2010年6月28日月曜日

杉本章子『狐釣り 信太郎人情始末帖』

 曇り時々晴れ、そして雨模様という梅雨特有の蒸し暑い日になった。昨日はなんだか疲れ果ててしまい、夕方から外出の準備はしたものの、結局出かけずにうつらうつらと眠りこけてしまった。今朝起き出して汗を滴らせながら久しぶりに家中の掃除はしたものの、今、また睡魔に襲われつつある。佐藤雅美の「居眠り紋蔵」ではないが、突如として眠気を感じる。

 一昨日の土曜日に杉本章子『狐釣り 信太郎人情始末帖』(2002年 文藝春秋社)を読んだ。これは、このシリーズの3作目で、先に読んだ『水雷屯』の続編に当たるもので、呉服太物店の総領息子であったが、許嫁がある身で吉原の茶屋千歳屋の子持ちの女将に惚れ、結婚を反故にして女将の元に走ったために勘当され、芝居小屋の大札(経理)の手伝いをしながら過ごしている信太郎が持ち前の知恵を働かせて身辺に起こる事件を解決していく物語である。

 前作で茶屋の女将との間に子どもができたことを告げられ、女将の連れ子の千代太とも納得がいくように話をして結婚をすることを決意したが、老いて病を抱える父親のことや実家の先行きのこと、女将が営む茶屋の先行きのことなど悩みはつきなかった。そして、本作では、無事に女の子が生まれるが、その子の人別(戸籍)をどうするか、いよいよ決めなければならない事態になっていくのである。

 そういう信太郎自身の身の振り方を考えなければならない状態を縦糸にして、以前、彼の許嫁であった女性の家に押し込み強盗が入り、その女性「おすず」が自害してしまった事件で、せめてもの罪滅ぼしと強盗の探索に力を貸して捕らえた強盗の首領たちが牢抜けをして、逆恨みで信太郎の命を狙っている事件や、彼の幼なじみで岡っ引きの手下をしている末吉にまつわる事件が横糸となって物語が織りなされている。

 末吉は火事の時に知り合った女性に惚れ、結婚を考えているが、その女性は行方不明になった医者の妻で、その医者がどうなったのかをはっきりさせてから晴れて夫婦になりたいと思い、医者の行方を探り始める。そして、その医者が実は生きていて、商家の乗っ取りを企む悪徳金貸しの手先となって商家の主の毒殺に手を貸していることがわかる。悪徳金貸しは、正体がばれそうになって末吉を刺し、女性は末吉が死んだと思い、自ら毒を飲んで死ぬ。

 末吉は一命を取り留め、信太郎は同心や岡っ引きと協力して、悪徳金貸しの悪行の証拠を探し出し、事件を解決していくのである。

 信太郎は呉服太物店の跡継ぎとして、算用、始末、才覚も申し分のない人間である。礼儀も正しいし、情もある。企業家としての豊かな才に恵まれている。そして、込み入った事件の真相を暴く知恵も豊かである。しかし、茶屋の女将に惚れ、親を泣かし、周囲を嘆かせ、許嫁を捨てた。彼の妹も婿を取ることができない男に惚れているので、呉服太物店の先行きを案じ続けるが、惚れた女との間に子どももでき、これからどうするか思案し続けなければならない状態に置かれている。

 状況が切迫して人は悩むが、本書の主人公は、そういう悩みの中に置かれていても、自分がごく当たり前だと思う友情や愛情に素直であろうとし続けている。それが本書の主人公の魅力のように思われる。ただ、本書では、彼の悩みの糸口のようなものが記されている。それは、彼を勘当した父親が、お互いに馴染んでいくために女将の連れ子の千代太を自分の店で引き取って、千代太を正式な跡継ぎとしてもよいと考えていることである。種々のことから勘当を簡単に解くことはできないが、信太郎の思いと生き方を受け止めようとする親の才覚のある道筋を示そうとするのである。果たしてそれがどうなるかは、本書ではまだ語られないが、それぞれの事情を抱えた者たちが可能な限り幸福であるようにという物語の基調をそこに見ることができるような気がするのである。

 人は、もし単純に言うことができるとするならば、誰でも幸せになりたいと願う。そしてそう願っていてもうまくいかない事態が常に起こる。そこには、よこしまな欲や自己保身の思いが働いている。しかし、人が幸福になることができる条件は、究極的にはたった一つしかない。それは、言い尽くされてきたことではあるが「愛情」、しかも本物の愛情に他ならない。

 この物語は、そうした愛情の姿を登場人物たちが示していく物語である。このシリーズはまだ続いているので、これから主人公がどうなるのか見ていきたいと思っている。

2010年6月25日金曜日

多岐川恭『紅屋お乱捕物秘帖』

 今日も梅雨空が重い。予報では梅雨の晴れ間の日となっていたが、灰色の世界が広がっている。参議院選挙が始まって、各党の政策も発表され、政治は暮らしに直結しているだけに、今の各党の政策には愕然とさせられるものが多い。政治はこれでまた全く、ますます「信用」というものを失うだろう。テレビは今、サッカー、テニス、ゴルフ、野球とスポーツ番組が花盛りで、どのスポーツもなじみがあるので観るのは面白いが、人の暮らしと社会現象が大きく乖離し始めているのを感じたりする。ローマ帝国が滅んでいく過程で、人々がスポーツや演劇に熱狂した現象を思い起こしたりもする。世の中は本当に騒がしい。そして、騒がしい人々はいつも愚かである。

 それはそれとして、昨日、多岐川恭『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』(1999年 徳間文庫)をおもしろおかしく読んだ。娯楽時代小説として、多岐川恭の時代小説の作品はなかなかのものだとつくづく思う。どの時代小説も、登場人物の設定がある意味で独特の、こういう人間がいたら面白く生きていけるだろうという設定になっている。

