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2013年9月9日月曜日

乙川優三郎『生きる』 第三作「早梅記」

 荒れた天気が一変して、初秋の蒼空が広がっている。若干の暑さはあるが、こういう天気はわたしにとってはありがたい。来年度の仕事の依頼がそろそろ舞い込んでいるのだが、いくつかのことはお断りしなければならず、心苦しさもあるので、蒼空を仰いで、「Let it be !」と思いたい。

閑話休題。前に記し忘れていたので、改めて記しておきたいと思い、乙川優三郎『生きる』(2004年 文藝春秋社 2005年 文春文庫)に収められている第三作「早梅記」について書いておくことにする。これもまた、生きることの根幹に触れる非常に優れた作品であった。

主人公の高村喜藏は、家禄が十石七両二人扶持の軽輩の貧しい家庭に生まれた。彼は、二十歳で父をなくして家督を継ぎ、非常な努力をして、二十九歳で六十石となったが、結婚したのは三十歳の時で、それまでは、嫁取りよりもまずは出世と考えていた。

父の死後四年目に母親も死んで、家政のために「しょうぶ」という足軽の三女を雇った。「しょうぶ」は、近在の村から出てきたときは蓬頭垢衣の百姓と変わらなかったが、垢を落として髪を結うと見違えるほど美しくなり、しかも正直で賄いもうまく、喜藏はすっかり彼女が気に入り、二人が事実上の夫婦となるのに長い時はかからなかった。

二人のことはやがて噂になったが、「しょうぶ」は、「わたしは旦那様のそばに置いていただけるなら、何を言われてもかまいません」と言っていた。足軽の娘を嫁にもらうと彼の出世は遠のくことは明らかだった。やがて喜藏は馬廻り役に出世し、上役の世話で嫁をもらうことになり、「しょうぶ」は、「お暇をいただきとうございます」と言って、喜藏の縁談がまとまった翌春にあっさりと出て行った。「しょぶ」は、その時、二十一歳だった。高村喜藏は、「しょうぶ」のことを哀れに思いながらも、妾になるのが厭なら別れるしかないと思うくらいで、女子を自分の人生に合わせて都合よく動いてくれる者くらいにしか見ていなかったのである。

そのころ、高村喜藏は出世を焦っていた。だが、働き者で家事もうまく、家の畑では野菜も作り、貧しさを苦にせず、美しい「しょうぶ」と暮らすうちに、心も和み、身の回りも整えられて、喜藏は少しずつ変わっていった。ギラギラ した出世欲はうちに秘められ、人間が一回り大きくなったのである。

喜藏は、そのころ、藩の中小姓になっていたが、藩財政が逼迫する中で主家の分家に当たる藩主の叔父の石川頼母が江戸定府の費用を藩が持つように要求してきた。石川頼母は、奢侈を好む短気な人物で、三年前にも一度同じことがあり、その時に断りの使者を激怒して斬りつけたことがあった。今回も、藩は頼母の要求を断ることにしたが、そのことがあって使者として呼び出された者たちは次々と理由をつけて辞退してしまった。ところが、高村喜藏は、他の者たちが尻込みする役を進んで引き受けたのである。彼は、その条件として、家禄六十石、馬廻り役八両三人扶持を持ち出し、承諾された。彼は、「しょうぶ」がいてくれたから、彼女を知らず知らずのうちに心の拠所とし、気が大きくなっていたのである。

そして、石川頼母と対面するが、案の定、頼母は激怒し、刀を抜いて斬りつけた。喜藏は腰を抜かして動けなくなったが、辛うじて頼母の近習がこれを止め、大事には至らず、頼母の行為もなかったことにしてくれと言われて、無事に役目を果たしたこととなり、やがて家中で評判となり、藩主の覚えもよくなった。こうして、彼は出世をし、身分も変わり、屋敷も広い屋敷へと移った。

身分が変わったことで、喜藏は次第に世間体を気にするようになっていった。だが、「しょうぶ」は、少しも変わらず、よく働き、家政を賢明に切り盛りし、梅の花を見事に活けたりして、喜藏は彼女から大きな慰めを得ていた。そして、その年の秋、馬廻り役の組頭から喜藏に縁談が持ち込まれたのである。相手は町奉行の娘の「とも」と言い、器量も気立てもよく、出世の上でも申し分のない相手だった。喜藏は、それを断るこたができずに承諾すると、「しょうぶ」は、きっぱりと自分のすべての道具や身の回りのもの、匂いさえも消して出ていった。出ていくといっても、彼女が身を寄せることができる所はどこにもないにも関わらず、それから「しょうぶ」の行くへはわからないままになってしまった。

喜藏の妻の「とも」は、明るくよく笑い、大きな安心感を家庭に与え、二年後には子もできて、喜藏の生活は安定した。彼は、決して「しょうぶ」のことを忘れたわけではなかったが、藩主の覚えもめでたく、次第に出世していき、大目付となり、用人となり、家老となっていった。彼が家老になる時に、分家の石川頼母が義兄を惨殺するという事件が起こり、その事後処理を当時の家老に代わって見事に行ったということがあった。

彼は執政として隠居するまでの六年間を務めたが、藩の財政は逼迫したまま、時代も大きく変わろうとしていた。高村喜藏は、自分ができるだけのことをし、踏ん張れるだけ踏ん張ったが、どうにもならないこともあった。貧しさから脱け出すために出世を求めて歩んできて、残ったのは、広い屋敷と高禄、そして、気持ちの通わない家族だけだった。彼の息子は、父親の苦労も知らずに、どこか覚めた目で父親を見ているし、妻の「とも」には何度も救われてきたが、喜藏が彼女の心を救うことなく、隠居後に呆気なく死んでしまった。

彼は自分の人生の来し方を顧みる。結局、「しょうぶ」と「とも」という二人の女性に支えられてきた。「思いのほか運はあったが、人並み優れた才覚などなかった。それなのに自分ひとりの栄華を極めようとして二人を巻き込んでしまった。後悔が歳月という取り返しのつかない流れに行きつくと、彼は歩く気力を失い、茫然とするしかなかった」(文庫版 243ページ)。

