2014年9月23日火曜日

梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』(3)


 一週間ほど秋晴れの日々が続いて、ようやく快適になったと思っていたら。その後、秋雨前線が停滞し、加えて台風の接近が報じられ、妙に蒸し暑い日々が続いている。今日は久方ぶりの休日で、朝から掃除や洗濯をし、新しく購入したTVの設置などをしていた。『道徳教育について』も、まだ展開が荒削りではあるが、一応は終了したので、来週や10月に依頼されている講演の原稿などを書いていた。そして、梶よう子『迷子石』について記しておこうと思ったら、まだ、『宝の山 商い同心お調べ帖』(2013年 実業之日本社)について書きかけであったことに気づき、その第五話「幾世餅」についてから始めることにした。

 梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』の第五話「幾世餅」は、「お勢」の店であるももんじ屋の湊屋で商人風の老爺が毒死するという事件の顛末から始まる。居合わせた医者のような男が毒殺と断定したのである。

 「お勢」は自身番に留め置かれ、澤本神人に会いたがっているという伝言を北町奉行の鍋島直孝から聞いた神人は、事の真相を探ることにしたが、それと合わせて、神人の父親が死ぬまでかかわっていた贋金事件の話を奉行から聞かされ、湊屋で死んだ老爺が守り袋の中に入れていた贋金を見せられ、その探索も依頼される。奉行は諸色調掛のほうが何かと探索に都合がよかろうという。神人は奉行がそのために自分を諸色調掛にしたのではないかと奉行の慧眼を感じたりする。

 湊屋で死んだ老爺はトリカブトの毒で血を吐いたという。だが、それを聞いた小者の庄太は、トリカブトでは嘔吐することはあっても血を吐くことはないから不思議だと言う。「お勢」に会って話を聞いたところ、死んだ老爺は今わの際に「話が違う」と一言語ったという。どうも駆けつけた医者のような男やその男の連れが怪しいのではないかと思われた。だが、その日のうちに湊屋を誹謗中傷する読み売りが出回り、湊屋には石ころやゴミ、ネズミや猫の死骸まで投げつけられる事態になってしまった。湊屋は八年続いた店を閉じざるを得なくなってしまう。

 そのうち、死んだ老爺が宿無しであったことが判明し、湊屋の前にその場所で店を開いていた酒屋で両替もしている三嶋屋に恨みがあり、それを利用されたのではないかと思われた。湊屋は三嶋屋から酒を仕入れていた。幾世年月を重ねても消えないものがある。神人は「幾世餅」を食べながら、そう思う。神人は、女手一つで店を切り盛りしていた「お勢」のことを思う。そして、この事件の顛末は、次の第六話「富士見酒」で展開されていく。

 第六話「富士見酒」は、奉行所に話を聞いてもらうために通ってくる酒問屋の隠居老婆が登場する。老婆は北町奉行の鍋島直孝が幼いころからの馴染みで、十か月前に卒中で倒れてから回復し、妙に話好きとなり、鍋島直孝を訪ねてきたのが縁で、それ以来、「また話をしよう」と言った奉行の言葉をお墨付きとして三のつく日に尋ねてくるようになったのである。相手をするのは奉行所にいる諸色調掛で、神人がもっぱらその相手をさせられていた。

 先に湊屋で老爺を殺した犯人は、どうやらいち早く逃げたらしい。友人で定町廻りをしている和泉与四朗がそう伝えた。だが彼らがなぜ老爺を殺したのかはわからなかった。殺された老爺は、かつて信州から江戸に出てきて懸命に働いたが、岡場所の娼妓に入れあげて、人に騙され、すべてを失っていた。騙したのは、おそらく湊屋の前の持ち主である酒屋の三嶋屋だろう。老爺は湊屋が三嶋屋のものだと勝手に思い込んで、そこを利用されたものではないかと察せられた。だが三嶋屋に会って聞いてみると、老爺が三嶋屋を恨んでいたのは逆恨みのようであった。しかし、犯人と目される三人は逃げ、贋金の探索も進展がなかった。「お勢」もどこに身を寄せているのかわからなかった。

