2013年9月16日月曜日

井川香四郎『てっぺん 幕末繁盛記』

 今日は「敬老の日」だが、台風18号の暴風雨圏に入り、朝から激しい雨と風に見舞われている。窓ガラスを叩きつける雨とゴーゴーと吹き渡っていく風を未明からずっと眺めていた。夕方から都内で集まりがあるので、なんとか無事に過ぎ去って欲しい。

 昨夕、ぼんやりとテレビを見ながら思っていたことであるが、成功物語というのは、もしそれが金持ちになるとか社会的地位が上昇することとかいったような事柄を「成功」の基準にして書かれるなら、これほどつまらなくうんざりするものはない。現代人は、誰もが社会的上昇志向をもって生きているので、この手の成功物語を比較的好み、たとえば、現在のテレビ番組なども、よくよく見れば、バラエティーからニュース番組まで「成功主義」で構成されている。

 しかし、この手の成功物語ほど人間を軽蔑しているものはないのである。人の価値というものは、うまくいったこととか成功したことで計られるべきではないからである。アンデルセンの『みにくいアヒルの子』に対して、みにくいアヒルの子は白鳥なんかにならなくてもよいのではないか、アヒルはアヒル、白鳥は白鳥でどこが悪いかと批判したキルケゴールの主張は、現代こそ再考された方が良いと思う。

 なぜ、こんなことを書いたかといえば、一人の男の成功物語である井川香四郎『てっぺん 幕末繁盛記』(2012年 祥伝社文庫)を読んだからである。

 これは、幕末の頃に住友家の銅山であった四国の別子銅山で生まれ、そこで堀子(鉱夫)として働く鉄次郎という気一本の男が、やがて銅山を取り巻く陰湿な駆け引きに巻き込まれて銅山を追われ、大阪に出て、持ち前の気一本さと度胸、胆力で、やがて老舗の材木問屋を受け継いでいくまでの姿を描いたものである。

 物語の中には、もちろん、恋愛もあるが、計略を巡らせて自分お手柄をあげようとする役人や、私腹を肥やそうとするもの、激しい嫉妬から陰湿な行動に出る者、何とかして金儲けをしようとする者、そして、鉄次郎の人間味や胆力、ひたむきさを見抜いて彼を助ける者などが登場して、主人公の人生は一筋縄ではいかないが、運と出会う人間に恵まれて、彼は成功者となっていくのである。

 作者がどういう意図をもってこの作品を書いたのかは分からないが、全体的にはよくある成功譚の一つで、もちろん、それなりに読ませる技術があるので、それなりに面白いものではある。しかし、こういう人物を描くのに時代を幕末にする必要はないだろうとは思う。

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