2013年1月31日木曜日

葉室麟『冬姫』


 昨日から、ほんの少し寒さが和らいでいる。もちろん、ここ数日だけの話ではあるだろうが、ありがたく感じる。

 織田信長の次女(といわれ)、戦国武将の一人であった蒲生氏郷の正室であった「冬姫」の姿を描いた葉室麟『冬姫』(2011年 集英社)を、作者にしては珍しくあっさり書いた作品だと思いながら読んだ。戦国期の入り組んだ人間関係の歴史が追われるので、本来なら大作になるところをこれだけにまとめるために、作者の美しい文章が影を潜めたのかな、とも思う。

 「冬姫」は、出生や幼少期のことがほとんどわからず、彼女の生母についてもわからないが、織田信長の次女である。しかし、本書では、織田信長と正室であった濃姫(帰蝶 きちょう)の間に唯一生まれた娘とされている。そうだとすれば長女になる。いずれにしろ、信長の娘であったことに変わりはない。

織田信長の正室であった(信長もたくさんの側室をもった)「濃姫」は、美濃の斎藤道三の娘で、この女性についても歴史資料が少なく諸説がある。ただ、信長と「濃姫」の結婚は、もちろん政略結婚だが、信長が「濃姫」を大切にしたのは事実だろう。功罪を明確にしたために鬼神のように恐れられた織田信長だが、彼は、女性には比較的優しい人物だっただろうと思う。秀吉が信長の家臣として活躍していた頃に浮気をしたことを秀吉の妻「ねね(本書ではおね、そうとも呼ばれていた可能性がある)」が信長に訴え、信長が「ねね」の味方をして秀吉を叱ったという記録がある(このあたりも本書で取り込まれている)。

 「冬姫」について歴史的にはっきりわかっていることは、彼女が信長の子として近江の蒲生氏郷の正室であったということで、氏郷の父親の蒲生賢秀は近江国蒲生郡日野(中野)城主として、当時、近江南部を支配していた六角氏に仕えていたが、信長が足利義昭を将軍として伴って上洛した際に、信長の軍門に下り、その証しの人質として息子の氏郷(幼名鶴千代、後に忠三郎賦秀 ますひで)を差し出し、信長は氏郷の人物と才能を見抜いて娘の「冬姫」を嫁がせたのである。この時、氏郷(鶴千代)14歳、「冬姫」12歳であった。

 本書では、このあたりで、信長の後継者を狙う側室の「お鍋の方」の陰湿な「冬姫殺害計画」を展開し、「冬姫」の凛とした対応や彼女を慕う「もず」(男であるが女として生きる性同一性者の忍)や巨体で剛力の鯰江又蔵という人物(もちろん、これらは作者の創作だろう)の助けで「お鍋の方」の策略をくだいたり、徳川家康の長男であった徳川信康に嫁いだ姉の「五徳」を巡る家康の正室「築山殿(瀬名)」の確執を打ち砕いたりして、いわゆる「女の戦い(女いくさ)」を展開し、「冬姫」の真っ直ぐで毅然とした姿を描き出している。

 ただ、ここで幻や夢、あるいは幻惑や忍びの術といった、いわばエンターテイメント性をもったことが神秘性を描くものとして取り入れられているが、別の角度から、作者の他の作品で描かれたような、むしろ信頼の中で希望を失わずに忍耐していく姿や真直ぐに凛として生きる「冬姫」の姿が、人間を掘り下げたものとして描かれても良かったような気がする。

 ともあれ、蒲生氏郷は武勇にも優れて、数々の戦で功を挙げており、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で死去した時には、信長の妻子を保護して、明智光秀に対抗した。近江近郊の豪族たちの大半は明智光秀になびき、蒲生氏郷にも光秀からの誘いがくるが、氏郷はこれをきっぱり拒絶した。この時点で、天下の動向は不明で、蒲生氏郷は孤立の恐れもあったのだから、この拒絶は命懸けでもあったのである。

このあたりのことを、作者は、「いかにも、この城に冬殿がおられる限り、明智に降ることはありませぬ」と微笑を浮かべて言い切った(199ページ)と描く。信長の娘である「冬姫」のために、その父である信長を殺した光秀には与しないと言うのである。

こういう、愛する者のために孤立を恐れずに自分の道を進んでいく姿は、葉室麟が諸作品の中で最も描きたい姿でもあるだろう。蒲生氏郷という人は、おそらく実際、そうした武将の一人で、やがて彼の日野城は明智軍の大軍に取り囲まれるが、彼はびくともしなかったのである。幸い、光秀が直接に日野城を責める前に、秀吉が毛利攻めから疾風怒濤の勢いで取って返して、光秀は秀吉と戦わざるを得なくなったために、日野城が戦火に包まれることはなかった。そして、氏郷は、その後、秀吉に仕え、秀吉は氏郷に伊勢松ケ島12万石を与えている。氏郷はこの伊勢松ケ島をよく整えたと言われる。

また、彼は、高山右近らの影響でキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名であった。家臣や諸大名の人望は厚かったと言われるし、また、茶道にも造詣が深く、「利休七哲」の筆頭でもあった。

 キリシタンとの関連で言えば、本書では、信長の安土城が焼け落ちた謎や細川ガラシャ(玉子)と「冬姫」の邂逅として描き出しており、「冬姫」は、秀吉がキリシタン禁止令を出す中で、父の信長がキリスト教を庇護したように、夫の氏郷がキリシタンとなったことを認めていく決意をしたというふうに描いている。細川忠興の妻であった細川ガラシャは明智光秀の娘であり、「冬姫」にとっては父の敵の娘なのであるが、「恨みで報いられることは何一つない」ということに徹し、「冬姫」はガラシャ夫人が抱いていた悲しみに共感していくのである。このことが、実は本書の主題だろうと思っているが、それについては後述する。

 氏郷と「冬姫」の夫婦仲はよく、二人は深い信頼で結ばれていたと言われ、天正11年(1583年)に「秀行」が生まれている。やがて、氏郷は秀吉の小田原城攻めに参戦し、奥州の要として会津42万石(後に92万石)を与えられて、会津に移った。ちなみに、会津若松の「若松」という名は、蒲生氏郷がつけた名前で、彼はここに若松城を築いて城下を整備したのである。この間に「冬姫」は、後に前田利政の側室となる娘や次男の氏俊を生んでいる。

 会津若松で氏郷が「冬姫」とともに天守閣から城下を眺めながら、「わしはキリシタンゆえ、領主が自ら正しき道を歩めば、国はおのずから栄えるものであることを神の教えによって学んだ。ひとを怨まず、憎まず、互を思い遣って生きていける国をこの地に築きたいのだ」と言うくだりが記されているが(318ページ)、これはもちろん、作者の創作であろうが、尊敬に値する人間としての蒲生氏郷とそれに寄り添い夫を助ける「冬姫」の姿が直截に描き出されているのである。

 秀吉は、信長が認めた蒲生氏郷を恐れていたとも言われているが、秀吉が起こした朝鮮出兵の「文禄の役(壬辰倭乱)」の時、この戦に参戦するために肥前名護屋にいた蒲生氏郷は体調を崩し、文禄4年(1595年)大腸癌(直腸癌か膵臓癌)で死去した。享年40の若さであった。この蒲生氏郷の死には、秀吉か石田三成による毒殺説もある。

