冷たい雨が降っている。だが、しばらく拭き掃除もしていなかったし、壁紙も黄変しているので、そろそろ塗り直す時期かもしれないと思いつつ、朝から壁や床などを雑巾がけしていた。
だいたい月曜日は疲れを覚えるのだが、掃除の後で、整理なければならない書類や連絡事項もあって、今日は少し頑張って見ることにして、雑務をこなし、ようやく一段落ついたところ。それで、葉室麟『蜩ノ記』について、少々長くなっているが、それだけこの作品は完成度の高い濃密な内容をもつ作品だと思っていることもあって、これを記している。
いよいよ物語の後半だが、冬はこともなげに過ぎ、その間に源吉の父の万治の動向や播磨屋の番頭と矢野啓四郎を殺したのが、戸田家に出入りする市松の父の源兵衛ではないかとの推測が記されている。しかし、それはまだ明白ではない。武士の横暴さから村を守るための苦肉の策として源兵衛が殺したことが推測されるだけである。
そして、春となり、福岡で「お美代の方」の出生の秘事と播磨屋との関係を調べていた水上信吾が帰ってきて、「お美代の方」が武家の出ではなく、実は播磨屋の娘で、藩内で権力をもとうとした中根大蔵が播磨屋と手を組んで仕組んだことであることが明らかにされていく。そこには藩主三浦家の継嗣問題に繋がる恨みと中根家の先祖が遠島に処せられて苦労してきたことの二重の恨みがあり、こうした策略が行われたのではないかと秋谷は推測する。「お美代の方」の由緒書が重要な意味をもってくるようになるのである。力を欲する者は力で破れ、だいたい残るのは恨みだけで、その恨みは、そこに欲が絡むといつも粘着質のものとなる。そして、中根兵右衛門が抱く恨みは、彼が力をもつだけに、悪質な策略となる。
その数日後、檀野庄三郎のかつての上司であり、家老中根兵右衛門の手先となって働いている原市之進が「お美代の方」の由緒書を探しに戸田家に訪れ、傲慢な脅しをかける。「お美代の方」の由緒書を渡さないなら、亡くなった矢野啓四郎が、戸田秋谷が村人を扇動して一揆を企てた疑いがあると報告していたので、それを取り調べると言い出すのである。秋谷は、源兵衛が自分を守ろうとして先に矢野啓四郎を殺したのではないかと思うが、原市之進の申し出や脅しをきっぱりと断る。
その話を聞いて、郁太郎は、もし取り調べが行われるなら、播磨屋の番頭と矢野啓四郎を殺したのではないかと噂を立てられていた万治が疑われるし、しかもその取り調べが拷問であることを案じ、そのことを息子の源吉に知らせに行く。そして、源吉は父親の万治を村から逃がす算段をし、山に逃がす。
しかし、原市之進の意を受けた郡方目付が来て、万治が戸田家の郁太郎と友だちだということもあり、源吉を捕らえ、棒叩きの折檻をする。だが、源吉は一言もしゃべらない。そして、折檻が三日間続いた後、源吉は、とうとう死んでしまうのである。源吉の遺骸は無惨だったが、妹のお春を悲しませたくないために顔だけは笑っていた。源吉の死は予想外の権力による殺人にほかならなかった。
郁太郎は源吉を死なせた咎はだれにあるか、と秋谷に問う。秋谷は、「源吉は命をかけてわれらを守ってくれた。それに報いねばならぬゆえ、話して聞かせる」(263ページ)といって、「此度のことの源は、中根ご家老がお美代の方様に関わる秘密を守り抜こうとしたことにより発しておる」と教えるのである。郁太郎は「向山村は中根ご家老様の知行所でございます。源吉のことをご存じでしょうか」と問い、秋谷は「いや、知るまいな」と答える。郁太郎は、そのことで思うところがあり、その夜、家を出て中根屋敷に向かうのである。
