2009年10月27日火曜日

北原亞以子『恋忘れ草』(1)

 今朝は4時に起きてしまい、そのまま本を読んだり、新聞を読んだりしていた。昨夜の雨も上がり、今日はよく晴れている。「秋晴れ」という言葉がふさわしい天気になった。

 プロテスタント教会の牧師をしている友人のT師から毎週メールで送られてくる『風のように』と題されたニュースレターをじっくり読んだりした。M.ルターの言葉がいつも触れられている。わたしは、M.ルターの神学の深さと彼の人格が別物であることを感じて、どうもそこまでM.ルターを敬服する気はないのだが、T師が毎週記している「牧師のぐち」はおもしろい。今日、牧師であることは己の身を削るようにしてしか成り立たない。頼りにできるのは、ただ、不確かに思えるような「神の言葉」だけだから。

 昨日の北原亞以子『深川澪通り燈ともし頃』について考えていた。北原亞以子は、この作品の中で、貧しくその日暮らしをしながらも、何のこだわりもなく生きている笑兵衛とお捨ての木戸番夫婦を描くことによって、「こんな人がいてくれたらなあ」と存在するだけで深い慰めとなる人間を描こうとしているのだろう、と思った。「笑兵衛」という名前も、お捨てが少し肥ってよく笑う女であるのも、「存在するだけで深い慰めと励ましになる存在」の姿なのだろう。

 昨夜、北原亞以子『恋忘れ草』(1993年 文藝春秋社 文庫版文春文庫(1995年)を読んだ。文庫版に収められている藤田昌司の解説で、彼女がこの作品で直木賞を取ったことを知り、また、デビュー作の『ママは知らなかったのよ』(1969年)以後20年ほどあまり認められずに、1989年の『深川澪通り木戸番小屋』で泉鏡花賞を受けるまで不遇に耐えたことを知り、『深川澪通り燈ともし頃』で描かれた政吉が、あまり文字を知らない時から一流の狂歌師になっていく過程で、周りに気を使い、その地位を確保しようと焦っていく姿に、彼女自身の苦労が重なっているのかもしれないと思ったりした。「認められてなんぼ」の人生を歩むつらさが、そこにある。

 さて、『恋忘れ草』であるが、この作品は6人の自立する女性を主題にした6編の作品からなる短編集であるが、それぞれが独立した短編でありつつも、それぞれの6人が、同時代に同じように近隣で生活し、それぞれに繋がりをもって登場する連作になっている。

 登場する6人の女性は、いずれも一人で自活して生きていく道を選んだ女性であり、作者の言葉を借りて言えば、「江戸のキャリアウーマン」である。

 最初の「恋風」に登場するのは、父親が開いた手跡指南(学習塾)を受け継いで、子どもたちに読み書き算盤を教えている女性(萩乃)である。父親は、仇討の敵の相手を最後まで看取ったことで評判を取り、手跡指南所を繁盛させた。しかし、それが虚偽であることが発覚し、彼女は質の悪い岡っ引きから強請られる。以前の婚約者も、そのことで彼女から去ってしまった。女一人で生きていかなければならない苦難が襲ってくる。

 その時、大人になって文字を習いたいといってやって来た傘問屋の手代(栄次郎)が、最初は鬱陶しいと思っていたが、すべてを承知して彼女の問題を解決してくれる。

 話はそこで終わるが、一つ一つの展開が、実に巧みで、女性が一人で自立しなければならない時に揺れ動く心情が細やかに描かれている。

 「男の八分」は、地本問屋(江戸時代の出版社)の筆耕で身を立てている香奈江で、長谷川香果という名で柳亭種彦(実在の人物-歌川国貞の画で『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』などを出す-)の作品の浄書なども引き受けている。一度結婚したこともあるが、別れた過去をもつ。その元亭主が、再び言い寄って来たりする。ある時、種彦の弟子と称する御家人崩れの井口東夷の『草枕』の浄書を頼まれる。しかし、それは種彦の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』と似た部分があるということで出版できなくなりそうになる。井口東夷を憎からず思い、その作品も面白いと思った彼女は、その似通った部分を書き直してしまう。怒った井口東夷は彼女に詰め寄る。しかし、彼女の真実の思いが伝わって、東夷も納得するようになる。前作の萩乃は、ここで主人公香奈江の友人として登場する。

 ここまで書いて、なんだかとてつもない睡魔が襲って来たようで、続きは、また明日にする。

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