梅雨特有の重い空が広がり、ときおり湿気にこらえきれずに雨となったり、雲の切れ間が見えたりする。昨日参議院選挙が終わり、大方の予想通り政権与党の民主党の惨敗が報じられた。政治に哲学も高い精神性もなく、それゆえにまた方策もないというもっともらしい批評を下すことは簡単だが、問題の根は深く、また深刻でもある。人間の「暮らし方」の根本が問われているのに、表面的な、あるいは場当たり主義的な現象しか問われない。本当の意味でのリアリティーがなくなってしまって、これほど人間がその精神性を失った時代はなかったのかも知れない。
それはともかく、今日、掃除をしながらずっとF.カフカが描いた「不幸な状態」について考えていた。カフカの主人公たちは、真綿で首を絞められるようにして追い詰められて行き、悪戦苦闘の末、結局、自分の居場所をどこにも見出せなくなって終わっていくが、現代の人間の不幸はそんな状態に置かれているところにあるのかも知れないと思っていたのだ。「存在の喪失の不幸」はじわじわと追い詰め、人を狂わせていく。何ともやりきれない思いを抱かなければならないこと、それが不幸の正体かも知れない。
再び、それはともかくとして、昨夜、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 孫六の宝』(2007年 双葉文庫)を読んだ。先日読んだ『父子凧』に続く第十作目の作品で、今回は、「はぐれ長屋」の住人で、還暦を過ぎて引退した元岡っ引きの孫六に待望の孫が誕生する話が基線となり、その孫六の娘婿で魚のぼてふり(天秤棒に担いで売り歩く)をしている叉八が辻斬りに襲われるところから事件が始まる。
叉八を襲った辻斬りたちは、執拗に叉八をねらい、ついには「はぐれ長屋」にまで襲ってくる。事態を受けて、「はぐれ長屋」の華町源九郎、菅井紋太夫、茂次、三太郎が動き、なぜ叉八が狙われるのかの真相を探っていく。
そこには太物問屋と材木問屋の乗っ取りを企む高利貸しと彼に雇われた剣鬼のような牢人たちが暗躍しており、叉八は、彼が襲われた時に、高利貸しと牢人たちに繋がりがあることを知ったために付け狙われていることが判明する。
「はぐれ長屋」の住人たちは、手分けして探索をはじめ、源九郎と紋太夫は剣鬼のような凄腕の牢人たちと対決していく。
その中で、華町源九郎は、かつて鏡新明智流の道場の同門であり、「籠手切り半兵衛」と呼ばれていた安井という武士と出会う場面がある。安井は源九郎のあまりにもみすぼらしい格好を見て、
「おぬしに、その気があれば、その腕を生かす仕事もあるのだがな」と言う。
源九郎は
「この歳になると、腰の刀でさえ、重くてな、それに隠居暮らしはわしの性に合っておる」
と言って断る。
安井は声に力を込めて言う
「華町、まだ、老いるのは早いぞ。もう一花咲かせねば」
それに対して、源九郎は「そうだな」と同意を示すものの、胸の内で「わしの花は、好きなことをして呑気に暮らすことだ」とつぶやくのである。(87-88ページ)
その安井は、高利貸しと結託して、辻斬りと乗っ取りの手先となっているのである。そして、無欲の源九郎と対決して敗れる。
これを読みながら、ふと、この国の人々が上昇志向というものに取り憑かれるようになってどのくらいたつだろうかと思ったりした。この国の住人の多くは、どこを見ても上昇志向だらけになった感さえある。以前、NHKの紀行ドキュメンタリーで、ベネチィアで何代も何代もゴンドラの船手をしている人が紹介されていたのを思い起こす。彼もまたゴンドラの船手としての生涯を過ごし、人生を終わるという。彼は、自分お仕事と生活に誇りを持ってそう語っているように見えた。そこに、この国の人々との大きな違いを感じたような気がした。
うらぶれた貧乏長屋である「はぐれ長屋」の傘張り牢人として過ごす華町源九郎の姿は、どこか爽快で、作者がこれをシリーズ物として多くの作品を書いた理由も、そこにあるように思えた。
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