2014年2月28日金曜日

藤井邦夫『知らぬが半兵衛手控貼 投げ文』

 昨日まで引き継ぎなどで熊本にいたが、やはり暖かい。こちらも今日だけは春めいてくるとのことで、明日からまた数日は寒くなるとの予報が出ている。今日は、留守の間にたまった仕事を片づけなければならないが、さて、何から手をつけようかなどと思ったりする。日程が少し厳しくなったが、まあ、とりあえずはコーヒーでも飲もうと、先ほどコーヒーを入れたところ。

先日、出抱える前に、藤井邦夫『知らぬが半兵衛手控帖 投げ文』(2006年 双葉文庫)を読んでいたので、それを記しておこう。文庫本カバーの裏には、これがこのシリーズの2作目の作品であると出ていた。1作目は、読んではいないが、北町奉行所臨時廻り同心の白縫半兵衛(しらぬい はんべえ)を主人公にした捕物帳物である。

 臨時廻り同心は、長年定町廻り同心を勤めた経験豊かな同心がなるのが慣例で、南北奉行所に各2名が置かれていた。主人公の白縫半兵衛も中年過ぎの男で、初めての出産の時に妻子を亡くし、一人暮らしをしている。彼は、止むを得ずに罪を犯さなかった人たちの事情を汲んで、「知らぬ顔」をして人情厚いところから「知らぬ顔の半兵衛」と呼ばれ、事情があればそれを何とか事件にしないようにしていく人情家である。だが、田宮流居合の達人である。

 また、半兵衛が定町廻り同心だった頃に彼に仕えてくれた老練の岡っ引きが一人娘の「お夕」を残して亡くなったために、その娘のために家を買い与えて、一階を飲み屋にして暮らしているので、その店によく出入りしており、多くの人たちに慕われているからか、独り暮らしの侘しさは全くないように描かれる。

 本書では、婿養子に入って頭があがらない商家の主人が、昔の恩義を返すために、狂言の拐かし(誘拐事件)を企んで金を作ろうとする事件を、その商家の主人の気持ちを察しながら解決していく事件(第一話)や、仇討ちとして狙われた方の侍の方が立派で、しかも病を負って死期が迫っている武士の最後と仇討ちをする方の若い侍が藩の厄介者扱いとなり、藩の手で始末されていくという哀れな最期を描いた事件(第二話)、素人女の売春組織を暴いていく事件(第三話)、押し込み強盗を捕らえていく事件(第四話)が記され、いずれも、どうにもならないことの中で生きている者たちに半兵衛が手を差し伸べられる物語が展開されている。病にあるものを小石川養生所で面倒を見てもらうようにしたりする。

 事柄の顛末は、あまりにもあっさりと都合よく展開されていくし、最初の登場人物が事件の鍵となるというミステリーにありがちな展開である。情景の描写も時代背景などもほとんどなく、坦々と登場人物たちの動きが記され、江戸の古地図をたどるような背景描写だが、どこかすっきりとしたものになっている。

 本書は、シリーズとしてかなりの作品が書かれているようだが、ありていにいえば、流行の人情捕物帳の一つであると言えるだろう。

 こういう作品は、娯楽作品であり、奥行きの深さなどないのだから、それなりに気楽に楽しめるものではある。ただ、読む方はそれでいいが、書く方は、古地図丹念に辿られているようで、なかなか大変だろうとは思う。町や道が詳細に記されているが、もう少し風景描写が想像されて書かれてもよいとは思うが。

2014年2月24日月曜日

梶よう子『柿のへた』

 明日から少し暖かくなるそうだが、まだすこぶる寒い。日陰には先日降った雪が残っている。だが、近くの公園の梅がもう3~4分咲きで、どこかほっとするような芳香を放っていた。慎ましい梅は、その姿だけで大きな感動を呼び起こしてくれる。武骨で派手さが少しもないのがいい。

久しぶりに胸のすくような爽やかな作品を読んだ。梶よう子『柿のへた』(2011年 集英社)を読んで、まずそう思った。この作者の作品も初めて読むが、主人公の設定や物語の展開、行間に流れる心情がにじみ出るような文章のうまさなど、感服した。

 作者の個人的なことは何も分からないが、東京で生まれ、2005年『い草の花』という作品で「九州さが大衆文学賞」を受賞されて、作家としての本格的な活動に入られたようである。2008年に『一朝の夢』(2008年 文藝春秋社)で「松本清張賞」を受賞されている。個人的なことを公にはしないという、こういう姿勢もわたしは大変気に入っている。

 本書の主人公の水上草介は、江戸幕府の薬草園であった小石川御薬園の御薬園同心である。御薬園同心は、薬草園の管理や働く園丁たちの管理をする役務であるが、二十俵二人扶持の薄給で、いわば最下級の御家人である。水上草介は二十歳の時にこのお役を継いだが、初めて出仕した時に、手足がひょろ長くて、吹けば飛ぶような体躯から、「水路でほわほわと揺れ動く水草」にたとえられて「水草」と渾名されるほどの頼りなげな青年である。のんびりした性格で、人よりも反応が一泊ほど遅く、「水草」と言われても意にも介さない。しかし、彼は自分のそういうところが嫌いではなく、ただただ植物が好きで、御薬園の仕事を喜々として行う日々を過ごしているのである。小石川御薬園は4万5千坪という広大な敷地の中に450種類のほどの草木が植えられており、草介は飽きることなく草木相手の生活を送っている。

 彼は、代々が御薬園同心の家柄だったので、幼いころから本草学を学んでおり、薬草に関する知識に長けている。その知識を活かして、日々の中で起こって来る出来事に当たっていくというのが全体の流れであるが、主人公自身が穏やかな雰囲気を醸し出している人物であるだけに、その知識の活かし方も出来事の解決の仕方も、味わい深い穏やかなものである。