こうして、孤独を抱えて散策する途中で、彼は貧しい足軽の長屋の一画にある梅の木の小枝を切ろうとしている小柄な女性を見る。それは、喜藏のところを黙って去っていった「しょうぶ」であった。彼女はそれが喜藏と分かりつつも、「いえ、お人違いでございましょう」と言い、「冬が終われば林も緑になって、子供たちは蕨や蕗の薹を採りに出かけます、林の中には古い祠があって産土神が祀られています、お参りするのはわたくしと子供たちだけでしょうが、手を合わせるだけで慰められます、そこから細い道が木立を縫って林の北側へ伸びていて、暖かくなるとよく散歩をいたします、林の北側から逆井川の川上へ出ると、遠い山脈が見えますし、その少し先の百姓家では野菜の種や苗を分けてもらいます、田植えの時期には子供たちが手伝いにゆき、稲刈りの時には藁をもらいにゆきます、・・・そうして人との小さなつながりを頼りに暮らしておりますが、貧しいつながりはたやすく切れることはありません」(文庫版    247ー248ページ)と語る。そして、蕾のある梅の一枝を差し出したのである。

喜藏は、その一枝をもって、いつになく穏やかな気持ちになる。「彼にとってしょうぶがそうであったように、早梅は何もない季節に咲いて、まだそのさきがあることを告げているかのようであった」(文庫版    250ページ)。

この結末は、「しょうぶ」という一人の女性が彼の元を去ってもしっかりと自分の生き方のスタイルをもって生きてきたことを早梅に託して告げる。貧しさゆえに出世を望み、そこであくせくして、得たものが孤独であった男と、「生きること」をしっかり営み、貧しいながらも心豊かに生きた女性。それが最後に交差し、豊かな情感を残して、また別れていく。そして、そこに残るのが、どんな状況や状態の中でも「梅一輪の暖かさ」であれば、もうそれでいい。この作品は、そんなことをしみじみと思わせる作品だった。

2013年8月27日火曜日

乙川優三郎『生きる』第二作『安穏河原」

乙川優三郎『生きる』(2004年 文藝春秋社 2005年 文春文庫)に収められている第二作「安穏河原」は、遊女となった一人の武家の娘と、何の取り柄もないままに無頼の徒となった男の話しで、どうにもならない状況の中で、人としての心の豊かな原風景を持ち、それを大事にしながら生きる姿を描くことで、人間の生き方を直截的に物語った作品である。

主人公の一人である双枝(ふたえ)は、幼いころに両親と晩秋の河原に紅葉狩りにいった幸せな記憶を心に宿しながら、それをときおり思い起こすことで生きる力をもつことができるような厳しい状況に置かれていた女性だった。


そのころ、彼女の父親の羽生素平は小藩の郡奉行で、80石を賜わり、毅然として、家族にも自分にも清廉な人であった。藩では財政の危機に加えて凶作が加わり、藩の執政たちは領民から一律に金を集める策を取ろうとした。郡奉行として羽生素平は、その策が百姓たちを苦しめることになると、その策に真っ向から反対し、退身する覚悟で意見書を執政たちと藩主に提出した。だが、素平の意見は顧みられず、素平は、退身して国を出て、江戸での浪人暮らしをすることとなった。そして、何とかなると思っていたえどでの暮らしはどうにもならず、持っていた金は三年で使い果たし、八年後には母親が病臥し、その二年後には、ついに娘を遊女に売らざるを得なくなったのである。「これからどんなことがあろうとも人間としての誇りだけは失うな」(文庫版 109ページ)、それが双枝が女衒に売られていく時の素平の言葉だった。


こうして、双枝は遊女となり、彼女のもとへ井沢織之助が通ってくるのである。織之助は、口入れ屋で素平と知り合い、素平に頼まれて双枝のいる遊女屋に行き、素平から金をもらって双枝を一晩買うのである。織之助は、それが素平の娘打と気づいてからは、話をするだけで同衾することはなかった。遊女である双枝の身体を休ませるということも素平の父親としてのささやかな望みであることを織之助は察していた。素平は、あらゆることをして金を工面して月に一度くらいの割合で織之助に双枝を買うことを依頼していたのである。


井沢織之助は、父親が羽州山形の浪人で、織之助が生まれた頃には既に江戸で木戸番などをしながら暮らしていたが、学問もなければ武家の匂いもしない男で、織之助は武芸の素養もなければ、武家の礼儀作法なども知らず、両親がなくなったあと、一時は瓦職人の見習いに出たこともあったが、三年たっても無給で、それに不平を言うと追い出され、刀をさしていることだけで、大工や人足の見張りを頼まれたりして糊口をしのいでいた。どの仕事も長続きせず、身についたのは、酒と女と世渡りの知恵くらいだった。彼は、気ままに生きていながらも、心の中に寂寞を抱え、座頭の金貸しの借金取りたてなどをしていた。

双枝は、女郎に身を堕としていたが、武家の娘として凛としたところがあり、今も尚、父親が厳格で毅然としていると思い込んでいた。「わたしは、お腹いっぱい」と言って人の施しは受けない姿勢を貫いていた。それが、武家としての誇りを失わない父親の教えだったのである。そして、実はその毅然とした父親の姿こそが彼女の原風景だったのである。たとえ、実際の父親の姿が萎れた草のようだったとしても。

女郎としての双枝の借金は膨れ上がり、たとえ年期が明けても、彼女が自由になる望みはほとんどなかった。やがて病臥していた母親が死に、素平は何とか双枝の借金返済の金を作ろうとしていた。


その年、江戸は暴風雨に見舞われ、織之助が住む長屋も水に浸かる出来事があった。織之助は刀と巾着に入るだけの金を持って屋根の上にしがみつき、懐の巾着は重いために捨て去り九死に一生を得ることができたが、無一文に戻っていた。素平も嵐で金の大半を失ったという。その素平が織之助に同行を依頼して、以前に仕えていた藩の上屋敷に堂々と向かったのである。

そこで素平は、おのれの不明のために零落したのだから、せめて上屋敷の庭を拝借して武士として切腹することを望んだのである。彼は、江戸家老に、かつて自分が反対した政策がどうなったかを尋ね、その政策が取りやめになったと聞いて満足し、見事に腹を斬るのである。そして、それを見た江戸家老も、素平の死後をきちんと弔い、三十両の金を出したのである。この出来事に立ち会った織之助の中で何かが変わっていった。彼は、素平の望み通り双枝を自由にするために、その三十両をもって出かけていく。

