天気予報どうり昨夜から雨が降っている。空が煙っていて、雨らしい雨になっている。こんな雨の日はぼんやりと外を眺めていたいのだが、そうもいかない。
昨日、急を要する仕事をいくつかかたずけて、朝から大江健三郎についてまとめていたら、いつの間にか夜の暗闇になっていた、つるべ落としで日が暮れたのも気づかずにいた。今朝、たぶん昨夜の夢の続きかもしれないが、何の脈略もなく、数字の「0(ゼロ)」のもつ不思議で絶大な力について考えたりしていたら、仕事の電話が入ったりした。人間は、いつから雨でも仕事をするようになったのだろうか、とふと思ったりする。考えることに脈略がなくなって、たぶん、集中力が切れているのだろう。
昨夜、前作に続いて、佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』(2002年 実業之日本社 2007年 講談社文庫)を読む。
この作品は、主に江戸時代の天保年間に儒学者・随筆家として活躍した寺門静軒の代表作『江戸繁盛記』を基に、その人物を描き出す、いわば伝記小説の形をとっており、こうした手法は司馬遼太郎が駆使するところでもある。
寺門静軒は、寛政8年(1796年)に水戸藩御家人の妾腹の子として江戸に生まれるが、仕官がゆるされず(小説では御家人株を売って)浪人となり、学問で身を立てるべく折衷学派山本緑陰の門人となり、駒込で塾を開いていたが(水戸藩への仕官運動もするが受け入れられず)、貧にあえぎ、天保2年(1831年)から江戸の風俗を漢文で記した『江戸繁盛記』(天保13年、1843年、までに5編を出す)が評判を呼び名声を博する。しかし、天保の改革によって、風俗を乱す者として武家奉公御構の処分を受け、追放されて各地を遍歴後、安政7年(万延元年)現在の埼玉県熊谷市近郊で「先生は宜しく老ゆべし、子弟は宜しく学ぶべし」という意味で「両宜塾(りょうぎじゅく)」などを開いて、慶応4年(1868年)に没した人である。なお、言うまでもなく、慶応4年は、明治維新の年でもあった。
佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』は、この寺門静軒の『江戸繁盛記』出版の前後から、貧にあえぎながらもなおも向学心をもって生き、なんとか糊口を潤したいと焦る彼の姿や生き方が漢文の『江戸繁盛記』を読み下しつつ、生き生きと描かれ、身につまされるところも多く、作者の技量がいかんなく発揮されている作品であると言えるだろう。
それにしても、文化・文政以後の江戸時代の狂歌にしても、いわゆる洒落本や絵草子にしても、なんと語彙が豊かで洒落ていることだろう、と改めて思う。多くは、漢文の素養が基にあるとはいえ、なかなかのもので、たとえば、『江戸繁盛記』でも、暇を持て余して退屈を紛らわせていることを「白日を消して、以て無聊(ぶりょう)を遣(や)る」と表現されていたりする。(ちなみに、佐藤雅美の表題はおそらく、この言葉から取られたものだろう。)
寺門静軒自身は、自らを「無用之人」と呼び、後に出した『繁盛後記』でも、「生まれて功徳なし。死後、馬となるも、また其の所。牛となるも、また其の所」(自分は生まれてきても何の役にも立たなかった人間であり、死んだあとに、馬になっても牛になっても、何の文句もなく、馬であれ牛であれ、残念に思ったりもしない)というようなことを語っているが、馬や牛というところが洒落ている。そして、佐藤雅美は、その寺門静軒の心情を遺憾なく描き出している。
また、この作品には、当時の儒教を中心にした、いわゆる学界の背景も盛り込まれており、その中で、名もなく、係累もなく、在野の学者として身を立てなければならなかった寺門静軒の苦労が描き出されて面白い。それは、現代でも、さしたる学閥もなく、引き立てる者もなく、名も係累もないままに在野の思想家として生きている多くの人々の姿であるかもしれない。作者が伝記小説として寺門静軒を取り上げた理由はわからないが、つまらない歴史上の偉業を遂げた英雄たちを取り上げる歴史小説よりも好感が持てる。
さらに、最後のところで、寺門静軒が流浪中に世話になった埼玉県の絹問屋浅見家の娘「わか」が、長命で、昭和7年(1932年)10月30日付東京日日新聞埼玉地方版で語っている静軒の思いでを紹介し、とっつきにくい恐ろしいような風貌をしていたが、やがて、「『どうしてこんないい方を江戸から追ひ出したのだろうと』と思ふようになりました」という談話を載せて、静軒が、気性がさっぱりしていて、誰からも好かれた、と語る(文庫版 383-384ページ)ところが晩年の彼の人となりをよく表わしていていい。また、静軒が、まれにみる愛妻家であったことも紹介される。作者が愛情をもって寺門静軒を見ている視点も読む者を楽しくさせる。
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