 澤本神人は閉めてある湊屋に足を向けてみた。湊屋は悲惨な状態で下肥まで蒔かれた有様だった。それに家主の三嶋屋が湊屋に立ち退きを迫っていた節があった。

 神人は、奉行所に話をしに来ていた酒問屋の隠居である老婆に同じ酒屋である三嶋屋のことを聞きに行く。そこで、老婆から殺された老爺が三嶋屋から金を借りていたことを聞く。三嶋屋はその老爺に贋金で金を貸し、その返済を迫る代わりに贋金を使っての金貸しを始めさせ、それが神人の父親から気づかれそうになり、贋金を使うことから手を引くと同時に老爺を追い出したのである。三嶋屋は贋金で儲けた金で酒問屋を買い、両替商も始めた。ところが、三嶋屋が頼んだ酒船が嵐にあい、積み荷のほとんどが潮をかぶり、それでもその酒を売ったために信用を無くし、金回りが悪くなって、再び、以前隠していた贋金を掘り出して使おうとした。その贋金を埋めていたのが湊屋だったのである。それで、それを掘り出そうと湊屋を追い出す作戦を立てたのである。

 こうして、老爺を毒殺した三人は三嶋屋の寮に隠れていたところを捕まり、三嶋屋も捕縛され、事件が決着を見るのである。そうしてひと段落した時に、神人のところに「お勢」が訪ねてくる。

 その前に、神人は亡き妹の子である多代と親子になることを決めていた。上方から揺られてくる酒が富士を見ながらゆっくりと甘口の酒に代わっていくように、親子関係もゆっくりと築かれればいいと思っていた。周囲は、神人が父親になるなら母親が必要だと言っていたが、そこに「お勢」が登場するのである。

 第七話「煙に巻く」は、評判の煙草屋の双子の兄弟の話で、店を継ぐことと恋することの板挟みに悩む二人が事件に巻き込まれながら自分の生きる道を見出していく話である。双子であることを隠して育てられたが、その二人を取り上げた産婆の遺体が仙台堀にあがった。疑いは双子の兄弟の父親や兄弟に向けられるが、真犯人は別にいたのである。

 他方、多代が疱瘡にかかり、「お勢」が多代の世話をするために神人の家に看病に訪れるようになる。「お勢」は、かつての自分の店の奉公人たちの行先を決めてから町名主の仕事の手伝いをし始めていた。神人は、このまま「お勢」が家にいてくれるようになったらいいと思うのである。

 第七話は簡略して記したが、「さりげなさ」というのが本書で記されている物語の特徴だろう。さりげなく、しかし、そこはかとなく温かく人を認め受け入れていく、そういう人間の姿が主人公を通して描かれているのである。

 これまで呼んだ作者の作品の中では『柿のへた』が、最もまとまりがあり味わいの深い作品だと思っているが、本書のようにあっさりとした展開の中にみられる人の温情のようなものの描き方も悪くない。これはたぶん続編が書かれるのだろう。それも期待したい。

2014年9月15日月曜日

この夏のこと


 7月にこれを少し書いて以来、2ヶ月余が経ってしまい、ずいぶんとご無沙汰してしまった。この間、雨の多い異常なくらいの蒸し暑さに閉口しつつも、甲子園への出場をかけた県予選の応援に炎天下の野球場に行ったり、いくつかの研修や講演などがあったりして、えらく日常の出来事に追われる日々を過ごしていた。加えて、集団的自衛権についての意見表明を求められていたので、その一文を書いたり、現在の文部科学省が進めようとしている道徳教育の教科化を契機として道徳教育と宗教教育の問題に取り組んだりしていた。道徳の根幹が「愛」であるというのは、考えてみれば思想史上まだ新しい感覚ではあるなあと思ったりする。こちらはまだ道半ばで、ようやく後半と結論の部分に入ったところである。

 それともう一つ、この夏取り組んでいたのは、ずいぶん以前に『思想の世界』というメールマガジンの形で書いていたS・キルケゴールの生涯と思想を取り扱った「逍遥の人」を電子書籍の形で配布することだった。これはメールマガジンの時にもたくさんの方々に読んでいただいたし、千葉に在住だったシステムエンジニアをされていたT・Tさんがご自分のサイトにしてインターネットでも読めるようにしてくださっていたのだが、そのサイトが閉鎖されてしばらくたつし、今も、キルケゴールの研究者や学生の方々からの質問が時折届いたりしていたので、改めて少してを入れて電子書籍でも読めるようにしたいと思っていたから、この夏、思い切ってAmazonKindleで出すことにしたのである。