だが、双枝がいた女郎屋は、彼が行ったときには閑散としており、役人の手入れがあって、双枝の行くへがわからなくなっていた。双枝は役人の手を逃れたと聞いたが、ついに彼女を見つけることができなかった。自由になれるその日に、双枝はいっそうの不幸に見舞われたのである。


それから月日が流れ、織之助は古着の商いを始めて、商売は順調に伸び、柳原の床店を買う話しが持ちあがる。そこで、団子屋の前で店先に立つ四〜五歳の少女に目が留まる。織之助は思わず団子屋に行き、団子を買ってその少女に「さあ、お食べ、遠慮はいらないよ」と声をかけた時に、その少女は首をふって「おなか、いっぱい」と答えたのである。


織之助は驚き、その少女の名前を聞いたら、「織枝」と言う。一月ほど前に夜鷹をしていた母親が死んで、柳原の稲荷の物陰に住んでなんとか生き延びてきていたのである。床店の売主は、「夜鷹の子ですよ。あんなものに関わっちゃあうけない」と言うが、織之助は、「わたしにはもっと大事なことができました」と、商売の話を断り、少女の母親が死んだという川端へ行き、「わたしは、おまえのかかさまをよく知っているよ、それは潔い人だったね」と語る。

物語の最後は、
「気が付くと、いつの間にか空を紫紺色に染めていた日の光は失せて、二人のいる川辺はすっぽりと闇に包まれていた。風が揺らすのだろう、川面がひたひたと音を立てている。
『かかさまが、ほら、そこで笑っているよ』
織之助は儚い笑みを浮かべた。二十三歳のまま変わらない双枝の顔が見えている。娘は微かにうなずいたようだった。にわかに冷えてきた風に吹かれながら、無心に団子を頬張る娘も、じっと川面を見つめる織之助も、いつしか湛々とした安らぎの中にいた」
で閉じられている。

 二人がこれから共に、しかも、大切なものを心に宿しながら生きていくことが暗示されて、それが黄昏から闇に変わっていく川面の景色と合間って、実に情感溢れた光景として描かれる。こういう優れた描写をすることができる作者の感性と姿勢がよく光るラストである。これもまた、本当に良い作品だと思う。

2013年8月23日金曜日

乙川優三郎『生きる』 第一作 「生きる」

 驚くほどの暑さが続いている。これほど暑さが長く続くさすがに体力的に厳しい。だが、乙川優三郎『生き』(2004年 文藝春秋社 2005年 文春文庫)を非常に感動して読んだ。これは2002年の直木賞受賞作品だが、表題作「生きる」の他に、「安穏河原」、「早梅記」の三編の中編を収めた中編集である。いずれの作品も、文字通り「生きる」こと、あるいは「どうにもならないことの中で真摯に生きること」を主題としたものであり、主人公たちだけでなく、主人公たちを支えた女性たちの生き方にも深く胸を打たれた。

   第一作「生きる」は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、武家の「忠義」の証しとして行われていた「殉死」の問題を取り扱いながら、「生きることの苦闘を抱えた中での生」を直接物語るものである。「殉死」は、主君の死に続いて忠義の臣が追腹を斬ることであり、権力者が権力者であることの証しとなり、愚かにも「殉死者の数」を競うようなところがあったのである。

  石田又右衛門は、関ヶ原の合戦で父親が浪人となり、少年の頃は非常に貧しい暮らしを強いられていたが、やがて父親がある藩の藩主によって召抱えられるようになり、ようやく、貧を脱して、以後、藩主の寵遇を得て順調に出世し、馬廻り役五百石を賜わるようになっていた。娘は既に嫁ぎ、孫もでき、息子も成長していた。気がかりといえば、妻の佐和が病がちであったことと息子が苦労知らずで直情的に育ったことくらいであった。

  ところが、石田家を取り立ててきた藩主が死期を迎えるようになり、「殉死」が取りざたされるようになってきた。藩主は才覚にも自覚にも富み、穏やかで徳もあり、家中で慕われていたので、彼の後を追って追腹を斬る者が続出することが予測された。追腹を斬ることは主君に仕える武しらしいことであると考えられていた。石田又右衛門自身は、当然、藩主の寵遇を得て来てここまでこられたのだがら、追腹を斬って殉死の覚悟を決めていたし、藩内でも彼が殉死するのが当然とみなされていた。

  しかし、筆頭家老の梶谷半左衛門から呼び出され、旗奉行の小野寺郡蔵と共に、家中でやたら追腹を斬っていたずらに有為の人物を失うことを避けるために追腹禁止を出すことを話し出されて、二人とも追腹を斬らない誓紙を出すよう依頼される。二人は不承不承ながらそれを受け入れ、追腹をしないことを誓う。

   そして、藩主が江戸表で亡くなり、梶谷家老命で追腹禁止令が出される。だが、藩主の遺体が国もとに運ばれてくる途中で、藩主の小姓、又右衛門とは旧知の郡代、近習など、次々と追腹を斬って殉死する者が現れた。又右衛門の周囲でも、この時とばかり彼に追腹を斬ることを露骨に勧めるものたちも現れ、又右衛門の息子も誇りのために父親の武士としての当然の殉死を望んだりする。

  そういう中で、又右衛門の娘が嫁いだ先の婿が殉死をするのではないかと案んじられた。娘は、そのことを恐れ、又右衛門になんとか殉死をしないように説得してくれと依頼されていた。だが、藩主の葬儀の際に娘の婿は、幼い子を残して追腹を斬ってしまった。そして、娘から婿の追腹を止めて欲しいと頼まれていたにも関わらず、そのような事態になったために、娘の家から義絶されてしまう。

  追腹禁止令が出されたとはいえ、家中では見事に殉死した者たちへの喝采が叫ばれ、殉死するだろうと思われていながらいに残っている石田又右衛門に非難と侮蔑の目が向けられていった。藩内でも、追腹禁止令を出した首席家老を追い落とすために、殉死を奨励する一派の力が強くなり、殉死者に対して始めは厳しい処罰がなされたが、次第に処罰が緩められ、又右衛門の娘の家も減封されたものの家の存続は保証された。だが、夫をなくした娘は次第に精神の錯乱を来たすようになっていた。藩内の雰囲気から首席家老の梶谷半左衛門は追い落とされて反対勢力が実権を握るようになっていた。そんな中で、又右衛門の息子も、自分の父親を恥じて自死する。