 多岐川恭は直木賞作家で、ことさら歴史考察や江戸の地理や風俗についての考察をひけらかすことはないし、現実性を強調することはないが、物語の背景としてのそれらはしっかりと踏まえられている。

 『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』は、1991年に双葉社から出された『紅屋お乱捕物秘帖』の続編で、おそらくシリーズ化される予定であったのかも知れないが、多岐川恭は1994年に亡くなっているので、この題名の書物はこの二冊だけになっている。

 人物の設定がしっかりしていて、ある意味で理想的な人間の設定になっているから、それを記すと、この物語の中心人物は、紅おしろいなどを取り扱う「紅屋」という店をやっている「お乱」である。「お乱」は、誰もがほれぼれするような美貌の持ち主で、ひとり者であるが、さばけた鷹揚な人柄をもち、捕り物好きで、英知に富み、名推察を働かせ、鎖分銅などの遣い手である。捕物名人の「お乱姐さん」として名をはせている。

 この「お乱」の店を手伝う妹分の「お勝」は、華奢な体つきであるが柔術の名手で、「お乱」を助けていく。

 「お乱」がいつも訪れる破れ寺には、破戒僧の「空源」と虚無僧をしている真岡繁次郎が住み、いずれも元は侍で、めっぽう腕が立つが、荒れ寺に住み着いて、それぞれ僧と虚無僧を自称している。「空源」は情熱的で、繁次郎は冷静である。荒れ寺には「空源」の昔の恋人の娘の「お時」も同居し、二人の世話をしているが、「お時」は悪い男たちにさんざんもてあそばれ、悪事の手伝いをしていたいきさつがあって(おそらく前作で記されているだろう)、「お乱」たちに助けられ、そのまま荒れ寺に居着いているのである。

 そして、その荒れ寺に、少し間の抜けた岡っ引きの「鎌吉」というのが出入りして、様々な難事件を持ち込んできては、「お乱」たち一行の助けによって解決していくのであり、「お乱」をライバルとして、また弟子としてみているが、いつも「お乱」にはかなわない。

 こうした人物たちが、それぞれの個性を発揮しながら男と女の色と欲に絡んだ事件を暴いていくのだから、物語が面白くないわけはない。事件そのものも、巧妙に心中を装った商家の乗っ取りであったり、昔の裏切られた恨みを晴らす事件であったり、飼い犬を使った強盗殺人事件やSMの猟奇的事件であったりして、人間の色と欲そのものであり、それが真に理を得て描かれ、それに対する「お乱」たちのさわやかさが光るのがとてもいい。

 何よりも彼らの暮らしぶりが面白く、「極貧ながら浮世離れした明け暮れがばかに気に入った」(文庫版8ページ)暮らしであり、「毎日毎日、のんべんだらりとしていやがって、お天道様にはずかしくねえか?」(文庫版126ページ)と言われる暮らしであり、「お乱」たちはそのような暮らしぶりを嬉々として営んでいるのである。

 個人的に、こういう暮らしぶりとその表現がいたく気に入って、こういう人たちが実際に身近にいたら、生きることは本当に面白いだろうと思ったりするような人物と暮らしである。作者には、同じように世間の風をどこ吹く風と受け止めて生きるような人物を主人公にした『ゆっくり雨太郎捕物控』という傑作のシリーズがあり、こちらも今ぜひ読んでみたいと思っている。

 「極貧ながら浮世離れした明け暮れを嬉々として送る」というのは、今のわたしにとっては理想的ですらある。

2010年6月22日火曜日

佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』

 雨模様ではないが湿気のある重い空気と灰色の雲が広がって、梅雨の何とも言えない中途半端な気怠さを感じる日となった。首から左肩の痛みが残っていて睡眠がうまくとれないのか、よけい気怠さを感じてしまう。昨日は、少し事務的な仕事をしながら、先日話をした「カフカ論」の草稿に手を入れたり、加筆をしたりしていたが、中途半端な天気は、人間存在の中途半端な姿を描いたカフカ的な天気だと言えるかも知れない。

 先日から佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』(2008年 講談社)を読んでいた。これはこのシリーズの七作目で、今のところこのシリーズでは一番新しい物で、本書には「膏薬と娘心」、「柳原土手白昼の大捕り物」、「玉木の娘はドラ娘」、「真田源左衛門の消えた三十日」、「殺人鬼・左利きの遣い手」、「奇特の幼女と押し込み強盗」、「取らぬ狸の皮算用」、「天才絵師と幻の生首」の八編の短編が収められた連作集で、岡っ引きの半次を引き回し役にしてそれぞれの事件の顛末が述べられたものである。

 枯れて乾いたような行為や事情だけを淡々と述べた文章によって、火付けとして捕らえられた娘の事情を明らかにした「膏薬と娘心」、兄弟の犯罪を次々と半次によって暴かれた男が逆恨みして半次を狙ったが、柳原土手で捕まえられた男の事件、「玉木の娘はドラ娘」という囃子詞でうわさ話を振りまいた事件、真田源左衛門という浪人を敵として果たし合いを申し入れたが、仇討ちの場に現れなかった双方の事情を明らかにした「真田源左衛門の消えた三十日」、左利きの遣い手と思われる殺人事件の顛末を暴いた事件、押し込み強盗に入ったが十歳の幼女の勇気によって助かった商家の事件、幼なじみの戯作者と絵師の争いの顛末を記した「取らぬ狸の皮算用」、子どもが描いた生首の絵にまつわる事件、などが語られていく。

 作者の佐藤雅美は、以前から、事柄のリアリティーを大事にする作家で、勢い、人間の心情や思い以上に事柄の客観的なことが語られる傾向があったが、本書では、その傾向がますます強くなり、たとえば、このシリーズの初期の頃には、半次の岡っ引きとしての苦労や、生活の苦労、彼自身の女性にまつわる話によって半次が反問していく姿が描かれていたが、本書では、事件の顛末が半次の推理と共に淡々と客観的に述べられるだけになっている。