 ただ、電子書籍で読めるようにするためには、ファイルをePubという形式に変換したりしなければならず、体裁を整えたりするのにえらく時間がかかってしまった。しかし、八月末に完成して、『永遠の単独者 S・キルケゴールの生涯と思想』というタイトルで出すことができた。無料を望んだが、最低価格をつけなければならず、3ドルという有料になってしまったが。

 また時間ができたら、次の思想・哲学史を取り扱った『西洋思想の散歩道』も電子書籍で出したいと思っている。

 この間、時代小説もいくつか読んでいたので、記憶に残っている署名だけでも、ここに記しておきたい。

 一つは、吉川英治全集(講談社版)の第4巻『万花地獄』、『隠密七生記』、第5巻『江戸三国志』、第11巻『松のや露八』、『恋山彦』、『遊戯菩薩』で、吉川英治のテンポのある痛快冒険時代小説の醍醐味や、作品の背後にある著者の思いなどがひしひしと伝わる作品を読んだ。もう一つは、勧善懲悪がすっきりとした形で読み物としては抜群に面白く、現在の時代小説の源流とも言えるような山手樹一郎全集(講談社版)の内の主に「浪人もの」である第13巻『のざらし姫』、『浪人横町』、第33巻『浪人八景』、第3637巻『浪人市場』などである。その他にも軽い文庫本を読んだりしていた。

 ただ、利用していた市立図書館が改築のために来年の2月末まで閉館となり、全集はなかなか手に入らないので、吉川英治と山手樹一郎の全集はしばらくお預けとなってしまった。

 そして、先日、本屋で梶よう子『迷子石』(2010年 講談社 2013年 講談社文庫)を見つけ、買ってきて読んだので、次回はこれについて記すことにして、今日はご無沙汰の言い訳を書くことで終わることにする。甥が脳腫瘍を患い、34歳で天に召されたこともあって、この夏はひどく疲れた夏ではあった。

 それにしても、熊本の夏は想像以上で、夏はやはりどこかに逃げ出すに限ると思ったりする。ようやく少し秋の気配がして、曼珠沙華とも言われる彼岸花が咲き始めている。

2014年7月5日土曜日

梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』(2)

 7月の声を聞くようになってしまった。せっかく「文月」という名前があるのだから、懐かしい人々に手紙でも書こうかと思わないでもないが、日々の暮らしが追いかけてくる。そういえば、月の英語表記は歴代のローマ皇帝の名前が付けられているが、7月の「July」は、ユリウス・カエサル、つまりジュリアス・シーザーである。「賽は投げられた」と言ってルビコン川を渡り、ローマを帝国とした彼もまた、信じる者に裏切られた一人である。七夕の月にそのことをふと思ったりする。

 閑話休題。梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』(2013年 実業之日本社)の第二話「犬走り」は、澤本神人が子犬を拾うところから始まる。てんぷらを盗んで追いかけられた子犬が堀端の犬走りを走って逃げ、堀に落ちたところを神人が拾い上げて、家に連れ帰るのである。「犬走り」とは、本来、土手や溝で犬が走れるくらいの幅しかない通路のことをいい、表題から、これが細く狭い道を行くことであることを暗示させる。

 大晦日が近づいたとき、澤本神人は北町奉行の鍋島直孝から佐賀藩が遠国の丘田藩主のために進物した花器が献残屋(贈答品や余剰品を買い取って、売る商売)の手を経て市中に出回った理由を調べるように命じられる。そこで献残屋に出かけてみると、一人の若侍が店の前で腹を斬ろうとしていた。事情を調べてみると、若侍はある藩の納戸役をし、私腹を肥やそうとして売るべきでない品を献残屋に売ってしまい、しかもそれをかいもどすこともできない状態だという。また、佐賀藩鍋島家の花器は確かに献残物として売りに出されたという。

 腹を斬ろうとした若侍は丘田藩の枝島兵衛という。枝島は料理茶屋で見初められた女に入れあげ、博打にも手を出すようになり、ついには献残品の売買で金額をごまかして私腹を肥やすようになったのである。多かれ少なかれみんなしていることだという。だが、売ってしまった花器の中に献残品売買の帳簿を隠していて、それが発覚しそうだというのである。追い詰められた枝島は、ついに精神に異常をきたしてしまう。

