2009年12月31日木曜日

宇江佐真理『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』

 日本海側は大荒れの天気だそうだが、よく晴れた大晦日になった。何とはなしの大晦日ではあるが、「今年もまた一年が終わる」という思いは、やはりある。人は、こうして自然の流れの時間に区切りをつけて生きることを学んできたのだから、つけられるものならつけた方がいいと思う。

 先日、図書館が年末の休館をする前に出かけ、まだ読んでいない宇江佐真理『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』(2006年 角川書店)があったので、すぐに借りてきて昨日読み終えた。調べてみると、この人の作品で読んでいないのは、残すところ数冊であり、どの作品も素晴らしい。

 『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』は、文政4年(1821年)に盛岡藩士であった下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)が弘前藩主であった津軽寧親(つがる やすちか)を狙って起こした暗殺未遂事件を題材に、弘前藩と敵対していた盛岡藩の重臣の息子が父の命によってその暗殺計画を手伝うように言われ、町屋に住み、世間を知り、恋を知り、成長していく過程を描いた青春時代小説である。

 歴史的に言えば、南部一族であった弘前藩主の津軽家の祖である津軽(大浦)為信(つがる ためのぶ)が戦国時代の1571年に挙兵して同じ南部一族を攻撃し、津軽地方一帯を支配し、豊臣秀吉の小田原城攻めにも参戦して秀吉から正式な大名として認められたが、そうした経緯から南部一族の盛岡藩から遺恨をかっていたのである。以後も領地をめぐっての「檜山騒動」と呼ばれるような事件が起こっていた。

 そして、文政3年(1820年)に盛岡藩主の南部利敬(なんぶ としたか)が、一説では弘前藩への積年の恨みから悶死したといわれるような死に方を39歳の若さでおこない、後を継いだ南部利用(なんぶ としもち)がまだ14歳で無位無冠であったのに対し、津軽寧親はロシアに対する北方警備を命じられて従四位下に任じられたり、盛岡藩八万石を越える十万石と石高を改められたりしたために、盛岡藩は、自分たちより格下だと思っていた弘前藩に対して遺恨を抱いていたと言われている。

 盛岡藩士の次男に生まれた下斗米秀之進は、江戸で夏目長右衛門(なつめ ちょうえもん)の下で武術をおさめ、また当時の兵法家であった平山行蔵(ひらやま こうぞう)の下で兵法を学び、文武共に優れた人物として師範代まで務めている。そして、1818年に父の病で郷里に帰り、そこで私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設して多くの武家や町人の子弟教育にあたっていたが、藩主の悶死事件で「忠」をつくさんと津軽寧親に果し状を送り隠居を勧めたが、聞き入れられなかったために津軽寧親が参勤交代で帰国する途上をねらって暗殺を企てるのである。

 しかし、仲間の密告によって失敗に終わり、下斗米秀之進は「相馬大作」と名前を変えて盛岡藩を脱して江戸へ向かうが、幕吏(実際は弘前藩士)に捕えられ、1822年に処刑されている。

 この事件は「相馬大作事件」と呼ばれ、後に勤皇思想を説いた水戸藩の藤田東湖やさらには吉田松陰にまで影響を及ぼし、「みちのく忠臣蔵」と呼ばれたりして、講談や小説、映画にもなっている。

 宇江佐真理は、この事件を背景にして、その事件と関わる一人の青年武士が成長していく姿を、彼女の柔らかな文体で実にさわやかに描き出す。作品の中では、弘前藩は「島北藩」、藩主の津軽寧親は「島北利隆(しまきた としたか)、盛岡藩は「仙石藩」、下斗米秀之進は「正木庄左衛門(まさき しょうざえもん)」と名前が変えられ、暗殺計画のもととなった事件としても、時の第十一代将軍徳川家斉の実父で権勢を誇っていた一橋治済(ひとつばし はるさだ)が自分の隠居所をたてるための賄賂として檜を要求したのに「仙石藩」は応えられず、「島北藩」がこたえたために、江戸市中で「仙石藩」が馬鹿にされるようになったということで、その汚名をそそぐために暗殺計画が起こったということになっている。

 この辺りにも、作者が「世の権力」や世間体、外聞というものがいかにつまらないものであるかを示すものであると言えるだろう。

 物語は、その「正木庄左衛門」の補佐を命じられた主人公・刑部小十郎(おさかべ こじゅうろう)が父命によって、町の骨董屋の長屋に住むところから始まる。その骨董屋は、かつては長崎奉行同心であったが武家に嫌気がさし、骨董屋をしながら岡っ引きをしている変わり種で、美貌の娘と妻の三人暮らしである。後にその娘が、実は「拾い子」であることが分かるが、娘もさっぱりしたちゃきちゃきの江戸っ子で、主人公は彼らを通して、世間を知り、生きることの喜びを知っていくのである。彼は修業中の青年僧とも友人になっていく。

 一方、彼が補佐しなければならない「正木庄左衛門」が計画の途中で父の病のために郷里に帰って行ったために、その後の詳細を調べる目的で郷里にいくことになるが、金がないために友人となった青年僧と寺に泊めてもらうことにして、そのため禅寺での生活を学ぶ修業をしたりする。

 やがて、暗殺計画は見事に失敗し、「正木庄左衛門」は捕えられ、主人公は軟禁状態に置かれる。そういう出来事の中で、骨董屋の娘への恋心も増し、「いったい人間の幸せとは何か」をつくづく知っていくのである。

 物語の結末は、主人公の刑部小十郎は自分の意を通し、また、骨董屋の娘も自分の気持ちに素直になって結婚し、主人公も、一度は父親や武家の面目を保とうとして果てた正木庄左衛門などの姿や軟禁状態が続いたりして、武家など捨てようと思っていたが、事態が好転して父の家督を継いでいくということになるが、展開の仕方に無理がなく、主人公と骨董屋の娘の会話にもユーモアがあり、友人の青年僧の姿や骨董屋家族の温かさがにじみ出て、主人公のまっすぐな性格も柔らかい筆致で描かれているために、取り扱われている事件の暗さが「爽やかさ」と「温かさ」で覆われている。

 たとえば、父命をうけて町の骨董屋を訪ねることになった最初の部分で、骨董屋のある久松町を訪れた時、当時流行っていた戯作の「お染と久松」をもじって、「お染参上」と口に出したり(6ページ)、郷里への旅程のために金がなくて寺に泊まるために禅寺で生活作法を学ぶときに、厳しくしつける年長僧侶に対して、今までそれに従順に従ってきたが、その修業の終わりに、「なるほど、道元は偉い坊主だ。だが、もっと偉い奴がいることをお前は忘れている。言え、言ってみろ」と啖呵を切って、「釈迦だろうが。お前は釈迦の教えを忘れておるようだ。釈迦は八正道を会得せねば涅槃には至らぬと説いた。すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定だ。この七日間、お前には八正道の教えがことごとく欠けていた。お前は『正方眼蔵』におれを当て嵌めることに躍起となっていただけだ。よいか、お前達は道元を崇めるが、道元は釈迦の中間だ。さよう心得よ、くそ坊主!」と言ったりする(177ページ)。

 主人公は鷹揚でまっすぐで、そのくせ短気だが、その彼を骨董屋の家族や郷里の母親が温かく包んでいく。ひとつひとつの逸話が、そうした主人公の成長には欠かせないものとして描かれていく。

 やはり、この人の作品は、読んでいて本当に嬉しくなる作品である。言いつくせない嬉しさがある。

 さて、明日は元旦で、2010年はどんな年になるだろうと誰もが思っているだろう。個人的にあまりいいことも続いていないが、多くの感動があればと願っている。これからお雑煮の材料でも買いに行くとしよう。

2009年12月29日火曜日

北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(2)

 よく晴れた寒い師走の日になった。昨日はなんだかんだと過ぎてしまった。前夜に眠るのが遅くなったので起き出すのも遅く、中学生のSちゃんに数学の因数分解のこつを教えたり、「あざみ野」の「神戸珈琲物語」が年末セールをするという案内が来ていたので、新年用もあわせて買いにいったりして、時間が過ぎてしまった。

 北原亞以子の『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、やはり、いい作品だと思う。「第四話 鬼の霍乱」は、木戸番小屋の笑兵衛の妻「お捨て」が急な病気で倒れ、夫婦の深い絆が描かれて、「よく分れずに、ここまで来た――。今、落ち着いた気持ちで毎日を過ごせるのは、お捨てが連れ添ってきてくれたからではないか」(文庫版 176ページ)と笑兵衛が思ったりする。

 お捨ての病が癒えて帰ってきた時、出かけていた笑兵衛が帰って来るとそこにお捨ての姿を見る場面が、何とはなしにしみじみしていい。

 「お捨てが寝床の上に座り、おけいと弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者夫婦で、お捨てを引き取って看病していた)が女房にはさまれて、白湯を飲んでいた。
 『お帰りなさいまし、あなた』
 笑兵衛はふと、涙ぐみそうになった。
 お捨てが弥太右衛門の家に運ばれて行ったのは三日前のことだった。その上、今日も見舞いに行っているのである。が、片頬に深い笑靨(えくぼ)のできるお捨ての面に、ようやく会えたような気がするのだ。
 『もういいのか』
 と、笑兵衛は言った。
 『熱なんざ、やたらに出すな』
 お捨てのころがるような笑い声が、狭い番小屋の中に響いた」(文庫版 175-176ページ)

 こういう味わいのある情景が随所に描かれていくのである。

 その一方で、隠居させられた木綿問屋の主人が、妻をなくし、話し相手をなくして、人付き合いが不器用で孤独のうちに日々を過ごしていく姿が丹念に描かれていく。

 「三国屋(木綿問屋)からはじき出され、長屋の人達はなじんでくれず、忠実な喜兵衛(手代)にはその姿は見せられない。浜吉(隠居させられた木綿問屋の主人)の言う通り、天涯孤独にひとしい淋しさではないか。お捨ての作った味噌汁を飲んでいる時の、或いは弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者)と深夜まで将棋を指している時の浜吉は、いったいどこで笑っていたのだろうか」(文庫版 184ページ)と笑兵衛は思う。

 浜吉は、ひとりですねて、ひとりで孤独になっているのである。しかし、この老人の心情を木戸番夫婦は察していくのである。

 「第五話 親思い」は、木戸番夫婦を親のように慕う複雑な生育経過を持つ蔬菜(青物野菜)売りの豊松が、自分の生みの親が、自分が嫌っている老婆であることを知り、また、父親がひどい武家だったことを知り、その中で葛藤していくが、生みの親と育ての親、そして笑兵平夫婦に「親孝行」をしていく話である。

 人違いから豊松に自分の武家としての家を再興するチャンスが訪れる。家を再興するために育ての親のもとを離れ、四国丸亀藩へ行こうとする。そのくだりは、次のように表わされている。

 「『戸田(武家としての豊松の家)を再興する時がきた、俺あ、そう思ったよ。おふくろは、親父を自慢していた。その親父を殿様も藩の人達も見直してくれたのだもの。あの世でどんなにか喜んでいるだろうと思った。すっかり気持ちが昂っちまってね。寝床の中で、武家の礼儀作法を、あらためて小父さん(笑兵衛)に仕込んでもらわなくっちゃならねぇと、そればかり考えていたんだが』
 でも――と、豊松は言う。
 『六つの鐘が鳴る前に起きて台所に行くと、もうおみねおっ母(育ての親)がめしを炊いているんだ。赤飯を炊いているんだと言ったけど、おみねおっ母は泣いていた――』
 お捨ても、ふと涙ぐみそうになった。
 八歳の時から、いや、赤子の時からあとを追われ、田圃や畑にも連れて行って育てた豊松であった。この子は武士の子、いつか離れてゆくことがあるかもしれないと自分に言い聞かせていても、諦めきれぬものがあるにちがいない。それは、吾助(育ての父親)とて同じことだろう。
 『俺あ、おみねおっ母や吾助父つぁんと顔を合わせているのがつらくなって、うちを飛び出して来たんだ』」(文庫版 207ページ)

 こういうくだりは、それぞれの優しい思いやりが素朴ににじみ出ている。

 「第六話 十八年」は、指物大工をしてそれぞれに修業を重ねた二人の男の姿を描いたもので、ひとりは、不器用で気が聞かない奴と言われながら、修業を重ね、親方の娘に惚れていたが、娘はもう一人に惚れて結婚し、もう一人の男を羨みつつすねて、自分の職人としての腕にも言い訳ばかりしていたが、良きできた女房をもらい独立し、もう一人は、優れた腕を持って親方の娘と結婚したが、自分の職人としての気質が理解してもらえず、夫婦別れをして上方に修業に出ようとするのである。

 一人は独立し、その祝いの席にお捨てが招かれ、もう一人は、上方へ立つ前に留守番をしていた笑兵衛を訪ねる。人生は、まことに奇異。

 『深川澪通り木戸番小屋』は、人の幸いも不幸も描き出される。不幸には涙を流し、幸いには喜ぶ。そういう木戸番夫婦の姿が、人情味あふれて描かれるのである。

 本書の「第五話 親思い」に最初に、お捨ての人柄を見事に描いた場面が出てくる。お捨ては、土間の床几の上で居眠りをして、床几から転げ落ちそうになる。

 「『あら、いやだ』
 床几から落ちそうになっていたにちがいない自分の姿を想像して、お捨ては笑い声を上げそうになった。
 が、夫の笑兵衛は、一間しかない四畳半で眠っている。枕屏風の向こう側から、少々荒い寝息が聞こえてくるのは、昨夜の騒動で疲れているせいかもしれなかった。
 お捨ては両手で口許をおおい、急いで外へ出た。指の間から笑い声がこぼれてきて、お捨てはふっくらと太った軀を二つに折って笑った。床几から転げ落ちそうになっている自分の姿は、想像すればするほどおかしかった。
 ころがるような笑い声が澪通りにひびいたが、向かいの自身番は静まりかえっている」(文庫版 187-188ページ)

 お捨ては、自分に正直で素直で、天真爛漫である。そういうお捨てを夫の笑兵衛は、包み込むように愛していくのである。こういう夫婦に触れた人々が、その夫婦の姿を見ただけで、深い慰めを覚えていくのである。彼らの木戸番小屋は、いつも開いている。

 北原亞以子のこの作品は、本当にいろいろな意味で噛めば噛むほど味わいが出てくる作品だと思う。このシリーズは、読み終わった後の読後感が優しい気持ちで満たされる。肝心の一作目をはやく読みたいものである。

2009年12月26日土曜日

北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(1)

 朝のうちはどんよりと曇っているし、雨模様であるが、午後からは晴れるらしい。昨夜は、人間関係が冷え切ってしまった出来事を聞いて、なんとなく気の重い夜となったので、こういう時は、今とてもいいと思っている『のだめカンタービレ』を見るに限ると思い、三度目だが、「パリ編(ヨーロッパ編)」をぶっ続けで見て、細かい演出と演技で表わされる上野樹里が演じる「のだめ」の姿に深い感動を覚えながら眠った。

 そんなわけで、読みかけの北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(1995年 講談社 1998年 講談社文庫)も読みかけのままである。これは、この人の作品の中でも一番好きなシリーズで、4冊出ている中での3番目の作品である。武士をやめて木戸番として細々とした生活をしている「笑兵衛」と「お捨て」の夫婦、彼らを最後の心の拠り所としている人々の話で、しみじみとした人間のあり方が伝わる珠玉の作品である。

 『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、「第一話 新地橋」、「第二話 うまい酒」、「第三話 深川育ち」、「第四話 鬼の霍乱」、「第五話 親思い」、「第六話 十八年」の全六話からなっており、「第一話 新地橋」は、かつては新地と呼ばれる岡場所で遊女をし、今は、相愛の男の犠牲によって岡場所を出て小さな団子屋をしている「おひで」という女性の話である。

 彼女の相愛の男は、「おひで」を岡場所から脱け出させるための金を作ろうと質屋に強盗に入り、捕まって遠島になっている。彼が遠島になる時、彼の弟分の男に「おひで」を頼むと言い残していった。弟分は風采のあがらない笊売りだったが、「おひで」に憧れ、彼女を助け、やがて夫婦になる。しかし、「おひで」の心には彼女を身受けして岡場所から脱け出してくれた前の男への思いがある。

 「おひで」の夫となった弟分はそのことを知ってはいるが、生活の中で次第にやりきれない気持が膨らみ、「おひで」に暴力を働いたり、博打に走ったりして借金を作ってしまう。「おひで」が心に抱いている前の男が罪を減じられて赦免になって帰って来るという。「おひで」は夫との間にできた子どもを夫の暴行で流産する。

 だが、「おひで」は、その夫の借金を返すために再び岡場所に身売りする。そして、夫は、苦界に沈む「おひで」を助け出そうと、彼の兄気分がしたことと同じように質屋に強盗に入ろうとする。

 木戸番の「お捨て」は、そういう「おひで」にそっと寄り添う。そして、彼女の夫が強盗しようとするところを、身を呈して止める。木戸番夫婦は、そういうどうにもならないところでもがく「おひで」夫婦を見守っていくのである。

 「第二話 うまい酒」は、女房を弟弟子に寝とられて自棄になって江戸へ出てきた腕のいい左官が、一文なしになり、空腹を抱えて木戸番の焼芋の匂いに誘われ、蹲ってしまったところに、木戸番の裏の炭屋が穴のあいた壁の修理が必要だとの話を聞き、ふらふらと名乗り出る。木戸番の「お捨て」は、彼に「にぎりめし」を作り、「笑兵衛」は、その仕事をしろと言う。その瞬間の出来事が次のように表わされている。

 「気がつくと、木戸番の女房の姿が見えなかった。炭屋から支払われる賃金で、焼芋を買わせてくれと頼むつもりだった偬七(左官)は、垣根の破れをふりかえった。木戸番小屋の前まで、破れの向こうの路地を立って歩いていけるかどうか、自信がなかった。
 その破れから、木戸番の女房があらわれた。板のように平らなものと、丸いものを持っていた。
 偬七は、かすんできた目をこらした。平らなものは盆、丸いものは土瓶で、盆の上にはにぎりめしがのっていた」(文庫版 66ページ)

 彼はこうして木戸番のある「いろは長屋」に住むことになる。しかし、女房に裏切られ、弟弟子に裏切られ、人を信じることができないでいる。

 その「いろは長屋」に、心から人の良い「善蔵」という油売りがいた。「善蔵」は、偬七と友だちになりたいと願って偬七を助けようとする。だが、人を信じることができなくなっている偬七は、それを鬱陶しく思う。

 「お前、――それほどまでにして、どうして人の世話をやくんだ」
 善蔵は黙って笑った。
 「どうしてだよ。買いたいものも買わずに、どうして人の世話をやくんだよ」
 「だってさ・・・」
 善蔵は、土間を眺め、自分の膝を眺め、それからやっと偬七を上目遣いに見た。
 「俺、人に好かれねえから・・・」
 蚊の鳴くような声だった。
 「俺、小さい時から好かれねえから。――一所懸命、人の面倒をみて、ようやくつきあってもらえるんだよ」
 偬七は口をつぐんだ。小さい頃から頭がよいと言われ、左官となってからは親方より腕がよいと評判をとった偬七も、気がついてみれば、心を許せる友達は一人もいなかった。(文庫版 72ページ)

 だが、偬七は思う。

 「けっ、何が『偬さんならずっとつきあってくれると思った』だ。何が『長屋の人達は親戚みたようなものだ』だ。
 笑わせないでもらいたい。二世を契った女でさえ、何くわぬ顔で亭主を裏切るのである。文字通り、弟のように可愛がっていた弟弟子は、『兄貴の恩は忘れねえ』と言いながら女房の袖を引いた。血でつながった弟はいなくとも、仕事でつながった弟がいると思い、博奕の借金を払ってやり、割のいい仕事をまわしてやって、そのあげくに突きつけられたのが、『姐さんは俺に惚れているんだ』という科白なのだ。
 何が身内だ、何が親戚だ・・・・・
 誰も、あてにならねえ。女房だって、兄弟だって。――(文庫版 80-81ページ)

 そういうふうにして「善蔵」のひたむきな気持ちを踏みにじった偬七を、木戸番の「笑兵衛」は殴りつける。「善蔵」は、どこまでも偬七を大事にしようとする。「笑兵衛」に殴られた傷の心配をする。そういう温かさに触れて、彼の不信で尖ったような心が和らいでいく。

 「第三話 深川育ち」は、木戸番小屋のある地域に仲の良い姉妹二人で切りまわしている居酒屋に、いい男だが遊び人で金が目当ての男が通い、その男をめぐって姉妹が争い合うという話である。姉は妹のために嫌なこともして居酒屋を開いた。だが、いい男が妹に色目を使って手を出そうとする。姉は妹があきらめてくれるようにと、妹を守るためにその男と寝るが情が移ってしまう。その男は妹も誘う。そして、妹は姉がその男と寝たことを知り、姉を殺そうとまでする。

 木戸番夫婦は、様子がおかしくなった姉妹を案じ、妹が出刃包丁を振りかぶったところに飛び込んで、それを止める。木戸番の「お捨て」は言う。

 「お二人とも深川育ちですもの。いやなことは、川に流してしまわれますよ」(文庫版 133ページ)

 本当にその通りだ、と思う。嫌なことや取り返しのつかないことが山ほどある。そんなものはみんな川に流してしまえ。生きることは前を見ることだから。そんなことを思いながら、ここで本を閉じた。今夜は、また、静かにこの続きを読もう。

2009年12月25日金曜日

藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』

 よく晴れたクリスマスの朝になった。昨夜少し遅くなったので起きるのも遅く、なんとなくボーっとして午前中が過ぎてしまった。今日はこんなふうに一日が過ぎていきそうだ。

 朝、Tさんが親戚の家でとれたというキャベツや白菜をもって来てくださった。Tさんはプロテスタント教会の牧師の娘として生まれ育ち、今はたくさんのお孫さんに囲まれて過ごされている。90歳を越えている介護を必要とするお母さんのお世話にも心を砕かれている。御主人は植木職人として現役で働かれている。

 昨夜、というか丑三つ時を過ぎていたが、ベッドの中で藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』(2006年 光文社文庫)を読んだ。これは、五日ほど前に読んだ『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』の第一作目で、勧善懲悪の娯楽時代小説ではあるが、やはり第一作目の方が作者の熱意や思い入れも深くていい。特に、金貸しで借金の取り立てを生業としている「おきん」という女性をめぐる事情など、主人公の片桐弦一郎を取り巻く登場人物たちの詳細が描かれていて、その描き方も丹念であるし、浪人となった主人公の生活苦もにじみ出ている。

 主人公の片桐弦一郎は、仕えていた大名家が取潰しにあい、その騒動で新妻も失い、就職活動をするが叶わず、ようやくわずかな労賃で筆耕の仕事をもらって細々と裏長屋で暮らしを立てている浪人で、地主大家の知り合いの「口入屋」(現:人材派遣屋)から頼まれて、貧苦にあえいでどうにもならなくなった旗本家の再興のために臨時の「用人(秘書官)」として働くようになるところから話が展開していく。

 その旗本家の道楽息子がした借金の取り立てに現れるのが「おきん」で、「おきん」は、飲む・打つ・買うの三拍子もそろった亭主を追い出し、女手一つで借金取り立て業をして子どもを育てるが、成人した子どもたちはそういう母親の生業を嫌って家を出ている。「おきん」は「青茶婆(金取り婆)」と嫌われているが、その内実は、気風のいいさっぱりした女性であり、やがて主人公を助けていく人物となる。

 雇われ用人として旗本家の借金を何とか減らしたいと思った主人公の片桐弦一郎は、その「おきん」の実情を知り、「おきん」の窮状を助け、祖語のあった親子の関係を修復させ、その息子を助けていったりする。このあたりは、親と子の関係の修復の姿が素朴に描かれていていい。

 主人公は、窮状していた旗本家を再興するために、旗本家の道楽息子を立ち直らせ、旗本家の領地に赴き、その実情を調べ、そこで無理難題を言うのではなく、紅花の栽培などのていあんをするなどして領民たちの暮らしも成り立つように知恵を働かせていく。その領地の村で起こった事件のために奔走したり、強盗を捕えたりする。物語は、旗本家の息子が妾腹の子であったり、友人から利用されていただけだったり、また、領民の中で村八分のようにして扱われていた娘が殺されたりと伏線がたくさんあり、それが繋がって主人公の再興の努力が実っていくというふうになって、結構面白く読めるように構成されている。

 主人公の片桐弦一郎は、細々とした自分の暮らしは貧しいが、そのことにあまり拘泥しないし、事にあたっても内情を正直に話して対応しようとする。彼は飾らない。そういうところが人々から信頼されて事件の解決にあたっていくのである。

 こういう主人公の設定は、それを言葉ではなく事柄で描き出そうとすると、なかなか難しいのだが、作者は、この作品ではそれを、出来事を丹念に描いていくことによって成功していると言えるような気がする。こういう作品は面白く読めればそれでいいのだから欲を言う必要はないが、万事がうまくいきすぎているような気がして、出来たら、主人公が手痛い失敗をしてしまうような状況の中で苦労することもあってもいい気もする。もちろん、それはない物ねだりではあるが、藤沢周平の『用心棒日月妙』のような展開になればいいと期待したりする。

 ただ、個人的には、何事にも拘泥しないという人間の姿は、わたしはとても好きで、臨時雇いの「渡り用人」だから自分の地位や名誉にも拘泥しないし、もちろん生活苦もあるのだから金銭の必要性もあるが、それにも拘泥しないところがいい。その意味で、この主人公は魅力的である。

2009年12月24日木曜日

佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2)

 It’s Christmas Eve.
 朝方かかっていた薄雲が晴れて、蒼碧の空が広がっているが、気温が低いので空気に刺すような冷たさを感じる。

 このところ『のだめカンタービレ』にはまっていて、昨夜は、そのアニメ版を見たりしていた。一途な思いは、やはり人を動かす力がある。作品の中で使われているJ.ブラームス(1833-1897年)の「交響曲第1番」を聴いて見ようかと思ったりする。ブラームスはなかなか自分の気持ちを素直に伝えることが苦手で表面に出ることを嫌って、おそらくシューマンの妻クララへの恋心もあっただろうが、質素な生活を好み、自然を愛した人だとも言われている。

 わたしは音楽に関してはほとんど無知だが、「無駄なものは何もない」という彼の哲学は、晩年の「クラリネット三重奏」や「クラリネット五重奏」などを聴いているとわかるような気もする。

 さて、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』の続きだが、第四話は旗本と町火消しとの争いにからむ事件に絡む話で、紋蔵のゆっくりとした、しかし確実な真実の追求の姿が描かれ、「何事もなかったことにする」結末がこの作品らしくて優れている。第五話は、贋金作りに関わる事件で、紋蔵の手下が播州龍野の脇坂家の家来を誤って捕えたことにより事柄が公となって紋蔵の左遷の噂が流れるが、贋金作りの犯人を捕えることによってなんとか沙汰止み(左遷の中止)となっていく展開になっている。

 作品中に登場する脇坂中務大輔は、脇坂安宅(わきさか やすおり 1809-1874年)のことで、安政4年(1857年)に幕府の老中となるが、井伊直弼の桜田門外の変後の文久2年(1861年)4月に隠居し、再び5月に老中として勤めた人である。寺社奉行時代(弘化2年 1845年~)に風紀の乱れを起こしていた僧侶の取り締まりを厳しく行ったことで有名で、その後、自分の妾のことで罷免されたが、再び寺社奉行として登用された経緯がある。

 佐藤雅美は、その脇坂安宅の寺社奉行復帰と紋蔵の失敗とを絡めて、双方が丸く収まる出来事としてこの作品を仕立てている。こういうところが作者の歴史通を思わせる。

 主人公の紋蔵は、突如眠りに陥る奇病をもちながらも頭脳明晰で人情厚い人物であるが、奉行所の下役人であり、勤め人のつらさを背負っている人物である。彼の生活は、その小さなバランスの上に成り立っているのだから、定廻り同心として少し生活が楽になったが、左遷されるとたちまち家計に響いてくる。そういう危うさの中で、紋蔵は苦慮していく。

 何とか左遷は免れたが、しかし、また吹上上聴(将軍の前での各奉行の公開裁判のようなもの)が行われることになり、判例に詳しい紋蔵は、再び例繰方の仕事を手伝うようになる。そして、一見、明白に見えるような事件の裏に隠されている事実を上げて、例繰方としての優秀な働きを示してしまう。そのことによって、収入の多い定廻りから再び例繰方へと戻されるのではないかと戦々恐々とする日々を過ごす。そして、彼の予測通り、彼は再び例繰方に戻されてしまう。彼は再び物書同心に戻るのである。

 紋蔵はいつも「損」をする人である。優秀であればあるほど、彼は「損」をする。そういう役割を演じながら、紋蔵はその中を飄々と生きていく。「紋蔵はこの日の朝も弁当を片手に、白い息を吐きながら、背中を丸めて役所に向かった」(309ページ)という言葉で、この作品は終わる。下役人としての勤め人のつらさがにじみ出ている。紋蔵は諦念を抱いて生きる。

 しかし、彼は自分の置かれた状況の中で、あくまでも自分のスタイルを貫いていく。こういう主人公の姿がこのシリーズを豊かなものにしている。それはおそらく作者の人生観とも重なっているのだろう。そうして見ると、これはやはりなかなかの作品だと思う。

 クリスマスの夜は、いつも独りで静かに過ごしたい。更けゆく夜の中で、「さやかに星はきらめき」の讃美歌を聴き、しみじみと自分の小ささを感じたい。今夜もそうして過ごすだろう。「It’s Christmas Eve」なのだ。

2009年12月22日火曜日

佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(1)