 その彼の気質や人物像を際立たせるようなヒロインが設定されている。それは、御薬園の西半分の管理をする芥川家の息女の「千歳」で、17歳の美貌の娘だが、若衆髷を結って剣術道場に通うという気の強い男まさりの娘である。彼女は、本来なら大身の旗本の姫であるが、そんなことは気にもせずに、思ったことはずけずけと言い、さっさと行動も起こすが、人を思いやる気持ちを深く持っている。

 草介は、そんな彼女を柔らかく、そして温かく包むような所があり、密かな想いを持っているし、千歳も草介への深い信頼と想いをにじませる。一見すれば性格がまるで反対のように見えるが、人への優しさは深く、そんな二人のやりとりも妙味がある。

 物語は、小石川御薬園の中には、八代将軍徳川吉宗が大岡越前守の意見を入れて開所した小石川療養所があり、そこに女看護人として働く「およし」という人望の厚い働き者の女性のところに金をむしんに来る御家人崩れのような侍がいるというところから始まる。

 その療養所に南町奉行所の小石川療養所見廻り方同心である高橋啓五郎がいて、草介と親しく、彼は「およし」に惚れており、その心配事を草介に話すのである。高橋啓五郎は、元定町廻り同心であったが、その剛直で懸命なところで上司とそりが合わずに、療養所見廻り方に左遷されていたが、彼もまた、あまりそのことを気にするふうでもなく、心優しい人物で、草介を信頼していた。その時は、たわいもない「惚れ薬」の話などをしていたが、やがて、江戸市中に風疹が流行り、多数の風疹患者が療養所に押し寄せるという事態になったりする。療養所で使う生薬は草介らが薬草園から採取して作っていた。小石川療養所は、看病する家族がいない重病人や、薬代が払えない貧しい者のために設置された施療施設で、流行病にも対応が求められていた。そして、その中で療養所の薬がなくなるという事態が発生するのである。薬の管理は「およし」がしていた。

 そして、「およし」のところに金をむしんに来ていた男が、実は、元は「およし」の家の主家で、その主家が役目上の失態で没落し、その主家の息子であった男が博打や酒に溺れるようになり、賭場の借金を抱えて、昔の奉公人の娘であった「およし」に金をむしんにきていたのである。そして、「およし」の伝手で療養所に出入りする薬種問屋の用心棒になり、その薬種問屋への押し込み強盗を計画していたことがわかっていくのである。「およし」が薬を盗んだのは、その男の借金を返すためであった。「およし」とその男はただの主従関係ではあったが、「およし」は、その男の借金を返して、その男に真人間になってもらいたいと思っていたのである。

 その男と古着屋が結託して押し込み強盗を企んでいることを突きとめたのは千歳であるが、その様子を探っているうちに動けなくなり、草介に助けを求めてきたのである。草介と高橋啓五郎は千歳のところにかけつけ、押し込み強盗を企んだ男を取り押さえるのである。草介は植木挟みか鍬ぐらいしか振るえず、最初はしり込みしていたが、いざとなればその男を叱責するくらいの度胸はもっているのである。

 この出来事が決着して、千歳は父親から若い娘が捕物のまねごとをしたとこっぴどく叱られ、しばらく外出禁止をもらい、くわえて、いざという時に草介に身を護られたことが気に入らずに少々ふて腐れていたが、「およし」は高橋啓五郎に想いを寄せて、その仲立ちを草介が風疹を患った気配がある高橋啓五郎に届けさせるという形でとっていくというところで第一話が終わる。

 こういうふうに物語が進み、やがて、啓五郎と「およし」は夫婦となり、草介のもつ魅力や人格がじんわりとにじみ出るような展開になっていく。いいと思ったのは、蘭学を学んで鼻高であった療養所の医師にも変わらずに接し、本草の持つ力をそれとなく示したりしていくが、草介に惚れこんだ人々から長崎に行って医学を学ぶように勧められた時の彼の対応である。

 多くの周囲の人々が、草介がもつ能力を高く買い、紀州藩主でさえも、本格的な医者になって名をなすような人物になると言うが、彼は、それをきっぱりと断る。「大切な方々とは離れたくありませんから」と彼は言う。ひとつひとつを大切にしながら自分の道を歩いていく。彼は、天明の飢饉にあえぐ人々のために馬鈴薯の栽培とその食べ方などに工夫を凝らしていこうとする。そういう姿が本書に貫かれていて、上質な人間、という思いがした。

 ちなみに、本書で出てくる薬草茶などは、わたしも自分で作ったりするので、より一層興味深く読んだりもした。しかし、それがなくても、この作者の視点というか人間の見方というか、とにもかくにも、軽やかで柔らかく深みを持ち、これから少し意識して他の作品をぜひ読みたいと思っている。秀作である。

2014年2月20日木曜日

和田はつ子『口中医桂助事件貼 南天うさぎ』

 今日あたりに雪の予報が出ていたが、各地で積雪による甚大な被害が出ているので、降らなくて本当によかった。だが、寒い日々が続いている。春はまだ遠い。「梅一輪のあたたかさ」を感じることができる感性を、こういう時こそ発揮させることができればと思ったりする。

 閑話休題。和田はつ子『口中医桂助事件帖 南天うさぎ』(2005年 小学館文庫)を読む。作者は1952年に東京で生まれ、本人の弁によれば、「30代前半の頃に、長女の小学校受験で受けたショックに耐えきれずに書いた『よい子できる子に明日はない』(1986年 三一新書)が橋田壽賀子作のテレビドラマ『お入学』(1987年 NHK)の原作となり、作家としての活動を始めた」ということである。執筆のジャンルは幅広く、サスペンスやホラーなどもある。歴史時代小説は2005年あたりからの執筆である。本書は、シリーズ物の第一作として書き下ろされている。