  追腹をしない誓約をした石田又右衛門は、あらゆる屈辱に耐えながら生きていた。そんな中で、妻の佐和が、彼が死なないでいることを喜んでくれて、それだけが彼の支えであり、慰めとなっていた。だが、その佐和も病が重くなり死を迎え、又右衛門は、全くの孤独となった。藩内で、彼は臆病者と罵られ針の筵に座っているような心地であった。

   そうして2年の歳月が流れ、ある日、同じように追腹を斬らない誓紙を立てた小野寺郡代と出会う。彼もまた、同じように人々の蔑みを耐えて生き、そしてそれに疲れていた。そして、それから数日後に、追腹は斬らなかったものの彼は餓死したのである。

   そのことがあってから石田又右衛門は自らを改める。人々の蔑みを耐えることだけの日々をやめて、「お前らに人間の値打ちがわかるか」という思いをもって堂々と生きる道を選ぶのである。こうして、月日が流れ、彼は年老いた。その間に藩の執政は二度変わり、殉死を称えていた者が実権を握ったが対したことはできず、再び罷免されていた梶谷半左衛門が首席家老が復権した。その復権には、徳川幕府が正式に殉死を禁じたことも大きかった。又右衛門は、それらを眺めながら、「陋習にとらわれてきたのは自分を侮蔑した家中であって、そのくせ絶大な権力が決めたことには従順ではないか。物事が正しいか否かは権力の意向とは別のものであるのに、自ら判断を放棄したも同然だろう。そういう輩がのうのうと生き長らえて、一途な人が死んでいった」(文庫版   96ページ)と思うのである。

  彼は、毅然として生きることを決め、そのように生きてきたが、孤独であった。だが、長い間彼に仕えて来た女中から彼が追腹を斬らずに生きることを喜んだ病んでいた妻の佐和が「何を幸せに思うかは人それぞれで、たとえ病いで寝たっきりでも日差しが濃くなると心も明るくなるし、風が花の香を運んでくればもうそういう季節かと思う、起き上がりその花を見ることができたら、それだけでも病人は幸せです」と言っていたことを聞く。その時、義絶されていた娘が成長した孫を連れて来たのである。「又右衛門はもう一度、背筋を伸ばし、かたく拳を握りしめた。震える唇を噛みしめ、これでもかと凛として二人を見つめながら、やがておろおろと

   なんという壮絶な終わり方だろうかと思う。「おろおろと泣き出した」という短い一文が、この物語の主人公の生き様のすべてを物語る。「生きる」、それはすべてこの瞬間に凝縮され、この瞬間があれば、人は生きていける。そういうことが、しみじみと伝わる。


2013年8月19日月曜日

乙川優三郎『蔓の端々』

「猛暑」、「酷暑」、「炎暑」、どれをとっても暑い。ほんの少し身体を動かすだけでも汗が滴り落ちる。この暑さはまだまだ続くらしい。明日から休暇に入る。

 週末から乙川優三郎『蔓の端々』(2000年 講談社 2003年 講談社文庫)を読んでいた。これは、小藩の政争に否応なしに巻き込まれた軽輩の下級武士たちの姿を描いたもので、本書の中に、「おそらく一生を足軽として終えるであろうことは物心がついたころには覚悟し、上から命じられるままに働き、これからも藩の豊約に関わりなく暮らしに追われてゆくに違いない。言ってみれば、か細い蔓の端に生まれたために、否応なく大木にしがみついて生き延びるしかない人間だった」(文庫版 236ページ)という一文があるが、その「か細い蔓の端」で生きなければならない人間の物語である。

 主人公の瓜生禎蔵は、幼い頃に父と母を失い、下級藩士であった瓜生仁左衛門に引き取られて育てられ、十法流という流派の剣術道場で修行を重ねている青年だった。養父は武具方の軽輩で、禎蔵は養父の養子となって武具方のあと目を継いでいた。だが、禎蔵は、いずれは自分の力で這い上がることを志して剣の修行を重ねていた。彼の隣家の娘八重とは幼馴染で、禎蔵は八重を嫁に貰おうと考えていたし、八重も幼い頃から禎蔵を慕い、二人は相愛のように思われていた。

 ところが、ある日突然、禎蔵の剣術道場の親しい友人で、剣の腕では禎蔵と双璧をなすと言われていた黒崎礼助と八重が出奔した。禎蔵はわけがわからなくなり、友人の礼助に裏切られ、想いを寄せいていた八重に裏切られ、失意のどん底に落ちる。そして、その後、藩の実権を握っていた首席家老が何者かに暗殺され、暗殺者として黒崎礼助の名前が上がり、追っ手がかけられる。だが、礼助と八重の行くへはようとしてわからなかった。黒崎礼助は藩の剣術師範を務めるほどの腕で、追っ手を斬り抜けていた。

 しかし、この首席家老の暗殺を皮切りにして、藩の大目付の詮議が始まり、藩内で横行していた不正も暴かれて、30余名の藩士が処分され、執政たちの顔ぶれが変わっていった。役替えで、瓜生禎蔵の飲み仲間であり剣術道場の同僚で同輩である三代川勇吾は寺社目付となり、瓜生禎蔵は剣術師範となった。だが、出奔した黒崎礼助と八重の行くへはわからないままだった。そして、この状態で藩の実権を巡る争いが上層部では隠密裏に進行し、暗殺された元首席家老の一派と新しく主席家老となった一派の対立が続いていた。それには、病弱な藩主の跡目相続の問題も絡んでいた。その抗争は、一年の間に次々と藩の重職たちが四人も暗殺されるという事態を生んでいった。

 下級武士としてなんとか這い上がりたいと思っている三代川勇吾、剣術師範として否応なく藩内抗争に巻き込まれ、多くの軽輩たちの犠牲を出し、心を痛めていく瓜生禎蔵。そうした姿が克明に描かれ、それに、礼助と八重の出奔の事実に深く傷ついている重い心を抱えた禎蔵の心象風景が重ねられていく。やがて、十七年前にも同じような権力争いによる藩内抗争があり、瓜生禎蔵の実父が暗殺者として仕立てられ、黒崎礼助の父親に殺され、その黒崎礼助の父親も闇に葬られるようにして殺されていたことが分かっていく。