 よく晴れてはいるが、底冷えのする日になった。

 先日テレビで見た『のだめカンタービレ』があまりに面白かったので、以前フジテレビで放映された全部のドラマを見たいと思ってネットで検索したら見つかり、全11話を抱腹絶倒しつつ感動しつつ、夜半まで見ていた。若い音楽家たちの歩みを記した物語の展開も、描かれている人物も、出演者の演技も、演出もいい。上野樹里の「のだめ」も素敵だ。一話一話で使われている音楽も素晴らしい。完結編の前編が映画になり公開されたので話題になっているが、ドラマとして本当にいい作品だと思う。

 そういうわけで、昨夜はほんの少しだけ、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2005年 講談社)を読んだだけだった。

 この作品は、このシリーズの七作目で、主人公の「居眠り紋蔵」は、奉行所の例繰方(判例調査官・記録係)から定廻り同心(現場の刑事といったところか)になっており、江戸市中で起こる蘭の花の売買にからむ民事事件(第一話)や隣家との日照をめぐる争いに絡んだ盗み(第二話)、死罪になることが分かっているのでなかなか盗みを自白しない事件(第三話)などに関わっていく。

 そういう中で、主人公の「居眠り紋蔵」は、「根気と人情で吐かせる(自白させる)定廻り同心」(115ページ)として徹しようとする。彼は、根気強く事件を調べていく。そういうところは、おそらく作者の佐藤雅美の一つの姿勢でもあるだろう。佐藤雅美は、おそらくこうした事件を当時の『御定書』や『御定書例書』、あるいは『仕置例書』などの犯罪例を伝える関係資料に丹念にあたりながら物語を構成しているのだろうと思われる。

 ただ、このあたりになると取り扱われている事件と主人公には客観的な関係しかなく、ただ事件の解決にあたって主人公の、できる限り罪人を作らないようにするという「情け」が描き出されるだけで、このシリーズの第一作目の作品に比べるとやや作品としての深みにかけるような気もする。

 だが、第三話目の「それでも親か」は、なかなか自白しない盗人に手を焼いているころに、主人公の娘が重い病になり、その娘のもとにかけつけたくてもかけつけられない状態に悶々とし、そのことを知った犯人が、ついに「それでも親か」といって涙をこぼして自白する話で、そうして自白した犯人に「死罪」だけは免れさせるという話になっている。昨夜は、この第三話までしか読んでいないので、続きは今夜にでも、と思っている。

 今朝は、福岡からK氏が訪ねて来られた。K氏は、銀行を定年退職された後、法人の財務などをボランティアでされていたりしておられる。以前、九州で催していたセミナーでわたしの講義を受講され、それ以来、わたしの著作などを集めておられる方で、10年来の親交がある。コーヒーを入れて飲みながら、午前中いっぱい、いろいろな話をしてくださった。夕方は中学生のSちゃんが来ることになっている。こういう人たちと会うのは楽しい。

2009年12月21日月曜日

藤原緋沙子『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控え(二)』

 よく晴れて入るが、今日も寒い朝になった。朝から掃除や洗濯などの家事を2時間ほどかけてして、一息入れ、少し仕事をして、プリンターインクがなくなって印刷ができなくなったので、今日は、近くの家電店まで歩いて出かけようかと思ったりしている。

 昨夜、少々疲れを覚えていたが、テレビで「JIN-仁」の最終回を見て、これが終わってしまうのを残念に感じながら、主演の綾瀬はるかの演技力に感心していた。テレビといえば、18日(金)と19日(土)に連続して二ノ宮知子原作の『のだめカンタービレ』が放映されて、あまりのおもしろさと着想の良さに抱腹絶倒して見入っていた。原作は漫画で、そちらは読んだことはないが、ドラマは傑作だった。とくに「のだめ」を演じた上野樹里がすばらしくいい。使われる音楽も本当にいいし、場面と音楽がぴったり合って、演出の素晴らしさを感じた。だから、金・土・日と久しぶりで3日間もテレビで嬉しさを与えられた。

 「JIN-仁」の放映の後で、コーヒーを飲みながら、藤原緋沙子『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』(2007年 光文社文庫)を読んだ。この作者の作品は、以前、『見届け人秋月伊織事件帖』のシリーズを読んでおり、これも文庫書き下ろしのシリーズとなっているが、主人公の片桐弦一郎は、安芸津藩(現:広島県)の江戸留守居見習いであったが、藩の世継ぎ継承問題で主家がとりつぶされ、そのときに国元にいた妻もその事件の道連れで失い、江戸で古本屋の筆耕をしながら暮らしている浪人である。

 しかし、剣の腕も立つし、頭脳も明晰で、爽やかな人柄も買われて、時折、「渡り用人」(臨時雇いの秘書官)として用いられて、雇い主が抱えている問題を解決していくという筋立てになっている。

 この作品でも、ふとしたことで関わりをもった信濃(現:長野県)の飯坂藩という藩の世継ぎ問題と絡んだ政権争いによって困窮に陥っている紙漉き百姓や町人、貧苦にあえぐ下級武士たちを「渡り用人」となって助けていくという話で、勧善懲悪の娯楽時代小説としてけっこう面白く読んだ。

 この作品の構成が「第一話 鳴鳥狩(ないとがり)」、「第二話 蕗の盃」、「第三話 桜雨」の三部構成で物語が展開されているのだが、なかなか趣向が凝らしてあり、第一話が「梅」にまつわり、第二話が「桃」にまつわり、第三話が「桜」にまつわる話となって、たとえば、「第一話」の書き出しが、「片桐弦一郎は、手酌で酒を飲みながら、時折部屋に忍びこんでくる梅の香に気づいていた」(7ページ)となっており、「第二話」の書き出しが、「日毎に春を感じてはいたが、昨日終日降った雨が、一本の桃の木の花を一気に咲かせてしまうとは・・・その神秘な自然の力に弦一郎は驚いていた」(101ページ)となっている。そして、「第三話」の表題「桜雨」は、桜の花びらが雨のように降り注いでいる様を指す。

 第一話の表題として使われている「鳴鳥狩(ナイト狩り)」とは、前日の夕方、鳥が鳴いている場所を覚えていて、翌朝早くその鳥を、鷹を放って狩りをすることで、前々から目をつけられていて悪事の道具として使われた人々を示すものらしい(90ページ)。主人公は、その「鳴鳥狩」として政争の道具に使われた人物への仕打ちに憤りを感じて、この事件に関わっていくのである。

 彼が関わった飯坂藩は「紙漉きによる元結」の産地として成り立っており、作者の藤原緋沙子は、その「紙漉き」の過程も詳しく調べて書いているし、藩の悪家老と悪徳商人によってその制作者が困窮に陥っている状態や、人々が爆発して一揆になっていく過程も盛り込んで、なかなか味のある作品に仕上げている。

 ただ、主人公の片桐弦一郎が、あまりにも格好良すぎるきらいがある。この作品の第一作目を読んでいないので確かなことは言えないが、すこぶる格好いい。浪人でありながら、臆することも卑屈になることもなく、また、屈託もなく、颯爽と事件を解決していく。そして、藩政にからむような大きな事件を解決したからといって。それに執着することなく元の生活に戻る。彼は、極めて優しく、困窮にあえぐものを助けていく。まさに、拍手喝采の主人公なのである。

 だから、読み物としてはとても面白い。が、少し物足りなさを感じるような気もする。出来たら、この作品の一作目を読んでみたい。

2009年12月19日土曜日

佐藤雅美『八州廻り桑山十兵衛』(2)

 よく晴れているが、すこぶる寒い朝である。日本海側では大雪とのこと。このところ続けて伊豆で地震があり、ここでも揺れを感じていた。一昨夜の地震は、伊東で震度5というから、かなり揺れたかもしれない。今年の2月に修善寺の温泉に行き、帰りに「浄蓮の滝」を経て伊東を廻って、魚の干物を買って来たことを思い起こす。そのとき、伊豆半島は「逃げ道」がないので、半島全体を地震や津波が襲うと大変なことになるのではないかと思ったりした。

 数年後にはどこかに終焉の居を構えようと思って、あのあたりも、温泉はあるし、暖かくていいだろうと思い、下調べを兼ねて出かけたわけだが、どこに住んでもいいというのは、住むところがどこにもないということで、このままずるずると仕事を続けることだけは避けようと、いつも頭の片隅にその問題を抱えているので、ときおり、ふらっと下調べを兼ねて出かけたりする。

 この夏、九州の実家の近くにいい家の出ものがあるというので見に出かけたが、一足遅く、買い手がついてしまっていた。書斎として使えるような離れもある家だったので、残念だった。

 今日は土曜日でかなり忙しい土曜日になるのだが、昨日、佐藤雅美『八州廻り 桑山十兵衛』が途中で終わっていたので、これを記すことにした。

 昨日の続きであるが、主人公の桑山十兵衛は、自分流の自然体で生きているので、判断の間違いや失敗もある。第五話「密通女の高笑い」では、ある富農の女房が密通している現場を夫に見つかり、夫が相手の男を殺すという事件に関わるのだが、その女房は、相手の男に無理やり犯されたのだと主張する。当時、密通は死罪に値したが、そうであれば、女房は無罪となり、夫は殺人罪となる。

 桑山十兵衛は、どちらの言い分が正しいか判断できない。そうしているうちに、夫が獄死してしまい、その事件は不問のままに終わる。しかし、実際は、その女房が夫の財産を狙って、密通を仕掛け、わざと夫にばれるようにして、夫の気持ちを操り、罪を犯させようとしたのである。だが、夫が死んだあとでは妻の言い分が通り、桑山十兵衛は苦い思いを抱いたままである。女の策略は見抜けない。

 また、最後の「霜柱の立つ朝」では、自分の妻が不義を働き、娘の父親であるのが、娘を引き取って育てたいと願い出た旗本ではないかと疑い、その相手と剣を抜いて立ち会うが、実は自分の妻が不義を働いた相手は自分に忠実だと思っていた下僕であったことがわかるというものである。

 第四話「密命」の終わりでは、「小者の粂蔵、雇足軽の五兵衛、老僕の佐平――。男ばかりだが、彼らが親身になって支えてくれているのが、男鰥(やもめ)の桑山十兵衛にとって、救いといえばいえた」(文庫版 195ページ)と述べられていたのだが、彼の妻と不義を働いたのは、彼を支えていた老僕の佐平であったのでる。それを知った桑山十兵衛は、どうにもならない「いきどおり」を抱えて生きていかなければならなくなる。

 彼は、勘違いして立ち会った相手の旗本に、
 「江戸は広い。おぬしのような腕の男は掃いて捨てるほどいる」
 「おぬしは多分、瑞江殿(妻)に毛嫌いされていたのであろう。だから間男されたのだ」
 「おぬしなんかが相手にしてもらえるのは、せいぜいが白粉を塗りたくった田舎の安女郎。江戸の女の誰が相手するものか」(文庫版 399-400ページ)
 と罵倒されてしまう。

 彼は、このことによって娘までも失うことになる。こうした一切を主人公は背負って生きていく。それは、ある意味で、いくつかの「負」を背負ったまま日常を生きていかなければならない人間の姿でもある。それは、爽やかでもないし、颯爽としているのでもない。

 人は、どんなにまみれたものであっても、自分なりに自分の道を歩いていくしかない。佐藤雅美は、この作品でそういう人間の姿を赤裸々に描き出そうとしているのではないかと思う。シリーズとして続編が出されているので、そういう人間がどういうふうに描かれているのか、続きのシリーズをちょっと読んでみたいと思う。

2009年12月18日金曜日

佐藤雅美『八州廻り桑山十兵衛』(1)

 昨夕、なんだか疲れを覚えて何もする気がなく、久しぶりに「あざみ野」の「神戸珈琲物語」というお店にコーヒー豆を買いに出かけた。たいていは「モカブレンド」を買うのだが、少し飽きた気もしたので、昨日は「キリマンジャロブレンド」を買って来た。

 昨年末から続いている不況が深刻化しているのだろう。クリスマスや年末の街の華やかさはほとんど見られない。寒さの中で、「宝くじ」売りの声がし、人々が身を縮めて行き交うだけである。

 昨夜から佐藤雅美『八州廻り桑山十兵衛』(1996年 文藝春秋社 1999年 文春文庫)を読んでいる。これは、通称「八州廻り」と呼ばれた江戸時代の関東取締役出役という勘定奉行のもとに置かれた下っ端役人で、おもに上州(現:群馬県)、野州(現:茨城県)、常州(現:茨城県北東部)、武州(現:埼玉、東京北部、神奈川北部)、と下総(現:千葉県、埼玉東部、東京東部、茨城西部)といった、いわば江戸周辺地域を見廻って刑事事件などに携わった犯罪取締役人をしている「桑山十兵衛」を主人公にした物語で、この後、いくつかの作品が出されて、シリーズ化されている。

 主人公の桑山十兵衛は、自分が八州廻りをして留守にしていた間に、妻の不義によって生まれた幼い娘をもつ「男やもめ」であり、その妻は子どもの出産と同時に亡くなっているので真相が分からず、そこのことが彼の心に重くあるが、娘を人に預けながら、八州廻りとして数々の事件に関わり、鋭い勘を働かせていくつかの事件に関与していく。

 彼は、上役の言うことなどは聞き流し、いつも自分流の自然体であり、無理をしないし、貧しい者たちが犯した罪などは見逃すようにしている。居合と素振り千本の武芸修業を日課として課している剣の腕前も相当なものだが、自分を誇ったりもしないし、あまり饒舌でもない。どこまでも、自分流の自然体でいくのである。だから、もちろん失敗も多いが、その失敗も黙って背負っていく。

 こういう主人公を中心にして、誘拐されたと届けられた娘が、実は、義父の性的暴行から逃れたものであることをつきとめる「拐かされた女」や、同僚さえ怖れるヤクザと対決する「木崎の喜三郎」や、貧困にあえぐ村人同士の殺人を種にして強請を働いていた彼の下役である「道案内」(手下としてその地方々々で働く者)の裏切りを暴いて、強請られていた村人を助けたりする「怯える目」などの物語が展開されている。

 昨日はその三話まで読んだところで眠りに落ちてしまったが、何も頓着せずに事柄に当たっていく主人公の姿が、佐藤雅美の『物書同心 居眠り紋蔵』とは、また違った姿で、「居眠り紋蔵」よりも妻の不貞という重いものを抱えているだけに、少し重厚に描かれているのがいい。続きは、また今夜にでも読むことにする。

 それにしても、空気が冷たい。朝は覆っていた雲が今は晴れてはいるが、足もとから寒さが忍び上がって来る。書斎が煙草の煙で満ちないように窓を開けているので、よけいに足もとの寒さが感じられる。今夜は早く仕事を切り上げて、鍋の材料でも買ってきて、コタツで鍋でもつつくとしよう。

2009年12月17日木曜日

佐藤雅美『物書同心居眠り紋蔵 お尋ね者』

 昨夜、佐藤雅美『物書同心居眠り紋蔵 お尋ね者』(1999年 講談社)を読む。この作品は、前に読んだこのシリーズの3作目『密約』に続く第4作目の作品で、主人公の藤木紋蔵は、南町奉行所の例繰方の与力に仕える物書(記録係)という閑職につき、時と所構わずふいに眠りこんでしまう奇病の持ち主で「居眠り」と渾名され、他の同心などに馬鹿にされたりするが、頭脳明晰で、物事の真相を見抜いていく力をもっている人物である。

 「まあ聞け、雛太夫」、「越後屋呉服物廻し通帳」、「お乳の女」、「乗り逃げ」、「お尋ね者」、「三行半」、「明石橋組合辻番」、「左遷の噂」の八話構成になっている『お尋ね者』では、この藤木紋蔵が、それぞれの事件を起こした人々ができる限り大罪に定められないように苦慮していく姿が描き出されていく。

 特に最後の「左遷の噂」では、魚河岸をめぐる「抜け荷買い(不法買いつけ)」とそれに続く殺人事件に関与していたと思われる男を返してやり、その男の行き先が分からなくなるという失態を演じて、左遷されるという噂が流れ、紋蔵は同僚の冷ややかな視線の中で事件を解決していく羽目になる。こういうあまり人から評価されないような状況の中でも、紋蔵は、裏方に徹しようとし、また、できる限り罪人を出さないような思いやりと穏やかさをもって事柄に当たっていく。

 その紋蔵が、時折、自分の力を垣間見せる場面がある。それは、たとえば「明石組合辻番所」の中で、彼が引き取って育てている文吉という子どもが手跡所(塾)で苛められている他の子どもを助けて苛めている子どもと大喧嘩をして、相手の駕籠屋をしている乱暴な親が匕首(短刀)を突きつけてきた時、紋蔵はこれと向き合って、脇差に手をやり、腰を落として、「倅は腕が折れただけですんだかもしれぬが、俺は容赦をしない。匕首を抜けば、間違いなくお前の腕は落ちる」と言って対峙するのである。

 「鬼六(相手の親)は顔を真っ赤にして、犬のようにはあはあ息を弾ませていたが、やがて肩から力を抜き、へなへなとその場にへたり込んだ」(263ページ)と描写されている。「居眠り」と言われ馬鹿にされている紋蔵の「すごみ」が、真によく表わされている場面である。

 紋蔵は、あまり人の評価というものを気にしない。無能と思われていても、自分をよく見せようと思ったりもしない。しかし、彼の中には一本筋の通った姿勢があり、それを無理なく貫いていく。

 佐藤雅美は、こういう、少なくともわたしにとっては魅力的に思える主人公を、じつに巧みに描き出しているのである。わたしは、どうも大成した人間や武将や英雄ではなく、何の評価もされずに、地味に市井をこつこつと生きながら、しかも、愛情や思いやりをもって、それを貫いている凡人が好きらしい。このシリーズの他の作品も、ぜひ読んでみたいと思っている。

2009年12月16日水曜日

藤沢周平『三屋清左衛門残日録』

 頬を刺す空気が痛く感じられるほど、ただ寒い。寒いとどうしても肩に力が入り、やがて何もしたくなくなる。そろそろ冬眠の季節なのだろう。毎年、この季節は異常なほど日程が混むが、いつも、冬眠したいと思ったりする。

 昨夜、気づいたら八時を過ぎていて、それから夕食を作って食べ、藤沢周平『三屋清左衛門残日録』(1989年 文藝春秋社 1992年 文春文庫)を読んだ。

 これは、文藝春秋社から出ている『藤沢周平全集』の第21巻にも収められており、その藤沢周平の全集はすでに一度読み終えているので再読したわけだが、以前には何でもなかったところにひどく感激したりして、改めて藤沢周平の作品の完成度の高さや人間観、描写の細やかさ、文章の素晴らしさや、彼の人間に対する優しい思いなど、しみじみと感じて、深夜に読み終えた時には、じんわりと涙が滲んできたほどだった。

 物語は、ある藩(藤沢周平が山形県庄内藩をモデルに創作した海坂藩)の用心(秘書官)という要職を退き、家督を息子に譲って隠居した三屋清左衛門が無聊を囲う隠居の日々の中で、藩が決して表沙汰にはすることができない藩の派閥争いと関わり、人情味あふれる仕方で解決していくという大きな構成を基に、老いの日々を綴っていくというもので、随所に、「老い」や「隠居して無用の人になること」や、周囲の人間の細やかで温かい配慮が出て来て、藤沢周平らしい、何とも言えない味わいのある作品になっている。

 その三屋清左衛門の心情の過程の描写だけをたどってみても、この作品の良さがよくわかる。

 要職を退き、隠居して、家督相続の披露の祝いが終わった後、すべてが順調に終わってほっとした時の心情として、藤沢周平は、「これで三屋家は心配がない、と相続にからむ一切の雑事から解放されたとき清左衛門は思ったのだが、その安堵の後に強い寂寞感がやって来たのは、清左衛門にとって思いがけないことだった」(文庫版 10ページ)と記す。

 そして、「夜ふけて離れに一人でいると、清左衛門は突然に腸をつかまれるようなさびしさに襲われることが、二度、三度とあった。そういうときは自分が、暗い野中にただ一本で立っている木であるかのように思い做されたのである」(文庫版 12ページ)と続け、「ところが、隠居した清左衛門を襲って来たのは、そういう開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情だったのである」(文庫版 13ページ)と語る。

 「隠居することを、清左衛門は世の中から一歩しりぞくだけだと軽く考えていた節がある。ところが実際には、隠居はそれまでの清左衛門の生き方、ひらたく言えば暮らしと習慣のすべてを変えることだったのである」(文庫版 14ページ)と無聊を囲い、その空白感を埋めるために、中途半端に終わっていた学問(経書を読む)や道場通い、釣りなどを始めようとする。

 そうした中で、若い頃からの友人で町奉行をしている「佐伯熊太」が訪ねて来て、表沙汰にはできない事件の解決を依頼して来て、そのことをきっかけにして藩の派閥争いの込入った問題と関わっていくのだが、清左衛門は、現役の町奉行として働くその友人に「隠居は急がぬ方がよい」と言い、「やることがないと、不思議なほどに気持ちが萎縮して来る」と言ったりするし、事件が解決した後でも、「隠居と働きざかりの町奉行とは、感想にも差が出る」(文庫版 42ページ)と思ったりする。

 また、30年ぶりで道場通いを始めた頃、「三屋清左衛門の身体は油の切れかかった車同様にさびついていたのである。少し無理に動かすと、身体はたちまち軋み声を立てた」(文庫版 44ページ)とあり、自分と同年輩の者が、残り少なくなった日々のためか、昔のことを自分の思いこみで悔み、自害したりする事件の真相を知ったり、昔の同僚で、藩の勢力争いに敗れて落ちぶれてしまっている人間から、嫉妬のために命を狙われたり、あるいは、昔、ふとしたことで袖摺りあった美女の娘と出会い、その娘が陥っていた問題を解決したり、悋気を起こしてやつれた自分の娘の夫が、藩の派閥争いのために働いていることを知ったりしていく中で、次第に気力を取り戻していくのである。

 その姿を藤沢周平は、「道場に通いはじめたころは、長い間使わなかった身体があちこちと痛み、木刀で型を遣うだけで息が切れ眼がくらんだものだが、近ごろはそういうことはなくなった。そして身体が馴れるにしたがって、不思議にも清左衛門は、有望だと言われた若いころの竹刀遣いの勘までもどって来るのを感じたのである」(文庫版 131-132ページ)と記す。

 そして、「たかが隠居と侮らぬ方がよい」(文庫版 188ページ)と派閥争いを企む者に言い、子どもたちの剣の稽古の面倒を見ては、「-わしも・・・・。まだ捨てたものではない」(文庫版 191ページ)と思ったりする。

 こうして清左衛門は、友人に依頼されたり、藩の奥女中の難儀を救ったり、また通い始めた小料理屋の女将が抱えていた男問題から女将を助けだしたりしながら、次第に家督相続争いにまで発展しそうになった藩の派閥の争いに関わっていくことになるのである。彼は忙しくなる。

 しかし、夏風邪をひいて寝込んだ時、「うたた寝からさめたときなど、清左衛門はそういう自分をたとえば一枚の紙のように、軽くて頼りないものに感じたりした。そして床について三日ほどすると、急に足が弱くなって、起き上がると身体がふらつくのにもおどろいた。ふだん釣りに出かけたり道場に通ったりして足腰を鍛えているつもりでも、齢はあざむけぬと清左衛門は思った。たがが風邪でこんなにへこたれるとは、若いころは思いもしなかった」(文庫版 270ページ)と思ったりする。そして、息子嫁に手厚く看護されながらも、「その手厚い庇護が、連れ合いを失った孤独な老人の姿をくっきりと浮かび上がらせるのも事実だった。その老境のさびしさは、足もとを気遣いながら紙漉町の道場にたどりつくまで、清左衛門につきまとった。病は気をも弱らせるものかも知れなかった」(文庫版 272ページ)と心境が語られ、昔の友人が若い妾をもったことを聞いても、「病気で倒れたとき、あの若い妾が親身に看護してくれるかどうかは疑問だと、清左衛門は思った。しかし偬兵衛(友人)も自分も、そういうことで足掻く齢になったのはたしかだと思いながら、清左衛門は頭の痛みをこらえて歩きつづけた」(文庫版 295ページ)と表わされていく。昔のことを悔やんで悪夢を見たりもする。

 そして、子どもの頃からの友人が中風で倒れて歩けなくなったのを見舞ったとき、「清左衛門にはひとごととは思えなかった。むろん自分にも中風になりそうな徴候があるというのではない。しかし平八も、そんな徴は何もなかったという。病はにわかに平八を襲ったのである。そういう齢にさしかかったのだと思わないわけにはいかなかった。平八の病はいつわが身にふりかかって来るかも知れない災厄だった。その思いが、家に近づいたいまも気持の底に沈んでいた」(文庫版 350ページ)りする。

 そういう中で、藩の派閥争いは次第に激しくなっていくが、清左衛門は、通っている小料理屋の女将の彼を慕う思いを知っていったり、通っている道場主の遺恨試合に立ち会ったりしながら、派閥争いを解決に導き、謀略を謀った者の手先に使われた若者たちではあるが、彼らを助けようとしたりしていく。
そして、最後に、中風で倒れた友人を見舞ったとき、その友人が懸命に歩く練習をしている姿を見て、「人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おもれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くしていきぬかねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた」(文庫版 436ページ)のである。

 この作品は、物語の展開の醍醐味の中で、こうした主人公の老いを迎えた心境が丹念に語られていき、老いを生きることが真正面に据えられて、深い感動と味わいを与えてくれているのである。藤沢周平の語り口の柔らかさとうまさも随所に見られる。

 これは、「別冊文藝春秋」第172-186号に掲載された作品であるので、藤沢周平が61-62歳の頃の作品であろうが、その心境が見事に織り込まれた絶品とも言える作品だろうと思う。藤沢周平のような優れた作家の作品を読むと、この「独り読む書の記」に記すことも、どうしても多くなる。文章表現のうまさは、また別の機会でも触れよう。

2009年12月15日火曜日

諸田玲子『髭麻呂』

 シベリアから寒気団が南下して寒い日になった。雲の切れ間から時折陽がのぞくが、冬の雲に覆われている。3日間ほど特別な予定が重なり、食生活も乱れているのだろう、体が重い感じで目覚めた。昨夜は池袋まで出て帰宅が遅くなったのだが、それでも、諸田玲子『髭麻呂 王朝捕物控え』(2002年 集英社 2005年 集英社文庫)を一気に読んだ。

 この作品は、平安中期に時代設定がされており、作品の中で、986年に「花山天皇」が突然出家した出来事が触れられているので、藤原家を中心にした摂関政治と武士層の出現、また、貧富の拡大や平安貴族たちの政権争い、群盗の跋扈が起こり、飢餓と天変地異によって治安が混乱していたなどの社会背景をもった時代であった。

 主人公は平安京の検非違使庁(けんぴいしちょう・・・現在の警察)の下級役人看督長(かどのおさ・・・現在の刑事)をしている藤原資麻呂(ふじわらの すけまろ・・・作者の創作人物)で、強面の髭を生やして何とか威厳を保とうとして、通称「髭麻呂」と呼ばれているが、実は気が小さく臆病者で、血を見たら卒倒してしまうようなユーモラスな人物であり、都で捨てられて野犬の餌食になりそうだった子どもを助けて養ったり、羅生門で何とか生き延びている孤児たちの世話をしたりする心優しい人間である。

 彼には「梓女(あずさめ)」という大変頭脳明晰な恋人があり、「髭麻呂」が抱えている事件の謎を、ロッキングチェアー・ディテクテイヴ(揺り椅子探偵)のように解いていくが、彼女の家には、いわゆる一流のデザイナーとして活躍している母と、目も耳も遠いが嗅覚が鋭くて、これも一流の調香師である祖母がいて、それらの自立した婦人たちに翻弄されながらも、彼女たちのざっくばらんで温かい家に迎えられながら「髭麻呂」が、まことに「よたよた」という表現がふさわしいような形で活躍していくのである。

 当時は「通い婚」で、一夫多妻の社会であったが、「髭麻呂」の「梓女」に対する思いは一途で、彼女の母親や祖母に気の弱い「髭麻呂」は恐れを抱きながらもその恋を成就させていくストーリーが一本あり、それに当時の藤原兼家や藤原道長兼、源満仲らのどろどろした政権争い、失脚させられた源高明などの事件が絡み合い、殺人事件や誘拐事件など八話の物語が展開していく。

 作品の構成と展開が見事で、一方では、「髭麻呂」の仇敵として盗賊「蹴速丸(けはやまる)」という人物を登場させて、やがては二人が意気投合して、実は「蹴速丸」が源高明の失脚事件の真相を探る目的をもっていることを知り、共に、その黒幕を暴いていくという形で、「花山天皇」の出家事件や源高明の失脚事件という歴史的事件が縦糸にあり、それが、主人公の「髭麻呂」や「梓女」、「梓女」の母や祖母、彼に育てられている従者の「雀丸」という少年など、それぞれの個性が発揮されて、二人の恋が横糸となり、「面白く」展開されている。

 したがって、通常の「捕物帳」や「ユーモア探偵小説」とは異なって、社会や歴史に対する視座がはっきりしていて、味のあるものになっている。完成度の高い作品といえるだろう。

2009年12月14日月曜日

平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7) 寒椿の寺』(2)

 土曜日(12日)の夕、「アフロ橘ゴスペルシンガーズ」という人たちのゴスペルコンサートがあって、その素晴らしい歌声に深く感動した。

 以前、米国のシカゴにいた時、シカゴ郊外の、いわゆる黒人スラム街にある教会に行って、そこの人たちと大変仲よくなり、毎週、ゴスペルを聴いていたが、ゴスペルは、やはり「魂の歌」という気がする。黒人のホームレスの人たちとは、ミシガン湖で魚釣りをよく一緒にした。

