朝晩の冷え込みが次第に厳しくなって、雲間から時おり弱い初冬の光が差し、冬枯れた光景が広がるようになってきた。朝から寝具のシーツなどを洗濯し、掃除をしていたら、なんだか昨日の疲れが残っているのか、若干の怠さを覚えてしまった。「こんなことではいけないなあ」と思うし、すべきことはたくさんあるのだが、なかなか気分が乗らない。
それはともかく、出久根達郎『萩のしずく』(2007年 文藝春秋社)を読む。出久根達郎の作品はなんだか久しぶりに読んだような気もするが、これは明治初期の女流作家で、貧苦にあえぎながらも優れた作品を残した樋口一葉を取り扱った作品である。
樋口一葉(1872-1896年)は、明治維新5年後のまだ混乱した社会の中で、東京府の下級官吏を勤めていた父樋口為之助(則義)と母多喜の次女として生まれ、兄は泉太郎、虎之介、姉はふじで、後に妹くにが生まれている。本書では父の名は明義、母の名は滝子、兄の名は朝二郎になっており、一葉の本名は奈津、もしくは夏子であるが、本書では奈津で、妹は邦子になっている。
則義(本書では明義)は、元は甲斐(現:山梨県甲州市)の百姓であったが、江戸末期に同心株を買い、維新後には士分の下級役人として勤めていた。だが、1876年、一葉4歳の時に免職され、以後は不動産の斡旋などで生計を立てていたと言われる。しかし、1889年、一葉17歳の時に則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗するなどして多額の借金を残したまま死去している。ちなみに前年の1888年に病身であった兄の泉太郎が死去している。
この辺りは、本書の104ページでは、1888年(明治21年)夏に父が死去し、その後で兄の朝二郎が死去したことになっている。だが、一葉の父が官吏を勤めていたころの上司が夏目漱石(金之助)の父親で、その縁で漱石の長兄の大助(大一)と一葉を結婚させる話が持ち上がるが、一葉の父親が漱石の父親に何度も借金を申し込むことがあって、「上司と部下というだけで、これだけ借金を申し込んでくるのだから、親戚になったら何を要求されるかわかったもんじゃあない」と漱石の父親が語ったりして破談になったという夏目漱石の妻が記した『漱石の思ひ出』からとられたエピソードなどが盛り込まれている。
父の死去に伴い、17歳で戸主となった一葉の肩には一家の生活が重くのしかかり、父親が決めていた許嫁の渋谷三郎とも破談となった。一説では、樋口家には多額の借金が残されていたが渋谷三郎から多額の結納金を要求されたことが原因だといわれている。一家は母親と妹のくに(邦子)で針仕事や洗い張りなどで生計を立てるという経済的に苦しい仕事を強いられるようになる。
しかし、少女時代から文才を認められて通っていた中島歌子の歌塾「萩の舎」に通い、頭角を現し、時には助教として講義などもし、1890年には内弟子として中島歌子の家に住むようになったりした。多分に貧苦を強いられる樋口家の口減らし的な要因もあっただろう。
そして、この中島歌子の「萩の舎」で姉弟子の田辺龍子(三宅花圃-かほ)が小説『藪の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説家になろうと志すのである。この辺りのくだりは、本書では114-115ページで記してあるが、さらに、彼女の小説の師ともなった半井桃水(なからいとうすい)との出会の箇所でも、当時できたばかりの図書館で末広鉄腸の『雪中梅』を読み、これなら自分にもできると確信をもって東京朝日新聞小説記者であった半井桃水を紹介されて訪ねたことが記されている(178-191ページ)。実際、一葉は図書館にかよいつめて勉強を続けている。
半井桃水に小説を学びながら、桃水主宰の「武蔵野」の創刊号に処女小説『闇桜』を発表している。この頃の一葉は、貧苦にあえぎながらも図書館に通い、桃水は困窮した一葉の生活の面倒(一葉は桃水から借金をする)を見たりして、次第に一葉は桃水に恋慕の情を感じたりするが、二人のことが醜聞として広まったために桃水と縁を切らざるを得なくなり、それまでの傾向とは全く異なった小説『うもれ木』を発表してけじめをつけようとした。この『うもれ木』が一葉の出世作となったのは運命の皮肉かも知れないが、その後、島崎藤村などの自然主義文学に触れて『雪の日』、『琴の音』、『花ごもり』、『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』を次々と発表した。
今日では、1895年1月から1896年1月にかけて『文学界』で発表した『たけくらべ』が一葉の代表作となっているが、優れて美しい文章で綴られるこの作品の時期が、おそらく作家として最も充実していた時期と言えるかも知れない。半井桃水とのけじめをつけるためもあっただろうが、生活苦の打開のために吉原の遊郭近くで荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、あまりうまくいかずに、1894年5月には店を引き払い、貧苦の打開のために小説に打ち込まざるを得なくなったとも言える。
『たけくらべ』は、幸田露伴や森鴎外から絶賛され、一葉は新聞小説や随筆などを手がけていくが、次第に体調が思わしくなくなり、1986年8月に絶望的な結核と診断されて、11月に24歳と半年という若さで息を引き取った。一葉が作家として生活できたのはわずかに14ヶ月ほどで、生活苦を抱えた人生ではあったが、その短すぎる生涯の中で自分の命を削るようにして生み出した作品は、文学史に残る名作と言えるだろう。
本書では、一葉の作品に多く登場するような明るくさっぱりとして、むしろ剛胆でさえあるような気質をもつ人物として、少女時代から幡随院長兵衛のような人物に憧れ、女に学問はいらないと母親に言われながらも士族の娘としての教養を身につけ、和歌に関心をもち、中島歌子の歌塾「萩の舎」での学びを続けていく姿と和歌の師匠である中島歌子やそこで出会った伊東夏子や田辺龍子との交流などが記され、特に三人の夏子を登場させて、ひとりをわけありの華族の娘佐野島夏子としてとりあげ、彼女の運命の変転をからませながら一葉を描き出す試みがされている。そして、一葉の恋、特に半井桃水との恋が一葉の短い人生の綾として描かれている。
直木賞作家でもある作者の文章は定評があるし、いくつかの文学手法上の試みもある。作者が描き出したように、実際、樋口一葉という人は、利発で竹を割ったような性格をしていただろうと思う。しかし、単純な読後感としては、どうも樋口一葉を描ききっていないように感じられてしまった。一葉が半井桃水との恋を一度成就させたことが、一葉の人生の救いとなっている辺りは、それが事実かどうかは別にしても、彼女の人生を描く作品としてさすがだとは思うが、晩年、結核という病の中で執筆を続けた姿を描くところに、少し物足りなさを感じたからかもしれない。
しかし、こうして一葉の生涯を改めて思うと、自分の魂を注ぎ出すようなものが本物になっていくとつくづく感じる。生き急ぐ必要はどこにもないが、ひとつひとつのものに注がれた魂だけが残るような気がするのである。今は言葉の美しさというものからは無縁になりつつある日本語と貧しい言葉に基づく粗い精神が席捲しているが、言葉を美しく使うということは、その人の人格と精神性の問題だから、パソコンのソフトの規制を無視してでも美しい言葉が使えたらと思う。
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