 そのために、わたしのような人間にとって、それぞれの事件に関わる人間の「深み」が描かれずに少々の物足りなさを感じるし、シリーズの重要な脇役として登場する奇異な人物である蟋蟀小三郎の存在にも、彼が金好きで女好き、自分勝手で思い込みが激しいがかなりの剣の使い手で、半次と腐れ縁のようにしてもつれていることが語られはするが、また、ユーモアを添える人物として描かれるが、もう一つ膨らみがあってもいいように思われるのである。

 現実性(リアリティー)や客観性を重んじると、なるほど人間の姿は、その行為と彼が語る言葉によってしか表すことができない。その意味では作者がたどり着いている地平は、一つの地平ではあるだろう。行為が存在を規定するあり方は現代の特徴でもある。しかし、人間は行為がすべてではない。また、文学が行為の記録だけとなるなら、それは記録や歴史書であって、文学作品とはならないのではないだろうか。実際の作品では、そのあたりの兼ね合いが難しいところだろうが、枯れた文章に魅力を感じつつも、どこか文学作品としての読後感に薄さを感じてしまう気がするのである。

 この作品は、それはそれとして面白く読めるのだが、あまりにも淡々とした記述にそんなことを感じさせられていた。

 今日はあざみ野の山内図書館に本を返却しなければならない。昨日が整理日とかで休館だったので、本当は昨日返却予定だったが、いくつかの薬を薬局で買う必要もあり、今日出かけることにした。昨日の夕方は、訪ねてきてくれた中学生のSちゃんに数学の「相似」の話をするついでではあったが、古代ギリシャの初期の哲学たちについて話をした。「相似」は古代ギリシャの初期の哲学者タレスによって使われた方法で、タレスは数学的な「相似」を用いることで、実際に測ることができないピラミッドの高さを測った人だが、この時代の哲学者たちの「観察眼」には恐れ入る。タレスは「観察」による学問の方法を確立した人だと言える。物事をよく観察すること、これが方法と結果を生むということを改めて思う。

2010年6月17日木曜日

宮部みゆき『あやし~怪~』(2)

 日中の気温が30度を超える蒸し暑い日になった。こういう蒸し暑さは、疲れやすくなっている身体にこたえる。ひどく眠気を覚えて横になり、うとうとしながらではあるが、宮部みゆき『あやし~怪~』の残りの四編、「女の首」、「時雨鬼」、「灰神楽」、「蜆塚(しじみづか)」を読み終えた。いずれも短編としてはよくまとめられた作品である。

 「女の首」は、母親を亡くして袋物屋に奉公に出た子どもが、その奉公先の納戸として使われている部屋の襖に女の首が浮かび上がるのを見て、脅えてしまうが、そのことによって自分の素性が、実はその奉公先から幼い頃に拐かされた息子であったということを知っていく話で、襖に浮かび上がった女の首は、その店の若旦那に勝手に惚れて、悋気して、ひとり息子を拐かし、追われてその息子をカボチャ畑に捨てたが、捕まえられて獄門になった女で、息子を育てたのは、カボチャの葉に守られて助かったのを見つけた女性だった。そして、女の首の亡霊に取り殺されそうになった息子を、亡くなった後も守っていたのである。息子は機転を利かせて女の首の亡者を片付け、守り神としてカボチャを大事にしているという話である。

 「時雨鬼」は、男に言い寄られて、今の仕事を辞めて金になるところで働けという甘言で出会茶屋に売られそうになった娘が、不安を抱えて自分に仕事を世話してくれた口入屋に相談に出かけたところ、その口入屋の女将さんだという女が出てきて、自分の過去のことを話し、言い寄ってくる男が信用できないと諭すのだが、昔、時雨時に鬼を見たという話をする。やがて、不安のまま日々を過ごしている娘の所に岡っ引きが訪ねてきて、実は彼女が口入屋を訪ねた時には、その主人は殺されており、その時出てきた女将さんというのは、強盗の一味ではないかと言う。そして、甘言をもって言い寄ってくる男の背後に時雨鬼の幻影を見せる。娘がその後どうしたかは触れられない。

 「灰神楽」は、古い火鉢を使っていたまじめでおとなしい女中が、突然、何かに憑かれたように店の主一家の弟に斬りつける。女中と弟には何の関係もない。岡っ引きがその事件を調べ、使っていた火鉢に何か因縁があるのではないかと思い、それを古い寺に預ける。そして、寺の住職から、確かに火鉢から灰神楽がたって、そこから人の怨念が出てきたという手紙をよこすという話である。

 「蜆塚」は、亡くなった父親の後を継いで桂庵(口入屋)をするようになった男が、父の友人の病を聞いて蜆をもって見舞いに行き、そこで、何十年も死なずに元の姿で、十数年ごとに仕事の世話を頼みに来る人間がいるという話を聞く。見舞いに行った翌日、その話をした父の友人は死に、彼はその話の証拠を探し始めるが、しばらくして、蜆のいる堀で死んでしまう。そういう人間がいても沿っといておくのが一番だ、という警句を無視したからだろう。彼が死んだ堀に「蜆塚」が建てられた。

 これらの短編は、ただ「あやし~怪~」の話である。だからどうだと言うことはない。人間のすさまじい業が「あやし(怪)」として出現する。「あやし(怪)」という姿を借りて、そういう現実を物語ったものである。

 わたしのように何事もあきらめの早い人間は、怨念という「念」を抱き続けることもできないが、確かに自分の中には「悪」とでも呼ばなければならないようなものがあるのは事実であり、自分の中に「鬼」が住んでいるのではないかと思えるようなことがある。宮部みゆきは、それを「あやし(怪)」として具現化して作品を書いているが、そこに善悪の判断を軽々しく押しつけないところがよい。ただ、どうせ書くなら、怪談話を超えるようなもっとおどろおどろしたものでもよかったかも知れないが、そこに作者の優しさもあるのだろう。