 ある時、「God set me free」という歌を、涙をこぼしながら歌われたことがある。祖父や祖祖父の方々が、米国南部で黒人奴隷として生きなければならなったことを、後でわたしに話してくださった。自由と希望を祈り求めざるを得ない人間の魂の叫び。単調なメロディーにその叫びが込められていることを、今、思い起こす。

 「アフロ橘ゴスペルシンガーズ」は青年たち八人のグループで、本当に礼儀正しい人たちで、その声量も見事で、ゴスペルの良さを見事に引き出して、10曲以上の歌を歌ってくださった。

 さて、平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7) 寒椿の寺』の第四話「桜草売りの女」であるが、この話は、いわば「取り換えっ子」にまつわる事件を扱ったもので、旗本の家に行儀見習いにいっていた姉が旗本の子を宿し、商家に嫁いでいた妹と同じ時期に子を生み、姉の方は女の子で妹の方は男の子だったが、旗本の家の跡継ぎを生んだことにしたいために子どもを取り替えて育てた。

 その子どもたちが成人し、商家の子どもとして成長した娘は、その商家が火事で焼け出されて「桜草売り」などをして苦労している。そのことを知った旗本が、自分の家の家宝を売って、その娘のために金を工面してやるのだが、そのために旗本家が改易されるかもしれないと、旗本の嫁が騒いだところから事件になったものである。

 第五話「青山百人町の傘」は、自分の家系と財産を振りかざして威高で嫉妬深い妻をもつ上役から、その上役の浮気のために妾を押しつけられた貧乏御家人(甲賀組に属し、傘張りをして生計を維持している)とその許嫁の話で、許嫁の「露路」は、その男のために身を引いて家を出たのである。

 隼新八郎と南町奉行所の同心は、そのことの真相を暴き、行くえ不明だった「露路」を探しだす。貧乏御家人(「秋山長三郎」)と許嫁の「露路」は、上役の非道に耐えながらも、互いに別れ別れになっていたが、互いに思いは同じで、ようやく新八郎たちによって一緒になることができた。

 裏長屋で傘の内職をしながらひっそりと暮らしていた「露路」のところを貧乏御家人が訪ねていくのだが、その最後の表現が洒落ている。

 「どういう話が二人で取りかわされていたのか外で待っていた新八郎にはわからない。
 小半時ばかりで出て来た長三郎の背後には目を泣き腫らした露路がいて、二人そろって新八郎に深  く頭を下げ、それからそっと目を見合わせるのを確かめて、新八郎は長屋の路地を出て行った。
 江戸は間もなく師走であった」(文庫版 215ページ)

 この「江戸は間もなく師走であった」という一文は、言ってみれば、毛筆で字を書くときに、最後に万感の思いを込めて「シュッとはねる」ような、そういう一文である。見事、としか言いようがない。

 第六話「奥祐筆の用心」は、上野の寛永寺の大仏殿の脇にある大灯籠の下で奥祐筆(幕府老中の書記官)の用心(秘書)の死体が発見され、隼新八郎がその謎を解いていくという話である。

 奥祐筆は役職がら賄賂が横行する職務であるが、奥祐筆の用心は、結局、親子ほども歳の離れた娘と深い中になり、そこで食べた毒キノコにあたって死んだことがわかるのである。これは、もしかしたら根岸鎮衛の『耳嚢』からの題材かもしれない。

 第七話「墨河亭の客」は、向島で高級料亭として売り出していた「墨河亭」を常用していた旗本のお内儀が、その「墨河亭」のお菓子を口にして毒殺されるという事件を取り扱ったもので、お内儀は、豪商三井家の分家の娘で財力を遣い、コネを使って自分の息子の就職運動に奔走し、ついには養女にしている夫の先妻の姪まで、いわば「人身御供」として就職の世話をする者に差し出す画策をしていた。そして、そのことに耐えがたさを覚えていた夫が彼女を毒殺したということが判明するのである。

 この話の結末は不幸で、お内儀を毒殺した旗本は、可愛がっていた姪を殺して自分も切腹し、豪勢を誇った墨河亭もそのあおりで店が傾いていったというもので、これも『耳嚢』の説話からの題材ではないかと思われる。第七話ににじみ出ているものは、「何らかの欲をもって生きることの大変さとつまらなさ」である。隼新八郎と彼の周辺にいる人々の無欲さと対比されて、欲をもつ人間の不幸が良く描き出されている。

 これらの作品の中では、第五話「青山百人町の傘」が一番胸を打つ。「人を思う真直な思い」ほど貴いものはないだろう。

2009年12月11日金曜日

平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7) 寒椿の寺』(1)

 小糠雨が音もなく降っている。聞こえてくるのは、道路を行き交う車の騒音とドップラー効果の救急車のサイレンだけである。エンジン音だけでなく、タイヤが水しぶきを上げる音が痛めている頸椎に響く。「静寂」と言うことは、ここでは望むべきではないことであるが、昨夜、たぶんよく眠ったのだろう精神が妙に落ち着いている。眠り続ければ、いつまでも寝ることができるような気がするが、そうもいかない。

 昨夕から平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7)寒椿の寺』(1996年 講談社 1999年 講談社文庫)を読んでいる。平岩弓枝の『御宿かわせみ』にひどくはまった頃に、このシリーズも、ほとんど以前に読んでいるので、もしかしたら前に一読したかもしれないと思いながらも、図書館の本棚で目についたので借りてきた。このシリーズで一番おもしろかったのは、『はやぶさ新八御用旅 東海道五十三次』ではないかと思う。

 このシリーズは、江戸中期に下級幕吏(下級役人)から南町奉行になった根岸肥前守鎮衛(1737-1815年)の内与力(今で言えば秘書官)である「隼新八郎」(作者の創作した人物)が、あまり表沙汰にはできない事件を解決していくという物語で、「隼新八郎」が内与力であるという設定によって、通常は町方が介入できない武家の事件にも正面切って関わることができるという、たいへん「うまい」設定になっている。時代小説の、いわゆる「捕り物帳」ものでも設定が異色のものだろう。

 もともと、根岸肥前守鎮衛は、自身で、約30年間に渡って在任中に聞いた公家から町人にまで及ぶ世間話を書きとめた『耳嚢』という全10巻、1000話以上にものぼる随筆を著しており、くだけたところのある名奉行で、平岩弓枝は、そこからこの物語の題材をとっているのだろうと思われる。

 平岩弓枝がこのシリーズで表わす根岸肥前守の姿も、頭脳明晰で懐の深い人物として描かれているし、主人公の「隼新八郎」をはじめとして、常に、弱者の側に立つ視座が明瞭に打ち出されている。

 主人公の「隼新八郎」は、神道無念流の達人で、頭脳は明晰、きっぷがよくて、非常に心優しい青年であるが、色恋には奥手で、それでも美貌の、あまり物事には拘泥しないのんびりした気質の妻がありつつも、かつての自分の母親の世話をしていた女中で、今は上役である根岸肥前守の奥女中をして細やかな配慮を見せる「お鯉」や、町方(岡っ引き)の娘で、粋でいなせなちゃきちゃきの江戸っ子気質の「小かん姐さん」に慕われたりして、物語に花を添えている。特に、彼と「お鯉」との関係は微妙で、ある種の緊張があるが、いわゆる「どろどろしたもの」はない。それが非常にいい。

 講談社文庫『はやぶさ新八御用帳(7)寒椿の寺』に収められているのは、1994年から1996年までの『小説現代』で発表された、「吉原大門の殺人」、「出刃打ち花蝶」、「寒椿の寺」、「桜草売りの女」、「青山百人町の傘」、「奥祐筆の用人」、「墨河亭の客」の7編で、それぞれ別々の事件である。

 この内、昨日は最初の3編を読んだ。第一話「吉原大門の殺人」は、越前大野藩の重役の息子が吉原でもめ事を起こし、ついには、そこで惚れていた素朴な性質をもつ妓を斬り殺して自らも割腹する無理心中事件を起こすという話である。

 これに関わった新八郎と、かつては「鬼勘」と呼ばれた名岡っ引きで引退している「勘兵衛」(「小かん」の父)が交わす会話が洒落ている。

 「岡源次郎(重役の息子)にしても、吉原なぞ行かなければ、よけいな恥をかかずに済んだのだ」
 「それは仕方がございますまい。万事、なりゆきでございますから・・・」
 「そりゃあそうだ」(文庫版 34ページ)

 「万事、なりゆき」、ほんとうにそうだろう。そして、その「なりゆき」でどうにもならない中に陥っていくのが人間かもしれない。わたしも「なりゆきでこうなったのだ」と思うことがしばしばある。平岩弓枝の、こういう人生の妙をさらりと流すところがいい。

 第二話「出刃打ち花蝶」は、上州(現在の群馬県)で大百姓が出刃包丁で殺害される事件の探索に隼新八郎が出かける話で、その事件は、殺された大百姓が金と権力で小作人の娘たちを凌辱していたことへの恨みを晴らすための事件であったことが分かるというものである。殺された大百姓は、その近郊では、いろいろなことを支援する有徳の人物だと言われていたが、実は、年端もいかない小作人の少女たちを凌辱していたことが明るみに出る。新八郎は、ここでも殺した側に思いやりを見せる。

 大体において、「有徳者」とか「人格者」とか言われるような人間の腹の底はわからないものである。人間は、基本的には「胃袋と性器」で出来ており、「精神(心)」がなければ、それまでなのだから。

 第三話「寒椿の寺」は、ある旗本が蔵前の札差(今で言えば銀行)の寮(別宅・・今で言えば別荘)で殺される事件を取り扱ったもので、彼は、その札差の出戻りの娘の許嫁であり、娘と寮に泊まった夜に殺されたのである。ふとしたことでこの事件と関わった隼新八郎は、この殺人の犯人が、娘の前夫で、表面は美丈夫で、堂々とし、自信に満ち、神道無念流の免許皆伝をもち、武道だけでなく漢学をよくし、茶道のたしなみもある名門の家中の若侍であることを突きとめる。この男は、他に好きな女ができて娘を離縁したのだが、その離縁した妻が他の男と結婚して幸せになることが我慢できないという狭い嫉妬心で相手の男を殺したのである。

 度量の小さな人間というのは山ほど存在する。わたしの周りにもそうした人は山ほどいる。自分の度量の小ささを知っている人間はともかく、自分の小ささを何かで誤魔化そうとする人間もいる。人はまた、その誤魔化された表面で誤魔化される。小さな人間は大きな人間がわからない。だから、人の評価ほどつまらないものはない。人は、その現れているものではなく精神に何を宿しているかによって、その人の大きさが決まっていく。度量の大きな人間ははじめからそういうことさえ考えないが、大きな人間だけが大きな人間を知っていくことができる。

 この小説で言えば、主人公の隼新八郎と上役の根岸肥前守、あるいは彼が友人と思っている同心の大久保源太、岡っ引きの「鬼勘」や彼を慕う「お鯉」や「小かん」などの、そうした関係が実に「さわやか」なのは、それぞれが度量の大きさをもっているからだろう。こうした「さわやかな関係」は『御宿かわせみ』でも貫かれている。それぞれが、自分の思いに素直で正直なのだ。そして、それで「よし」とする大きさがあるのである。

 平岩弓枝のこれらの作品が「おもしろい」のは、そうした素直さが一貫しているからだろうと思う。ともあれ、続きは、今夜にでも読み終えることにする。外は、雨は上がっているが灰色の寒空が広がっている。

2009年12月10日木曜日

諸田玲子『其の一日』(2)

 普段の倍くらいのことをしなければならないあわただしい日々になってはいるが、昨夕、そろそろ九州の母から頼まれていた年賀状のデザインを考えなければと思って、あれこれ試作したりしていた。来年の干支は「寅」。年賀状を作るのに彫刻刀で板に彫らなくなってもうずいぶんになる。この時期、あまりゆっくりすることがなくなったからだろう。油絵も、2年ほど前に描きかけた「ピエタ」がそのままにしてある。なんともまあ、という思いではある。

 諸田玲子『其の一日』の第三話「小の虫」は、駿河小島藩の家臣で、安永・天明記の代表的戯作者でもあった倉橋寿平(恋川春町 1744-1789年)の姿を、その息子倉橋寿一郎が知っていくという形で表わしたものである。

 倉橋寿平(恋川春町)は、小島藩の家臣として謹厳実直に仕える傍ら、『金々先生栄華夢』(1774年)や『高慢斉行脚日記』(1776年)を表わして江戸時代の「黄表紙」(草双紙)の祖ともなった人で、狂歌も「酒上不埒(さけのうえのふらち)という名前で発表したりして、なかなか洒落とウイットに富んだ面白い人である。彼は、『鸚鵡返文武二道』を寛政年に発表したが、これが松平定信の寛政の改革を揶揄したものと受け取られて、松平定信から出頭を命じられ、病気を理由にそれを辞して、まもなく死んでいる。そのために、小藩である小島藩からも責められて自害したという説もある。

 諸田玲子の「小の虫」は、その寿平の跡目を継いだ十五歳の息子寿一郎が、ふとしたきっかけで、家では謹厳実直だった父が、実は、恋川春町として戯作を書いた人間であったことを知り、すでに死んだと言われていた自分の実母が、実は離縁されて暮らしており、父の恋川春町と共に、深い愛情を育てながら戯作者としての父を支えていたことを知った、「其の一日」の姿を描いたものである。そしてまた、彼は、そこで父親の死の真相を知るのである。

 作者は言う。「倉橋家の養子となり、厳格な養父母に仕え、上級家臣とは名ばかり、野菜をつくって飢えをしのぐほどの貧乏暮しをしていた父だ。遺誡(家訓)を書かされ、惚れた女と引き離され、それでも愚痴一つ言わずに主家のために尽くしてきた父が酒を口にしたときの高揚感。それこそが、父に黄表紙を書かせる源となったのだろう」(135ページ)。それが、狂名「酒上不埒」なのだと。

 それにしても、作者の諸田玲子は、この作品を書くにあたって恋川春町のことをよく調べ、それを息子の目を通して描き出すという作品に昇華させている。その想像力にはつくづく敬服する。

 第四話「釜中の魚」は、幕末の大老井伊直弼(1815-1860年)が「桜田門外の変」で水戸藩浪人によって暗殺される前夜から当日の朝までの一日、20年ものあいだ彼を慕い続け、生涯彼のために尽くそうと思って、密偵として働き、その危険を知らせようとする女性の姿を描いたものである。

 井伊直弼を描いた作品として船橋聖一『花の生涯』(1953年 新潮社)があるが、諸田玲子のこの作品は、彼を慕うひとりの女性の思いと危機を感じての不安が見事に描かれている。ただ、井伊直弼について、彼が「安政の大獄」をおこなった点で、わたしはどうしても好きになれない。

 しかし、この『其の一日』の四話の構成をぼんやり眺めていると、第一話と第三話が男の心情、第二話と第四話が女の心情となって、なかなかうまい構成になっているように思われる。この作品は、2003年に第24回吉川英治文学新人賞を受賞しているが、作者の力量を示す作品の一つといえるだろう。

 今日は「あざみ野」の山内図書館に本を返却しなければならない。平日は午後7時まで開館しているので本当に助かる。気温が低く、寒いので、重装備をして出かけよう。

2009年12月9日水曜日

諸田玲子『其の一日』(1)

 予報どおり天気が崩れて、灰色の冬空が広がっている。早朝には、少し雨もあったかもしれない。配達されていた新聞が丁寧にビニールでくるまれていたから。昨日は、先日書きあげた「大江健三郎論」の校正刷りが届いていたので、それを読み返したりしていた。急いで書いたので荒削りなものになってしまったが、もう一度書き直す時も与えられるだろう。 

 そして、昨夜は、先日購入したコタツに足を入れて、九州から送られてきた「富有柿」を剥いて食べながら、諸田玲子『其の一日』(2002年 講談社)を読んでいた。

 人には、自分の人生が決定的に変わってしまうような経験をしなければならない「一日」というのがある。もちろん、その渦中にいる時は「それ」とは分からないのだが、後から顧みてみると「あの時の、あの出来事が人生を変えた」と思われるような出来事がある。それは、歴史を変えてしなうような大きな出来事ではなかったかもしれないが、ささやかではあるが自分の人生が変わってしまったと思える出来事を、人は経験しながら生きている。出会いや別れは、その最たるものかもしれない。また、これまで自分が築き上げてきたものが一気に崩れおちて、すべてを失ってしまうようなこともある。

 そう言えば、1945年8月14日の正午から15日の正午までの、日本が敗戦を受け入れて天皇の玉音放送が行われるまでを描いた半藤一利編『日本のいちばん長い日』(文藝春秋社)というのがあり、岡本喜八の監督で映画化されたものもあった。それは、近代日本にとっての「決定的な一日」であった。

 諸田玲子の、この作品は、「立つ鳥」、「蛙(かわず)」、「小の虫」、「釜中(ふちゅう)の魚(うお)」の、それぞれ独立した4話からなり、それぞれの人間の「一番長い日」となった決定的な出来事を描き出したものである。

 「立つ鳥」は、江戸初期の元禄文化華やかなりし頃の勘定奉行であった荻原重秀(1658-1713年)が新井白石らの弾劾を受けて罷免された1711年9月11日(日付は本文では記されていない・・・こういうことは誰にでも起こりうることだろうから)の出来事を中心にして、その日を迎える彼の心情を描いたものである。

 荻原重秀は、賄賂をとり私腹を肥やした悪奉行として名高いが、佐渡金山を復興させたり、貨幣経済の発達によって陥っていたデフレ政策のために貨幣の鋳造改革をおこなったりした。しかし、彼が改鋳させた貨幣は、金銀の含有量が少なく、そのため悪貨として、インフレーションを引き起こし、江戸庶民を苦しめたと言われている。そして、新井白石の数度に渡る弾劾を受けて、ついに、罷免されるのである。新井白石が、『折たく柴の記』などで「荻原は26万両の賄賂を受けていた」などと根拠のない悪宣伝を繰り返したために、一方的な悪評が定着した人である。

 諸田玲子は、この荻原重秀が、貧しい勘定下役の次男として生まれ、勉学に励み、ひたすら立身出世を求めてきて、努力に努力を重ねて、勘定奉行という地位と贅沢な暮しを手に入れてきた人間であると記し、その彼が落ちぶれる時には、今まですり寄って来ていた妾や家臣や商人たちが、手のひらを返したようにして去っていく姿を描き、それを諦念をもって見る荻原重秀の姿を描き出す。

 彼はその最後の日に、これまでの自分の人生を思い返して、かつて自分が出世のために捨てた女性の安否を訪ねて行ったり、どんな時でも彼に忠実だった下僕の将来に配慮したりしていく。そして、そういう中で、今まではあまり顧みることがなかった彼の妻だけが、どこまでも彼と共にあろうとすることを知っていくのである。

 彼は保身に走ることを止める。「そうやってあれこれ策を弄すること、それがおかしい。事あるたびに権政者に泣きついて保身を計る、幕吏という存在そのものがおかしい。これまでそのことに何の疑問も感じなかったばかりか、どっぷり浸かっていた自分がおかしい」(39ページ)と思う。そして、すべてを失うことによって、さばさばとした気持ちで、罷免の宣告を受けるために登城するのである。

 わたしは、以前、自分が「使い捨てカイロ」のようなものだと、自戒したことがある。役に立つ時は重宝されるが、中の化学変化が終了して冷たくなり、役に立たなくなると、「燃えるゴミ」か「燃えないゴミ」か、わからないようにして捨てられる。能力に寄ってきた人は、能力を失うと去る。それは、真に見事としか言いようがないくらいで、「手のひらを返す」とは言い得て妙である。

 諸田玲子は、この作品で、そういう事態に陥った人間の姿をよく表わしている。旧約聖書のヨブのように「人は裸で生まれたから、裸で土に帰る」とは、なかなかいかないものである。喪失の経験はつらいものである。もちろん今は、拘泥するものがあまりないので、淋しく思う以外に何の執着もないが。

 それにしても、その最後の日に、どこまでも自分を支えようとしてくれている妻と下僕のひとりを見出せたことは、荻原重秀の救いであり、諸田玲子は、それを描ききっている。だから、悪名高い荻原重秀が、すべてを失ったが自分の本当の救いを見出した「幸いな人」に映る。人は、失うことによって真実を見出せたなら、それで十分なのだから。ただ、実際の荻原重秀は、罷免後、55歳で、断食して自害したと伝えられている。

 第二話「蛙」は、心優しい夫のもとに嫁いで、男子二人、女子一人をもうけて幸せに暮らしていたと思っていた女性が、「その日」、夫がなじみの吉原の遊女を斬り殺し、自らも割腹して心中したという出来事が起こり、実は、夫の養母と夫が互いに思いを寄せあって、しかし、それをお互いに胸に秘めて歳月を過ごして来ていたことを知る、という話である。

 こういう類の話は、家計の維持のために「家」の存続を第一義に計ってきた武家社会では養子をとるのが普通であって、起こりうることではあるが、少なくともわたしにはその心情が分からないので、主人公の嫁と姑の関係を描いた場面が、ついにわからないままに読み終えるしかなかった。どうにもこういう愛憎劇は苦手である。愛憎劇よりも、昨日、お歳暮に「ハムの詰め合わせ」をいただいたので、明日はハムステーキでも作って食べようか、と思うぐらいが、わたしにはちょうどいい。

 第二話の後半の部分はベッドの中で読んでいたので、昨夜はそこまで読んで眠ってしまった。

2009年12月8日火曜日

北原亞以子『誘惑』

 昨日に続いてよく晴れた空が広がっている。「青」というより「蒼」と呼んだ方がいいような空で、低い気温ながらさわやかな空気が広がっている。ただ、この天気も今日までらしい。昨日は暦の上では「大雪」だったのだが、雪はまだ降らない。大体、江戸時代の頃よりも1~2ヶ月は季節のずれが生じているような気がする。 

 北原亞以子『誘惑』(2009年 新潮社)を読んでいた。この作品は、2007年から一年間をかけて『週刊新潮』で発表されたらしいので、おそらく、今の時点での作者の最新作だろう。井原西鶴(1642-1693年)の『好色五人女』の中の「中段に見る暦屋物語」から題材を採ったもので、井原西鶴の物語は、近松門左衛門(1653-1725年)によって浄瑠璃『大経師昔暦』として脚色されており、実際に、1683年(天和3年)に京都の大経師(暦の出版元)の妻おさんが手代の茂兵衛と密通し、それを手引きした女中おたまと丹波に潜んでいたところを捕えられ、磔刑に処せられた事件から、井原西鶴が「浮世草子」として物語化したものである。

 井原西鶴の『好色五人女』は、閉鎖した武家社会の中で自分の愛情を貫いたために、それぞれ不幸に終わってしまった恋愛を取り上げたもので、そこには武家倫理の閉鎖性に対する自由人としての井原西鶴の鋭い批判があり、北原亞以子は、それをよく汲み取って、物語の中心人物である「おさん」や「茂兵衛」をはじめとする夫の大経師や周辺人物たちの、それぞれが、どうにもならない中でもがいていく姿を描き出している。

 「序幕」、「中幕」、「終幕」の3幕構成にしているのも、おそらく、近松門左衛門の浄瑠璃『大経師昔暦』を意識してのことであろうが、それぞれの幕の始まりに、井原西鶴と近松門左衛門を登場させて、この事件を外から眺める視点をもたらせているのは、作者の見事な手法と言えるかもしれない。

 ただ、大経師の妻となった「おさん」が手代の茂兵衛に魅かれていくくだりが作品の大部分を占めているが、結局は、「おさん」が美女であり、茂兵衛が美男で優秀な手代であるだけのことであり、それが、読んでいて、どこか腹立たしさを感じさせられる。

 作者は読者にそのように感じるように構成しているのかもしれないし、容姿だけで、人がくっついたり離れたりするのが現実なのかもしれないが、しかし、そのような人間には、どこか腹が立つ。人が人を好きになり、その人を愛することは、それがどのような立場であれ、人間として自然なことであり、最も尊いことである。しかし、人間のどこに魅かれるのかということによってその人間の深みもあるとしたら、「おさん」は、あまりにも浅はかな人間の代表ではないかと思えるほどである。

 この物語には、「武士」であることに固着し、牢人(浪人)している夫の仕官のために自らつまらない商人の妾になっていく女性や、茂兵衛に恋焦がれていき、ついには「おさんと茂兵衛」の駆け落ちを奉行所に密告する人形屋の娘も登場するが、それらの女性の姿も、少なくとも、わたしには腹立たしく感じられて、途中で、これは北原亞以子にしては駄作ではないかと思ったほどである。

 しかし、たとえば、夫の仕官のためにと浅はかに考えてつまらない商人の妾となり、その子を身ごもって、再び、夫のもとに帰ってきた妻を、自ら深く省みて受け入れ直す「牢人(浪人)」や丹波へ逃げた「おさんと茂兵衛」の丹波での短い生活の姿が描かれ、それが、この馬鹿らしくて腹の立つ恋愛の結末として記されていることが、この作品を救っている。

 そして、「終幕」で、井原西鶴をして、「いくら大経師の家に嫁いだかて、大経師とうまが合わなんだら、ちいとも幸せにはなれへん。大経師は好きな女子といくらでも浮気ができるからええが、亭主とあわなんだら女子は気の毒や」(409ページ)と語らせ、「ま、何をどう考えても、あかんのは武士や。金もない、知恵もない武士が、えばりたがるとろくなことはない。生きてゆく知恵がないさかい、牢人になっても武士に戻りたがるのや」(410ページ)と思わせているところが、この作品の全体を通しての作者の姿勢を示して、この作品の読後感を、どろどろしたものから爽やかなものに変えている。

 しかし、個人的な好みを言えば、地位や名誉や財産もなく(あるいは捨てて)、ただ市井の人間として、愛情深く、たくさんの思いやりをもち、耐え忍ぶことが多くても、花鳥風月を慈しみ、宇宙の大きさを心に宿して、「イツモシズカニワラッテイル」、そういう人間がわたしは最も好きで、この作者には、そういう人間の姿を描いて欲しい、とは思う。

 明日は分別ゴミの回収日だから、今日は部屋の掃除もしなければならないし、冷蔵庫も空だから買い物にも行かなければならないが、なかなか気分を奮い立たせることができないでいる。こんな日は、ただぶらぶらと歩くのもいいかもしれない。予定をキャンセルして、少し時間をかけて、冬支度の三種の神器を身に着けて、散策でもしてみよう。

2009年12月7日月曜日

北原亞以子『風よ聞け 雲の巻』(2)

 5日の土曜日は雨で、夜八時ごろに夕食の買い物に出かけようとして止めたほどだったが、6日の日曜日は、富士山が見えるほどの快晴になった。今日も快晴だが、昨日ほど気温が上がらない。晴れた青空の下で街路樹の銀杏の葉が舞い落ち、ほとんど尖った枝だけが天を指すようになってきた。


 前回の続きであるが、北原亞以子『風よ聞け』で、伊庭八郎を慕い続ける娼婦の目を通して、彰義隊と新政府軍の上野戦争の姿が描き出される。それは、これがどのような戦いであったのかの歴史報告などでは決してなく、戦場である上野に近い吉原で、砲火の音におびえながら過ごさなければならない人間の戦争体験であり、戦火にまどう庶民の日常の体験にほかならない。人の姿とはいつもそうだろう。

 歴史上の大きな出来事は、いつも、人間にとっては、渦中の中での不安や脅え、そして、戸惑いとして経験されていくものに過ぎない。出来事を客観的に分析する思想が歴史を作るのではなく、その小さな不安の経験が歴史を作るのである。人は、それぞれの自分の世界でしか生きることができない。作者は、それを本当によく知っている。

 伊庭八郎を慕う娼婦がいる妓楼の客に、彰義隊に参加した者も、また、新政府の密偵として入りこんでいる者も、そして、その頃に出始めた新聞を作る者もいる。それぞれの事情がある。その事情を語ることで、作者は、決して歴史の善悪の軽々しい判断をしない。わたしがこの作者が好きなのは、そういうところもあるからである。そして、それらの人たちの会話を通して、旧幕府軍と新政府軍の状況の推移が知らされていく。そして、彼女の思い人である伊庭八郎の消息が、噂を含めて少しずつ知らされていく。こういう仕掛けが、本当にいいと思う。

  一方、伊庭八郎の姿を描き出すためにだが、福沢諭吉らと米国に渡った英語通詞(通訳)を務める夫婦が描かれている。この夫婦は、深い愛情と思いやりで強く結ばれている夫婦で、夫は、攘夷運動が盛んな頃には、さんざん苛められたり、身の危険を感じなければならなかったことが多かった人で、新しい気風を身に着けた人であり、妻は、そのような夫を心から支えていく。この妻が、伊庭八郎の妻となる御徒士の娘と友人である。この夫婦の姿は、ほのぼのとして、読んでいて嬉しくなる姿である。この二人が、伊庭八郎とどのように関わっていくのかは、この巻ではまだ記されていない。

 江戸湾から幕府海軍のにらみを利かせて戦況を有利に運ぼうとした勝海舟をはじめとする旧幕府軍は、榎本武揚の優柔不断さ(解釈はいろいろある。榎本武揚もそれなりの人物であったが、わたしは個人的にはどうも函館戦争での彼の決断が気に入らない)と烏合の衆であった彰義隊の統制のとれなさによって、伊庭八郎は箱根で孤立する。こういう策略や作戦は、いつも失敗するのが歴史の教訓というものである。やがて、伊庭八郎は会津に向かい、それから榎本武揚と共に函館に向かうが、この「雲の巻」は、ここで終わっている。伊庭八郎と結ばれた娘は、彼を待ち続ける。