 氏郷は、いわば信長の娘婿であり、主筋に当たるので、秀吉にとっては煙たい存在であったことに変わりはなく、権力集中を図る秀吉にとっては織田家の影響を一掃するのが大きな課題であったことは間違いない。

 作者は、秀吉の朝鮮出兵を諌めた氏郷を秀吉も快く思っていなかったし、何よりも「淀(茶々 お市の娘)」が、「冬姫」と蒲生家への激しい嫉妬によって、石田三成を使って氏郷へ度々毒をもった出来事であったとしている。「淀」は伊達政宗を使って蒲生氏郷を罠にはめようとしたという展開までする。「淀」は、織田信長の妹で絶世の美女であった「お市」の娘であったが、父を殺され、母を殺され、意に沿わぬ秀吉の愛妾となり、気位の高さだけが生きがいのような女性で、「怨みの生涯」であったとも言えるからである。

 彼女は血筋の上からではとうていかなわない「冬姫」に対して敵愾心を抱き続けており、氏郷亡き後の蒲生家に対しても、陰湿な仕打ちをしている。そのために氏郷の後を秀行(この時点での名は秀隆)が継ぐときも嫌がらせをし、また、その後も石田三成を使って領地を召し上げ下野国宇都宮12万石に転封させている。そして、さらに「冬姫」の蒲生家を取り潰そうと画策している。

 この大幅な減封には、「冬姫」の美貌と信長の娘であるということで、まだ34歳だった「冬姫」を美女好きの秀吉が側室にしようとしたが、「冬姫」にきっぱりと拒絶され、秀吉がそれに激怒したためであるとの説もある。秀吉は若い頃から信長の妹で美女の「お市」に思慕を寄せており、「お市」の娘の「淀」を側室にしたのもそのためだったと言われるが、「冬姫」に対しても異様な執着心をもっていた。

 その説が事実かどうかは別にして、蒲生家の減封を実際に巧みに工作したのは石田三成であることは事実であろう。蒲生家の勢力を削減することを彼のような人間は考えるものである。

 しかし、秀行は豊臣秀吉の命によって徳川家康の娘「振姫」を妻とし、そのことと、「淀」と石田三成の仕掛けた罠との戦いのために、家康と盟を結び、それが関ヶ原後の蒲生家の命運につながった。蒲生家は関が原後、60万石の大大名として会津に復帰した。だが、秀行は30歳の若さで亡くなり、その後を継いだその子の忠郷や忠知(忠郷の弟)も若くして亡くなり、嗣子がなかったために寛永11年(1634年)に廃絶された。「冬姫」はこの行末を見届け、寛永18年(1641年)、81歳で亡くなった。

 本書は、「織田信長の娘として戦国の世を彩どって生きた、紅い流星のような生涯だった」と結ぶ(357ページ)。

 本書は、「冬姫」の「女いくさ」が、数々の恨みや妬みで生きる者と真っ直ぐに生きる者との戦いであったことを語るものである。恨みや妬み、あるいは私欲が嵐のように吹きすさぶ戦国の世で、ただ前をまっすぐに見て、愛する者を愛し、大切にする者を大切にして生きた女性として「冬姫」を描くのである。慶長3年(1598年)の醍醐寺での花見の席での「淀」と「冬姫」の対峙を描いたくだりは圧巻で、本書の主題をよく表している。

 あまり知られていない織田信長の娘で、蒲生氏郷の妻であった「冬姫」という存在に焦点をあてる作者の眼力もさることながら、それを「女いくさ」としてまとめるあたりも慧眼に値すると言えるだろう。わたしとしては、神秘性などなくてもよくて、もう少しまっすぐ描いてもよいのではないかと思うところもあるが、描かれた姿には感動する。

2013年1月28日月曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(6) 黒田騒動(2)


 朝目覚めたら、一面白く積雪して雪景色が広がっていた。やがて、陽が高くなるにつれて、溶けていったが、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」という名文のように、目覚めたら別世界が広がっているというのは、なかなか味がある。仕事を始めると、変わらずに昨日の課題が押し寄せてくるにせよである。窓を開けて、しばらく陽光にキラキラ輝く雪景色を眺めていた。

さて、海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)の「黒田騒動」の続きであるが、藩主の黒田忠之の怒りが頂点に達したことを察知した栗山大膳は、剃髪して妻子を人質に差し出しつつも、ここで一計を案じる。その翌日の寛永9年(1631年)6月15日、栗山家から密かに飛脚のような者が出てきて、これが監視していた藩の目付に見つかり、大膳が九州全体の探題のような役割をしていた豊後府内の竹中采女正重義(黒田官兵衛とともに智将と歌われた竹中半兵衛重治の縁戚筋にあたるが、長崎奉行の時に、島原の乱では過酷なキリシタン弾圧を行った)に宛てた訴状が見つかるのである。

 その訴状には、黒田忠之が幕府に対して謀反を図り、これを諌言した自分を成敗しようとしているということ、しかも用心のためにもう一人の飛脚を仕立てたと記されていたのである。忠之が幕府に謀反を企んでいるというのは、軍船の建造や足軽の新規召し抱えなど幕府から叱責を買うことはあっても、真っ赤な嘘であった。それらは、武を好んだ忠之の我儘な道楽のようなものだったのである。

 これは、栗山大膳がわざと飛脚が見つかるように仕立て、そうすることで、忠之が、もし大膳を処罰すれば幕府の黒田忠之に対する疑惑が深まるので、大膳を処罰して幕府の嫌疑を受けることがないようにした出来事だと言われる。海音寺潮五郎もその説をとるし、森鴎外『栗山大膳』でもその説が採られている。

 同年に肥後の加藤家がつまらないことで取り潰されているので、幕府にもよく知られていた栗山家と藩主の黒田忠之との間の齟齬が、ついに大騒動にまで発展してしまったので、このままでは栗山大膳も滅びるが黒田家も滅びてしまうことを案じての工夫だったというわけである。肥後の加藤家の取り潰しについては山本周五郎が面白い小説を書いていた。

 しかし、藩内では、そうした深慮を知る訳もなく、藩主と首席家老という立場にありながらも、主従を無視したような大膳の姿に激怒する者が多数あり、先手を打って竹中采女正重義に使いを立てて、取り調べを依頼した。竹中采女正は福岡に来て取り調べをし、大膳は福岡を立ち退いた。ただ、この立ち退く際に、大膳は鉄砲に弾を込め、槍を立てて、戦闘準備の格好で立ち退いている。

 やがて、江戸幕府から黒田忠之に召喚が来る。忠之もまた、参府すれば自分が処罰されることを覚悟していたという。その頃の江戸幕府の対処の仕方は、それが普通だったのである。幕府の詮議が始まり、さすがに黒田忠之の弁明も闊達で、その年は事なきを得たのだが、翌寛永10年(1632年)、豊後の竹中采女正のところに退いていた栗山大膳が、采女正に連れられて江戸に出てきて、三十数ヶ条に及ぶ訴状を正式に幕府に提出した。