 藩の上層部が変わっても、下級武士たちの暮らしは変わらず、むしろ使い捨てのようにして取り扱われ、さらに貧困を招く状態が続いていた。「この一年の間に、守口、大島、小津、原田と暗殺が続いた果てに、家中同士の、それも権力とは無縁の軽輩たちの斬り合いがはじまろうとしている。何のための抗争なのか、下のものには分からぬだろう。少なからず織部家老に関わってきた禎蔵にさえ、二転三転する状況の中では、何が正しく、どこでどう道を間違えてきたのかは分からなかった」(文庫版 334ページ)のである。だが、陰湿な抗争は続き、命令されるだけの軽輩どうしの激突が始まり、多くの死者と傷ついた者が出た。だが、上の者たちはそれをただ見ているだけだった。

 多くの血が流れた後で、藩内抗争は一段落つくが、抗争によって得られたものは上の者が分け合うだけで、実際に血を流して死んだ軽輩には、わずか三両の報奨金が出ルコとが決められただけで、それもなかなか実行されず、傷ついた者たちは捨て置かれた。「役替えもほぼ済んだというのに、生き残ったものの半身の自由を失った三弥に未だ褒賞の沙汰がない。」禎蔵は、「藩という器の底に沈んでいる土砂を見るような重苦しい気分」になっていく(文庫版 348ページ)。

 そして、彼らが何とか生きることができるように瓜生禎蔵は苦心する。そんな中で、藩の重職暗殺に手を染めていた三代川勇吾が殺される。三代川の妻は少し家格が上のところから嫁いで来ていたが、暮らし向きの質を落とさずに傲慢なところがあり、そのために三代川は借金をし、その金のために暗殺に手を染めていたが、その暗殺を理由に強請ったために殺されたのである。彼の殺害に彼の妻が手引きしていた。三代川の妹は、借金を理由に無理矢理に吝嗇家の武士のところに嫁がされていたが、抗争の際に殺され、婚家を出され、行くところがなくなっていた。

 だが、半身を失った三弥は、畑を作って働くと言い出すし、三代川の妹は料理屋の女中として働き始める。それらを見て、「三代川は食うために生きるのは惨めだというようなことを言っていたが、人間は無心に日々の営みに追われている方が幸せかもしれないという気がした。そうして生きていれば、腹の底から笑える日が来ないとは限らないし、下手に欲をかくから笑えることまで笑えなくなる」(文庫版 366ページ)と禎蔵は思っていくのである。「痩せ地に芽を出した葛のようで、人の力は計り知れない」(文庫版 413ページ)のである。

 こうして一段落ついた後で、出奔した黒川礼助と八重の行くへがわかり、瓜生禎蔵は二人を捜し出す。八重はやつれ、苦労しているのが一目で分かるほどだったが、「何故?」という問いに、まだ隣家どうしだった頃に真剣に禎蔵の嫁になりたいと言った時に禎蔵が笑ってしまったことで、禎蔵の嫁になることを諦め、その頃に黒川礼助に真実に求められて黒川の嫁になることを決心したといい、その黒川が暗殺者となったとき、もし黒川が断れば禎蔵に暗殺者の命が下ることもあって、首席家老を斬って出奔したのだと打ち明ける。そこには藩主の座を巡る黒い陰謀と恨みが渦巻いていたと事の真実を告げるのである。そして、もうどうかそっとしていて欲しいと語る。瓜生禎蔵は、いったんは黒川礼助と斬り合う覚悟をするが、二人を残して国元に帰っていく。「国に帰れば、待っているのは偽善と窮乏だが、そんなところにも根を張り、たくましく生きている人間が大勢いる。嵐が去って大木は次々と倒れたが、葛はもう新しい葉をつけはじめている。仮にいつかもっと大きな嵐が来ても、彼らは生き残るだろう」(文庫版 443ページ)と思うのである。

 蔓の端々のようにして生きている人間、それは、端々として捨てられるかもしれないが、存外、したたかにたくましく生きるのである。本書は、そうした人間の姿を描くのである。描写や展開が綿密でどの文章にも作者の「心」が込められているようで、これもまた優れた作品だと思う。同じモチーフでも最近の多くの書き下ろし時代小説とは、随分質が違うのを感じる。
 

2013年5月10日金曜日

乙川優三郎『男の縁 乙川優三郎自撰短編集 武家編』


 西から低気圧が近づき天気が崩れていくそうだが、今日はまだよく晴れて少し暑いくらいの初夏の陽射しがさしている。このところ、怠惰な自分にさらに拍車をかけて怠惰に過ごしたいと思っていたが、そうもいかない状況が続いて、夏までもつだろうかと思ったりもする。

 そういう中で、乙川優三郎『男の縁 乙川優三郎自撰短編集 武家編』(2006年 講談社)を再び感じ入りながら読んだ。これまで読んだこの作者の短編は非常に優れていて、短編時代小説の名手かもしれないと思ったりもするほど良質の作品が多い。作品の文学性は高いものがある。

この「自撰短編集」は、「武家編」と「市井編」があり、「武家編」には、「悪名」、「男の縁」、「旅の陽射し」、「九月の瓜」、「梅雨のなごり」、「向椿山」、「磯波」、「柴の家」の八篇が収められている。このうちの「九月の瓜」、「梅雨のなごり」、「向椿山」、「磯波」は、前に読んだ『武家用心集』(2003年 集英社)にも収録されており、ここでは割愛する。

 「悪名」は、藩政改革のために藩主の密かな命を受けて、わざと不行績のためにお役御免となり、領内で収賄によって私腹を肥やしていた藩の重鎮や商人たちから金銭を脅し取るということをして悪名を轟かせている武士の話で、彼と相愛ながらも他家に嫁ぎ、子がなくて離縁され、茶屋勤めをしている女性の目を通して、それが描かれていく。

 下級藩士の家で育った「多野」は、密かに隣家の次男である山野辺重四郎への想いを持ちながらも、十七歳で他家に嫁いだ。病気の舅の世話をさせられたが、その舅が亡くなると、用なしとばかりに子ができないことを理由に離縁され、貧しい実家に戻ったが、そこで厄介をかけることもできずに茶屋の女中奉公に出た。