 それにしても、北原亞以子が描いている三人の女性は、それぞれ境遇が異なり、その境遇の中で精一杯生きており、奥ゆかしいが、しかし、自分の考えをはっきりもって、それを表わしていく女性たちである。社会と運命の激流の中で、けなげで、毅然として、そしてそれゆえに、美しい。それは、決して揺らぐことのない自分の「愛する心」を大切にする美しさである。女流作家ならではの描き方かもしれないと思ったりする。

 この続編が書かれたのかどうか、北原亞以子の作品一覧を調べてみたが、見当たらなかった。これは1996年の講談社文庫書き下ろし作品として出されており、彼女は、現在、70歳を越えている(1938年生まれ)ので、もしまだだとしたら、続編を早く望みたい気もするが、これはこれで、いいのかもしれない。「結末」などは、人の人生にはないのだから。

2009年12月4日金曜日

北原亞以子『風よ聞け 雲の巻』(1)

 天気が一転して、よく晴れた空が広がっている。だが、明日からはまた天気が崩れるという。早朝から起き出して洗濯をしたりした。先日、「あざみ野」の「大正堂」という家具屋さんで注文していたテーブル式のコタツが届くというので、これまで使っていた大きな座卓を処分するために、座卓の上においていた碁盤やらノートパソコンやら、本やらを片づけた。少し気分が変わるだろう。

 また、たいていは夕方から夜にかけて買い物を兼ねて散策に出たりしていたが、友人の勧めもあって陽の光を浴びるようにして出かけることにした。今日は晴れているのでちょうどよい。
 
 昨夜から北原亞以子『風よ聞け 雲の巻』(1996年 講談社文庫)を読んでいる。

 相変わらず、「瀬戸物のこわれる音がした。くぐり戸のあたりからだった」(7ページ)という書き出しが素晴らしい。物語を構成している作者の視点が一気にわかるような、そして、その後の展開を予測させるような意味の深い、また、無理のない書き出しである。

 この作品は、幕末に幕府側の遊撃隊の隊長をして散って行った伊庭八郎(1844-1869年)を描いた作品で、彼を巡る三人の女性の姿を通して、彼を描き出したもので、物語は、慶応4年(1868年)の「大政奉還」後の「鳥羽伏見の戦い」の後から始まり、伊庭八郎が暮らしていた江戸の下谷和泉通りにあった「伊庭道場」の向かいに住む貧乏御徒士の娘の姿を描き出すところから始まっていく。彼女と彼女の家族の姿を通して、明治維新の大変動に振り回されていく人々の姿を克明に描き出すのである。

 彼女の兄は御徒士として遊撃隊に加わり、薩長に対して徹底抗戦をしようとし、父は、田舎に土地を借りて移り住もうと考え、家族がばらばらになっていく。このくだりは、政治と社会状況に翻弄されなければならない姿を描くことで、人間の姿を浮かび上がらせる文学の力が見事に見られる。そういう中で、親の決めた許嫁がいる娘は、幼い頃から自分をかわいがってくれていた伊庭八郎に思いを寄せていく姿が描かれるのである。

 彼女は、許嫁との結婚が迫って行く時に、自分が抱いていた伊庭八郎への思いをはっきりと自覚して、一時帰宅した伊庭八郎に会いに行く。その心理描写が次のような光景で描かれている。

 「茶をいれてくれるというつもりか、八郎(伊庭八郎)はもっていた湯呑を差し上げて見せて、千遠(彼を慕う娘)に背を向けた。
 『兄様・・・・』
 声をふりしぼった筈だった。が、唇の外へ出てきたそれは、痰がからんだようにかすれていた。
 『私は、八郎兄様を待っていてもようございますか』
 長火鉢に向かっていた八郎の足がとまった。
 返事が聞こえるまでに、少し間があった。そのわずかの間が、千遠にはきのとおくなるほど長い時間のように思えた」(53-54ページ)

 こういうくだりが、この娘の人柄と思いを切々と伝えるものになっている。情景の描写と、それに伴う句読点の使い方が素晴らしい。句読点一つで、行間の情景がにじみ出る。

 伊庭八郎の生き方を伝える言葉として、作者は次のように記す。

 「俺は、勝さん(勝海舟)ほど人間の出来がよくねえのよ」(52ページ)
 「なにもかも幕府側が正しかったとは言わねえが、俺は、俺達の持っていた刀や鉄砲の前に錦旗をつきつけて、これでお前達は朝嫡だ、科人だというようなやりくちにゃ我慢ならねえ。一寸の虫にも五分の魂だ、勝さんは今のうちだけ頭を下げているというが、どうしても『はい』とは言えねえのよ」(53ページ)
 「あいすみませんでしたと頭を下げれば、奥詰になったことも、道場や講武所で剣を磨いていたことも、すべて間違いであったと認めることになるのじゃねえか。俺は俺の名誉のために戦うとつい言っちまってね。徳川家の恩を忘れたのかと、袋叩きにあったよ」(53ページ)

 伊庭八郎は、自分でも勝てる見込みなどないとわかっていながら、箱根での薩長との戦いに加わって、左腕の肘から下を斬り落とされ、それでも、会津若松の戦いに参戦し、やがて函館の榎本武揚の戦いに加わり、函館で艦砲砲撃を受けて戦死している。

 彼は、いわば、人間としての「筋目」を通した人であり、作者は、そういう姿を上のような言葉で表しているのである。

 伊庭八郎を取り扱った文学作品として優れていると思えるのは、池波正太郎の『その男』や『幕末遊撃隊』があり、わたしは、以前、池波正太郎のそれらの作品を深い感動をもって読んだことがある。伊庭八郎は、幕末の人間たちの中でも、わたしが好きな人間のひとりなのだ。伊庭八郎は、報われることの少ない人生を歩んだ人だが、飄々として、「いい男」なのである。

 だから、北原亞以子が『風よ聞け』で彼を三人の女性の姿を通して描き出すことに、大きな喜びを感じながら、これを読んでいる。

 二人目の女性は吉原の妓楼の娼婦である。彼女は、伊庭八郎の「さわやかさ」と「思いやり」にとことんまいって、娼婦として生きなければならない中で、伊庭八郎を思い続ける人である。

 このことについては、また、明日書くことにする。それにしても、こういう人間を大勢殺して成立した近代日本とは、一体何だったのかと、改めて思ったりする。大久保利通などの功利的な人間が創った近代日本とは何だったのかと思ってしまう。日本を含む世界の19世紀からの歩みは、どこか間違って来ているのではないかと思えてならない。ひとりの小さな人間の幸せや生きることの喜びを踏みにじってはならないのだから。

2009年12月3日木曜日

佐藤雅美『啓順純情旅』(2)

 予報どおり雨になった。「しとしと」と降っている。雨の光景をぼんやりと窓から眺めるのは好きだが、ここは、窓を開けると車の騒音がやかましい。銀杏の落ち葉が貼りついて悲しみを誘う。

 昨日は晴れて比較的温かかったのだが、やはり、陽が落ちると急に冷えてきて師走の風が寒々と感じられた。昨夜、目いっぱいの一仕事を終えて、散策のついでに郵便局とクリーニング屋に寄り、夕食の支度にかかろうと思ったが、佐藤雅美『啓順純情旅』を読み終えていたので、パソコンを開いて昨日の続きを書くことにした。結局、夕食は10時過ぎになってしまった。

 伊勢で愛する女性の死の報に接した主人公の啓順は、伊勢で落ち着いたらどうかと誘われるのを断って、彼を庇護しようと言ってくれた竹居の安五郎のもとへ戻り、甲府で医者として開業することにした。比較的穏やかに三年が過ぎた。

 しかし、竹居の安五郎が伊豆の修善寺に保養に行くのについて修善寺から下田へと向かう。その道中で、竹居の安五郎と子分たちが、今や甲州一円の親分となったことに浮かれ、大名行列のまねごとをしてしまい、そのことで竹居の安五郎が代官所に捕縛され、ほうほうの態で甲府へと逃げ帰らなければならなくなった。その途中で、かつて岩淵で子どもの病気を治してやった母子を訪ねるが、母親はすでに死亡しており、幼い子どもだけが、啓順が迎えに来るといった約束を信じて待っていることが分かった。

 啓順は、その子を引き取って育てようとするが、江戸からの追手がその子どもを人質に取ったので、追手の手に落ちてしまう。しかし、追手の首領格の人間と、竹居の安五郎と津向の文吉の渡世人同士の出入り(大ゲンカ)の時に息が合うようになっていたので、話をつけて、追手を差し向けていた江戸の町火消しの親分と協力して戦おうということになる。

 こうして舞台は江戸に移る。啓順は岩淵の男の子を連れて、その子の今後を依頼するために絶縁されていた師である大八木長庵を訪ね、一方では、いよいよ彼を追っていた町火消しの親分との対決も始まっていく。そして、啓順は、知恵を働かせて、町火消しの親分と渡りあい、真相を納得させて、身を引かせる。かつて大八木長庵から依頼されていた医学書『医心方』も手に入れる。

 啓順は、ようやく江戸で落ち着き、医者としての看板も掲げられるようになり、彼を最初に罠にはめた旗本の娘と所帯をもつ。時は幕末で、彼の旅もそこで終わる。

 この物語全体は、医者でありながら渡世人であり、落ち着いたかと思ったらそこを出なければならなくなる不運を背負った主人公の変転を通して、「心やさしい」、そして筋の通った生き方をし、そのために苦労を重ねていく人間の姿を描いている。

 幕末近くの渡世人の姿も、またその頃の医学界の状況も綿密に盛り込まれているし、それぞれの物語の山場山場の構成も、また、それが伏線となって全体に流れていく展開も、まさに「うまい」としか言いようがないくらいに面白く構成されている。啓順という人物像もいい。啓順は、何度も修羅場をくくっているので、度胸も万点である。竹居の安五郎は、実際には、もっと欲の強い極悪な人間だったが、ここでは義理堅い人情家として描かれていたりする。3巻に及ぶ長編だが、読んでいて飽きがこない。

 長編の醍醐味は、その物語の展開にあるが、「飽きがこない」というのも重要な要素であるに違いない。これは2004年に出されているの、作者の佐藤雅美の63歳の作品であり、老成した、じっくりとした筆の運びを感じさせるものである。

2009年12月2日水曜日

佐藤雅美『啓順純情旅』(1)

 今日もよく晴れて、少し気温が上がったようだ。だが、好天気も今日までらしい。明日からまた天気が崩れるという予報が出ている。

 昨日は、新約聖書の『使徒言行録』のギリシャ語原文を少し時間をかけて読みながら、いくつかのことをまとめたりした。『使徒言行録』は、イエス後の弟子たちの活動の記録を記したものだが、これを書いた著者ルカと呼ばれる人は、本当に心の柔らかな人だとつくづく思う。

 それをしている途中で、中学生のSちゃんが訪ねてきてくれたので、化学の「イオン」についての話をしながら、ふと、人間にもそれぞれの「イオン価」というものがあるのかもしれないと思ったりした。「イオン価」によって、ある者はつながり、またある者は反発して離れていく。ある者はつながっても持て余して、他の者と繋がろうとする。そして、イオンの交流によって電気エネルギーが生じていく。おもしろい現象がそこで生じてしまう。人間と世界の現象はそんなものかもしれない。

 昨夜から、佐藤雅美『啓順純情旅』(2004年 講談社)を読んでいる。これは、昨日も書いたように、前作『啓順地獄旅』の続編で、丹波篠山を追われるようにして旅立った啓順が、行くあてもなく、竹居の安五郎のところへでも行って村医者でもしようと甲州へ向かう途中に、話のついでだと伊勢路を通り、伊勢に向かうところから始まっている。

 やっと幸せをつかんだと思ったら、そこを追われるようにして出る。啓順の旅は、そのことの繰り返しである。

 啓順は、伊勢で、同行になった者に冗談をしかけられて行った妓楼での一悶着から、衰退してしまった渡世人一家と知り合い、結局、その渡世人一家を助けることになってしまい、渡世人一家を束ねる親分になって、その渡世人一家の争いを解決したりするが、結局、竹居の安五郎と津向の文吉の渡世人同士の争いに加担することになり、甲州へと向かうことになる。

 その時、彼は、以前、甲州で病を治し、惚れていた美女のことを聞き、その女性に会いたいという思いもあって、竹居の安五郎のところへ行くのである。ところが、その女性はすでに結婚していた。だが、彼女は亭主に乱暴され、亭主の元を逃げ出して啓順のことを聞いて会いに来る。啓順と彼女はお互いに思いを寄せていたからである。しかし、彼女の夫が彼女を追って来る。啓順は彼女を安全なところにかくまい、自分は竹居の安五郎と津向の文吉の出入り(大ゲンカ)に出かける。その間に、彼女は亭主に見つかり、連れ戻されようとするが、逃れていく。啓順は、彼女の行き先を探すが、わからない。

 そしている間に、江戸から追ってきた追手と息が合うようになったり、病気の子どもの治療をしたりして月日が過ぎ去って、ようやく、彼女が伊勢にいることが分かり、伊勢へと向かう。その途中でも、彼は、またしても、立ち寄った農夫の訴訟事件に巻き込まれたりしてしまう。そして、彼が伊勢についた時は、彼女は疲労が重なって死んでしまっていた。

 まことに不運がついてまわる。出会った人の止むに止まれぬ事情を感じ、そこで道草を食い、それぞれの人を助けるが、自らは、結局、行きついたところで不運が待っている。啓順の旅は、その不運の連続なのである。

 それから、啓順がどうなるか。これはまた、明日、読了後に書くことにする。今日は、何か大きな予定があったような気もするが、予定表に控えていなかったので忘れてしまった。困ったものだが、まあ、生き死にかかわることでもないだろうから、何とかなるだろう。銀行からお金を下ろしてこなければならないのは確かだ。吉行淳之介ではないが、「天井から銭子がバラバラ降ってこないかなぁ」ではある。

2009年12月1日火曜日

佐藤雅美『啓順地獄旅』(2)

 ころころと天気が変わっていく。昨日のどんよりした雲が晴れて、今朝は快晴である。昨日、たぶん大学の卒論か何かに使われるのだろうが、キルケゴールの哲学に関する質問がメールで寄せられていたので、それに少し答えたりしたが、佐藤雅美『啓順地獄旅』を昨夜読み終わったので、これを書くことにした。

 『啓順地獄旅』の主人公で、医師であり渡世人でもある啓順は、日本最古の医学書である『医心方』の探索のために船旅で京へ向かうが、書類上のミスのため、浦賀の船改番所で船を降りなければならなくなり、陸路を鎌倉経由で向かうことにし、途中の沼津で、昔、医学館で机を並べた友人と出会い、その友人の頼みで、城代家老の娘で郡奉行の奥方である女性の病気と、その奥方の突然死に関わったことから、城代家老と郡奉行との争いに巻き込まれ、それを丸く収めるために濡れ衣を着せられて投獄される。そして、それが彼の追手の知るところとなり、策略をめぐらされた罠にはまるのである。

 彼は、どこまでも「ついていない」歩みを続けなければならない。ところが、それが彼に京都行きを命じた奥医師の大八木安庵の知るところとなり、無罪放免され、郡奉行の奥方の突然死の真相が明らかになっていく。しかし、その時、啓順がもっていた金が召し上げられたまま帰って来ず、彼は、それを取り戻そうと城代家老を襲い、浜松の水野家(水野越前守-老中)と沼津の水野家の争いを利用して身の安全と金を取り戻そうとする。金は四分の一ほど戻ってきたが、彼は沼津を出なければならなくなり、富士川をさかのぼって甲州へ出て、そこから信州、中山道を通って京に向かうことにする。

 ところが、甲府へ向かう途中の岩淵で幼い姉弟を助けたことから甲州鰍沢へ船人足として向かうことになり、鰍沢で竹居の安五郎(吃安)と津向の文吉との渡世人の抗争に巻き込まれたりしながら甲府へと向かう。そして、そこで、沼津での出来事を水野筑後守へ訴えてくれと書き送った師の大八木長庵から呆れられて、とうとう絶縁されてしまう。甲府で、追手にも追われ、金もなく、進退極まった彼は、按摩として潜み暮らすようになる。按摩としての評判が上がるにつれ、本物の盲目の按摩から自分たちの生計を脅かしていると聞かされ、自分が人を脅かす人間になっていることに衝撃を受け、按摩を廃業して旅立とうとするところに、贔屓にされていた呉服屋から息子のごたごたの解決を依頼されたりする。

 やがて、甲府から鰍沢を経て岩淵に戻ろうとする船の中で、身延詣でに来ていて急に産気づいた婦人のお産に立ち会い、婦人を助けるために子どもを水子としてしまう。そのために立ち寄った身延で、胎児を殺してしまったことの罪意識もあって、できるだけ多くの人を医術によって助けようと決心し、診立(みたて)を依頼されたことからそこに居着くようになる。

 しかし、そこでも追手との諍いを避けたい津向の文吉から身延を出るように言われて、そこを出ることになってしまい、最初の目的通り京へ向かう。彼は、そこまで、五年の歳月を要してしまったのである。

 啓順は、ようやく京に辿りついて、どこかの医者の内弟子になろうとするが、京の医学界では、体制が固められていて入り込むことができない。それで、やむなく大八車に荷物を載せて配達する力仕事をして生計を立てていきながら、『医心方』の探索を始めるが、疲労も重なり、啓順は医者であると同時に渡世人でもあるのだから、賭場の用心棒にでもなろうと思って賭場を訪ねるが、そこで人探しを依頼されて丹波篠山に向かうことになる。

 丹波篠山で、依頼された仕事を解決したが、そこで豪農・豪商の奥方の病気を治すことになり、それが縁で、その付近で医者をすることになる。ようやく落ち着いた暮らしができるようになったが、しかし、そこに江戸からの追手が迫り、そのことで豪農・豪商からそこを出るようにと言われ、彼の旅がまだまだ続くところで、この作品は終わっている。

 啓順は、いわば、流浪の旅を続ける人として描かれている。彼は、どこに行っても、最初は歓待され、重宝がられ、ようやくそこで落ち着くことができるかと思うと、疎まれて、その場所を去らなければならなくなる。「辿りついたら、いつもどしゃ降り」の人生を歩んでいく人である。彼にとって、この世は、いつも「生き難い」場所である。

 作者は、そうした生き方を強いられる「心やさしい」、そして「男儀のある」人間の姿を歴史の中に投げ入れ、状況の中でやむをえずに巻き込まれていく姿を、卓越した才能をもつ医者でありながら渡世人でもある主人公を通して描いていく。この主人公のこうした設定は、自分自身と照らし合わせても納得できるものが多いことを、わたしは感じている。

 今、この続編である『啓順純情旅』(2004年 講談社)を読んでいるので、その後、主人公がどのようになっていくか、楽しみである。この作者の『物書き同心居眠り紋蔵』のシリーズを読みたいのだが、なかなか、図書館で借り出し中のことが多くて、借り出すことができないでいる。「運」のようなものだろう。そして、いつもわたしには「運」がない。

2009年11月30日月曜日

佐藤雅美『啓順地獄旅』(1)

 先週までの温かさとは打って変わって、昨夜からしのつく雨が降り、寒さが戻ってきた。今は、雨は止んでいるが灰色の雲に覆われた冬空が広がっている。今日で霜月も終わり、明日から師走なのだから、当然の気候と言えば言えるが、やはり寒いのは苦手である。

 昨日、夕闇が迫る頃に、コートを着込んでマフラーをして、一時間ほど散策に出かけ、近所の家々で飾られているクリスマス・イルミネーションを眺めたりした。途中で雨が降り出したのだが、濡れながらゆっくり歩いた。

 クリスマスのイルミネーションは、厳密に言えば、アドベントが始まる昨日の日曜日から飾りつけるのが本当だが、今では季節の風物詩になっているイルミネーションも、ずいぶん前に飾られるようになり、商魂のたくましさというか、なんでも先へ先へと進みたがる現代人の気質のようなものを感じさせられるものになってしまった。

 ただ、去年あたりからひどい不況のために、派手さがなくなっていて、少しささやかで、それがいい感じでもある。個人的な好みを言えば、闇の中に小さく光を放つ姿の方が好きだ。ただ、省エネで増えているLEDの明かりは、光のもつ温かさがなく、寒々としている。現代の科学技術の光は冷たい。

 一昨日、「あざみ野」の山内図書館に出かけて、新しい本を6冊借りてきた。少し凝り性のわたしの性癖が読書にも如実に表れていて、どうも、これはと思う作家にめぐりあったら、その作家の作品を続けて読むようで、この「独り読む書の記」も、これまでのものを振り返ってみれば、宇江佐真理の後で読み始めた諸田玲子や北原亞以子、そして最近の佐藤雅美の作品が多い。一昨日に借りてきた6冊も、これらの作家の作品である。時代小説の中では、特に、市井物と呼ばれるものが気に入っている。欧米ものに凝ったのは、もうずいぶん昔の話で、10代の後半の頃、カフカやドストエフスキーに熱中したこともあった。その頃のことを、わたしは「思想の季節」と呼んだことがあるが、手当たり次第に読んで、自分の思想形成に大きな影響を与えたものであった。今は、できる限り、気楽に読める物をたくさん選んでいるような気がする。

 そして、一昨日の夜から、佐藤雅美『啓順地獄旅』(2003年 講談社 2006年 講談社文庫)を読んでいる。面白くて読み進めたいのだが、ぼうーと過ごす無為の時間が多くなって、まだ半分ほどである。

 これは、『啓順凶状旅』という作品に続くもので、前作からの物語の流れがあるのだが、本書にも主人公である「啓順」の状況が述べられているので、その物語の展開がわかるようになっている。

 主人公の「啓順」は、かつて多紀安長(これは実在の人物で、1755-1810年に江戸で名医として活躍した人物)の弟子であり、奥医師(将軍家に仕える医師)の大八木長庵(これは創作人物だろう)のもとで漢方医を学んだ医者であるが、ふとしたことから渡世人の世界に入り、江戸町火消しの顔役に息子を殺した犯人と思われ、逃走し、お尋ね者となって、網の目のように張り巡らされた町火消しの顔役の手から逃げ回りながらも、その真相にたどりつくが、その時には真犯人も死んでしまい、逃亡を続けるしかなくなっている人物である。

 その逃亡の先々で、困窮に陥っている者や病める者を見捨てることもできずにいる「心やさしい医師」である啓順が、そのためにまた追手に迫られる緊張感をもつ渡世人であるという、その二律背反性と緊張が物語を面白くする基調となっている。

 この『啓順地獄旅』では、「いつかはいいいえに住んできれいな女房をもらって暮らしたい」と夢見たが、凶状もちの逃亡者となっている啓順が、追手の手を逃れつつ、師の大八木安長から平安期の医師丹波康頼(912-995年)が著した日本最古の医学書である『医心方』の探索を依頼されて京へ向かう姿が描かれたもので、「旅から旅への艱難辛苦の救いのない地獄」が続く中で、自ら窮地に陥りながらも出会った人々の救済を行い続ける出来事をとおして、彼が運命的な転換を遂げていくという話である。

 今はまだ途中なので、それがどういう転換として描き出されていっているのかは、また、読了後にまとめたいと思う。

 今日はこれから、少しというよりだいぶ、仕事をしなければならない。限りのない山積みのものではあるが、『愛することと信じること』のデジタル化も進んでいないのだから、そろそろ、次に取りかからなければならないだろう。明日の用意もしなければ。「はあー」という気分ではあるが。

2009年11月27日金曜日

佐藤雅美『お白州無情』

 昨日は、気温が上がって温かさを感じる日になった。温かいと、やはり嬉しい。朝六時に起き出して、ずっと仕事をして、黄昏時から夜にかけてクリーニング屋に行くついでに散歩に出かけたが、ほとんど寒さを感じることもなかった。こういう日ばかりではもちろんないが、やはり、今の季節の中での温かさは貴重だ。

 一昨夜から続けて佐藤雅美の本で、『お白州無情』(2003年 講談社『吾、器に過ぎたるか』を改題、2006年 講談社文庫)を読んでいる。書物の内容からすれば、なぜ文庫化で改題したのかわからない。改題しない方が良かったのではないかと思う。

 これは、江戸末期に、儒教の『中庸』の一節、「天の命、之を性と謂ふ、これを道と謂ふ」からとった「性学」と名づけた実践道徳を説き、農民指導をし、農村改革を行った大原幽学(1797-1858年)の伝記小説で、大原幽学は、かつては日本の小学校のどこにでも建立されていた二宮金次郎像で有名な同時代の二宮尊徳(1787-1856年)と並んで、日本の農村改革の先駆けとなった人であり、「先祖株組合」と名づけた農業協同組合を世界で最初に創った人でもある。

 しかし、彼が行った農村を越えての農民の交流が当時の勘定奉行に怪しまれ、1857年に「押込百日(閉門幽閉)」と農村改革の拠点であった「改心楼」の棄却、「先祖株組合」の解散を言い渡され、五年に及ぶ訴訟の疲労と農村の荒廃を嘆き、1858年に切腹して自害したのである。

 この作品は、大原幽学の活動が、勘定奉行や関八州(関東周辺を回る役人)から怪しまれるところからの過程を、文献を丹念にたどりながら述べ、その中に幽学の思想と彼が行ったことを盛り込んでいくことで、当時の状況と幽学という人の姿を明らかにしていくところから始まっている。

 このような評伝の手法の最たるものは司馬遼太郎の作品であるが、佐藤雅美も、先に読んだ『『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』(2002年 実業之日本社 2007年 講談社文庫)の手法と同様のものをここで取っており、作者の文献研究の確かさを伺わせるものとなっている。

 作者は1941年生まれで、当然、1960年の安保闘争や70年代の「思想の季節」の時代に青年期を過ごしているのだから、作者が寺門静軒や大原幽学へ深い関心を寄せているのは、時代小説、あるいは歴小説作家としての作者の姿勢が真摯なものであることを感じさせる。

 ただ、残念ながら、図書館の貸し出し期限があって、この作品を読了することはできなかった。今日中に返さなければならないし、仕事も次々とあって、また、いつか再読したいと思っている。しかし、Someday never comes.であるかもしれない。

2009年11月25日水曜日

佐藤雅美『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』

 朝から細かく冷たい雨が降っている。天気予報では、今日は、午後から雨も上がるし、気温も少し上がるということだったが、今は、寒い。このところ寒い日々になっているので、使っている暖房器具ではなかなか暖まらずにいるし、特に外出先から帰ってきた時の部屋の冷え冷えとした気配にどうにもならなさを感じたりするので、最近のエコの動向とは反するのだが、もう一つの伝統的な暖房器具であるコタツでも買おうかと思ったりしている。コタツで眠るのは最高に気持ちいいだろう。
 
 昨夜から佐藤雅美の本を読んでいるのだが、ベッドに入るや否や眠りに落ちてしまう日々になってなかなか進まないでいる。肩の凝る内容でもないし、気軽に読み進める作品で、一気に読める作品なのだが、本を読むということは、その内容の把握一つとってみても読み手の肉体的、精神的状況に大きく影響されるということを、つくづく感じてしまう。

 昨夜は、『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』(2004年 文藝春秋社)を読んだ。この作品は、巻末の書物の広告に『縮尻鏡三郎』(文春文庫)というのが記載されているので、その続編だろうと思うが、それはまだ読んでおらず、たぶん、その作品の方が、ストーリーが起伏に富んで面白いのではないかと思う。それを思わせるくだりが、この作品の中で随所に出てくる。

 作者の定義からすれば、「縮尻」というのは、何らかの事情で人生が「尻すぼみ」になってしまったことをいうらしい。主人公の「拝郷鏡三郎」は、九十俵三人扶持の貧乏御家人の家に生まれ、唯一開かれた道である勘定所(今でいえば財務省)への採用を目指して、七つ八つの頃から学問と武芸に励み、推薦者となる組頭のもとに日参し、死に物狂いの就職活動をして、ようやく採用されたが、上役の勘定奉行からの命で、ある老中の内密の御用を承ったのが徒となって、その役職を棒に振り、失職して、家督を娘夫婦に譲り、町方が出し合って作っていた大番屋(仮牢)の責任者(元締め)となった人間である。このあたりのくだりは、おそらく、前作『縮尻鏡三郎』で展開されているのだろう。まさに、人生が尻すぼみになった「縮尻」なのである。

 本書は、この「縮尻」の鏡三郎が江戸の市井で起こる様々な事件で「大番屋」に入れられてくる人間に関与し、その真相を明らかにしていくという、いわば、軽いミステリー仕立てになった作品で、「読み物」として面白く読める作品である。

 もちろん、この作者は、丁寧に文献にあたり、時代考証も、江戸の社会考証もきちんとしているので、なるほど、江戸の庶民はこういう暮らしをしていたのか、ということが細部にわたって描かれており、何とも言えない味わいのある作品であるが、作者は「読み物」を書いているのであって、彼が他の作品で展開しているような思想性を期待することはできないし、むろん、作者も、そういうつもりはないだろうと思う。

 彼は、淡々と出来事を記していく手法をここでは採っているが、ただ、もう少し主人公の人格や、市井の中で事件を引き起こさざるを得ない人間の状況と心情が書き込まれてもいいかもしれないと思ったりする。それだけの力量と思想性をもつ作家なのだから。

 ただ、収められている作品の中では、第六話「妲己のおせん」から第七話「いまどき流行らぬ忠義の臣」、第八話「春を呼び込むか、百日の押込」の流れが、主人公鏡三郎のうだつの上がらないままに無聊を囲っている娘婿と、しっかり者で、大手の手習い所(塾)の長身白皙の美男とその手習い所を共同経営することになった娘の夫婦関係に気をもみながら、相続争いやお家の復興をかけた小大名の武士たちや、跡目騒動(後継者争い)などの事件に関わって、その真相が明らかになっていく物語の展開が、人間の欲の姿を映し、そういう中で、主人公の拝郷鏡三郎の「縮尻」ではあるが自由人である姿と対比されて、「自由人」であることの日常の姿がよく描き出されている。

