昨日は仲秋の名月で、冴え冴えとした妖しく美しい月が東の空で輝くのを眺めながら、いろいろなことを考えたりした。まことに「月見る月」だった。満月の下でゆっくりと時を過ごす。それはわたしにとっては至福の時間である。
さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集 4 結ぶ』は、夏の間に読んだのだが、ここに記すことができずに図書館に返却したので、ここに収められていた書名だけを記しておくことにして、『山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』(2006年 小学館)を読んでいるので、そのことについて記しておきたい。
『山本周五郎中短編秀作選集4 結ぶ』に収められていたのは、「初霜」、「むかしも今も」、「おれの女房」、「寒橋」、「夕霞の中」、「秋の駕籠」、「凌霄花(のうぜんかずら)」、「四日のあやめ」、「かあちゃん」、「並木河岸」、「おさん」、「ひとごろし」で、いずれも懸命に生きていこうとする人々を描いた作品だった。
『山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』に収められているのは、「野分」、「契りきぬ」、「はたし状」、「雨あがる」、「よじょう」、「四人囃し」、「扇野」、「三十ふり袖」、「鵜(う)」、「水たたき」、「将監さまの細みち」、「枡落し」の十二編である。
「野分」は、出羽国新庄藩の大名の妾腹の子として生まれた又三郎が料理茶屋で働く「お紋」とその老いた祖父と知り合い、跡目相続の争いに巻き込まれながらも、侍を捨てて「お紋」と暮らそうとする話で、やむを得ずに後目を継がざるを得なくなる状況の変化で、「お紋」との別れや「お紋」の祖父の思い、「お紋」の一筋に又三郎を慕う想いなどが描かれた作品である。
「契りきぬ」は、家族を失って娼婦とならざるを得なくなった女性が、堅物の北原精之助を落とせば自由の身になれるという賭けに乗って、策略を巡らせて精之助に近づき、精之助の家にうまく潜り込んでいくが、次第に本気で惹かれていき、精之助の大きく包みこんでいくような愛に触れ、苦悶の中で過ごしていく姿を描いたものである。精之助はすべてを知って女性を包みこんで愛していこうとするが、自分の心の醜さを知った女性は精之助のもとを去る。結末は決してハッピーエンドではないが、精之助の一筋の大きな愛とそれに応えるために彼のもとを去ることを決心した女性の思いが綴られていく。
「はたし状」は、自分の婚約者が突然婚約を破棄して親友のもとに嫁いでしまった男の苦悩と親友との友情を描いたもので、そこには、親切ごかしに近づいてくる別の友人の画策があったのであり、その画策をようやく知りことができて新しい出発をするまでの姿を描いたものである。
この三編は、人間のあまりに「純」な思いが描かれているために、いくぶん人間についての青さが残る作品であるが、たとえば、「野分」の中で、「お紋」の老いた父親の話を聞いた又三郎が「老人の一生はごく平凡な、どこにでもある汗と貧苦と、涙と失意とで綴られたものだった、息子夫婦に先立たれ、孫娘と二人で稼いでいる事実だけでも察しはつく、それにも拘わらず、又三郎はそこにしみじみとした味わいを感じた、善良で勤勉で謙遜で、いつも足ることを知って、与えられるものだけを取り、腰を低くして世を渡る人たち、貧しければ貧しいほど実直で、義理、人情を唯一の宝にもたのみにもしている人たち、・・・又三郎はそれが羨ましいほど充実したものにみえ、本当に活きたじんせいのように思えた」(12-13ページ)と思うところは、そのまま、作家としての山本周五郎の、自分が書くべきものとしての決意そのものだろう。山本周五郎は、どこまでもそういう人たちの姿を描こうとした作家である。この作品が敗戦後すぐの1946年の作品であることを考えれば、戦後の新しい出発を山本周五郎はそういう決意ではじめたような気がするのである。
「雨あがる」は、言うまでもなく傑作で、人生の夢が破れても人々を喜ばせようとした夫とそれを支える妻の深い愛情と理解をまるで絵画のようにしみじみと描き出した作品である。これについては、別のところで記したし、記憶に深く残る作品でもあるので、ここでは詳細を割愛する。
「よじょう」は、熊本で生涯の最後を送った宮本武蔵に、無謀にも彼の腕を試そうとして殺されてしまった父親をもつ料理人のどうしようもない息子が、兄に叱責されて物乞いとなり、それが周囲に親の仇討ち行為として誤解され、武蔵を遠くに見ながら生活していく話である。偶然の誤解の中で生きることを余儀なくされた男のおかしみと悲哀が描かれている。
「四人囃子し」は、子どもの頃から出来が良くて評判も良かった平吉とは反対に、どうしようもないと思われていた男が、その平吉を苦しめるために彼が愛した「おたみ」を奪い取り、さらに平吉が「おたみ」を励ますために書いた手紙をネタに平吉を強請ろうとするが、どうしようもないと思われて育った男の悲しみを知る女性によって、新しい人生の歩みをはじめていく物語で、頽廃した雰囲気の中で、やけになっている男と彼を立ち直らせていこうとする女の情が描かれた作品である。
「扇野」は、江戸からふすま絵を描くためにやってきた絵師と彼に思いを寄せる女性との愛情を描いたもので、恋の切なさに身を焦がしていく二人の姿が、極めて印象的に描かれた作品である。愛の姿は様々だが、恋に身を焦がす女性とそっと見守ろうとする二人の女性の愛の姿が、何とも言えない情景を醸し出している作品だった。
「三十ふり袖」は、病気の母親を抱えて貧しさのためにやむを得ずに妾となった女性が、自分を妾とした男が、実はまだ結婚もしたことがなく、女性を正式な妻としたいと願っているという男の誠実な愛に触れていくという話である。自分を卑下する女性の複雑な思いと、それを包む男の愛は、ちょうど「北風と太陽」の話のような展開になっている。
「鵜」以下の作品については、また次に記しておくことにする。何気なく読んでいても、後から考えてみれば、深い味わいをもつ作品、それが山本周五郎の作品のような気がしている。今日もよく晴れていて、日中は暑いくらいで、洗濯日和となった。
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