昨日の午後は激しい雨に見舞われ、今日も、今、雨が降り出している。このところずっとこんな天気が続いている。
こちらに帰宅してみるとパソコンとインターネットを繋ぐモデムが壊れていて、メールもできずに、パソコンに依存した仕事も半分以下となっていた。今朝、代わりのモデムが宅急便で届けられ、さっそく設定して、ようやくこれもアップロードできるようになった。 意識していなかったが10年以上使っていたモデムだったので寿命だったのだろう。
さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』の続きだが、結局、この書物については3回にわたって記すことになってしまった。書ききれないことがまだたくさん残っているので、山本周五郎の作品はそれだけ内容があるということだろう。
十三編目の「あだこ」は、生きる意欲をなくして死ぬばかりになっていた旗本のところに転がり込んだ女性の力によって、彼がもう一度生きる力を回復していくという話で、前に記した「泥棒と若殿」という作品が同じような設定になっていた。ただ、「泥棒と若殿」は、忍んできた泥棒によってひとりの武士が生きる喜びを見出していくというものであるが、「あだこ」は行くところがなくなって転がり込んだ女性が律義さやけなげさで武士を助け、武士とともに生きていく姿を描いたものになっている。彼女は苦労してきたが、天性の明るさと素直さ、そして素直な決断力をもっている魅力的な女性である。設定は同じでも、内容も結末も異なり、どちらも優れた短編であることにかわりはない。ちなみに、表題の「あだこ」というのは、作者によれば、津軽の言葉で子守りとか下女という意味らしい。
二百五十石のお使番(主家や幕府の意向を伝える役職で、かなりの権能があった)の父の後を受けた小林半三郎には、親同士で決めた許嫁があり、彼もその女性が好きだった。だが、結婚を控えた直前に、相手の女性は、別の男性と駆け落ちしてしまった。彼はそれ以来無為の人間となり、無役の小普請となり、家も荒れ放題となって、あちらこちらに借金を重ね、とうとう味噌も米も買うことができなくなって、ただじっと餓死していくのを待つような日々を過ごしていた。
あるとき、その荒れ放題になった家の庭で真っ黒な顔をした女性が草取りをしているのに気がついた。女性は、自分は「あだこ」で、給金はいらないし食べる者も自分で何とかするからここに置いてくれと半三郎に頼む。半三郎は、「いたいというならいてもいい」と答え、その日から「あだこ」との生活が始まっていく。「あだこ」は、あまりの借金のために差し止められていた米屋や味噌屋、八百屋から食べ物を手に入れてきた。だから最初、半三郎は、お役で津軽に行った友人が、自分のことを見かねて下働きをする女性とお金を出してくれたのだと思っていた。
だが、実際は、津軽の家で母親が年下の夫をもち、居づらくなって江戸に出てきて、あちこちで奉公したあげくに、行くところがなくなった「あだこ」が、荒れ果てた武家なら自分のような者でも老いてくれるのではないかと思って転がり込んできただけで、米屋では庭掃除やこぼれ落ちた米粒を拾い集めたり、味噌屋でも魚屋でも同じようにして誠実に働いたりして、その働きぶりに感心したそれぞれの店が食べ物の売掛を許してくれていたのだった。「あだこ」はまた、遅くまで針仕事をして、小林半三郎の生活を支えていくのである。
半三郎は、そういう「あだこ」のひたむきな姿に打たれ、死ぬことではなく生きることに向かって歩みだすようになり、友人たちの助けで出仕してきちんと生活を立て直していくようになるのである。「あだこ」の顔の黒さは、男よけに煤をぬったものであり、本当は「いそ」という名前で、顔も美しい女性だった。半三郎は、そういう「あだこ」と生涯を共にすることを決心していくのである。
この作品には、優しさとけなげさ、ひとむきさと素直で正直な明るさが満ちている。そしてまた、人間を信じることができる人々がいる。貧と苦労は信と不信の分水嶺のようなものだが、そこで優しさや温かさに向かう人間の姿、それもひたむきな愛情をもって生きる人間の姿には生きることの大きな喜びが訪れるものだ。静かな、しかし確かな愛情というものはいいものだと、山本周五郎の作品を読むたびに思ったりするが、この作品にはそれが溢れている気がする。
「ちゃん」は、流行に乗ることができずに愚直なまでに生きている火鉢職人の姿を描いたもので、貧しい暮らしの中で、互いに認め合う家族が救いとなっていく話である。
愚直なまでに伝統的な「五桐火鉢」を丹念に作り続ける「重吉」は、賃金が入ると決まって酔いつぶれて家の前でくだを巻き続ける。そんな「重吉」を女房の「お直」も、十四歳の「良吉」も、十三歳になる長女の「おつぎ」、七歳の「亀吉」、そして三歳の「お芳」までもが温かく支えている。
重吉が作る「五桐火鉢」が流行遅れのものとなり、彼の職人仲間たちは次々と「五桐火鉢」を捨てて新しいものへと移り、羽振りが良いが、重吉が作る「五桐火鉢」が売れないために、重吉は肩身の狭い思いをして日々を過ごしている。店も「五桐火鉢」に見切りをつけて、重吉が手にする手間賃はますます少なくなっていく。だから、重吉の酒量も多くなる。
友人たちは言う。「今は流行が第一、めさきが変わっていて安ければ客は買う、一年使ってこわれるか飽きるかすれば、また新しいのを買うだろう、火鉢は火鉢、それでいいんだ、そういう世の中になったんだよ」(292ページ)。
しかし、重吉は自分が変われないことを知っているし、そのために家族に苦労をかけていることを悩んでいく。家計のために女房と長女は内職をし、長男の良吉は、十四歳で魚のぼて振り(行商)をしている。重吉は思う。「おれのようなぶまな人間は一生うだつがあがらねえ。まじめであればあるほど、人に軽く扱われ、ばかにされ、貧乏に追いまくられ、そして女房子にまで苦労をさせる。・・・こんな世の中はもうまっぴらだ」(297ページ)。
あるとき、飲み屋で知り合った男を連れて帰ったら、その男が泥棒で家のものを全部盗んで行ったりした。弱り目に祟り目で、重吉はますます自分が家族にとっての疫病神だと思い込み、家を出ようとする。
だが、そのとき、女房の「お直」は、自分たちが苦労するのは当たり前で、家族がそろっていれば黒のし甲斐があるものだ」と言うし、長男の良吉も長女のおつぎも、七歳の亀吉も三歳のお芳までもが、ちゃん(父親)が出て行くんなら、自分たちもみんなちゃんと一緒に出ていくと言い出すのである。
こうして、また、重吉一家の生活が始まっていく。飲んで帰り、家の前でつぶれた重吉に、女房は「はいっておくれよ、おまえさん」と言い、良吉が声をかけ、最後に三歳のお芳が「たん、へんな(ちゃん、入んな)。へんなって云ってゆでしょ、へんな、たん」と言うのである。
この作品は、1958年の『週刊朝日別冊』が初出であり、ちょうど朝鮮戦争による特需で日本の景気が回復し始め、人々が目の入りを変えるようにして豊かさを求め始めていた時代であった。都市部の人口流入が集中し、核家族化が進んで、家族の絆が薄れ始めた時代でもある。そういう時代に、互いに思いやりをもって認め合う家族の姿を描いた作者の意気込みを感じる。人は、たった一人でいいから、自分を黙って認めて受け入れてくれる人間があれば生きていける。そういう人間を身近に見出すことができることこそが人の幸せに他ならない。そうした人の幸せをしみじみ描いた作品だった。
最後の「その木戸を通って」は、自分の家の前に立っていた記憶を失った女性を助けて、自分の家に住まわせているうちに、その女性の存在によってあらぬ噂をたてられて進んでいた縁談もだめになってしまうが、次第に、その女性に心が引かれていき、やがてはその女性と結婚したという話である。