 拝郷鏡三郎は「自由人」なのである。彼の「自由」は、自分の人生が尻すぼみになっていく「縮尻」であることを達観し、何とも思っておらず、そのようなことにもはや価値を置かないところに由来している。こういう姿は、「痛快」である。

今日は、午後から都内での会議のために出かけなければならず、その準備もあるので、続きはまた明日、ということにしよう。

2009年11月24日火曜日

諸田玲子『日月めぐる』

 22日の日曜日は、本格的な寒さに震える日曜日だった。ほんの少し出かけるにしても、コート、マフラー、手袋の「冬支度の三種の神器」が必要なほどで、おまけに小糠雨もか細く震えるように降って、痛めている頸椎から左肩にかけては痛みも走るし、身の置き所がないような感じだった。

 ところが、昨日(23日)は一変して、「小春日和」という言葉がふさわしい日になり、朝から、洗濯をし、寝具を代えて、掃除をしたりするのに快適な日となった。午後から、中学生のSちゃんが訪ねてくることになっていたので、大江健三郎論に手を入れながら、完全な図形である円が無理数をもっているということなどをぼんやりと考えていた。

 そういう中で、諸田玲子『日月めぐる』(2008年 講談社)をようやく読み終えた。

 これは、幕末期の駿河の小藩であった小島藩の城下町(といっても城はなく、陣屋があるだけで、全体が経済的に苦しい状態が続き、ようやく駿河紙の製造で少し落ち着いた)に住む人々の様々な喜怒哀楽や関わり、生き方を描いた七つの作品が連作の形で綴られている作品で、いずれも、甲州往還と並行して流れている興津川の上流の、両側に山が迫り、川幅がせばまって流れが急となり、岩のせいで水深の差が激しく、不思議な色合いを見せて渦巻く渦巻きが象徴的な基調となって、その渦巻きにそれぞれの人生が巻き込まれていくようにして生きていく人々の姿を描くものになっている。

 第一話「渦」は、今は隠居しているが、かつては藩政の重要人物だった男と、隠居を前にしたその部下であった組頭である男の、かつての駿河紙の製造を巡る事件の真相が明らかになっていく話で、組頭の息子とその藩政の重要人物だった男の娘の縁談が進められて行くことが中心になり、政治を司る者も、またそれに翻弄されていく者も、共々に、それぞれの労苦を負いながら生きている姿が描かれていく。

 第二話「川底の石」は、紙漉きの技術を教えていた商人と契りを結んだ娘が、いずれは迎えに来るという約束を信じて十年の月日を経て待ち続ける話で、ようやく十年後に戻ってきた男がとんでもない男になっていることがわかっていく。そして、彼女が十年もの歳月、男を待ち続けていた間に、彼女を慕い続け、彼女を助け続けていた幼馴染の年下の男の本当の思いがしみじみとわかっていくという話である。

 第三話「女たらし」は、極めつけの容貌をもって嘘八百を並べ立てて詐欺を働いていた男が、ふとしたことで小島藩にたちより、そこで後家で紙問屋の娘を、同じようにたらしこもうとして入りこむが、その娘が肌の白さだけが取り柄の子持ちの大女であることを知り、さっさと逃げ出そうとするうちに、次第に、その子どものことや彼女の素晴らしさに惚れていくという話である。この二人が仲の良い夫婦になっていくことが後の物語で夫婦として記されていくことで示される。

 第四話「川沿いの道」は、幼馴染でお互いに夫婦約束をしていた藩士を待ち続ける娘が、藩命によって彼が自分の兄を殺し、そのために自分との結婚を取りやめていったことを知っていく話で、第五話「紙漉」は、かつて父を捨て、自分を捨てて男と逃げたと言われる自分の実母を探し、実母の相手の男と、場合によっては実母も「女敵討ち」で殺そうと思って小島藩にやってきた御持筒組与力の次男が、その真相と、実母とその男の思いを知り、思いを返して、自分自身の歩みを始めようとする話である。

 第六は「男惚れ」は、百姓の息子であり、武士に憧れ、鉄砲稽古人をしていた少年が、自分が理想として憧れていた、鉄砲の指南でもあった優れた武士が女に骨抜きにされているという噂を聞き、理想と憧憬が壊れていく中で、その武士のもっていた藩の貴重な鉄砲を盗んで、これを興津川の渦の中に投げ捨て、そのためにその武士が切腹していくという話で、彼はひどく後悔し、武士が最後に語ったように商人となって、その武士の子どもや家庭を支えていくようになるという結末が添えられている。

 第七話「渦中の恋」は、大政奉還後の混乱した藩の中で、職を失って侘しい仮住まいをする男女が、すさんだ生活をして幕府側に立って新政府(明治政府)と戦おうとする兄などの姿を通して、お互いの思いを募らせていくという話で、本書のまとめの作品としても、これは秀逸したものとなっている。

 いずれも、興津川上流の、不思議な色合いを見せる渦を見に行く、ということで、その渦の色合いの多様さと同じように多様な人生を歩み人々の姿が、柔らかい筆致で描かれていく。第六話「紙漉」の中に、「人は、わけもなく、巻き込まれてしまうことがある。佳代(実母)が悲惨な目にあったのも渦なら、与八郎(駆け落ちしたと言われる相手の男)に奔ったのも渦・・・いわば不可抗力である」(186ページ)という文章があり、また、第七話「渦中の恋」の中に、「ご老人(第一話の藩政を司っていた人物)は鄙びた里の廃屋でひっそりと暮らしておられた。苦悶に胸をえぐられ、悔恨に眠れぬ夜を過ごしたこともあったろう。日だまりで幸福な午睡を貪ったこともあったはずだ。どこでなにをしていようが、禍福は糾える縄のごとし。我らは渦の中をぐるぐるまわっておるだけやもしれぬ」(258-259ページ)と語られる場面がある。

 渦のように様々な色合いを見せながらもぐるぐる回って生きなければならない人間の姿が、この作品の中で描かれているのである。

 そして、第二話で出てきた女が年老いて、第七話で、状況が江戸幕府から明治政府へと変換していく混乱を経験しながらも、「あたしゃもう、じっとしていたいね。頭の上でぐるぐる渦巻こうが、ごうごう流れようが、あたふたする気はないのさ」(264ページ)と語る。それは、時代や状況に翻弄されながらも、庶民として生きる人間の強さである。

 それに続いて、「両側に迫った山のせいで狭まった流れを、ごつごつした岩がなおもさえぎろうとしている。さえぎられてたまるかと、川の水は怒ったように飛沫を噴き上げ、ぬれそぼった黒い岩に挑みかかる。
 けれど、いがみ合っているだけではなかった。ここには調和があった。薄青と紺と紫苑と群青と縹色(はなだいろ)と薄葉色と御納戸色と浅葱色と、そして輝く紺碧・・・水にかかわるありとあらゆる色の濃淡が、きらめく陽光と溶け合って、渦という摩訶不思議な世界を創り出している」‘264-265ページ)と述べられている。

 ここで「両側に迫った山」と「ごつごつした岩」は、社会の状況であり、世間であり、生き難さである。そして、渦の色は、それぞれが、百姓であったり、もつれ合った男女であったり、武士であったり、商人であったりする者を指している。その中で生きている人間が織りなす「摩訶不思議な世界」とそこでの大切なことを、諸田玲子は、この作品の中で展開しているのである。

 これは、彼女の最近の作で、柔らかい筆致で、さりげなく人間を描く優れた技量が見事に見られる作品だろうと思う。

2009年11月21日土曜日

北原亞以子『花冷え』

 昨日から晴れ間が見えだし、今朝はよく晴れているが、気温が低く、寒さというより冷たさを感じる朝になった。寒がりの私としては、ことのほか指先の冷えを感じたりする。それでも、今日は朝から仕事があって、六時前から起き出した。

 このところ「大江健三郎論」に集中していて、そのほかに書かなければならないものも多く、読書量が落ちているが、昨夜、北原亞以子『花冷え』(1991年 勁文社 2002年 講談社文庫)を読んだ。

 これは、1970年から1991年までに各雑誌で発表された七編(「花冷え」、「虹」、「片葉の葦」、「女子豹変す」、「胸突坂」、「古橋村の秋」、「待てば日和も」)の作品を収めたものであるが、北原亞以子は1969年に作家としてデビューして1989年に『深川澪通り木戸番小屋』で泉鏡花文学賞を受賞し、1993年に『恋忘れ草』で第109回直木賞を受賞するまでは、なかなか世に認められなかった作家としての苦労を重ねた人で、『花冷え』は、その間に書かれていた、いわば初期の作品群を集めたものである。

 したがって、これらの作品を読むと、彼女が、世に認められるとか認められないとかとは全く関係なく、営々と自己の研鑽を積み、作品を書き続けていたことがよくわかるし、最初の作品「花冷え」から七編目の「待てば日和も」に至る過程では、文章表現や構成が段々と変化してこなれたものになっていくこともわかる。そしてまた、この作家の視座というものの基本もよくわかる作品群である。

 第一話「花冷え」は、2年前にいい仲になって結婚の寸前までいった紺屋の娘と型染め職人が、水野忠邦の天保の改革(1830-1843年)による「綱紀粛正・倹約令」によって技術のいる高度な型染めが禁止されたために、職人気質の男が反発して仲を裂かれ、2年後に再会して分かれるという話である。紺屋の娘は男とよりを戻すことを期待するが、男は、他に縁談があるという。

 結末の「ふいに風の向きが変わって、雨が廊下に降りかかった。お花見はもうだめかもしれないという女中のことばが、なぜか急に思い出された」(文庫版 33ページ)という情景が心情を表わすものとして優れている。

 心情を情景で表わして優れているのは藤沢周平であるが、これは、北原亞以子の作品の中に一貫していくものとなっている。この初期の作品群の中では、特にそのことにこだわりがあるようで、どの作品も、結末が美しい。そして、この作品では、政治という上からの強権で引き裂かれ、翻弄されて生きなければならない人間の姿も描かれ、作者の視座も伺わせるものとなっている。ただ、文体が以後の北原亞以子の作品に比べると、やはり、少し硬い。

 第二話「虹」は、老いて病身な母親と料理屋で働きながら暮らしている女が、姑の意地の悪さのため二度も離婚した油問屋の主人に惚れて嫁ごうとするが、娘の行く末を案じる母親との間に挟まれ、迷い、その間に油問屋の主人が浮気をしたりして、さらに迷いつつも、嫁ぐことを決心していく話である。ここには、女が働いている料理屋の夫婦が、困難な過去を乗り越えた後で結ばれていった話が重ねられて、素直に自分の思いを遂げていくことの重さが描き出されていく。

 文庫版54ページに、その女の心情が次のように描かれている。
 「おすえ(母親)が許してくれぬのなら、家を飛び出しても一緒になりたかった。連れ戻しにくるに違いない母を門前で追い払っても、伊兵衛(油問屋の主人)の胸にすがりついていたかった。
 だが、怒っている筈の母は、座敷に上がって、寒がりやのおぬい(主人公)の寝床に掻巻をのせていた。
 おぬいは、寝床を母のそれに近づけた。「いやだよ。狭っ苦しい感じがして」と言うおすえの手を押しのけて、横にした掻巻を二人の寝床にかける。狭っ苦しい感じがすると言った筈のおすえは、枕をおぬいの寝床の方へ近づけていた。
 この母を残して嫁けないと思った。
 父に死なれ、薄暗い家へ入れずに木戸の外で泣いていた時、母はおぬいの欲しがていた物を買って、駆け足で帰ってきたのではなかったか。治作(母の二度目の夫)と夫婦になってからも、おぬいの着物を嬉しそうに縫っていたのではなかったか。
 伊兵衛には、口やかましい母親がいた。伊兵衛の許へ嫁いだなら、おすえのようすを見に来るのもままならないだろう。」

 ひとつひとつの言葉の使い方に、ほんのわずかだが「ぎこちなさ」を感じるところも
あるのだが、こういう素直な表現と構成は絶賛に値するだろうと思う。この作品の結末も、「雨の音が、こころなしか小さくなったようだった」(文庫版73ページ)という心象風景で終えられている。

 第三話「片葉の葦」は、本所駒留橋の小溝のたもとで風の吹きだまりのせいで陽の当らない方向にばかり葉を茂らせている葦になぞらえて、春を売る女(売春婦)として生きている主人公が、女たらしで仕事もしない男に惚れて、別れられない「遊女の深情け」の中でもがいていく姿を描いたもので、その男が新しく作った女髪結いの女との確執もあったが、天保の改革で、その女髪結いが捕縛された時に、彼女に示される「情け」を感じていくというものである。

 そう言えば、北原亞以子の作品には、どうしようもない男に惚れていく女の心情を取り扱った作品が多いのだが、「惚れる」というのは、たとえそれがどうであれ、男にとっても女にとっても掛け値なしに貴いことに違いない。

 この作品には、北原亞以子らしい優れた表現がたくさんあって、主人公の「お蝶」が心細さと不安を感じながらも男を探しに行く場面で、「傾きかけた陽が、路地を赤く染めていた。どこから飛ばされてきたのか、枯葉がどぶ板の上を転がっていく。お蝶は、風に巻き込まれたように外へ出た」(文庫版 91ページ)と表わされたりして、「どぶ板の上を吹き飛ばされて転がっていく枯葉」と主人公の生涯が重ねあわされて、何とも言えない情感をつくっている。

 また、「片葉の葦」を眺めながらの主人公の心情が次のように示される。

 「似てるじゃないかと、お蝶は思った。風の当たらぬ方へ葉を茂らせるほかはなかった葦と、陽の当らぬ方へ歩いていくほかはなかったお蝶母子やお藤達とは。
 そういえば、女髪結いのおとくにも、軀を売って暮らしていたことがあるという噂がまとわりついている。おとくもまた、陽の当らぬ方へ葉を茂らせるほかはなかった片葉の葦なのかもしれない」(文庫版 95ページ)。

 こうした表現は直線的である。そして、直線的であるがゆえに心を打つ場面になっているのである。

 第四話「女子豹変す」は、貧乏御家人の「筧(かけい)」家の次男坊として生まれ、麗しい容貌をもちながらも、それが災いして三両一人扶持(三ピン)にもなれなかった男と、亭主を亡くして二人の子どもをなりふり構わず育てている惣菜売りの女との間に生じる愛情の始まりを描いた作品で、第五話「胸突坂」は、老舗ではあるが傾き始めた菓子屋を一人で背負っている女と、その幼友だちで昔は貧乏し苦労したが今は繁盛している料理屋の女将との間の確執と友情を描いた作品である。

 第六話「古橋村の秋」は、豊臣秀吉に敗れた石田光成をかくまい、彼にどこまでも忠誠を尽くそうとする百姓の与次郎太夫、彼の息子とその忠誠を支える許嫁の娘の心情を描いたものであり、第七話「待てば日和も」は、惚れた男に捨てられて死のうとした女がひとりの男に助けられ、その男が、かつては老舗の呉服屋で辣腕をふるっていたが、あまりの冷遇に一切を捨てて落ちぶれていることを知り、自らを顧みていくという話である。

 いずれもいくつかの伏線が交差して、貧しくどうしようもない中で、人間の「温かさ」や「愛情」を求め、それがいかに人間にとって生きる力となっていくかを描いたものである。

 人は、木枯らしが吹く寒い冬に自らを温めるすべをもたない生物であり、それだからこそ「温かさ」を必要とする生物である。北原亞以子は、江戸の庶民の姿や男女の「情愛」を描くことによって、その「温かさ」がどんなものであるかを描き出していくのである。ほんの少しでもいいから、その「温かさ」があれば、人は生きていけるのである。

2009年11月19日木曜日

北原亞以子『白雨 慶次郎縁側日記』

 昨日の午後は少し晴れたのだが、今朝は重い雲の冬空が広がっている。始まっている本格的な寒さが身にしみるようになってきた。風も冷たい。指先に寒さが宿る。空気が冷え冷えとし、霙でも落ちてきそうだ。

 昨夜はなんだか疲れ切って、ビールを飲みながら、だらだらとあまり意味のないテレビ番組を見つつ北原亞以子『白雨 慶次郎縁側日記』(2008年 新潮社)を読んだ。そして、読んでいるうちに段々と嬉しくなっていき、ついに夜中までかかって読了した。

 北原亞以子のシリーズ物で一番気に入っているのは『深川澪通り木戸番小屋』であるが、『慶次郎縁側日記』も、あっさりと書かれているところが良いと思っている。このシリーズは、刊行年順に記せば、『傷』、『再会』、『おひで』、『峠』、『蜩(ひぐらし)』、『隅田川』、『やさしい男』、『赤まんま』、『夢のなか』、『ほたる』、『月明かり』の11作と、『脇役 慶次郎覚書』がこれまで出されており、『白雨』は12作目の作品となる。この内で、まだ読んでいないのは、記憶が怪しいのだが、たぶん、『月明かり』だけのような気がする。

 このシリーズは、前にも少し書いたが、元南町奉行所の同心で「仏の慶次郎」と呼ばれた人情厚い森口慶次郎が、今は隠居して酒屋の寮番をしながら、江戸の市井に生きる様々な人々と、その人たちが起こす様々な事件や出来事に関わっていく話で、どうにもならない状況のなかで生きなければならない人々に示される「情の温かさ」と「暖かさの呼応」がさりげなく、そしてふんだんに描き出されていて、読むだけで何となく嬉しくなる作品である。

 『白雨(はくう)』は、「流れるままに」、「福笑い」、「凧」、「濁りなく」、「春火鉢」、「いっしょけんめい」、「白雨」、「夢と思えど」の2005年から2006年にかけて「小説新潮」に掲載された8つの作品が収録されており、たとえば、第一話「流れるままに」は、自分の意志や決断というものがあまりなくて、すべてを人のせいにして生きている質屋の婿養子がやりきれない思いで生活する中で盗癖のおる女に引っかかって脅される話であり、第二話「福笑い」は、あまり機転が利かずにぼんやりすることが多くて勤め先から暇を出され、口入屋(仕事斡旋所)に身を寄せながら暮らしている女が、惚れた男に、これも仕事を首になり、他の女に世話になっていることを知りながらも金を貸し、富くじに当たったという男の財布から金を返してもらおうとして泥棒と間違えられる話である。

 第三話「凧」は、昔自分を捨てて男と逃げた女房のために岡っ引きの「蝮の吉次」がさりげなく動いて、養女にするつもりだった女にまとわりついている男のことを調べたり、養女になるはずだった母親と暮らしている女が、母親との関係を恢復していったりする話である。

 第四話「濁りなく」は、父親のこと(慶次郎の愛娘を手ごめにして自害に追いやった)で重荷を追ってきた岡っ引きの辰吉と暮らす「おぶん」が親しくしている気のいい後家さんが、大金を騙し取られ、それを慶次郎と辰吉たちが解決していく話である。昨今の社会を賑わせている詐欺というを視野に入れて書かれたものだろう。

 第五話「春火鉢」は、久しぶりで早く家に帰って来て、頂戴物のもちを焼いて食べる家族のありがたみを味わった同心の島中賢吾が、お互いにまだ思いをもちつつも、喧嘩をし、刃傷沙汰を起こして夫婦別れをした男女に関わる話で、第六話「いっしょけんめい」は、あまり丈夫ではない女が可愛がって育てた娘が、仕事もせずに気に入らない男と所帯をもったために独り暮らしをし、意地を張っていたが、その中で娘夫婦と孫のありがたさを知っていく話であり、第七話「白雨」は、慶次郎と一緒に酒屋の寮番をしている変わり者の「佐七」の友人となった男が、実は、昔の大泥棒であったことが分かり、「佐七」が傷つかないように慶次郎がその友人と話をつけに行く話である。

 そして、第八話「夢と思えど」は、昔、駆け落ちの約束までして惚れぬいた男が、約束の場所に現れず、その男への思いを秘めたまま二度の結婚をし、二度とも失敗し、三度目の結婚話が持ち上がってきた時に、偶然、その昔の男に出会い、その男と再び駆け落ちすることになったが、その時も、男が現れないという筋立てである。

 男は、その女への強い思いをもちながらも、自分のような男では相手を幸せにできずに苦労ばかりかけると思って、その独りよがりの気持ちのまま出奔してしまうのである。男は、女に対してとった自分の行為を罪業と感じていく。こういう男の気持ちはわからないではないし、ふと、デンマークの哲学者S.キルケゴールのことを思い起こしたりしながら読んだ。

 北原亞以子『再会』は、相変わらず、物語の展開も文体も練られていて、流れるように読むことができるような工夫がされている。彼女の小説作法の技量は、相当なものである。

 たとえば、第一話「流れるままに」の冒頭のところで、次のような表現が出てくる。

 「確かに、すべてを他人のせいにしてしまえば気持ちは楽になると慶次郎も思う。慶次郎も、その誘惑に負けて他人の言う通りに動き、あとでそのひとのせいにしたことが幾度かある。が、後味は悪かった。」(9ページ)

 こういうことを素朴なことを無理なくさらりと表現しているのがいいし、「何度か」ではなく「幾度か」という言葉の選択も洗練されたものがある。

 そして、相変わらず、独りで貧しく生きなければならない人間の心情の表現もうまい。

 第二話「福笑い」で苦労しながら生きている「おふく」という女性について、

 「自分が気のきかない女であることも、湯が沸く時のあぶくや鑿に削り落された木屑など、人があまり興味をしめさないものを眺めているおかしな女であることはよくわかっている。そのことで叱られたり呆れられたりするのには慣れているが、持って帰った餅で雑煮をつくり、一人で食べた時にはさすがに涙が出た。」(50ページ)

 と記す。侘しい一人暮らしの姿は、その食事の時にもっとも感じられるが、「雑煮を一人で泣きながら食べている姿」を思い浮かべると、それがひしひしと伝わってくる。

 また、書き出しも真に優れていて、たとえば、第三話「凧」の書き出しは次のようなものである。

 「職人風の男と一緒に、風のかたまりが店へ飛び込んできた。室町三丁目の畳表問屋、伊勢屋の店先であった」(73ページ)

 この「風のかたまり」が、登場する岡っ引きの「吉次」や登場人物の心に吹き込んでいくのである。こういう書き出しは、おそらく何度も推敲を重ねたものだろうと思う。

 また、第五話「春火鉢」には、次のような一節がある。

 「春の宵である。とろりとかすんだ薄闇の中へ洩れる明かりは、日々の暮らしに満足している者と胸に屈折した思いを抱えている者とでは、まるで色合いがちがうだろう」(154ページ)

 この一節だけで、この物語に登場する人物がどんなものであり、この物語が伝えることが分かるような気がするし、この物語の最後の言葉は、事情を知った同心の島田圭吾が、「ひえびえとした時には、物置に入れた火鉢を出すにかぎるのだ」(156ページ)と思う言葉である。まことに読後感の後味の良さを感じる表現である。

いずれにしろ、『再会 慶次郎縁側日記』は、それぞれが、それぞれの重荷や苦労をしながら江戸の市井で生きる庶民の姿を取り扱ったものである。こうした作品は多いし、わたしも好んで読んでいる。読んで、ただただ嬉しくなる本である。

2009年11月17日火曜日

平岩弓枝『平安妖異伝』

 雨で、寒い日になった。シベリアからの寒気団と低気圧が一緒になって、山沿いでは雪とのこと。冬が始まっていることを実感する。

 昨日、久しぶりで池袋まで出かけた。そこで「大江健三郎」について話をするためだが、その後のそれを主催した会のスタッフとの「打ち上げ」の席でのT大学のS教授との話の中で、「大江健三郎」の作品の「予言性」のようなことについての話が出た。三島事件やオウム真理教の事件など、それが実際に起こる前に大江健三郎が作品の中で同じような事件を書いていることについてなのだが、お互いに、文学者のもつ感性の鋭さに納得するものがあった。おそらく、大江健三郎のような優れた感性をもつ文学者は、人間と社会の現状をよく観察し、これを鋭く分析して、その本質を見出すことで、起こりうるだろうこと、あり得るだろうこととして、それを作品に盛り込んでいく精神の作業を極めて深く行っているからだろうと思う。「観察者」であることは、ひとつの重要な要素なのである。

 池袋までの往復の電車の中で、幸いにも座席に座ることができたので(利用している東急田園都市線と半蔵門線は、たいてい、耐えがたいほどのすし詰めの満員か混んでいる。往復とも座れるのは、真に幸運としか言いようがない)、平岩弓枝『平安妖異伝』(2000年 新潮社)を読んだ。平安時代に左大臣、摂関、太政大臣となっていった藤原道長(966-1028年)がまだ青年期の頃を物語の引き回し役にして、異国の血をひき不思議な能力をもつ楽士秦真比呂(はたのまひろ)を登場させて、数々の怪異現象を解明していくという筋立てである。

 平岩弓枝の作品は、やはり、なんといっても『御宿かわせみ』シリーズで、与力の次男「神林東吾」と「かわせみ」という宿の女主人「るい」、そして、東吾の友人であり同心である「畝源三郎」を中心に様々な事件を解決していくというこのシリーズの江戸物は、描き出されるどの人物もとても魅力的で、一時、とてもハマって全部読み、全巻をそろえたいと思ったほどだった。

 何度かテレビドラマ化もされて、記憶に残っているのでは、「るい」役を真野響子さんという切れ長の素敵な目をした美人女優さんが演じられたもので、後には、若尾文子さんという幾分ゆったりとした感じのする、これも切れ長の目をした美人が演じられたものである。しかし、残念がら全部を見たのではない。神林東吾役が誰であったかは忘れてしまった。真野響子さんの美しくあでやかな着物姿だけが目に焼き付いている。

 テレビドラマといえば、宇江佐真理の『髪結い伊三次捕物余話』のシリーズがドラマ化されてBSフジで放映されているが、こちらは、残念ながら放映時間が仕事の都合と重なって見ることができない。録画すればいいのだが、レコーダーが古くて操作が面倒なのでしていない。再放送を期待するだけである。楽しみに見ているのは、TBSの日曜劇場で放映されている『JIN―仁』というドラマで、村上もとかという人の漫画を原作にしたものである。脚本を森下佳子という人が書いているそうだが、登場人物のせりふがたまらなくいい。これは、日曜日の夜の楽しみになっている。

 さて、平岩弓枝『平安妖異伝』であるが、これは、やはり、歴史考証もしっかりしているし、おそらく平安京の地図の上で登場人物たちを縦横に動かせて描かれていると思えるし、当時の風習や建造物への考証もかなりのものがあるので、忌憚なく読める。また、藤原道長をはじめとする歴史上の人物への肉薄も、さりげない文章にしっかりした考証がされていることをうかがわせて、面白い。もちろん、作者が創った秦真比呂という少年も魅力的に描かれているのは言うまでもないことである。

 もともと、「秦氏」は日本文化と技術に多大な影響を与えた渡来人であり、政治の中枢にもいたのであるから、怪異な事件を解決する不思議な能力ももつ少年が「秦」であるのは、納得できる設定である。平岩弓枝は、こうしたことは、やはり、さすがにしっかり考えているし、彼女の文章もこなれているので、本当に面白く読める。物語は、藤原道長が幻惑に惑わされたり、魑魅魍魎に惑わされたりして危機に陥る時に秦真比呂が彼を助けるとう話で、不思議が不思議でなくなるところがいい。

 しかも、単なる怪異現象が取り上げられるのではなく、人間の「情」や「思いやり」の現象として描き出されるところが平岩弓枝の感性の豊かさを表している。

 たとえば、第四話「孔雀に乗った女」は、かつて大陸から持ち込まれ、使われないままに片隅に追いやられ、整理されることになった多くの楽器のうち、孔雀と異国の女性が描かれ螺鈿がはめ込まれた五絃の琵琶が、その用いられないことを悲しみ、人々を惑わすという話であるが、秦真比呂は、藤原道長に次のように言う。

 「父が申して居りました。楽器によっては、ここに納められたきり、二度と陽の目をみることのなかったものも少なくはあるまいと・・・・・」
 真比呂の声が寂しげであった。
 「楽器はそれを弾きこなす者があって、はじめて人の目にも触れ、喝采を得ることが出来ます。使い方もわからず、使う人もなく、埋もれたものの悲しさは、誰にも知れません」(107ページ)

 こういうくだりは、なかなかのものである。

 もちろん、ここで言われていることを全面的に肯定しているわけではなく、わたし自身は「用いられることを恥とせず」ではあり、また、「用いられること」を求めているわけでもないし、人は埋もれて生きていくのがいいと思っているが、「埋もれたものの悲しさ」はわかる人間でありたい。平岩弓枝は、作家として大成した人ではあるが、こういう心情を描き出せるところがいい。

 天気はひどいものだが、少し散策もしたいとは思うが、今夕は予定があって、たぶん、近くのスーパーマーケットに買い物に行くのがせいぜいだろう。今日はしなければならないことが山ほどある。いつかは何も予定がない日々になればとつくづく思う。

2009年11月14日土曜日

諸田玲子『氷葬』

 昨夜から雨が降り続けて、今朝も白く煙った世界が広がっている。ただ、気温が少し高くなっているのでそれほどの寒さは感じない。昨日はいくつかの仕事をしながら「大江健三郎論」を書いていた。少し詳しくなりすぎたし、文体も固いものになっていたので、いくつかのことを削り、文体も柔らかいものにしていた。論文になると、どうしてもわたしの文体は思考をそのまま反映して練られたものにならないきらいがある。弁証法が多すぎるのかもしれない。