 そして、鍋島家の花器は手違いで売られてしまったこととして献残屋がうまくとりはからうことになる。枝島は、いわば、犬走りに逃げ込み、しかも出口なしで抜け出せない道にはまり込んだのだと神人は思う。犬走りに逃げ込んだ子犬は澤本神人によって助けられたが、枝島に救いの手を出す者はいない。それはいわば、人生の分かれ道でもあるだろう。

 第三話「宝の山」は、澤本家に出入りする紙屑買いの三吉の話である。三吉は自分が生まれた年も場所も知らない。物心ついたときには紙屑買いの爺さんと暮らしていた。だが、この爺さんは三吉をかわいがり、三吉が誰よりも素直で正直であることをほめていた。その爺さんも五年ほどして死んでしまい、三吉は長屋の者たちから面倒を見てもらいながら、爺さんの跡を継いで紙屑買いの仕事をしていた。三吉は、物を覚えるのにも人の倍はかかり、銭勘定も遅い。そのうえ人を疑うことをしないから、すぐにだまされた。それでも三吉はいかったり、相手をなじったりしない。しじゅう、にこにこ笑って、「人にはいろいろあるからなあ」と爺さんの口癖をまねて済ませてしまっていた。三吉は二十五歳になる。その三吉は叶えたい夢があると神人に言う。それがどんな夢かはわからないが、三吉はそのために銭を貯めていた。

 そして、その三吉が何者かに襲われるという事件が起こった。それとは別に、紙漉き職人の伝蔵という男が料理屋で芸者におれの女になれと無理やり迫って騒ぎを起こした事件があった。伝蔵は普通ではありえないほどの金をもっていたという。伝蔵はろくに仕事もしないのに金をもっていた。澤本神人は、伝蔵が何か悪いことをしていると察し、紙漉き職人は紙屑買いから反故紙を買うので、何かつながりがあるのではないかとピンとくる。

 三吉の家に行ってみると家は荒らされていた。神人は、伝蔵が三吉から買った反故紙に書かれていたもので脅しの種を見つけ、その反故紙の持ち主を強請って金を得ていたのではないかと推察する。

 その推察通り、伝蔵は買った反故紙に書かれたことで強請を働き、金を得ていたことが判明して伝蔵は捕縛される。そして、三吉を襲ったのは、恋文を間違えて三吉に売った坊主が、その恋文を取り戻そうとして三吉の家に忍び込んで、おもわず襲ってしまったのである。

 こうして事件が落着した後、伝蔵のもとで紙漉きの仕事をさせられていた子どもたちを三吉が引き取って育てることになる。子どもたちはみんな親なしだった。三吉の夢は、その子どもたちをみんな引き取って紙屑屋をやることだった。かつて自分が爺さんに育てられたように、親なしの子どもたちを引き取ること。それが三吉の夢だったのである。

 第四話「鶴と亀」は、言うまでもなく男女の話であるが、これが単純ではないし、妹の子である多代を男手ひとつで育ててきた澤本神人の淡い恋心も絡んだ話になっている。

 話は、将軍の献上物となっているために禁猟となっている鶴が一羽行方不明となり、その探索の命が下るところから始まる。雛祭りのころである。その話が出ていたころ、突然、多代の母であった初津の元夫の芝里六蔵が訪ねてくる。六蔵は多代の父である。初津は子ができないことを理由に離縁され、澤本家に戻されたが、その時に不運にも妊娠しており、多代を産んで難産で死んでしまったのである。だが芝里家からは何の音さたもなく八年が過ぎていた。六蔵は再婚し、再婚相手の縁で出世していた。神人は、もう芝里家とは縁が切れていると突き放す。だが、六蔵が来たのはそのことではなく、どうやらだまされて庶人が食べてはならない鶴を食べさせられたらしいから、助けてほしいと言い出すのである。六蔵の屋敷に「ズイチョウは腹の中」と記された投げ文があるのを六蔵の妻女が見つけたという。六蔵は同僚と獣肉を食べさせるももんじ屋に行っており、身に覚えがあった。そして、それが発覚すれば、改易どころか切腹ものであった。

 芝里六蔵が帰った後、幼い多代は、六蔵が自分の父親であることを察し、神人もそれを告げるが、多代は「多代は、澤本多代です」と言う。神人は、そういう多代の心を汲んで切なくなったりするのである。