 本書の「口中医」というのは、今でいう歯医者のことで、江戸時代時代中期ごろまでは、口中医(歯医者)にかかることができたのは、大名か豪商くらいではなかったかと思う。江戸中期以降は、主に入れ歯を作製する入れ歯師と呼ばれる人たちが庶民の治療も行うようになった。しかし、治療法は、痛みを和らげるか虫歯を抜くくらいであっただろう。「虫歯」と言われるくらいに歯が悪くなるのは口の中の歯虫によるものと考えられていた。虫歯が酸によるものと判明したのは19世紀の終わり頃である。ただ、歯磨きが有効な予防であることはよく知られ、歯磨き粉もあったし、房楊枝と呼ばれる歯ブラシも広く行き渡っていた。房楊枝は、今でもなかなか優れた歯ブラシではないかと思う。

 それはともかく、本書は、長崎で蘭医学を学び、自分の歯科技術と知識で一人でも歯痛に悩む人を助けたいと、庶民のための口中医を初めた藤屋桂助を中心に、彼の幼友達で薬草に造詣が深く、桂助のために薬草畑の世話をする賢さや優しさ、美貌を兼ね備えた「志保」と、腕のいい飾り職人であるが、桂助のために房楊枝を作る剛次の三人が姿勢で起こる事件に歯科医の立場から関わって、これを解決していくというものである。

 中心となる藤屋桂助は、江戸でも屈指の大店である呉服屋の長男で、「すらりと背が高く、役者になってもおかしくない男前」で、品位と奥深い知識にみちた二十歳過ぎの青年である。「志保」は、先に挙げたように美貌で、知性も教養もあり、医者の娘である。剛次は、中肉中背であるが、敏捷で気っぷも良い。物語の冒頭で、当時の将軍しか口にしなかったような白牛酪(今で言う練乳のようなもの)を作る話が出てくるが、主人公たちは、金、知、美、情愛を兼ね備えた人物たちなのである。また、剛次は「志保」に秘かに想いを寄せているが、「志保」は桂助に、桂助は「志保」にという緩やかな恋愛の三角関係のようなものがある。

 こういう人物の設定というのは、主人公の桂助がいくら庶民のための口中医を目指しているとはいっても、少なくともわたしにとってはあまり魅力的な設定ではない。小説は絵空事であっていいのだが、こういう主人公像は少し絵空事すぎる気がする。房楊枝でさえ満足に買えない貧しい人々が描かれるが、他方では、庶民が見たこともないような白牛酪(練乳)やチーズ、果てはタルト(本文ではタルタ)まで作って食べる主人公たちの姿が描かれ、「一人でも歯痛で悩む人々を助けたい」という主人公の思いが「金持ちの道楽」のように思えたりもする。主人公たちを美男美女で、人格的にも誠実で優れた人物のように設定し、事件も大奥に関わったりするように設定するところに、若干ではあるが、作者の安直さを疑ってしまうような所がないわけではない。

 それはともかく、本書は一話完結方式の連作となっているが、本書の構成の素晴らしさは、一話でそれぞれの事件が解決していきながらも、実は全体で大きな謎があり、それが次第に明らかになるという手法がとられているところである。事件は、桂助の薬草畑で若い女性の斬殺死体が発見されるところから始まり、殺された女性が大奥務めで宿下がり(実家に帰省すること)していたことが分かっていく一方で、桂助の実家である大店の呉服屋である「藤屋」が将軍の二人の側女に収めた打ち掛けが何者かによってすり替えられて、将軍の寵愛が深い「初花の方」に収めた「南天うさぎ」模様の打ち掛けの行方が分からなくなって、このままでは「藤屋」が責任を負わされて大奥出入り差し止めを免れなくなっているという事件に続いていく。

 桂助たちは、行方が分からなくなっている高価な「南天うさぎ」模様の打ち掛けを探していく。そして、着物のことには無知と言われた剛次が、改めて着物のことを勉強して、江戸の古着屋の元締めの所で、その「南天うさぎ」を見つけるのである。そして、あっさりと「南天うさぎ」を古着屋に持ちこんだ人物が分かり、それが桂助の薬草畑で殺されていた女性の実家の息子で、「南天うさぎ」を大奥から持ちだしたのが殺された女性で、それを画策したのが、大奥内の勢力争いをしていた年寄り(大奥の責任者)の一人であることが判明して、その年寄りは、すべてを認めて自害したという結末を迎える。

 結末があまりに簡単に出てきて、拍子抜けする気がするが、これがやがて大奥内での勢力争いの一つの現象に過ぎなかったことが最後の第五話「まむし草」で記されるという構成になっているのである。

 本書には五話が収められているが、いずれも「事件帳の謎解き」とは言えないようなもので、結末への展開は粗い気がする。情景の描写や社会背景なども、あまり丁寧には描かれないが、飾り職人の剛次とその家族が描かれるところにはリアリティがある。これから人物像が深められたりはしていくのだろうが、まあ、何も考えずに読むにはいいかもしれないと思っている。

2014年2月17日月曜日

近藤史恵『猿若町捕物帳 巴之丞鹿の子』

 二週連続で週末に記録的な大雪となり、降り積もる雪を眺めて暮らしていた。今日は晴れて、雪もだいぶ溶けてきた。ただ、今週もまた積雪かもしれないとの予報が出ている。しかし、自然に抱かれて生きるということはこういうことだろうと思っている。

