ことさら寒い日々が続いている。朝のうち晴れ間も見えていたが、今は薄雲が広がって空気が凍てついている。昨日は成人式で、振り袖を着た華やぐ女の子たちを見かけたが、若いころは少し渋めの着物の方がいい、などと勝手なことを思いながら、この国が「成人の日」を定めた時は、まだ、青年に希望を託すことができた時代だったのかも知れないと思ったりもした。この国から希望が失われてどのくらい経つだろうか。
かつてE.ブロッホが『希望の原理』を著して、希望の哲学を打ち立てようとしたが、いつの間にか、希望は「お金」にすり替えられてしまったような気もする。あるいは、「あきらめない」という否定形でしか表されなくなったような気もする。希望は、人が抱くことができる思いのうち、もっとも大切なもののひとつで、たとえそれが幻想に過ぎないものであったとしても、希望なしに人は前に進むことができないし、希望と救いは表裏一体なのだから、それぞれがそれぞれの希望を抱けるようになれればいいと思ったりもする。
それはともかく、昨日は家事に精を出しながら、千野隆司『追跡』(2005年 講談社)を読み進めた。父親を殺されたと思い込んで、恨みを抱き続けた青年の話で、「たった一つの誤解が、癒しようのない傷を作ってしまうことがある。人が、関わりあって生きていくことは難しい。そして一度芽生えてしまった不信の中で、それでも人を許し、認めて行くことは、さらに難しいことだ」(211ページ)という重いテーマが続き、最後に、節穴から差し込んでくる朝日のように救いが訪れる話である。
主人公の磯市の父親は、腕のいい板前であったが、一緒に料理人としての腕を磨いていた友人の菊右衛門(最初の名前は乙蔵)とつまらない賭けをして橋の欄干から落ちて死んでしまう。息子の磯市は、父親が菊右衛門に殺されたと思い込み、父親が亡くなったあと自分の母親に救いの手を差し伸べていた菊右衛門と母親との間も疑うようになる。
彼は、父親の後を継いで料理人としての修行をしていたが、菊右衛門と自分の母親との仲を噂する同僚を刺して、店を首になり、高利貸しの手先に身を落としてしまう。いつか、自分から父親と母親を奪った菊右衛門に復讐をすることだけが、彼の悲願となり、高利貸しの手先として手ひどいことも平気でするようになっていく。
誤解に基づいて不信感に凝り固まった男の心情と行動が、哀れなくらいに面々と描き出されて、愚かに転落していく姿が綴られる。
磯市を手先として使っている高利貸しも、火事で焼け出されて料理屋を失った男の妾腹の子で、いつかその料理屋を再興したいと思って手ひどいことを平気でして金を作っていた男であったが、その料理屋の後に建てられた菊右衛門の料理屋が一流の料理屋としてびくともしないことで、菊右衛門を殺してそれを奪おうと企んでいたのである。磯市は、その男の思惑どおりに菊右衛門の命を狙う者となる。
磯市の妹と母親、そして磯市に思いを寄せていた菊右衛門の娘、菊右衛門自身などの磯市への配慮も思いも空振りに終わり、磯市は、ひとり恨みを深めていくのである。高利貸しの手先として追い出したが他の高利貸しから身売りされるようになったのを助けた女との関係、それを利用して菊右衛門殺しを命じる高利貸しの姿、そうした糸車から最後の土壇場が紡ぎ出されていく。
そして、菊右衛門を殺そうとする土壇場で、「守られるはずの男に襲われ、襲われると信じた男に守られ」(267ページ)、まるですべての憑き物が落ちていくように、磯市の中のどろどろしたものが消えていく。
磯市は八丈島送りになるが、その最後の場面で、「角次郎(磯市の父親)は、この永代橋で死んだ。だが自分は今、この永代橋で生き返った。磯市は遙かに離れた見送りの人たちを見ながら、そう思った」(270ページ)と締めくくられる。
この作品は、誤解に基づいて不信感を募らせていくひとりの男の救いがたい姿を描き、最後まで救いがないが、それだけに最後の救いが光彩を放つものになっている。
作者は、他の作品でもそうだが、丁寧で綿密な展開をする。この作品でも、救いがたい男の心情と行動を丁寧に描き出す。そして、この作品では特に、最後に救いをぽつんと落とす。こういう構成は、粘りのあるじっくりとした思考でないと生まれてこない。文章も、心象が情景描写になるような巧みさがあって、登場人物が生きてくる。この作品は、そういう意味でなかなか味のある作品だった。
そろそろ山積みしてきている仕事に精を出さなければならなくなってきた。少なくとも今日中にはいくつかのことを片づけなければ、また後が詰まってくる。高橋是清は「元気を出せば、何でもできる」と言ったが、元気を絞りだそう。それにしても寒い。
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