 これによって、忠之は三度も幕府に呼び出されて尋問を受けた。幕府がもっとも気にしたのは大膳の訴状の中の幕府への謀反の疑いであったが、忠之は堂々と悪びれもせずに見事な答弁を行っている。他方、栗山大膳の方は、幕府老中土井大炊頭利勝の屋敷に呼び出され、幕閣が揃う中で尋問を受けている。この時、彼を尋問したのは大目付であった柳生宗矩である。そして、大膳の訴状にあったことは、同席した福岡藩の重臣や老臣からことごとく反論され、家康が長政に下した感状についても申し述べられ、大膳の訴状が根拠のないものであることが明白にされた。

 しかし、その翌日、井伊家に呼び出された大膳に大目付の柳生宗矩が、「なぜ、このような無根のことを訴えたか」と尋ねたとき、大膳は、これらが黒田家滅亡を防ぐための手段であったと語るのである。すべては黒田忠之の素行を改めるためであると言う。傲慢といえば傲慢だが、栗山大膳にはそういうところがあったのである。

 結局、黒田家は領地を召し上げるが、家康の感状がものを言って、その日のうちに福岡藩はそのまま黒田家に新規に下されるという、真に知恵ある処罰が忠之に下され、栗山大膳には南部山城守(青森)預かりで、150人扶持が与えられ、居所周辺三里以内の自由行動が認められるという裁定が下りる。

 この裁定の後に、もし忠之に処罰がくだされるような判決がでたら、どうするのかと大膳に尋ねたところ、大膳は、その場合には家老一同遁世するつもりであったと答えたという。つまり、大膳は自らを斬って藩主と藩政をあらためさせることが目的で、それがかなわなければ一緒に滅ぶ覚悟であったというのである。大膳は福岡を出るときに、長政に与えられた家康の感状を家来に預け、もし、黒田家が取り潰されるようなことになったら、この感状を差し出して、黒田家を救うように言い含めていたと言われている。だから、この大膳の主張は極めて正当性が高い。

 その後、黒田忠之は寵愛によって家老に取り立てていた倉八十太夫を辞めさせ、やがては思慮深い君主とまで言われるようになっていく。南部藩に預けられた栗山大膳は盛岡で優待され、62歳までの18年間を、風格を持したまま堂々と暮らしている。

 こうして一連の黒田騒動は幕を閉じるのだが、策略を設けてことを運ぶような人間には、どこか傲慢さがあって、「武」が「策」であった戦国時代の名残の中で、傲慢さと傲慢さがぶつかり、この騒動が起こったという気がしないでもない。栗山大膳は、なかなかの人物だったのかもしれないが、彼の問題は、彼が人を信用しなかったというところにあるのかもしれないと思ったりする。どんなに知恵があっても、「策」を好ましいものとは思わないわたしにとって、栗山大膳には疑問を感じるし、「素行」などというつまらない倫理観をもった結果であるような気がする。しかし、黒田騒動はどこにも悪者がいない政治的な騒動であった。それは紛れもない事実である。

 本書には、その他、加賀騒動、秋田騒動、越前騒動、越後騒動が記され、下巻には、仙石騒動、生駒騒動、楡山騒動、宇都宮騒動、阿波騒動が記されているが、図書館の返却日があって、それらの騒動について記している時間がなくなってしまった。それらの記述は、また、時を改めて記したいと思うが、ともあれ、極めて面白く読めた。大まかな騒動の実態を知った上で読むには最適だろうと思う。

2013年1月25日金曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(5) 黒田騒動(1)


 冬晴れの空が広がっているが、ときおり窓を揺するほどの強い北風が吹いている。この時期はしなければならないことが山積みしていくのだが、寒さを理由になかなか手をつけないでいる。それでも日々が過ぎていくのだから、気楽といえば気楽である。

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)の「黒田騒動」であるが、江戸時代三大お家騒動の一つである「黒田騒動」について書き出すにあたって、海音寺潮五郎は家柄家老と仕置家老の区別から始める。家柄家老というのは、藩が成立するときに最も功のあった人物の家から出てくる家老で、譜代を代表する家から世襲として出てくるものである。世襲だから、優れた人物もあれば愚鈍な人物もあるが、ともかく藩の重臣として重きを置かれる。仕置家老というのは、時の藩主が藩政を行いやすいように取り立てて家老にしたものである。従って、かなりの能力を持つ者が多い。そして、どこの藩でも、大なり小なり家柄家老と藩主や仕置家老の勢力争いのようなものは起こっている。

 福岡藩黒田家の場合、初期の段階でこうした対立が起こって、それが藩の存亡をかけたものにまでなりそうになり、黒田家がもっていた特別な事情で決着がつけられたのであるが、この騒動もいくつかの謎を残したまま風聞が大きくなった騒動とも言える。

 福岡藩黒田家は、非常に優れた軍師と謳われ、事実、稀代の傑出した人物であった黒田官兵衛高孝を祖とするものであり、黒田官兵衛高孝は、豊臣秀吉の名軍師として秀吉の天下統一に最も功績があったと同時に、秀吉や徳川家康から恐れられた人物でもあったが、関ヶ原の合戦の時は、息子の長政が徳川側について武功をあげ福岡藩52万余石を与えられて成立したものである。息子の黒田長政は石田三成を極力嫌っていたから、黒田家は反三成として家康の側についたのである。そして、関ヶ原の雌雄を決する武功をあげ、「今後は、徳川家は黒田家の子孫を決して粗略には扱わないという「感状」さえもらっていた。

 黒田官兵衛は世に並ぶ者なき傑出した人物であったし、その子の長政も、父の官兵衛ほどではないが、武功に優れた人物であった。熟慮をし、決断力があり、それを断行した。ただ、長政は短気でわがままなところの強かった人物ではある。そうでなければ生き残った上にさらに武功を重ねるなどできないことであるが、黒田長政と後藤又兵衛(基次)の確執はよく知られている。その黒田長政が元和9年(1623年)に56歳で死去し、その後を長男の忠之が継いだのだが、この忠之の時代に「黒田騒動」が起こったのである。

 福岡藩2代目藩主となった黒田忠之については、歴史的な評価が別れ、ある人は短期直情型の傲慢な人物だったというし、他の人は、決して暗君ではなく、豪胆な決断力を持った人物だという。おそらくどちらも当たっていて、若い頃は短気直情の傲慢さが目立ち、老齢になって経験と熟慮が重ねられていったと言えるかもしれない。忠之は、武を好んだ長政の血を引いていたのである。

 この黒田家に家柄家老の栗山家があった。黒田家の重臣としての栗山家の祖となった栗山善助(利安 15511631年)は、極めて優れた人物で、15歳の時から黒田官兵衛に仕え、少年の頃から、温和で道理をわきまえ、自分をよく知り、沈着で、官兵衛を尊敬してやまなかった人である。

