2010年10月5日火曜日

火坂雅志『骨董屋征次郎手控』

 今日は薄く雲が覆ってはいるが、気持ちの良い秋の好日になった。朝からギリシャ語聖書の『使徒言行録』を読んでいて、そこに描かれる情景を思い浮かべたりしていた。昨夕、中学生のSちゃんが来てくれたので、すこしややこしい数学の図形の問題を一緒に考えながら、学問的な基本姿勢としての「観察」と「分析」について話をしたりした。「観察」し、「分析」し、それを「再統合」することは何にでも当てはまる。問題は「観察眼」を養うところから始まるだろう。

 「観察」と言えば、それは芸術の世界にも当てはまるが、書画骨董の世界はまさに観察眼の世界だろう。わたし自身は書画骨董の世界とは終生無縁であるだろうが、昨夜、火坂雅志『骨董屋征次郞手控』(2001年 実業之日本社)を面白く読んだ。

 火坂雅志という作家は、1956年生まれの現役の作家で、昨年(2009年)、上杉家の名将と言われた直江兼続を描いたNHKのテレビドラマで人気を博した『天地人』の原作者でもある。テレビドラマの方は、オープニングも映像もすばらしくきれいで、俳優も名演だったが、脚本の史実性には少し問題もあり、面白みを増すために現代風にアレンジしたものだった。直江兼続は、上杉家が越後から会津に減封されたり、子どもが次々と亡くなったりして、晩年は少し寂しかったのだが、卓越した人間であったと思っている。戦国武将はどうも、という気がするが、わたしは好きな人間のひとりである。

 『骨董屋征次郞手控』は、金沢の前田家に御買物役(主に藩主の衣服や、調度品、茶器、書画骨董などを売り買いし、管理する役目)を勤めていた父親が、宋代の名筆家として知られる圓悟克勤(えんごこくぐん)の掛け軸の贋作を巧妙な手口でつかまされて、責任を取って自死し、家が取り潰され、幕末の時代の嵐が吹く京都で「遊壺堂」という骨董屋を開いている征次郎の活躍を描いたものである。

 10編からなる連作集だが、いくつかのミステリー仕立てのような仕掛けが施されて、最後の山場を迎えるように組まれているので、一冊の長編としても読むことができる。

 書画骨董というものは、いずれも人間の欲の手垢にまみれた「いわく」つきのものである。作者自身も「あとがき」で「骨董はたんなるモノデハナク、ヒトとモノのあわいに存在しているのではないか」と書いているが、それが売買される時には、売買する人間の「いわく」が渦巻く。『骨董屋征次郎手控』は、その「いわく」を巡っての物語である。

 ある時、征次郎の遊壺堂に、豊臣秀吉に献上されたこともある茶入れの名器の「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」が持ち込まれる。征次郎はしばらくそれを預かったが、持ち主の女性に返して欲しいと言われてもっていったところを牢人に襲われて奪われてしまう。そして、「楢柴肩衝」は京の骨董品売買の闇市に売りに出されるのである。征次郎は、その闇市のメンバーでもある。

 征次郎は、それがなぜ闇市に出たのかを探るうちに、自分を襲った牢人がそれを持ち込んだ女性の愛人であり、牢人はそれを古寺から盗んだが、池田屋騒動に会い、臆病風に吹かれて捨て鉢になっていたことがわかってくる。そして、「楢柴肩衝」は地回りの博徒に渡っていることを知った征次郎は、博徒と掛け合ってそれを取り戻す。それが最初の「楢柴」である。

 第二編「流れ圓悟」は、紀州の白浜に買い出しにでた征次郎が、偶然、父親に贋作をつかませて死に至らせた猪熊玉堂という男を見つけ、猪熊玉堂が白浜でも同じように贋作によって一儲け企んでいたことを阻止するという話で、この猪熊玉堂とは以後も因縁の対決となっていく。

 第三編「女肌」は、征次郎が先斗町の売れっ子芸者「小染」と知り合う話で、「小染」は、実は江戸で父親が「影青」と呼ばれる宋代の青白磁の瓜形水注(みずさし)の贋作を作って落ちぶれてしまったことから、京都の骨董屋にある父が作った贋作を盗んでいたのである。贋作とはいえ、なかなかの品物で、小染の父が精魂を傾けて作ったものだからと、小染の盗みを不問にしていく。こうして、小染は征次郎に惚れ、二人はいい仲になっていくのである。

 第四編「海揚がり」は、征次郎が骨董屋として長い間夢見ていた海からの古船の引き上げに着手して、見事に失敗する話で、征次郎はそのために大きな借金を作ることになる。ここには、骨董で見を持ち崩してしまった人間の姿も描かれ、金欲ではないが美欲に取り憑かれていく骨董の世界の恐ろしさも描かれている。骨董がそうした「欲」の狭間にあることが物語として見事に描かれている。

 第五編「屏風からくり」は、征次郎の幼友達の堀平内が金沢藩の御買物役として京都に来たのに偶然会い、彼の依頼で、岩佐又兵衛が描いた「豊国祭礼図屏風」の出物を調べていくうちに、征次郎の宿敵とも言うべき猪熊玉堂が同じように贋作による詐欺を企んでいることがわかり買い入れを阻止し、猪熊玉堂と対決しようとする。しかし、猪熊玉堂に金で雇われた新撰組の隊士が出てきて、これと争ううちに、習い覚えていた柔術で新撰組の隊士を殺してしまう。新撰組に追われる身となった征次郎は、京都の店をたたんで、かつての骨董屋で骨董の学びを共にした友人のいる長崎へ行くことになるのである。