 先日、十日市場の「緑図書館」に出かけた折、近藤史恵『猿若町捕物帳 巴之丞鹿の子』(2001年 幻冬舎文庫)というのを見かけて読んでみた。「緑図書館」は、近くにダイエーがあり、買い物もできるし、その駐車場も使えるので頗る便利で、土地柄なのか文庫本の蔵書が多い。

 近藤史恵という作家の作品も初めて読むが、文庫本のカバーによれば、1969年に大阪で生まれ、主にミステリー作品を手がけておられるらしい。それと共に大阪芸術大学文芸科の客員准教授もされており、歌舞伎などにも造詣が深いようで、本作でも、江戸の猿若町は芝居小屋で賑わったことからの表題が使われているし、中村座に出ているという女形の水木巴之丞という役者が重要な人物として登場している。表題に使われている「巴之丞鹿の子」というのは、その水木巴之丞が舞台で使った帯揚げが評判となり、「巴之丞鹿の子」(鹿の子は鹿の子絞りのこと)と呼ばれ、それが事件の小道具として使われるところからとられたものである。

 本作の主人公は、玉島千蔭という若い定町廻り同心で、長身で大柄であり、そこそこいい男ではあるが、たいてい眉間に深いしわを刻んで眼光が鋭く、一見恐ろしげである。「若旦那もあんなに怖い顔さえしていなきゃ、そこそこいい男なのにねえ」と言われたりする。彼は無類の堅物で、真面目一辺倒である。彼の父親の千次郎も奉行所同心であったが、父親は粋でくだけたところがあり、適度に遊ぶことも知っていた。その親子の対称的な姿が随所で描かれており、父も子も鋭い推理力をもち、千蔭はその父親に頭が上がらない。その千蔭には父親の代から仕えている八十吉という下男がいて、その八十吉の千蔭に対する思いなどで千蔭の姿が浮かび上がるような手法が用いられている。この主従は、互いの思いやりと信頼が深い。

 この玉島千蔭の風貌で、ふと、テレビドラマの「猫侍」を演じた北村一輝の姿を思い起こしたりした。

 物語は、二つの序章で始められている。序章が二幕あるという感じで、一つは同じ姿形を持つ男女が睦み合う場面で、もう一つは、矢場で働く「お袖」という若いが一人の侍と出会う話である。「お袖」には、どこかひねくれたような所がある。切れた草履の鼻緒を換えてくれた親切な侍の肩を蹴って転ばせるという場面が描かれる。

 その二つの序章のようなものとは別に、帯揚げで若い女性が首を絞め殺されるという連続殺人事件が起こり、同心の玉島千蔭と八十吉がその事件の探索に当たるという展開になっていく。千蔭は殺人に使われていた帯揚げが「巴之丞鹿の子」と呼ばれる特別なものであることを調べ、その販売元から名前の由来になっている女形の役者である水木巴之丞に行き当たり、やがては殺人に使われたのが「巴之丞鹿の子」の偽物であることに気づき、その制作元から探っていくという道を取っている。だが、なかなか犯人には行き当たらないし、事件と関わりがあると思っていた水木巴之丞が、父親の恩人の息子であることが分かったりして、真相が見えてこない。

 他方、序章で登場した「お袖」の物語が並行して進められ、「お袖」と最初に登場した侍は枕を交わすようになっていく。侍にはマゾ的な性癖があり、「お袖」はその侍との情交にはまっていく。「お袖」は、実は呉服屋の三好屋の主人が女中に生ませた子で、三好屋の長男がぐれたことから、三好屋の手代と夫婦にして三好屋を継がせるという話が持ち上がっていた。だが、「お袖」はその話に乗り気ではなく、侍との関係を深めていく。だが、彼女もまた連続殺人犯に殺されそうになり、その場に来合わせた中村座の作者見習の手によってかろうじてその魔手から逃れることができたりする。

 そうしているうちに、玉島千蔭は、偽の「巴之丞鹿の子」を発注したのが、日本橋の松葉屋という呉服屋の次男だとわかる。そして、その次男が殺人の実行犯だとの確信を得て、彼を大番屋に送って取り調べをしようとする。呉服屋の次男は、水木巴之丞と相愛の仲であった吉原の花魁の「梅が枝」を自分のものにするために、巴之丞の名前のついた帯揚げを使って殺人を犯し、巴之丞の評判を落とそうと企てていたのである。だが、その間にもう一つの殺人が起こる。殺されたのは、千蔭が水木巴之丞との話から探索のためにあってみようとした女性だった。

 事件の真相の探索は振り出しに戻った感があった。だが、千蔭は、もう一人の黒幕とも言うべき男をあぶり出すために、水木巴之丞と殺されかけた「お袖」を使って一芝居打つ。歌舞伎で言う「早変わり」を使って、犯人を誘き出すのである。

 そして、真犯人を捕らえる。真犯人の本当の狙いは「お袖」であり、その真の目的を隠蔽するために連続殺人を呉服屋の次男に犯させたということが判明していく。こうして、事件は落着を見ていく。序章で取り上げられた睦み合う男女は、水木巴之丞と梅が枝の姿で、これが連続殺人の一つの動機づけであり、真犯人が狙っていたのが「お袖」であるということで序章の第二幕の物語に繋がっていく。そして、大演壇をもって事件の幕が閉じられ、「お袖」に侍が結婚を申し込むところで終わる。

 ミステリーそのものとしては、二つの出来事が交差していくという手法で、複雑そうに見えても比較的単純であるが、主人公の玉島千蔭の人物像がなかなか面白く、堅物で恐ろしい顔をしたりするが、じつは推理力が抜群で、温情があり、極めて礼儀正しいという姿が、登場人物たちの手を借りて描き出されており、なかなかの文学手法がとられている。文章は男性的ではあるが、すっきりしている。酒と女がだめという主人公がこの後どういう風になっていくのかという興味もかき立てられる。シリーズ化されているので、又機会があれば続編を読んで見たいと思っている。