 諸田玲子『氷葬』(2000年 文藝春秋社 2004年 文春文庫)を読んでいるがなかなか進まない。この作品は、江戸時代の中期である明和3年(1766年)に起こった「明和事件」をベースにしたサスペンス仕立ての小説であり、少し探究心の強い理知的な主人公ではあるが、言ってみれば普通の主婦が織りなす冒険活劇でもあり、物語の起伏や展開も面白く描かれているのだから、本当は一気に読めるのだが、夜、疲れてしまって、手に持って枕元に広げたままいつの間にか眠ってしまう日々が続いているために、なかなか読み終わらない状態になっている。

 「明和事件」というのは、明和の前の宝暦年間に尊王思想を基にした幕府批判によって起こった「宝暦事件」(宝暦8年 1758年)に続いて起こった事件で、江戸で儒学や兵法を教えていた山県大弐(1725-1767年)と宝暦事件に関連していた藤井右門(1720-1767年)が上野小幡藩の内紛にからんで幕府批判の不敬罪で処刑された事件である。山県大弐の門弟には上野小幡藩家老吉田玄蕃をはじめとする小幡藩の家臣が多くあり、危惧を感じた小幡藩家老の吉田玄蕃が彼を幕府に謀反の疑いがあるとして訴えたことによって、事件が公となり、山県大弐らは死刑となったのである。一説では、山県大弐と藤井右門は、甲府城や江戸城を攻撃する軍略を練っていたともいわれる。

 諸田玲子の『氷葬』は、この事件に巻き込まれた小幡藩に隣接した岩槻藩の下級藩士の妻の芙佐の姿を描いたもので、夫の江戸における知己と名乗って訪ねてきた男に暴行され、辱めを受けた芙佐が、その男を殺して沼に捨て、氷の下に閉じ込めようとしたところから事件に巻き込まれていくのである。彼女を凌辱した男が、いわば、明和事件の山県大弐が記したと思われる軍略書や幕府転覆の誓約書と思われる書状をもっていたからである。凌辱と殺人を隠そうとする彼女の元に、その軍略書と誓約書を探しに、小幡藩の隠密や幕府の密偵が襲いかかり、彼女のまわりの人間たちが殺されていくにつれ、彼女は、夫もその事件に関連しているのではないかと感じたりして、決然と、その謎を解くべく立ち上がり、彼女にふりかかった事件を自ら解決していくのである。

 ここには、拭いさっても拭いきれない過去を背負った女性の姿が描かれているし、夫も子もありながらも、自分を助けてくれる公儀隠密と思われる武士に対する揺れる思いも描かれている。しかし、彼女は、沼の氷の下に閉じ込めたように、すべてを自分の胸に閉じ込めて生きていく。

 人は、すべてを胸にしまって決して表には出さないものを閉じ込めながらも、その日常を送らなければならないのかもしれないと思う。人の日常には、そうした影が常につきまとう。特に女性は、いつも現実的で、過去を忘れやすいと言われたりするが、過去を忘れるのではなく深い沼に凍結させるのかもしれない。女性は男性以上にその影を自らの肉体に刻みつけることが多いのだから。諸田玲子は、そうした影を抱いて、しかも、たくましく生きていく人間の姿を描きたかったのではないかと思う。わたしの場合、過去はいつもぐずぐずと、あるいはうじうじと渦巻いている。

 しかし、最近、わたしはよく昔出会った人々を妙にリアリティのある場面の夢で見ることが多くなった。何の脈略もないのだが、様々な光景を夢の中で思い起こすのである。昨日は、ある人と冷えたトマトを輪切りにして食べているところの夢を見た。トマトの赤が鮮烈に記憶に残っている。おかしなものである

2009年11月13日金曜日

北原亞以子『江戸風狂伝』

 昨日は一昨日の雨は上がっていたのだが重い空が立ち込め、「木枯らし吹いておもては寒い」一日だった。今日も、灰色の雲に覆われて、寒い日になった。葉の落ちた木々の梢が震えている。冬の足音が聞こえそうだ。

 昨日、ホームセンターでホットカーペットの上敷きを買ってきた。これまで長く使ってきたホットカーペットの上敷きがコーヒーをこぼした跡などが点々とついていたので、これを処分し、新しい物と変ようとして、4時間ほどかけて家の全部の拭き掃除をした。こういう新しさは、ほんのわずかでも気持ちのいいものである。そして、新約聖書の『使徒言行録』をギリシャ語で読んでいると、いつの間にか日が暮れて、気づいたら、夜の八時になっていた。

 昨夜、少々疲れ気味ではあったが、北原亞以子『江戸風狂伝』(1997年 中央公論社)を読んだ。これは、「風狂」とか「粋人」とか呼ばれた人たちの「風狂ぶり」を描いた作品であるが、「伊達くらべ」をしかける金持ちや吉原で財産を散在してしまう人間や、少なくとも「愚人」であるわたしにとっては面白くもなんともない人間の姿が取り上げられて、文体のリズミカルな描写とは別に、読み進むのに息の上がらないものではあった。

 しかしながら、第四話の「爆発」で平賀源内(1728-1780年)が取り上げられて、平賀源内が捕縛される前(源内は勘違いによって二人の人を殺傷した罪で投獄される)の姿が、ただ周囲の人々の好意を五月蠅く思っていた「変人」として描かれたり、第六話の「臆病者」の歌川国芳(1798-1861年)が天保の改革(1841年)に反骨精神を発揮したことなどが、実は、気の弱さからのものであったとされていたりすることなどは、なかなか味のあるものである。雑誌に発表されたことの関係で枚数の制限があったのかもしれないが、たとえばこの二人は市井に生きた人であり、「遊び心」というのも豊かな人たちだったのだから、もう少し描き出された方が良いのではないかと思ったりはするが。

 第七話「いのちがけ」は、宝暦年間(1751-1763年)に講釈師として活躍した馬場文耕(1718-1758年)を取り上げたもので、馬場文耕は、元は伊予(愛媛県)の浪人中井文右衛門といい、1754年ごろから講釈師として活躍し、反骨精神旺盛で、宝暦8年(1758年)に、美濃郡(岐阜県)上八幡の金森家のお家騒動を「珍説森の雫」と題して講釈し、幕府を批判したかどで逮捕され、獄門に処せられた人である。

 作中では、この馬場文耕が「森の雫」を講釈する時の姿が描かれ、捕縛を怖れつつも、百姓の側に立って話をする文耕の姿が描き出されており、内偵に来た岡っ引きも、自分も水呑百姓の倅で、その水呑百姓のことを語る文耕をなんとか助けようとするのだと言ったりして、興味深い。

 いずれにしても、「風狂」とか「粋」とか「反骨」とかいうことが、小さくて弱い人間が、恐れ慄きつつもやむを得ぬ心情の中で精いっぱいの抵抗をすることであることが、これらの人々の姿を通して語られており、その視点は市井を懸命に生きようとする人々への作者の眼差しを反映したものとなっていて、少なくともわたしにとっては好感のもてる人物像となっている。ただ、いつの世でも、権力者たちはその力をふるってこのような人を抹殺してきたし、今の世では、「風狂」とか「粋」の精神もすたれてしまった。「粋」というのは、もはや死語に近い。

 しかし、力を振るう者には、「粋」で抵抗することが、また「粋」ではあるだろう。「粋」は、日常の生活スタイルなのである。それは、ファッションでも外見でもなく、精神の問題なのだ。

2009年11月12日木曜日

北原亞以子『再会 慶次郎縁側日記』

 昨日一日降り続けた雨が上がっているが、重い雲が下がっている。昨夜はずいぶん風も吹いたようで、街路樹の銀杏の葉が道路にべったりと貼りついている。車の騒音は相変で、いくつかの文書をプリントアウトする作業もあるのだが、ぼんやりとその遠景をみながらコーヒー―を入れて眺めたりする。久しぶりにモーツアルトを聞き、朝の時間を過ごした。

 昨夜から北原亞以子『再会 慶次郎縁側日記』(1999年 新潮社 2001年 新潮文庫)を読んでいる。この作品は、このシリーズの2作目で、このシリーズの『傷』、『おひで』、『峠』、『蜩』、『隅田川』などはすでに読んでいたが、シリーズとはいえ、どれから読んでもいいように構成されている。そして、『再会』は、元南町奉行所の同心で「仏の慶次郎」と言われた深い人情をもつ主人公の人と成りがよく描き出された作品でもある。

 それにしても、この作品に出てくるすべての人が何と優しく描き出されていることか。愛娘を自害という出来事で失った慶次郎の養子となった愛娘の元許嫁の晃之助と、出来事のすべてを知りつつ晃之助の妻となった皐月、酒屋の寮番として慶次郎と一緒に暮らす佐七、岡っ引きの辰吉、蝮と言われて悪事を働いた人間をゆする岡っ引きの吉次とその妹夫婦、やがて慶次郎が惚れることになる料理屋の女将お登世、そして、様々な事件を起こす人々も、すべて優しいし、また、人情に人情が呼応する人々である。言い換えれば、「人の情け」がわかる人たちなのである。

 わたしが時代小説の市井物と呼ばれるものをこのところずっと読んでいるのは、そういう「情けがわかる人々」が描かれているからである。これは、哲学の中にも思想の中にもない。「智に働けば角がたつ。情に棹をさせば流される」が、論理的な思考癖もつわたしが、「論理ではなく、情で生きよう」と思ったのは、もうずいぶん前で、情に流され、涙をぽろぽろこぼしながら、「それでもいいではないか」と思いつつ生きて、こういう「情けがわかる人々」に胸打たれるのは、自然の成り行きだろうと自顧したりする。

 物事の美醜を感じるのは、それを感じることができるものがあるからで、愛を感じることができるのは、ただ愛だけである。カント的な言い方をすれば、感情には先験性(ア・プリオリ)が必要なのだ。真、善、美、そして何よりも愛を見出すには、その自己の中の先験性を豊かにする必要がある。人間がそうして生きることができたらなんと素晴らしいだろうかと思う。

 論理を働かせ、功利的に生きる人間は、その論理がどんなに正当で素晴らしく構築されたものであれ、いやらしい。わたしが好きな時代小説の市井物には、それがない。

 たとえば、『再会』に収録されている第一話「恩返し」の冒頭に、重い風邪(今でいうインフルエンザだろう)にかかった慶次郎のもとに養息子の嫁の皐月が、前掛けとたすきを入れた風呂敷包みをかかえて籠を飛ばしてくる場面がさりげなく描かれている。皐月は、半月ほど慶次郎の看病をするために用意して出てきたのである。養息子の晃之助も、息せき切って翌日現れる。慶次郎と晃之助、その妻の皐月との間には血のつながりはない。しかし、義父が重い風邪を患ったと聞きつけ、「籠を飛ばし」、「息せき切って」駆けつける姿に、その心情の温かさがある。

 第一話の「恩返し」は、自分を養ってくれた親の九右衛門が、実は泥棒だったということを知った老舗田島屋の婿養子になっている道三郎が、その養い親への恩を返すために、自分の地位も名誉も捨てて、養い親の泥棒を助けるという話である。

 そのことを知った慶次郎は、泥棒に入ろうとした九右衛門を捕え、言う。

 「道三郎は、自分を捕えてくれと言った」
 九右衛門が慶次郎を見た。
 「自分が捕らえられれば、お前が盗みをやめるだろうというわけさ。田島屋の暖簾とお前の恩とを天秤にかけて、お前の恩をとったんだよ。それが道三郎の恩返しだったんだ」
 倒れるのではないかと思うくらい、九右衛門は深く首を垂れた。「恥ずかしいよ」という声が、少しくぐもって聞こえてきた。
 「旦那、頼むよ。明日、半日でいいから暇をくんな。道三郎に詫びてから自訴をする・・・」
 「だめだ」
 慶次郎はかぶりを振った。
 「自訴して、道三郎や、何も知らねえ田島屋にまで迷惑をかける気か」
 九右衛門は、ふたたび首を垂れた。
 「茂八んとこか江戸の隅っこで、おとなしくしているんだな」
 返事は聞こえなかった。

 翌日、慶次郎が辰吉の家へ出かけた留守のことだった。山口屋の寮に巡礼姿の男がたずねてきて、油紙にくるまれた重い包みを置いて行ったという。
 開けてみると、二十五両ずつたばねられた小判が八つ、きれいにならべられていた。(文庫版 42-43ページ)

 返されたのは、九右衛門が盗んだ二百両である。養い子の道三郎の思いと慶次郎の情けを知った九右衛門が、首を垂れ、巡礼に出るというのもいいし、慶次郎の思いもいい。慶次郎は、まことに「粋」な人間である。こういう「情けの呼応」が素晴らしい。

 そして、また、北原亞以子は、「独りで生きなければならない人間の淋しさと不安」もよく描く。第六話「やがてくる日」に、仕立ての内職をしながら独りで暮らしている「おはま」という女が出てくる。

 「おはま」は、十六歳で一目ぼれした羽根問屋の息子と結婚するが、それから五年後に亭主の浮気が止まず、姑もからもいじめられ、ついに舅から大金をもらって家を出て、実家に戻り、その実家でも弟に嫁が来て、折り合いが悪くて家を出て、しばらくは母親と暮らしたが、その母親も死んで、独り暮らしとなった女である。もらった金も残り少なくなってきた。「三十―か」とおはまは呟く。将来の不安がのしかかってくる。

 「おはまも、やがて老いる。恐ろしいのは、おはまが考えている以上の長生きをすることだった。六十を過ぎても内職ができるとは思えず、その頃は多分、居食いで暮らしていることだろう」(文庫版 200ページ)と考える。

 おはまは、憂さ晴らしに高価な着物を買い、贅沢な寿司を食べようと思う。しかし、何度も逡巡する。三両も出して高価な着物は買った。だが、値の張ることで有名な寿司屋に行く時、「『みんな、一緒に行く人がいるんだ』一人で鮨を食べに行くのは、おはまだけではないか」(文庫版 204ページ)と思う。

 「何だって、わたしだけこんなに淋しいのさ。わたしは何も悪いことをしちゃいない。浮気者の亭主と意地のわるい姑がいやで、羽根問屋を飛び出しただけなのに」
 すぐ目の前を歩いているおはまと同じ年恰好の女は、十歳くらいの女の子を連れていたし、その先にいる女は、わざと不機嫌な顔をしているらしい亭主から少し離れて歩いていた。
 「わたしの方が縹緻(きりょう)はいいのに。あの女達が、あの紬を着たって似合わないのに」
 だが、あの紬を着たおはまを、誰が見てくれるのだろう。(文庫版 204-205ページ)

 と思い、泣き出しそうな顔になって踵を返す。

 こうした「独りで生きなければならない人間」の姿が細やかに描かれる。それは、おはまのような三十路の女だけでなく、第八話「晩秋」に登場する頑固者で誰も寄りつかなくなって独り暮らしをする五兵衛も、親切ごかしをしてその五兵衛の懐をねらう我儘で怠け者の幸助という男もそうである。

 「孫に会いたくなったのだろうとは、わかっていた。身内の者に会うのは癖になる。音沙汰なしで暮らしていれば、淋しいことは淋しいが、会いたさにいても立ってもいられなくなるということはない。が、一度身内の家へ行って、親子やら兄弟やらのにおいを嗅いでしまうと」だめなのだ。食べ物のすえたにおいばかりがこもっているような自分の家へ帰るのがいやになるのである」(文庫版 258ページ)

 北原亞以子は、ここでこう続ける。

 「両親をあいついでなくし、青物町の店も人手に渡って、南小田原町の裏店で一人暮らしをはじめた頃、幸助は叔父の家へ泊まりに行ったことがある。叔父には叱言を百万遍も言われたが、いとこの女房は親切だったし、暖かいめしも焼魚も、縄暖簾のそれとは比べものにならぬほどうまかった。
 二晩泊めてもらい、三日目の夕暮れに「またくればいい」という叔父の言葉に送られて家へ戻ったのだが、明かりのついていない家の暗さがまず、いやになった。「今帰った」と言っても、当然のことながら返事はない。
 叔父の家へ行く前に脱ぎ捨てていった着物は、丸められて部屋の真中に置かれたままだし、急須の中では茶の葉がひからびていた。
 いとこの女房が持たせてくれた菓子を一人で食べるのも気のきかぬ話だと、縄暖簾へ行くつもりで外へ飛び出させば、味噌汁ではなく、築地の川がはこんでくる潮のにおいがする。縄暖簾で顔見知りを見つけ、足許もあやうくなるくらいに飲んで、家へ戻ればまた暗闇だった。明かりの入っていない行燈と、ひからびた茶の葉の入っている急須と、いとこの女房のもたせてくれた菓子が、ぽつねんと幸助を待っていたのである。」(文庫版 258-259ページ)

 こういう侘しさや淋しさは、実際に、幾分かは文学的に誇張されているとはいえ、本当のところである。そういう心情で生きなければならない人間の悲しみが行間にある。人には人の温かさが、それも日常に、必要なのである。何も特別なことはいらない。そういう温かみの必要性を『慶次郎縁側日記』は改めて感じさせてくれるのである。

 表題作になっている「再会」は三話あり、いずれもこのシリーズに登場する人物たちが、それぞれに昔かかわりがあった女性と再会する話であり、第一話は岡っ引きの辰吉のところに彼を「兄さん」と呼び慕っていた「おもん」が助けを求めて訪れ、そのことによって辰吉が人殺しの疑いをかけられるという話である。第二話は、慶次郎がふとしたことで入った蕎麦屋に七年前に関係をもった「おしん」という女性がいて、外見と中身が違うと言われ続けてきた「おしん」が慶次郎を訪ねてくるという話である。第三話は、岡っ引きの吉次が、昔自分を捨てて男と逃げた元の女房で、裏櫓(場末の女郎屋)の女将をしている「おみつ」と事件の探索の過程で再会するという話である。

 いずれも、元の鞘には戻らないが、それぞれの人生の交差点を中心にして、それぞれの人生が語られる。人と人との出会いは真に不思議なものである。縁があって一緒に生きる人もあれば、望んでも、ついに縁のない人もある。まことに「縁」という言葉がふさわしいのかもしれないが、それで人生が大きく変わっていく。「縁は異なもの、味なもの」である。

 わたしにはどんな「縁」があるのだろうかと、自分自身がこれまで関わった人たちのことを思う。そして、おそらく、「縁なきまま」に、人生が終わっていくのかもしれないとも思う。ただ、「縁」は、自分で作り出していくものであり、孤独を囲わなければならないのは、自ら招いたことではあるが。

2009年11月11日水曜日

佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』

 天気予報どうり昨夜から雨が降っている。空が煙っていて、雨らしい雨になっている。こんな雨の日はぼんやりと外を眺めていたいのだが、そうもいかない。

 昨日、急を要する仕事をいくつかかたずけて、朝から大江健三郎についてまとめていたら、いつの間にか夜の暗闇になっていた、つるべ落としで日が暮れたのも気づかずにいた。今朝、たぶん昨夜の夢の続きかもしれないが、何の脈略もなく、数字の「0(ゼロ)」のもつ不思議で絶大な力について考えたりしていたら、仕事の電話が入ったりした。人間は、いつから雨でも仕事をするようになったのだろうか、とふと思ったりする。考えることに脈略がなくなって、たぶん、集中力が切れているのだろう。

 昨夜、前作に続いて、佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』(2002年 実業之日本社 2007年 講談社文庫)を読む。

 この作品は、主に江戸時代の天保年間に儒学者・随筆家として活躍した寺門静軒の代表作『江戸繁盛記』を基に、その人物を描き出す、いわば伝記小説の形をとっており、こうした手法は司馬遼太郎が駆使するところでもある。

 寺門静軒は、寛政8年(1796年)に水戸藩御家人の妾腹の子として江戸に生まれるが、仕官がゆるされず(小説では御家人株を売って)浪人となり、学問で身を立てるべく折衷学派山本緑陰の門人となり、駒込で塾を開いていたが(水戸藩への仕官運動もするが受け入れられず)、貧にあえぎ、天保2年(1831年)から江戸の風俗を漢文で記した『江戸繁盛記』(天保13年、1843年、までに5編を出す)が評判を呼び名声を博する。しかし、天保の改革によって、風俗を乱す者として武家奉公御構の処分を受け、追放されて各地を遍歴後、安政7年(万延元年)現在の埼玉県熊谷市近郊で「先生は宜しく老ゆべし、子弟は宜しく学ぶべし」という意味で「両宜塾(りょうぎじゅく)」などを開いて、慶応4年(1868年)に没した人である。なお、言うまでもなく、慶応4年は、明治維新の年でもあった。

 佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』は、この寺門静軒の『江戸繁盛記』出版の前後から、貧にあえぎながらもなおも向学心をもって生き、なんとか糊口を潤したいと焦る彼の姿や生き方が漢文の『江戸繁盛記』を読み下しつつ、生き生きと描かれ、身につまされるところも多く、作者の技量がいかんなく発揮されている作品であると言えるだろう。

 それにしても、文化・文政以後の江戸時代の狂歌にしても、いわゆる洒落本や絵草子にしても、なんと語彙が豊かで洒落ていることだろう、と改めて思う。多くは、漢文の素養が基にあるとはいえ、なかなかのもので、たとえば、『江戸繁盛記』でも、暇を持て余して退屈を紛らわせていることを「白日を消して、以て無聊(ぶりょう)を遣(や)る」と表現されていたりする。(ちなみに、佐藤雅美の表題はおそらく、この言葉から取られたものだろう。)

 寺門静軒自身は、自らを「無用之人」と呼び、後に出した『繁盛後記』でも、「生まれて功徳なし。死後、馬となるも、また其の所。牛となるも、また其の所」(自分は生まれてきても何の役にも立たなかった人間であり、死んだあとに、馬になっても牛になっても、何の文句もなく、馬であれ牛であれ、残念に思ったりもしない)というようなことを語っているが、馬や牛というところが洒落ている。そして、佐藤雅美は、その寺門静軒の心情を遺憾なく描き出している。

 また、この作品には、当時の儒教を中心にした、いわゆる学界の背景も盛り込まれており、その中で、名もなく、係累もなく、在野の学者として身を立てなければならなかった寺門静軒の苦労が描き出されて面白い。それは、現代でも、さしたる学閥もなく、引き立てる者もなく、名も係累もないままに在野の思想家として生きている多くの人々の姿であるかもしれない。作者が伝記小説として寺門静軒を取り上げた理由はわからないが、つまらない歴史上の偉業を遂げた英雄たちを取り上げる歴史小説よりも好感が持てる。

 さらに、最後のところで、寺門静軒が流浪中に世話になった埼玉県の絹問屋浅見家の娘「わか」が、長命で、昭和7年(1932年)10月30日付東京日日新聞埼玉地方版で語っている静軒の思いでを紹介し、とっつきにくい恐ろしいような風貌をしていたが、やがて、「『どうしてこんないい方を江戸から追ひ出したのだろうと』と思ふようになりました」という談話を載せて、静軒が、気性がさっぱりしていて、誰からも好かれた、と語る(文庫版 383-384ページ)ところが晩年の彼の人となりをよく表わしていていい。また、静軒が、まれにみる愛妻家であったことも紹介される。作者が愛情をもって寺門静軒を見ている視点も読む者を楽しくさせる。

2009年11月10日火曜日

佐藤雅美『物書き同心居眠り紋蔵 密約』

 空は、晴れたり曇ったりだが、初冬の感じがしてくる日になった。目覚めた時に寒さを覚える。4時くらいに起き出して、佐藤雅美『物書同心居眠り紋蔵 密約』(1998年 講談社 2001年 講談社文庫)を読んだ。

 この作品は、『物書同心居眠り紋蔵』、『隼小僧異聞』に続く、このシリーズの3作目で、前の2作はまだ読んでいない。しかし、読んでいなくても、主人公の藤木紋蔵の姿がよく描き出されているので、時代小説の捕物帳として、大変面白く読んだし、時代考証も物語の背景としてしっかり生かされているし、おそらく、この作者は古地図も古文書もきちんと読みこなせるのだろうと思われて、なかなかの作品だと思った。

 古地図はともかく古文書は、現代人が見慣れない字の崩し方や用語の使い方もあって、これを読むには相当の慣れを必要とする。しかし、作者は苦も無くこれを読みこなせるのだろうと伺わせる箇所が随所にあって、作法からしても、じっくりと練られた跡がうかがえる。

 物語の主人公藤木紋蔵は、文化・文政年間に南町奉行所で例繰方(判例などを調べる役職)の与力に仕える物書(記録係)の同心であり、本人の意思にかかわらずに所構わず不意に眠りこんでしまう奇病の持ち主で、「居眠り」と呼ばれる人物である。彼がそのような奇病にもかかわらず、閑職とはいえ、物書同心として勤められるのは、彼の人格と才能を認める上役や周囲の人々に支えられているからで、彼自身、様々な事件を彼のやり方で解決していく力をもっている。

 この作品は八話から成り立っているが、それらが連携して、最後に、藤木紋蔵の父が殺された事件の謎を解くという方向へと流れるようにできている。紋蔵は、父の死が一橋家と徳川家斉につながった事件であったことを地道な捜査で知っていくのであり、最後に、時の権力者である一橋家と南町奉行所との間で交わされた「密約」があったことを知るのである。

 藤木家には、すでに北町奉行所に勤めている長男と嫁に行った長女以外に、妻の里と次男の紋次郎、麦、妙の二人の娘の他に、ふとしたことで預かることになった文吉という子どもがいる。

 この文吉についての話が、「第一話 貰いっ子」と「第二話 へのへのもへじ」で、文吉の父遠庄助は、女郎屋の親父をしていた久兵衛を「無礼討ち」にしてしまったのである。藤木紋蔵は、上役に頼まれて、それが「無礼討ち」なのかどうかを調べるのだが、実は、昔、久兵衛が遠藤庄助の金を盗みだし、その怨恨もあったという事情を調べ上げ、遠藤庄助は、情状が酌量されて、罪一等を減じられて遠島になるのである。

 文吉は、藤木紋蔵を頼り、そのまま藤木家にいつくことになる。「紋蔵も里も、文吉が一緒に朝夕箱膳を並べていることに、やがてなんの違和感も抱かなくなった」(文庫版 54ページ)という結びの言葉が、まことにいい。

 圧巻は、その文吉を連れて遠島になる父親を見送りに行く場面で、紋蔵は文吉の手を引いて父親の前に立たせる。

 「遠藤庄助はぴくりとも表情を変えない。文吉もそうで、二人はしばらく睨み合っていて、やがて遠藤庄助は横付けされている小舟に目をやった。
 二人とも感激がないのではない。殺しているのだ。大人の遠藤庄助はともかく、わずか八つの文吉までが見事に感情を殺している。躾の問題だとは思うがそれにしても驚くばかりだった」(文庫版 115ページ)

 とあり、その文吉が、その後で行った料理屋の二階で、肩を震わせて泣くのである。そのくだりは、次のように表現されている。

 「お客さま」
 女が障子の向こうから声をかけ、源次が声を返す。
 「なんだ?」
 女は障子を開けて、声を細める。
 「お子が泣いておられます」
 「あっしが」
 源次が立とうとするのを手で制して、紋蔵は女に聞いた。
 「どこで?」
 「廊下の外れです」
 紋蔵は足音を忍ばせ、廊下を外に向かって角を曲った。
 突き当たりに円窓があり、どうやらそこから大川と海が見渡せるようで、文吉は外を見ながら、肩を激しく上下にゆすっていた。(文庫版 121ページ)

 藤木紋蔵は、情に厚い。「第七話 漆黒の闇」で、料理屋の美人「お裕」に思いを寄せられた時、彼自身も心憎からず思ってはいるが、奥方様のことがご心配でございますか」と言われ、「心配というより、居眠りのわたしを支えてくれたかけがえのない女房だ」という。「お裕」は「悔しい!」と返す。

 この会話にも藤木紋蔵の人柄がにじみ出ている。また、「悔しい!」という「お裕」も粋でいい女である。

 こうしたところが随所にあって、読ませる。

 佐藤雅美は、1994年に『恵比寿屋喜兵衛手控え』で直木賞を受賞し、『物書同心居眠り紋蔵』のシリーズは、1998年にNHKでテレビドラマ化されたとのこと。残念ながら、その頃は西洋哲学書ばかり読んでいて、時代小説にほとんど関心がなかったために、このテレビドラマのことは全く知らなかった。今思えば、おしいことをした。

 今日はこれから大江健三郎についての話をまとめる作業に入ろうと思う。来週の月曜日に話をしなければならないので、レジメも作成する必要があるから。仕事も少したまっているし、図書館にもゆったりと出かけたい。ただ、相変わらず貧しくはあるが、こんな日常も悪くはないと思ったりする。

2009年11月9日月曜日

北原亞以子『夜の明けるまで 深川澪通り木戸番小屋』

 朝は少し雲が覆っていたのだが、今はよく晴れている。押し入れから掛け布団を出して来て陽に干したり、洗面所やトイレに敷いているマットを洗ったりした。身体の不調はいつもの通りではあるが、昨日、大岡山に出かけたりしたので、少々疲れも覚える。

 大岡山は理系のメッカである東京工業大学がある町で、大井町線の駅の前がきれいに整備されているが、商店街は古いままに残されており、時間があればぶらぶらするのもよいかもしれない。ただ、残念がら、大岡山に行く時はいつも予定が詰まっていて素通りするだけである。

 昨日中に北原亞以子『夜の明けるまで 深川澪通り木戸番小屋』(2004年 講談社)を読んでしまおうと思い、夕方に読み終わった。これは、このシリーズの4作目だろうと思うが、深川中島町の澪通りにある木戸番の夫婦、古武士の風貌をもちながらも穏やかな笑兵衛と、肥ってはいるが上品な品格をもち、いつもころころとよく笑う女房のお捨ての中年夫婦の人情に触れ、慰めと励ましを受けていく人々の物語である。