 黒田官兵衛が播磨(兵庫)にいて、まだ秀吉に仕える前、キリシタン武将であった荒木村重が織田信長に反旗を翻し有岡城に立てこもったっ時、官兵衛が彼を説得するために単身で有岡城に行って1年余も地獄のような地下牢で監禁され、歩行も困難になるほど枯れ果てて死ぬばかりになった時に、官兵衛を探し出して励まし、有岡城落城の時に官兵衛を死地から救い出したのが栗山善助であった。栗山善助は武功も優れ、黒田家の先陣としての数々の功績も上げて、黒田八虎の一人と数えられるし、学問や芸術の造詣も深かった。「黒田家が今日あるは善助のおかげ」とまで言われている。官兵衛の命の恩人であり、関ヶ原の合戦の前に官兵衛の妻と長政の妻を大阪から逃げ延びさせたのも栗山善助であった。そして、その子長政にも補佐役としてよく仕えた。武人として一流の人物だったとも言えるのである。

 栗山善助は、年齢を重ねるに従ってますますその人間性に深みを増し、謙遜で家中の者たちを大事にした。そして、元和3年(1617年)67歳の時に、家督を息子の大膳利章に譲って隠居した。やがて、元和9年(1623年)、徳川家光の将軍宣下の上洛に際して京へ向かう途中で黒田長政が発病し、死去して、黒田家は忠之が家督を継いだ。

 この黒田家の家督相続について、忠之は幼少の頃から我儘な振る舞いが多く、長政は忠之に家督を継がせることに不安を覚えていたと言われる。長政は、一時は忠之を廃嫡にして有能な三男の長興に家督を継がせようとした(妾腹の次男甚四郎-政冬-は夭折した)。一万両を出すから商人になれ、とまで言ったという文書が残っている。しかし、その時に藩の重臣となっていた栗山大膳利章が強く反対して、結局、長政は家督を忠之に譲るのだが、それでも心配で、弟を可愛がるように遺言し、藩政は栗山大膳と長政が取り立てた小河内蔵允、黒田一成(官兵衛が有岡城に監禁された時に世話をしてくれた加藤重徳の次男で、官兵衛は重徳に感謝して彼を養子とし、長政の弟のようにして育てた。三奈木(朝倉市)に居館を構えたために三奈木黒田と称され、家老職となっていた)の三人の家老に相談して行うように、また、徳川家康からの感状があるので、万一の場合はこれをもって家の安泰を図るように遺言したのである。この時の遺言に基づいて、長興に秋月5万石、四男高政に鞍手郡東蓮寺4万石が分領された。

 結局、忠之は栗山大膳によって家督を相続することができたと言えるのであるが、もともと忠之は栗山家で生まれ、その時、大膳は12歳で、いわば大兄のような存在で、そのこともあって大膳は忠之の日常生活のあれこれから、「朝は早く起きろ」といったような微細に渡って度々諫言している。しかも、漢文の素養があって、それを用いての高飛車な言い回しで、忠之は次第にそれを疎ましく思い始めていくのである。大膳は、文武に秀で、漢詩を好み、幕府の学頭であった林羅山の薫陶を受けるなどした教養人であったが、忠之は武を好み、漢文などには関心もなく、また、素行も改まらずに癇が強くて、粗暴で好き嫌いが激しく、気にいらない家臣をやたらうち叩いたりもしていた。

 忠之は、後には一廉の人物になっていくが、若い頃は家臣の支持も信用もなく、島原の乱のときには、藩士たちは忠之の命令には従わずに黒田一成の命に従って戦ったと言われる。大膳は、そういう忠之に執拗なまでに換言を繰り返すのである。

 忠之としては、常に大膳などの歴代の譜代の家臣に頭を抑えられているような感じで、藩政を取り仕切りたいと思っていた彼にとって大膳は目の上の瘤のような存在でしかなく、やがて、小姓として寵愛していた(男色の相手)倉八十太夫正俊という人物を側近グループの中心として仕置家老に置くのである。忠之は十太夫に加増に次ぐ加増を与え、後には9千石にまでしている。

 こうして忠之は藩政を自分の側近たちで固め、三家老を重視せよとの父長政の遺言にあったようなことを無視していくようになる。秋月藩を分領した弟の長興とも強い確執があり、その仲は険悪であった。また、忠之は、当時江戸幕府が禁じていた大船の建造に着手して、寛永5年(1628年)に軍船鳳凰丸を造り、軍備の拡張を図ったりした。こういう事態に長政の意を受けた者としての栗山大膳は我慢できなくなり、一時は家老職を辞し、忠之もあっさりそれを認めたが、江戸幕府の覚えもめでたい大膳を辞めさせることができずに復職させている。しかし、家老としての仕事は一切させなかった。

 寛永8年(1630年)、福岡藩の重鎮であった栗山善助(利安)が享年81で死去し、それからまもなくして、忠之は祖父官兵衛が善助に与えた合子の冑と唐皮おどしの鎧一式を大膳に返還させ、これを倉八十太夫正俊に与えたのである。大膳は怒ってこれを取り返し、福岡城内本丸の蔵に収めた。このことに対して、忠之はただ何も言わず、両者のにらみ合いのような状態が続いたのである。忠之が江戸から帰国しても大膳は病気を理由に迎にも出ないような険悪な状態だった。寛永9年(1631年)に隣藩の大藩加藤家が取り潰されている。江戸幕府は豊臣家に縁のあった大名を次々と取り潰していったのである。黒田家は、もちろん官兵衛が秀吉の名軍師であったのだから、その動向は常に監視されていたと言えるだろう。

 こういう状況の中で、度々の登城の要請を否んでいた栗山大膳の態度に激怒した忠之は、彼に閉門を申しつけ、藩士に大膳の屋敷を取り囲むように命じるだけでなく、自ら押しかけようとするのである。二人の元老からそれは止められるが、大膳は要求に答えて、自ら剃髪し、人質として妻と息子を差し出すのである。通常なら、これで大膳が、自分の態度の傲慢さを詫びて、隠居するかどうかして収まるところではあるが、そうはならなかった。それが「黒田騒動」のクライマックスとなっていくのである。意地と意地の張り合い、そのようにも見受けられかねないが、実は事柄はそう簡単ではなく、そのことについては、また、次回に記すことにする。

2013年1月23日水曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(4) 伊達騒動(2)


 相変わらず寒い日々が続いているが、先日、安部龍太郎氏が今年の直木賞を受賞されたとの報が伝わり、実力ある著作活動を展開され、このところ円熟味さえ出てきているので、大変嬉しく思っている。彼もまた、直接的に著されることはないが、思想を持つ時代小説家だと思っている。

 それはともかく、海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫の「伊達騒動」の続きであるが、幼くして仙台藩主となった伊達綱村の後見人として藩の実権を掌握した伊達兵部宗勝は、藩目付役(監察官)から特別に三人の者を選び、その機能を強化して、家老を越える権限を与え自分の直属とした。江戸幕府から綱村の後見人として指名された田村宗良は、争いを好まない温和な人であったし、もう一人の柳川藩主立花忠茂は、やがて隠居して伊達家のことにあまり関わらなくなっていったから、仙台藩は伊達兵部宗勝の独断で進められるようになったのである。そして、彼の直属の三人の目付は、次第に強権を振るうようになっていったのである。