だが、結婚し、子どもまでできた後に、その女性が次第に記憶を取り戻したのか、あるいは新しい記憶喪失になったのかは分からないが、その女性が突然いなくなるのである。そして、男は、いつまでも彼女が帰ってくることを待ち続けるのである。
それにしても、小学館からだされているこの中短編秀作選集は編集方針がきちんとしていると改めて思う。優れた編集者の手によるものだということを感じさせる作品の組み方がされているように思われる。奥付を見ると最上龍平という人と弘瀬暁子という人が編集され、竹添敦子という人が監修されているようだ。これらの人たちについての知識はないが、丁寧な編集になっている。
2011年8月27日土曜日
2011年8月23日火曜日
山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(2)
まだ九州に滞在しているのだが、激しく雨が降り続く日になっている。昨日は阿蘇まで足をのばし、雨に煙る阿蘇の山並みと柔らかい曲線を描いている草原を眺めたりした。
さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』の続きだが、終戦の年(1945年)の10月に大日本雄弁会講談社から『菊屋敷』の書名で出された中に収録されていた「菅笠」は、ほんの仲間内の見えから出陣中の武家の嫁になるといってしまった女性が、男の家と母を守り働くようになり、やがて出陣していた男の戦死の報が伝えられ、そこで初めて、男が丹精込めて作っていた菅笠をかぶって働くようになっていく女性の話である。
これも、夫を戦争で亡くして苦労した多数の婦人たちの姿が背景にあり、夫亡き後の家を守り、愛情を育んでいく女性への建徳的意味合いの強い作品である。執筆がまだ戦中であった1944年12月だから、それまでのほかの作品と同様に建徳的であるのはやむを得ないことかもしれない。だが、そうした時代的背景は別にしても、愛する者のために懸命に生きていこうとするけなげな女性の姿は、深く胸を打つものがある。
第七編目の「墨丸」は、同じ1945年の『婦人倶楽部』8・9月合併号に初出されたもので、執筆が1945年2月だそうだが、この物語にはそうした時代の影は直接的には感じず、むしろ、人を愛することの美しさと切なさが前面に出た作品のように思われた。
「お石」は、五歳のときに父親の異変で岡崎藩の鈴木平之丞の家に預けられて育てられることになった。彼女の素姓は「お石」を引き取った平之丞の父親以外には誰も知らなかった。色の黒い子で、平之丞たちから「墨丸」と渾名されたりしていたが、立ち居振る舞いもきちんとして、臆せず、「爽やかなほど明るいまっすぐな性質に恵まれていた」(108ページ)。長ずるに及んで琴の名手としての才能も発揮していくようになり、平之丞への想いも募らせていくようになる。
だが、「お石」の父親は、藩主の相続に絡んだ問題で、藩主に直接意見をしたことが藩主の逆鱗に触れ、生涯蟄居の罪を受け、不敬をわびるために切腹していたのである。そのことを知っていた「お石」は、平之丞を慕っているが、自分の素姓が発覚すれば鈴木家に迷惑が及ぶことを恐れ、平之丞との結婚話がもちあがったときに、琴を習うという名目で鈴木家を出てしまうのである。
やがて月日が流れ、平之丞は27歳でほかの女性と結婚し、岡崎藩主水野忠春の侍臣となり、国家老となって50の歳を数えるようになった。そして、ある時、公務での京都からの帰りに、ふと「八橋の古蹟」という名所を訪れ、疲れを覚えて休みを求めた小さな家にいた「お石」と出会うのである。
そこで、「お石」は、自分の想いと真相を静かに語り、ただ一筋に、むかし平之丞からもらった文鎮を生涯の守りとしてもていることを告げるのである。「お石はずいぶん辛かったのだな」という平之丞に「はい、ずいぶん苦しゅうございました」と素直に語る(124ページ)。その言葉は、自分が生涯抱き続けた想いをきちんと整理できた人間の静かな着地の言葉だろう。
こういう素直で正直で、一筋に自分の思いを抱き続ける女性に作者は限りなく優しい。その優しさが、最後の「縁側の障子も窓のほうも、すでに蒼茫と黄昏の色が濃くなって、庭の老松にはしきりに風がわたっていた」(124ページ)の情景描写によくあらわれているように思われる。
1945年の冬に初出された「風鈴」は、周囲の華美さや表面の豊かさに惑わされないで、自分の生きる道を見出していく女性の話である。「弥生」は、15歳のときに父を亡くし、その数年前には母親もなくしていたために、わずか十石ほどの貧しい家計をやりくりしながら、二人の妹を育ててきた。幸い、妹たちはそれぞれに裕福な藩の上席の家に嫁ぐことができた。だが、妹たちは実家の貧しさを恥じ、それぞれの夫に頼んで姉の弥生の主人に出世話を持ち込んできたり、贅沢な湯治旅に誘ったりする。
弥生も、妹たちの生活ぶりなどから、自分はいったい何のために苦労しているのかと思ったりする。だが、彼女の夫は、たとえ出世して碌(給料)が増えたところで、その仕事に生きがいを見出すことはできないし、自分には合わないからという理由で、出世話を断り、「大切なのは身分の高下や貧富の差ではない。人間として生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役立ち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います」(139ページ)と上役に語る夫の言葉を聞いて、自分は煩瑣な家事しかすることができないが、女として、妻として、母として、一家の中でかけがえのない人間として惜しまれることが大切だと自覚していくのである。
この作品が未曽有の混乱した戦後の社会状況の中で生き方を失った多くの人々が生きるための戦いを右往左往しながら繰り広げていた中でことや、戦後の日本の社会世相が他者との比較の中で織りなされていったことを考えれば、格別に味わい深い作品のように思われる。こういうところが文学者としての山本周五郎の鋭いところかもしれない。すぐれた文学者はどこか預言者的なところがあるものである。
第九編目の「彩虹(にじ)」は、男の隠された友情を描いた作品である。鳥羽藩の国家老交代に伴い、国家老の息子で幼いころがら卓越した才能をもっていた脇田宗之助が江戸での勉学を終えて、国家老に就任するために帰国してきた。帰国早々、宗之助は次々と藩の改革を打ち出していく。宗之助の友人で藩の老職(重役)で筆頭年寄であった樫村伊兵衛は、最も親しい友人であった宗之助のやり方に危惧を感じていた。そして、宗之助は、伊兵衛がひそかに思いを抱いていた料亭の娘の「さえ」を嫁にほしいと言い出す。伊兵衛と「さえ」は、幼いころから親しく、お互いに想いを抱くようになっていたが、伊兵衛はなかなか煮え切れないでいたのである。
そして、旧友の宗之助の結婚話から、自分の想いを「さえ」に伝えるようになり、「さえ」も自分の想いを伊兵衛に伝えるようになる。旧友の宗之助は、煮え切れない伊兵衛のことを思い、荒治療をし手二人を結びつけるのである。
こういう友情の姿というのは、たぶん、もう廃れてしまっているだろうが、前の「藪の蔭」と同様、隠され続ける深い愛情というのがあって、人の行為の表面しか見えない人間には決して見えないもので、実際には、人は素直に素朴に自分の思いは伝えたほうがよいとも思ったりする。「善意の敵役」という存在の一つの典型を美しく描いたものではあるだろう。
「七日七夜」は、旗本の四男という冷や飯食いの境遇に置かれた男が、家人のあまりの仕打ちに逆上し、兄嫁から金を奪って出奔し、放蕩の限りをして金を使い果たし、市井の小さな居酒屋に転がり込み、そこで居酒屋の娘や主、客たちの人情に触れ、彼を助けてくれた居酒屋の娘と結婚して、居酒屋を繁盛させていくという話である。人を変えることができるのは、情と愛以外にはないのだから、それをストレートに描いた作品がハッピーエンドで終わるのは、読んでいて嬉しいものである。