 この『夜の明けるまで』は、「第一話 女のしごと」、「第二話 初恋」、「第三話 こぼれた水」、「第四話 いのち」、「第五話 夜の明けるまで」、「第六話 絆」、「第七話 奈落の底」、「第八話 ぐず」の八話から成り立っているが、いずれも、木戸番夫婦の何気ない温かみを頼りにしている人たちの話で、第一話は、下練馬で貧しい雑貨屋の娘として生まれ、江戸に出てきて料理屋で働き、気楽な生活をすることを望んでいた「おもよ」が、友人で身勝手な「お艶」の開店した店で働くことになるが、「お艶」ばかりが大事にされたりして、次第に自分の存在感を失っていく。しかし、木戸番小屋のお捨てとの何気ない会話の中で、日々の暮らしの中で生きていくことこそ意味があることをじんわりと知っていく、という話である。

 「第二話 初恋」は、木戸番小屋に始終顔を出す差配の弥太右衛門の「いろは長屋」に越してきた労咳の亭主「年松」と明らかに武家育ちとわかる妻の「紫野」の話で、「紫野」は、16歳の時、かつて自分の生家の窮状を救うために300両で真綿問屋甲州屋広太郎のもとへ嫁いだが、広太郎の女遊びの激しさと舅、姑の仕打ち、「金で買われた嫁」という店の者の冷たい視線や仕打ちなどに耐えきれず、自分の下駄の鼻緒をすげてくれた職人の「年松」の優しさに触れて、彼のもとへ逃げだした女である。

 年松は、ついに労咳で死ぬが、復縁を迫る甲州屋や兄や周囲の者の反対を押し切って、「紫野」は、そのまま「いろは長屋」に住むことを決意する。

 「第三話 こぼれた水」は、美男とはほど遠い顔つきをした釘鉄問屋近江屋山左衛門が木戸番小屋の近くに越してきた美人でしっかり者の「お京」と浮気をしているのではないかと案じた女房の「お加世」が、さんざん迷った末に、「お前さんの女房はわたしです」といって立ち直る話である。

 「第四話 いのち」は、火事で前途ある若侍から命を助けられた五十四歳で遊女の繕い物をして暮らしていた「おせい」が、自分を助けて死んでしまった前途ある若侍に比べて、年寄りで何のとりえもない自分が助けられたことを悔やみ、また周囲からもそう言われたりして、木戸番小屋に身を寄せて介抱されることになり、お捨ての働きで救われていく、という話である。

 「第五話 夜の明けるまで」は、木戸番小屋の前にある自身番で書き役をしている貧しい太九郎が、五つになる子どもを抱えて仕立物をしている貧しい「おいと」と夫婦になりたいと願うが、「おいと」は、前の亭主をはじめとするこれまでの人々の表裏のある姿をいやというほど見せられて、しかも、前の亭主の女癖の悪い舅が自分の部屋に入って来たりして、離縁してきた女だった。太九一は「おいと」と夫婦約束をするが、太九郎が病気で寝込んだ時に、同じ長屋に住む「おまち」を嫁にと世話をする人が「おまち」を看病にやったりしたのを知って、誰も信じられないと閉じこもってしまう。

 しかし、外に出た時、木戸番の笑兵衛と出会い、太九郎が絶えずうわごとで「おいとさん、佐吉(子ども)」と名前を呼び続けていたことを聞かされ、「自分が一人でねじくれていた」ことに気がつく。笑兵衛は、おいとと佐吉を木戸番小屋へ誘う。

 「第六話 絆」は、木戸番小屋へ時々顔を出す駒右衛門が、昔自分が捨てた子どもが一緒に暮らしてもいいといってくれたことにまつわる話で、駒右衛門は、昔、材木問屋を営んで羽振りが良く、その時茶屋女を囲って「おるい」という子どもを産ませていた。しかし、商売がうまくいかなくなり、その女と子どもを捨てた。借金も増え、女房も母親も死に、残った家作で細々と暮らしをすることになった。そんな時、かつて捨てた「おるい」が亭主と共にやって来て、一緒に暮らすことを提案したのである。
だが、「おるい」の心情は、かつて自分たち親子を捨て、そのために母親を亡くし、体まで売ってきたことに対する復讐だった。駒右衛門は、それを知りつつ、自分の唯一の生計である家作を「おるい」に譲り、これから「おるい」が暮らしていければ、それでいい、と言う。「おるい」は、その父親の心情に打たれて、家作を手に入れて逃げようとする亭主の刃から父親を守る。

 「第七話 奈落の底」は、蕎麦屋の和田屋の女房に恨みを抱く幼友達の「おたつ」が、その仕返しをしようと企むが失敗する話である。「おたつ」は、かつてどうしてもお金が必要になって、昔馴染みの和田屋の女房を訪ねるが、相手にしてもらえなかったことを逆恨みして、まじめな荷揚げ人足をしている三郎助をつかって和田屋でひと騒動起こそうとするが、三郎助は、和田屋にも「おたつ」にも迷惑をかけたくないと思って失敗する。なじる「おたつ」に三郎助は言う。

 「ついこの間まで、女の人の中では、木戸番小屋のお捨てさんが一番好きだったんだけど、今はあの、おたつさんが一番好きだ」
 俺は、一文なしで江戸へ出てきた、と三郎助は言った。眠る場所を探しているうちに道に迷い、空腹に耐えきれなくなって蹲った。目の前に町木戸があったことと、恰幅の良い男がその木戸の前に立っていたことのほかは、霞がかかってしまったように記憶が消えている。
・・・・・・・・
 すでに床についていたお捨が、わざわざ七輪に火を起こして粥をつくり、まだ明かりのついていた炭屋からたまごをもらってきてくれたのだそうだ。
 「見ず知らずの人間のため一所懸命になってくれる人もいるもんだ、そう思いました。ほかにはいねえだろうと思っていたんだけれど、おたつさんがいた」(209ページ)

 「弥太右衛門さんから笑兵衛さんとお捨さんの話を聞いた時、俺あ、ほんとうに嬉しかった。だって、お捨さんは眠っていたのに起きてくれて、七輪で粥をつくってくれたんですよ。はじめて人にかまってもらえたと思ったら、涙が出た」(211ページ)

 この話を聞いて、「おたつ」も思い返す。

 「第八話 ぐず」は、鰹節問屋の大須賀屋林三郎の女房だった「おすず」は、亭主の林三郎の女遊びが激しく、舅も姑もそれを鼓舞するような家で暮らすことが耐えらず、暴力も振るわれていた中で、台所の隅で泣いていた時、出入りの指物師与吉に「御気分でもわるいのですか」と声をかけられたのを機に与吉と深い仲になってしまい、婚家を離縁されてしまい、深川熊井町でひとりで絵草子屋を営んで、時折、木戸番小屋の夫婦を訪ねる生活をしている。

 彼女は、離縁され実家に戻された時、二度と与吉にあってはならないと彼女の面倒をみる兄から釘を刺されていた。しかし、家を飛び出すつもりでいた。与吉は、昼過ぎまで待ち、夕暮れまで待ち、さらに夜更けまで「おすず」を待っていた。だが、「おすず」は迷い、ついに飛び出さずに、兄の世話で絵草子屋を営むことになったのである。

 それから十五年の月日が流れた。元の亭主の林三郎が「おすず」の実家の金を目当てに復縁を迫ってきた。しかし、彼女はそれを受けつけない。彼女は後悔していた。なぜ、与吉の元へ行かなかったのだろうか、と。その心情が、次の文章ににじみ出ている。

 「おすずは爪を噛みながら、はこべや車前草が生えている空き地をみた」(232ページ)

 「爪を噛み、空き地をみる」まことに巧みな描写である。

 元の亭主に復縁を迫られ、今度こそは間違えないと思って、「おすず」は与吉を探すことを決意し、あちらこちらを訪ねて探しだす。

 与吉は、もう、髪に白いものが混じり、昔の面影はない。「おすず」は、羽目板の陰からその様子を見る。そして、そこから思い切って訪ねるのである。

 「おすずが羽目板の陰から出ると、その気配に与吉が顔を上げた。おすずは、障子に手をかけて、蹲ってしまいそうな軀をささえた。与吉の顔が、わずかにゆがんだ。
 「おすずさんか」
 「上がっても、いい?」
 もう立ってはいられない。上がらせてもらえなければ、出入り口で蹲って泣き出しそうだった。
 「待っていたんだ、ずっと」(238-239ページ)

 まったく泣かせる場面である。ただひたむきに、ひたむきに生きようとする人間の姿が描かれる。それが、自分の欲と保身のために策略を練る元の亭主と対比されて描かれるところがいい。

 策略を練り、計略を立てて、野心をもち、人生の設計をし、成功を求めて、うまくごまかしながら生きることよりも、単純で、素朴で、ひたむきであることの方が、はるかに価値がある。この作品は、それをしみじみと覚えさせてくれる。

 ただ、同じシリーズでも、『夜の明けるまで』は、たとえば前に書いた『燈ともし頃』よりも、木戸番夫婦の笑兵衛とお捨との関わりの描き方が少なく、木戸番夫婦の姿を描き出すと言うよりも、その周辺で生きる人々に焦点が当てられているために、せっかくの木戸番夫婦の姿が迫力をもって見えにくいということがあるように思える。そのために、それらの人々が木戸番夫婦によって励まされていくリアリティが「第七話 奈落の底」以外の作品にはあまり感じられなくなっている。その点が、木戸番夫婦のあり方に心を打たれているわたしのような人間には、少し物足りなく感じられるのである。

 とは言え、このシリーズが傑作であることは間違いない。構成も、筆運びも、真に見事であり、心情が込められる情景の描き方も素晴らしい。

 昨日、山内図書館に行くつもりでいたが、今日もついに時間がとれずに、明日、たぶん天気が崩れるかもしれないが、出かけることにする。コーヒーも切れてきたので買ってきたい。明日は、都内で一つ予定があるのだが、どうも気が進まない。都内に出るのはほんとうに億劫になっている。

2009年11月7日土曜日

北原亞以子『その夜の雪』

 目覚めた時は雲が薄く広がって、少し肌寒く感じたが、午後からは秋空が広がるのだろう。予報では、晴天であった。

 今日は立冬で、これからは初冬というのがふさわしいのかもしれない。人間の気持ちが重くなる季節の始まりではある。

 昨夜、「焼きサバを上にのせたお寿司」という珍しいお寿司をいただいた。生の新鮮なサバかシメサバが上に乗っている「サバ寿司」は、何度も食べたことはあるが、これは初めてだったのでとても美味しくいただくことができた。戴き物で、東急の袋に入っていたので、東急青葉台店で売っているものだろう。今度自分で買いに行ってみようと思う。

 昨夜、北原亞以子『その夜の雪』(1994年 新潮社 1997年 新潮文庫)を読んだ。ここには、「うさぎ」、「その夜の雪」、「吹きだまり」、「橋を渡って」、「夜鷹蕎麦十六文」、「侘助」、「束の間の話」と題する短編が七編おさめられている。このうちの表題作ともなっている「その夜の雪」は、『慶次郎縁側日記』としてシリーズ化されるものの最初のくだりで、「仏の慶次郎」と呼ばれた人情同心慶次郎が、その愛娘の三千代を失ってしまう時の話である。三千代はふとしたことで暴漢に襲われ、自ら死を遂げ、親ひとり子ひとりで暮らし、ようやく婚約も整って引退を控えていた慶次郎はその犯人を追い、これを探しだすが、ついに、その振り上げた刀をおとすことができなかった。そんな慶次郎の姿を見事な構成と文体で描き出したものである。このシリーズは、以前、ほとんど読んでいたが、改めて北原亞以子の構成の巧みさと飾らないが、しかしじんわりと人間を感じさせる文章を感じた。『その夜の雪』に収められている作品には無理がない。無理がないくらいに何度も練られたものであるだろう。

 「うさぎ」は、男を作って乳飲み子を捨てた元の女房が江戸へ戻って来て、独りで苦労して育てた愛娘が、その母親と会い、母親の方へ気持ちを傾けていくことを知って、孤独を感じ続ける摺り師の峯吉が、ふとしたことで子どもを産めずに離縁されて孤独を噛みしめている縄暖簾(居酒屋で、時には売春もした)で働いている女「お俊」と出会い(「お俊」は、孤独に耐えきれずに子どもをかどわかそうとした)、その「お俊」がうさぎを飼い始めることを知る、という話である。

 何の変哲もない話であるが、孤独を噛みしめて生きなければならない人間の心情が、「うさぎを飼う」ことに巧みに表わされている。「うさぎ」は、淋しさで死ぬこともあると聞いたことがある。本当かどうかは別にして、わたしにも、それがよくわかる。

 「吹きだまり」は、左官の日傭取り(日雇人足)の貧しい暮らしをしている作蔵が爪に火を灯すようにして貯めた金をもって、温泉宿で有名な「春江亭」という料理屋に古金問屋の若旦那と称して行き、そこで働いている女中の「おみち」の窮状を知って、そのためた金を差し出す、という話である。この話の終わりが次のように結んである。

 「俺も二十五か」
 呟いた言葉が部屋に響いた。
 作蔵は、両手で自分の肩を抱いた。寒くてならなかった。
 「お待たせしました」
 酒を持ってきたらしいおみちの声が、ひっそりと聞こえた。(文庫版 139ページ)

 こういう結末は、本当に泣かせる。そして、再び元の貧乏暮らしに戻らなければならない作蔵の姿が目に浮かぶ。ひっそりと、寒さに肩を震わせながら、人は生きていかなければならない。北原亞以子は、そういう人間を慈しむのだろう。市井ものの時代小説の良さが、ここに凝縮されている。
 
 「橋を渡って」は、深川佐賀町の干鰯問屋の妻「おりき」が、夫の浮気を知り、忍耐して耐えようとするが、「お前のことは有難いと思っているよ。でも、女にかまけていたら、わたしが駄目になっちまう・・・」(文庫版 161-162ページ)という言葉を聞き、自分がとるに足りないものとして扱われていることを実感して、その家を密かに出て、口入れ屋(仕事斡旋所)に向かう、という話である。この作品は構成が巧みで、「おりき」の弟夫婦の浮気事件と「おりき」夫の浮気が対比的に語られることによって、いっそう「おりき」の孤独が浮かび上がる。

 人は、自らの孤独を自ら噛みしめながら生きていかなければならない。それは当り前のことかもしれないが、その当り前のことが「とてつもなく淋しくつらく」感じられる時がある。ここに収められている短編は、その淋しさとつらさを謳ったものである。

 「夜鷹蕎麦十六文」は、噺家で、初代志ん生(もっとも、文末の作者注で、初代志ん生は設定されている時代には他界していたが、あえて、登場させたとある)の前座を務める「かん生」が、自ら真打ちにはなれないことを自覚しながら、一時は、自分の芸も粋を心ざす思いも理解せずに、ねんねこ袢纏を着こんで赤ん坊を背負い、がっしりした大きな軀をした野暮を絵にかいたような女房「おちか」ではなく、粋な深川芸者で彼を贔屓にしている「染八」に魅かれていき、初代志ん生の芸には到底及ばないことを知って、慰めを求めて染八のところにも行ったりするが、「おちか」の思いに打たれていくという話である。

 粋な生活を求めて勝手気ままな暮らしをして留守をしている間に、女房の「おちか」は、生活のために茶飯屋で働かなければならなくなり、大家の喜右衛門に口説かれる。「あの亭主は何だね。まともな噺は喋れやしない。生涯、前座で終わっちまうよ」(文庫版 196ページ)と喜右衛門は「おちか」に言い、「あんな男にひっついていたら苦労するばかりだよ。わたしは、それを心配しているんだ」(文庫版 197ページ)と言う。しかし、「おちか」は、本当に貧乏して水ばかり飲まなければならなかった時に、「亭主は、草履を質に入れて、そのお金でわたしに夜鷹蕎麦を食べさせてくれたんだ」「女房に十六文の夜鷹蕎麦を二杯食べさせて、自分は空き腹を抱えて寄席へ行って、高座に上がったとたん、目をまわすばかがどこにいます。裸足で寄席へ出かけて、足に霜焼けをこしらえてくるとんまが、どこにいます」「これはりくつじゃありませんよ。大家さん、わたしゃ、あのとんまが好きでしょうがないんです」と言う(文庫版 198-199ページ)

 これを聞いて、「かん生」は、「あたしも、色が黒くって、男みたような軀つきの、野暮な女が好きだったんだ。ええ、あたしゃ野暮が大好きだよ。粋が何だってんだ、人情噺がどうしたってんだ」(文庫版 199ページ)と思う。そして、「かん生は、用水桶の陰りからそっと立ち上がった。空き腹のまま家に戻り、おちかの帰りを待つつもりだった」(文庫版 199ページ)で物語がくくられる。

 これは、読めば読むほど優れた短編だと思う。主人公の「かん生」と初代志ん生の対比も見事で、「かん生」という二流で終わらなければならない人間の悲哀がにじみ出ているし、粋だが功利的な深川芸者の染八と生活に追われている野暮な「おちか」の対比も見事で、そして、苦労を共にすることができる男女の思いも見事に描かれている。

 そして、「かん生」のような人間にはたくさん出会うし、自分自身もそうかもしれないと思ったりする。しかし、わたし自身は、残念ながら、本当に残念ながら、「おちか」のような女性には出会ったことはない。「おちか」は、自分の子どものおしめを代えるために平然と大店の店先を借りたりもする。彼女の内情の豊かさが、彼女を一所懸命な素直な女として現わされている。だから、この短編がよけいに身にしみる。以前、「自分が好きな人が世界で一番美しい人ですよ」と言われたことがあるが、本当にそうだと思う。

 こういう男と女の姿を、飾らない、しかしよく練られた文体で、しかも構成の見事さで描き出すこの作品は、真に優れた市井物の小説である、とつくづく思う。

 「侘助」の主人公杢助は、以前は日本橋の呉服問屋の手代としてまじめに一所懸命陰日向なく働いていたが、札付きの遊び人で他の男の子を身ごもっている「おそめ」を、古着屋を出してもらえるという条件でもらい、なんとか頑張ってきたが、その「おそめ」が以前の男と駆け落ちをし、自分の店でも存在感をなくし、すべてを捨てて、死んだようになって「物もらい」として生活をしている。その杢助のところに、以前の自分の店で働いていた「おげん」という女がころがりこんでくる。「おげん」は、自分は娘夫婦に世話になって幸せに暮らしていると言うが、実は親戚や知り合いの家に泊まっては、その家から金銭を盗んで暮らしていた孤独でさびしい境遇だった。杢助は、自分の「物もらい」としての生活もたちゆかなくなることを知りつつも、そして、「おげん」が自分のなけなしで貯めた小金を取ろうとしたことも知りつつ、その「おげん」と共に暮らすことにする。

 「おげんが池のほとりを指さした。見ると、松にかこまれた小さな椿が薄赤い花を咲かせている。
 杢助は、ひっそりと咲く花を眺め、泣いているらしいおげんの肩を眺めた。丸くて、厚みのある肩だった」(文庫版 233ページ)

 と描かれている光景がたまらない。こういう感性が、本当にすごいなぁ、と思う。

 「束の間の話」は、鼈甲細工の職人である息子夫婦と暮らしていた「おしま」が、その息子夫婦が嫁の実家ばかりを大切にするのに嫌気がさして、その家を出て、ひとり暮らしを始め、ついに高熱を出して寝込んだ時、同じように息子から馬鹿にされて一文の金もなくなった源七が盗みに入って、その「おしま」を看病し、人と人とが触れ合って生きることのありがたさと喜びを知っていく、という話である。

 この短編も構成がすばらしく、ひとりぼっちになった「おしま」の後悔や、息子に頼ろうとする母親の心情やわがまま、そして、ひとり暮らしで病んだ時のわびしさが描かれ、同じ貧乏長屋に住む隣の夫婦の喧嘩が挿入され、その姿が見事に描き出されている。

 この『その夜の雪』に収録されている短編は、その構成が見事である。無理のない仕方でそれぞれの人物の生活と生きる姿が描き出されている。「ゲラ刷りが真っ赤になる」と言われたそうだが、真に納得である。

 なんだかんだと気ぜわしい日常が続いているが、寂寞感が大きくなるとともに、怠け心が大きくなってきているのを覚えてしまう。自分を叱咤しなければ動けないのかもしれない。

2009年11月6日金曜日

諸田玲子『月を吐く』

 空気が晩秋の爽やかさに満たされている。しかし、さわやかな空気とは別に、相変わらず、往来する車の音はやかましい。車と言えば、先日、とうとうわたしの車が動かなくなり、バッテリーの交換をしたりして、ようやく走るには走るようにはなった。もう19年以上も前の古い車で、エコカー減税というのもあるし、走行距離も20万キロメートルを越えているので、そろそろ変え時ではあるが、せめてあと1年くらいはもってほしい。

 昨日から引き続いて諸田玲子『月を吐く』(2001年 集英社 2003年 集英社文庫)を読んでいるが、なかなか進まない。この作品は、先の『お鳥見女房』とは全く傾向を異にした歴史上の人物を取り上げた比較的シリアスな作品であり、歴史小説の体を取りつつ、ひとりの女性の生涯を描いたものである。

 なかなか読み進まない理由の一つは、もちろん、これが大きいのだが、こちらの体調が思わしくなく、集中力も想像力も欠いているからであるが、もう一つには、ここで取り上げられている人物に対して、元々あまり関心がわかなかったということにもよる。

 作中の人物は、「築山殿」と呼ばれた徳川家康の正室「瀬名」で、彼女の幼少期から死に至るまでが描かれている。「瀬名」は、今川義元の姪で、その重臣関口刑部少輔親永(ちかなが)の娘であり、歴史的には、今川家の人質となっていた松平元康(徳川家康)と政略結婚させられ、嫡男竹千代(後の信康)と亀姫を産むが、徳川家内部の勢力争いもあって、信康は、武田家と内通した疑いをかけられ、織田信長の命によって、家康は信康と瀬名を殺害したのである。

 諸田玲子は、この瀬名を描くにあたって、彼女が幼少のころから恋い慕っていた高橋広親(ひろちか)なる人物を登場させ、時代と状況に翻弄されながらも自らの恋心を胸の奥に秘めて生き、そして、最後に、家康によって殺されたのではなく、替え玉を立てられて生き伸び、広親の生まれ育った吐月峰の比久尼屋敷で生涯を終えたという筋立てにしている。そして、家康の母「於大(おだい)」と元康の嫁で、織田信長の娘であった「五徳姫」との嫁姑関係が、それぞれの勢力争いと軋轢を展開する中で、なんとか自分の居場所を確保しようと悪戦苦闘する女性として描いている。

 男であれ女であれ、あるいは小さな家の中であれ組織や国家の中であれ、勢力争いをする者には、同じように勢力争いをする者たちが集まってくる。徳川家康自身がその最たる者である以上、彼のまわりには常に醜い勢力争いがつきまとう。諸田玲子は、「瀬名」は言うまでもなく、家康にしてもその母「於大」にしても、比較的好意的に描いているが、その実態には権謀術策が限りなく展開される。人間の歴史がこうして織りなされてきたことは事実である。

 ただ、今川義元、織田信長、徳川家康といった戦国時代後半の群雄割拠した時代の中で、それぞれの場で権謀術策が、小さくはお家騒動から大きくは国取りに至るまで展開される状況下で、自分の愛を胸に秘めながらも生きた一人の女性として「瀬名」を描き出し、歴史的通説とは異なったロマンの成就を描き出そうとしているのが、この作品であるだろうと思う。

 前にも書いたと思うが、諸田玲子は、人間が、欲望と絶望をもち、願いと諦めをもち、どうすることもできない状況に生きなければならない姿を赤裸々にするし、この作品も、「築山殿」と呼ばれた徳川家康の正室「瀬名」の姿を通して、彼女の周囲にいた人々を含めて、そうした姿を赤裸々に描いたものである。

 作品は歴史的考証も変わらずしっかりしているし、広親をめぐる人間関係も物語の綾をなすものとして興味深い。今川家が崩壊していく過程も、それなりの重みがある。ただ、個人的な好みからいえば、たとえそれがどんなに小さなものであれ、勢力争いし、保身を図る人間は心底嫌いである。歴史と人生が状況に翻弄されるものであれ、いわゆる「政治」からは縁遠いところにいたいと思っていたし、思い続けるわたしにとって、こうした人間は、理解しても理解したくない。歴史小説は、そうした個人の好みに依存しているところが大きいので、題材の選択が難しいのだろうと思う。

 諸田玲子には、家康の周辺の人物を取り扱った作品がいくつかあるが、たぶん、彼女が静岡県の出身であることも、その理由にあるのかもしれないと思ったりもする。

 今日は、仕事もたまっていることだし、それを少しかたづけて、今夜は北原亞以子の作品を読もう。

2009年11月5日木曜日

諸田玲子『お鳥見女房』

 予報では、今日あたりからまた気温が少し戻るということだったが、晴れたり曇ったりの肌寒い日になった。思えば、もう霜月なのだから当然かもしれない。

 昨日の夕方、仕事上の郵便物を出すついでに「あざみ野」まで出かけ、コーヒー豆や薬局で日用品を買ってきた。日用品を買うのは、わたしのような人間とっては、どれがいいかわからずに一苦労である。

 一昨日、大根を葉ごといただいたので、今日は、その大根の葉の炒めものでも作ろうかと思う。このところ少し仕事が立て込んでいるので、肉体が養生を強要しているが、昨夜、諸田玲子『お鳥見女房』(2001年 新潮社 2005年 新潮文庫)を読んだ。この作品はシリーズになっていて、先にこのシリーズの『蛍の行方』、『鷹姫さま』、『狐狸の恋』などを読んでいたので、このシリーズの第1作目である本作品を読んだときは、フィルムが巻き戻されるようなフィードバックの思いがした。このシリーズの作品は、とにかく、面白く、そして、温かい。諸田玲子の他のシリアスな著作とは異なって、文体自体もふっくらしている。

 物語は、天保の改革(天保12-14 1841-1843年)を行った水野忠邦(1794-1851年)が老中となっていることから、おそらく、天保年間のこととして設定され、将軍家の鷹狩に際して、その鷹の餌となる鳥の棲息状況を調べる役職である「お鳥見」を代々務める矢島家の人々の姿を中心に描かれるが、「お鳥見」としての夫の仕事や子どもたちの成長、そして矢島家にかかわった人々を温かく見守る主婦「珠世」の姿が生き生きと描かれる。

 珠世は、「格子縞の小袖に柿色の昼夜帯をしめ、髪を地味な島田髷に結っている。小柄で華奢なのにふくよかな印象があるのは、丸みを帯びた体つきのせいだ。丸顔に明るい目許、ふっくらとした唇。珠世はよく笑う。笑うと両頬にくっきりとえくぼが刻まれる。そのせいで歳より若く見えるが、二十三を頭に四人の子持ちである」(文庫版10-11ページ)と描かれる。

 この矢島家には、婿養子として入った夫の伴之助、見習い役として出仕している嫡男の久太郎、剣の修行に励む次男の久之助、次女の君江、隠居している父の久右衛門の六人が暮らし、雑司ケ谷にある七十坪ほどの役宅には、時折、すでに旗本に嫁いでいる長女の幸江が子どもの新太郎をつれて遊びに来る。

 矢島家は八十俵五人扶持で、十八両の伝馬金(役職手当)が出、嫡男久太郎にも十人扶持、十八両の伝馬金が出ているので、日々の暮らしには困らないだろうが、決して豊かではない。しかし、「お鳥見」は、表の仕事とは別に、幕府の密偵としての裏の仕事もあり、やがて、夫の伴之助がその裏の仕事で沼津へ行き、行くえ不明になるという出来事を抱えることになる。

 この矢島家に、ほんのわずかなかかわりから、浪々の身に身を落としている石塚源太夫と五人の子供たち(源太郎、源次郎、里、秋、雪)が居候することになり、また、源太夫を父の敵とする女剣士沢井多津も同居することになり、都合十三名が暮らすことになる。家計は逼迫していく。しかし、それを受け入れる珠世の姿が次のように記される。

 「珠世は苦笑した。今さら迷惑もないものである。すでに五カ月余り、源太夫父子は矢島家に居座り、米、味噌、醤油、ことごとく空にした上に、家のなかを我がもの顔に飛びまわっている。
 もっとも、それを迷惑と厭う気持ちはなかった。米や味噌なら、なくなれば買い足せばいい。だが、人と人とのつながりは途切れればそれで終わり。その儚さを思えばこそ、せっかく結ばれた縁は大切に育まねばと思う」(文庫版 117ページ)

 珠世自身が、石塚家の五人の子供たちのくったくのなさや素直さ、信頼を寄せる心に救われていく。そして、石塚源太夫と彼を敵とする沢井多津の心も、矢島家で珠世と暮らすうちに和み、ついに二人は夫婦となる。

 「どしゃぶりでも、お内儀のそばにおれば雨がかからぬ。冬も火桶がいらぬ。年中笑いが絶えぬそうな。ほれほれ、ことにそのえくぼは絶品。まこと天女のごときお方じゃと…」(文庫版 231ページ)と源太夫は仕官口をもってきた松前藩の工藤伊三衛門に語ったとある。

 果し合いで父を殺した源太夫と真剣勝負だけを考えていた多津は、心が騒ぎ、怯えつつ矢島家に帰ってきた時に、「多津ねえちゃーん」、「お帰りーっ」と源太夫の子どもたちに迎えられた時、「門前で遊んでいた里と秋が手を振りながら駆けて来た。自分を待っていてくれる人がいるというのは、なんと心温まるものか」と実感していく。そして、次第に、大らかで屈託がなく、心やさしい源太夫にひかれていく。石塚源太夫は神道無念流の達人であるが、多津に斬られる覚悟をしている。