 第六編「胡弓の女」は、その長崎で「らしゃめん」と呼ばれる西洋人の囲い妻である「お絹」という女から大量の古九谷の大皿の買い入れを依頼される。それは、陶工だったお絹の昔の恋人が古九谷の魅力に取り憑かれて各地から盗み集めた物だった。人生に疲れたお絹はその恋人の古九谷を売り払って自分の人生を終わりにしたいと思っていたのである。征次郎はお絹の自害を止めるが、ここから物語は一気に古九谷を巡っての話となる。

 古九谷は、江戸初期のころに僅かな間だけ作成されたもので、以前、金沢に行った時に皿を何枚も見たが、有田(伊万里)の「赤」と古九谷の「青緑」ぐらいしか知らない素人のわたしには古九谷と今の九谷焼との区別はなかなかつかなかった。どちらかと言えば、磁器よりも陶器のほうが好きだ。

 第七編「彦馬の写真」は、その古九谷を巡っての話のはじめで、長崎で偶然に幼友達の坪平内と会い、骨董の望遠鏡のレンズのことで知り合った上野彦馬(この人は、長崎で日本最初の写真館を作った人で、坂本龍馬や高杉晋作らの写真を撮った人として著名である)のところで一緒に写真を撮ったりするが、坪平内は薩摩藩士と交流を持ち不可思議な行動をとっており、やがて何ものかに斬り殺される。その坪平内の役宅から新しい古九谷の皿が出てきたのである。平内の死がこれと関係あるのではないかと察した征次郎は、平内の願いである彼の写真をもって金沢へと向かうのである。

 この中で、坪平内と薩摩藩士が交わす会話の中に「のくち」という言葉が出てくる。この言葉の意味は後に明らかにされるように仕掛けられているのである。

 第八編「翡翠峡」は、金沢で坪平内の妻とあった征次郎が、偶然にも叔父の岩下瀬兵衛と出会い、叔父の元で寄宿して坪平内の死の真相を探ろうとする話で、金沢藩士の次男として生まれた叔父が貧乏しながらも自由気ままに生き、金沢の山奥で釣りに行った時に翡翠を発見し、翡翠の見事な細工物をこしらえているが、翡翠の細工師として生きるのではなく、貧しくとも気ままな武士としての生き方をしている姿が描かれている。道楽は道楽だから面白い、と言い切る叔父には愛する者もいるが、なかなか踏ん切れないでいる。しかし、そういう叔父が征次郎の働きで、武士を止めて愛する者と暮らす道を選んでいくのである。

 第九編「黒壁山」は、征次郎が新しい古九谷の秘密を探ろうと坪平内の妻を再度訪ねたところ、妻が何者かに殺されていた現場に行き会わせるところから始まる。現場にいた征次郎は、自分が疑われることを恐れ、捕縛の手を逃れるが、そこで彼を捕縛の手から助けたのは、彼の宿敵とも言うべき猪熊玉堂であった。玉堂は、実は、幕府のスパイであったのである。その玉堂から秘密は「黒壁山の奥の院」にあると聞かされ、征次郎は秘境ともいうべき黒壁山に向かう。

 その黒壁山で、金沢藩が勤王倒幕の軍資金を作るために、薩摩藩と結託して密貿易のための古九谷を新しく密かに製造していたことがわかる。金沢藩と薩摩藩は、実は昔から薩摩の貿易する薬の売買で繋がりがあり、金沢藩は、若い勤王派の藩主がお家騒動の末に藩主の後を継いで、一気に藩全体が勤王倒幕に傾いた藩であった。長州などでは藩主はお飾りのようなものであったが、勤王派と佐幕派による藩政の争奪合戦は、幕末期ではどこの藩でも起こったことである。

 しかし、古九谷の密造の手段はひどく、秘密を守るために金沢藩は関係した絵師や陶工の皆殺しを計画していたのである。もちろん、この部分は作者の創作であるが、征次郎はその秘密を知り、捕縛されて山牢に閉じ込められる。ここで前に出た「のくち」が九谷焼を示す文字をばらした隠語であったことが明らかにされたりする。こういうのは心憎い演出である。

 第十編「隠れ窯」は、山牢に閉じ込められた征次郎が、叔父の機転で助け出され、友人の平内夫妻が金沢藩の政争で殺されたことなどもあって、九谷焼の密造に関係した絵師や陶工が皆殺しにされることを知って、叔父と協力して彼らを助け出す活劇で、猪熊玉堂のことも含めて、事件の真相がすべて明らかになるのである。

 それからしばらくして大政奉還が起こり、世の中がひっくり返る。もはや新撰組を恐れる必要もない征次郎は京都に戻り、金を工面して、以前のように「遊壺堂」を再会し、政治がどうなろうと世の中がどうなろうと、自分の生き方としての骨董屋を始めていき、小染との結婚なども迷いながら過ごしていくのである。

 以上がここで描かれる物語の概略だが、なかなか味のある作品で、これには続編も出されているから、そちらも読んでみようと思っている。ただ、語り口調が現代口調であるのは少し気になるのだが、文章はよく推敲されていて、うまいなぁ、と思う表現も多々ある。

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