2011年1月31日月曜日

山本一力『牡丹酒 深川黄表紙掛取り帖(二)』

 よく晴れてはいるが、この冬一番の寒気団の襲来で空気が冷たく寒い。昨日は福岡の実家でも20㎝ほど雪が積もったそうだし、熊本からもとても寒いというメールをいただいたりした。日本海側は大雪で、霧島では火山の噴火が続いており、列島が震撼している気さえする。

 ただ、個人の生活というのは、いつでも、どこでも、どんなときも、日常の喜怒哀楽が主で、土曜日の深夜にサッカーのアジア杯の日本とホーストラリア戦のテレビ中継を見続け、素晴らしいボレーシュートに感嘆したりし、昨夜は、日中の疲れも覚えて早々にベッドに入り眠りを貪っていた。

 それでも、山本一力『牡丹酒 深川黄表紙掛取り帖(二)』(2006年 講談社)を一気に読んだ。この作者は、他の作品でもそうだが、文章と展開のリズムが絶妙で、内容も痛快だから、長編でも一気に読ませる力量があり、この作品もそのリズムに乗って読み進めることができた。

 これは、夏ばての薬を売り歩く「定斎売り」をしている蔵秀(ぞうしゅう)、印形屋の次男で文章と計算にたけて絵草子本の作者を目指している辰次郎、酒好きだが明晰な頭脳と図抜けたアイディアを出す飾り提灯の職人である宗佑(そうすけ)、そして、小間物問屋のひとり娘で、勘所が鋭く、見事な絵やデザインを書く雅乃(まさの)の四人の若者の活躍を描いた『深川黄表紙掛取り帖』(2002年 講談社)の2作目に当たるもので、本作では、この四人が土佐の銘酒と鰹の塩辛をいかに大阪や江戸で売りさばいていくかを工夫していく展開になっている。

 蔵秀の父親で山師の雄之助が杉の手配のために行った土佐で、旨い辛口の酒と鰹の塩辛に出会い、これに惚れ込んで、江戸にもって帰り、これを江戸で広めたいという。相談を受けた蔵秀は、紀伊国屋文左衛門を通して幕府老中の柳沢吉保に取り次ぎ、それによって柳沢吉保はこれまでの土佐藩に対する見識を改め、紀伊国屋文左衛門と共にその銘酒と塩辛の江戸での販売に手を貸すことになる。

 蔵秀たち四人は、紀伊国屋文左衛門の後ろ盾で土佐藩の命を受け、これを土佐から江戸まで運ぶ工夫を重ね、仕入れのために土佐に行くことになり、途中、「出女」を禁じた箱根の関所で雅乃が苦労したりするが、土佐の土地の人たちからも気に入られて仕入れに成功し、まず、大阪で見事な飾り提灯を作って売り出し、次いで、江戸でも大仕掛けの宣伝をして売り出しに成功していくのである。

 この土佐までの往復の旅で、蔵秀と雅乃の仲が縮まり、二人は夫婦になることになるし、飾り提灯職人の宗祐は、土佐で知り合った子持ちの女性に思いを寄せていくようになる。そうした恋の事情を挟みながら、蔵秀の判断力と人間力、雅乃の立ち居振る舞いや魅力、飾り提灯造りにかける宗佑の情熱などがいかんなく発揮されて、青春活劇を観るようにして物語が展開されていく。

 この作品の中で、作者は土佐の風土と人柄を高く持ち上げている。作者が土佐(高知県)出身であることを割り引いても、「意気に感じる」というような人間模様が確かにあったのかも知れないと思わせるものがここにはある。「意気に感じる」というのは、今日ではほとんど皆無に近いような人間関係のあり方ではあるが、貴重な生きる姿勢ではあるだろう。

 「意気に感じる」ためには、双方の呼吸が必要だが、その呼吸が損得の利害によって乱れているのが昨今であるだけに、「意気に感じて」動く人々を描いた作者の作品世界は、一つの理想となり得るのかも知れないと思ったりもする。

 本書の終章で、ようやく蔵秀と雅乃の結婚が決まり、宗佑は土佐に旅立つことになって、一応の四人の青春物語に結末がつけられた感じだが、この四人が、江戸の広目屋(広告屋)として商人を相手に活躍していく姿をさらに見てみたい気もする。

2011年1月29日土曜日

千野隆司『主税助捕物暦 天狗斬り』

 晴れているがすこぶる気温が低い。3日間ほど、この冬一番の冷え込みが予想されている。霧島の火山の噴火が伝えられ、鳥インフルエンザと共に九州南部はたいへんな事態だろうと察している。

 昨日はエジプトでも政変を求める大きなデモがあり収拾がつかなくなっているという。1980年ごろから世界の構造が徐々に変化してアフリカ北部やアラブ諸国に至っているという気がする。この全世界的規模の構造変化の先行きに予測がつかないわけではなく、悲観的な思いも強くある。

 閑話休題。千野隆司『主税助捕物暦 天狗斬り』(2005年 双葉文庫)を、仙台からの帰りの新幹線の中で読み始めて、帰宅した夜に読み終えていたので、記しておくことにした。文庫本のカバーの裏書によれば、これはこのシリーズの2作目ということで、1作目はまだ読んでいないが、本書で時折触れられる1作目の内容から推測して、1作目の方が主人公の北町奉行所定町廻り同心である楓山主税助(かえでやま ちからのすけ)の姿が丹念に描かれた力作ではないかと思ったりする。

 だがそれは、この作品で作者が主人公の姿を描ききっていないというのでは決してない。作者は変わらずに丹念に物語を展開するし、表現の巧みさもあるし、構成力も優れている。ただ、主人公の楓山主税助は、惚れて結婚した妻の美里との間に七歳になる娘の由衣があるが、四年前に五歳の長男を病で亡くし、二年半ほど前に、妻の美里が身ごもったとき、小料理屋の女と浮気している。そのとき、妻の美里が雪の降りしきる夜に夫が浮気している小料理屋を外から眺め続けて流産している。それ以来、妻との関係はすきま風が吹いている。主人公はそれを背負っているのだが、そのあたりのことが1作目で描き出されているのではないかと思ったからである。

 自分が犯した過ちとはいえ、重荷を背負った人間にはその重荷の分だけ重さがあり、その重さが人を深くするので、作者はそれを描き出しているだろうと思えるからである。

 とは言え、本書で展開される事件の捜査の顛末も、実に丹念に描き出され、どんでん返しのような結末もあって、これはこれでよく構成された作品だと言えるだろう。

 発端の事件は、島送りのために囚人を乗せた唐丸駕籠が何者かに襲われ、ひとりの罪人が逃げた他はすべて斬殺されるというものである。その罪人は、かつて、喧嘩騒ぎで大工職人を殺すつもりもなく殺してしまった蝋燭問屋の用心棒で、主人公の楓山主税助が取り調べたものだった。事件そのものは用心棒の島送りで決着がついたはずであったが、その用心棒が奪還される事件が起こり、楓山主税助は自分の取り調べに手抜かりがあったことを知らされ、逃げた用心棒を捕らえ、唐丸駕籠を襲った賊を捕らえることを命じられる。

 唐丸駕籠を襲った賊は「天狗」と呼ばれる正体不明の凄腕の浪人である。手抜かりを自覚して重荷を負う楓山主税助は、最初の事件を一から調べ直すことから初め、そこに「天狗」を中心にした強盗団の匂いをかぎつけていく。だが、「天狗」は凄腕で、なかなかその正体がわからない。楓山主税助も若いころから剣術の修行を積み、鏡新明智流の達人であり、秘伝の剣を伝授されているほどだったが、「天狗」の腕はそれに勝るかも知れないと思われた。彼が習得した秘伝の剣「燕飛(えんび)の剣」は窮地に追いやられたときの最後の剣である。

