2012年12月19日水曜日

滝口康彦『一命』(2)


 朝方は重い雲が広がって寒かったが、ようやく晴れ間が見え始めている。だが、気温が低い。国政を決める衆議院選挙が行われて、政権与党であった民主党が惨敗した。政権を取った時の政策が何一つ実行されず、暮らし向きは以前より悪くなったのだから当然の結果とも言える。新しく政権を復活させた自民党もこれといった打開策があるわけではなく、現状が厳しいだけに政治への期待感が大きくなっているのは、ある意味で危険な兆候ではないかと思ったりもする。

 閑話休題。滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)の続きであるが、「謀殺」は、戦国末期の肥前(佐賀)の覇者でもあった龍造寺隆信(15291584年)による柳川城主蒲池鎮漣((かまち しげなみ 鎮並とも表され、本書では鎮並 15471581年)の謀殺事件を取り扱ったものである。

 蒲池鎮漣は、猿楽を楽しむなどの文武ともに優れた武将で、筑後十五城の筆頭大名であった。父の蒲池鑑盛(かまち あきもり)は豊後(大分)の大友宗麟の幕下で筑後を統括し、掘割を縦横に巡らせる難攻不落の柳川城を築城して、現在の水郷柳川の基礎を築き、信義に篤い優れた統治者であり、龍造寺隆信が家臣団の反乱にあった時も、彼をかくまって保護し、彼の復帰にも力を貸していた。しかし、龍造寺隆信が大友宗麟と並ぶ戦国大名へとのし上がっていったとき、佐嘉(佐賀)と柳川の距離的な近さもあって、家督を継いだ蒲池鎮漣は、大友氏を離れて、龍造寺氏に接近した。

 佐賀の龍造寺隆信は、自分の娘の玉鶴姫を蒲池鎮漣に嫁がせ、鎮漣の義父として彼を筑後侵攻に協力させるのである。そして、やがて柳川の領有化も図っていく。蒲池鎮漣は、柳川城主として、こうした龍造寺隆信の野望を認めることはできないし、隆信の冷酷非情な行為に反感を抱いていたこともあり、ついに龍造寺隆信との離反を決意する。これに怒った龍造寺隆信は、かつての恩顧も無視して、柳川城を2万の大軍で包囲するが、難攻不落の柳川城は落ちず、鎮漣の叔父の田尻鑑種(鎮漣の母の弟)の仲介で和睦を結ぶ。

 しかし、柳川は龍造寺隆信が九州中央へ進出するための要の場所であり、龍造寺氏を離れた蒲池鎮漣が薩摩の島津氏との接近を図っていたという動きもあって、再度柳川侵攻を行うことにして、難攻不落の柳川城を責めることは難しいから、城主の蒲池鎮漣を謀殺することを画策したのである。

 龍造寺隆信は、龍造寺家と蒲池家の和睦の印として、鎮漣が好んだ猿楽の宴を催すとして、柳川に使者を送り、鎮漣を誘い出そうとしたのである。龍造寺隆信の腹黒さをよく知っている蒲池鎮漣は、初めこれを頑なに拒否するが、使者は、鎮漣の母や重臣を説得してまわり、母親思いの鎮漣はついに断りきれなくなって、万一の場合に備えて屈強な家臣団をつれて肥前に向かう。しかし、与賀神社参拝の際に圧倒的多数の軍団に取り囲まれて、家臣団は討ち死にし、鎮漣はそこで自害した。龍造寺隆信の娘で鎮漣の妻となっていた玉鶴姫は、父が夫を謀殺したことを知ると、鎮漣の後を追って自害している。

 龍造寺隆信は、蒲池鎮漣を謀殺すると、直ちに兵を柳川城に向けて出陣させ、鎮漣一族を抹殺させた。しかし、そのあまりに非道な仕打ちで、筑後の有力者たちの反発を招き、それが以後の龍造寺家の没落に繋がっていった。

 本書は、その龍造寺隆信の使者として、正直者であると知られていた西岡美濃と田原伊勢が選ばれ、彼らが柳川に向かって、謀殺を隠しながら嘘をついて鎮漣の母の千寿を説得していく姿を描いたものである。彼らは、主君から嘘をつくことを命じられ、苦渋のうちに説得をしつつも、夜伽に差し出された娘に手をつけないことで、なんとか密かに謀殺の計画を知らせ、謀殺を未然に防いで、蒲池鎮漣の命を救おうとした。しかし、手をつけられなかった娘が、手をつけられなかったのは自分に魅力がないことだと恥じて、嘘をついて手をつけられたと言ってしまったことから、母の千寿が謀殺はないものと考えて、鎮漣を肥前に送り出してしまった、というのである。「皮肉」な結末は、ほんのささやかな嘘から生じる。でもそれが人の世の事実だろう。