 明日からまた雨らしい。雨の景色をぼんやり眺めるのは本当に好きだが、出かけるにはうっとうしい。そして、雨の日はつくづく寂しさも感じたりする。まあ「ケセラセラ」であり「Let it be」とは思っているが。

2010年6月16日水曜日

宮部みゆき『あやし~怪~』(1)

 本格的な梅雨入りをしたようで、重い雲が広がって、湿度が高い。ときおり晴れ間が見えたかと思うと雨が滴るように降る。先日から、宮部みゆき『あやし~怪~』(2000年 角川書店)を読んでいるが、集中して読む時間がとれずに、なかなか読み進まない。

 これは、強欲や嫉妬心、怨念、恨みといった人の心のない奥に潜む悪が「あやし(怪)」として出現したものとして描き出した短編集で、「居眠り心中」、「影牢」、「布団部屋」、「梅の雨降る」、「安達家の鬼」、「女の首」、「時雨鬼」、「灰神楽」、「蜆塚(しじみづか)」の九編が収録されている。

 宮部みゆきは、短編よりも長編の方が物語の展開が十分丹念に進むし、設定されている主人公の特質がよく現れて読み応えがあるように思うし、本質的に長編作家だろうと思うが、短編も、短編なりの創作技法が試みられたりして、作者の意欲的な取り組みを感じることができる。

 たとえば、「陽牢」は、始めから終わりまで独白(モノローグ)の形が取られており、商家の一家全員毒殺の事件の事情を調べに来た同心に、その商家に仕えていた番頭が答えていくという形で、そのモノローグによって、息子夫婦に座敷牢に閉じ込められて殺された母親の言い尽くせない恨みが亡霊のようになって出現し、母親に手ひどい仕打ちをした息子夫婦をはじめとする商家が滅びていく姿を描いたものである。モノローグで物語を展開する手法は、ことさら新しいものではないが、物語作家としての作者の力がよく発揮されている。

 貧しい家庭で幼い頃から奉公に出なければならなかった姉妹の深い愛情を描き、亡くなった姉によって守られる妹の姿を奉公のつらさと共に描いた「布団部屋」や、その人の悪意の姿によって「鬼」が見えていくという「安達家の鬼」などは、作者が人間の思いやりや情けに対してもつ温かみがあふれた傑作だと言えるだろう。

 まだ最初の五編しか読んでおらず、残りの四編については、今夜読み終えるだろうから、明日にでも記すことにする。

 先夕、カフカ論の発表のために池袋まで出かけた折、少し休むために、帰りに渋谷の東急デパートの中にあるお蕎麦屋に寄って、久しぶりにおいしいお蕎麦を食べることができた。江戸の昔から関東地方はうどんよりもお蕎麦が主流だが、なかなかおいしい蕎麦に行き当たらなかった。一昨年の秋、長野の戸隠まで、戸隠の伝説を訪ねると同時に蕎麦を食べに研究会の仲間たちと出かけたが、そこでも、本場と言われる蕎麦だがあまりおいしいとは思わなかった。改めて、東京は何でもあるとつくづく思う。

2010年6月11日金曜日

鳥羽亮『剣客春秋 恋敵』

 ほんの時折薄く陽が差す曇り空の下で、今日も日々の暮らしが営まれる。歪んだ構造の中で政治がきしみを立て、経済が揺れ動く。わたしの左肩と腕の痛みのようにどこかすっきりしない状態が世界全体で続いているが、その中で、鳥羽亮『剣客春秋 恋敵』(2005年 幻冬舎)をすっきりと読んだ。

 これは前に読んだこのシリーズの2作目の『剣客春秋 女剣士ふたり』に続いたシリーズの5作目で、神田で剣術道場を開いている千坂藤兵衛の娘「里美」が思いを寄せている料理屋の一人息子「彦四郎」の料理屋が巧妙な手口で乗っ取られるのを防いでいく展開になっている。

 彦四郎の母「由江」が営む料理屋が、かつてその店の料理人をしていた男「盛蔵」から乗っ取りを謀られる。盛蔵は、傷んできた料理屋の改築の話と自分の娘を彦四郎の嫁にする話をもってくる。その一方で由江の料理屋の料理人を殺し、料理屋を窮地に追い込む。それと同時に、彦四郎が思いを寄せている里美を襲って、自分の娘を押しつけようとする。盛蔵には手荒な手下やごろつきがおり、質屋で悪辣な高利貸しをしている男や手練れの牢人がいて、乗っ取りを画策するのである。

 盛蔵らは、ほかにも同じような手口で乗っ取った料理屋や大店がある。娘「里美」と由江・彦四郎の窮地の中で、千坂藤兵衛は、父親として、また剣客として、弟子の同心や岡っ引きと共に真相を探り、これを助けていく。

 その間に、江戸の各剣術道場を道場破りしている剣の使い手が藤兵衛の道場にもやってきて、藤兵衛は剣客として彼と対峙することになる。腕はほぼ互角で、木刀の試合では相打ちとなり、真剣勝負へと持ち込まれる。剣の使い手は悪計をもっている盛蔵に言葉巧みに乗せられ里美を襲い、藤兵衛も真剣勝負を覚悟し、やりあうことになる。そして、藤兵衛は、ほんのわずかの差で相手の籠手を打って勝つことができ、盛蔵らの企みも露見し、再び由江の店は立ち直っていく。

 そして、娘の里美と彦四郎の縁談も、二人を独立させるということでまとまり、この後の話の展開としてつながっていくのである。

 娯楽小説としての醍醐味は十分にある。そして、人を窮地に追いやり、それを助けるような振りを装って乗っ取っていくような乗っ取りの手口は、現代の企業ではもうあまり見られなくなったが、確かにあるのであり、人を陥れようとする意図を持つ人間は確かにいる。「裏切りはいつも接吻と共にやってくる」のであり、「手ひどい仕打ちは善意の仮面をつけている」のである。

