荒れた天気が一変して、初秋の蒼空が広がっている。若干の暑さはあるが、こういう天気はわたしにとってはありがたい。来年度の仕事の依頼がそろそろ舞い込んでいるのだが、いくつかのことはお断りしなければならず、心苦しさもあるので、蒼空を仰いで、「Let it be !」と思いたい。
閑話休題。前に記し忘れていたので、改めて記しておきたいと思い、乙川優三郎『生きる』(2004年 文藝春秋社
2005年 文春文庫)に収められている第三作「早梅記」について書いておくことにする。これもまた、生きることの根幹に触れる非常に優れた作品であった。
主人公の高村喜藏は、家禄が十石七両二人扶持の軽輩の貧しい家庭に生まれた。彼は、二十歳で父をなくして家督を継ぎ、非常な努力をして、二十九歳で六十石となったが、結婚したのは三十歳の時で、それまでは、嫁取りよりもまずは出世と考えていた。
父の死後四年目に母親も死んで、家政のために「しょうぶ」という足軽の三女を雇った。「しょうぶ」は、近在の村から出てきたときは蓬頭垢衣の百姓と変わらなかったが、垢を落として髪を結うと見違えるほど美しくなり、しかも正直で賄いもうまく、喜藏はすっかり彼女が気に入り、二人が事実上の夫婦となるのに長い時はかからなかった。
二人のことはやがて噂になったが、「しょうぶ」は、「わたしは旦那様のそばに置いていただけるなら、何を言われてもかまいません」と言っていた。足軽の娘を嫁にもらうと彼の出世は遠のくことは明らかだった。やがて喜藏は馬廻り役に出世し、上役の世話で嫁をもらうことになり、「しょうぶ」は、「お暇をいただきとうございます」と言って、喜藏の縁談がまとまった翌春にあっさりと出て行った。「しょぶ」は、その時、二十一歳だった。高村喜藏は、「しょうぶ」のことを哀れに思いながらも、妾になるのが厭なら別れるしかないと思うくらいで、女子を自分の人生に合わせて都合よく動いてくれる者くらいにしか見ていなかったのである。
そのころ、高村喜藏は出世を焦っていた。だが、働き者で家事もうまく、家の畑では野菜も作り、貧しさを苦にせず、美しい「しょうぶ」と暮らすうちに、心も和み、身の回りも整えられて、喜藏は少しずつ変わっていった。ギラギラ
した出世欲はうちに秘められ、人間が一回り大きくなったのである。
喜藏は、そのころ、藩の中小姓になっていたが、藩財政が逼迫する中で主家の分家に当たる藩主の叔父の石川頼母が江戸定府の費用を藩が持つように要求してきた。石川頼母は、奢侈を好む短気な人物で、三年前にも一度同じことがあり、その時に断りの使者を激怒して斬りつけたことがあった。今回も、藩は頼母の要求を断ることにしたが、そのことがあって使者として呼び出された者たちは次々と理由をつけて辞退してしまった。ところが、高村喜藏は、他の者たちが尻込みする役を進んで引き受けたのである。彼は、その条件として、家禄六十石、馬廻り役八両三人扶持を持ち出し、承諾された。彼は、「しょうぶ」がいてくれたから、彼女を知らず知らずのうちに心の拠所とし、気が大きくなっていたのである。
そして、石川頼母と対面するが、案の定、頼母は激怒し、刀を抜いて斬りつけた。喜藏は腰を抜かして動けなくなったが、辛うじて頼母の近習がこれを止め、大事には至らず、頼母の行為もなかったことにしてくれと言われて、無事に役目を果たしたこととなり、やがて家中で評判となり、藩主の覚えもよくなった。こうして、彼は出世をし、身分も変わり、屋敷も広い屋敷へと移った。