 重四郎は、次男であり、末期養子の縁組が決まって、山野辺家を出て、やがて養家の家格もあって、勘定方から勘定奉行のひとりになっていき、財政難に陥っていた藩政をなんとかしようとしたが、彼の提案は賛同を得ずに諦めざるを得ない状態となり、そのうちに不埒を働いたということでお役御免になったのである。

 二人は偶然に再会したが、重四郎は昔の溌剌とした面影もなく、自堕落で、辛辣な皮肉を「多野」に言うばかりだし、侍としての品位もなくし、女にもだらしがなく、市中のよからぬ噂も聞こえていたが、「多野」は、心のどこかで重四郎をまだ信じている自分を感じていた。

 だが、そうした「悪名」を流したのは、私腹を肥やした藩の執政や豪商たちから金を脅し取り、それで逼迫した藩庫を補うためで、不正の手口と裏金の流れを掴んで、そのような不正が二度と起きないようにするという藩主の密かな命令を受けてのことであった。

 そして、重四郎は、不幸な境遇に身を置き、茶屋の女中奉公をしている「多野」に妻となるように申し出るのである。

 文章に独特の「情」というものがあって、ひとつの光景がひとつの心情を表すような描き方で、ここでは臘梅と風花が全体を醸し出すものになっていて、その光景を眺め見る時の心情が巧みに描かれている。

 表題作にもなっている「男の縁」は、藩の家臣譜(家臣の歴史)の執筆を依頼され、二十年もの長きに渡ってその仕事を続けてきた宇津木丈太夫という人物を通して、一人の早見伝兵衛という老家臣の生涯とその姿に触れていくというもので、あるい意味では、武士として壮絶でもあるその姿が描き出されていく。

 早見伝兵衛は宇津木丈太夫が記している家臣譜に加筆して欲しいことがあると言って、これまで秘してきていた自分の生涯を語り始める。彼は、元は大和国柳生の庄で柳生新陰流の門人で、免許をもつほどの使い手だったが、兄弟子とふたりで新しい主君と扶持を求めて諸国を歩いた。しかし、彼らの仕官先はなかなかなかった。

 そして、ある時、伝兵衛の伯父で武芸はうまくなかったが世辞に長けた人物の話になり、兄弟子は彼の伯父のことをひどくなじり、罵倒したために、伝兵衛が伯父をかばうと、愚かにも立会をするまで発展してしまった。伝兵衛はその立会に勝ち、兄弟子を殺してしまった。そこで、名前を変え、柳生新陰流の使い手であることを秘して、弓術で藩に仕えるようになり、今日を迎えたと言う。そのことを自分は秘してきたが、家臣譜に付け加えて欲しいと言うのである。それは、早見老人が自分の死を前にして過去を清算する姿でもあった。

 他方、宇津木丈太夫は、病身の母親と自分の世話のために嫁き遅れている一人娘の縁談のことで悩んでいた。娘は、もうしばらく父母と暮らしたいと言い、結婚する気配もなく、宇津木丈太夫はそれを案じたりしていたが、二度も妻を離縁し、三度目の妻を迎えるために家臣譜を見せて欲しいと訪ねてきた犬井荘八という男が気のある素振りを見せたりしていた。宇津木丈太夫の目には、犬井荘八は軽薄な男にしか見えなかった。

 そんな中で、早見伝兵衛は、十年ほど前に複数の藩の重職たちが結託して空米相場に手を出して私腹を肥やした事件の告発状を江戸藩邸に送り、藩の大目付が調べ始める動きが起こった。早見伝兵衛は自分が死病にかかり、余命幾ばくもなくなっているという。そして、早見伝兵衛は、その時不正を働いた藩の重職たちがいる御用部屋に乱入して立てこもるという事件を引き起こしてしまう。伝兵衛は柳生新陰流の使い手であり、藩の中老なども斬られ、役人も手が出せない状態になった。

 その時、軽薄としか見えなかった犬井荘八が名乗り出て、伝兵衛が立てこもる屋敷に入っていくのである。そして、彼は伝兵衛との激闘の末に、伝兵衛を斬って出てくるが、この事件が藩の重職の方から仕掛けた斬り合いで、早見伝兵衛は乱心したのではなく、覚悟の討ち死にをしたと語るのである。

 早見伝兵衛は、こうして自分の最後をきちんと清算し、潔く死を迎えたのである。犬井荘八には、そのことがよくわかっていた。宇津木丈太夫は、人を見直す目をもって犬井荘八は見るのである。直接には記されないが、犬井荘八と宇津木丈太夫の娘とは、このあと結ばれてくだろうことが余韻として残る。

 「旅の陽射し」は、死を目前にした老夫婦が、再び愛情を取り戻していく話である。長い間医者としての研鑽を積み、藩医にまでなった意伯は、半年ほど前、自分が死病を患ったことを悟った。医者として多くの死を看取ってきてはいたが、自分の死に直面して、彼はうろたえ臘梅した。我儘になり、癇癪を起こしては、妻の「万」につらく当たった。

 妻の「万」は、夫の我儘に耐え、癇癪に耐えたが、これが長年連れ添ってきた夫婦の終わり方だろうかと冷たく感じていた。そういう中で日々が過ぎていったある日、夫が銚子に行こうと言い出す。間に合せの覚悟ではどうにもならない人生の終わり方を「万」は考えざるを得なくなる。そうして二人は銚子につき、銚子の海を眺めるのである。

 旅先で、意伯も万も、解放された景色を眺め、珍しい美味しいものを食べ、それまでの死の気鬱が吹き払われていくようになっていく。旅先の銚子では、子どもの頃から病弱で何度も死の危険にさらされながらも、医者であった意伯によって生きのび、今では丈夫になっている中川奥右衛門という郡奉行にも会い、彼によって道案内のための娘の世話を受けたりする。

 娘は、いつも死と隣り合わせに生きている漁師の娘で、貧しくはあったが清楚で溌剌としていた。そうしていくうちに、意伯はだんだんと素直さを取り戻し、冷え切った夫婦の間が溶かされて温められていくのである。磯巡りで、意伯は死にかけていた子どもの病状を診たりするし、そのために岩場を登ったりしていくが、夫婦が夫婦として穏やかに終わりを迎えていく道を見つけていくのである。