 作中の中で、千坂藤兵衛は、どっしりとした動かない青眼の構えで相手に対峙する。「動かざること山の如し」である。善意の仮面や隠された悪意の渦の中では、それが最も大事だろう。動かなさすぎるのもどうかと自問したりもするが、「動かない」というのは意味のある存在形態だと改めて思ったりもする。そういう意味でも、動きたくないと思ってごろ寝をしているわたしにとって、これは娯楽小説なのである。

2010年6月10日木曜日

宮部みゆき『あかんべぇ(上・下)』

 2~3日続いた梅雨を思わせるような天気が一変して、暑い日差しがよく晴れた空に広がっている。首から肩にかけての違和感はまだ残っているのだが、日々の暮らしと仕事は否応なしにあるわけだし、仕事上の千客や電話は万来するわけだから、もっぱらそれに専念することにしている。

 それでも、来週の月曜日に小さな集まりで発表することにしている「カフカ論」を少し進めた。あらためてF.カフカについて考えているわけだが、カフカは作品の中で、「核心に至ることができない人間」の姿を描いているし、いつも「満たされることのない自分」というものを感じていたのかもしれないと思ったりする。

 それにしても、文学が思想や哲学に意味を持たなくなって久しくなるが、哲学的考察の対象となるような作家が少なくなったとつくづく思ったりもする。人間の思想自体が大きな混迷期に入っているのだからやむを得ないとは思うが、思想と思想を具現化する言葉が軽くなって意味をなさなくなった現象が政治や経済に噴出して、相対化がここまで進んでしまうと今後どうなるのだろうかと思ったりする。人間が大切にすべきものを大切にしなくなったことを感じ続けている。

 歴史・時代小説の方は、これはもちろん根本的にファンタジーの世界に属することであるが、宮部みゆき『あかんべぇ(上下)』(2007年 新潮社文庫)を大変面白く読んだ。宮部みゆきは、文学が人間の抱える問題をリアルに織り込んだファンタジーであるとすれば、その優れた旗手のひとりであることに間違いはないだろう。彼女の作品のほとんど(SFや現代小説はまだ読んでいないが)が大変面白く、また意味を持ったものであることは、また、どの作品にも「温もり」というものを感じるのは、彼女が作家として相当の力量をもっていることと、その感性の豊かさを思わせるものである。

 『あかんべぇ』は、深川で料理屋を始めることになった「ふね屋」の十二歳になる娘「おりん」を中心にして、そこで起こる人間の様々な怨念に基づく出来事を解き明かしていく物語である。

 人間は、恨みや嫉妬や欲に絡まれながら生きている。多くの場合、未練を残したまま生きなければならない。その「悪」の部分を、宮部みゆきは、この世に未練や恨みを残したまま彷徨っている亡者、怨霊として描く。だから、十二歳のまっすぐな心を持つ健気な少女「おりん」は、高熱のために死にかけるが、その死の淵から生き返ることで、それらの亡者や怨霊が見える少女として設定されている。

 深川の海辺大工町で始めることになった料理屋「ふね屋」には、不幸にも様々な亡者や怨霊が巣くっている。井戸に投げ込まれて殺され、「おりん」にあかんべぇを繰り返す少女、美男だが少し崩れたところのある侍、黒髪も艶やかな美女、按摩治療が得意で、病気で死にかけた「おりん」を治す老人、見るも異形で刀を振り回す浪人。「おりん」にはそれらの亡者の姿が見えるし、美男の侍や美女の亡者はまた、まっすぐで健気な「おりん」を助けていく。

 料理屋として始まった「ふね屋」は、両親の苦労の甲斐もなく、異形で刀を振り回す浪人の亡者の乱暴や、弟に殺されたと思って料理人の弟に取り憑いてさんざんな悪を働く兄の亡者によってひどい事態に陥る。彼らの姿が見える「おりん」は、ひとり、それらの原因を探っていこうとする。

 他の人には、これらの亡者の姿が見えたり見えなかったりする。その亡者と同じような思いを抱いている人にだけ、その亡者の姿が見えていくのである。「おりん」はそのことによって、自分の周囲にいる人々が抱いている苦しみや悲しみを知っていく。

 そしてついに、それらの原因が三十年前にこの地で起こった悪鬼のような寺の住職による大量殺人と関係していたことを知り、また料理人の兄を殺したのが、実は、その妻が家族の温かみを取り戻そうと誤って毒をもってしまったことによることが明らかになっていく。そして、「おりん」がそれらを明らかにすることによって、亡者たちは成仏していくのである。

 亡者は亡者である。しかし、宮部みゆきは、一人一人の亡者が抱いている恨みや後悔や未練の姿をやむにやまれぬ悲しい姿として丹念に、そして温かく描き出す。美男の剣士は、遊び人として誰からも理解されなかったが、ひとり、悪鬼のような殺人を繰り返す寺の住職を討つために、寺に乗り込んでそこで死んでしまったのであり、美女は寺の住職の愛人として生きていたのであり、異形の浪人は、身過ぎ世過ぎのためにどうすることもできずに住職の手先となって殺人を繰り返していたのであり、あかんべぇの少女は、実は住職の子で、その住職によって殺されたのである。按摩の老人は、住職が悪行をしていることを承知しながら住職の治療をしていたのである。

 美女の亡霊はおりんに言う。
 「いつもいつも、目先の欲と色恋ばかりを追いかけて、間違いばかりを繰り返していたあたしの人生の、最後に行き着いた先がそこだったのさ。人でなしの情婦(いろ)さ。だからこそあたしは、あの人の魂がこの世にしがみついているうちは、浄土へ行くことができなかったんだ」(文庫版下 321ページ)