 山本周五郎が『樅ノ木は残った』で再解釈を提示した原田甲斐は、この時の家老で、伊達兵部宗勝に全面的に協力したのである(海音寺潮五郎は山本周五郎とは異なって原田甲斐が凡庸な人物だったと評しているが、原田甲斐は多くの人々に慕われていたということがあるし、彼が起こした「寛文事件」も謎が多いので、真相はよくわからない)。

 ともあれ、こうした伊達兵部宗勝の権勢に対して、これを快く思わない人物も当然出てくるわけで、里見十左衛門重勝という人物がそれである。彼は、寛文5年(1665年)に隠居していたが、剛直な人柄で、学問もあり、腕も立ち、家中の人々から尊敬されていた人物で、その年の12月末に伊達兵部宗勝に換言を申し入れる手紙を書くのである。兵部宗勝は、彼が隠居の身であり、しかもその性格をよく知っていたので、彼の申し入れを無視してしまう。

 しかし、こういう妙に正義感に取り憑かれたような人は執拗で、里見十左衛門重勝は兵部宗勝をどこまでも追求しようとし、宗勝は原田甲斐に里見十左衛門と会うようにしたが、十左衛門は納得せずに諫書を提出してしまうのである。それによって事柄が公になったこともあり、伊達兵部宗勝は、一説によれば、十左衛門を妬みと虚言悪口による罪で死罪にしようとしたが、里見十左衛門の兄が紀州家の家臣であることをはばかって、これを止めたとなっている。

 伊達家の家中では、里見十左衛門の諫書が伊達宗勝の怒りを買い、十左衛門が死罪に処せられようとしているということが噂となり、家老の一人であった伊藤重義の養子である伊藤采女と伊東家の分家の次男であった伊藤七十郎重孝、采女の実兄の遠藤平太夫という人などが、里見十左衛門の諫書の写をもって伊達家の一門であり湧谷伊達家を形成していた伊達安芸宗重に送り届けるのである。

 仙台藩伊達家は藩祖であった政宗の後、その子どもたちに地方知行(じかたちぎょう)として分領を与え、伊達安芸宗重は万石以上の知行をもって、藩内の有力者であったが、伊達兵部宗勝がそうした有力者たちとの合議も行わすに専横的に藩政を行うことは容認し難いことだと思っており、こうして伊達安芸宗重が反宗勝派の筆頭のようにして台頭してくるのである。

 そういう中で、伊達安芸宗重と、同じように知行地をもつ一門の伊達宗倫(一門第五席、2万石)との間で領地争いが起こり(寛文5年 1665年)、その争いが長引いたために、兵部宗勝らの藩首脳部は、係争地の三分の二を伊達宗倫として認める裁決を下す。だが、安芸宗重はその裁決に不服で、再吟味を訴えたりするが、宗勝はこれを受け付けなかった。

 また、寛文6年(1666年)に、幼君であった亀千代丸(綱村)の毒殺未遂事件というのが起こる。亀千代丸の毒見役が食前の毒見をして即死したのである。この事件は謎の多い事件で、海音寺潮五郎は、これらの毒殺未遂を図ったのが兵部宗勝であるようにしむけて彼を悪者とする「でっち上げ」ではないかと見ている。

 そして、寛文8年(1668年)には、今度は伊達兵部宗勝暗殺計画を伊藤七十郎重孝らが図っていることが発覚し、伊東七十郎重孝らに家族共々処刑されるという厳罰が下された。伊東七十郎重孝は文武両道の達人として藩内外で著名だったし、彼を慕っている人々も多数あり、これらの騒動で、兵部宗勝に対する反感はますます強くなるのである。

 ここにきて、知行問題でも不満を持っていた伊達安芸宗重は、愚かにも、仙台藩の現状を幕府に訴えるのである。寛文10年(1670年)12月のことである。これを受けて、江戸幕府は伊達家の家老の原田甲斐(宗輔)と反宗勝派の古内志摩義如、柴田外記朝意を江戸へ召喚して吟味を行う。その最初の吟味で、原田甲斐の証言と柴田外記朝意の証言が食い違ったために、寛文11年(1671年)3月27日に場所を幕府老中酒井忠清の屋敷に移して二度目の吟味を行うことにするのである。

 この審問中の控え室で、突如、原田甲斐は、伊達安芸宗重を斬り殺して、老中たちがいる部屋に突進するが、酒井家家臣に斬殺されるのである。この時、原田甲斐は、既に死を覚悟して鎖帷子などを着込んで準備していたという説もあり、原田甲斐がなぜこのような行動を起こしたのかは謎のままである。山本周五郎は、その謎を、仙台藩の取り潰しを企んでいた幕府老中の手から、仙台藩を一命を賭して守ろうとしたとしているのである。

 ともあれこの事件で、幼君亀千代丸(綱村)は幼いためにお咎めなしになって仙台藩は守られたが、刃傷沙汰を起こした原田家、後見人として事件をもっていた伊達兵部宗勝の一関藩は改易となった。

 事件はこれで一応の決着を見せたのだが、その後も、藩主亀千代丸が成長して伊達綱村と改名し、藩主としての力を強めようと自分の側近を藩の重職に据えようとするようになっていくとき、伊達一門と旧臣たちはこれに不快感を持って、綱村に隠居を勧告するのである。そしてそれが聞き入れられないとなると、今度はそれを江戸幕府に訴えるのである(元禄3年 1703年)。綱村は江戸幕府老中の強い勧告を受けて隠居する。

 こうして見てくると、「伊達騒動」は、権勢を身につけて独善に走る者と出る杭を打とうとする伊達一門による単なる勢力争いに過ぎないことがよくわかるが、極めて優れていた伊達政宗の下で統一されていた伊達家の家中で、統一の要を失った家臣団の右往左往ぶりが引き起こした事件だとも言えるだろう。あるいはまた、「武」から「文」への移行に失敗した結果だとも言える。

 ちなみに、海音寺潮五郎は山本周五郎が描いた原田甲斐像をあまり評価していない。彼の刃傷沙汰は依然として謎のままであることは間違いない。ただし、『樅ノ木は残った』は、、作品としては名作だとわたしは思っている。

2013年1月18日金曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(3) 伊達騒動(1)


 冬晴れの寒い日になっている。14日(月)に降った雪が、今日になってもまだ解けないで道路のあちらこちらに残っている。日中の気温がそれほど上がらないということである。北アフリカのアルジェリアの天然ガス関連施設で、日本人を含む外国人が多数拘束され、昨日(17日)、アルジェリア軍が救出作戦で突入し、多数の死傷者が出た。犯行を起こしたのはアルジェリア内のイスラム武装組織と言われ、彼らは国際テロ組織のアルカイダと繋がって、隣国のマリに対するフランス軍の介入の即時停止を要求していたと言われる。拘束して人質に取るという卑劣な行為は、金銭も絡んでいることが多いので、彼らの主張は、単に政治的なことだけではないだろう。

 こういう事件が起こると、2001年に起こった「9,11米国同時多発テロ」の場合もそうだったが、どうしても「防衛」という意識を強める傾向になる。北朝鮮の弾道ミサイル実験や竹島や尖閣諸島などの領土の主張などに取り囲まれている日本の状況もあって、「防衛」ということが正義の装いをもって主張されたりする。しかし、戦争は双方の防衛意識の衝突なのである。国際社会のリーダーたちに、今は「知恵ある者」が少なくなっているので、こういう傾向を危惧している。