 同心としての楓山主税助は、試行錯誤を繰り返しながらも徐々に真相に迫っていく。その操作の過程が、ひとつひとつ皮をはがしていくように丹念に描かれる。そして、「天狗」は思いもよらなかった人物であり、楓山主税助は、最後にこの「天狗」と対峙し、究極の剣技である「燕飛の剣」を用いてかろうじて「天狗」との勝負に勝ち、逃げた罪人を捕らえる、というものである。

 その合間に、会話のなくなった主人公の夫婦関係を巡ることや、娘の由衣をとおして何とか夫婦関係の修復を試みようとすることなどの個人的な問題が綴られていく。そのあたりの呼吸は絶妙である。

 作者には、同心物として『南町同心早瀬惣十郎捕物控』というシリーズがあり、その主人公夫婦も溝のある夫婦として描かれているが、本作では、それが主人公の浮気によって胎児が流れてしまうというさらに重いものとなり、主人公も本作では剣の達人として、幾分剣豪小説のように設定されている。

 個人的な好みからいえば、どちらも丹念に描かれているが、『南町同心早瀬惣十郎捕物控』の方が、妻が明快な楽天性を備えていることもあって、面白いのではないかと思っている。しかし、推理のどんでん返しもあって、この作者の構成力は最近の捕物帳的な時代小説の中では群を抜いているような気がする。

2011年1月27日木曜日

坂岡真『ぐずろ兵衛うにゃ桜 忘れ文』

 相変わらず寒い日々が続いているし、今週末は寒さが一段と厳しくなるという予報も出ている。以前から懸念されていた強毒性の鳥インフルエンザでたくさんの鳥たちが死んでいる。今のところ日本でこの鳥インフルエンザが直接人間に感染したという事例は聞かないが、既に世界では事例のあることである。ウィルスに対してはワクチンなどによって免疫力を高める方法が採られているが、ウィルスに対してだけでなく、何に対しても「免疫力」は必要で、つまるところは経験値を高めることかも知れないと思ったりもする。しなやかに揺れることができる木は強風にも倒れない。

 25-26日と仙台まで仕事で出かけていた。日陰には雪が残っていたが、心づもりもあったので思ったほど寒さを感じないですみ、往復の新幹線の中で、坂岡真『ぐずろ兵衛うにゃ桜 忘れ文』(2008年 幻冬舎文庫)を結構おもしろく読んだ。

 坂岡真の『うぽっぽ同心シリーズ』が主人公の温かみを中心にして構成された好シリーズだったので、表題から、そのシリーズの主人公以上に、出世や世間的評価とは無縁のところで生きている人間を主人公にした作品だろうと思って読み始めた次第で、思っていたとおりに、なかなか味のある主人公の姿が設定されていた。

 主人公の六兵衛は、親代々の十手持ちだが、祖父も父も、大酒飲みで、雪の降りしきる夜に酒を浴びるほど飲んで、桶屋の棺桶を湯船と勘違いして入ってしまい、そのまま凍死したといういわくつきで、浅草の仲見世大路の一画で流行らない海苔屋を営む祖母と暮らし、朝から晩まで寝てばかりで、近所の子どもたちからさえも「ぐずろ兵衛」と馬鹿にされるが、いっこうに気にする気配さえない人物である。背中に彫りかけの吹雪かない桜吹雪の刺青があることから「うにゃ桜」とも呼ばれている。

 彼の母親は六兵衛がまだ乳飲み子だったころ、若い男を作り逃げ出し、父親はその淋しさを酒で紛らわし、祖父と同じように桶屋の棺桶の中で凍死したのである。三代に渡っての阿呆というのであるが、それはただ、出世や手柄をあげたところであまり意味がないということを骨の髄から知っているというだけなのである。

 その「ぐずろ兵衛」である六兵衛に、浅草の門前小町といわれるほどの美女の家から婿養子の縁談話が舞い込む。相手は「七福」という損料屋(レンタル業)の「おこん」で、その父親の庄左衛門が祈祷師の験を担いで六兵衛に白羽の矢を立てたのだという。「おこん」と結婚した六兵衛は庄左衛門が営む裏店の木戸番小屋に住むことになる。しかし、結婚はしたものの契りは結ばせてもらえずに、六兵衛はていよく使われるだけで、どうも損料屋の庄左衛門には裏がありそうである。

 そのころ、蔵前の札差の大店で200両の金が盗まれるという事件が起こる。盗んだのは粋な盗みをし続けている「白狐」と呼ばれている一団らしい。しかし、「ぐずろ兵衛」である六兵衛にその事件の探索が依頼されるはずもないが、その盗まれた札差の若旦那が放蕩の果てに行方不明になっているから探すようにと彼に十手を預けている町廻り同心の浦島平内から依頼される。

 その浦島平内の言葉が振るっている。「世の中にゃ、おめえみてえなのも必要だ。ぐずだのろまだと言われても、平気な顔でのんべんだらりと暮らしていやがる。ことにな、江戸ってのは忙しねえところだ。せっかちな連中ばっかだし、火事だ喧嘩だとすぐに騒ぎたがる。男も女も年寄りも格好をつけたがり、何かにつけて粋だ野暮だときめつけたがる。春の野っ原で欠伸をしているようなやつを見掛けると、ほっとするぜ。それがな、おめえなのさ。おめえはよ、牛みてえな平和な面をさらしているだけで、充分他人様の役に立っている。おれにゃ、そうおもえて仕方ねえのさ」(22ぺーじ)と平然と言う。

 ここに、こういう主人公を設定する主旨がある。それは江戸ではなく、今の東京の姿であり、日本中が東京に真似てきているので日本中の姿でもあるが、作者は、「無為の存在の価値」をこの主人公を描くことで強調したいと思っているのだろうし、わたしもこうした考えには諸手を挙げて賛成したい。

 札差の放蕩息子の探索をはじめた六兵衛は、その札差を強請ろうとする男に拐かされていることをつきとめ、若旦那を救い出すが、そこにはさらに札差に大金を借りている旗本の計略があることを知り、土壇場で小知恵をひねりだして窮地を脱していく。この探索というのも、格別何かを探り出そうとするのではなく、ただのんびりとした顔を出すことで事態が変化していくだけである。しかし、それによって六兵衛は事件の真相に近づいていくのである。

 六兵衛に息子を助けられた札差も一筋縄ではいかない強突張りで、次にその放蕩息子を勘当し、大金を貸している旗本と姻戚関係を結び、旗本を出世させて旨い汁を吸おうと企むおである。しかし、旗本が邪険にした用人から殺されてしまい、札差の企みは水泡と帰す。

 そんなことがあった後で六兵衛の祝言が行われ、彼は持参金として、札差から白狐が盗み出したといわれる小判と同じ小判で200両を受け取ったりしながら、嫁の「おこん」とはなんだかんだと言い逃れられながら契りも結ぶことなく、通称「どろぼう長屋」と呼ばれる蛇骨長屋の木戸番をしながらのんべんだらりと生活している。

 しかし、どうもその蛇骨長屋に住む住人たちは、裏がありそうで、博打場の壺降りの亭主が残した20両もの大金を盗まれた菜売りの女性の事件や、白狐をかたって悪質な強盗殺人を企む人間と関わりながら(第二話「どろぼう長屋」)、あるいは、六兵衛の父親が温情をもって島送りにした男が御赦免になって江戸に戻ったことから強盗団の裏切りによる復讐事件などに関わり(第三話「舐め猫」)、なぜかしらいつも舅である庄左衛門や長屋の住人に助けられて事件の解決に導かれていくのである。庄左衛門には裏があり、六兵衛は、庄左衛門にていよく利用されていく。しかし、六兵衛は、庄左衛門と蛇骨長屋の住人たちが粋な強盗団である白狐であることに薄々気づいている。