 そして、その悪の根源である住職もまた、自分がなぜ人殺しを続けたかということについて、
 「仏などおらぬ。どこにもおらぬ。わしはそれを確かめた。多くの者を殺し、その血をこの身に浴びることで確かめた。・・・わしはいつも問いかけていた。大声で問いかけていた。仏はおわしますかと。おわしますならばすぐにでもわしの目の前に現れて、わしにふさわしい罰をお与えくださいと。しかし仏は現れなんだ。呼んでも呼んでも現れなんだ。現れなんだからわしは殺生を続け、呼び続け、とうとう声が嗄れてしもうたのじゃ!」(文庫版下 306ページ)と言う。

 人間はかくも悲しい存在である。その悲しい存在であることによって悪が生まれる。だから、宮部みゆきは、その悲しみをそっと包もうとするのである。

 それゆえ、この作品の中に、「おりん」をはじめとして、美男の侍の甥である隣家の貧乏旗本の夫婦、「ひね勝」と呼ばれて健気に生きている捨て子の少年、自分が捨て子で苦労したために成功して孤児や貧しい子どもを引き取って育て上げる「おりん」の祖父母、一所懸命に生きようとし、捨てられていた「おりん」を神からの授かり物として愛し、慈しむ「おりん」の両親、などさわやかな人間や健気で懸命に生きている人間を登場させるのが光る。

 物語の始まりが、その「おりん」の祖父の生涯であるのも、よく考え抜かれた心憎い演出であり、物語の最後が捨て子の「ひね勝」を「ふね屋」で引き取って、新しい始まりを伝えるのもすばらしい。

 文章の中で、たとえば、曇り空を描くのに、「今日はあいにくの曇り模様で、空いっぱいに、綿屋が商いを広げている。それもつやつやの真綿でなしに、灰色の古い綿だ。誰かが天の神さまの布団の打ち直しをしているのかもしれない」(文庫版上 158ページ)という表現や、「今夜は夏がもうひと稼ぎしようという腹づもりであるらしく、ひどくむしむしと寝苦しかったから、団扇のつくる淡い風も嬉しかった」(文庫版下 96ページ)という表現があって、作者の豊かな感性と知性をうかがわせる。曇り空を「綿屋が商いを広げている」とか、蒸し暑さを「夏がもうひと稼ぎしようという腹づもり」とかいうことができるような感性は常人にはなかなか思い浮かばないことである。こういう感性は作者の天性のものかもしれないと感銘を受ける。

 人間は悲しく、業深い存在だが、それを温かく包むという作者の姿勢は、本当にすばらしい。

2010年6月5日土曜日

鳥羽亮『まろほし銀次捕物帳』

 時折晴れるが少し湿度を感じる日になった。そろそろ梅雨の気配が漂っているのだろう。左肩から腕にかけての痛みはまだあるが、ずいぶんと楽になってきた。宮沢賢治が何かに書いていたような気がするが、「手や足が自由に動かせるということは、それができない人間にとっては奇跡に近い」というようなことを思い起こす。あと2~3週間もすれば、その奇跡に近い状態に戻ってくれるのではないかと希望している。

 今日の午後、少し身体を休める意味で、鳥羽亮『まろほし銀次捕物帳』(2002年 徳間文庫)を読んだ。先日読んだ宇江佐真理の主人公も「銀次」であったが、こちらの「銀次」は、剣豪作家といわれる鳥羽亮の作品らしく、「まろほし」という聞き慣れない小武器を使って犯人を捕縛していく生粋の捕物帳であり,以前、鳥羽亮の作品は娯楽時代小説としては面白く読んだので、読み始めた次第である。

 野村胡堂の名作である『銭形平次捕物控』の平次が投げ銭の名手であったように、鳥羽亮の本作の主人公「銀次」は「まろほし」という武器の使い手である。「まろほし」というのは、作者によれば「折り畳み式の特殊な武器で、一角流十手術で遣われる全長七寸余ほどの捕具と護身を兼ねたもので、握り柄の先に短い槍穂がつき、金具を開き目釘でとめると十字形の刀受けになる」武器だそうで、銀次は岡っ引きをしていた父親からこれを習い、父亡き後に後を継いで岡っ引きとなった容姿端麗の小料理屋の息子である。

 「岡っ引き」という仕事は、雇い主である奉行所の同心からわずかなお金しか出ていなかったので、まともな岡っ引きは、別の糊口をもっていたのであり、銀次も母親が小料理屋をするという設定がされているのである。

 物語は、黒船騒ぎの話が出てくるので江戸末期で、十七~十八歳になる評判の器量よしの娘たちが次々と行くへ不明となり,そのうちの何人かが死体となって発見され、その身体には無数の赤い痣が残され、暴行を受けていた。行くへ不明になっていた娘の捜索を依頼されていた銀次は、それらが一連の連続した事件であることに気づき、捜索に当たるが、共に事件を追っていた岡っ引きが殺され、糸口を見いだしたかと思うと,そのものたちも次々と殺されていく。

 か細い糸をたぐりながら、銀次は捜索を進めていくが、その謎解きの過程が次々と展開され、小さな糸口からようやく黒幕を暴き出していくのである。謎解きは上質のミステリー仕立てになっている。

 この銀次の手助けをする捕り物好きの貧乏道場主で、ひょうきんではあるが、神道無念流の達人である向井籐三郎と、黒幕の刺客で恐るべき一刀流の使い手であり殺人に快感を覚える磯部左馬之助が事件のクライマックスで対峙する場面が次のように描かれている。

 「向井は磯部の八相の構えから、容易ならぬ相手であることを感知した。
 どっしりした大きな構えだった。八相は木の構えともいわれ、大樹が天にそびえるように堂々と構えて敵を威圧することが大事とされている。敵の動きに従って攻撃に転ずる後の先の構えとも言える。
 まさに、磯部の八相は大樹のような構えだった.しかも、前進に気勢がみなぎり、巌で押してくるような威圧があった。」(258-259ページ)

