2011年6月27日月曜日

高橋義夫『花輪大八湯守り日記 若草姫』

 台風で押し上げられていた梅雨前線が再び南下して雨が降りしきる日になった。梅雨らしい天気といえば梅雨らしいのだが、少々うんざりしないわけではない。人の感情や精神というのは勝手なもので、気分次第というところがあり、論語の「而して小人ここに乱る」の「小人」に成り果ててしまうところがある。人というのは、思った以上に非論理的な存在なのだから、こういう季節には「気分を変える」ということが大事かもしれない。温泉にでも行こうか、と思ったりする。

 昨日はなんだか疲れを覚えて夕方からずっと寝て、夜中に目が覚めて、それから食事を作り、シャワーを浴びたりしていたら眠れなくなって、こういう時は軽い読み物でもと思って、高橋義夫『花輪大八湯守り日記 若草姫』(2005年 中央公論新社)を読み続けた。

 これはこのシリーズの『湯けむり浄土』(2004年 中央公論新社)に続く二作目で、この後に三作目の『艶福地獄』(2009年 中公文庫)が続いており、主人公が生一本の素朴さと剛胆さを兼ね備えた大らかなところがあって、ある種の爽快さを醸し出していくので、比較的軽く読み飛ばせて面白く読んできた作品のひとつである。

 シリーズの基本的な構成は、前にも記したが、出羽の新庄藩(現:山形県新庄市)で次男の部屋住みであった主人公の花輪大八が、私闘の責任を負う形で勘当され、日本有数の豪雪地帯で知られる山深い肘折温泉(ひじおれおんせん)の湯守りとなり、そこでの人々との交わりを通じて、湯治客などが持ち込む事件などに関わって、時にそれが新庄藩全体を巻き込むものであったりする出来事を解決していく顛末を描くもので、本書でも、肘折温泉に湯治客としてきた藩の子女が、新庄藩を二分する内紛に関わる者であることから、花輪大八もその内紛に関わらざるを得なくなっていく展開になっている。

 豪雪のために閉ざされたようになっている肘折温泉に、雪を分けて二人の武家の女性が湯治にやってきた。やがて、その付き人が殺されるという事件が起こった。そして、肘折温泉を守る湯守りとして事情を調べていた花輪大八は二人の武家の女性から、もし自分たちに万一のことがあるときは、城下の藩士に届けて欲しいという「若草ものかたり」という草紙本を預かることになる。

 ところが付き人殺しの犯人がわかってしまうと、犯人は武家の女性の実家から送られてきた護衛役で、殺された付き人は女性の婚家からきていた監視役ということで、女性の実家と婚家の間で争いごとがあり、その争いが実は藩の実権を内分するような争いであったことがわかっていくのである。女性は両方の争いの要の立場に立っていたのである。

 その大筋の中で、新庄藩にあった剣術道場の道場破りをした剣の修行者が湯治にやってきたことから、遺恨のために追いかけてきた剣術道場と道場破りをした者との争い、それに新庄藩にあったふたつ剣術道場の争いが絡み、さらにそれが藩の実権を巡る争いに絡んでいくということがあったり、病に蝕まれて湯治にやってきた手品師が死を迎えるということがあったりして、事柄が輻湊していく。

 そういう中で、花輪大八は、湯治場を守り、また湯治客を守るという立場を貫きながら、藩の内紛に彼の兄も巻き込まれていたことから、事件の収束に当たっていくのである。

 物語そのものは、読み物として特別なことではないが、世間と隔絶したようなのんびりした湯治場の雰囲気と、それに合うかのような主人公のあまり物事に拘らない大らかさがあり、その中に外の世界の人の欲望と思惑が突入し、「人の生活を守る」ということに徹することでその思惑を解決して退けるという展開に絶妙なところがある。

 ただ、欲を言えば、主筋の展開の中にいくつかの話が挿入され、それぞれが絡んではいるが、それぞれに独立した話でもあり、いつの間にか主筋が疎くなってく所があって、若干の散漫さが残念な気もする。もちろん、人の生活というのはそんな風に織りなされていくわけだから、それがリアルであるといえばリアルなのだが、物語として読む方は、途中でどこか待たせられているという気になったりする。表題の「若草姫」からすれば、もう少し事件の要となった武家の女性と主人公の絡みがあっても面白いのではないかと思ったりする。その意味では、このシリーズはやはり三作目の『艶福地獄』が一番面白かった。

 今日は午後からもいくつか予定があって、疲れが抜けきれないままに過ごしているが、こんな日はろくな仕事はできないだろう。

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