 表題ともなっている第四話「忘れ文」は、ふとしたことで手に取った本の間から見つけた懸想文(恋文)を持ち主に返そうとして元の持ち主を探し始め、そこにその恋文をもらった若侍と、恋文を書いた女性との間に起こった悲恋を知っていくというもので、若侍は友人の仇討ちに助成して返り討ちにあって死に、恋文を書いた女性は、家の没落で身売りして場末の遊女となっているという境遇の中で、六兵衛の働きで、お互いの思いが届いたことを知って、それが生きる励ましになっていくという話である。そして、それによって契らないままで夫婦である「おこん」との距離も少し近づいたようになるところで終わる。

 物語の基本的な線が、愛情とかゆるしとか、人の温かみとか、あるいは生きる励ましとかにあって、ひとつひとつの場面が、自分が利用されていることを薄々知りつつも、それもよしとして、無用を平然と生きる主人公の姿を通して描き出されるので、なかなか味わい深くなっている。物語の展開に安っぽさが少し漂うのも、主人公のゆえにゆるされるとことがあるような気がするのである。

 それにしても、JR東日本が全席禁煙で、喫煙場所がホームに一カ所しかないから混雑していてよけいにひどく、わたしのような喫煙者には旅が苦行のようになってしまい、列車を用いることを敬遠したくなる。

2011年1月24日月曜日

米村圭伍『錦絵双花伝』

 冬型の気圧配置で寒い日々が続いている。長く寒い日々が続いている気がするのは、こちらの体調管理がうまくいっていないからだろう。宮崎県で41万羽もの養鶏が鳥インフルエンザのために殺処分されたというニュースも伝わる。強毒性をもつウィルスと人間の医学的・生物学的対処は「いたちごっこ」のようなところがある。ウィルスだけでなく豪州や南米の洪水もそうで、まるでパニック映画のようなことが現実となり、人はいつも、何事にも、その時々にその時々に合わせて対応するしかできないものだと、痛感したりもする。個人的には、良寛さんよろしく「災難に遭うときは災難に遭うがよく候」と思ってはいるが。

 閑話休題。米村圭伍『錦絵双花伝』(2001年 新潮社)を、歴史の虚実を絶妙にないまぜた作品だと感心しながら面白く読んだ。これは前に読んだ『風流冷飯伝』(1999年 新潮社)、『退屈姫君伝』(2000年 新潮社)に続く3作目の作品で、前作で登場した幕府お庭番倉知政之助の手先として働く女忍者の「お仙」が、成長して美女となり、明和(1764-1772年)の三美人のひとりとして名高かった「笠森お仙」として評判を得、特に、自分の出生の秘密と合わせて、田沼意次の息子の意知と対決していくという奇想天外な物語である。

 「笠森お仙」は、錦絵(多色刷りの浮世絵)で有名な鈴木春信(1725頃-1770年)がモデルとして描いた実在の人物で(1751-1827年)、浅草の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたやおよし)とともに江戸の三美人(明和三美人)のひとりとして一世を風靡した女性である。

 彼女は、人気絶頂となった1770年に突然に谷中の笠森の水茶屋「鍵屋」から姿を消したが、実際は、幕府お庭番の旗本で笠森稲荷の地主でもあった倉地甚左衛門の許に嫁いで、九人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたと言われている。本作のどこか茫洋としたお庭番である倉知政之助は、この倉知甚左衛門である。

 前作の『退屈姫君伝』で、笠森の水茶屋「鍵屋」を起こしたのが倉知政之助の父親であることが記され、その手先の「お仙」が「鍵屋」の茶汲み娘として働くというのも、こうした歴史的下地のある仕掛けで、それが美女の「笠森お仙」となるというのも、虚実を混ぜた仕掛けなのである。

 また、本書で「お仙」の出生の重要な鍵となる者として描かれる浮世絵師の鈴木春信も、姓は穂積、通称次郎兵衛で、平賀源内とも親交があり、本書で「笠森お仙」を美女として売り出した者とされる大田直次郎も、後に幕府勘定所支配勘定にまで出世し、「四方赤良(よものあから)」や「寝惚先生(ねぼけせんせい)として随筆や狂歌、洒落本などを書いた大田南畝(1749-1823年)である。

 こうした歴史的下地の上で、本作では、鈴木春信が若いころ、穂積次郎兵衛として老中田沼意次の命を受けて和歌山県の小藩の取り潰しに関わり、その藩の安泰を保証していた家康拝領の「垢付丸(あかつきまる)」という刀を盗み出し、その盗み出しのために利用した女が身ごもって双子を産み、女は殺されるが、ひとりは三美人の一人である楊枝屋の看板娘「柳屋お藤」であり、もうひとりが「笠森お仙」となる「お仙」であるという物語に仕上げられている。「柳屋お藤」は、取り潰された小藩の家老の娘として育てられ、家康拝領刀の「垢付丸」を探し出してお家の再興を願う娘となり、「お仙」はお庭番の手先であった鍵屋の亭主で忍者の五兵衛に女忍者として育てられたという設定になっている。

 鈴木春信(穂積次郎兵衛)は、江戸で評判の美女となった「笠森お仙」と「柳屋お藤」を錦絵として描いて売り出すが、そこに昔自分が利用して捨てた女の面影を見て、罪科に苦しみ病んでいくし、「お仙」は自分の出生の真実を知って、そこに「因果の糸車」を覚えざるを得なくなっていく。

 また、評判の美女二人を自分のものにしようとした田沼意知は、秘匿してあった「垢付丸」を持ち出し、これを抜いて、「垢付丸」の妖力の虜となり、また、その場にいた「お仙」もその妖力を浴びてしまって、女から男になってしまう。田沼意知は、実際に旗本の佐野善左衛門から殿中で斬られて死に、これをきっかけにしたように権勢を誇った田沼家は没落していくが、それをないまぜて、「お仙」の働きとして記されていく。

 そして、「笠森お仙」として倉知政之助と結婚したのは瓜二つの双子の妹「柳屋お藤」であり、男となった「お仙」は、「大蜘蛛仙太郎」として二人を見守っていくようになるところで結末を迎えていく。それが全2作を含めた3部作の結末ともなっている。

 ここには、前作まであった軽妙さよりも、むしろシリアスな、たとえば己の罪科に苦しむ鈴木春信や出生の秘密を抱く「お仙」といった比較的重いテーマが綴られている。しかし、作者の洒落や遊び心は満載で、たとえば家康拝領で妖力をもつ刀が「垢付丸(あかつきまる-赤月丸)」と名づけられたり、鈴木春信は春画も著名なことから男女の交合の姿がユーモラスに描かれたり、大田南畝の洒落て飄々とした姿が描かれたりしている。

 あるいはまた、たとえば「月下に門を推したが、びくともしない。敲いて案内を請うわけにもいかない」(241ページ)といった「推敲(すいこう)」という言葉が由来する故事がさりげなく用いられたりしている。こうした遊び心は、読んでいてなかなか楽しいものである。

 しかし、作者が本書の中で大田直次郎(南畝)の思いを借りて、「直次郎は痛感した。世俗を洒落のめすことができるのは、おのれがその世俗からは遊離しているか、遊離している素振りでいてこその行為だ。直次郎は軽格の幕臣である。退屈な毎日に飽き、文才を利して江戸に名をなしつつある。文人としての直次郎は、京極左門配下の御徒士(幕臣)とは別人格だ。その意識が、世間を斜に見ることを楽にさせている。徒士としての目で世の中を見れば、文章は不平不満で溢れ、誰も読みたがらぬものになるだろう」(338ページ)と語る下りは、あるいは作者が虚実ないまぜの洒落のめした作品を書く本音に近いような気がする。

 そして、洒落のめした後で、その背後には生きることの重いテーマがあることを記そうとしたのが、この作品ではなかったかと思ったりする。とはいえ、作者の洒落と遊び心はこの先も続くだろう。

