2013年2月18日月曜日

乙川優三郎『武家用心集』(1)「田蔵田半右衛門」


 雨になった。まだまだ寒いのだが、初春の雨といってもいいかもしれない。昨日は湯河原まで出かけて、少し梅がほころびているのをあちらこちらで見ることができた。梅には人を励ます力があると、いつも思う。西行が「願わくは 花にしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃」と詠んだ「花」は桜で、「きさらぎ」は今の暦では2月ではなく、3~4月頃だが、涅槃を願うわけではないから「きさらぎの梅のした」でも、わたしはいいかと思ったりもする。

 閑話休題。乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)を、感銘を覚えて読んだ。彼の作品は、以前、短編集である『五年の梅』(2000年 新潮社)『霧の旗』(1997年 講談社)を極めて優れた作品だと思いつつ読んでいたが、この作品も、内容が豊かで短編としての切れ味や余韻が強く残る短編集だった。ここには、「田蔵田半右衛門」、「しずれの音」、「九月の瓜」、「邯鄲(かんたん)」、「うつしみ」、「向椿山(むこうつばきやま)」、「磯波」、「梅雨のなごり」の八篇の短編が収められている。これらは、いずれも優れた作品だと思うので、少し詳しく記しておくことにする。

 第一作「田蔵田半右衛門」は、偶然に行き会って助けた友人が不正を行っていたことでお咎めを受け、七十石の郡奉行から四十石の閑職の植木奉行へ減封され、藩内の失笑をかった倉田半右衛門が、人間不信に陥って、人との接触を避け、釣り三昧の生活を送っていたが、藩の重職である一人の武士や周囲の人々との出会いによって人間性を回復していく物語が記されている。

 三十歳の時のある夕暮れ、郡奉行であった倉田半右衛門が村廻りの疲れを覚えて城下を歩いていたとき、突然、一人を相手の斬り合いが始まる場面に出くわしてしまう。囲われていた一人は、城下の神道流の剣術道場の同門で気心がしれていた立木安蔵だった。咄嗟に倉田半右衛門は刀を抜いてその友人を助けたが、立木安蔵は、材木問屋と結託して不正を働いた家老の一味で、討手は上意討ち(藩命)だったのである。

 このことで、倉田半右衛門もとばっちりを受け、減封され、植木奉行に格下げされたのである。それ以来、家中で軽視され、倉田という姓にひっかけて「田蔵田」という蔑称さえつけられてしまったのである(「田蔵田」がどういう意味の蔑称なのかは、わたしにはよくわからないが)。彼は、これが自業自得であることを肝に銘じ、同じ過ちを犯さないためにできる限り人との付き合いをやめて、釣り三昧の生活を送っていたのである。

 四十石に減封されて生活が苦しくなったこともあり、釣果は家族の貴重な食料でもあった。彼には、妻の珠江の他に食べ盛りの男子が二人いた。しかし、妻の珠江は、何一つ不平を言うこともなく、慎ましやかに暮らしていたのである。

 そういうところに、半右衛門がお咎めを受けて以来疎遠になっていた兄の勇蔵が訪ねてきて、藩の重職である大須賀十郎が川の堤防工事で不正を働いた奸臣であるから、上意討ちとして彼を討ってくれと頼みに来る。倉田半右衛門は神道流の相当な使い手でもあった。

 大須賀十郎は、大雨が降ると冠水してしまう水立川の水を海に流すための掘抜工事を同じ問題を抱えていた隣藩と交渉して共同で進め、五年の難工事の末に完成させ、それによって藩内の実力者として台頭していた。

 兄は、この時の工事に不正があり、それを知った藩主の内意を受けて、大須賀十郎を密かに討つよう半右衛門を説得するのである。半右衛門はそれを断るが、息子たちの行く末を考えろと強引に押しつけてくる。

 妻の珠江は、その話を聞いて案じる。彼女は、夫が減封されても、家中で蔑視されても変わることなく半右衛門を支えてきた。ただ、半右衛門はそういう彼女や子どもたちにも楽をさせたいと逡巡し、一応、兄の話の真偽を調べることにする。

 ところが、彼が実際に調べてみると、大須賀十郎は兄が言ったような人間ではなく、傲慢なところもひとつもなく、むしろ、細かなところにも配慮している人物で、掘抜工事で私腹を肥やしたとか賄賂をもらったとかいうこともなく、工事の完成によって村々と藩に増収をもたらしたことが分かっていく。大須賀十郎は、真摯な姿勢で施策を実践し、行政のすみずみまで気を配るような優れた人物であった。

 お咎めを受けて以来、人に裏切られることを恐れて人づきあいを断っていた彼の調査を快く助けてくれた者の素直な態度も、倉田半右衛門は感じていく。また、大須賀十郎が通っていると言われた妾宅に行き、それとなく出かけていき、素足に草履を履いている質素な姿も目にする。その時、大須賀十郎を闇討ちしようとする数人の人影にも気がつく。