 それはともかく、澤本神人は、六蔵がどうなろうと知ったことではないが、鶴が食されたとなると諸色調掛として調べなければならないと、その探索に動き出す。神人は市中のももんじ屋にいてみる。そして、そのうちの一軒である湊屋で、その店の女主人で美貌の「お勢」と出会うのである。「お勢」は、凛とした中にも可愛げのある女性で、柚の香のする小袖を身につけていた。神人はその柚の香が妙に気になった。その「お勢」に六蔵のところに投げ込まれた投げ文の話をすると「ズイチョウ」は鶴のことではあるけれども「よい兆しの瑞兆」もあると語り、神人はその一言で、六蔵への投げ文が、実は妻女の懐妊を伝えるものであるとピンと来るのである。六蔵の後妻もなかなか子どもに恵まれなかったが、ようやく懐妊したのである。後妻は、前妻が子どもを産めなくて離縁されたことを知って心を痛めていたのである。こうして六蔵の不安は払拭された。もともと鶴などは自由の鳥で、その行方を探るなどばかばかしい話であった。

 この物語は、離婚経験のある夫に嫁いだ嫁が、亡くなった前妻に対する思いやりを示す物語ではあるが、そのあたりは実にあっさりと記されている。しかし、そのあっさりさの中で、それこそ移り香のように「情」が滲んでいくのである。

 この後、この一件で知り合ったももんじ屋の「お勢」と澤本神人の淡い恋が始まっていく展開になる。その展開については、また次回に記すことにする。

2014年6月30日月曜日

梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』(1)

 寒冷前線が伸びて梅雨の真っただ中という感じがしている。昨日、東京の一部では洪水のような大雨になったと報道された。今のところこちらでは雨の被害は出ていないが、熊本の梅雨は湿度が高く、肉体的な疲労感が増す気がする。もっとも、生来ののんびり屋で怠け者である者が分単位でスケジュールに追われる生活をしているのだから、どこかに精神と肉体の齟齬を感じるのは当然のことではあるだろう。

 それでも先日、本屋を覗いていたら梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』(2013年 実業之日本社)を見つけ、この作者の作品は本当にいいと思っているので、買ってきて読んだ。本作も力みのない自然体で、文章も展開も無理がなく、しかも歴史的実証もしっかり踏まえられ、描かれる登場人物たちも味わいのある作品が多く、作品の完成度が増した作品だった。

 主人公は、水野忠邦が行った天保の改革(1838ごろ-1843年)のころに北町奉行所の同心として働く澤本神人(さわもと じんにん)という少し風変わりな人物で、彼は当時の北町奉行遠山左衛門尉景元の下で定町廻りをし、次いで隠密廻りをして、遠山景元と同じように名奉行と謳われた矢部謙定を失脚させて南町奉行となった鳥居耀蔵の下にいないことを喜んでいたが、二代後の北町奉行として就任した鍋島内匠頭直孝の時、その初対面で、お前は顔が濃いいいから変装が必要な隠密廻りには向かないと断定され、諸色取調掛(物の値段や物価の動静を調べる役)に回された変り種である。

 時は、その天保の改革が失敗し、水野忠邦が蟄居を命じられて鳥居耀蔵が四国の丸亀藩に預けられ、世間が一息入れはじめたころである。澤本神人は、多代という七歳になる妹の娘と飯炊きのおふくとの三人で暮らしていた。多代の母は、子ができないということで離縁されたが、その時には多代を身ごもっており、多代を産み落とすと死んでしまった。今わの際に「この子をお頼み申します、兄上」と言われ、それ以来男手ひとつで多代を育て、自らはついに婚期を逃してしまっていた。多代は、少女ながらにしっかり者として育っていた。彼には、いつも腹をすかし、腹をすかすと不機嫌になる庄太という小者がつけられていた。庄太は、見た目のぼんやりさとは裏腹に算術が得意で、諸色調べにはもってこいの小者で、町名主が雇ってかれにつけたものである。この庄太が、また、一味もふた味も出して物語の雰囲気を丸く醸す出す役を果たしている。

 澤本神人の思いは常に「物事はなるようになる」というもので、自然体で生きるというのが彼の信条だった。だから、すべてを円満に受け入れる人生を送っていた。

 その彼が、町名主の丸屋勘兵衛に料理屋に招かれての帰りに、両国橋の袂の稲荷鮓の屋台に立ち寄るところから物語が始まっていく。その稲荷鮓屋は、何故か狐の面をかぶり、聞くと顔にやけどの跡があるために、狐と稲荷をかけて、その面をかぶっているのだという。これが第一話「雪花菜」の伏線となっていく。

