昨日からよく晴れた冬空が広がるようになった。今日もよく晴れて気持ちがよいのだが、どことなく疲れが抜けきれないままで目覚めてしまい、あれこれとしなければならないことはあってもんなかなか気乗りがしない。手帳に書き出してあることをただ眺めるばかりである。「これではいかんよ」と思いつつ朝から仕事に手をつけていた。
昨夜、高橋克彦『蘭陽きらら舞』(2009年 文藝春秋社)を読み終えた。これは以前に読んだ『だましゑ歌麿』(1999年 文藝春秋社)や『おこう紅絵暦』(2003年 文藝春秋社)、あるいはまだ読んではいないが、『春朗合わせ鏡』(2006年 文藝春秋社)の続編のような作品で、『おこう紅絵暦』を読んだ時にも思ったのだが、前作を読まないと登場する人物たちやその繋がり、背景などがさっぱいわからないという不親切な作品である。
だが、「春朗」というのは葛飾北斎のことで、『だましゑ歌麿』で人気絵師であった喜多川歌麿の起こした事件に関連して南町奉行所同心であった仙波一之進と出会い、彼の手助けをしていくようになり、また公儀お庭番の家系であったことが記されていくのだが、その仙波一之進の妻となったのが柳橋の美貌の売れっ子芸者であった「おこう」で、一之進の父親で隠居した左門と共に、いわばロッキングチェアー・デティクティブ(揺り椅子探偵)のような名推理を発揮するのである。仙波一之進は南町奉行所筆頭与力に出世している。本書でも取り扱われる事件の重要な鍵は「おこう」が解いていく構成が取られている。その「おこう」を中心にしたのが『おこう紅絵暦』であった。
本書は、「春朗(葛飾北斎)」の友人で、売れない女形役者であり、トンボ(空中回転)を得意とする「蘭陽」を中心に物語が展開していく。「蘭陽」は、役者として売れないことの悲哀や「おとこおんな」として生きていることの辛さ、そして多くの秘密を抱えながら生きているが、底抜けに楽天的で、絵師として生きていこうとする「春朗(北斎)」と名コンビを組んでいくのである。「きらら舞」というのは、この「蘭陽」がトンボ(宙返り)をするときにきらきら光る雲母などの粉をまくところから名づけられた「蘭陽」の得意芸である。
本書で取り扱われるのは、芝居小屋の金が盗まれた事件でとばっちりを受けて役者稼業を廃業させられていた「蘭陽」に戯作者である勝表俵(のちの鶴屋南北)から芝居の話が持ち込まれ、その事件には無関係だったことを証する必要があって、「春朗」と共に芝居小屋の金が盗まれた事件の真相を突きとめていく第一話「きらら舞」や、芝居で使われた古着を切って売り出し一儲けをたくらんだところが、欲をだした古着商に古着売買証を取られたのを取り返していく第二話「はぎ格子」、一家心中した商家に化物が出るという噂を芝居の前評判を高めるために使おうとした表俵の意向を受けて、「蘭陽」と「春朗」が化物屋敷に出かけていくことになり、一家心中の話を聞いた「おこう」が、それが心中に見せかけた殺人であることを見抜いて、「蘭陽」が一芝居打って犯人をあぶり出していく第三話「化物屋敷」など、十二話に渡って物語が展開されている。
各物語の詳細を書くまでもなく、題材は極めて面白いのだが、残念に思うのは、複雑な人間模様が予測される事件でも、「おこう」があっさりと謎を解き、「蘭陽」と「春朗」が名コンビを組みながら真相を実証していくという構造がいずれも取られていて、北斎や鶴屋南北が登場している割には展開があっさりしすぎている気がすることである。当時の絵師や戯作者たちは松平定信の贅沢禁止令もあってかなり苦労したのだが、そうした生活の苦労や泥臭さ、苦闘などは少ししか触れられずに、深みは感じられない。
この作品群の中では、やはり、第一作の『だましゑ歌麿』が一番面白く、まあ、こういう作風もあるのかも知れないが、少なくともわたしのような者にとっては、あっさり読み飛ばしてしまったという印象しか残らない作品だった。
北斎のあの絵のすごさは並の人間にはない凄さで、やはり天才としか言いようがないのだが、天才は生きることに人一倍の苦労をするのだから、そうしたものがにじみ出てくればよいのだが、本書で描かれる北斎(春朗)は、ことさら北斎でなくてもよい気がしたからかも知れない。もう少し北斎の人間性が描かれればよいと思うのは、もちろん、わたしの勝手な望みではあるだろうが。少なくとも、これは娯楽小説で、読んで心が震えるようなものではなかった。
個人的に、この季節には心が震えるような作品を読みたいと思ったりする。そういうわたしの読者としての心情があって、あまり面白く読めなかったのかも知れないと思ったりもする。今年は特に東北大震災が起こり、何もかも奪い去った津波が去った後のがれきの中で、ひとり花束を抱えて涙を流しながら海に向かって佇んでいた少女の報道写真を見て、涙がぽろぽろこぼれてならなかったから、楽天的であればもっと楽天的に、悲観的であれば深く心をえぐるような、そういうことを求めるからだろう。
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