 最後の「柴の家」は、十七歳で旗本家の婿養子に入り、夫婦仲も冷えたままで、ただお家大事、跡取り大事で存在するだけのつまらない日々を送っていた武士が、ふとしたことで陶芸に魅入られ、そこに弟子入りし、陶芸師の孫娘で、陶芸に命を燃やす女性と生きていく決心をしていく物語である。彼は、分別のある中年になっているが、家を捨て安泰な生活を捨て、命の炎を燃やしていく人生を選び取っていく。そうした姿が、作陶に向けられる二人の思いとともに描き出されていくのである。

 これらのいずれの短編も、情緒あふれる文章で描かれており、物語の展開というよりも、文章の余韻で物語が綴られるようなところがあって、じんわりと読める作品になっている。いずれの作品も美しい。

2013年3月12日火曜日

乙川優三郎『さざなみ情話』


 このところ気温が高速エレベータに乗っているように上下しているが、今日は暖かな春の青空が広がっている。桜の開花まであと少しというところだろうか。

 昨夜は、震災2周年の支援活動の報告会を兼ねた集まりに出かけてきた。「行為と存在」ということを強く感じながら、行為から存在に移行するしんどい作業が必要なのだろうと思ったりする。これがなぜしんどいかといえば、人の判断がもっぱら行為にしか基づかないからで、「何をしたか」ではなく「どうあったか」、あるいは「どうあるのか」を大事にしたほうが良いと思っているからである。

 まあ、それはともかく、乙川優三郎『さざなみ情話』(2006年 朝日新聞社)を読む。これは、 時代小説というよりも純文学作品と言ってもいいような作品だった。物語は、利根川で高瀬船を操りながら荷運びをする男と、彼が想いを寄せる松戸の平潟河岸で食売旅籠の売笑(娼婦)をしている女の情話で、共に貧しさを抱えながら、なんとか希望を見出そうとしていく話である。

 修次は、銚子沖のイワシ漁で父親と兄を失い、老いた母親と妹の生活を支えるために、小さな中古の高瀬舟を借金をして買い、銚子から利根川を上って醤油や魚油などを運ぶ仕事をしている船頭である。彼の妹は、幼い頃に彼の不注意で身体に火傷を負って、その痕が身体に残っているために、嫁にも行けずに鬱屈した日々を過ごしているし、彼の肩には、一家の生活が重くのしかかっていだけでなく、妹に対する負い目もある。

 二十三歳のころ、少し自由になる金もできて遊び盛りだった彼は、松戸の平潟でひとりの売笑を買った。それが「ちせ」で、「ちせ」は越後の貧農の生まれで、十三歳の時に売られ、下女奉公から初めて十五歳で客を取らされた。彼女が修次と会ったのは十六歳の時であったが、まだ年季が四年ほど残っていた。また、年季が明けたからといってそのあいだに借金ができる仕組みになっていて自由になれるわけではなく、悪くすればまた別の宿に娼婦として売られるだけであった。

 仕方なく男を受け入れす仕草にぎこちなさがあって、修次は罪深さを覚えつつも、「ちせ」に惹かれていった。「ちせ」は、どうあがいてもどうにもならない境遇の中で、ほかの女たちとは違う素直さや素朴をさもった女だった。

 そして、「ちせ」もまた、修次に安らぎを見出すようになり、二人は互の想いを交わす仲になったが、二人ともどうにもならない境遇にいることは変わりなかった。修次は、彼女の年季が明けたら、なんとか借金を払って身請けして夫婦になりたいと思っていたが、頼りない中古の小さな高瀬舟を操るだけでは金が貯まらなかった。

修次の船で働く男や「ちせ」の同輩たち、いじけた修次の妹、そういう人間が渦巻く中で、出口の見えない希望だけが二人を繋ぐ日々を過ごしていく。その間の二人の心情がそれぞれに情感的に描かれていく。

 そうしているうちに、「ちせ」の身請け話が起こってしまう。相手は大店の醤油問屋である。修次は何とかしようとするが、金の力に負けそうになる。だが、彼は決断して、「ちせ」を足抜けさせ、高瀬舟で海に出て、心中を装って、二人でその苦境から脱出していくのである。

 そういう顛末が描かれているのであるが、貧しさのために売られて売笑(娼婦)として生涯を過ごさなければならない女の悲しみや苦労、重荷を抱えて生活に追われていく男のやるせなさ、そういうものが溢れて、作品を仕上げている。

 最後は、誰も知らない九十九里浜で二人は漁師として生きていく道が開かれて行くのだが、希望は決断によってしか生まれないということを思いながら読み終えた。ただ、こういう「情話」は、今ひとつわたしの好みではなく、少し読むのに時間がかかった作品だった。

2013年2月28日木曜日

乙川優三郎『武家用心集』(5)「向椿山」、「磯波」、「梅雨のなごり」


 ようやく少し暖かくなり、少し春の陽射しを感じるようになった。まだ寒い日があると思うが、明日からは弥生である。年度末が近づいたので、今年は自分の身の処理を真剣に考えようと思っているが、このところ急激な体力の衰えを感じたりして、果たしてどうしようかと思ったりもする。そういう者にとっては、春の暖かさは有難い。

 さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)の第六作「向椿山」は、待つことができずに裏切ってしまった女への想いを細やかに描く短編である。

 医師としての五年の学びを終えて帰郷した岩佐庄次郎は、五年前に「待つ」と言って言い交わした美沙生(みさお)が自分を待っていなかったことに愕然とする。

 美沙生は、武家の娘で、庄次郎の師である医師の家に手伝いに来ていた娘であった。明るく屈託がない彼女は誰からも慕われるような娘であった。正次郎は十九歳で江戸に遊学する前、互いに想いを寄せ合っていた十六歳になる美沙生に待てるかと訊き、彼女は、はい、と屈託なく答えていたのである。だが、親の承諾を得て婚約していたのではなかった。

 それから五年、彼が遊学を終えて帰ってきたとき、しかし、そこに美沙生の姿はなかった。彼は事情を知らされないままに、藩から薬草園の設置などを任された仕事をしながら日々を過ごしていた。彼は、遊学中に、せいぜい年に一度か二度しか手紙を書かなかったし、いつのまにか美沙生からの便りも届かなくなっていた。美沙生の家に行っても、美沙生は彼に会おうともしなかった。