 思うに、蒲池鎮漣は優れた武将であり才覚のある人であったが、彼の悲運は、彼がもっていた才覚によって情勢判断をし、自らの身をその判断に従わせて右往左往させたところにあるのかもしれないと思ったりもする。あるいは、武将としてではなく人として、母親や妻への思いやりに流されて、表面的な優しさをもってしまったところにあるようにも思われる。情勢判断は極めて大事だが、自分を見失ってその情勢に身を委ねると、人は滅びの道を行くしかなくなる、とわたしは思う。蒲池は滅び、蒲池を滅ぼした龍造寺も滅ぶ。それが歴史だろう。主家に命じられた不本意なことをしなければならない家臣の苦渋が本書では優れて描かれている。

 「上意討ち心得」は、真田増誉という人が、徳川幕府が成立する慶長から元和、そして五代将軍綱吉に至るまでの徳川家に関係にあった人の事跡をまとめた『明良洪範』という書物に記載されているエピソードのひとつを基にして書かれた作品である。ちなみにこの『明良洪範』は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で全巻を読むことができる。

 徳川御三家の一つである紀州藩は、家康の第十男徳川頼宣が藩祖であるが、頼宣が紀州五十五万五千石を成立させたとき、彼は多くの浪人を召抱えた。その時召抱えられた浪人の中には有象無象の人間がおり、本書に登場する浅香大学もその一人として描かれ、彼は藩内屈指の剣の手練であるが、狷介な性質で、些細なことから頼宣お気に入りの近習を斬り捨てて、城下を出奔したのである。怒った頼宣は、上意討ちの命令をくだし、追っ手を選りすぐって向かわせるが、6名のうち4名までが彼に返り討たれ、残り2名が大和郡山の町家に潜む浅香大学の居場所を探し出して戻ってきた。

 業を煮やした頼宣は、里見主馬という一人の家臣に上意討ちの命を下す。しかし、指名された里見主馬は、武芸も学問も平凡で、とても藩内屈指の腕を持っていた浅香大学の相手になるような人物ではなかった。彼が推挙されたのは、浅香大学と並ぶ藩内屈指の剣客で、妹の小雪と主馬との結婚を望んでいる祇園弥三郎の働きかけがあったのである。弥三郎の助太刀があれば、主馬は主命を果たして浅香大学を討つことも不可能ではないと思えたからである。

 里見主馬はごく平凡で目立たない男であり、男ぶりもあまりよくなく、見栄えもしない男であり、取り柄がなさすぎるということで弥三郎の親類縁者からはふさわしくないともなされていた。ところが、どうしたことか妹の小雪は、その主馬に惚れており、弥三郎は兄として、なんとか主馬に手柄を上げさせて、妹との結婚を実現させたいと思ったのである。藩主の頼宣も「介添えには祇園弥三郎を連れていけ」と命じる。

 しかし、主馬は弥三郎の助太刀を巌として否み、単独で郡山に出かけるのである。案じた小雪は、大学に劣らない腕を持つ兄の助太刀を受け入れるようにと主馬の家に行くが、主馬の母親から、かえって、「あなたがたは侍の心得を知らない」とたしなめられてしまう。上意討ちの命は、いたずらな功名争いを避けるために、必ず一人で受けよ。それが上意討ちの心得なのである。母親は「主馬は立派に死んでくる」と言い放つ。

 ところが、武芸に秀でたところがなく、浅香大学には負けると思われていた里見主馬が見事に大学を破って主命を果たす。主馬には秘策があり、本来の左利きの利点を活かして、慢心していた大学を破るのである。しかも、それが上意討ちであることの証を立てる策まで用い、紀伊藩内に彼が上意討ちを見事に行ったことを証し立てる。

 こうして主馬は見事に役目を果たした者として、これまでの目立たない平凡な男から命がけで武士の面目を果たした者として自らの運命を変える。それは小雪との結婚をも可能にすることであった。

 しかし、小雪は、実は、主馬の人目をひかない平凡さに心を惹かれ、取り柄のないところが好きだったのであり、彼が注目を浴びることに寂しさを感じてしまうのである。

 たいていの男は、自分が立身出世をして有為な人間であることが自分の魅力を高めることだと思っているが、女は、男にそれを求める人もいるが、そうでない細やかでも満たされていることを願う人もいる。いずれにしても確実なことは、人間の幸せは立身出世にはないということである。

 「高柳親子」は、作者が1957年に第10回オール読物新人賞の次席を得た商業誌のデビュー作品で、肥前佐賀藩の支藩であった小城藩を舞台にして武家社会の風潮を痛烈に描ききった作品であり、この作品が生まれた時代背景なども考慮したいので、また、次回に記したい。

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