それとは反対に、どうしようもない境遇の中で「情」をもって助けてくれる人があって、救いが見いだせても、結局はひとりぽっちになってしまう女性の姿を描いたのが、次の「ほたる放生」である。
場末の岡場所(娼婦宿)に身を落とした「お秋」は、役者に似た顔をもつ「村次」という男に惚れている。だが、「村次」は女を食い物にする男で、「お秋」をさらに売り飛ばして金を得ようとしていた。「村次」は、新しく岡場所に売られてきた若い娘に目をつけ、「お秋」から若い娘に鞍替えしようとしていたのである。ささやかな幸せを望んでいたのに、そのささやかな幸せは「お秋」には訪れない。「お秋」は村次が若い娘に手をつけたことを知って、ついに村次を殺そうと思うようになっていく。
他方、「お秋」に心底ほれ込んで結婚を申し込んでいた藤吉という男がいて、「お秋」は村次に惚れていたために藤吉の話を断っていた。藤吉は「お秋」の身を案じ、村次のひどい仕打ちを知って、ダニのように「お秋」に食いついていた村次をついに殺して、「お秋」を自由の身にしてやるのである。そして、藤吉は自首をしていき、「お秋」は、結局またひとりぽっちになっていく。
第十二編目の「ちいさこべ」は、これまでの作風とはことなり、大工の若棟梁としての矜持をもって火事による両親の死から店を立ち直し、火事で孤児となった子どもたちを引き取っていく一本気な男の話である。ここには、仕事にしろ恋愛にしろ、筋を通して生きていこうとする人間の強さが描き出されている。こういう作品にも、人を温かく見るという作者の姿勢が溢れていて、主人公が自分の結婚相手として、誰もがふさわしいと考えるような相手ではなく、下働きとして懸命に生きながらも孤児たちの面倒を見ようとする娘を選んでいくなど、作者ならではの展開がなされている。
十三篇目以降については、また、次のときに書くことにする。月末は福島の原発近くに行くことにしているので、出来る限り読んだ書物について書き留めたいと思っているが、なかなか根気が続かなくなっている。
それにしても雨が降り続いている。大雨洪水警報さえ出された。気になる人や気になることがいくつかあるが、今日も徒手空虚で終わりそうな気がしている。
さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』の続きだが、終戦の年(1945年)の10月に大日本雄弁会講談社から『菊屋敷』の書名で出された中に収録されていた「菅笠」は、ほんの仲間内の見えから出陣中の武家の嫁になるといってしまった女性が、男の家と母を守り働くようになり、やがて出陣していた男の戦死の報が伝えられ、そこで初めて、男が丹精込めて作っていた菅笠をかぶって働くようになっていく女性の話である。
これも、夫を戦争で亡くして苦労した多数の婦人たちの姿が背景にあり、夫亡き後の家を守り、愛情を育んでいく女性への建徳的意味合いの強い作品である。執筆がまだ戦中であった1944年12月だから、それまでのほかの作品と同様に建徳的であるのはやむを得ないことかもしれない。だが、そうした時代的背景は別にしても、愛する者のために懸命に生きていこうとするけなげな女性の姿は、深く胸を打つものがある。
第七編目の「墨丸」は、同じ1945年の『婦人倶楽部』8・9月合併号に初出されたもので、執筆が1945年2月だそうだが、この物語にはそうした時代の影は直接的には感じず、むしろ、人を愛することの美しさと切なさが前面に出た作品のように思われた。
「お石」は、五歳のときに父親の異変で岡崎藩の鈴木平之丞の家に預けられて育てられることになった。彼女の素姓は「お石」を引き取った平之丞の父親以外には誰も知らなかった。色の黒い子で、平之丞たちから「墨丸」と渾名されたりしていたが、立ち居振る舞いもきちんとして、臆せず、「爽やかなほど明るいまっすぐな性質に恵まれていた」(108ページ)。長ずるに及んで琴の名手としての才能も発揮していくようになり、平之丞への想いも募らせていくようになる。
だが、「お石」の父親は、藩主の相続に絡んだ問題で、藩主に直接意見をしたことが藩主の逆鱗に触れ、生涯蟄居の罪を受け、不敬をわびるために切腹していたのである。そのことを知っていた「お石」は、平之丞を慕っているが、自分の素姓が発覚すれば鈴木家に迷惑が及ぶことを恐れ、平之丞との結婚話がもちあがったときに、琴を習うという名目で鈴木家を出てしまうのである。
やがて月日が流れ、平之丞は27歳でほかの女性と結婚し、岡崎藩主水野忠春の侍臣となり、国家老となって50の歳を数えるようになった。そして、ある時、公務での京都からの帰りに、ふと「八橋の古蹟」という名所を訪れ、疲れを覚えて休みを求めた小さな家にいた「お石」と出会うのである。
そこで、「お石」は、自分の想いと真相を静かに語り、ただ一筋に、むかし平之丞からもらった文鎮を生涯の守りとしてもていることを告げるのである。「お石はずいぶん辛かったのだな」という平之丞に「はい、ずいぶん苦しゅうございました」と素直に語る(124ページ)。その言葉は、自分が生涯抱き続けた想いをきちんと整理できた人間の静かな着地の言葉だろう。
こういう素直で正直で、一筋に自分の思いを抱き続ける女性に作者は限りなく優しい。その優しさが、最後の「縁側の障子も窓のほうも、すでに蒼茫と黄昏の色が濃くなって、庭の老松にはしきりに風がわたっていた」(124ページ)の情景描写によくあらわれているように思われる。
1945年の冬に初出された「風鈴」は、周囲の華美さや表面の豊かさに惑わされないで、自分の生きる道を見出していく女性の話である。「弥生」は、15歳のときに父を亡くし、その数年前には母親もなくしていたために、わずか十石ほどの貧しい家計をやりくりしながら、二人の妹を育ててきた。幸い、妹たちはそれぞれに裕福な藩の上席の家に嫁ぐことができた。だが、妹たちは実家の貧しさを恥じ、それぞれの夫に頼んで姉の弥生の主人に出世話を持ち込んできたり、贅沢な湯治旅に誘ったりする。
弥生も、妹たちの生活ぶりなどから、自分はいったい何のために苦労しているのかと思ったりする。だが、彼女の夫は、たとえ出世して碌(給料)が増えたところで、その仕事に生きがいを見出すことはできないし、自分には合わないからという理由で、出世話を断り、「大切なのは身分の高下や貧富の差ではない。人間として生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役立ち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います」(139ページ)と上役に語る夫の言葉を聞いて、自分は煩瑣な家事しかすることができないが、女として、妻として、母として、一家の中でかけがえのない人間として惜しまれることが大切だと自覚していくのである。
この作品が未曽有の混乱した戦後の社会状況の中で生き方を失った多くの人々が生きるための戦いを右往左往しながら繰り広げていた中でことや、戦後の日本の社会世相が他者との比較の中で織りなされていったことを考えれば、格別に味わい深い作品のように思われる。こういうところが文学者としての山本周五郎の鋭いところかもしれない。すぐれた文学者はどこか預言者的なところがあるものである。
第九編目の「彩虹(にじ)」は、男の隠された友情を描いた作品である。鳥羽藩の国家老交代に伴い、国家老の息子で幼いころがら卓越した才能をもっていた脇田宗之助が江戸での勉学を終えて、国家老に就任するために帰国してきた。帰国早々、宗之助は次々と藩の改革を打ち出していく。宗之助の友人で藩の老職(重役)で筆頭年寄であった樫村伊兵衛は、最も親しい友人であった宗之助のやり方に危惧を感じていた。そして、宗之助は、伊兵衛がひそかに思いを抱いていた料亭の娘の「さえ」を嫁にほしいと言い出す。伊兵衛と「さえ」は、幼いころから親しく、お互いに想いを抱くようになっていたが、伊兵衛はなかなか煮え切れないでいたのである。