身分が変わったことで、喜藏は次第に世間体を気にするようになっていった。だが、「しょうぶ」は、少しも変わらず、よく働き、家政を賢明に切り盛りし、梅の花を見事に活けたりして、喜藏は彼女から大きな慰めを得ていた。そして、その年の秋、馬廻り役の組頭から喜藏に縁談が持ち込まれたのである。相手は町奉行の娘の「とも」と言い、器量も気立てもよく、出世の上でも申し分のない相手だった。喜藏は、それを断るこたができずに承諾すると、「しょうぶ」は、きっぱりと自分のすべての道具や身の回りのもの、匂いさえも消して出ていった。出ていくといっても、彼女が身を寄せることができる所はどこにもないにも関わらず、それから「しょうぶ」の行くへはわからないままになってしまった。
喜藏の妻の「とも」は、明るくよく笑い、大きな安心感を家庭に与え、二年後には子もできて、喜藏の生活は安定した。彼は、決して「しょうぶ」のことを忘れたわけではなかったが、藩主の覚えもめでたく、次第に出世していき、大目付となり、用人となり、家老となっていった。彼が家老になる時に、分家の石川頼母が義兄を惨殺するという事件が起こり、その事後処理を当時の家老に代わって見事に行ったということがあった。
彼は執政として隠居するまでの六年間を務めたが、藩の財政は逼迫したまま、時代も大きく変わろうとしていた。高村喜藏は、自分ができるだけのことをし、踏ん張れるだけ踏ん張ったが、どうにもならないこともあった。貧しさから脱け出すために出世を求めて歩んできて、残ったのは、広い屋敷と高禄、そして、気持ちの通わない家族だけだった。彼の息子は、父親の苦労も知らずに、どこか覚めた目で父親を見ているし、妻の「とも」には何度も救われてきたが、喜藏が彼女の心を救うことなく、隠居後に呆気なく死んでしまった。
彼は自分の人生の来し方を顧みる。結局、「しょうぶ」と「とも」という二人の女性に支えられてきた。「思いのほか運はあったが、人並み優れた才覚などなかった。それなのに自分ひとりの栄華を極めようとして二人を巻き込んでしまった。後悔が歳月という取り返しのつかない流れに行きつくと、彼は歩く気力を失い、茫然とするしかなかった」(文庫版 243ページ)。
こうして、孤独を抱えて散策する途中で、彼は貧しい足軽の長屋の一画にある梅の木の小枝を切ろうとしている小柄な女性を見る。それは、喜藏のところを黙って去っていった「しょうぶ」であった。彼女はそれが喜藏と分かりつつも、「いえ、お人違いでございましょう」と言い、「冬が終われば林も緑になって、子供たちは蕨や蕗の薹を採りに出かけます、林の中には古い祠があって産土神が祀られています、お参りするのはわたくしと子供たちだけでしょうが、手を合わせるだけで慰められます、そこから細い道が木立を縫って林の北側へ伸びていて、暖かくなるとよく散歩をいたします、林の北側から逆井川の川上へ出ると、遠い山脈が見えますし、その少し先の百姓家では野菜の種や苗を分けてもらいます、田植えの時期には子供たちが手伝いにゆき、稲刈りの時には藁をもらいにゆきます、・・・そうして人との小さなつながりを頼りに暮らしておりますが、貧しいつながりはたやすく切れることはありません」(文庫版 247ー248ページ)と語る。そして、蕾のある梅の一枝を差し出したのである。
喜藏は、その一枝をもって、いつになく穏やかな気持ちになる。「彼にとってしょうぶがそうであったように、早梅は何もない季節に咲いて、まだそのさきがあることを告げているかのようであった」(文庫版 250ページ)。
この結末は、「しょうぶ」という一人の女性が彼の元を去ってもしっかりと自分の生き方のスタイルをもって生きてきたことを早梅に託して告げる。貧しさゆえに出世を望み、そこであくせくして、得たものが孤独であった男と、「生きること」をしっかり営み、貧しいながらも心豊かに生きた女性。それが最後に交差し、豊かな情感を残して、また別れていく。そして、そこに残るのが、どんな状況や状態の中でも「梅一輪の暖かさ」であれば、もうそれでいい。この作品は、そんなことをしみじみと思わせる作品だった。
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