 やがて、美沙生についての噂話が聞こえてきた。美沙生が華道家の子どもを身ごもり、その華道家の跡を追って京へ行ったという噂話であった。そして、それから一年ほどして戻り、今は実家にいるということだったのである。それを聞いて、庄次郎の心は揺れ、彼は自分の仕事に精を出すことで忘れようとするが、どうしても美沙生のことが忘れられないでいた。美沙生の母親からの話も聞き、美沙生の裏切りが事実だということも知る。

 そうしているうちに、日々が過ぎていくが、ある日、突然、美沙生が彼を訪ねてくる。美沙生は、庄次郎が別れる時に、草木のことを知りたいのであれば生花でもしたらどうか、と軽く言ったことを覚えて、華道を習い始めたのだという。ところが、習い始めるうちに洗練された生花の腕をもつ華道の師範に次第に心が惹かれていったのである。そして、一線を超えてしまい、子を宿したのである。身ごもった彼女は尼寺に預けられて世間の目を誤魔化そうとしたが、子は生まれることなく流れてしまった。華道の師範は、まもなく京に旅立っていった。、そうして今に至ったと彼女は正次郎に語る。

 正次郎は衝撃を受けるが、待てなかった彼女の姿を見るうちに、覚悟を決めて、彼女を自分の家に連れて行くのである。

 この話はこれだけのことでしかないが、人間の回復をどこでするのかということは、なかなか重いテーマで、自分を裏切った人間を、単にゆるすだけでなく、その者と共に再び生きていけるかどうかは、いつも深遠な課題であると思ったりする。

 第七作「磯波」は、自分の想い人を闊達な妹に奪い取られ、その後ひとりで生きてきた女性の微妙な女心を描いた作品で、なんとなくこの作品集にはそぐわない作品のように思えたが、「断念」して生きていくということを考えさせられる作品であった。

 第八作「梅雨のなごり」は、藩主の交代とともに行われることになった徹底した藩政の改革に携わらなければならなかった勘定方の父親をもつ娘の視点で、飄然と生きている叔父の姿を描いたもので、改革の嵐の中でも、驕ることも増長することもなく、妹の家族を守っていく姿が描かれる。状況の変化の嵐の中で、人はどう生きるかを問う作品でもある。

 藩の勘定方を務める父親の帰りが日毎に遅くなり、ついには城詰めの日々となっていく中で、母の兄である大出小市は、彼女の家の台所の板敷を居酒屋代わりにして、手酌で酒を飲むのを楽しみ通ってきていた。彼女の家はわずか二十五石の俸禄で貧しく、叔父は小普請組の小頭をして金もありそうだし、家族もいるのだが、なぜか、彼女の家で酒を飲んでは磊落で気さくな話をしたりしていた。

 そんな中で、十八歳になる兄の恭助は、道場に行くと言っては出かけて、時折、酒とお白粉の匂いをさせて帰ってきていたが、叔父がいるときに仲間と酒を飲んできて帰ってきた。そのとき、叔父の小市は、今がどんな時か考えろと言って激怒し、藩の情勢について話した。叔父は、磊落そうに見えても、情勢についてはきちんと理解していたのである。

 彼は、藩主が交代して国入りする半年前から、藩政の改革に備えてさまざまな取り調べが行われており、場合によっては奸臣の処分と執政の交代がありうるのだと言う。そのために江戸から来た側用人を頭にして監察組が組織され、父の武兵衛もそこで働いていると語るのである。そして、こうのような時は身を慎むべきだと恭助に諭すのである。

 父親の仕事については固く秘密が守られて何も知らされていなかった家族は驚くが、恭助が一緒に酒を飲む仲間に藩の重臣に繋がる須田千之介という男がいて、恭助は彼から二両の金を借りていた。須田千之介は中老の田上源左衛門と繋がり、恭助を通して監察がどこまで進んでいるかを探ろうとしていたのである。恭助はそのことに何も気づかずに暢気に酒を飲んで遊んでいたのである。須田千之介は神道流の腕が立つ。

 叔父の大出小市は、それを聞いて、道場まで出かけて行って須田千之介に金を返すが、そこで須田千之介は立会いを望み、反対に小市に足をしたたかに撃たれたのである。こうして、恭助の禍根は断たれたが、城ではいよいよ糾弾が始まり、父親も城詰めで帰宅しなくなった。父親の武兵衛は過労で倒れるのではないかと案じられた。

 藩政の改革は想像以上に大掛かりに行われ、執政の更迭が行われ、失脚した重臣たちには即座に処分が言い渡され、その中に中老の田上源左衛門もいて、田上と繋がっていた須田家の行く末も危ぶまれる状態となり、足をしたたかに撃たれた須田千之介が大出小市に仕返しをすると脅しをかけてきた。

 そして、往来で須田千之介は大出小市に斬りかかるのである。彼の父は左遷され、大出小市は普請奉行になって加増されていた。そういう恨みも重なり、気位が高かった須田千之介が私怨を果たそうとしたのである。

 往来での斬り合いであるから、それを止める仲裁が入り、小市は刀をひこうとするが、千之介は無理矢理にも斬りかかり、ついに、小市は脇差で千之介の胸を刺すのである。いくら理があっても往来での藩士どうしの斬り合いは御法度である。大出小市には、何らかの処分が下されるかもしれないが、小市はこの出来事を大目付に届けに行く。

 それを見ていた利枝は、一部始終を母に話した。母はそれを聞いて、「誰かがつらいときは周りのものが明るく振舞うものです」(208ページ)と語り、小市が頻繁に酒を飲みに来たのは、貧しい家に嫁いだ妹のことを心配してであり、叔父はそうして利枝の家を守ってくれたのだと言う。父の武兵衛もそのことを知っていて、小市に感謝していた。

 多分、兄の恭助が叔父を迎えに行くだろう。その兄は、それを聞いても呑気で能天気であるが、その明るさが救いかもしれないと利枝は思うのである。

 小市がどのようになるかは記されない。しかし、全体に変革の嵐が吹き荒れて、つらい時に、辛抱して日々をたゆまずに過ごしていくことや、さりげなく愛する者を守ることに徹していく姿があって、作品の出来はともかく、なんとなく爽やかに読めた作品だった。

 乙川優三郎のこの短編集は、文学性も盛り込まれている思想のさりげなさも、優れて高いと思う。時代小説の形で現代の問題を取り込み、しかもそれが違和感なく著されている。こういう短編を優れているという、と改めて思った。