こちらでは穏やかな天候の中で、新しい年が事もなく開けた。元旦からもうすぐ締切りの雑誌の原稿の資料集めなどをしていた。今年は一身上の大きな変化を迎える年になるが、生活環境が変化するだけであるから、どこにいっても変わらない営為を続けるだろうと思う。
さて、昨年末から野口卓の作品を読んでいるが、先に読んだ『軍鶏侍』(2011年 祥伝社文庫)の第二作である『獺祭(だつさい) 軍鶏侍』(2011年 祥伝社文庫)を、これもまた大変面白く読んだ。表題の「獺祭(だつさい)」というのは、作者によれば、川獺(かわうそ)が捕えた魚を食べずに岩の上に並べて置という習性をもつことから、それが川獺の祭りのようで、手の内の全部見せてしまうことを言うのだそうである。この表題がつけられた第一話「獺祭」は、文字通り、主人公の岩倉源太夫が、彼が軍鶏の闘いから編み出した秘剣「蹴殺し」の手の内を見せる展開が記されるのである。
園瀬藩で、ようやくにして念願の剣術道場を開くことができた岩倉源太夫は、これまで、藩内の勢力争いに巻き込まれる形で、刺客として送り込まれていた旧友の秋山精十郎や妻となった「みつ」の前夫で藩内随一の剣の遣い手と言われた立川彦蔵と藩命によって対決し、さらに、武芸者として彼の秘剣「蹴殺し」との対決を望んだ武尾福太郎の挑戦を退けてきていた。特に、武尾福太郎との対決を目撃した漁師が、そのあまりの電光石火のような業に驚嘆して噂を広めたこともあり、剣客としての名が上がってきていた。
しかし、藩内で剣術道場を開く大谷道場と原道場の主が、門弟を源太夫に取られることを危惧して、卑怯にも源太夫に闇うちをかけるのである。彼の菩提寺である正願寺の住職である恵海(えかい)和尚から囲碁の手ほどきを受けて面白くなり、その日も正願寺での囲碁を打った帰りに、彼は襲われるのである。だが、腕の違いは明白で、彼は四人の襲撃者を一蹴する。だが、大谷道場の主の兄の大谷馬之介が江戸から帰ってきて、岩倉源太夫との果し合いを望むのである。この二人の兄弟が置かれた事情も述べられ、彼らが世間に対する「怨み」で生きてきた姿も描かれる。
源太夫は、その試合で彼の秘剣「蹴殺し」を使うと明白に宣言し、見所がある二人の弟子の柏崎数馬と東野才二郎にそれを見せると言う。その言葉のとおり、源太夫は「蹴殺し」の業で大谷馬之介を退ける。「怨み」で生きる者は、結局敗れるのである。源太夫は、秘剣も公にすれば秘剣でなくなるから、以前の武尾福太郎のように秘剣を求めてくる者がいなくなるだろうという。彼は正願寺の和尚に、誰もが臨まないくらいに強くなれば、争わなくても済むようになるから、それを目指していると語っていた。だが、その技があまりに早く、二人の弟子は何が起こったのかを見極めることができなかった。そこで、源太夫は二人の弟子に「蹴殺し」の習得方法を教え、訓練の方法を教えていくのである。それは、文字通り、源太夫の「獺祭」であった。
この話の中で、源太夫と恵海和尚の囲碁談議があって、将棋はそれぞれの駒の役割と力が決まっているが、囲碁はどの石も同じ力で、だからこそいい形で結びつきができるといかなる攻撃にも耐えられ、その力を存分に発揮することもできる、というのがあり、面白いと思った。静謐さをもつ源太夫は、恵海から囲碁の手ほどきを受け、見る間に強くなっていくのである。こういう挿話で寺の住職との人生談議になっていくあたりが、なかなか洒落た構成で、その人生談議が作品で展開される辺りに作家の真骨頂があるのかもしれないとも思う。
