目覚めたら一面真っ白な雪景色が広がり、街並みが白く煙って、今もしんしんと雪が舞い落ちている。積雪もかなりあって、横浜では今年いちばんの大雪だろう。車も人通りも少ない。こんな日は、炬燵で雪見酒でも静かに飲むのがいいかもしれないと思いつつ、朝から仕事にせいを出していた。
昨夕、隆慶一郎『隆慶一郎全集6 鬼麿斬人剣』(2009年 新潮社)を面白く読み終わった。先に、この全集の第一巻『吉原御免状』を読んで、「山の民(山窩―さんか)」を自由の民として描き出したり、徳川の幕閣と、独自の形態をもった遊郭である吉原の攻防を自由のための闘いとしてエンターテイメントの要素も加えて描き出したりして、味わい深く読んでいたので、この全集を読むことにしていたが、第二巻から第五巻までは『影武者徳川家康』で、読むのに少し時間がかかりそうなので、先に、この第六巻『鬼麿斬人剣』を読むことにした。
本書には、表題の『鬼麿斬人剣』と『狼の眼』、『異説 猿ヶ辻の変』、『死出の雪』の三編の短編が収められている。
最初の長編『鬼麿斬人剣』は、四谷正宗と呼ばれた江戸時代の不世出の名刀鍛冶であった山浦清麿の弟子の鬼麿という人物を主人公にした冒険活劇譚である。1986年(昭和61年)の「小説新潮」3月号から3ヵ月ごとに1987年(昭和62年)4月号まで掲載されたもので、巻末の縄田一男の「解題」に、作者自身が1986年(昭和61年)の雑誌「波」2月号で本書の構想を次のように語っているのが紹介されている。少し長くなるが、本書の内容もよく表していると思われるので抜き書きしておく。
「四谷正宗と謳われた不世出の刀鍛冶がいまして、これが水もしたたる美男子で剣術もかなり強かった。彼は、天保十三年の春に突然江戸を出奔して、その年の春には長州萩に現れている。出奔の理由も、どこをどう旅したのかも判らない。しかも、嘉永七年、ペリー来航の翌年に、便所の中で腹をかき切って四十二歳で死んでいる。
この清麿のことを一番最初に書いたのは吉川英治さんだったと思いますが、吉川さんの書いたのは全くのフィクションで、清麿研究家が怒ってしまったということがあるんです。余り清麿人気が高いものだから、彼をストレートに書くとまた抵抗が生じると思って、その弟子を主人公にしたんです。
弟子の鬼麿は巨漢で、三尺二寸五分という異例に長い刀を持っている。試し斬りの達人で、これがまためっぽう強い。この鬼麿が清麿の遺志で、中山道、野麦街道、丹波路、山陰道と師の足跡をたどりながら、清麿が路銀のために打った出来の悪い刀を、数打ちというんですが、それを一本、一本、折っていくという話です」(本書428-429ページ)
そして、縄田一男は、この作品の「解題」として、清麿を扱った吉川英治の作品『山浦清麿』が昭和13年という当時の時局を反映したもので、隆慶一郎は、この作品で清麿の江戸出奔の理由として、清麿の家が四谷北伊賀町の伊賀者組屋敷の側にあったことから発想して、将軍家斉の側室となった伊賀者組頭の娘との不義密通というところに求めたのではないかと記している。こういうところは、本書の「解題」として非常に優れている。隆慶一郎は、清麿の自死が、酒毒のために手が使えなくなり、そのため満足のいく刀を打つことができなくなって、刀鍛冶としての誇りから自分の姿に耐えきれなくなったとしている。実際、山浦清麿は、誇り高い人間で、刀工としても相当の自負があった人である。
清麿は美男子で、行く先々で酒と女がつきまとうが、本書での弟子の鬼麿は、その名の通りの巨漢でいかつい男として設定されている。また、彼は、幼児の時に厳寒の山中に捨てられ、備わった生命力のたくましさで生きのび、山窩の一族に助けられて育てられ、自由人として生きのびる術や知識を身につけ、通常の倫理観やしきたりなどに捕らわれない自由人の気質を全面的に押し出していくような人物として設定されている。
山窩の一族のもとを出た鬼麿が、盗みなどをして生きのびていた少年のころに、山陰道を放浪していた清麿と出会い、彼の弟子となり、刀鍛冶として修業していく中で、試し斬りの腕も磨き、背中を後ろにそらす奇妙な格好ながらも剣術の抜群の達人となっていたという設定で、その鬼麿が便所で腹を切った師の清麿の最後に立ち会って、路銀のために数打ちしてしまった駄作の刀が残っていては恥だから、これを探し出して折ってくれという遺言を聞き、その遺志を果たすために江戸を出るところから始まっていく。