2014年2月13日木曜日

高田郁『八朔の雪 みをつくし料理帖』

 すこぶる寒い。明日は、また雪の予報も出ている。考えてみれば、戦前の日本の方向を大きく変えた2.26事件の時も大雪だったのだから、当然と言えば当然かもしれない。時折、ソチオリンピックの放映を見ているが、「メダル、メダル」と騒ぐのは社会が未成熟の証しかもしれないとも思ったりする。マスコミ、特に民放の放映の仕方に成熟が見られないのは残念な気がする。

 未成熟と言えば、『永遠の0』を書いた百田尚樹氏の最近の言動を見ていると、作品は素晴らしかったが人間性を疑うようなところがあるなあ、と思ったりもする。ある都知事候補の応援をされていたが、わたしは個人的には政治的人間は嫌いである。

 それはさておき、前から少し気になっていたのだが、どこか、ひとりの女性が苦労しながら成功していく成功譚のような気がして読むのに躊躇していた作品があった。しかし、熊本のSさんがいい作品ですよ、と言われていたこともあって、高田郁(たかだ かおる)『八朔の雪 みをつくし料理帖』(2009年 角川春樹事務所 ハルキ文庫)を読んでみた。

 読んでみて、最初の印象は、作品全体の方向性などは、山本一力の『梅咲きぬ』(2004年 潮出版)や『だいこん』(2005年 光文社)、『菜種晴れ』(2008年 中央公論社)などのひとりの女性が苦労しながらも成功していくようなものと同じではあるが、女流作家ならではの細やかさと情話に満ちた作品で、文学性は別にしても、何度も感涙させられるいい作品だということであった。

主人公の「澪」が、決して美人とは言えないような、丸顔の下がり眉、目は鈴のようであるが小さな鼻は上向きで、緊張感のない顔つきをしているが、その心根がとびっきりいい娘であるというのもいい。時折「澪」に大事なことを教える「小松原」という謎めいた武士で、「澪」が秘かに恋心を抱いている人物から、「よお、下がり眉」と言われたりする。この「小松原」という武士は、このシリーズの中で大きな役割を果たしていく人物である。

 「澪」は、漆塗職人の娘として大阪生まれの大阪育ちだが、八歳の時に淀川の水害で、目の前で両親が流されていくのを見たのである。そして、両親をいっぺんに亡くし、天涯孤独の身となって市中をさまよい、空腹でたまらずに屋台の食べ物に手を出してしまい、ひどく折檻されているところを、居合わせた女性に助けられる。彼女を助けた女性は、大阪一の料理屋として名高い「天満一兆庵」の女将の「芳」で、女将としての器量も情の深さもある「芳」によって、そのまま「天満一兆庵」の奉公人として働くことになる。

 小さな子どもが運命に翻弄されて苦労し、心ある人によって助けられていく姿を描写するこの辺りのところで、わたしは何度も本を閉じて天を仰ぐことを繰り返さざるを得なかった。分かっていても感涙する。

 「澪」は奉公人として女衆(客を案内したり料理を運んだりする仕事)の仕事をしていたが、ある時に、天性の味覚を「天満一兆庵」の主人の嘉兵衛に見込まれ、板場に入って料理人としての修行を始める。女が板場に入ることは嫌われ、料理人とは認められない世界で、「澪」は嘉兵衛によって仕込まれていく。だが、禍福はあざなえる縄の如しで、その「天満一兆庵」が火事で焼けてしまうのである。

 そこで、嘉兵衛の息子の佐兵衛が江戸で支店を出していることを頼って、嘉兵衛と芳、そして天涯孤独である「澪」は江戸に出てきたのである。ところが、その佐兵衛は身を持ち崩して行くへ不明で、江戸店はなく、やむを得ずに神田御台所町の裏店で細々と暮らすことになったのである。「天満一兆庵」の再建を夢見ていた嘉兵衛は、その心労が重なって、その夢を「澪」に託して死んでしまい、今は、18歳になる「澪」と48歳の芳の二人暮らしである。芳もまた心労が重なって病気がちであり、「澪」は、その芳を助けて、煮売り酒場の洗い場などで働いて、細々とした暮らしが続いていた。

 そして、ある時、その長屋の近くにある祟りがあるから「おばけ稲荷」と呼ばれる稲荷が草ぼうぼうの荒れ果てたものとなっているのを、「澪」は、誰に言われたわけではないが、独りで黙々ときれいにしていくのである。その姿を見ていた種市という老人が「澪」を自分が営む蕎麦屋で働かないかと勧める。

 種市は、17歳で亡くなった「つる」という自分の娘を「澪」の姿に重ねて、「澪」に温かく接していく。「澪」は種市の「つる屋」で「澪」に料理を作らせたりする。だが、「澪」の作る料理は上方風の味つけで、客に喜ばれなかったりする。しかし、種市は「澪」が料理のために使う材料が無駄になっても、「澪」を温かく見守っているし、その店に時折やってくる「小松原」という侍も「澪」の料理を「面白い」といって励ましたりする。そして、種市が腰を痛めて動けなくなってしまい、店を任されていくようになる。

 こうして「澪」は、料理で苦労しながらも蕎麦の出汁で使った鰹節を使った「ぴりから鰹田麩」というのを作り、それが評判になっていくし、テングサから直接作る「ひんやり心太」や「とろとろ茶碗蒸し」というのを考案したりして評判をとっていくが、江戸料理番付の大関といわれる一流料理屋の「登龍楼」の妬みを買っていく。

