土曜日(12日)の夕、「アフロ橘ゴスペルシンガーズ」という人たちのゴスペルコンサートがあって、その素晴らしい歌声に深く感動した。
以前、米国のシカゴにいた時、シカゴ郊外の、いわゆる黒人スラム街にある教会に行って、そこの人たちと大変仲よくなり、毎週、ゴスペルを聴いていたが、ゴスペルは、やはり「魂の歌」という気がする。黒人のホームレスの人たちとは、ミシガン湖で魚釣りをよく一緒にした。
ある時、「God set me free」という歌を、涙をこぼしながら歌われたことがある。祖父や祖祖父の方々が、米国南部で黒人奴隷として生きなければならなったことを、後でわたしに話してくださった。自由と希望を祈り求めざるを得ない人間の魂の叫び。単調なメロディーにその叫びが込められていることを、今、思い起こす。
「アフロ橘ゴスペルシンガーズ」は青年たち八人のグループで、本当に礼儀正しい人たちで、その声量も見事で、ゴスペルの良さを見事に引き出して、10曲以上の歌を歌ってくださった。
さて、平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7) 寒椿の寺』の第四話「桜草売りの女」であるが、この話は、いわば「取り換えっ子」にまつわる事件を扱ったもので、旗本の家に行儀見習いにいっていた姉が旗本の子を宿し、商家に嫁いでいた妹と同じ時期に子を生み、姉の方は女の子で妹の方は男の子だったが、旗本の家の跡継ぎを生んだことにしたいために子どもを取り替えて育てた。
その子どもたちが成人し、商家の子どもとして成長した娘は、その商家が火事で焼け出されて「桜草売り」などをして苦労している。そのことを知った旗本が、自分の家の家宝を売って、その娘のために金を工面してやるのだが、そのために旗本家が改易されるかもしれないと、旗本の嫁が騒いだところから事件になったものである。
第五話「青山百人町の傘」は、自分の家系と財産を振りかざして威高で嫉妬深い妻をもつ上役から、その上役の浮気のために妾を押しつけられた貧乏御家人(甲賀組に属し、傘張りをして生計を維持している)とその許嫁の話で、許嫁の「露路」は、その男のために身を引いて家を出たのである。
隼新八郎と南町奉行所の同心は、そのことの真相を暴き、行くえ不明だった「露路」を探しだす。貧乏御家人(「秋山長三郎」)と許嫁の「露路」は、上役の非道に耐えながらも、互いに別れ別れになっていたが、互いに思いは同じで、ようやく新八郎たちによって一緒になることができた。
裏長屋で傘の内職をしながらひっそりと暮らしていた「露路」のところを貧乏御家人が訪ねていくのだが、その最後の表現が洒落ている。
「どういう話が二人で取りかわされていたのか外で待っていた新八郎にはわからない。
小半時ばかりで出て来た長三郎の背後には目を泣き腫らした露路がいて、二人そろって新八郎に深 く頭を下げ、それからそっと目を見合わせるのを確かめて、新八郎は長屋の路地を出て行った。
江戸は間もなく師走であった」(文庫版 215ページ)
この「江戸は間もなく師走であった」という一文は、言ってみれば、毛筆で字を書くときに、最後に万感の思いを込めて「シュッとはねる」ような、そういう一文である。見事、としか言いようがない。
第六話「奥祐筆の用心」は、上野の寛永寺の大仏殿の脇にある大灯籠の下で奥祐筆(幕府老中の書記官)の用心(秘書)の死体が発見され、隼新八郎がその謎を解いていくという話である。
奥祐筆は役職がら賄賂が横行する職務であるが、奥祐筆の用心は、結局、親子ほども歳の離れた娘と深い中になり、そこで食べた毒キノコにあたって死んだことがわかるのである。これは、もしかしたら根岸鎮衛の『耳嚢』からの題材かもしれない。
第七話「墨河亭の客」は、向島で高級料亭として売り出していた「墨河亭」を常用していた旗本のお内儀が、その「墨河亭」のお菓子を口にして毒殺されるという事件を取り扱ったもので、お内儀は、豪商三井家の分家の娘で財力を遣い、コネを使って自分の息子の就職運動に奔走し、ついには養女にしている夫の先妻の姪まで、いわば「人身御供」として就職の世話をする者に差し出す画策をしていた。そして、そのことに耐えがたさを覚えていた夫が彼女を毒殺したということが判明するのである。
この話の結末は不幸で、お内儀を毒殺した旗本は、可愛がっていた姪を殺して自分も切腹し、豪勢を誇った墨河亭もそのあおりで店が傾いていったというもので、これも『耳嚢』の説話からの題材ではないかと思われる。第七話ににじみ出ているものは、「何らかの欲をもって生きることの大変さとつまらなさ」である。隼新八郎と彼の周辺にいる人々の無欲さと対比されて、欲をもつ人間の不幸が良く描き出されている。
これらの作品の中では、第五話「青山百人町の傘」が一番胸を打つ。「人を思う真直な思い」ほど貴いものはないだろう。
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