そして、旧友の宗之助の結婚話から、自分の想いを「さえ」に伝えるようになり、「さえ」も自分の想いを伊兵衛に伝えるようになる。旧友の宗之助は、煮え切れない伊兵衛のことを思い、荒治療をし手二人を結びつけるのである。
こういう友情の姿というのは、たぶん、もう廃れてしまっているだろうが、前の「藪の蔭」と同様、隠され続ける深い愛情というのがあって、人の行為の表面しか見えない人間には決して見えないもので、実際には、人は素直に素朴に自分の思いは伝えたほうがよいとも思ったりする。「善意の敵役」という存在の一つの典型を美しく描いたものではあるだろう。
「七日七夜」は、旗本の四男という冷や飯食いの境遇に置かれた男が、家人のあまりの仕打ちに逆上し、兄嫁から金を奪って出奔し、放蕩の限りをして金を使い果たし、市井の小さな居酒屋に転がり込み、そこで居酒屋の娘や主、客たちの人情に触れ、彼を助けてくれた居酒屋の娘と結婚して、居酒屋を繁盛させていくという話である。人を変えることができるのは、情と愛以外にはないのだから、それをストレートに描いた作品がハッピーエンドで終わるのは、読んでいて嬉しいものである。
それとは反対に、どうしようもない境遇の中で「情」をもって助けてくれる人があって、救いが見いだせても、結局はひとりぽっちになってしまう女性の姿を描いたのが、次の「ほたる放生」である。
場末の岡場所(娼婦宿)に身を落とした「お秋」は、役者に似た顔をもつ「村次」という男に惚れている。だが、「村次」は女を食い物にする男で、「お秋」をさらに売り飛ばして金を得ようとしていた。「村次」は、新しく岡場所に売られてきた若い娘に目をつけ、「お秋」から若い娘に鞍替えしようとしていたのである。ささやかな幸せを望んでいたのに、そのささやかな幸せは「お秋」には訪れない。「お秋」は村次が若い娘に手をつけたことを知って、ついに村次を殺そうと思うようになっていく。
他方、「お秋」に心底ほれ込んで結婚を申し込んでいた藤吉という男がいて、「お秋」は村次に惚れていたために藤吉の話を断っていた。藤吉は「お秋」の身を案じ、村次のひどい仕打ちを知って、ダニのように「お秋」に食いついていた村次をついに殺して、「お秋」を自由の身にしてやるのである。そして、藤吉は自首をしていき、「お秋」は、結局またひとりぽっちになっていく。
第十二編目の「ちいさこべ」は、これまでの作風とはことなり、大工の若棟梁としての矜持をもって火事による両親の死から店を立ち直し、火事で孤児となった子どもたちを引き取っていく一本気な男の話である。ここには、仕事にしろ恋愛にしろ、筋を通して生きていこうとする人間の強さが描き出されている。こういう作品にも、人を温かく見るという作者の姿勢が溢れていて、主人公が自分の結婚相手として、誰もがふさわしいと考えるような相手ではなく、下働きとして懸命に生きながらも孤児たちの面倒を見ようとする娘を選んでいくなど、作者ならではの展開がなされている。
十三篇目以降については、また、次のときに書くことにする。月末は福島の原発近くに行くことにしているので、出来る限り読んだ書物について書き留めたいと思っているが、なかなか根気が続かなくなっている。
それにしても雨が降り続いている。大雨洪水警報さえ出された。気になる人や気になることがいくつかあるが、今日も徒手空虚で終わりそうな気がしている。
2011年8月22日月曜日
山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(1)
九州に来て、このところずっと天気がすぐれず、湿度の高い日々が続いている。18日に大宰府の天満宮と九州国立博物館を訪ね、「よみがえる国宝展」を見て、天満宮の参道で名物の「梅が枝餅」を美味しくいただいたりした。大宰府は本当に久しぶりで、雨だったがゆっくりした気分に浸ることができた。
往路の飛行機の中と実家で、持ってきていた山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(2006年 小学館)を味わい深く読むことができた。ここには、1940年から1959年までに書かれた中短編の中から、「人が人を想う心情」を描いたものが選出されて収録されており、読んでいてぽろぽろ涙がこぼれるというよりも、じんわりと瞳がにじんでくるような、そんなしみじみとした作品が収められている。
収録されているのは、「壺」(1940年)、「松の花」(1942年)、「春三たび」(1943年)、「藪の蔭」(1943年)、「おもかげ」(1944年)、「菅笠」(1945年)、「墨丸」(1945年)、「風鈴」(1945年)、「彩虹」(1946年)、「七日七夜」(1951年)、「ほたる放生」(1955年)、「ちいさこべ」(1957年)、「あだこ」(1958年)、「ちゃん」(1958年)、「その木戸を通って」(1959年)の15編である。なお、カッコ内は初出誌の年である。
このうち、「壺」から「おもかげ」までが戦中の作品であり、時代の影響もあってだろうが、いくぶん建徳的な性格を帯びた作品になっているように思われた。
たとえば、一編目の「壺」は、言葉の厳密な意味での「滅私奉公」の道を求める者の姿を描いた作品である。物語は、紀伊国(和歌山県)新宮の宿に剣豪として名高い荒木又右衛門が逗留するところから始まる。その宿に侍になることを夢見て剣を使う下男がいた。彼は侍になろうと自分で工夫をし、剣の修業をして、多くの武士と立ち合い、勝利をおさめていた。ところが、その下男が打ち負かせた武士の朋友たちが復讐にやってくる。荒木又衛門は下男の許嫁の頼みで、その勝負に待ったをかけ、下男は勝負に待ったをかけた荒木又衛門のすごさに打たれ、弟子になることを希望する。
彼の希望を入れて弟子にした荒木又衛門は、剣の極意を書いた書物が壺に入れて埋めてあるので、それを掘り出すようにと彼を草原に連れていく。下男は、剣の極意書の壺を見つけるために、来る日も来る日も草原を掘り返し続ける。だが壺は見つからない。そして、最後に、荒木又衛門が「お前が掘り返した土地を見よ。そこは畑になっているではないか」と言って、彼に、さむらいとは己を捨てた者のことであり、「剣を取ろうと鍬をとろうと、求める道の極意は一つ」とさとし、「人間のねうちは身分によって定まるのではない、各自その生きる道に奉ずる心、おのれのためではなく生きる道のために、心身をあげて奉る心、その心が人間のねうちを決定するのだ」(25ページ)と語り聞かせるのである。そして、下男は荒木又衛門の教えを受けて、許嫁とともに百姓をするために自国に帰って行くのである。
主題が、いかにも世界の列強国の中で国民を鼓舞しなければならなかった戦中の状況を表すものとなっている。表面的にはそうだが、山本周五郎らしいところがあって、その実、物語の中で荒木又衛門を動かしたのは、許嫁の娘の男を案じる純粋な心であり、二人が自分たちの幸せの道を見出していくというのが物語の骨格で、ここには、何よりも一人の人間の幸せを大切にしたいと願う作者の姿勢が込められているように思えるのである。時代の中で作者の苦労が感じられるような気もするのである。
次の「松の花」は、紀州徳川家の藩譜編纂の責を負う主人公が、藩の中で活躍した婦人たちのことを記した「松の花」と題する一巻を編纂中に老いた妻の死を看取ることとなり、改めて妻の生き方を顧みるというものである。