 こういう何でもない、しかし大切な温もりが、珠世を中心にした矢島家に満ちているのである。珠世は多津の背中をさすりながら、
 「己の心を偽ると、後々まで悔むことになりますよ」(258ページ)と言う。

 しかし、密命を帯びて沼津へ行った夫伴之助の行くえ不明が次第に深刻な影を矢島家に落としていくことになる。ついに、次男の久之助が、その父を探しに沼津へと出奔する。そして、多津との結婚を決め、ようやくにして松前藩に仕官が決まっていた石塚源太夫も、その仕官の口を辞退し、久之助の後を追って、伴之助の救出に向かうことになる。出立に際し、源太夫は珠世に言う。
 「お内儀。これまでの御厚情、生涯忘れぬ」

 「これまでの御厚情、生涯忘れぬ」という、この短い言葉には、石塚源太夫の万感の思いが込められた重みがあります。そういう経過が綴られているのである。「生涯忘れぬ」と言われても、現実的にはいつの間にか忘れられることがたくさんあり、現代の饒舌が言葉を羽毛のように軽く、塵や埃のように舞い落ちては散っていくものにしてしまっている感があるが、ここで語られている言葉は、人生のすべてをかけたような重い意味ある言葉となっている。『お鳥見女房』の言葉は、さらりと書いてあるようでも、そうした重みのある深い言葉が成り立つ人間関係が描かれている。

 こうした人間模様が、実に無理なく、描かれていく。この作品のおしまいのところで、諸田玲子は珠世の心情を次のように書いている。

 「楽しいことがあれば、辛いこともある。荷車の両輪のようにどちらも切り離せぬものなら、笑いながら引っ張ってゆくだけの気概を持ちたい」(文庫版 347ページ)

 そういう人間の姿を諸田玲子はこの作品で描き出そうとしているのだろうと思う。「おもしろうて、やがてせつなき」である。

2009年11月4日水曜日

藤原緋沙子『遠花火 見届け人秋月伊織事件帖』(2)、『春疾風 見届け人秋月伊織事件帖』

 昨夜、少々疲れを覚えていたが、藤原緋沙子『遠花火』を読み終え、同じシリーズの『春疾風 見届け人秋月伊織事件帖』(2006年 講談社 講談社文庫)を読み終えた。

 『遠花火』の第二話「麦笛」は、八州回りの役人野島金之助の私腹を肥やす奸計によって売り飛ばされた深川芸者の美濃吉と彼女に惚れていた呉服商「中村屋」の次男甚之助が殺され、その事件を、秋月伊織を中心にした「見届け人」たちが解決していく物語である。

 その事件の探索の過程で、殺された美濃吉を雇っていた深川の料理茶屋尾花屋の女将に、秋月伊織が次のように言って、美濃吉の背後関係を聞き出す場面がある。

 「女将、ここで働く女子たちは、皆女将のその心一つを頼りにして働いているのではないか」(136ページ)

 料理茶屋の女将は、この言葉で、美濃吉の背後にいた野島金之助について話すのである。「心ひとつを頼りにして働く」あるいは「生きる」というこの関係は、時代小説の中では主従関係であれ何であれ、深い信頼に基づいた関係として取り上げられるテーマである。ドイツ語のゲマイン・シャフト(Gemeinschaft)という言葉を、ふと、思い起こす。言うまでもなく、悪事を企む野島金之助とその仲間たちはゲゼル・シャフト(Gesellschaft)で生きる人間たちであり、見届け人たちはゲマイン・シャフトで生きる人間たちである。このシリーズは、そうした「心で生きる人々」の物語でもある。だから、面白い。

 第三話「草を摘む人」は、出世と金にしか目がなく、領地の百姓を絞れるだけ絞り取っていた北信濃の代官桑山修理の奥方美世が、そのあまりの非道ぶりから逃げだし、秀蓮尼と名を変え密かに暮していたが、夫の修理の出世の目論見と保身から命を狙われるようになった事件に「見届け人」たちが関わる話である。

 第四話「夕顔」は、周防国(山口県)岩城藩の勘定組頭矢島貞蔵の計略によって、不義密通者とされ江戸へ逃げてきて朗々の生活を送り、病んで死の床にある小野木啓之助と、その小野木を助けるために遊里の中でも場末の裾継(すそつぎ)に「あやめ」という名で身を売っていた松乃を女敵打ちであるはずの元夫の本田永四郎が身請けをするという話から、勘定組頭矢島貞蔵が賄賂を強要していた紙問屋の「和泉屋」徳兵衛を殺すという事件に絡んで、見届け人たちが矢島貞蔵の悪事を暴いていくという話である。

 松乃は、不義密通者とされ江戸へ逃げてきたが、わびしい江戸の長屋住まいの中で、元夫への心を待ち続け、思い出の夕顔を育てている。元夫の本田永四郎も、松乃が好きだったという夕顔の花を育てている。そういう姿が描かれているが、「夕顔」というのが、わびしく、悲しく、つつましやかでよい。

 いずれの話も、物語の構成がしっかりしているし、意識的にひとつひとつの関連が配置されているので、見届け人の一人である土屋弦之助の浮気話やその妻多加の悋気、長吉夫婦の姿、秋月伊織に密かに思いを寄せるお藤などのエピソードも盛られていて面白く読んだ。

 『春疾風 見届け人秋月伊織事件帖』は、このシリーズの3作目ではないかと思うが、先の『遠花火』よりもさらに文章が練られていて、すっきりしている。これも四話構成で、第一話「寒紅」は、両国の団子屋で売り子をしている「お波」と、播磨国(兵庫県)小原藩での内紛で浪人し、筆作りをしている原田淳一郎、原田淳一郎の元上司で、これもうらぶれた浪々の生活を強いられ、余命いくばくもない病んだ妻の薬代に窮し、ついには強盗の手先として雇われた栗原平助などの、どうすることもできない状況の中で苦闘しなければならない人間の姿を描き出し、江戸で起こった残虐な強盗殺人事件を「見届け人」たちが解決していく話である。

 「お波」は、かつて、「寒紅」という高価な紅を万引きし、それを原田淳一郎に助けられ、それから彼を慕い、彼のために生きようとしている女性であるが、強盗のひとりであった弥太郎の仲間と間違えられて金で雇われた栗原平助に斬り殺される。栗原平助は、妻のために原田淳一郎から十両の金を借り、その返済のために強盗の手先として雇われる。原田淳一郎は、新しく作ることを依頼された筆の材料費のためにその十両をもらっていたのだが、かつての上役の窮状を見かねてその金を差し出す。しかし、筆作りの話が取りやめになり、その十両を返却しなければならない。

 「悲しみの因果」というものがあるとしたら、この三人は、その金のために「悲しみの因果」の中にある。だから、作者の目は、登場人物に対して限りなく優しい。

 第二話「薄氷」は、あくどい商売をする酒屋「伊勢屋」のために店を潰された「越後屋」の嘉助が汗と泥にまみれた浮浪の生活の後、寺の墓地で凍死するという悲惨な出来事に出くわした秋月伊織が、伊勢屋で起こっていた放火事件を調べることになり、伊勢屋につぶされた越後屋に育てられ、実子のように可愛がられた捨子の与之助が放火犯であることを知る。秋月伊織たち見届け人は、なんとか与之助を助けようとするが、与之助は、ついに、放火犯として捕えられてしまう、という話である。

 与之助が自分を可愛がって育ててくれた嘉助の恨みを晴らそうと嘉平が眠る墓地で最後の決意をする場面で、次のような描写がある。

 「与之助は、つとめて平然としていつものように水汲み場に向かった。
 水汲み場には二尺四方ほどの石船が据えてあり、水はこの石船から桶に取り分けて墓地まで運ぶ。
 -おや・・・。
 石船に柄杓を差し入れようとして、与之助は微かな抵抗にあってその手を止めた。
 覗き込むと、うっすらと膜が張っている。
 薄氷だった。
 与之助は手をひっこめた。
 長い時間をかけてようやく張り付いた透明なその膜は、自分が越後屋で積み上げてきた商人としての何か、目に見えない希望というものを形にすれば、この薄氷のようなものではなかったかと、ふと思ったのである。
 与之助が築き上げてきたものは、越後屋が潰れるまでは、鋼のように固くて確かなものだと思っていた。
 ところがそれは、一瞬にして粉々になるような、頼りない代物だったのである。
 失意のうちにも一度は心を奮い立たせて、その残片を拾い集めてみたこともあった。だがそれは、もうけっしてもとの形に戻すことはできないのだという現実を、与之助は放浪の暮らしを通じて思い知らされたのである。
 いかに自分が、主の嘉助から温情を注いでもらっていたのかという事も、改めて知ったのであった。
 そんな自分の人生と重なる薄氷を、壊してしまうことが恐ろしくて与之助はふと、柄杓をひっこめたのである。
 だが、それも一瞬のこと、与之助は柄杓の頭でこつんと氷をつっついた。
 そこだけ穴をあければいい。遠慮がちに角を当てたが、氷はしゃりしゃりと音を立てて辺り一面割れてしまった。」(137-138ページ)

 この描写は、まことに見事であろう。物語全体が、ここに凝縮されている。そして、与之助の人生全体も。

 第三話「悲恋桜」は、かつて好き放題の乱暴を働いていた旗本真野鉄太郎を中心とする取り巻き連中が、無銭飲食で酔った勢いで、通りがかりの御小姓組の長田兵吉とその妻女、母に狼藉を働き、その事件によって江戸上追放になったのだが、いつの間にか江戸にもどり、再び、女をかどわかしては監禁して客を取らせるという悪事を働いていたのを「見届け人」たちが暴いていくという話である。

 母親と妻女に乱暴を働かれた長田兵吉も、妻女を守れぬ武士にあるまじき腰抜けとして改易(解雇)されていた。妻女の「かね」は、乱暴された者として世間からも実家からも冷たくあしらわれ、兵吉との間にできていた子菊之助を生んで、かつての長田家の中間だった友七のもとに身を寄せ、兵吉への思いを胸に暮らしている。兵吉は、何とか仇を討ち、汚名を返上したいと思って浪々の暮らしをしている。

 そういう事柄に、秋月伊織らが関わり、伊織は、及び腰ながらも極悪非道な真野鉄太郎に向かっていく兵吉に武士としての汚名を返上させる手助けをし、兵吉は、見事にそれを果たすが、自らも斬られて死ぬ。武家の力の倫理が規定する社会の中で、力のない者がどうすることもできないような苦境に追い込まれ、世間から冷たくされている者たちの姿がそこに織り込まれている。桜は、「かね」が夫への思いを重ねるために植えた木であり、死地に赴く夫の兵吉が妻と子へ残す思いである。その桜が、降るように散っていく。

 表題作ともなっている第四話「春疾風」は、貧しさゆえに場末の最下層の遊女屋である裾継に身を売らなければならなかった上野国(群馬県)の百姓の娘「おちよ」を探している幼馴染で元許嫁の畳職人伍助と出会った秋月伊織が、重税のために貧苦にあえいで、ついに岩花代官の勝本治兵衛を越訴(直接幕府に訴える)のために江戸へ来た「おちよ」の兄で伍助の親友でもあった与助らを助け、これを阻止しようと企む代官一味と戦い、その願いを手助けするという話である。

 この物語にも、裾継という場末の遊女屋で生きていかなければならないつらさと悲しみを背負っているが、そこを生き抜こうとする遊女の「おふく」という女性が登場するし、飢饉や干ばつに加えて重税であえぐ百姓たちの姿も描かれる。「見届け人」たちは、それらの心情にさりげなく触れていく。

 主人公の秋月伊織は幕府御目付役をしている秋月忠朗の実弟であり、越訴の手助けをすることは、その兄もただでは済まないことになる。しかし、伊織は、目の前で困窮している与助や伍助を見捨てることができず、兄に勘当を申し入れ、絶縁してから、彼らを助ける。伊織にとって、それは自分の生活を失うことである。しかし、伊織は、さらりとそれをやってのける。そこが、時代小説の面白いところ。伊織はこの出来事をきっかけに裏店の長屋住まいをすることになるが、伊織に思いを寄せているお藤は張り切る。

 『春疾風』は、『遠花火』以上に、作者の温かい目を感じる作品である。どうにもならない悲しみの中に追い込まれる人間の姿も、深く織り込まれている。『春疾風』を読んで、このシリーズの他のものも読みたくなった。

 今日は、資源ゴミの回収日になっているので、少し早起きをして、たまっている新聞紙や段ボールを整理して出したり、洗濯をしていた。気温はまだ低く、寒さを感じるがよく晴れている。気ぜわしい一日になりそうだが、仕事は仕事。

2009年11月3日火曜日

森真沙子『日本橋物語5 旅立ちの鐘』、藤原緋沙子『遠花火 見届け人秋月伊織事件帖』(1)

 昨日から寒気が南下してきて寒い日になった。多くのところで初雪が観察され、木枯らし1号も吹いたという。今日は、よく晴れているが風が冷たく寒い日になった。朝から忙しい日になりそうだ。昨夜、無理やりだらだらと食べ続けたので、体重が一気に2キログラムも増えてしまった。自制心のなさ、この上もないところではある。

 昨夜、眠れぬままに、八月に九州からこちらに来る飛行機の中で読もうと思って空港の売店で買い求めた森真沙子『日本橋物語5 旅立ちの鐘』(2009年 二見書房 二見時代小説文庫)を読む。

 この本は、『日本橋物語』というシリーズになっていて、日本橋で染物などを扱う店の美貌の女主人「お瑛」を主人公にして、そこで起こる様々な事件を解決していくミステリー仕立ての話で、『旅立ちの鐘』は、それぞれの時を刻む鐘の音が響く頃の事件が展開されるものである。

 ただ、残念なことに、この書物だけでは、主人公と彼女を取り巻く人々の人物像がはっきりしないし、事件も解決方法も込み入ったものではない。「お瑛」の店で働く番頭の市兵衛は、冷静で有能な番頭であり、棒術の免許皆伝の腕前という設定になって、いわば理想的な男性となっているが、この本の中ではその姿が浮かび上がらない。同居している義母の「お豊」は「寝たっきり」という設定であるが、これも、経験豊富で知識や心情の豊かな老女性という印象以外に、「寝たっきり」であることの悲しみや苦労も、それを看護しなければならないはずの「お瑛」の姿も浮かび上がってこない。

 もう一つ残念なことは、各章が「時の順」に並べられているのだが、そこに現在の時制での時間が括弧で示されていることである。江戸時代の時制は、夜明けと日暮れをそれぞれ「明け六つ」、「暮れ六つ」としてその間をほぼ2時間くらいずつに区切っていたし、従って、江戸の「六つ」と京都の「六つ」は、ほぼ1時間ぐらいの違いがあって、一概に、現在時間で何時というわけにはいかないことぐらいは、時代小説を書く人間なら誰でも知っていることである。それをわざわざ現在の標準時間で表記するのは何故だろうか、とつまらぬことを思ったりする。また、「スタスタとずいぶん早くお歩きだね」(224ページ)などの会話も、その多くが極めて現代的な言葉使いで書かれている。

 もちろん、娯楽小説として、物語の展開がきちんと進めばそれでいい、と言ってしまえばそれまでだが、時代考証も含めて、人物にも、もう少し思想性が欲しいところである。

 続いて、藤原緋沙子『遠花火 見届け人秋月伊織事件帖』(2005年 講談社 講談社文庫)を読んでいるが、なかなか進まない。これを読もうと思ったのは、この作者が小松左京の「創翔塾」という創作教室の出身とあったからで、小松左京(1931年-)は、日本を代表するSF作家であるが、高橋和巳(1931-1971年)の友人であり、なじみのあるところでは『復活の日』(1964年 早川書房)や『日本沈没』(1973年 光文社カッパ・ノベルス)などを面白く読んでいた。

 この小松左京の創作教室の出身なら、かなりしっかりした時代考証と社会検証の中で物語が進行していくだろうと思った次第である。

 物語は、今の神田見附あたりにかかっていた筋違橋から北に向かって伸びる御成道と呼ばれる道筋にある「だるま屋」という本屋の主人の「吉蔵」が、今でいう情報屋のような仕事をしており、この情報の真偽を確かめる「見届け人」として旗本の次男である秋月伊織や元目明しの長吉、浪人の土屋弦之助、吉蔵の姪のお藤などを中心にして事件の探索を行い、一つの事件ごとに一話が完結していくという筋立てとなっている。

 それにしても、最近の時代小説はこうした構成を取っているものが多い。おそらく、テレビドラマの制作の手法が大きな影響を与えているのかもしれない。テレビドラマは、時間内でひとつのエピソードが完結するように作られているのだから、それを意識して小説を構成する作風があるのかもしれない。したがって、登場人物の細かな心理描写もあまり必要とされないし、人生そのものを描き出すような長くて味のある小説も少なくなっている。ただ、この作品がそうだというのではない。この作品は、構成がしっかりしているので読みやすいし、人物の描写や会話も巧みである。

 とりわけ、同じような物語構成を先駆けた平岩弓枝(1932年―)の『御宿かわせみ』(1974年から始まって、現在なおも明治編が執筆中)や藤沢周平(1927-1997年)の多くの作品、池波正太郎(1923-1990年)などの作品は、一つ一つのエピソードを山場にもちながら、全体としても深い味わいがある。

 この作品は、まだ、読書の途中の段階であるし、一慨の批評などはあまり意味をもたないが、文体は洗練されてリズミカルであり、読みやすい。表題作ともなっている第一話「遠花火」は、女に騙された「あばた」顔の田舎侍柏木七十郎の話である。自己嫌悪の日々を送っていた柏木七十郎は、魂胆をもって言い寄って来た「おかね」という女に騙され、身の破滅に追い込まれる。見届け人たちがその事実を暴いていくのである。

 この話の結末部分に次のような一文がある。(吉蔵が伊織に事情を話す場面として)

 「柏木様は江戸にご出立の折に、庭に蜜柑の苗木を植えてこられたのだそうです。その蜜柑の木に実がなる頃には国に戻って来るとおふくろさまに約束していたようでございます。ところが一年が二年になり、二年が三年になり、定府の勤めになってしまって、蜜柑の苗木のことはすっかり忘れていたようです。それが、今度のお手紙ではその蜜柑に花が咲いたと書いてあったそうです。・・・・狭山様(柏木の友人)のお話では、柏木様のおふくろさまは歳のせいで目がよく見えなくなっているそうなのですが、そんなおふくろさまが蜜柑だけは枯らしてはならないと、手探りで水遣りをしてきたんじゃないかと、そう申されておりました。」(92ページ)

 こういう設定と会話が、わたしを懇情に喜ばせてくれる。柏木の母は義母である。時代小説は人間のよさを素朴に引き出す。この作品は、この最後の言葉で成功しているのかもしれない。ともあれ、続きを読もう。夕方出かけなければなrないので、電車の中で読む時間はたっぷりとれるだろう。

2009年10月31日土曜日

諸田玲子『仇花』(2)、大江健三郎『二百年の子供』

 先週来引いていた風邪がようやく治りかけてきた。少し咳は残っているが、比較的楽になった。ただ、回復力も落ちているので、何をするにも、余計に面倒くささを感じている。夜中に何度も目が覚めて困る。空気清浄機と加湿器と少しの暖房をつけて毛布にくるまって眠った。午前中、穏やかで老貴婦人の相貌をもたれているSさんがオルガンの相談に見えた時も、寝間着のままでボーとしていた。もっとも、家にいる時は、いつも、浴衣の寝間着かバスローブのままではある。

 昨夜、諸田玲子『仇花』の残り十数ページを読む。家康の側室「お六」の結末は、一説による日光参詣での頓死ではなく、「神隠し」を装って、一切を捨てて、慕い続けてきた千之助と共に世俗へ帰る計画が進行されているところでおわる。他方、江戸末期の「お六」の方は、桜田門外の変などの世相が混乱する中で、「自分は臆病者ゆえお六一人を守るのが精一杯だ」という亭主の千之助の言葉を受けて、「世の中なんかどうなろうと知ったことか。男は天下を取りたがる。山を崩して、海を埋め立て、お城を建てて・・・。あたしはいらない。高望みなんかするもんか。うだつのあがらぬ臆病者の亭主でたくさん。何度生まれ変わっても、やっぱりこの、ろくでもない裏店暮らしがいい」(389ページ)と思う。

 この江戸末期のお六の思いこそが、この作品の主題であり、そして、それこそが人間が生きることの大きな意味に違いないと、諸田玲子は語ろうとするのではないか。それこそが大事だ、とわたしは思う。

 諸田玲子は、人間が、欲望と絶望をもち、願いと諦めをもち、どうすることもできない状況に生きなければならない姿を赤裸々にする。それが、この作者の優れたところだとあらためて思う。

 昨夜、眠れぬままに大江健三郎『二百年の子供』(2003年 中央公論新社)を一気に読む。大江健三郎は、1994年にノーベル文学賞を受賞し、1995年に『燃え上がる緑の木』が最後の小説として完結したが、1999年に、1995年に地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教の事件を受けて、『宙返り』を出し、以後の作品を自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)と呼んでいるので、この作品は、その「後期の仕事」の中に位置づけられる作品である。この作品には、「2003年1月4日~10月25日読売新聞土曜日朝刊連載」の旨の奥付があるし、また、「永い間、それもかつてなく楽しみに準備しての,私の唯一のファンタジーです」というカバー書きがある。しかし、だからと言ってこれが「子ども向けのファンタジー」というわけでは決してないし、ある意味では、大江健三郎の作品はすべて、深い思想の施策をもったファンタジーであるに違いない、とわたしは思っている。

 物語は、作家で精神的な不安定さを抱える父親が母親と共にアメリカの大学に行くことになり、残された三人の子どもたちが、夏休みに、父親の故郷である四国の「森の家」で、故郷の伝承に従って、「童子」として時空を越えて冒険をするという話である。三人の子どもたちは、それぞれ、個性的で、長男の「真木」は、重い精神障害を抱えた、しかし、実直で、音楽に深い関心を示し、絶対音階をもつ子どもであり、長女の「あかり」は思いやりの深い、しかし、しっかりと三人をまとめていく子どもであり、中学校2年生として設定されている。次男の「朔(さく)」は聡明で、思慮深い子どもであり、一つ人との事柄をきちんと理解しようとする。

 初めに、この三人の子どもたちの特徴が、大江健三郎らしい仕方で、それぞれに紹介されている。それは、四国の「おばあちゃん」が2年前に最後に訪ねてきた時のお土産のお返しとして「いま好きな言葉」を言ってもらうという仕方で、長女の「あかり」は空色の6本の色鉛筆のお返しとして、「あんぜん」と言い、次男の「朔」は、植物図鑑のお返しとして、「むいみ」と言う。また、長男の「真木」は、おばあちゃんの描いた水彩画の入った紙箱のお返しとして「ながもち」と言う。

 こうした展開が大江健三郎らしいというのは、「言葉」が「実存」であるということ、また、人は実存の言葉を使うべきだということが明瞭に示されるからである。三人の子どもたちの言葉は、「実存そのもの」を表すものとなっている。これは、大江健三郎の作品すべての特徴でもあるし、それが「読みにくい」との印象も与えるものではあるが。

 物語は、おばあちゃんが「真木」にくれた水彩画を基に、おばあちゃんが亡くなった後で、三人の子どもたちが四国の「森の家」で、水彩画に描かれた所と人に時空を越えて会いに行くことで展開されていくが、ある意味で、この作品には大江健三郎がこれまで考えてきたことが見事に凝縮されていると言っても過言ではないような気がする。

 物語の一つ一つの場面は、それぞれ深い意味をもっているし、また、教育的でもある。初めに「真木」が、伝説が残されている「シイの木のうろ(「夢見る人」のタイムマシンと呼ぶ)」の中で眠り、亡くなったおばあちゃんに会いに行く。それは、おばあちゃんが亡くなる前にした「あいさつ」の言葉、「元気を出して死んでください!」と言う言葉を、おばあちゃんが亡くなる前にもう一度言ってくださいと言われた時に言うことができなかったので、その言葉を言うためである。

 言葉が深い意味をもつことがある。否、言葉は深い意味をもつべきで、「元気を出して死んでください」と言うのは、本当に深い意味をもつ言葉である。大江健三郎は、まず、そのことを語るのである。

 三人の子どもたちは、次に、「助けあって」(これもおばあちゃんが残した大事な言葉として使われる)、故郷の伝説の始まりとなったメイスケさんの事件に歴史を遡って行く。1864(元治1)年にメイスケさんを中心にして起こった「一揆」の場面に行くのである。「メイスケさんの伝説」は、大江健三郎の作品のいたるところで登場する。

 その場面に始まりのところで、国民学校の三年生だったパパが描いた「じつにひどい絵」が紹介される。それが「谷間と森」を描き、村を作った「大女」とメイスケさんの絵で、「世界の絵」と題されている。

「-「世界の絵」は日本列島を描いて・・・朝鮮半島も、台湾もカラフトの半分も入れて・・・そこから世界じゅうに「日の丸」が広がっている。当時はそれで正解だったんだ。
 パパは、谷間と森の言い伝えを描いて、先生を怒らせたのね。」(57ページ)

 それは、「世界とは何か」という問題への実存的な解答である。世界とは、地理上の広がりや物理的な宇宙を指すのではない。世界とは、常に、自分が生きている環境とその環境を作って来た歴史にほかならない。大江健三郎は、若い頃、サルトルの影響を受けているが、世界を実存的にとらえるという視点は、彼の全作品に通じている。人にとって、世界とは決して抽象ではなく、自分の周りの具体的な時間と空間の広がり、そこにある存在との関わりにほかならない。

 「シイの木のうろ(「夢見る人」のタイムマシン)は、そこで眠る子どもたちが「心から願う」ことで、子どもたちが見たかった世界へと連れていく(134ページなど)。そして、子どもは、「心から願う」ことにかけて、大人とは比べものにならない力をもっている。「心から願う」と言うことは、大江健三郎が使う「祈り」である。大江健三郎は「祈りの力」を大事にする。それがこの物語を構成している。

 146ページに、「父が、古い言葉に出会ったら、新しい言葉でどういうか、また外国語ではどうか確かめるのがいい、といった。朔はそれを守っているわけなのだ」という言葉がある。それは、言葉による経験を自己の存在の確証として自らのものにしていく精神的作業にほかならない。大江健三郎は、そういう精神的作業を大事にする作家でもある。おそらく、大江健三郎自身がそうした作業を繰り返してきたのだろうと思う。言葉には、過去と未来と広がりがある。それらを自分のものとして、自己の存在を確証していくのには、そうした作業が必要なのだ。大江健三郎は、そのことを、さりげなく、しかも教育的に語るのだろう。

 163-164ページには「復元力」という言葉が使われる。「人間にもさ、「復元力」の大きい、小さいがあると思う」という「朔」の言葉が記されている(164ページ)。これもまた、大江健三郎が自らの主題として考え続けてきた「恢復・回復」ということのひとつではないかと思う。172ページには「新しい人」という言葉も使われる。「新しい人」は、『燃え上がる緑の木』や『宙返り』で重要な意味をもつ概念である。「『新しい人』は、『新しい言葉』から作られる」という。それは、三人組が日本で最初に留学した八歳の女の子(三人組の先祖のひとり)に会いに行こうとする場面で用いられる。「新しい人」は、ここでは明らかに「未来を切り開く人」である。その「新しい人」については、273ページでも、ヴァレリーが引用されて、「ひとり自立しているが協力し合いもする、本当の『新しい人』になってほしい」と父親が朔にファックスで伝える。

 大江健三郎が、もし、この作品を子ども向けに、つまり、教育的に、あるいは啓蒙的に書いたのだとしたら、それは、お互いに助け合い、協力しながら、心から願いをもち、「自立しているが協力もしあう」新しい人として生きること、つまり、未来を自分で切り開いていく、そういう人間として生きるようになってほしいという願いを伝えるためだろう。

 「私らの大切な仕事(傍点)は、未来を作るということだ。私らが呼吸をしたり、栄養をとったり、動きまわったりするのも、未来を作るための働き(傍点)なんだ。ヴァレリーは、そういうんだ。私らはいま(傍点)を生きているようでも、いわばさ、いま(傍点)に溶け込んでいる未来を生きている。過去だって、いま(傍点)に生きる私らが未来にも足をかけているから、意味がある。思い出も、後悔すらも・・・
私が「ピンチ」だったのは、自分のいま(傍点)に未来を見つけないでさ、閉じてしまった扉のこちら側で、思いだしたり後悔したりするだけだったからじゃないか?もう残されているいま(傍点)は短いが、そこにふくまれる未来を見ようと思い立ってね。
それが「ピンチ」を脱け出すきっかけになった。」(276-267ページ)

とも言う。この作品は、そうした意味で、短いファンタジー仕立ての物語ではあるが、大江健三郎の集大成のひとつではないかと思ったりもする。大江健三郎は、自分の歩みを一つ一つ深く検証しながら作品を書くので、いつも、彼の作品はその時点での集大成であるとも言えるが。

 これを書いている途中で、近所に住まわれているI夫人が、わたしが体調を壊しているのを聞きつけて、夕食を差し入れに来てくださった。わたしは、大江健三郎の『二百年の子供』に没頭していて、目の前の窓越しに立たれるまで気がつかなかったが、好物の「梅干し」を時折持って来てくださったり、分別ゴミを処理してくださったりする74歳の夫人である。ここに転居してきた時からお世話になっている。いつも毅然とされているが、そういえば、わたしのまわりの老婦人は、どなたも毅然とされている方が多い。時折、その中で、わたしは自分の人生が愚か者の人生であったことを感じたりもする。

 今日は天気も良いので、外を少し歩き、青葉台まで出て、スターバックスでコーヒーでも飲もうかと思う。