他方、清麿が不義密通をした家斉の側室の父親である伊賀者の組頭は、自分の娘の不義を隠すために清麿を殺そうと狙っていたが、清麿にことごとくはね除けられ、その清麿自身が死に、次に「四谷正宗」と呼ばれるほどの名刀工となった清麿の名を辱めるために彼が数打ちした駄作の刀を探し出して、これを公にすることへと恨みを変えていく。
かくして、清麿の駄作を求めて、鬼麿と伊賀者との争いが始まっていくのである。こうして舞台は中山道、野麦街道、丹波路へと移っていき、その場所それぞれで、清麿の駄作を探し出そうとする鬼麿の姿や、それを奪い取ろうとする伊賀者との闘いが展開されていき、途中で拾った山窩の子どもや彼を追いかけてきた伊賀者組頭の娘「おりん」との出会いや、「おりん」が鬼麿のとりこになっていくことなどがエンターテイメントの要素たっぷりに描かれていく。
最後の舞台となるのは、朝廷と繋がりをもつことで幕府の統制外に置かれた「かやの里」と呼ばれる一種の桃源郷であるが、これは、第一巻で記された自由の民の砦としての吉原に繋がるものであろう。こうした理想郷のような世界は他の作品でも現れるが、こうした世界を作者が理想としてもっていたこと、それが作品をさらに面白いものにしていることを改めて思ったりした。なにせ、面白い。つくづくそう思う。
『狼の眼』は、1988年(昭和63年)に「小説新潮臨時増刊号」1月号に発表された作品で、ふとしたことで刃傷沙汰を起こしたために放逐の身となった秋山要助という剣客が、次第に身を持ち崩して放浪生活をする中で多くの人間を斬り、やくざなどから「人斬り要助」と恐れられるようになって、獲物を狙う「狼の眼」のような眼をするようになり、やがて、自分が放逐される原因となったのが、兄弟子の謀略であったことを知り、自分を嵌めた兄弟子に復讐をする話である。
『異説 猿ヶ辻の変』は、同じ1988年(昭和63年)「別冊歴史読本・時代小説特集号」に発表された作品で、幕末の暗殺事件でも大きな影響を与えた姉小路公知(あねがこうじ きんとも)の暗殺事件を取り扱ったものである。
姉小路公知(1840-1863年)は、幕末の公家の中で三条実美とともに攘夷派の急先鋒であったが、1863年(文久3年)に京都禁裏朔平門外の猿ヶ辻で何者かに襲われて死去した人である。その事件は、残された証拠から薩摩藩の「人斬り新兵衛」と言われた田中新兵衛が捕らえられるが、新兵衛が自害したために真相が不明のままになっている事件である。
本書では、そこに土佐藩の攘夷論者で土佐勤王党を組織した武市半平太瑞山と三条実美の策謀があり、田中新兵衛は自死したのではなく、武市半平太の意を受けた岡田以蔵が殺したのではないかとの説をとっている。いずれにしても、この事件が幕末と維新の姿を大きく変えたのは事実で、当時、政治的な策謀が渦巻き、醜い争いが繰り返されていた。こういう事件を考えると、策謀に走る人間の愚かさと哀れさを感じるだけだが、作者も同じように感じた気がしないでもない。
『死出の雪』は、1989年(平成元年)「別冊歴史読本・時代小説特集号7」に発表された作品で、「崇禅寺馬場の仇討ち事件」を描いたものである。「崇禅寺馬場の仇討ち事件」というのは、浄瑠璃などでもよく上演されるが、1715年(正徳5年)11月に摂津国西成郡(現:大阪府)の崇禅寺の松林の中で起こった仇討ち事件で、大和国(現:奈良県)郡山藩の槍術師範であった遠城治郞左衛門の子である治左衛門と安藤喜八郎の兄弟が、弟宗左衛門の仇である生田伝八郎を討とうとして、反対に返り討ちにあった事件である。
この作品の中で、最初に生田伝八郎に殺された宗左衛門を鼻持ちならない傲慢な若者として描き、怖いもの知らずで無思慮、暴力を笠に着るようなつまらない人間として描き、その母親の単なる溺愛が子に事件を招き、生田伝八郎も返り討ちにあった遠城治左衛門も安藤喜八郎も、共に、どうにもならない現状を黙って受けて、武士としてその「儀」を果たして死んでいったものとして描き出されている。この視点も、作者ならではの視点だろうと思う。
しかし、これらの短編よりも、やはり長編の方が作者の力量がもっとも発揮されているように感じた。もちろん、短編も優れているし、その歴史解釈も面白い。だが、作者は、やはり、本質的に物語作家ではないだろうか。まだ数作品しか読んでいないが、そんな気がする。
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