彼の妻「やす」は、大番組頭九百石の家に生まれ、おっとりとのびやかに育ち、千石の年寄役(重鎮)の佐野藤右衛門のところに嫁いできた。家計も豊かで使用人も多かったので、主婦という位置に座るだけでよく、事実、明るくおっとりとして落ち着いた生涯を送ってきたように見えた。だが、彼女が息を引き取った後、その手を触ってみれば、下女と同じように荒れた手をしていた。そして、家中の使用人ばかりかその家族までもが、彼女の死を嘆き悲しみ、その悲しみには異例とも思えるほどの深いものがあった。そして、形見分けのときに彼女の持ち物を開けてみると、そこには木綿の質素な着物と丁寧に洗い張りされて着古され、継あてのあるものばかりだった。
自分は質素なものを身にまとい、使用人たちに交じって働き、新しいものや高価なものは全部使用人たちの祝儀、不祝儀に与え、粗末な遺品しか残っていなかった。
そのことを知った主人公が、自分はいま「松の花」という藩の名を残した婦人たちの伝記を編纂しているが、このようにして選ばれた婦人たちだけではなく、「誰にも知られず、それと形に遺ることもしないが、柱を支える土台のように、いつも蔭にかくれて終わることのない努力に生涯をささげている。・・・これら婦人たちは世にあらわれず、伝記として遺ることもしないが、いつの時代にもそれを支える土台石となっているのだ。・・・この婦人たちを忘れては百千の烈女伝も意味がない。まことの節婦とは、このひとびとをこそさすのでなくてはならぬ」(39ページ)と思うのである。
これもまた、戦前の極めて建徳的な作品の一つであるといえるだろう。初出誌が『婦人倶楽部』という雑誌であることを考えれば、質素に、思いやりと明るさをもって人のために生涯を生きた婦人の姿を鼓舞するものであるといえるであろう。だが、ここにも、死後に改めて妻の真実の姿を知って深く心にとめていく老武士や、そのような母親の姿を知る息子の母への思い、使用人をいたわりながらみんなで生きていこうとした女性や、そんな彼女を敬い尊ぶ使用人たちの姿など、人本当は何によって生きるのかということがさりげなく込められているのである。
次の「春三たび」も戦中の作品で、初出誌も『婦人倶楽部』であり、出陣して死亡が伝えられる夫の武運を信じて、忍耐していく女性の姿を描いたものである。
恩田(微禄の者に与えた耕作地)を耕して細々と暮らす貧しい徒歩(下級武士)に嫁いだ「伊緒」は、結婚したばかりの夫を「天草の乱」の鎮圧のための兵として出陣させなければならなかった。病弱な義弟と老いた義母を抱え、「伊緒」は生まれて初めての農事にも精を出して留守宅を守っていく。やがて「天草の乱」も治まり、出陣した者たちが帰ってくるが、夫の姿はなく、戦死者にも記名されていない。彼女の夫は戦場で行くへ不明となり、戦場から逃げ出したとのうわさが立つ。そこで、彼女の実家の兄も仲人も、彼女を実家に戻そうとする。だが、彼女は、自分の夫が立派に戦ったことを信じ、病弱な義弟と老いた父母を抱え、懸命に働き、野良仕事をし、洪水に襲われた時は、夜は紙すきをし、昼も夜もなく働き通していく。
やがて、洪水の被害の取り調べの際、彼女の働きぶりが藩主の耳に届き、「天草の乱」のときの討死についての再調査が行われ、彼女の夫が立派に討死したことが証しされて、家の名誉が回復され、食録加増を受けるようになっていくのである。
これもまた、戦中の留守宅を預かる女性の姿を建徳的に励ますという主題で書かれたものだろう。だが、この中にも、たとえば、「伊緒」の父親が彼女に願ったこととして、「父は彼女に栄達をさせようとは考えなかった、安楽な生涯をとも望まなかった、まことの道にそって、おのれのちからで積みあげていく人生を与えてくれようとしたのだ」(45ページ)という、ただ忍耐して頑張るということではなく、ひとりの自立した人間としての女性の姿が描かれようとしているのである。
人は、時代や社会を自らで変える力を持てないかもしれない。与えられた状況と環境の中で生きることしかできないかもしれない。特に戦争といううねっていくような時代の流れの中ではそうだろう。だが、その中で、人としての矜持をもって誠実に生きることはできる。山本周五郎が戦中に描いた作品には、そうした人間の姿が描かれているのである。
それは、友人が犯した罪を黙って負いながら生きる武士の姿を描いた「藪の蔭」も、亡くなった姉との約束を守って自分の幸せを捨てながらも甥を武士として育てようとした女性の姿を、育てられる甥の立場から描いた「おもかげ」も同じである。
表現者が苦労しなければならない時代というものは、決して「いい時代」とは言えないが、これらの山本周五郎の戦中の作品を読んでみると、表面的な主題として出された(あるいは出さなければならなかった)建徳的要素の中で、彼が、「人が人を想う心の強さ」を描こうとしたかがわかる気がする。
ここまで記して、若干の疲れを覚えてしまったので、この本に収録されているほかの作品については次回に書くことにして、今日は休むことにする。、
往路の飛行機の中と実家で、持ってきていた山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(2006年 小学館)を味わい深く読むことができた。ここには、1940年から1959年までに書かれた中短編の中から、「人が人を想う心情」を描いたものが選出されて収録されており、読んでいてぽろぽろ涙がこぼれるというよりも、じんわりと瞳がにじんでくるような、そんなしみじみとした作品が収められている。
収録されているのは、「壺」(1940年)、「松の花」(1942年)、「春三たび」(1943年)、「藪の蔭」(1943年)、「おもかげ」(1944年)、「菅笠」(1945年)、「墨丸」(1945年)、「風鈴」(1945年)、「彩虹」(1946年)、「七日七夜」(1951年)、「ほたる放生」(1955年)、「ちいさこべ」(1957年)、「あだこ」(1958年)、「ちゃん」(1958年)、「その木戸を通って」(1959年)の15編である。なお、カッコ内は初出誌の年である。
このうち、「壺」から「おもかげ」までが戦中の作品であり、時代の影響もあってだろうが、いくぶん建徳的な性格を帯びた作品になっているように思われた。
たとえば、一編目の「壺」は、言葉の厳密な意味での「滅私奉公」の道を求める者の姿を描いた作品である。物語は、紀伊国(和歌山県)新宮の宿に剣豪として名高い荒木又右衛門が逗留するところから始まる。その宿に侍になることを夢見て剣を使う下男がいた。彼は侍になろうと自分で工夫をし、剣の修業をして、多くの武士と立ち合い、勝利をおさめていた。ところが、その下男が打ち負かせた武士の朋友たちが復讐にやってくる。荒木又衛門は下男の許嫁の頼みで、その勝負に待ったをかけ、下男は勝負に待ったをかけた荒木又衛門のすごさに打たれ、弟子になることを希望する。
彼の希望を入れて弟子にした荒木又衛門は、剣の極意を書いた書物が壺に入れて埋めてあるので、それを掘り出すようにと彼を草原に連れていく。下男は、剣の極意書の壺を見つけるために、来る日も来る日も草原を掘り返し続ける。だが壺は見つからない。そして、最後に、荒木又衛門が「お前が掘り返した土地を見よ。そこは畑になっているではないか」と言って、彼に、さむらいとは己を捨てた者のことであり、「剣を取ろうと鍬をとろうと、求める道の極意は一つ」とさとし、「人間のねうちは身分によって定まるのではない、各自その生きる道に奉ずる心、おのれのためではなく生きる道のために、心身をあげて奉る心、その心が人間のねうちを決定するのだ」(25ページ)と語り聞かせるのである。そして、下男は荒木又衛門の教えを受けて、許嫁とともに百姓をするために自国に帰って行くのである。