2011年1月21日金曜日

内田康夫『悪魔の種子』

 昨日が大寒で、震えるような日々が続いている。雲が広がって、時折陽射しもあるが、空気と風が冷たい。洗濯物が凍えそうにあおられていく。

 昨夜遅く、内田康夫『悪魔の種子』(2005年 幻冬舎)をおもしろく読み終えた。もちろん歴史時代小説ではないし、テレビなどでたくさんドラマ化されている常番の「浅見光彦(探偵)シリーズ」の一冊で、この作品がこのシリーズの何作目になるのか数えていないけれど、ずいぶん以前に、まだテレビでのドラマ化などがされていないころに、比較的綿密な考察や古典文学や歴史が平明な文章で軟らかく表現されているのが好きで、この作者の作品をずいぶん読んだ。主人公の浅見光彦という人物の柔らかさも好きな探偵のひとりだった。

 たまたま、図書館で宇江佐真理の新作が入っていないかどうか書架を見ていて、「あっ、この作品はまだ読んでいなかったな」と目について借りてきた次第である。ランダムに読んでいるので、こういうことはよくある。

 本作は、日本の農業政策(特に米)とバイオテクノロジーに関連する米の品種改良、新品種の創造という、いわば現代社会の最先端技術を巡る問題に絡んで、人の欲と利潤を追求する企業が重なって生み出された巧妙な殺人事件を、警察庁刑事局長を兄にもつ厳格な浅見家の居候であり、ルポライターという世すぎで糊口を潤しながらも、持ち前の感性と観察力の鋭さで難事件を解決していくという浅見光彦が、通常では思いもよらない観察と推理、独自の人間観をもつ粘り強い捜査で明らかにしていくというものである。

 舞台は、今では日本有数の良質の米を産出するようになった東北地方である。日本三大盆踊りの一つで有名な秋田県の西馬音内(にしもない)で、その祭りの最中に祭りの格好をしたひとりの男が殺されるという事件が起こる。他方、新潟県長岡市の農業研究所の研究員の死体が茨城県の霞ヶ浦であがるという事件が発生する。二つの事件には全く関連性がなく、警察の捜査はそれぞれ独自で行われ、行き詰まりの様相を呈していた。

 浅見家のお手伝いの須美子の友人が長岡市の農業研究所に勤めており、その女性が密かに思いを寄せる研究員が殺された研究員の殺人容疑者として疑いをかけれら、須美子を通して浅見光彦に助けを求めたことから、光彦はこの事件と関わることになり、西馬音内で男が殺された事件を知り、その男もまた茨城の農業研究所の研究員であったことから、二つの事件には農業研究に関する関連性があるのではないかと疑い、そこに米の品種改良によって花粉症の抗体を作っていくという画期的な「花粉症緩和米」の存在を知っていく。

 花粉症緩和米は、まだ実験段階の品種であり、遺伝子操作への反発などから風評によって実験田そのものが市民の反発を招いたりして開発が頓挫していたが、もしこれが成功すれば莫大な利益を生むことから、業績が悪化していた製薬会社が秘密裏に開発の促進を図ろうとしてダミーの会社を作ってこれを行っていた。しかし、そこでダミーの会社の責任者が自殺に見せかけて殺されてしまうという第三の殺人事件が起こる。

 浅見光彦は、その事件の背後にある花粉症緩和米を巡る動きを丹念に追い、事件の関連性を指摘しながら事実を明らかにしていく。事件は冷静に追われていくが、その過程にあるのは人間に対する限りない優しさで、その情緒は至るところで発揮され、それが事件の真相に迫る方向にも結びついて、物語の味を醸し出している。そのあたりが、この探偵の大きな魅力になっている。

 事件そのものは、人間の欲と保身に絡んだ殺人事件なのだが、背景となっている農業問題と遺伝子組み換え操作による食と生物や環境問題などが絡み、特に「コシヒカリ」という画期的な米の品種の改良によって飢餓に苦しんだ東北地方が米所になっていくことと合わさって、花粉症緩和米という先端科学技術を用いた技術革新の姿が描かれて、物語に幅と深みができている。

 作者のこの「浅見光彦シリーズ」は、探偵役の浅見光彦の優しさも魅力的なのだが、単に事件の犯人を捜し出す推理探偵小説だけではなく、こうした社会問題が絡んだものが多く、それが作品のリアリティーを生み出している。遺伝子操作による食品の品種改良の問題は、今でも、もちろん大きな問題で、こうした問題に正面から、そして人間の内奥に潜む問題としても推理性をからめて展開する作者の手法は、松本清張が確立した流れの一つといえようが、松本清張のような固さがないのがいい。

 ただ、作者の他の作品でも同じ傾向があるように思われるが、かなり大きな熟考を要する社会問題が、どことなく我田引水的に「常識」の線に治まるようにして収められてしまう点に、幾ばくかの危惧を感じないわけではない。それは作者が靖国神社を巡る問題について書いた小説などでも言えるような気がする。そして、描かれる人物も「いい人」すぎる気がしないでもない。

 閑話休題。この作品が出されたのは2005年であるが、未だに花粉症漢和米なるものについては聞いたことがないが、日本の農業政策について改善されたこともない。しかし、本書で指摘されるように、日本の農業政策の現実はひどいもので、そこに政治が汚く絡んでいるのが現状だろう。作者の問題提起は、その意味では大きな意味があると思っている。

 ともあれ、久々に一気に読める推理小説を読んだ気がする。作者の作品の多くは、日本の各地の風俗と歴史、そこに生きる人々と社会、そして現代社会と人間が抱えている大きな問題などが絶妙に交差して物語が展開されるので、思想の深み云々は別にして、彼が時代のベストセラー作家のひとりであるのもうなずける。

2011年1月18日火曜日

出久根達郎『波のり舟の』

 昨日も日本海側での雪の模様がニュースで伝えられていた。ここは乾燥した碧空が広がっている。だが、寒い。日中は陽の光に温かみを感じたりもするが、朝晩の冷え込みは激しい.冷え性もあるのか、足下にいつも冷たさを感じている。

 昨夕は先日発表した『彷徨える実存-F.カフカ-』の合評もあって、気の置けない友人たちと池袋で夕食を共にした。「キンキの開き」というのを美味しくいただいたりした。ただ、こういう食事は楽しいものだが、帰りに、あまりの寒さもあるのだろうが、頸椎を痛めていることもあって首から肩にかけて痛みを覚え、地下鉄のベンチに座ったり、途中で降りて休んだりして何台も電車を見送って、ようやく少し空いた電車に乗って帰ってきた。電車はたいてい満員である。だから、帰宅が深夜になってしまった。熱いシャワーを浴びると痛みも治まってきたのだが、冬の夜に出かけるのはなかなか気苦労がいる。

 それからしばらく、出久根達郎『波のり舟の-佃島渡波風秘帖』(1996年 文藝春秋社)を結構おもしろく読んだ。

 これは隅田川河口の佃島と対岸の舩松町(ふなまつちょう-現:中央区湊町)を結ぶ渡し舟の渡し守「正太」を巡る物語で、正直で気のいい正太が、彼が操る舟で出会う人々によって利用されたり、だまされたりするが、たいして気にも留めることなく日々を過ごしていく姿を、例によっておもしろく描き出したものである。

 佃島は現在の佃煮の発祥の地(大阪の佃島という説もある)でもあり、1646年に住吉神社が建立され、1790年に隣の石川島に長谷川平蔵が人足寄せ場(犯罪者の更生施設)を作ったりして、渡し舟の利用者は結構多く、葛飾北斎の「富嶽三十六景色」にも描かれている。現在の佃島は橋が架けられ高層マンションが樹立するところでもある。