 閑話休題。海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)は、「島津騒動」の後に「伊達騒動」を取り上げる。この「伊達騒動」は、関係者が死滅したり、文書が秘匿されたりしたために真相が今ひとつ解明されていないのであるが、簡単に言えば、江戸時代前期の仙台藩で起こった勢力争いのようなものである。江戸時代の「三大お家騒動」と呼ばれるのは、この「伊達騒動」(1660年)、福岡藩で1633年に起こった「黒田騒動」と金沢の前田家で起こった「加賀騒動」(1748年)であるが、「伊達騒動」ほど意味のない騒動はないかもしれないと思っている。

 「伊達騒動」の概略を記せば、この騒動の発端は、伊達政宗の孫に当たる伊達綱宗(16401711年)が若干19歳で3代目藩主を継いだことに始まる。綱宗は気質は剛毅闊達であると同時に、風流人で、画は狩野探幽に学び、和歌や書、蒔絵などにも優れた作品を残しているが、酒乱の性癖があったと言われている。彼の母は父忠宗の側室「貝姫」で、母の姉が宮中に入って後水尾天皇の側室となり、その子が後西天皇になったために、彼は天皇の従兄弟にあたり、後水尾天皇の時代には公家諸法度などを巡って江戸幕府と朝廷との間の確執が最も高くなった時で、江戸幕府は、大藩である仙台藩の藩主となった伊達綱宗に警戒する気持ちがあっただろうと察される。山本周五郎の名著『樅ノ木は残った』では、このあたりのことが斟酌されて記されているが、海音寺潮五郎はこのあたりのことは触れない。「伊達騒動」を幕府と朝廷の争いの枠の中に置くには、これがあまりにも人間欲が絡みすぎているからだろうと思う。

 おそらく、綱宗は藩主となったが、その剛毅闊達な気質や酒乱が過ぎたために藩内では孤立した存在であったかもしれない。仙台藩は絶えず江戸幕府に気を遣っており、その中で朝廷の血筋である綱宗は表立って支持されなかったし、加えて、2代目藩主であった父忠宗の正室(振姫-姫路藩主池田輝政の娘で、母が家康の次女だから家康の孫に当たり、2代将軍徳川秀忠の養女となって伊達忠宗に嫁いだ)の子で、世子として期待されていた伊達光宗が19歳で早世した(1645年に死去)ことからやむを得ずに彼を藩主としたということもあり、藩内における彼の孤立は癒し難いものがあったのではないかと察される。そのことがまた彼をいっそうの酒乱に向かわせ、それで藩内の人望をさらに失うという悪循環を作り出したのではないかと思う。綱宗は仙台藩の重臣たちに嫌われて、補佐を受けることがあまりなかったのではないかと海音寺潮五郎は指摘する。

 勢い藩政の責任を負う重臣たちは、綱宗が若年だったこともあり、英邁と言われていた綱宗の叔父の伊達兵部宗勝(16211679年)を頼りにするようになる。伊達兵部宗勝は伊達政宗の十男で、政宗55歳の時の子であるから政宗から寵愛され、兄の2代目藩主忠宗とも仲がよく、特に一万石を分け与えられて支藩である一関藩を別に立てていた。忠宗は自分の長女(柳川藩立花左近忠茂の妻)の妹を宗勝の嫁にもらったりしているし、宗勝はまた自分の子どもの性質に幕府老中酒井忠清の養女をもらうなどして、江戸幕府との繋がりも強めたりしている。

 こういう伊達兵部宗勝を仙台藩の重臣たちが綱宗の後見人のようにしていたことは事実で、このころから既に宗勝は仙台藩の実力者だったのである。

 綱宗が藩主となった翌年(万治2年-1659年)に仙台藩は江戸幕府から小石川掘の大普請工事(神田川普請工事)を命じられ(江戸幕府は代替わりをした大名にこうした普請工事を命じた)、これは人足六千人以上を動員する大工事で、綱宗は毎日のように普請工事現場に出かけた。そして、近習の者にそそのかされて(と言われているが真相は不明)吉原通いを始めるのである。彼の吉原通いはかなり頻繁で、かなり目立ち、江戸市中の噂にもなったという(噂になったかどうかの真相は不明だが、江戸家老が何度もそれを諌め、夜中に彼を連れ戻しに行ったという記録はある)。

 彼が吉原で通いつめた相手は、一説では三浦屋という店の高尾という遊女であったと言われるが、高尾という源氏名は歴代継承されてきた名前で、この頃に高尾を名乗る女性はおらず、湯女出身の勝山という説もあり、山本屋という店の「薫(かおる)」という説もある。しかしいずれにしても、綱宗が吉原に通い、酒色に溺れたことは事実で、好意的に見れば、その頃の吉原の女性は、遊女とは言え一流の教養人で、その教養もかなり高く、孤独を噛み締めなければならなかった綱宗が自分の風流を唯一理解してくれる女性に深い慰めを見出したのではないかと思う。

 綱宗の吉原通いはかなり目立ち、彼の姉の夫である柳川藩主の立花忠茂が、老中酒井忠清が綱宗の行状を改めるように意見しり、後見人のような立場にあった伊達兵部宗勝と立花忠茂を呼んで不快感を表したという手紙を藩の重臣たちに出している。しかし、綱宗の吉原通いは止むことがなかった。

 通説では、このことで、伊達兵部宗勝が息子の嫁の養父である老中酒井忠清と図って、事柄を大げさにして、綱宗を隠居させて、自分の子である宗興を仙台藩の相続者にするためだったと言われるが、海音寺潮五郎はそこに疑義を挟み、藩内で既に綱宗排斥の動きがあったのではないかと見ている。

 ともあれ、綱宗の吉原通いは江戸幕府老中が知るところとなり、行状不行き届きで藩主として不適格とみなされて改易された大名もあることから、綱宗は、藩主となってわずか2年で隠居させられる。この時、彼はまだ21歳である。その後彼は、作刀や芸術にいっそう傾倒して72歳で死去した。彼は品川の大井にあった屋敷から一歩も外に出ることを許されなかったのである。

 綱宗の後を継いだのは、その子の綱村(幼名亀千代丸)だったが、このとき綱村はまだ2歳で、江戸幕府は伊達兵部宗勝を加増し正式な後見人とし、宗勝と共に後見人的立場あった田村宗良(伊達忠宗の三男)も加増して後見人とするよう命じた。こうして正式な後見人となった伊達兵部宗勝が藩政の全体を掌握するようになり、やがてこれが「寛文事件」と呼ばれる「伊達騒動」に繋がっていくのである。この事件の解釈もいろいろあるので、この事件については次に記すことにする。

2013年1月16日水曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(2) 島津騒動(2)