第二話「軍鶏と矮鶏(ちゃぼ)」は、軍鶏好きの同好者たちの話から始まる。軍鶏は闘鶏に用いられるため、多くの同好者たちは金を賭けて儲けようと企むから強い軍鶏を欲しがる。だが、源太夫は、「美しい軍鶏は強い」という師の秋山勢右衛門の言葉どおり、純粋に美しい軍鶏を育てたいと思っていた。その源太夫と同じような思いをもつ太物問屋の隠居の惣兵衛が源太夫を訪ねてきて、互いの軍鶏を掛け合わせて良い軍鶏を作りだすことを提案するのである。軍鶏の雌は足が長くて羽根も小さいために、卵を産んでもそれを抱くことができないし、雌の軍鶏の脚骨も太く、卵を踏みつぶしてしまう恐れがある。それで、源太夫は軍鶏の卵を脚が短く羽が大きな矮鶏(ちゃぼ)に抱かせて孵化させていた。それが一般的であったが、偬兵衛は、自分が矮鶏の代わりになって軍鶏の卵を温めて孵化させるという。真に軍鶏好きの典型とも言う人物で、源太夫と偬兵衛はすぐに打ち解けた仲になる。そして、美しい軍鶏を育てることの難しさが二人のやりとりで展開されることになるが、それがやがて、ひとりの才能ある少年を育てることにつながる展開になっている。
源太夫の道場に九歳になる森正造が通っており、彼は町奉行配下の書役である森伝四郎の息子で、目立たない少年だった。だが、この少年には絵の特別な才能があり、密かに源太夫が飼っている軍鶏を写生していたのである。正造の描いた軍鶏は見事で、源太夫は彼の才能に驚嘆する。少年の目はいい軍鶏を見分ける力もあり、それは彼が卓越した絵の才能をもっていることの証しでもあった。
源太夫は正造が描いた軍鶏の絵を藩校の教授方をしている友人の池田盤晴に見せ、盤晴もその才能を見抜いて、本格的に絵を習わせたらどうかと勧める。だが、正造は絵を描くことをゆるされていなかったし、正造の父親の森伝四郎が強く反対した。源太夫が伝四郎に会って正造の絵の話をしたら、伝四郎はけんもほろろに追い返し、その夜は妻と子をひどく叱責し、正造に源太夫の道場も辞めさせようとした。伝四郎が正造の絵に強く反対するには、事情があったのである。
正造の母小夜は、伝四郎の後妻であった。伝四郎は小夜と結婚してほどなく書役として江戸詰めとなり、やがて十月半後に正造が生まれたのである。その時に、年若い後妻をもらった伝四郎を妬むつまらない輩が、小夜とある絵師の間に何かあったらしいとの噂を言ったのである。伝四郎は正造が生まれたのが十月半後であったこともあわせて、小夜に対する鬱々とした疑いを抱いた。そして、正造がまだ幼い頃に描いた絵を小夜が嬉々として見せたとき、疑念の炎を燃え上がらせたのである。
それは全く根も葉もないうわさに過ぎなかった。だが、伝四郎は妻の小夜を信じることよりも自分の名誉に傷がつき、家名が汚されることを恐れた。そして、正造に絵を描くことを禁じたのである。
道場を辞めさせることを源太夫に伝えにきた小夜は、自分は正造を命がけで守る決心をしたと語り、正造に絵の才能があることを聞かされて、夫に正面から立ち向かい、正造の将来を開くことを決心していく。やがて、その正面からの向き合いが行われたのか、森伝四郎は源太夫の道場での剣術の稽古と絵師について絵を習うことを認め、こうして正造の道が開かれていったのである。
それからしばらくして、森伝四郎は雨に打たれたことが元で病となり、あっけなく他界した。正造が家督を継いでいくことになり、喪が明けたときに小夜が源太夫のところにきて事情を説明し、母の強さを源太夫は改めて覚えていく。そして、正造は、藩の絵師と共に江戸で本格的な絵の修業を始めることになるのである。源太夫は、道場にその正造が描いた絵をかけて、一件が落着していく。
長くなったので、第三話と第四話については次回に記すことにする。
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