 毎日同じところを渡し舟で往復するだけの正太の毎日には大きな変化はない。ある時は、住吉神社に験を担いで赤土を奉納して白砂を持ち帰る砂糖問屋の盗っ人事件に関係したり(第一話「徒恋初空音佃島-たにんのはじまりねっからうそをつくだじま」)、舟を利用する舩松町川の鯉を飼うという奇妙な性癖の女性と出会ったり(第二話)、石川島の人足寄せ場に入れられている囚人の脱走を女にだまされたり(第三話)、住吉神社に貼る千社札を利用した抜け荷(密貿易)に絡む出来事が起こったり(第四話)、葬式の時に蒔く紙銭を使って狂言を仕掛ける太鼓持ちが乗り合わせてきたり(第五話)、ゲテモノ食いの商家の娘が家出してきたり(第六話)、乗り合わせた蔭間(男娼)がいたり(第七話)するが、それらは一陣の風のように正太の生活に吹きつけるだけで、正太の日常に変わりはない。

 そして、彼は幼なじみで男のような口をきく口やかましい娘と結婚し、生活をはじめるところで作品が終わる。ここには、正直で小心ではあるが、多くを望まず、ただ淡々と自分の生活を営むひとりの男の姿がある。彼に吹きつける一陣の風は、奇想天外といえば奇想天外だが、滑稽な人間の姿であり、気のいい正太はそこでだまされたりもするが、だからといって彼がそれに拘泥するということもない。

 渡し場の渡し守として一生を送る江戸の庶民というのは、多くはそうだったのではないかと思わせるものが、ここにある。いろいろなことがあっても、気楽に生きるということはこういうことなのだろうと思ったりもする。そして、こういう「気楽さ」は、結構大事なことに違いないと思う。「Take it easy」は人生を喜んで生きていく秘訣なのだから。

2011年1月16日日曜日

山本一力『いかだ満月』

 甚だしく寒い。毎年、大学の共通一次試験のころは本当に天気が荒れる。一昨日は北海道で零下28度以下にまで下がったところがあるとニュースで伝えられていた。冷え切った状態が続いている。

 だが、山本一力『いかだ満月』(2008年 角川春樹事務所)を読み終えて、初めは作者得意の深川木場ものの「男気」を単純に描いたものかと思っていたが、読み進むうちに、これはなかなか味のある作品だという思いをもつことができた。

 物語は、読み本や歌舞伎などで義賊として伝説のある鼠小僧次郎吉(1797-1832年)が1832年に捕縛され、市中引き回しの獄門として処刑された後、次郎吉が隠れ蓑として使っていた材木商と彼の妻と子を引き受けた友人の祥吉が、材木商としての大商いをやり遂げていく話で、次郎吉の妻「おきち」の姿やその子「太次郎」の成長、深川の木場の川並(木場の材木を扱う職人)の「男だて」ときっぷのよさ、商人としての見切りの良さなどが盛り込まれており、江戸から紀州の新宮(和歌山県新宮市)までの船旅や船に同席した水戸藩士たちの侍としての矜持なども描き出され、物語の幅を広げるものとなっている。

 歴史的には、天保3年(1832年)に大泥棒として処刑された鼠小僧次郎吉の姿には不明なところが多く、その家族についての詳細などは不明だが、作者は、残された友人や家族を、商才も思い切りもよい人間や思いやりの深い女性、きちんとしつけられた機転の利く健気な子どもとして描き出している。

 それを、次郎吉の友人であった祥吉が、材木商として6000両ほどにもなる大商いをやり遂げるために紀州の新宮まで大量の杉材を買いつけに行くまでの顛末や船旅、新宮での買いつけの顛末と、それに同行することになった深川木場の川並の若い頭の男気やきちんとけじめをつけていく姿を通して描くのである。

 ただ、思うに、物語の中心は一人の材木商が大商いをやり遂げていく姿と、木場の川並の男気を描き出すところにあり、材木商と「おきち」や子どもの「太次郎」が背負う影として、ことさら鼠小僧を持ち出す必然性が薄いような気がした。また、同じように材木の買いつけを命じられて江戸から新宮まで一緒に行くことになった水戸藩士たちが、選りすぐりの人物たちであったとは言え、「出来すぎている」気がしないでもない。侍たちの立ち居振る舞いには達人の趣さえある。

 作者の作品には成功物語が多く、もちろんそれはそれでいいし、成功には物事を切り開く才覚と知恵が必要だし、時には大胆さも必要だが、そこで描かれる人間が男としても女としても、周囲から受け入れられる理想的な姿として、あまりにも理想的すぎる傾向があるような気がするのである。作者の作品を読む度にそれを少し感じたりする。

 とはいえ、物語としては大変おもしろく、状況の設定も明快で、文章もそういうリズムをもっているから、一気に読み進む魅力もある。成功物語としての独自の空気をもった作家の作品だと思う。

2011年1月14日金曜日

澤田ふじ子『比丘尼茶碗 公事宿事件書留帳』

 北東の空に雲がたなびいている。晴れてはいるが寒い日々が続いて、昨年の夏がひときわ暑かっただけに寒さが厳しい。だが、身を律するのにちょうどいいのかも知れない。

 昨夜遅く、澤田ふじ子『比丘尼茶碗 公事宿事件書留帳』(2006年 幻冬舎)を読み終えた。これは前に読んだ『世間の辻』よりも2作前のシリーズ12作目の作品だが、あまり深刻にならずに気楽に読める一作だった。

 主人公の田村菊太郎は、京都東町奉行所同心組頭の長男として生まれたが、妾腹のために弟の銕蔵に家督を譲って、二条城近くの公事宿「鯉屋」に居候をしながら、公事宿に持ち込まれる事件を解決したりしている。本書に、この公事宿の先代の宗琳(元の名を武市)が菊太郎の父親の田村次右衛門の手下であり、その才能を見込んで次右衛門が公事宿を買い与えたという経緯が短く記されており、居候の身ながら、なるほど公事宿でのんびり世渡りができる境遇にあることがわかった(101ページ)。もちろんそれは、菊太郎の人柄や才能に負うところが大きい世渡りではあるが。

 公事宿は主に民事訴訟を取り扱うから、本書に収録されている「お婆の斧」、「吉凶の餅」、「比丘尼茶碗」、「馬盗人」、「大黒さまが飛んだ」、「鬼婆」の六編は、いずれも大きな事件というよりは、人の心情や欲に絡んだ市井の出来事を記したもので、この中の「比丘尼茶碗」だけがある藩の跡継ぎを巡る内紛に絡んだ事件で、ここで中心になって描かれるのが菊太郎の父親の次右衛門と「鯉屋」の先代「宗琳」となっている。

 だが、人の嫉妬や妬み、欲に絡んだ事件とはいえ、事件の複雑さはないし、その解決もきれいすぎるほどあっさりしている。そうした事件の顛末よりも、むしろ、主人公の田村菊太郎と公事宿「鯉屋」の奉公人たちの京風ののんびりした上方漫才のような掛け合いの面白さがあり、そうした雰囲気が全編の軽妙さになっているところが特質となっているように思われる。

 作者は多作で、歴史的考証はいうまでもなく、構成もしっかりした作品であるが、あえて、2点ほど気になることがあった。

 一つは、物語に登場する地名や古刹、社会風潮や仕組みについての歴史文書の検証がかなりたくさん出てきて、もちろん、「正しく知る」ということでは意味のあることだが、少し煩わしい気がしたことである。いわば、脚注の多い作品に仕上がっているように思われてならなかった。

 もう一つは、主人公の田村菊太郎は、若いにもかかわらず書画などにも目が肥えており、「宗鷗(そうおう)」と号して俳句を詠むが、その俳句が年輪を重ねなければ詠めない俳句のように思われることである。

 たとえば「あと幾度 桜見て去ぬ この世をば」(49ページ)や「送り火や 昨年見し夫の 盂蘭盆会」(193ページ)といった句は、人生の老年期にならなければ出てこないように思われ、どことなく主人公にそぐわないような気がするのである。作者が60歳の時の作品であるのでその句の心境が分かるような気もするが、主人公の田村菊太郎は「若旦那」と呼ばれる青年武士で、こうした心境には遠いところにいるのではないだろうか。