秋谷は息子の郁太郎が出かけたことを知っているが、それを黙って見送るだけである。檀野庄三郎がそれに気づいて秋谷のゆるしをえて郁太郎の後を追う。この時の秋谷に、自分の息子が一度決めたことを信じ、尊重し、それを見守りながら見送る父親の姿がある。それは、息子を心底信じる父親の姿にほかならない。心配する母の織江と姉の薫に、秋谷は「源吉の友として、なさねばならぬと思い定めたことを果たしにまいったのであろう」(268ページ)と郁太郎を案じつつも決然と語る。決然と生きる武士と武士の子なのである。
追いついた庄三郎に郁太郎は「源吉があのように死なねばならなかったことに、わたしはどうしても納得がいきません。すべてを命じられたご家老様が、源吉のことを知らないままでいるのは許されないと思います。だから、どうしてもご家老様に一太刀浴びせたいのです」と語り、「源吉は本当にいい奴でした。わたしは源吉の生涯の友でいたいのです。いま何もしなかったら、源吉の友とは言えません」と言う。それを聞いて、庄三郎は、「わかった。止めはせん」と語り、中根屋敷まで案内していくのである(267ページ)。ここにも、子どもとはいえ、男が一度心底から決めたことを尊重する姿がある。
秋谷は、織江と薫に言う。「武士の心があれば、いまの郁太郎は止められぬ。檀野殿は郁太郎を見守るつもりで追ってくれたのであろう」「檀野殿は武士だ。おのれがなそうと意を固めたならば、必ずなさずにはおられまい。檀野殿の心を黙って受けるほかないのだ」(269ページ)。
戸田家の人々、そしてそれに繋がる檀野庄三郎は、この危機的な状態の中で、いわば生も死も越えた人としての信頼を示すのである。死のうと生きようとまっすぐに信じて生きていく。それが戸田秋谷の姿である。そして、秋谷に接してきた檀野庄三郎も「わたしも源吉を好きでした。源吉は穏やかながら、常にしっかりとした考えをもち、自らを律し、家族のために尽くすことを知っていました。おとなになれば、村のひとびとを助け、多くの者を幸せにしたのではないかと思います。源吉のために何かをするのは、武士としての自分の務めです」(271-272ページ)と語り、自ら咎を受けることを承知で郁太郎とともに中根兵右衛門に会うのである。
中根兵右衛門は、「朝粥の会」と称する若手の吏僚たちとの打ち合わせをしていた。権勢を誇る中根兵右衛門のところに集まる若手の吏僚たちは、ただおもねるだけで、その中にいた原市之進は、郡方のひどい取り調べで源吉が死んだという失策を中根兵右衛門の叱責を恐れて報告しなかった。こういう光景は、いまの企業で行われていることを反映させたものであろう。そこにあるのは「いやらしさ」だけである。
そこに郁太郎と檀野庄三郎がやってくる。庄三郎は元上司や家老の前でも毅然とした態度で臨むし、郁太郎は源吉の死を明確に告げる。郁太郎は、「源吉は、わたしの父をめぐる藩内の確執から死に至らされたようなものです。それなのに、源吉が死んだことをご家老様がご存じないのは許せないと思いました」と言う。中根兵右衛門は、「わしは藩を預かる家老である。さような百姓の小倅のことまでいちいち気にかけているわけにはいかん」とうそぶく。だが、郁太郎はひるむことなく、「いえ、自らがなさったことで、領民がひどい目に遭ったことを、藩の家老として、向山村を治める者として、ご家老様には知っていただかねばなりません。そのために、わたしは参りました」と言って、中根兵右衛門に一太刀浴びせようとするのである。
