峰は『孤宿の人』で、本書は、これといった特色には少し欠けているような気がしないでもない。だが、物語作家としての本領はあって、面白く読めた一冊ではあった。

2012年2月22日水曜日

鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』

今日は少し曇っているが、このところ寒さが緩み、嬉しい限りである。青年のころに『若者たち』という映画を見て、その中で田中邦衛さんだったかが「春になると嬉しくって仕方がない。もう寒さに震えなくてすむから」というような台詞を語られていたのが妙に頭に残っていて、日々の生活に追われる中で、今頃の季節によく思い出す。

 1970年代、多くの青年たちが「自立」を求めていた時代だった。だが、この国は、いつから至極当たり前のように「他人のふんどしで相撲を取る」ような貧しい発想をするようになってきたのだろうかと、今の政府の動きを見ながら思ったりする。全体的に寄生虫のような発想しかしなくなり、「自立の思想」の影さえ見えなくなった気がする。貧しいけれども自分の足で凜と立つ姿勢をとることを思い知ったのではないか。

 そんなことをぼんやり考えながら、他方では鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』(2009年 朝日新聞出版朝日文庫)を気楽に面白く読んだ。「ももんじや」というのは、江戸時代に猪や鹿、あるいは鳥や兎といった獣肉を食べさせた小料理屋で、そこを人助けの商売の拠点として集う御助人たちの活躍を描いたものである。

 御助宿でもある「ももんじや」を営むのは、元は深川州崎で地回り(やくざ)をしていたといわれる還暦を過ぎた茂十で、茂十は十五歳になる孫娘の「おはる」と「ももんじや」を切り盛りしながら、御助宿の元締めとして御助商売に携わっているのである。

 この「ももんじや」に居候し、御助人の中心になっているのは、百地十四郎という二十五歳の若侍である。百地十四郎は、元は二百石の旗本家の三男だったが、妾腹で、子どものころから家臣のような扱いを受けてきていた。だが、不憫に思った父親が剣道だけは習わせ、剣の才能もあり、北辰一刀流の遣い手として剣名をあげるほどの腕前になった。しかし、兄弟子に誘われて賭け試合をし、打ち負かした相手に恨まれて襲われ、はずみで斬り殺してしまい、破門されて自堕落な生活を続け、「ももんじや」に入り浸るようになって、ついには居候のようになってしまったのである。

 物語は、この「ももんじや」の前の通りで、年端もいかない十五、六の少年と妹と見られる十三、四の少女が四人の武士に取り囲まれて斬り合いをしているところから始まる。「ももんじや」に出入りし、膏薬売りをしながら御助人の仕事もしている助八がその斬り合いを知らせに百地十四郎のもとに駆け込み、十四郎が武士に取り囲まれていた少年と少女を助けるところから始まっていくのである。

 少年は出羽国滝園藩(作者の創作だろう)の井川泉之助と名乗り、少女はその妹の「ゆき」と名乗る。二人は殺された父親の仇を討つために江戸に出てきたのである。だが、そこには滝園藩における権力争いが絡んでいて、藩の大規模な普請工事に絡んで豪商と結託して私腹を肥やそうとしていた国許の次席家老の権力掌握の野望が渦巻いていたのである。

 井川兄妹が江戸で身を寄せた叔父は、彼らを助けたのが御助人であることを知り、御助宿である「ももんじや」に二人の仇討ちの助力を願い出る。「ももんじや」では、その依頼を受けて、百地十四郎や同じ御助人である牢人の波野平八郎、助八や廻り髪結いをしている佐吉、元は修験者だったという坊主頭の伝海、女掏摸であった簪を使う「お京」らによって、二人の仇を捜し出していくのである。

 百地十四郎は二人に仇を討たせるために、二人に剣を教え、二人は「ももんじや」の御助人によって見事に仇を果たし、それによって内紛していた藩の騒動も収まっていくという結末となる。

 物語の展開そのものや登場人物たちの設定などは、数多の時代小説のどこでも見かけるものであるが、鳥羽亮のこなれた文章と兄妹の修行や剣を交えての争いの場面などは、なるほど剣道を知る者の作だと思わせられ、娯楽小説として気楽に読めるものとなっている。