 14日(月)に降った大雪が溶けずに、まだ残って寒い。車を出すために雪かきならぬ氷かきをして道路の凍結状態を解除した。こういう経験もここでは珍しい経験である。

 閑話休題。海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)の「島津騒動」の続きであるが、島津家第8代藩主で豪気な気質を持っていた島津重豪が89歳で病没し、重豪の孫の斉興がようやく藩の実権を握ることができたのは44歳であった。斉興には三人の男子があった(他に二女)。徳川家や伊達家の血筋を持つ賢婦人と言われた正室の周子(かねこ 弥姫)との間に長男の斉彬と次男の斉敏、そして側室であった「お由羅」との間に久光をもうけていた。この内、次男の斉敏は備前岡山の池田家の養子となり、後に岡山藩第7代藩主になったから、残ったのは長男の斉彬(18091858年)と三男の久光(18171887年)であった。

 斉彬は幼少の頃から聡明の評が高く、特に曽祖父で豪胆だった重豪のお気に入りで、隠居屋敷に連れてきては珠玉のように可愛がったと言われている。斉彬が25歳になるまで重豪は在命しており、斉彬は重豪の大きな感化を受けたと思われる。特に、重豪は、オランダ人と交わるために自らオランダ語を習得するなどしたが、そういう新しいものを積極的に取り入れ、西洋の文物を趣向する傾向や世界情勢への知識は斉彬に受け継がれている。

 斉彬は、私生活は曽祖父の重豪とは異なって吝嗇と思われるほど質素であったが、有用な西洋の品物は費用を惜しまず買い入れた。機械、器具、洋書を積極的に買い、それによって制作や実験を行い、理化学に基づいた工業が西洋列強の力の源であることを見抜いて、自らもアルファベットを学んだりしている。

 しかし、彼のこの聡明さ、曽祖父の重豪と似た積極的な進歩への熱意、必要なものには金を惜しまない姿勢、才能ある者への身分を越えた登用などが、おそらく、父親の斉興や、ようやく重豪の乱費から財政を再建させた藩の重職らに危惧を抱かせたのである。海音寺潮五郎は、藩中の大部分が斉彬に対して経済的な危惧を抱いていたのではないかと言う。

 他方、久光の生母「由羅」は、町家の出身で(八百屋の娘とか船宿の娘とかの諸説がある)、15歳で薩摩藩江戸屋敷に奉公に出て、まもなく斉興の寵愛を受けるようになり、男の子を生んだ。それが久光で、斉彬の8歳年下になる。斉興は「由羅」を寵愛し、国許の「お国御前」として薩摩に連れて行き、参勤交代で江戸に出るときは江戸に連れて帰り、国許に帰るときは国許に連れて行ったと言われるほどであった。斉彬は世子として江戸で育ち、久光は薩摩で育ったのである。

 久光も幼少の頃から賢明だったそうだが、薩摩の重臣たちの間で育ったこともあり、洋学を嫌って旧来の保守の気質を色濃くもっていた人であった。

 苦労して破綻した財政を立て直してきたこともあり、斉興は斉彬に家督を譲ることを躊躇したし、家老で財政再建の立役者であった調所廣郷らも強い危惧を持っていった。斉興も50歳を越え、斉彬も30歳を過ぎ、斉彬は、そのころ既に彼の聡明さや賢明さが人々によく知られ、特に老中首座であった阿部正弘は斉彬の見識を尊敬して兄事していた。弘化元年(1844年)から英国とフランスが相次いで琉球(沖縄)に来て通称を求めた際も、老中阿部正弘は、その処理を藩主の斉興ではなく、斉彬にさせるように命令している。江戸幕府は、斉興に早く引退して、斉彬に後を継がせるように諫言したのである。斉興は既に56歳、斉彬は38歳になっていた。この時に、家老の調所が費用を惜しんで斉彬に十分な働きをさせなかったことがあり、斉彬は調所ら薩摩の重臣たちに苦々しい思いを抱いていたし。薩摩の重臣たちも斉彬に対する危惧を一層強めたのである。

 こういうことは、才気活発な人間とそれを取り巻く人々のなかによく起こることであるが、一面では抜きん出た先見性と見識、豪胆さと聡明さをもつ斉彬を旧来の枠の中でしか考えることができなかった薩摩の重臣たちと、そのことが理解できなかった斉彬の傲慢さが後の悲劇を生んだとも言えるかもしれない。

 そして、斉彬の子どもたちがことごとく幼死するということが起こっており、斉彬を尊敬する藩士たち(主に才能豊かな青年たち)が、斉興がいつまでも藩主の座を譲らず、斉彬の子どもたちを根絶やしにして、自然に久光に後を継がせるようにする計画があるのではないかと言い出し、母親の「由羅」が我が子久光の可愛さに、「由羅」と家老の調所が結託して神仏に呪詛を祈願して、斉彬の子どもたちを呪詛で殺した疑いをもったのである。

 「由羅」は、確かに郊外の精光寺に参詣し、参詣人のための茶屋を寄進したり、霧島神宮に詣でたりしていた。しかし、「由羅」や調所らが斉彬の子どもたちを呪い殺すというようなことをしたとはとうてい思われない。これは、はやく藩政を自分のものにして、危急の事態に備えたいと考えていた斉彬の意を組んだ反調所派の言いがかりだったのではないかと思う。家老の調所や彼を支えた人々の様々なことが取り上げられ、調所廣郷自身には不正なことはなかったが、些細なことで私腹を肥やしているということが挙げられたり、また、調所が頼りにしていた人々も、確かに、傲慢に私腹を肥やしたところがあったりして、それらが次々と取り上げられた。

 これは、おそらく、西郷隆盛や大久保利通などもそうであるが、斉彬は有為で才能ある人材を藩の身分制度を無視する形で次々と登用し、そうした斉彬に師事した人々が、斉彬に早く家督を譲ることを性急に求めたのであろうし、斉彬自身も、中年になっても家督を譲られないことへの焦りがあったことで起こったことだろうと思う。そして、諸外国からの圧迫が強くなって事態の収拾を急いでいた江戸幕府も、斉彬の才能を高く評価して、彼に期待することが大であり、特に老中首座であった阿部正弘は、斉彬の正式な表舞台への登場を切望していた。

 そこで、斉彬と阿部正弘は密議をこらして、綱渡りのような一計を行った。それは、薩摩の密貿易を幕府が知り、これを咎めることで、斉興に引退させ、調所らの失脚を行うというものであった。薩摩の密貿易は公然の秘密であったが、下手をすれば藩の取り潰しにもなりかねないことを行うのである。もちろん、これは江戸幕府老中が絡んでいるので、そのような事態にはならないという斉彬の腹積もりはあったのである。

 幕府は、藩政を一手に取り仕切っていた調所廣郷を江戸に召喚して尋問した。しかし、調所廣郷は、密貿易などの全ての責任を一身に引き受けて自害し、事柄は藩主であった斉興にまで及ばなかった。しかし、中心であった調所を失った人々は没落する。ただ、調所の働きを重んじていた斉興は、責任をとった調所に厳罰を処すことをせず、一応は家の取り潰しという体裁を取りながらも、嫡男の左門を国許に返して稲留という苗字に改名させて家を存続させ、600両もの大金を家屋敷の取得のために与えている。