 ともあれ、あまり肩の凝らない作品であることは間違いない。人の描き方が柔らかい。

2011年1月11日火曜日

千野隆司『追跡者』

 ことさら寒い日々が続いている。朝のうち晴れ間も見えていたが、今は薄雲が広がって空気が凍てついている。昨日は成人式で、振り袖を着た華やぐ女の子たちを見かけたが、若いころは少し渋めの着物の方がいい、などと勝手なことを思いながら、この国が「成人の日」を定めた時は、まだ、青年に希望を託すことができた時代だったのかも知れないと思ったりもした。この国から希望が失われてどのくらい経つだろうか。

 かつてE.ブロッホが『希望の原理』を著して、希望の哲学を打ち立てようとしたが、いつの間にか、希望は「お金」にすり替えられてしまったような気もする。あるいは、「あきらめない」という否定形でしか表されなくなったような気もする。希望は、人が抱くことができる思いのうち、もっとも大切なもののひとつで、たとえそれが幻想に過ぎないものであったとしても、希望なしに人は前に進むことができないし、希望と救いは表裏一体なのだから、それぞれがそれぞれの希望を抱けるようになれればいいと思ったりもする。

 それはともかく、昨日は家事に精を出しながら、千野隆司『追跡』(2005年 講談社)を読み進めた。父親を殺されたと思い込んで、恨みを抱き続けた青年の話で、「たった一つの誤解が、癒しようのない傷を作ってしまうことがある。人が、関わりあって生きていくことは難しい。そして一度芽生えてしまった不信の中で、それでも人を許し、認めて行くことは、さらに難しいことだ」(211ページ)という重いテーマが続き、最後に、節穴から差し込んでくる朝日のように救いが訪れる話である。

 主人公の磯市の父親は、腕のいい板前であったが、一緒に料理人としての腕を磨いていた友人の菊右衛門(最初の名前は乙蔵)とつまらない賭けをして橋の欄干から落ちて死んでしまう。息子の磯市は、父親が菊右衛門に殺されたと思い込み、父親が亡くなったあと自分の母親に救いの手を差し伸べていた菊右衛門と母親との間も疑うようになる。

 彼は、父親の後を継いで料理人としての修行をしていたが、菊右衛門と自分の母親との仲を噂する同僚を刺して、店を首になり、高利貸しの手先に身を落としてしまう。いつか、自分から父親と母親を奪った菊右衛門に復讐をすることだけが、彼の悲願となり、高利貸しの手先として手ひどいことも平気でするようになっていく。

 誤解に基づいて不信感に凝り固まった男の心情と行動が、哀れなくらいに面々と描き出されて、愚かに転落していく姿が綴られる。

 磯市を手先として使っている高利貸しも、火事で焼け出されて料理屋を失った男の妾腹の子で、いつかその料理屋を再興したいと思って手ひどいことを平気でして金を作っていた男であったが、その料理屋の後に建てられた菊右衛門の料理屋が一流の料理屋としてびくともしないことで、菊右衛門を殺してそれを奪おうと企んでいたのである。磯市は、その男の思惑どおりに菊右衛門の命を狙う者となる。

 磯市の妹と母親、そして磯市に思いを寄せていた菊右衛門の娘、菊右衛門自身などの磯市への配慮も思いも空振りに終わり、磯市は、ひとり恨みを深めていくのである。高利貸しの手先として追い出したが他の高利貸しから身売りされるようになったのを助けた女との関係、それを利用して菊右衛門殺しを命じる高利貸しの姿、そうした糸車から最後の土壇場が紡ぎ出されていく。

 そして、菊右衛門を殺そうとする土壇場で、「守られるはずの男に襲われ、襲われると信じた男に守られ」(267ページ)、まるですべての憑き物が落ちていくように、磯市の中のどろどろしたものが消えていく。

 磯市は八丈島送りになるが、その最後の場面で、「角次郎(磯市の父親)は、この永代橋で死んだ。だが自分は今、この永代橋で生き返った。磯市は遙かに離れた見送りの人たちを見ながら、そう思った」(270ページ)と締めくくられる。

 この作品は、誤解に基づいて不信感を募らせていくひとりの男の救いがたい姿を描き、最後まで救いがないが、それだけに最後の救いが光彩を放つものになっている。

 作者は、他の作品でもそうだが、丁寧で綿密な展開をする。この作品でも、救いがたい男の心情と行動を丁寧に描き出す。そして、この作品では特に、最後に救いをぽつんと落とす。こういう構成は、粘りのあるじっくりとした思考でないと生まれてこない。文章も、心象が情景描写になるような巧みさがあって、登場人物が生きてくる。この作品は、そういう意味でなかなか味のある作品だった。

 そろそろ山積みしてきている仕事に精を出さなければならなくなってきた。少なくとも今日中にはいくつかのことを片づけなければ、また後が詰まってくる。高橋是清は「元気を出せば、何でもできる」と言ったが、元気を絞りだそう。それにしても寒い。

2011年1月8日土曜日

坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り』

 二十四節季で言えば、今は「小寒」と呼ばれる季節だが、大寒を思わせるような凍てつく寒さの日々が続いていた。今日は、気温は低いが、風もなく、陽の光が有り難く感じられる。しかし、北の方はまた大雪だそうだ。以前札幌に住んでいた時、移り住んだ最初の年は降り続く雪のあまりの美しさに感動して一晩中降り積もっていく雪を眺めていたが、2年、3年と経つうちに「また雪か」と、その後の雪かきの大変さを思ってうんざりしたことを思い起こす。それから寒さには何とも言えないようなやりきれなさを感じるようになった。もっとも、札幌から転居してからも冬は毎年スキーに行っていた。この十年ほどは、それとも無縁になってきてはいるが。

 3日連続で抜けられない会議が都内であって、早朝の満員電車に揺られながら、坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り』(2005年 徳間文庫)を面白く読んだ。これは前に読んだシリーズの2作品が、文庫書下しではあるが、比較的丁寧に構成され、主人公を初めとする登場人物にも味わい深いものがあったので、できるなら読んでいこうと思っていたら、たまたま図書館にこのシリーズの1作目があったので、電車内で読むにはいいだろうと思って借りてきた次第である。

 やはり、さすがにシリーズの第1作目だけあって人物描写も情景描写も丁寧で、主人公の視点と視線に合わせて展開される物語の展開にも面白味があり、味わい深いものになっていると感じた。

 このシリーズの第2弾の『十手裁き』の方では、「うぽっぽ(役立たずの暢気者)」と綽名されている南町奉行所臨時廻り同心の長尾勘兵衛は56歳という年齢だが、このシリーズの第1作目である本書では52歳と設定されている。

 彼は歩くことしか能がない「うぽっぽ」と同僚からは馬鹿にされているが、出世や金にも欲はなく、情に厚く、罪を犯した者でも情にほだされれば救っていき、彼に救われた者からは親しみと敬愛をこめて「うぽっぽの旦那」と呼ばれている。その彼の姿が、本書ではいかんなく描き出されている。「わかる者しかわからない。それでいい」という姿勢が一貫して貫かれているところが、何とも言えない味わいのあるものになっている。

 「路傍に咲く薊のように、つつましく密やかに、それでいてしっかり大地に根を張った生き方がしたい、そんなふうに、勘兵衛はいつも望んでいた。
 『夕餉が楽しみだな』
 西の空を仰げば筋雲が茜に染まっている」(12ページ)

 という短い一文は、情景の描写がそんな主人公の姿をよく表すものになっているように思われる。

 人の思いを大切にし、救われた者にしか彼の良さが理解できないという主人公を理解し、支える者としての岡っ引きの銀次、「薊の隠居」として正体を隠して登場する南町奉行の根岸肥前守とその内与力(奉行所に所属するのではなく、奉行の家臣として奉行の意を受けて与力として働く者)で吟味方与力の門倉角左衛門、そして、ひとり娘の綾乃、主人公の家の一部を借りて金瘡医(外科医)をしている豪放磊落な井上仁徳、若い定町廻り同心の末吉鯉四郎、主人公が思いを寄せている料理屋の女将である「おふう」などが物語の彩をなしていく。それぞれの登場人物もしっかり特徴的に登場するし、主人公との兼ね合いも物語の重要な要素となっている。