 「登龍楼」は、「澪」が作る料理で評判になった「つる屋」を潰すために、嫌がらせをしたり、あげくには付火をして焼失させたりする。「つる屋」が焼失して、失意のどん底から、芳や同じ長屋の夫婦である大工の伊佐三と妻のおりょうなどからの励ましを受けて、焼け跡で「ほっこり酒粕汁」というのを作って売り出したりして、再起を図っていく。

 本作には、その他に、芳が倒れたときに助けた御典医の息子の永田源斉という好青年医師が登場し、「澪」に食が医であることを教えたり、「澪」を影から応援したりするし、五歳の時に火事で両親を亡くし、大工の伊佐三とおりょうの夫婦に引き取られて育てられるが、火事のショックで言葉を話せなくなっている太一という子どもが登場したり、おりょうが太一の心底可愛がっている姿が描かれたりする。

 また、吉原一の美貌をもつと謳われる花魁で、「幻の花魁」と言われる「あさひ太夫」のことが記される。「あさひ太夫」に会うことがなかなかできず、「あさひ太夫」と枕をかわせば大成功すると信じられているのである。そして、この「あさひ太夫」が、実は、「澪」の幼友だちの「野江」で、「野江」は舶来品を扱う淡路屋の末娘で、子どもの頃から美貌の持ち主であると同時に、利発ではっきりと物言いをし、「澪」のことを案じる大の仲良しだったのである。子どもの頃に天下取りの相である「旭日昇天」の相があると占い師に言われたりした。だが、あの淀川の水害で、彼女の運命も変わってしまったのである。

 そして、自分であることを告げずに、「つる屋」が付け火で焼失し、失意のどん底にあった「澪」に、黙って100両もの大金を出し、「澪」が再び料理への情熱を取り戻すきっかけを与えるのである。その時に、「澪」は、「あさひ太夫」が「野江」であることに気づく。

 そのうちに種市も正気を取り戻して、店の再建をしようとするところで本作は終わる。巻末には本作で出てくる料理のレシピが付録として付けられている。

 これは、心根がまっすぐな人たちの物語である。それだけに、真実に生きようとすればするほど苦労をする。だが、それを温かみで包む物語であると言っていい。わたしは、どちらかと言えば単純な成功譚はあまり好きではないが、この作品は良い作品だと思っている。

2014年2月10日月曜日

稲葉稔『町火消御用調べ』

土曜日(8日)は一日中雪が降り続き、20㎝ほどの積雪となって、昨日は朝から雪かきをしたりした。梅が一~二輪ほどほころび始めていたが、まだまだ寒さに震える日々が続いている。春はまだ遠い。

歴史時代小説を読むのは、わたしにとっては一つの娯楽ではあるし、読む作家もランダムに読むようにしているが、それでも、やはり、傾向や好みというものがあると思いつつも、稲葉稔『町火消御用調べ』(2009年 角川春樹事務所 ハルキ文庫)を読んでみた。

この作家の作品も初めて読むが、作者の稲葉稔は、1955年に熊本で生まれ、脚本や放送作家などをされた後に、1994年に作家デビューされ、ハードボイルドタッチの作品なども書かれているようだ。この作品にも、そういうハードボイルド作品のようなものを感じる。

本作は、江戸八丁堀近郊を担当する町火消しの「直次郎」という人物を主人公にした作品で、直次郎は、きっぷもいいし、情もあり、観察眼にもすぐれた人物である。彼は古道具屋の息子として生まれたが、彼の曽祖父が元御家人であったことから、侍に憧れ、しかも八丁堀の同心に憧れて、剣術の稽古に熱心になったりもした。しかし、御家人株を買い戻して侍になったからといって、それで生活が成り立つわけでもなく、ましてや奉行所の同心などにはなれないことを知り、ふて腐れて非行に走った。だが、そうして悪びれていた日に、彼の家は火事になり、両親と店を失い、親戚の家に預けられて育った。その悲嘆に暮れている時に、著名な町火消しの新門辰五郎の話を元町火消しをしていた飲み屋の伝七という主から聞き、魅了されて、町火消し「百」組の門をたたいたのである。

江戸の町火消しは、改めてここに書くこともないが、享保3年(1718年)に当時の南町奉行をしていた大岡越前守忠相の提案を八代将軍の徳川吉宗が受け入れて発足したものである。そのとき、各町内から30人の人足を出して、いろは四十八組の町火消し組織ができ、火事を連想したり語呂の悪い言葉であったりした「ひ」を「千」に、「へ」は「百」、「ら」は「万」、「ん」は「本」に変えて呼ぶことになった。また、本所と深川には、これとは別に一番から十六組までが置かれ、その後、いくつかの編成替えがあって、大人数を繰り出すことができるように大組に統合されたりしている。直次郎が所属する「百」組は八丁堀全域を担当する町火消しであった。

直次郎は、若い頃は粋がって喧嘩早い人間だったが、「百」組の頭取である三代次から手ひどく叱られて、心を入れ替えて町火消しをする人間になっていったのである。また、彼が侍と喧嘩して手ひどくやられたときに介抱してくれた「菜乃花」という茶漬屋の「おさき」のところに四六時中行っている。「おさき」は、三十歳を過ぎた美人で、亭主を亡くしてから茶漬屋を開き、情に厚くて気っぷのいい女性で、ポンポンと言いたいことを言うさっぱりした女性であるが、直次郎と男女の関係にはない。

