今日もこちらはよく晴れている。寒いことは寒いが、晴れているとなんだか温かそうな気がしてくるから、人の感覚というのは不思議なものだと思ったりする。水仙が顔を出しそうな気配がする。
昨夜、佐藤雅美『命みょうが 半次捕物控』(2002年 講談社 2005年 講談社文庫)を抱腹絶倒とまではいかないけれども、楽しく読んだ。
この作品は江戸中期の岡っ引き「半次」を主人公とする捕物帳もので、佐藤雅美が、いわゆる歴史経済小説というような『大君の通貨』や『薩摩藩経済官僚』、『主殿の税』といった作品の後で挑戦した時代小説の第一弾のシリーズ「半次捕物控」の第三作目の作品である。
このシリーズの第一作目は、些細な盗難事件(雪駄の盗難)から大きな陰謀へと繋がっていった『影帳』で、第二作目は、江戸町奉行の密命を受けて主人公が備前岡山まで行く『揚羽の蝶』であり、第二作目は、昨年バザーで手に入れているが、いずれもまだ読んではいない。
書物の名前から明白に推量されるように、このシリーズは、岡本綺堂(1872-1939)の名作『半七捕物帳』を意識したものだろうが、岡本綺堂の「半七」が「弱気を助け、強きをくじく」正義派の人間だったのに対し、佐藤雅美の「半次」は、犯罪を揉み消しにすること(引合)や付け届け(厳密に現代で言うなら贈収賄だろう)で糊塗を稼ぐ生身の人間であり、場合によっては奉行所の命令で真実を闇に葬ることもあし、恰好よく立ち回りもしない。自らかつては犯罪に手を染めたこともある、と言う。
佐藤雅美の時代や社会に対する考証は、やはり確かなもので、このシリーズでもそれがいかんなく発揮され、細かなこともしっかりとした裏付けがされている。
『命みょうが』は、茅場町の薬師堂の縁日で若い娘の尻をさわった嫌疑で捕えられた田舎侍の身柄を預かることになった半次が、この汚らしい恰好をしているが剣の腕が桁外れている田舎侍の素性を探っていく中で、やがては彼の背景に越前丸岡有馬家の家督相続に絡む争いがあることを突き止めていくことが一本の線として貫かれ、その中にそれぞれが一話完結の形で、銅物屋(かなものや)の主人が殺された事件(「博多の帯」)、土左衛門(水死人)の入れ歯から事件の真相が暴かれていく事件(「斬り落とされた腕」)、江戸市中の御留場(鳥の捕獲の禁止区域)で鳥の捕獲をしていた旗本を脅したことで遠島になり、島抜け(脱走)してきた脅迫犯が絡んだ事件(「関東のツレション」)、大名家の家臣の商家への脅しや太物屋(木綿問屋)の江戸支配人が殺された事件(「命みょうが」)、常磐津(小唄)の「名弘メ」(襲名披露)を利用して悪銭を稼ごうとしたヤクザが殺された事件(「用人山川頼母の陰謀」)、御数寄屋坊主(城中における茶の接待をする坊主)による詐欺事件に絡んで、事の顛末が芝居になってしまった事件(「朧月夜血塗骨董(おぼるづきよちぬりのなまくび)」)、などが描かれている。
これらの事件そのものは、あっけないほどの幕切れで、もう少し事件が込み入った方が面白いかとも思ったが、これらの事件に半次が引き取った田舎侍「蟋蟀小三郎(こおろぎ こさぶろう)」が小気味がいいほど関係していて、平然と半次の女房や常磐津の師匠を口説いたり、詐欺を働いた茶坊主を逆に脅して大金を巻き上げたり、事件の犯人ではないかと疑われる中で半次の家に平然と出入りしたり、寄食することをなんとも思わなかったり、度胸が据わって腕も知恵もある魅力的な浪人として登場し、彼が抱えるもとの主家の御家騒動の実態が暴かれていく大筋へと繋がっていくのである。
半次もなかなか味のある魅力的な岡っ引きであるなら、蟋蟀小三郎も魅力的な人物であり、これらの両者が絡み合って事件が解決していく姿がずっと描き出されている。半次は、岡っ引きという仕事が強請やたかりめいたことをしなければ成り立たないことを自覚しているし、蟋蟀小三郎も、独りよがりな御家騒動にからんで平然と嘘もつくし、人を斬ることにも抵抗がない。人には嫉妬心もあり、恨みもあり、意地もある。そして、人が生きる上でお金が必要なことも作者は赤裸々に描き出すし、結末に至る伏線もたくさん張られていて、読んでいて嫌味がない。
彼の『物書同心居眠り紋蔵』のシリーズも面白いが、このシリーズも面白い。作者の佐藤雅美の視座については、これまでも折に触れて書いてきたし、彼の立ち位置が非権威主義であるのもいい。
ここまで書いた時、雲が出てきて少し陰って来た。陽のあるうちに、今日は少し歩こう。車のバッテリーがまた上がってしまって、動かないのでちょうどいい。
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