 他方、斉彬を支持する人々は一層の結束を固め、1)兵動家(武士であると同時に山伏であり、陣中で敵を呪詛する修法を行う-こういうことが真面目に信じられていたのである-)を同志に引き入れて、斉彬とその子女の安泰を祈る。2)信賞必罰を求めて、調所を中心とした経済官僚に厳罰を求める。3)藩政改革。4)斉興の隠居と斉彬の襲封。5)以上を早急に実現するため、筑前福岡藩主となっている斉彬の叔父の黒田斉溥(長溥)に訴えて、幕閣に運動してもらう、を決めて行動していく(海音寺潮五郎は、彼らの計画をそう解釈している)。

 薩摩藩の重臣たちはこの動きを察知して密偵を送り込み、この計画を藩主の斉興に告げた。この際に一気に斉彬を支持する者たちを潰そうとしたのである。そしてこれを聞いた斉興は激昂し、斉彬を支持していた人々を捕縛して厳罰に処したのである。この時、切腹はもちろん家族も遠島などの厳罰に処せられた者は50名を越えている。斉彬に組みし改革派であった江戸家老の島津壱岐も更迭されて隠居謹慎を命じられ、その二日後に切腹している。斉彬を支持していた者たちのすべてが根絶やしにされたのである。こうなっては、斉彬の世襲はもはや絶望的になった。

 しかし、斉彬を支持していた者たちの中の4名が藩を脱出し、筑前福岡藩の黒田斉溥(長溥)に保護を求め、斉溥(長溥)は、薩摩藩の引渡し要求を巌として拒絶して、事態の収拾を老中阿部正弘に訴えたのである。阿部正弘は将軍徳川家慶に斉興の隠居を要請し、家慶は、引退後の生活を暗示する茶器や十徳(朱色であからさまに隠居を意味した)を贈って、斉興の隠居を勧めた。しかし、斉興はこれを無視して隠居しない。そこで、隠居が将軍命によることを告げ、ようやく斉興は隠居するのである。斉興62歳、斉彬43歳であった。

 斉興は祖父の重豪が長く院政のような形で藩の実権を握り、ようやく44歳の時に藩政の実権を握ることができたが、その祖父と同じように長男の斉彬に藩主の座を長く譲らずにきたのである。その間に時代は大きく変化し、時代は斉彬の登場を待ち望んでいたが、これを無視し続けた。こういうところに島津騒動の問題があったのである。あるいはまた、抜きん出た才能をもった人物を取り巻いた騒動とも言える。

 通称「お由羅騒動」と呼ばれる島津騒動はこれで決着したのであるが、海音寺潮五郎は、実はこの騒動は簡単には決着せずに、明治維新後の西郷隆盛と島津久光との間まで続いていたと見ている。

 斉彬は、藩主となって、父の時代に家老や重職を務めた者をそのままにし、また、遠島になったり、差控えを命じられたりした者たちの処分も解くことなく、彼を支持した者たちにはそれが不満であったが、やがて機会を見て、適切に罪を解除していく方法をとった。斉彬は藩内に分裂を起こすことを賢明に避けたのである。彼は、曽祖父の重豪が行ったような「近思録くずれ」や、父親の斉興が行った厳罰主義を取らなかったのである。自分の子どもたちを呪詛したといわれる「お由羅」にもなんの処罰も与えていない。彼の賢さは彼の優しさとなって現れてもいた。

 その代わりに、自分の腹心たちを藩政の要路につけ、次々と新策を実行し、造船所を建てて洋式帆船や蒸気船などの軍艦を作り、反射炉や溶鉱炉を設置し、兵器廠を作って洋式鉄砲を大量に製造した。また洋式紡績機を据えつけて紡績工業を起し、ガラス製造業(薩摩切子)を起し、電信機を作って城内に張り巡らせて電気通信を始め、ガス燈も制作させ、軍制も洋式に変えた。藩の富国強兵策を進めたのである。彼が起こした事業は「集成館事業」と呼ばれる。

 これらは目を見張るような改革で、そのために斉彬は金銭を惜しまず使った。もちろん、藩内には重豪の再来としてこれらを危惧する人々もいて、時に、斉彬が老中阿部正弘と話して、一族の姫君を養女として将軍徳川家定に輿入れさせ、将軍家の岳父となるということがあって、人々はますます斉彬に重豪を重ね合わせて見たのである。

 彼が幕府に対してこのような行動に出たのは、雄藩とはいえ外様であった島津家の藩主であり、国際的な見識と感覚を持った斉彬の幕府内における発言力の強化のためであったが、隠居した父の斉興は、苦労して立て直した財政が崩れ去るのに気が気ではなかったのである。ちなみに、この時に将軍徳川家定に輿入れしたのが篤姫である。

 加えて、斉彬は琉球の開放策を積極的に押ししすめた。琉球を通じての密貿易で財政を立て直してきた斉興にすれば、それは琉球を薩摩が手離すことにも見えた。安政5年(1858年)に、幕府では阿部正弘の後を受けて、井伊直弼が大老となり、斉彬は将軍継嗣問題で真っ向から対立した。徳川家定が病弱で嗣子がなく、他の四賢候らとともに一橋家の慶喜を次期将軍として推挙したが、井伊直弼は紀州藩主徳川慶福を推挙し、安政の大獄で反対派を弾圧して、慶福が第14代将軍徳川家茂となったのである。

この問題は、井伊直弼の安政の大獄の弾圧もあり、日本を上げて騒然となったのであるが、この事態を受けて、斉彬は西郷隆盛を京に送ったりして、兵を猛訓練してクーデターで幕政改革を行おうと挙兵の準備を急がせたのである。彼は藩兵5000人をもって上洛を計画したのである。

 こうした事態は薩摩藩の保守派の人々には、とんでもないことを斉彬がしようとしているという危惧を拡大させた。だが、斉彬は、藩士の練兵の観覧の時に、つまり挙兵の前に突然の発病によって死去するのである。海音寺潮五郎は、この斉彬の死を毒殺と見ている。一応はコレラとか赤痢とか言われているが、その死の時期があまりに状況を映し出すものであるし、死因とされたことに不審があるからである。西郷隆盛は、斉彬が毒殺されたと思っていたふしがある。後に大久保利通は久光についたが、西郷は最後まで久光を嫌っていた。それは斉彬の死に久光が関与していたと思っていたからであろうと海音寺潮五郎は見ているが、久光本人かどうかは別にして、斉彬が毒殺されたのではないかとわたしも思っている。

 そして、斉彬死後に島津家に残ったのは久光の系統のものであり、斉彬の遺言によって久光の長男である島津茂久が藩主となったが、久光は藩主の父として、事実上の最高権力者となって明治を迎えることになるのである。

 斉彬が藩主とし縦横に実力を発揮したのはわずか7年間に過ぎなかったが、彼が残した影響は大きく、彼なしには明治維新は起こらなかったといえる。わたしは、以前、鹿児島を訪れて、集成館事業の跡なども目にしたが、今日でも彼の偉業の影響は計り知れないものがある。しかし、島津騒動は、また、彼の聡明すぎる性急さや豪胆さ、そして優しさが招いたことでもあったであろう。斉彬の人と成りについては、また別に書くときもあるだろうと思う。ともあれ、この騒動についての海音寺潮五郎の記述は、実に丁寧でわかりやすい。