2010年12月13日月曜日

宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』

 冷たい凍るような絹雨が降る月曜日になった。山沿いは雪かも知れない。
 土曜日の夜と日曜日の午後にかけて宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』(1991年 新人物往来社 1995年 新潮文庫)をしみじみと読んだ。

 これは、1992年の吉川英治文学新人賞の受賞作品で、連作の形を取った短編集でもあるが、彼女の感性の豊かさとそれを表現する表現力の絶妙さ、物語を構成する構成力と展開の巧みさがよく現れている作品だと思った。

 かつて、1999年に彼女が『理由』で直木賞を受賞した際に、井上ひさしが「驚くべき力業に何度でも最敬礼する」と讃辞を寄せたことがあるが、『本所深川ふしぎ草紙』は、「力業」というよりも作家としての情感溢れる資質の豊かさが開花している作品だと思う。

 江戸の深川に「本所七不思議」と呼ばれるような現象があった。両国橋の北の小さな堀留に生える芦(葦)の葉が、どうしたことか片側だけにしかないこと(片葉の芦)、夜道を独り歩きしていると、提灯が浮くようにして後をついてくること(送り提灯)、夕暮れ過ぎに本所の錦糸堀あたりを魚を抱えた釣り人が通りかかると、どこからともなく「置いてけ」と声が呼びかけられ、家に戻ると魚を入れていた魚籠が空っぽになっていること(置いてけ堀)、松浦豊後守の上屋敷の椎の木が、秋の落ち葉の季節になっても一枚の葉も落とさないこと(落ち葉なしの椎)、夜中にふと目を覚ますと、どこからともなくお囃子が聞こえてきて、翌朝調べてみてもどこにもそんなお囃子をしている所などないこと(馬鹿囃子)、ある屋敷で人が眠っていると、突然天上から大きな足が降りてきて、「洗え、洗え」と命令し、それをきれいに洗ってあげれば福が来るし、いい加減に洗うと災いが起こること(足洗い屋敷)、そして最後が、ある蕎麦屋の掛け行灯の火が、油も足さないのにいつも同じように燃えていて、消えたところを誰も見たことがないこと(消えずの行灯)の七つである。

 作者はこの「本所七不思議」の絵を錦糸町駅前の人形焼き屋の包み紙で見て着想したそうであるが、それを、「本当に深い意味で人を助けること」を行っていた父親とそれが理解できないでいた娘、その娘の気まぐれで食事を恵まれ、その娘に思いを寄せることで忍耐してきた男、自立できるように助けられた兄妹の思い、それらを「片葉」として描き出したり(「第一話 片葉の芦」)、自分のことを心底心配してくれた男の思いを誤解していた娘の心情として描き出したり(「第二話 送り提灯」)、一つのことを罪の意識で受け取る者と、それを自分への励ましとして受け取る者の姿として描き出したりする(「第三話 置いてけ堀」)。

 あるいはまた、第四話「落ち葉なしの椎」では、「七不思議」は、罪を犯して島送りになり帰ってきた父親と、幸せをつかもうとする娘の関係として心情豊かに描き出され、第五話「馬鹿囃子」では、「あんたのまずい顔が嫌いだ」と言われ女に捨てられて「顔切り魔」になった男と、婚約が整っていたのに相手の男が他の女を好きになり、「きれいとは思えない」と言われて捨てられ気を狂わせてしまった女の姿として描き出されている。

 貧しい家に生まれ、宿場で人の足を洗って成長してきた女が、汚い足を洗い続ける夢を見るたびに、貧乏が恐ろしくなり、金が欲しくなって、その美貌と色艶で商家の主を殺して財を奪う女になっていったという第六話「足洗い屋敷」、結婚するなら真面目で優しい働き者の男だと決めていた娘が、子を失って狂った妻のために「偽の子」になることを依頼されていく中で、夫婦の微妙な関係を知っていく第七話「消えずの行灯」も、どこかやるせなくて切ない人の心のひだとして描かれているのである。

 人間に対する視点や物語の展開も絶妙なものがあるが、本書でも、その表現の豊かさには脱帽するところが多々ある。

 まず、第一話「片葉の芦」の書き出しは、「近江屋藤兵衛が死んだ」というものであるが、何の情景描写もないこの独自の書き出しは、それによってここで描き出される物語に急激に引きづり込まれる力を持っている。A.カミユの『異邦人』の書き出しも「昨日、ママンが死んだ」という衝撃的な書き出しだが、それを彷彿させる。そして、最後は、
「『片葉の芦』
 お園がぽつりとつぶやいた。
 『不思議ねぇ。どうしてかしら』
 二人のうちの一人の心にしか残されていなかった思い出を表すように、片側だけに葉をつける-
 『わからねぇからいいのかもしれねぇよ』
 彦次はそう言いながら、ひょいと手を伸ばし、芦の葉を一本、ぽつりと折った」(文庫版 46ページ)
で終わる。折られた芦の葉のように余韻が残る終わり方であり、「片葉の思い」を持ち続けた男女二人の行く末を想像させて終わるのである。

  第二話「送り提灯」では、その初めの部分で、八歳で煙草問屋に奉公に出なければならなかった「おりん」が、飯炊きをする場面が描かれ、「おりんは毎朝、小さな胸が破れそうなほどに火吹き竹をふかなくてはならない」(文庫版 49ページ)と記されて、この少女が懸命に働き続けたことがこの一文だけで伝わってくる。この「おりん」が、煙草問屋のお嬢さんの言いつけで夜中に回向院まで行かなければならなくなり、暗闇の中を歩き出す姿が、「勝手口を出ると、木枯らしが吹きつけてきた。夜の木枯らしには歯があった。おりんは身体を縮めた。左手に下げた提灯の火の色も縮まった。・・・町並みを包んでいる闇は、手を触れれば重く感じられそうなほどに濃い。味わえば、きっと苦いに違いない」と描き出される。こういう感性と言葉の使い方には舌を巻く。

 こうした豊かな表現が至るところにあって、それが主人公の心情や状況を見事に反映しているから、物語が豊かになっている。

 宮部みゆきは卓越したストーリーテラーとして高い評価を得ているが、表現力も卓越していると思う。なお、この短編集には物語の引き回し役として「回向院の親分」と呼ばれる岡っ引きの「茂七」がどの話にも共通して登場しているが、茂七の事件の裁き方も思いやりの深いものとなっている。この人情溢れる「茂七」を中心にした『初ものがたり』も先に読んでいたとおりである。

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