主題が、いかにも世界の列強国の中で国民を鼓舞しなければならなかった戦中の状況を表すものとなっている。表面的にはそうだが、山本周五郎らしいところがあって、その実、物語の中で荒木又衛門を動かしたのは、許嫁の娘の男を案じる純粋な心であり、二人が自分たちの幸せの道を見出していくというのが物語の骨格で、ここには、何よりも一人の人間の幸せを大切にしたいと願う作者の姿勢が込められているように思えるのである。時代の中で作者の苦労が感じられるような気もするのである。
次の「松の花」は、紀州徳川家の藩譜編纂の責を負う主人公が、藩の中で活躍した婦人たちのことを記した「松の花」と題する一巻を編纂中に老いた妻の死を看取ることとなり、改めて妻の生き方を顧みるというものである。
彼の妻「やす」は、大番組頭九百石の家に生まれ、おっとりとのびやかに育ち、千石の年寄役(重鎮)の佐野藤右衛門のところに嫁いできた。家計も豊かで使用人も多かったので、主婦という位置に座るだけでよく、事実、明るくおっとりとして落ち着いた生涯を送ってきたように見えた。だが、彼女が息を引き取った後、その手を触ってみれば、下女と同じように荒れた手をしていた。そして、家中の使用人ばかりかその家族までもが、彼女の死を嘆き悲しみ、その悲しみには異例とも思えるほどの深いものがあった。そして、形見分けのときに彼女の持ち物を開けてみると、そこには木綿の質素な着物と丁寧に洗い張りされて着古され、継あてのあるものばかりだった。
自分は質素なものを身にまとい、使用人たちに交じって働き、新しいものや高価なものは全部使用人たちの祝儀、不祝儀に与え、粗末な遺品しか残っていなかった。
そのことを知った主人公が、自分はいま「松の花」という藩の名を残した婦人たちの伝記を編纂しているが、このようにして選ばれた婦人たちだけではなく、「誰にも知られず、それと形に遺ることもしないが、柱を支える土台のように、いつも蔭にかくれて終わることのない努力に生涯をささげている。・・・これら婦人たちは世にあらわれず、伝記として遺ることもしないが、いつの時代にもそれを支える土台石となっているのだ。・・・この婦人たちを忘れては百千の烈女伝も意味がない。まことの節婦とは、このひとびとをこそさすのでなくてはならぬ」(39ページ)と思うのである。
これもまた、戦前の極めて建徳的な作品の一つであるといえるだろう。初出誌が『婦人倶楽部』という雑誌であることを考えれば、質素に、思いやりと明るさをもって人のために生涯を生きた婦人の姿を鼓舞するものであるといえるであろう。だが、ここにも、死後に改めて妻の真実の姿を知って深く心にとめていく老武士や、そのような母親の姿を知る息子の母への思い、使用人をいたわりながらみんなで生きていこうとした女性や、そんな彼女を敬い尊ぶ使用人たちの姿など、人本当は何によって生きるのかということがさりげなく込められているのである。
次の「春三たび」も戦中の作品で、初出誌も『婦人倶楽部』であり、出陣して死亡が伝えられる夫の武運を信じて、忍耐していく女性の姿を描いたものである。
恩田(微禄の者に与えた耕作地)を耕して細々と暮らす貧しい徒歩(下級武士)に嫁いだ「伊緒」は、結婚したばかりの夫を「天草の乱」の鎮圧のための兵として出陣させなければならなかった。病弱な義弟と老いた義母を抱え、「伊緒」は生まれて初めての農事にも精を出して留守宅を守っていく。やがて「天草の乱」も治まり、出陣した者たちが帰ってくるが、夫の姿はなく、戦死者にも記名されていない。彼女の夫は戦場で行くへ不明となり、戦場から逃げ出したとのうわさが立つ。そこで、彼女の実家の兄も仲人も、彼女を実家に戻そうとする。だが、彼女は、自分の夫が立派に戦ったことを信じ、病弱な義弟と老いた父母を抱え、懸命に働き、野良仕事をし、洪水に襲われた時は、夜は紙すきをし、昼も夜もなく働き通していく。
やがて、洪水の被害の取り調べの際、彼女の働きぶりが藩主の耳に届き、「天草の乱」のときの討死についての再調査が行われ、彼女の夫が立派に討死したことが証しされて、家の名誉が回復され、食録加増を受けるようになっていくのである。
これもまた、戦中の留守宅を預かる女性の姿を建徳的に励ますという主題で書かれたものだろう。だが、この中にも、たとえば、「伊緒」の父親が彼女に願ったこととして、「父は彼女に栄達をさせようとは考えなかった、安楽な生涯をとも望まなかった、まことの道にそって、おのれのちからで積みあげていく人生を与えてくれようとしたのだ」(45ページ)という、ただ忍耐して頑張るということではなく、ひとりの自立した人間としての女性の姿が描かれようとしているのである。
人は、時代や社会を自らで変える力を持てないかもしれない。与えられた状況と環境の中で生きることしかできないかもしれない。特に戦争といううねっていくような時代の流れの中ではそうだろう。だが、その中で、人としての矜持をもって誠実に生きることはできる。山本周五郎が戦中に描いた作品には、そうした人間の姿が描かれているのである。
それは、友人が犯した罪を黙って負いながら生きる武士の姿を描いた「藪の蔭」も、亡くなった姉との約束を守って自分の幸せを捨てながらも甥を武士として育てようとした女性の姿を、育てられる甥の立場から描いた「おもかげ」も同じである。
表現者が苦労しなければならない時代というものは、決して「いい時代」とは言えないが、これらの山本周五郎の戦中の作品を読んでみると、表面的な主題として出された(あるいは出さなければならなかった)建徳的要素の中で、彼が、「人が人を想う心の強さ」を描こうとしたかがわかる気がする。
ここまで記して、若干の疲れを覚えてしまったので、この本に収録されているほかの作品については次回に書くことにして、今日は休むことにする。、
2011年8月15日月曜日
高橋義夫『御隠居忍法 唐船番』
昨夜、陽が沈むと共に東の空にぽっかり浮かんだ丸い月をぼんやり眺めていた。気温が高いので蒼く澄み渡るような月光ではなかったが、黄白色の月は宇宙の孤独を感じさせるには充分だった。
その月光の中で半分眠りながら、高橋義夫『御隠居忍法 唐船番』(2002年 実業之日本社)を読んでいた。これはシリーズ物の一冊で、1995年から201年までで7冊の作品が出されているうちの4作目にあたるが、ほかの作品はまだ読んでいない。だが、おおよその構成はわかる。
主人公の鹿間狸斎(名は理助、狸斎は号)は、元公儀御庭番の伊賀者で、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲り、隠居して、嫁いだ娘が嫁ぎ先の国元に行ったことから娘が住む奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになった。隠居といってもまだ四十歳で、知力も気力もあり、伊賀者として身につけた探索力と手腕もある。彼が隠居すると同時に、彼の妻は彼の元を去ったが、五合枡村で「おすえ」という手伝いの女性との間に子どももでき、そのことで笹野藩士のところに嫁いでいる娘と一悶着あったらしい。
娘の嫁ぎ先の義父は、笹野藩郡奉行を務めたこともある新野耕民で、主人公の鹿間狸斎とは俳句仲間の友人であり、物語では、この二人の隠居が活躍していくのである。
本書では、久しぶりに江戸に出てきた鹿間狸斎が元の同僚たちである公儀御広敷御庭番を挨拶に訪ねる。そこで、組頭であった者から、数年前に羽後(秋田県)に探索に出て、現地で病死したと届けられている御庭番の一人が残した符丁が少し前に見つかり、もしかしたら生きているかもしれないから、その生死を確かめて欲しいと依頼される。
彼はその依頼を受けて、羽後の久保田藩へと向かうことにする。その道中に娘の義父であり友人である新野耕民も病後回復のためにということで同行し、秋田の汐越に向かう途中で、行くへ不明の兄を捜し出そうとする女武芸者の青田志満と出会う。