 その頃、澤本神人のところに味噌醤油問屋の主から隠居している父親が廻りの小間物屋から法外な値段で物を売りつけられたらしいから調べてほしいとの依頼がなされる。調べてみると偽の鼈甲の櫛を十両もの値段で買わされ、当人は十両出しては悪いかと開き直っているらしい。廻りの小間物屋とは十七歳になる娘で、隠居はその娘に入れあげていると息子は言う。そこで隠宅に出かけてみると、その隠居は死んでいた。澤本神人は殺人ではないかと疑うが、牧という定町廻りの小者の辰吉というのが横柄にも、その隠居の死は事故死であると断定する。諸色調掛の澤本神人には、その隠居の死についてとやかく言うことはできないが、隠居が承知の上で十七歳の娘に十両を出したことは別にしても、偽の鼈甲が売られていたことについては調べてみることにする。

 隠宅の女中の話から、偽の鼈甲を売りつけた小間物屋の十七歳になる娘はすぐにわかった。「おもと」という娘で、定町廻り同心の小者の辰吉がその娘に言い寄っていたこともわかる。「おもと」は、器量よしで気立てのいい真面目な娘だった。澤本神人が隠宅で殺人の証拠を見つけていたとき、隠居が死んだことを知らない「おもと」がいつものようにやってきた。それで、澤本神人は、偽の鼈甲の櫛のことを「おもと」に尋ねる。

 「おもと」は、その鼈甲の櫛が母親の形見だったと言う。「おもと」の父親は腕のいい豆腐屋だったが、人に騙されて借金を抱え、荒んで暴力も振るうようになり、大きな仕事が舞い込んだと言ってふっといなくなったと語る。それでも、「おもと」の母親は夫の帰りを待ち、幸せだったころに初めて買ってもらった偽の鼈甲の櫛を大事にし、それを髪にさして風邪をこじらせて死んでいった。そして、「おもと」は、母親がしていた廻りの駒物売りをして生計を立て、味噌醤油問屋の隠居と出会ったという。

 偽の鼈甲の櫛については、「おもと」はそれが偽物であると知っていたし、それを買った隠居も十分に承知していたが、隠居はそれでもそれが本物だと言い張って十両で買ったのだという。

 「おもと」の父親に関しては、もう一つ、両国広小路の芝居小屋が崩れた時に、その縄を切ったのが荒んでいた「おもと」の父親であると役人に決めつけられて、しつこいくらいに「おもと」と母親が住む長屋に押しかけ、それで「おもと」と母親は引越しを余儀なくされたのだと言う。

 そして、自分が隠居を殺していないという証を立てるものとして、隠居が亡くなった時刻に、両国橋袂の狐の稲荷鮓屋に稲荷鮓を買ったという。その鮓屋が売る稲荷鮓は、中がご飯ではなくおからで、以前の飢饉の時に豆腐屋であった「おもと」の家ではおからばかり食べていたが、おからは「雪花菜」とも書いて「きらず」と読み、家族の縁は「切らず」だと言っていたころの家の味が、あのおからの稲荷鮓にすると「おもと」は泣きながら言うのである。

 そのことでぴんときた澤本神人は、狐の稲荷鮓屋に行き、彼が「おもと」の父親であることを暴き、「ここの稲荷鮓屋のおからは一番、幸せだった頃の味がする」と「おもと」が言っていたと告げて、彼に反省を促す。そして、両国広小路の芝居小屋の綱を切ったのが「おもと」の父親でなく、鳥居耀蔵の意を受けて手柄を上げようとした南町の定町廻り同心と手先の辰吉であったことが判明する。また、「おもと」を自分のものにしようとした辰吉が味噌醤油問屋の隠居から意見されてかっとなった辰吉が隠居を殺したことが判明する。

 こうして、一件が落着して、狐の稲荷鮓屋には狐の面をかぶった娘が手伝うようになり、両国広小路の名物になっていくという幸いで第一話が終わる。

 この物語には、人の回復や親子の絆、人の情というのが柔らかく埋め込まれていて、それが「なるようになる」という主人公の口癖によって展開されていく。人間というのは、ある意味で極めて単純な生き物ではあるが、その単純さが折り重ねられて彩られて、「情話」を造る。これはそのような「情話」である。第二話以降は、また次回に記す。