こういう登場人物と背景の中で、直次郎を目の敵にしていた性悪な岡っ引きの弥吉が殺され、しかも直次郎の鳶口が凶器として使われる事件が起こるのである。直次郎と岡っ引きの弥吉とは、弥吉が路上で若い女性を掏摸の疑いで捕らえて尋問しようとしているところに直次郎が行き会わせて、それを止めたということからの因縁があり、弥吉は陰湿に直次郎を苛めていた。

その弥吉が殺され、しかも直次郎の鳶口が使われ、直次郎に疑いがかかる。それで、疑いを晴らすためには真犯人を自分で見つけるしかないと、直次郎はその事件の真相を追うことにしたのである。そして、さんざん苦労して、真犯人にたどり着く。犯人は、弥吉にひどい目に遭わされている人物だった。そのことから、直次郎を見込んだ奉行所同心の川辺周三郎に目をかけられて、川辺が扱う事件の探索の手伝いをするようになっていくのである。

また、付け火(放火)と思われる火事が起こり、奉行所の火事場人足改めの与力である大河内彦四郎から、付け火の犯人の探索を頼まれて、その犯人を捜していく。この話では、貧窮を究めた屋根張り替え職人が、仕事をもらうために付け火をしようとする過程が描かれるので、その男が犯人のように思われるが、実はどんでん返しが仕掛けられているというミステリーの手法がとられている。

こうして、町火消の直次郎が奉行所定町廻り同心と火事場人足改め与力の両方から、様々な事件の探索を依頼されるようになるという、このシリーズの発端が本書で描かれているのです。また、直次郎が入り浸る茶漬屋「菜乃花」の女将の「おさき」と、彼が岡っ引きの弥吉の手から助けた娘の百合というなかなかの女性が登場して、物語に味を添えている。

本作で事件を起こす人間は陰湿に描かれる。主人公の直次郎も悩みを抱える人物として描かれたりもする。だから、明朗快々という作品ではないが、作品の出来は悪くない。このシリーズでは、今のところもう一冊が出ているようだから、機会があれば読んで見ようと思っている。

2014年2月6日木曜日

浅黄斑『火蛾の舞 無茶の勘兵衛日月禄2』(2)

 火曜日(4日)には雪が舞い、節分を機に春めいていた天気から一転してすこぶる寒い日々が続いている。ある方がこれを称して「ジェットコースター天気」と言われていたが、なるほど、と思う。寒いと心も体も縮こまる。

 さて、浅黄斑『火蛾(かが)の舞 無茶の勘兵衛日月録2』(2006年 二見文庫)の続きであるが、図らずも大和郡山藩の内紛に巻き込まれた形になった「無茶の勘兵衛」こと落合勘兵衛は、日高信義の依頼で、本多政長の毒殺者として送り込まれていると思われる医者の片岡道因とその息子の動向を探ることにする。

 この日高信義という老人もなかなか味のある人物で、彼らが打ち合わせ場所として使っている料亭「和田平」の女将の「小夜」は、実は日高信義の娘で、日高信義の妾腹の子であった「小夜」が、母を亡くして彼を頼ってきたので、「小夜」のために料亭をもたせているという酸いも甘いも噛み分ける人物である。勘兵衛は「和田平」で出される初めてのうまい料理に驚いたりする。「小夜」は料亭の女将としても一流の腕をもっていた。

 ある日、勘兵衛が片岡道因の後をつけてみると、道因は、俳諧師の高橋幽山という人物の家に出入りし、俳諧の集まりを利用して、暗殺を命じた深津内蔵助と連絡を取っているようだとわかり、その幽山のもとで俳句を習っている「かぶき者」(派手な衣装をして人目を引く者)の竹下侃憲(ただのり)という少年と出会い、様子を探ることにする。

 竹下侃憲はまだ14歳の少年ながら、一風変わった「かぶき者」で、小料理屋に出入りしたり酒を飲んだりするが、彼は、実在の人物で、後の松尾芭蕉の弟子の其角(きかく)で、高橋幽山の所には松尾芭蕉も集まっていた。

 他方、勘兵衛を人物と見込んでいる越前大野藩の江戸留守居役である松田与左衞門は、勘兵衛のために役宅を用意し、しかも、若党(書生のように仕える青年)と下男も用意して、さらに勘兵衛が動きやすいように取りはからったという。勘兵衛の若党となったのは、松田与左衞門の用人をしている新高陣八の次男で、16歳になる新高八次郎である。勘兵衛はこの新高八次郎と越前大野に残している弟の藤次郎が同じ年であることから、不思議な縁を感じたりするし、下男の長助は、松田与左衞門の所で長く働いていた人物で、世知に長けて機転が利く人物であった。

 勘兵衛は、役宅は役宅として、これまでと変わらずに菓子屋の「高砂屋」の二階に居候として暮らすことにし、若党の新高八次郎を片岡道因が出入りしている俳諧師の高橋幽山のところに俳句を習いに来たという名目で送り込むことにする。

 そうしているうちに、大和郡山藩の藩主である本多政長の参勤交代による国帰りの日が近づく。そして、突然、政長が帰国の途中の熱海でしばらく湯治したいと言い出すのである。政長は幼少の頃から押し込め同然に育ったこともあって、性格がひどくねじれ、我が儘で、藩主のこうした気まぐれは家臣をあわてさせるが、やむを得ないことになるし、熱海は、老中酒井忠清と対立する稲葉正則の所領で、稲葉正則としては政長に同情的であったことからも、これを許可したのである。そして、これが暗殺者たちに隙を与えていくことになる。

