朝のうちはどんよりと曇っているし、雨模様であるが、午後からは晴れるらしい。昨夜は、人間関係が冷え切ってしまった出来事を聞いて、なんとなく気の重い夜となったので、こういう時は、今とてもいいと思っている『のだめカンタービレ』を見るに限ると思い、三度目だが、「パリ編(ヨーロッパ編)」をぶっ続けで見て、細かい演出と演技で表わされる上野樹里が演じる「のだめ」の姿に深い感動を覚えながら眠った。
そんなわけで、読みかけの北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(1995年 講談社 1998年 講談社文庫)も読みかけのままである。これは、この人の作品の中でも一番好きなシリーズで、4冊出ている中での3番目の作品である。武士をやめて木戸番として細々とした生活をしている「笑兵衛」と「お捨て」の夫婦、彼らを最後の心の拠り所としている人々の話で、しみじみとした人間のあり方が伝わる珠玉の作品である。
『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、「第一話 新地橋」、「第二話 うまい酒」、「第三話 深川育ち」、「第四話 鬼の霍乱」、「第五話 親思い」、「第六話 十八年」の全六話からなっており、「第一話 新地橋」は、かつては新地と呼ばれる岡場所で遊女をし、今は、相愛の男の犠牲によって岡場所を出て小さな団子屋をしている「おひで」という女性の話である。
彼女の相愛の男は、「おひで」を岡場所から脱け出させるための金を作ろうと質屋に強盗に入り、捕まって遠島になっている。彼が遠島になる時、彼の弟分の男に「おひで」を頼むと言い残していった。弟分は風采のあがらない笊売りだったが、「おひで」に憧れ、彼女を助け、やがて夫婦になる。しかし、「おひで」の心には彼女を身受けして岡場所から脱け出してくれた前の男への思いがある。
「おひで」の夫となった弟分はそのことを知ってはいるが、生活の中で次第にやりきれない気持が膨らみ、「おひで」に暴力を働いたり、博打に走ったりして借金を作ってしまう。「おひで」が心に抱いている前の男が罪を減じられて赦免になって帰って来るという。「おひで」は夫との間にできた子どもを夫の暴行で流産する。
だが、「おひで」は、その夫の借金を返すために再び岡場所に身売りする。そして、夫は、苦界に沈む「おひで」を助け出そうと、彼の兄気分がしたことと同じように質屋に強盗に入ろうとする。
木戸番の「お捨て」は、そういう「おひで」にそっと寄り添う。そして、彼女の夫が強盗しようとするところを、身を呈して止める。木戸番夫婦は、そういうどうにもならないところでもがく「おひで」夫婦を見守っていくのである。
「第二話 うまい酒」は、女房を弟弟子に寝とられて自棄になって江戸へ出てきた腕のいい左官が、一文なしになり、空腹を抱えて木戸番の焼芋の匂いに誘われ、蹲ってしまったところに、木戸番の裏の炭屋が穴のあいた壁の修理が必要だとの話を聞き、ふらふらと名乗り出る。木戸番の「お捨て」は、彼に「にぎりめし」を作り、「笑兵衛」は、その仕事をしろと言う。その瞬間の出来事が次のように表わされている。
「気がつくと、木戸番の女房の姿が見えなかった。炭屋から支払われる賃金で、焼芋を買わせてくれと頼むつもりだった偬七(左官)は、垣根の破れをふりかえった。木戸番小屋の前まで、破れの向こうの路地を立って歩いていけるかどうか、自信がなかった。
その破れから、木戸番の女房があらわれた。板のように平らなものと、丸いものを持っていた。
偬七は、かすんできた目をこらした。平らなものは盆、丸いものは土瓶で、盆の上にはにぎりめしがのっていた」(文庫版 66ページ)
彼はこうして木戸番のある「いろは長屋」に住むことになる。しかし、女房に裏切られ、弟弟子に裏切られ、人を信じることができないでいる。
その「いろは長屋」に、心から人の良い「善蔵」という油売りがいた。「善蔵」は、偬七と友だちになりたいと願って偬七を助けようとする。だが、人を信じることができなくなっている偬七は、それを鬱陶しく思う。
「お前、――それほどまでにして、どうして人の世話をやくんだ」
善蔵は黙って笑った。
「どうしてだよ。買いたいものも買わずに、どうして人の世話をやくんだよ」
「だってさ・・・」
善蔵は、土間を眺め、自分の膝を眺め、それからやっと偬七を上目遣いに見た。
「俺、人に好かれねえから・・・」
蚊の鳴くような声だった。
「俺、小さい時から好かれねえから。――一所懸命、人の面倒をみて、ようやくつきあってもらえるんだよ」
偬七は口をつぐんだ。小さい頃から頭がよいと言われ、左官となってからは親方より腕がよいと評判をとった偬七も、気がついてみれば、心を許せる友達は一人もいなかった。(文庫版 72ページ)
だが、偬七は思う。
「けっ、何が『偬さんならずっとつきあってくれると思った』だ。何が『長屋の人達は親戚みたようなものだ』だ。
笑わせないでもらいたい。二世を契った女でさえ、何くわぬ顔で亭主を裏切るのである。文字通り、弟のように可愛がっていた弟弟子は、『兄貴の恩は忘れねえ』と言いながら女房の袖を引いた。血でつながった弟はいなくとも、仕事でつながった弟がいると思い、博奕の借金を払ってやり、割のいい仕事をまわしてやって、そのあげくに突きつけられたのが、『姐さんは俺に惚れているんだ』という科白なのだ。
何が身内だ、何が親戚だ・・・・・
誰も、あてにならねえ。女房だって、兄弟だって。――(文庫版 80-81ページ)
そういうふうにして「善蔵」のひたむきな気持ちを踏みにじった偬七を、木戸番の「笑兵衛」は殴りつける。「善蔵」は、どこまでも偬七を大事にしようとする。「笑兵衛」に殴られた傷の心配をする。そういう温かさに触れて、彼の不信で尖ったような心が和らいでいく。
「第三話 深川育ち」は、木戸番小屋のある地域に仲の良い姉妹二人で切りまわしている居酒屋に、いい男だが遊び人で金が目当ての男が通い、その男をめぐって姉妹が争い合うという話である。姉は妹のために嫌なこともして居酒屋を開いた。だが、いい男が妹に色目を使って手を出そうとする。姉は妹があきらめてくれるようにと、妹を守るためにその男と寝るが情が移ってしまう。その男は妹も誘う。そして、妹は姉がその男と寝たことを知り、姉を殺そうとまでする。
木戸番夫婦は、様子がおかしくなった姉妹を案じ、妹が出刃包丁を振りかぶったところに飛び込んで、それを止める。木戸番の「お捨て」は言う。
「お二人とも深川育ちですもの。いやなことは、川に流してしまわれますよ」(文庫版 133ページ)
本当にその通りだ、と思う。嫌なことや取り返しのつかないことが山ほどある。そんなものはみんな川に流してしまえ。生きることは前を見ることだから。そんなことを思いながら、ここで本を閉じた。今夜は、また、静かにこの続きを読もう。
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