 本作品には、「いれぼくろ」、「ゆうかげ草」、「霧しぐれ」、「かごぬけ鳥」の四話が収められているが、それぞれに丁寧に物語が展開されている。

 第一話「いれぼくろ」は、勘定奉行の息子が犯した暴行事件を隠蔽するために、その事件に関係する者たちが次々と殺されていくという事件が起こり、町方の同心が手を出すことができない勘定奉行に対して主人公の長尾勘兵衛が知力を尽くして事件の真相を暴いていく過程とともに、暴行を受け、両親を失い、遊女として苦界に沈まなければならなかった女性の幸せを守っていく姿が描き出されている。

 第二話「ゆうかげ草」は、かつて掏摸で、長尾勘兵衛に助けられた香具師の元締めのひとり娘がある藩の藩士の争いに巻き込まれて無礼打ちに合い斬り殺される事件が起こった事を発端とする物語で、娘を斬り殺した藩士の藩の圧力で奉行所の探索は止められたが、長尾勘兵衛が上役の圧力の中で犯人の探索を続けていく顛末を描いたものである。ひとり娘を失って絶望し仇討ちを行おうとする香具師の元締めに、上役からの圧力をどこ吹く風と受け流して、勘兵衛は救いの手をさしのべる。

 第三話「霧しぐれ」は、神田上水の関口にある胸突坂(むなつきざか)で男が変死を遂げ、続いて同僚の臨時廻り同心が殺された事件から、老いて恋をし楽隠居を計った同僚の心情を忍びつつも、事件の黒幕である強盗団を暴いていく話である。ここでは、普段は「うぽっぽ」の腰抜けと思われていた勘兵衛が、彼を侮る強盗団に見事な武術で立ち向かう姿が描かれ、長尾勘兵衛の隠されていたすごさが表れると同時に、強盗団の首領の妻として生きてきた女への憐れみが、静かに自死を選ぶ女性を見守る姿で描かれる。

 第四話「かごぬけ鳥」は、男にだまされて京都の島原(遊郭)から足抜け(逃げ出すこと)してきた少女を追っ手から守っていく姿が描かれ、少女の健気さと勘兵衛の温かさが全編を貫いている。地回りと結託して少女を捕らえようとする京都からの追っ手と勘兵衛との駆け引き、「堪忍袋の緒が切れそうだぜ」と言って横柄な地回りの強欲を断ち切る凄みを見せる勘兵衛の姿、そこに何が何でも少女を守ろうとする思いが表れているし、その健気な少女「おこま」が自分を助けてくれた片目片腕の墓守である雁次郎と所帯を持っていけるように気働きをする姿など、「うぽっぽ同心」の真骨頂を表す物語となっている。

 情景描写も、江戸市中を歩きまわる町奉行所臨時廻りという仕事柄で、主人公の移動に合わせて情景が描写されるので、その動きがよく分かるように描かれている。そういう描き方は、江戸古地図が頭に入っていないとできないのだから、しっかり描き出されて、意外の綿密さが伺われる。

 どこか疲れを覚えた時ややり切れなさを抱えた時に読むと、いっそう爽快になるような作品だと思った。

2011年1月5日水曜日

杉本章子『銀河祭りのふたり 信太郎人情始末帖』

 碧空が広がっているが、気温が低く空気が冷たい。幕の内が開けて気ぜわしさが戻ってきた。たわいのない夢ばかり見て眠りが浅いのか、朝から気が抜けたようなどことない気怠さを感じている。バイオリズムが低くなっているのかも知れない。

 それでも、杉本章子『銀河祭りのふたり 信太郎人情始末帖』(2008年 文藝春秋社)を爽やかな読後感をもって読み終えた。このシリーズは、第1作目の『おすず』以外に、第2作目の『水雷屯』から第6作目の『その日』まで順に読んでおり、本作はその第7作目の作品で、太物問屋の大店の主人となった主人公の信太郎の商人としてのけじめをつけていく姿と、彼が惚れて一緒になった元吉原の引き手茶屋の女将であった「おぬい」が商家の新造(妻)として奥向きを切り盛りしていく姿を織り込みながら、亡くなった父親が残した妾腹の兄との関係を修復していく姿を人情味溢れる筆致で描き出したものである。

 「おぬい」を嫌い抜いて辛く当たっていた信太郎の母「おさだ」も、孫娘を間に挟みながら、「おぬい」の陰日向のない人柄で次第に「おぬい」を支えていく者となり、義姉で気の強い「おふじ」も彼女の家に奉公に出されていた「おぬい」の連れ子の「千代太」の奉公人として働く健気で真っ直ぐな人柄に触れることで「おぬい親子」に向けていた嫌悪を氷解していく。

 また、本書の表題ともなっている第三話「銀河祭りのふたり」では、信太郎の友人で徒目付となっている磯貝貞五郎と芸者である「小つな」の恋の顛末が、貞五郎に思いを寄せている義姉の「千恵」の心情とともに描き出されていく。

 御家人の次男であった磯貝貞五郎は兄が家督を継いだときに、家を出て、芝居小屋で笛を吹く囃子方をしていた時に芸者の「小つな」と恋仲になったが、兄が殺された後に磯貝家に戻り、徒目付として働いていた。「小つな」を妻に迎えたいと思っていたが、「小つな」が芸者であることから母親を初め周囲の反対にあっていたのである。義姉の「千恵」とは幼なじみであった。

 他方、義姉の「千恵」は、貞五郎とは幼なじみで恋心を抱いていたが、彼女の姉が貞五郎の兄との結婚を前にして亡くなったために、家どうしの話し合いで、貞五郎への思いを抱いたまま彼の兄の妻となっていた。その夫が死んだ後、貞五郎の母や周囲の勧めもあり、また自分の思いを通すために貞五郎に言い寄っていくのである。

 貞五郎は徒目付としての仕事に情熱を傾けて江戸城御金蔵破りの犯人の探索に精を傾けていたが、義姉の「千恵」の思いを知り、周囲を傷つけないように、「小つな」への愛を貫いて、役を引いて、侍を捨て、「小つな」の元へ行くのである。それが七夕の夜で、「銀河祭りの夜」であった。

 また、信太郎の家に恨みを抱いていた妾腹の子で太物問屋を乗っ取って近づいて来ていた兄の「玄太」との関係も二人が巻き込まれた事件をきっかけに回復されていく。

 商人としての義理を欠いたために筋を通す信太郎に見放されて借金を重ねて「玄太」に店を乗っ取られ、借金苦で自死した太物問屋の息子たちの逆恨みで、信太郎と玄太の両方とも監禁されて殺されかける事件が起こったのである。監禁され、二人はなんとかしてそこを脱出しようとするが、うまくいかない。そういう中で互いに思いを分かっていくのである。

 二人は、信太郎に恩を感じている奉行所の同心や幼なじみで岡っ引きの手下になっている「元吉」の手によって救い出されていく。「元吉」は、本書で、彼が前に傷ついたときに助けてくれた気立てのいい娘と夫婦になる約束ができ、彼を使っていた親分の後を継いで、晴れて岡っ引きになっていく。

 こうしてすべが柔らかな温かみに包まれて終わる。すべての恋はそれぞれに自分の正直な思いを貫くことで一応の形をなしていく。描かれる人物たちが理想的すぎるところがないわけではないが、商人としてのけじめをつけて生きる姿は、昨今には見られない人間としてのけじめのつけ方でもあり、武家の矜持、商人の矜持、友情や愛情の矜持ということを考えさせるものではある。何にしろ、自分の心底の思いに正直になることこそが、人の幸せの第一歩であることに違いはないのだから。