 それはさて置いて、ある夜、勘兵衛は「和田平」からの帰りに、二人の男が五人のヤクザ風の男たちに襲われているのに出くわし、その二人の男を助ける。その時、助けたのが「千束屋」という「割元」(人材派遣の口入れ屋・・江戸では桂庵とも呼ばれた)を営む千束屋政次郎で、もう一人は、剣術道場の同門である武士で、千束屋が用心棒として雇っていた人物であった。千束屋は百人近くの寄子(人足)を抱えるかなり力のある人物であったし、勘兵衛が居候している「高砂屋」で食事の世話をしてくれる娘を世話していたこともあり、勘兵衛は千束屋と親しくなる。

 この千束屋には、16歳になる「おしず」という美しい娘がおり、若い勘兵衛が少し心を動かされたりする。千束屋は勘兵衛の人物と剣の腕に惚れ込み、自分の用心棒になってくれないかと依頼する。幕府の政策で日雇い人夫を束ねる日雇座ができ、高額の礼銭をとるようになった日雇座支配が、対抗する千束屋の命を狙っているというのである。しかし、主家から密命を受けている勘兵衛はその申し出を断るが、千束屋との交情は続けることにする。この千束屋が勘兵衛の手足となって大きな働きをしていくようになるのである。

 この辺りは、まことに人の出会というものを感じるものになっており、勘兵衛のもとにはなかなかの人物たちが自然に集まってくるようになるのである。今の時代では、人の恩義を感じて礼を尽くしていくような人にめったに出会うことはないが、「情けは人の為ならず」なのである。

 他方、落合勘兵衛と意を通じている大和郡山藩の別所小十郎は、勘兵衛から依頼された山路亥之助の行くへを探していて、彼が柴任三左衛門のもとで剣術の稽古をつけてもらっていることを突きとめ、勘兵衛はさっそく柴任三左衞門の所を訪ねる。柴任三左衞門は、優れた剣客で、宮本武蔵の二天一流を継ぐ三代目で、元は肥後熊本藩士だったが、加藤家が改易となり、浪人し、江戸に出てきて道場を開き、やがて福岡藩に召し抱えられたがすぐに辞めて、本多家に四百石で招聘された人物で、一流の剣客らしく、山路亥之助の剣は、「あそこまでの剣でしかない」と語る。山路亥之助は一足違いでそこを出ていた。この柴任三左衞門と落合勘兵衛が二十年後に再会するという一文が添えられて、本書が長大な構想をもつ作品であることを伺わせる。

 また、落合勘兵衛の友であった塩川七之丞が越前大野から江戸遊学に出てきて、林鵞峰の「弘文院」(後の昌平坂学問所)に入門をゆるされたという。落合勘兵衛と友人の伊波利三は塩川七之丞に会いに出かけて、旧交を温める。そこで藩主の嫡男の近習をしている伊波利三から、嫡男の直明の素行がひどく、気に入らない家臣は手討ちにするし、女狂いも激しくなっていると聞く。しかし、「君、君足らずとも、臣、臣たらざるべからず」である。伊波利三の苦悩はそこにあった。七之丞は勘兵衛が想いを寄せていた「園枝」の兄で、「園枝」に手紙を書いてくれと勘兵衛に頼む。勘兵衛は自分の恋は秘していたが、そうしようと思ったりする。

 そうしているうちに、千束屋が、山路亥之助が江戸市中で腕の立つ浪人を集めていると聞き込んできて、山路亥之助が暗殺者として参勤交代途中の本多政長を襲うことに気づいていく。弓を使う者や鉄炮を使う山猟師も雇っているという。その探索が詳細に展開されていくが、勘兵衛はその考えを大和郡山藩の日高信義に話し、江戸家老の都筑惣左衞門と会って、その襲撃を防ぐ善後策がとられるようになる。

 勘兵衛の主筋である松田与左衞門から、山路亥之助もまた、哀れな人間であるといわれ、勘兵衛は、亥之助の父が藩内抗争に敗れて、その劣勢を挽回するために、これまで敵であった家老に近づき、あげくの果てに、私利私欲に走ったその家老の走狗となって果てたことに思い至る。亥之助は、なんとか自分の家の再興ができないかと焦っているだけであると思い至っていく。

 しかし、暗殺集団を率いて山路亥之助は熱海で本多政長を待ち受ける。だが、その計画は既に発覚し、一味は未遂で小田原藩士に捕縛される。だが、亥之助はいち早くそれを察して逃げ去る。そして、事柄を公にできないことから八方を丸く収める策がとられ、何も知らずに亥之助に雇われていた一味も放免される。そして、勘兵衛は、事態の調書作成のために、老中の稲葉正則に会う。この時に作成された調書が、後の幕政に思いがけない影響を及ぼすことになる、という後の展開を示す一文がここでも記されている。

 だが、大和郡山藩を乗っ取る画策をしている本多政利とその家老の深津内蔵助の野望は終わってはおらず、勘兵衛と日高老人の交流は続くし、そればかりではなく、大和郡山藩の家老の都筑惣左衞門は、勘兵衛を譲り受けたいと松田与左衞門に申し入れるのである。

 もちろん、勘兵衛はその申し入れを断る。だが、都筑惣左衞門は勘兵衛がだめなら、その弟の藤次郎を、と願い出て、勘兵衛はそれを承知していく。藤次郎と「園枝」に手紙を書かねば、と思うところで、本作が終わる。

 本作で描かれる勘兵衛は、とても二十歳前後の青年とは思えない成熟した姿で、青年らしさが時折描かれるものの、やはり無理があるのかもしれないと思ったりもするが、展開と描写が丁寧で登場人物も多彩になってきた。ひどい人間になった藩主の嫡男の直明との折り合いなども今後の見所となるだろう。

 この作品には、いろいろな作品の要素を感じるが、主人公は、やはり、藤沢周平の『用心棒日月妙』の主人公「青江又八郎」を思わせるものがある。そして、それと同じように面白い。