 こういう表現は,剣道三段である作者ならではの表現であるだろう。

 銀次は、色と欲に絡んだ黒幕たちと老人たちの醜悪さを暴き出し、誘拐・監禁されていた娘たちを助け出す。そして、その娘たちも、次第に元気になっていく姿が結末で描き出されるのもいい。銀次は容姿端麗で女性にもてるが、「女なんぞ、わずらわしいばっかりだい」とうそぶくところもいい。なるほど娯楽時代小説とは、と思わせる作品である。

2010年6月3日木曜日

宇江佐真理『晩鐘 続・泣きの銀次』

 よく晴れた初夏を思わせる日になった。先日から隣のマンションで何かの工事をしているらしく、コンクリートを削る音が朝から喧しく、痛めている身体にけっこうこたえる。左肩から腕にかけて走っている痛みは、それでも、幾分かは和らいで、まだ痛み止めの世話になりつつではあるが、なんとか日常生活が送れるようにはなってきた。特に夜はしばらく休んでいると楽になるようになった。

 痛みを覚え始める前の先週、あざみ野の山内図書館に行ったとき、まだ読んでいない宇江佐真理の著作を見つけ、本当に嬉しくなって借りてきていたので、昨日、これを読んだ。宇江佐真理は、わたしが歴史・時代小説の中で最も好きな作家であり、この人の作品はどれを読んでも「はずれ」というものがないばかりか、大きな感動を受け取ることができる。女流作家の中では、わたしの中では最高峰である。この人に直木賞を贈らない直木賞選考委員会はどうかしているとさえ思っている。

 今回読んだのは、『晩鐘 続・泣きの銀次』(2007年 講談社)で、これは表題の通り、1997年に講談社から出された『泣きの銀次』の続編の形をとっており、北町奉行所の定廻り同心の表勘兵衛から手札を受けて岡っ引きをしていた小間物問屋の若旦那「銀次」の、前作から十年後の姿を描いたものである。前作も傑作だったが、これも傑作である。

 銀次は、死人を見るたびに、その死によって生命と運命が断ち切られ、その人の一切が失われたことを嘆き悲しんでところかまわず大泣きをしてしまうところから「泣きの銀次」と呼ばれていた。感情移入が激しい感激屋の男である。わたしも涙もろい人間だから、この銀次の心情がよくわかる。

 しかし、十年という月日は長く、この十年の間に、銀次の小間物問屋「坂本屋」は、二度の火事に見舞われ、没落し、店を任せていた父親と弟が死に、銀次が店を引き受けなければならなくなって十手も捕り縄も返上し、女房のお芳と小さな小間物屋を開いて糊口をしのいでいる。お芳との間には、八歳の長女「おいち」を頭に、次女「お次」、三女「おさん」と、まだ幼い長男の「盛吉」の四人の子がいる。銀次は、小さな小間物屋で何とかしてこの四人の子どもたちを育てているのである。

 銀次の家は貧しいが、四人の子どもたちはそれぞれ個性的にのびのび育ち、家庭はさりげない日常の温かさに満ちている。さりげない日常の中で人間の温かさを描き出す作者の視点は天下一品である。

 その頃、江戸で若い娘が拐かされ(誘拐され)、暴力を振るわれて見るも無惨に乱暴されて殺されるという事件が頻発していた。あるとき、銀次が小間物を木箱に入れて触れ歩いていた時、雨宿りをしていた古ぼけた無人の武家屋敷からうめき声がするのを聞きつけ、そこに拐かされて縛られていた娘「菊」を助け出した。一連の誘拐・暴行・殺人事件の被害者の一人である。

 何よりも生きていること、命を大事にする銀次は助け出した娘に言う。
 「一つ、約束してくんねェか。恩に着せるわけじゃねェが、おいらはお前ェさんの命を助けた。あのままあそこにいたら、お前ェさんはどうなっていたかしれたもんじゃねェ。命拾いしたと思って、これからはしっかり生きて行くんだぜ。日本橋の廻船問屋の娘はせっかく助かったのに、苦しい思いに耐えきれず、とうとう自害しちまった。他人はあれこれ噂するもんだ。だが、それに負けちゃ、本当にお仕舞ェだ。なあに、四十、五十になってみろってんだ。昔はこんなこともあったって、笑い話にできまさァ」(19-20ページ)。

 そして、娘はその銀次の言葉を頼りに、世間の噂に耐えて生きていくが、銀次が昔「泣きの銀次」と呼ばれていた優れた岡っ引きであることを知り、なんとしても下手人(犯人)を捕まえてくれと言う。銀次の子どもたちも、家は貧しく小さな小間物屋だが、銀次に岡っ引きに戻ってほしいと願っている。偶然に出会った同心の表勘兵衛も、今は老いて臨時廻りになっているが、銀次を信頼して、岡っ引きに戻ってきて下手人を捜し出すのを助けてほしいと言う。そして、銀次は娘のために、もう一度岡っ引きに戻って犯人の探索をすることを決意する。

 しかし、探索はそう簡単には進まない。その間に別の被害者も出る。犯人が手ひどい暴力を働くところから、ようやく見つけた糸口である蔭間茶屋の蔭間(男娼)も、銀次が話を聞こうとした矢先に殺されてしまう。そうしているうちに、絵を学ぶために津軽藩から出てきて、出奔している兄を捜している少年やその兄と出会い、落ちぶれてやけになっている兄を立ち直らせたり、肥前平戸藩の藩主で隠居している老人と出会ったりする。そして、銀次の家族との温かい交わりを通して次第に元気になってきた「菊」から、犯人が二人の侍ではないかと察するようになる。