行くへを絶った御庭番が汐越に足跡を残していたことから、鹿間狸斎はまずそこで探索を始め、御庭番の失踪にはどうも松前渡りの船によるロシアとの抜け荷(道貿易)が絡んでいるらしいことがわかっていく。だが、汐越ではあまり明確な手がかりがないまま、狸斎は汐越から本庄へ向かい、そのあたりから狸斎を狙う者たちにつけ回されるようになる。そして、幾たびかの修羅場を切り抜けなければならないようになる。船頭宿や本庄藩の金蔵といわれる角屋という廻船問屋が怪しい。同行となった青田志満の兄も角屋で行くへがわからなくなている。どうやら彼女の兄も抜け荷に絡んでいるらしい。そういうことが徐々にわかっていくのである。
彼らはさらに久保田へ向かう。そして、途中の船で海賊に襲われたりしながら津軽との国境にある能代へ向かうことになる。能代にも本庄の角屋の親戚筋の角屋があり、さらに骨董品や珍しい品を扱う宮腰という店があり、その宮腰という店が黒幕であることがわかっていく。志満の兄が足を洗おうとして殺され、海賊を装った一大抜け荷(密貿易)組織について語るのである。
鹿間狸斎は、海賊の女を捕らえたり、殺された志満の兄の女房とその兄から事情を聞いたりして、海賊の根城が津軽との国境近くの山中にあることを突きとめ、単身でそこに乗り込んでいく。だが、捕らえられて殺されかけるところを唐船番と呼ばれる公儀隠密に助けられて抜け荷の首魁である海賊一味を打ち倒していくのである。海賊たちは山中で芥子を栽培し、阿片を作って、それでロシアとの密貿易
を図り、莫大な利益を得ていた。そして、その海賊の首魁は、実は、生死を確かめようとした元公儀御庭番であったのである。
この物語は、いわば、羽後(秋田県)を巡る冒険活劇譚である。ただ、細かな物語が若干錯綜したところがあって羽後(秋田県)全体を網羅している抜け荷(密貿易)一味組織の実体が掴みにくいことと、探していた元公儀御庭番が黒幕であるという結末が比較的ありきたりのような気もする。これだけ大がかりな組織を造り上げる人物が阿片中毒であるというのも、なんとなく劇的すぎる気がしないでもない。豪商たちの強欲ぶりがもう少し描かれてもいいような気がするのである。
しかし、隠居した中年が思うままに生きて、思うままに活躍し、活劇を繰り返していくというのは、娯楽小説としてのおもしろさを備えた作品だと思っている。あっさりと読める冒険譚であることは間違いない。
その月光の中で半分眠りながら、高橋義夫『御隠居忍法 唐船番』(2002年 実業之日本社)を読んでいた。これはシリーズ物の一冊で、1995年から201年までで7冊の作品が出されているうちの4作目にあたるが、ほかの作品はまだ読んでいない。だが、おおよその構成はわかる。
主人公の鹿間狸斎(名は理助、狸斎は号)は、元公儀御庭番の伊賀者で、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲り、隠居して、嫁いだ娘が嫁ぎ先の国元に行ったことから娘が住む奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになった。隠居といってもまだ四十歳で、知力も気力もあり、伊賀者として身につけた探索力と手腕もある。彼が隠居すると同時に、彼の妻は彼の元を去ったが、五合枡村で「おすえ」という手伝いの女性との間に子どももでき、そのことで笹野藩士のところに嫁いでいる娘と一悶着あったらしい。
娘の嫁ぎ先の義父は、笹野藩郡奉行を務めたこともある新野耕民で、主人公の鹿間狸斎とは俳句仲間の友人であり、物語では、この二人の隠居が活躍していくのである。
本書では、久しぶりに江戸に出てきた鹿間狸斎が元の同僚たちである公儀御広敷御庭番を挨拶に訪ねる。そこで、組頭であった者から、数年前に羽後(秋田県)に探索に出て、現地で病死したと届けられている御庭番の一人が残した符丁が少し前に見つかり、もしかしたら生きているかもしれないから、その生死を確かめて欲しいと依頼される。
彼はその依頼を受けて、羽後の久保田藩へと向かうことにする。その道中に娘の義父であり友人である新野耕民も病後回復のためにということで同行し、秋田の汐越に向かう途中で、行くへ不明の兄を捜し出そうとする女武芸者の青田志満と出会う。
行くへを絶った御庭番が汐越に足跡を残していたことから、鹿間狸斎はまずそこで探索を始め、御庭番の失踪にはどうも松前渡りの船によるロシアとの抜け荷(道貿易)が絡んでいるらしいことがわかっていく。だが、汐越ではあまり明確な手がかりがないまま、狸斎は汐越から本庄へ向かい、そのあたりから狸斎を狙う者たちにつけ回されるようになる。そして、幾たびかの修羅場を切り抜けなければならないようになる。船頭宿や本庄藩の金蔵といわれる角屋という廻船問屋が怪しい。同行となった青田志満の兄も角屋で行くへがわからなくなている。どうやら彼女の兄も抜け荷に絡んでいるらしい。そういうことが徐々にわかっていくのである。
彼らはさらに久保田へ向かう。そして、途中の船で海賊に襲われたりしながら津軽との国境にある能代へ向かうことになる。能代にも本庄の角屋の親戚筋の角屋があり、さらに骨董品や珍しい品を扱う宮腰という店があり、その宮腰という店が黒幕であることがわかっていく。志満の兄が足を洗おうとして殺され、海賊を装った一大抜け荷(密貿易)組織について語るのである。
鹿間狸斎は、海賊の女を捕らえたり、殺された志満の兄の女房とその兄から事情を聞いたりして、海賊の根城が津軽との国境近くの山中にあることを突きとめ、単身でそこに乗り込んでいく。だが、捕らえられて殺されかけるところを唐船番と呼ばれる公儀隠密に助けられて抜け荷の首魁である海賊一味を打ち倒していくのである。海賊たちは山中で芥子を栽培し、阿片を作って、それでロシアとの密貿易
を図り、莫大な利益を得ていた。そして、その海賊の首魁は、実は、生死を確かめようとした元公儀御庭番であったのである。
この物語は、いわば、羽後(秋田県)を巡る冒険活劇譚である。ただ、細かな物語が若干錯綜したところがあって羽後(秋田県)全体を網羅している抜け荷(密貿易)一味組織の実体が掴みにくいことと、探していた元公儀御庭番が黒幕であるという結末が比較的ありきたりのような気もする。これだけ大がかりな組織を造り上げる人物が阿片中毒であるというのも、なんとなく劇的すぎる気がしないでもない。豪商たちの強欲ぶりがもう少し描かれてもいいような気がするのである。
しかし、隠居した中年が思うままに生きて、思うままに活躍し、活劇を繰り返していくというのは、娯楽小説としてのおもしろさを備えた作品だと思っている。あっさりと読める冒険譚であることは間違いない。
2011年8月13日土曜日
上田秀人『錯綜の系譜 目付鷹垣隼人正裏録(二)』
炎天とか猛々しい暑さとかいった言葉がぴたりするほど暑い。夜になっても空気が少しも冷えないので、うだってしまう気がしたりする。芥川龍之介は「うさぎも片耳たれる暑さかな」と暑中見舞いに書いたそうだが、両耳どころか首から上が垂れてしまうような暑さに包まれている。蝉の声がやけにジリジリと響く。ただ、夏休みで帰省されている人が多いのか、それとも炎天下で出歩く人が少ないのか、ほんの少し街は静かである。
さて、上田秀人『神君の遺産 目付鷹垣隼人正裏録(一)』に続いて、その続編である『錯綜の系譜 目付鷹垣隼人正裏録(二)』(2010年 光文社文庫)を読んで見た。前作で、徳川家康が残した徳川将軍家に関わる謎を追うことになった目付の高垣暁(隼人正)は、家康が最初に葬られた久能山の家康廟を訪ね、老中が放った伊賀者との箱根での死闘の後に江戸へ戻り、三代将軍徳川家光の出生に関わる謎を追って、さらに日光の東照宮へと向かうことになる。
