2011年9月15日木曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』(2)

 蒼空が広がって、日中は真夏並みの暑さだが、朝夕はそこはかとない風に秋の気配を感じ、夜ともなれば虫の声がしきりにする。窓を開け放って、虫たちの恋の羽音を聞いたりすると、「あわれ秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ-男ありて 今日の夕餉にひとりさんまを食ひて 思ひにふけると」いう佐藤春夫の『秋刀魚(さんま)の歌』を思い起こしたり、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの ひたぶるに 身にしみて うら悲し」というヴェルレーヌの『落葉』を思い起こしたりする。

 特に、佐藤春夫の『秋刀魚の歌』の終わり、「さんま、さんま、さんま苦いか、塩つぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせ さんまを食ふは いづこの里のならひぞや」の言葉を口にすると、泣けて泣けて仕方がなくなる。

 閑話休題。山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』(2006年 小学館)の続きであるが、「鵜(う)」は、謹慎を命じられて江戸から国元へ送られて釣りばかりして日を過ごしている布施半三郎が、ひとけのない岩場で釣りをしていた時に、川で泳いでいる不思議な女性と出会い、彼女への想いを募らせていくが、女性は事情を抱えており、彼との約束をしたまま暴れ馬に蹴られて死んでしまい、半三郎はいつまでの彼女との約束を思って切ない日々を過ごしていくという話である。愛する者を待つことの切なさと、意を決して新しい歩みへ飛び出そうとした時に死んでしまう女性の不運が「愛のすれ違い」という現実に起こりうることの中で描かれている。

 「水たたき」は、お互いに深い愛情を持っている夫婦が、ふとしたことで危機を迎えていくが、それぞれの想いを知り、再び深く結ばれていく話である。料理人の辰造は、同業の料理屋で女中をしていた「おうら」に惚れ、所帯を持った。「おうら」は実に素直で可愛い女性で、「水すまし」のことを水の上でくるくる廻っているから「水まわし」とか、水をならしているようだから「水ならし」とか、「水たたき」とか言って、周囲に笑われても、顔を赤らめてみんなと笑うような、天性の明るさをもった女性だった。辰造は、そんな「おうら」にべた惚れだし、「おうら」も、「うちの人のためなら何でもしてあげたいし、うちの人のためならどんなことだってするわ、ほんとよ」(301ページ)というくらい惚れている。

 辰造は、若い頃に放蕩の限りを尽くし、「死んでしまえば一切がおしまいだ。生きているうちにできるだけの事を経験し、味わい、楽しむのが本当だ」(289ページ)と思い、「おうら」にも浮気ぐらいしてみたらどうだと言ってしまう。

 辰造が言うことは何でもしてあげたいと思っている「おうら」は、辰造が何度もそのことを言うので、辰造の弟子の徳次郎のところにいくが、どうしてもできない。「おうら」はその日から帰ってこず、辰造は、「おうら」が徳次郎とできて出奔したと思い込み、自分が馬鹿なことをしでかしたと気も狂わんばかりになって、人とのつきあいも絶って気難しい料理人としての日々を2年あまり続けていくのである。

 だが、彼が唯一気安くつきあうようになった浪人の勧めで、徳次郎のもとを尋ね、「おうら」が浮気などせずに行くへ不明になっていることを知り、行くへを探す。「おうら」は、徳次郎の処へ行った後で、自分を恥じて川に身を投げ、助けられたが病んで2年余の月日を叔母のところで伏せっていたのである。辰造は病床の「おうら」を迎えにいく。その描写が絶妙で、「おうら」という女性を真に素晴らしく描き出すものになっているので、以下に記しておこう。

 「『叔母さん』という声が唐紙の向こうで聞こえた。「―誰か来ているの」
 いせ(叔母さん)は『ああ』とあいまいに答えた。
 辰造はいせを押しのけるようにしてあがり、そっちへいって唐紙をあけた。家具らしい物もなく、四隅になにかつくねたままの、うす暗い、病人臭い六帖の壁よりに、薄い継ぎはぎだらけの蒲団を掛けて、おうらが仰向けに寝ていた。・・・・・・
 『あら、あんただったの』とおうらは微笑しながら云った、『あたしいま、誰かしらなあって思っていたのよ』
 『おうら』と辰造の喉で声がつかえた。
 『とんまなことしちゃったの』とおうらは云った、
 『自分でもあいそがつきたわ、どうしてこんななんでしょ、―でも叱らないでね、あたし大川で、水たたき飲んじゃったのよ』
 辰造は『おうら』と云いながら、乱暴に枕元へ坐った。
 するとおうらが手を伸ばし、彼はそれを両手でつかんだ。
 『水たたきって云うと、叔母さんは笑うのよ、違うんですって』と云いながら、おうらは急に寝返って、辰造の手へ顔を押しつけて泣きだした、『でも、水たたきでいいんだわねぇ、あんた』
 『そうだ』と辰造が喉で云った、『そうだよ』
 おうらは身をふるわせて泣き、爪のくいこむほど強く、辰造の手を握りしめた。
 ―堪忍しろおうら、と辰造は心の中で云った。そしてうちへ帰ろう。」(305-306ページ)

 この一場面に、山本周五郎が描く人間の美しさがすべてあるような気がする。描写と心情の描き方が絶妙で、生きているのが嬉しくなってくるような物語である。

 こういう「おうら」のような最も愛すべき女性の姿は、この選集の2巻目『惑う』に収められている「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」の三連作に登場する天真爛漫な「おしず」という女性でも描かれ、数多くの女性像の中で、わたしが最も気に入っている女性像である。わたしにとってもであるが、山本周五郎にとっても、こういう「おうら」や「おしず」のような女性は宝物のような存在だったに違いないとさえ思う。

 「将監さまの細道」は、岡場所の娼婦に身を落としながらも、どうしようもない男と離れることができない女性の姿を描いたもので、人の愛情の悲しい性(さが)が描き出されている。

 「枡落とし」も、人の愛情の悲しい性(さが)に縛られる女性が描き出されるが、こちらは娘と相愛になった職人によって助けられていく話が展開されている。「枡おとし」は、1967年の作品で山本周五郎の最後の短編である。この年の2月に、山本周五郎は仕事場で死去している。

 小学館から出されているこの選集は、この5巻で終わり、巻末に略年譜が収められて、山本周五郎の全作品が年代ごとに一覧として載せられており、多くの作品を残したことが一瞥できるようになっている。

 この選集は、作者の息吹のようなものが感じられる編集となっており、個人的に、この時期にこういう選集で改めて山本周五郎の作品を読んだことに特別の感慨がある。昔、もうずいぶん前に、論理ではなく情で生きようと決め、薄い情ばかりで今日に至っているが、人の温かさを直接的に描く山本周五郎の作品は、見る人には見え、わかる人にはわかるということを深く味わわせてくれるものだった。

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