 やがて、探索が少し進み、絵を学んでいる少年が描いた似顔絵がきっかけとなり、犯人の一人は元平戸藩の家臣で、息子が辻斬りをしたために改易され、それでも旗本になっている家の息子ではないかと推察されるようになり、もう一人の犯人もその友人の侍だろうと察されるようになってくる。そして、拐かされて乱暴を働かれた「菊」に縁談があがり、その縁談の相手が、実は「菊」に乱暴を働いた犯人が口封じのために申し出たことがわかってくる。その仲介の労を執ったのは、かつての銀次の手下で、今は銀次と身分が入れ替わって大きな料理屋を営むようになって、銀次を馬鹿にするようになっていた「政」であることも、彼が金のために犯人たちの手引きをしていることもわかる。その手引きによって銀次は襲われるが、逆に犯人の一人を捕らえることができた。だが、相手は武家であり、町方の銀次は手を出すことができない。だが、捕らえた犯人の一人は、銀次が知り合った平戸藩の元藩主の尽力もあって切腹の沙汰が降りる。しかし、もう一人の犯人はようとして行くへがしれなくなってしまう。

 その犯人が、逆恨みで銀次の次女「お次」を誘拐する。銀次は必死になって娘を捜す。だが、しっかり者のお次は、犯人の下男の助けもあって、そこを逃げ出し、保護されることができた。

 「泣きの銀次」の渾名の通り、泣きながら駆けつけてきた銀次は、幼いお次に言う。
 「お前ェにもしものことがあったら、おいら、この先、どうして生きて行ったらいいのかわからなかったぜ。だが、無事でよかった」
 「お父っつぁん。それほどあたいが大事?」
 「んなこと当たり前ェよ。おいらが苦労して育てた娘だ。何かあってたまるかってんだ」(205ページ)

 こんな風に言うことができる親と、それを知っている娘が強い絆で結ばれているのは当然のことであり、大きく深い信頼を得ている銀次は娘のお次のヒントもあって犯人にたどり着く。

 手強い拐かしの犯人は、幼いころ義母にいじめられ、虐待され、他家に養子に出され、そのことで心がねじ曲がって、ほかの人間に暴力を働くことに快感を覚えていたのである。父親も関わり知らずの態度をとっていた。だが、その父親も、息子の仕業を知り、一家心中をすることになる。

 銀次はようやくにして、危ういところで知り合った平戸藩の元藩主や津軽藩の立ち直った兄の助けを得て、犯人を捕らえることができた。そして、被害者だった「菊」も銀次を助けた兄と結ばれるようになる。銀次の店も、苦労して考案した「美顔水」が当たって繁盛の兆しが見えてくる。さあ、これから40歳を過ぎた銀次の新しい10年が始まるのである。

 銀次はどこまでも「助ける人」であり、彼が「助ける人」だから、彼の周りの人たちもみんな、犯人たちを除いて「助ける人」である。去る者は去る。だが、彼の回りに残る人々はそういう人たちである。これは値なしのすばらしさである。

 作品として見るならば、この作品には作者がほかの作品でもいかんなく発揮してきた温かい人間模様が余すところなく使われている。親子の関係、夫婦の関係、子どもや老人、温かさに触れて温かくなる人間の姿、そういう姿がここには十分ある。人情物とか市井物とか、あるいは捕物帖物とか、そういう言葉では表すことができない独特の愛情あふれるものがあって、もちろんその苦悩や苦労も描き出されて、作者の中にある深い温かさを感じることができる。宇江佐真理は、本当に優れた作家である。その描き出す人間味がいい。

2010年6月1日火曜日

杉本章子『水雷屯 信太郎人情始末帖』

 先週の木曜日の夜に雨に打たれたのがいけなかったのか、金曜日から頸椎の痛みが激しくなって、左肩から先に激痛が走り、病院の麻酔薬も痛み止めも効き目がなく、身の置き所のないような状態で過ごしていた。この痛みは、絶望とは異なって「死に至る病」ではないが、痛みが走ると仕事はおろか日常生活も困ったことになる。日頃の不摂生なのだから「耐えがたきを耐える」しかない。本を片手に横になって、眠ったり起きたりしていた。

 そうしていてもおもしろい本はおもしろく、杉本章子『水雷屯(すいらいちゅん) 信太郎人情始末帖』(2002年 文藝春秋社)を読んだ。

 表題の「水雷屯(すいらいちゅん)」というのは、第一作に八卦占いによる「多事多難の相」ということで使われている言葉であり、ありていに言えば「大凶」と同じような意味だろうと思う。

 杉本章子という人は、奥付によれば1953年生まれで、1989年に、江戸から明治に移り変わる中で最後の木版浮世絵師といわれた小林清親の波瀾の生涯を描いた『東京新大橋雨中図』で直木賞を受賞している。福岡県生まれで、1984年に福岡市文学賞、1995年に福岡県文化賞を受賞されているらしいが、わたしはこの作者の作品を読むのはこれが初めてである。

 本書はこのシリーズの2作目で、第1作『おすず 信太郎人情始末帖』は2002年に中山義秀文学賞の受賞作品らしい。本書は、呉服太物の大店の総領息子である信太郎が、二歳年上で子持ちであった吉原の引手茶屋の女将「おぬい」と深い恋仲となり、許嫁の「おすず」があったものだから大問題となり(このあたりの顛末が第1作だろう)、ついに勘当されて、芝居小屋の大札(勘定方)の手伝いをしながら、身近に起こる様々な事件や出来事を彼の明察を用いて解き明かしていくもので、時代の設定は黒船騒ぎ(1853年)が起こる幕末である。

 出来事のすべては幕末期の江戸庶民の暮らしの中での出来事であり、すべてを捨ててまでも自分の恋を貫いた信太郎の姿がそれに重なる形で進められる。本書は5作からなる短編連作で、それぞれの事件の裏に隠された複雑さとそこでの欲の絡んだ人間模様が、さわやかに、そして控えめに推察される信太郎の明察で明らかにされていく。

 一話一話について少し述べようと思ったが、左手が痛みなしには動かなくなっている今、それを断念して、とにかくおもしろい、とだけ記しておきたい。