だが、中根兵右衛門は、刀を抜けば、死を免れないだけでなく、家族もただでは住まなくなるばかりか、源吉の家族も捕らえて磔にすると脅す。郁太郎は、恐がりのお春がそんな目にあったらどれほど脅えるだろうと抜きかけた脇差しから手を離し、「卑怯・・・」と言って断念する。檀野庄三郎は、それを見て、「郁太郎殿、見事であったぞ。いま、ご家老は武士としてあるまじき言葉を吐かれた。・・・郁太郎殿は、源吉のために間違いなく一太刀浴びせることができましたぞ」と言い、二人は捕縛される(278-282ページ)。
二人を座敷牢に閉じ込めた中根兵右衛門は、二人を処罰すれば屋敷内でのごたごたが明らかになってしまうので、戸田秋谷に、二人をゆるす代わりに「お美代の方」の出生を書いた由緒書を渡すように申し出る。秋谷の切腹の取りやめも言上すると言う。中根兵右衛門は、二人をゆるす気などとうていなく、別の日に処罰するつもりだし、秋谷の切腹についても、ただ申し出るだけで、そのために働く気などさらさらない。
だが、座敷牢に閉じ込められた郁太郎は、それぞれに覚悟を定めていく。庄三郎は郁太郎に「志を果たしたと思うのなら、源吉のように笑っておればよいのです」と語り、自らも向山村で秋谷と接するうちに、「ひとは心の目指すところに向かって生きているのだ、と思うようになった。心の向かうところが志であり、それが果たされるのであれば、命を絶たれることも恐ろしくない」と思うのである(289ページ)。
一方、中根兵右衛門の使者となった水上信吾から中根兵右衛門の申し出を聞いた戸田秋谷は、中根の真意を見抜き、案じる織江と薫のためにも二人を救出に中根屋敷へと向かう。そして、正面から堂々と入っていき、あやまる郁太郎に「何をあやまることがあろうか。そなたは、友のためにしなければならぬと思い定めたことをやったまでだ。武士としてなんら恥じることなき振る舞いだ。わたしはそなたを誇りに思うぞ」(298ページ)と語りかけ、「お美代の方」の由緒書を渡して中根兵右衛門と渡り合う。
中根兵右衛門は、そのような戸田秋谷を見て、思わず、自分が若い頃から戸田秋谷を意識し、競い合うように生きてきたのだと露吐する。むろん、秋谷には人と競い合うなどという発想そのものがなかった。だが、兵右衛門の父の中根大蔵が兵右衛門に秋谷と競い合うように仕向け、やがて権力を手に入れた中根兵右衛門が、秋谷を郡奉行から外して江戸に追いやり、しかも事件を画策した赤座与兵衛の裏切りを恐れて切腹させたことを語り出すのである。中根兵右衛門は秋谷が「お美代の方」の由緒書を差し出したことで、秋谷が自分の前に屈したと思ったのである。
ところが、秋谷は、「それは、もはやただの紙切れ同然でござる」(309ページ)と言い放つ。長久寺の慶仙和尚に寺の記録として残すようにすでに依頼したので、どんなに隠しても歴史として残ると言うのである。そして、兵右衛門を殴りつけて「源吉が受けた痛みは、かようなものではなかったのでござる。領民の痛みをわが痛みとせねば、家老は務まりますまい」(312ページ)と言って、捕らわれていた二人を連れて堂々と帰るのである。
この最後の山場は、いわばまっすぐに、ひたすらまっすぐに己の信じるところを生きてきた戸田秋谷と、策を弄して自分を守り、地位を得ようとしてきた中根兵右衛門の直接の対決である。表面的には、秋谷は切腹するであろうし、中根兵右衛門は家老としての職にいつづけるであろう。もちろん、作品の主張から言って、勝敗などが問題なのではない。だが、秋谷はなんと清々しく、堂々としているのだろう。傲慢になることもなく、卑屈になることもなく、坦々と己の道を生きている姿が、ここで貫かれているのである。
この作品について、もう少し記しておきたいこともあるので、この感動的な物語の結末とわたしなりの思いは次回に記すことにする。
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