 これらのことから、倉田半右衛門は兄の依頼をきっぱりと断る。そのことで兄が怒り、義絶を申し入れられるし、内命を知っている自分や家族も危険に晒されることになるが、彼は自分の決断をもって行動することにする。

 倉田半右衛門が大須賀十郎の暗殺を断ったことで、大須賀十郎は他の者から命を狙われることになる。彼が妾宅と言われている家からの帰り道に夜襲をかけられるのである。大須賀十郎も直心影流の使い手だったが、そこに倉田半右衛門が駆けつけて大須賀十郎に助勢するのである。倉田半右衛門は、この時のあることを知って大須賀十郎を見守っていたのである。

 その後、大掛かりな藩の執政交代が行われた。大須賀十郎は筆頭家老となり、上意と偽って刺客を放ち大須賀十郎を闇討ちしようとしたのは、彼の台頭を快く思っていなかった家老たちであった。半右衛門の兄も罷免された。家老たちも半右衛門の兄も、藩の御用達商人と手を組んで不正を働き、私利を貪り、その証拠を大須賀十郎が握って追求しようとしていたために、彼を暗殺しようとしたことが分かっていくのである。

 これらの人たちへの処分を、大須賀十郎は藩主に願い出て軽くした。もし、倉田半右衛門が暗殺を引き受けていたら、その後に別の刺客が半右衛門を斬る手はずでもあった。危ういところで、彼は、人の噂や語ることではなく、自分の見たことと考えたことに従って判断し、それが彼を救ったのである。

 事件後、倉田半右衛門は四十石を加増された。かつてお咎めを受けた時よりも十石多くなり、大須賀から元の郡奉行に戻ることを進められるが、身分は、閑職である植木奉行のままであることを固持した。自分が出世すれば誰かが辞めなければならないと思ったからで、このまま隠居していくような目立たない生き方の方が自分にはふさわしいと思ったからである。「たとえ人には槁木死灰(こうぼくしかい)のように思われても、真実に忠をつくせばよいのであって、役目が何であるかは問題ではなかろう」(44ページ)と、彼は考えるのである。それに、大須賀十郎が通っていると言われていた妾宅は、実は病んだ大須賀十郎の実母の家で、大須賀十郎は実母の見舞いに通っていたのであり、倉田半右衛門はこの点での自分の不明を恥じた。「(人は、とりわけわしのような慌て者は、望みの少し手前で暮らす方がいいのかもしれない)」と、彼は思う。

 この作品の最後がまことに味わい深いので少し抜書しておく。最後の場面は、倉田半右衛門が磯の波打ち際に腰掛けて好きな釣りをし、その側には妻の珠江がして、少し離れたところで子どもたちが釣りをしているところである。

 「そう思っていたとき、珠江がまた話しかけてきたので、半右衛門は動きそうにない浮木から妻へ眼を移した。珠江はすがすがしい顔に陽を浴びて、くすくす笑っていた。
 『おとなりのつやさんに訊かれましたの、田蔵田って何ですのって、返事に困りました』
 『それで、何と答えた』
 『それはもう正直に、麝香鹿に似た獣だそうですと申しました・・・そうしたら、つやさん、あなたは鹿に似ていないって言うんですよ、わたくしおかしくって・・・』
 『・・・・・』
 『だって、どちらかと言えば馬に似ていますって言うんですもの』
 『あの娘がそう言ったのか』
 『はい』
 珠江はうなずくと、半右衛門を見つめて吹き出すように笑い声をあげた。
 『ふん』
 半右衛門は憮然とした。娘のちんまりした顔を思い浮かべながら何か言い返す言葉を探したが、うまい悪口は見つからず、珠江の笑い声を聞くうちに何となくおかしくなって自分も笑い出した。屈託のない珠江の笑い声を聞くのも、自ら笑うのも久しぶりのことだった。見ると、子供たちもこちらをみて笑っている。
 (これがまことの褒賞かな・・・)
 大須賀十郎という逸材とともに藩の将来をも救って一躍名を上げたにしては、半右衛門はつつましい感情を抱いた。しかし、心は十分に満たされていた。
 何よりも珠江や子供たちが自分の気持ちを分かっていてくれるのを感じながら、半右衛門はさらに大きな声で笑った。その声は磯に住む小さな生物たちを驚かしたらしく、あわてた船虫が蜘蛛の子を散らすように岩陰に隠れるのが見えたが、いつもとようすの違う釣人に驚いているようでもあった」(4446ページ)

 う~む、とうなりたくなるような見事な結びと言えるような気がする。
 第二話「しずれの音」も、いい作品で、これについては次回に記す。

1 件のコメント:

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