 今日はあざみ野の山内図書館によって、暮れに借りてきた本を返却して新しい本を借り、それから都内の会議に出る予定である。数冊の本を抱えて電車に揺られるのは面倒な気もするが、気乗りはしないが責任のある会議が予定されているのだし、本の返却日でもあるのだから致し方ないだろう。昨日、図書館に行けばよかったのだが、それをしなかった罰のようなものだろう。しなければならない仕事も次第に山積みしてきたなあ、と思ったりもする。まあ、すべて世はこともなしで、いいか。

2011年1月3日月曜日

築山桂『寺子屋若草物語 てのひら一文』

 日本海沿岸の西日本や北陸で大雪の天気をもたらしたが、関東地方は比較的穏やかなお正月になっている。毎年、年明け早々はかなり忙しくて、「めでたくもあり、めでたくもなし」と詠んだ一休和尚の言葉を思い起こしたりする。昨年は帰天者の方も多かったので、年賀の欠礼のご挨拶を多く受け取った。

 大晦日にふとテレビをつけてみると、NHKのBSで『心霊探偵 八雲』というアニメ・ドラマを一挙に放映していたので、それを見ながら築山桂『寺子屋若草物語 てのひら一文』(2008年 徳間文庫)をゆっくり読んだ。

 この作者の作品は初めて読むが、1969年に京都で生まれ、福井に在住されているらしく、NHK土曜時代劇『浪速の華-緒方洪庵事件帖-』の原作者であり、大阪大学の出身者らしく小説の舞台が大阪であるのも特徴的だと思ったし、以前から、寺子屋を取り扱ったと思われた題名が気になっていて、読んで見たいと思っていた作家のひとりであった。

 『寺子屋若草物語』という書名は、アメリカの作家ルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcot ・1832-1888年)の小説『若草物語』を意識してつけられたもので、『若草物語』の主人公たちは四姉妹であるが、こちらは大阪で寺子屋を営む三姉妹の物語である。

 医者であった父と母を流行病で亡くした「お香」、「お涼」、「お美和」の三姉妹が「三春屋」という寺子屋を営んでいた叔母に引き取られて育てられ、叔母が亡くなった後を継いで、力を合わせて寺子屋を営んでいく姿が柔らかな筆致で描かれている。特に、貧しかったり親の手伝いや奉公のためであったりして昼間に寺子屋に通えない者などが手習い(文字や計算)を学ぶために、夜に「一文稽古」という、いわば夜学のようなものを開いていて、その維持のために苦労していく姿がきちんと描き出されていく。

 「昼間の稽古と違って、事情も年齢もばらばらな者が集まるため、一文稽古は何かと苦労も多い。
 入門時の束脩(入学金のようなもの)ばかりではなく、季節ごとの謝金も一文稽古では取らないことにしているから、「しんどいばっかりで儲かりもせんやり」とまわりに言われることもある。
 だが、三姉妹は、一文稽古がなくなれば困る者がどれだけ多いか、知っている。
 三人で力を合わせ、なんとかして続けたいと思っているのだ」(15ページ)

 と初めの方で記されている。だが、本書は、そうした三姉妹の日常が描き出されるだけでなく、一文稽古に通う者が巻き込まれた事件の顛末が描かれるのだが、事件の裏にある陰謀の悪質さにもかかわらず、それが特に心優しい十六歳の末娘「お美和」の視点を中心に描かれ、それだけに、どこかしみじみした柔らかさがある。

 三姉妹のそれぞれの人物像も明確で、それぞれに魅力的で、長女の「お香」は寺子屋である「三春屋」の全責任をしっかり負って、聡明だが控えめで、医学の修行のために江戸に行っている恋人がいるが、姉妹のことや寺子屋に通ってくる者たちへの深い心配りをする女性である。次女の「お涼」は、姉の「お香」とは全く違って、学問好きの天才肌の才女で、大阪随一の学問所である男ばかりの懐徳堂に男に混じって通うことをゆるされ、さばさばした性格で、身なりや格好もあまり気にしない。三女の「お美和」は、実は姉たちと血が繋がっていない娘で、子どもを育てることができなくなった親が置いていった子を姉たちの両親が姉妹として育てたものだが、姉たちの愛情をいっぱい受けて、明るく心優しい娘となり、「三春屋」の家事いっさいを引き受け、寺子屋を支えているしっかり者である。

 こうした三姉妹の姿は類型的でわかりやすいだけに、会話にしろ様子にしろ、きっちり描き分けられていて、それぞれが魅力ある女性になっている。

 物語は、大工の倅だが学者になることを夢見て、熱心に一文稽古に通っていた達次という若者が一文稽古に来なくなるところから始まる。彼は親に頼み込んで一年間という期限つきではあるが儒学者の内弟子となって学問の励むほどの熱心な若者だった。彼には「お若」という恋人がいたが、その「お若」の話によれば、彼が内弟子をしていた儒学者が江戸への遊学に達次を連れて行くと言っていたが、突然、話を翻らされて遊学には他の者を連れて行くことになり、達次は絶望して落ち込んでいるのだという。

 その話の裏には、廻船問屋の大店の金に絡む話があった。達次の代わりに行く者はその廻船問屋のどら息子だという。廻船問屋の息子は、「お涼」が通う懐徳堂に懲罰的な躾のために入れられていた。だが、厳しい躾の期間が明けたとき、酒に酔って通りがかった「お若」を襲った。そして、料理屋を営んでいた「お若」の母親は、母親自体が性悪なところがあり、廻船問屋を強請る。強請られた廻船問屋は、それ以上調べられたら困るので、「お若」の母親を毒殺するのである。廻船問屋には調べられたら困る過去があったのである。

 他方、千太という子どもが一文稽古に来るようになった。母親は、「お若」の母親が営む料理屋の近くで蕎麦屋を営み、殺された母親とも親しかったし、廻船問屋にも恨みがあった。廻船問屋は越前のある藩の大阪蔵屋敷の者と結託して抜け荷を行っていたのであり、それが暴露しそうになったときに蔵屋敷の藩士に罪を着せ死に追いやっていた。その犠牲となった藩士が千太の父親だったのである。

 また、犠牲となった藩士の友人で真相を探るために浪人となった佐竹佐十郎という侍が寺子屋「三春屋」の裏店に越してくる。「三春屋」の「お美和」は、事情を知らないまでも、さばさばとした性格の佐竹佐十郎に淡い恋心を抱くが、佐十郎は真相究明のために千太の母親に近づいていく。千太の母親は廻船問屋の秘密のために危険にさらされていく。

 そして、母親を殺された「お若」と恋人の達次が廻船問屋に捕らえられ、千太の母親も捕らえられていくのである。こうして事件は山場を迎えていく。

 こうした展開の中で、挫折した達次の心境や「お若」との関係、学問一筋に生きる「お涼」と二枚目で女遊びが激しいが意外と「お涼」を案じて助ける幼なじみの合薬屋の跡取り息子との関係、佐竹佐十郎に淡い恋心をもつ恋する乙女である「お美和」の姿など、それぞれの姿と恋がじっくりと丹念に描かれ、それらが「一文稽古」という慈愛に満ちた設定の中に置かれている。

 この作品は、予測していたとおりいい作品だった。歴史的にやがて事件を起こしてしまう大阪奉行所与力の大塩平八郎が正義感溢れる見習い与力として登場するのもおもしろい。歴史的考証もしっかりして構成されているし、描かれる人物像も、物語の構成もいいので、読後感も爽やかさがある。この作者の物語作者としての力は大きいものがあり、文章も、句読点の打ち方ひとつにしても、改行の仕方にしてもよく考えられた文章である。これはシリーズとして出されているらしいから、ぜひ他の作品も読んでみたいと思っている。