江戸に帰った鷹垣暁は、さっそく、林羅山が集めて残した家康の遺物文書や徳川家の文書を調べるために林家の書庫にこもる日々が続いていくが、その間、徳川綱吉と側室のお伝、そしてお伝の方が使う黒鍬者たち、老中御用部屋首座の大久保加賀守忠朝の思惑とその意を受けて働く伊賀者たち、家光の孫で将軍位を狙う甲府藩主徳川綱豊とその手先の甲斐忍者、徳川家の秘密を守り続けようとする上野寛永寺慈眼衆の僧兵たち、あるいは目付部屋の同僚や使われる徒目付といった鷹垣暁の探索を巡る者たちの、それぞれの思惑が錯綜していく。
作者の上田秀人は、これらの人物をそれぞれに描く際に、それぞれが置かれた立場を丹念に描き、それぞれが自分の立場を守るために、あるいは上昇してよりよい立場を得ようとするために体制の中で苦闘する者として描き出している。体制の中で生きるための必然が彼らを駆り立て、また死地へと赴かせていくのである。そこに、使う者と使われる者の悲哀がにじんでいく。
その中で、主人公の高垣暁は何度も襲われ、その度に親友の五百旗平太郎(いおき へいたろう)によって助けられながら、事態と古文書に隠された謎を分析していく明晰さで、徳川家の謎を追い続けるのである。彼自身も徳川綱吉に使われる者であることを意識して、事実を明白にすることだけが自分の身を守る方法であることを深く知っていく。
そして、日光の東照宮にすべての争いが集結し、徳川家の秘密を守ろうとする上野寛永寺慈眼衆に襲われる中で、自分の推測が正しいことを確信する。それは、家康の顧問として実権を握っていた天海大僧正が、実は、織田信長の命で切腹をさせられた家康の長男の徳川信康であり、その信康と春日局の間にできた子どもが徳川家光であるというものである。もちろん、これは作者の奇抜な着想にほかならない。この着想が、物語の後半で急展開して述べられ、結末が急ぐようにして語られるのは、少しもったいない気もするが、切腹させられた信康を思う家康の父親としての心情が、天海大僧正という存在に繋がるという着想はなかなかのものだと思う。
歴史的にも天海大僧正に関しては謎が多く、家光の乳母であった春日局が大奥を作り徳川家存続のために何故あれほどの実権を持ったのか、またなぜ初期の頃は卓越した政治手腕を発揮した徳川綱吉があれほど世継ぎに執着して「生類憐れみの令」といった悪法を敷いたのかは解釈が分かれるところであるから、こういう歴史上の着想が全く荒唐無稽のものではないので、それを親子や夫婦の「情」として語るところに、この作品の面白さがあると思う。
この作品は、登場人物たちの描写と把握がしっかりして、どの人物も「生きた人間」として描かれ、しかも制度や体制の中で何とか息をつこうと必死になっている姿で描かれるので、物語に息がある。また、主人公の鷹垣暁やその妻、友人の五百旗平太郎などがお互いの会話でしっかり描かれ、生死観や社会観、家族観や夫婦観などが生きた言葉として語られ、作者の力量が相当なものであることがわかる。
人はそれぞれに苦悩と哀しみを負いながら生きている。この作品を読みながらそういうことを改めて感じた。これはそういう作品だった。
2011年8月11日木曜日
上田秀人『神君の遺品 目付鷹垣隼人正裏録(一)』
この一両日が今年の夏の暑さのピークではないかと思えるほど、朝から強い日差しが差して気温が跳ね上がっている。何もかもがうだって、起き出した時からすでに脳が半分ほどどけだしているような気さえする。世界の基軸通貨となってきたドルが売られて、「金融」という経済幻想の上に建てられてきた社会がきしみを上げている。やがて、このきしみは貧しい者をさらに困窮に落とし込むだろう。そんな思いを抱きながら新聞を読んでいた。暑苦しいのに、なおさら暑苦しい。
だが、昨夜読んだ上田秀人『神君の遺品 目付鷹垣隼人正裏録(一)』(2009年 光文社文庫)はすっきりしている。現役の歯科医師でありつつ凝った時代小説を発表されている作者の作品は、『闕所物奉行 裏帳合』というシリーズの作品を以前に読んで、物語の設定と着想のすばらしさに目を見張ったことがあり、本書も、歴史の謎への奇抜な着想と物語の展開、主人公の設定などに卓越したものを感じる作品だった。
まず、「目付」という武家を監察した役職のものを主人公に設定すること自体が奇抜である。江戸時代の「目付」は、武家に対してほぼ絶対的な権力を有し、主に旗本・御家人を監察したが、政務も監察し、上司である若年寄や大目付を告発することもあったし、疑義のある場合は老中を飛び越えて直接将軍に意見を言うことも可能であった。また、三千はあると言われた城中儀礼の指揮監督にもあたり、たとえば畳の縁を踏んだというだけで告発したりもした。
そのために、恐れられる存在ではあっても、決して好まれる存在ではなかった。「目付」は、いくつかの役務を歴任した人物が選ばれ、勤め上げれば奉行にもなっていく旗本の出世コースだったが、後の鳥居耀蔵に見られるように、役職柄、気質的には権謀術策に富んだだ陰湿な印象を免れ得ない存在のような気がするのである。体制の保持に神経を使いながら、しかも、その体制の中での権力の掌握と上昇志向に満ちた役職が「目付」ではなかったかと思ったりする。
こういう役職にあるものを主人公にし、しかも魅力ある人物として描き出すためには、矛盾を抱えたものとしての人間への洞察が必要で、その点では、江戸時代の学問の第一人者であった林羅山が開いた私塾で抜群の成績を収めて、将軍の目にとまり、将軍による直接の推挙で「目付」となった頭脳明晰な青年という設定は、なかなかのものだと思ったりする。また、主人公自身が武芸に疎いために、剣の腕と変わらぬ友情によって彼の探索を助ける幼馴染みの友人や、その妹で彼の妻となった女性の愛情と凛とした姿など、主人公の真摯な姿を爽やかに描き出す上で重要な役割を果たすものとなっていることなど、この作品を面白くするために巧みな工夫がされているように思う。
また、彼を「目付」として直接推挙した将軍というのが徳川綱吉というのも、なかなか味わい深いものである。江戸幕府五代将軍徳川綱吉は、三代将軍家光の四男で、家光の長男であった四代将軍徳川家綱に継嗣がなかったことから家綱の養嗣子となり、五代将軍となった人である。前将軍である家綱は、幼くして将軍となり(10歳)、性格的に温厚で絵画や釣りなどに関心を寄せるだけで、政治に関しては「寛永の遺老」と言われ徳川幕藩体制を築いていった保科正之や酒井忠勝、酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋といった名臣たちの言うとおりで「左様せい」と言うだけの「左様せい将軍」であった。いわば、家綱は幕府老中の思うままの操り人形に過ぎなかったのである。
そのため、家綱の後を受けて五代将軍となった学問好きで利発な綱吉は、将軍の実権を老中から取り戻すことに苦労し、細部にわたって手腕を発揮することを望んだといわれる。そして、綱吉の初期の頃は、大老であった堀田正俊を片腕にして、幕府の会計監査のための勘定吟味役を設置したり、戦国時代の殺伐とした風潮を一掃して徳を重んじる文治政治を推進し、学問の中心として湯島大聖堂を建立したりした。
しかし後に、大老の堀田正俊が稲葉正休に刺殺された後、儒教の「孝」を重んじるために母親の勧言を入れ、悪法と言われる「生類憐れみの令」などの悪政を次々と行うようになっていった。彼の利発さと表層だけの学問は独善となり、その独善が人々を苦しめることになるとは思いも寄らなかったのである。
こういう徳川綱吉の人物像を、作者は良く踏まえた上で、主人公の鷹垣暁(たかがき あきら)を「目付」として登用し、幕府の実権を掌握するために用いていくという筋立てにしているのである。
また、表題の『神君の遺品』というのも、本書の内容をよく表していて、「神君」というのは徳川家康で、「遺品」というのは、ようやく晩年になって徳川幕府の基を築くことができた徳川家康が残した幕府体制、特に総軍家に関わる意志そのものをさすものである。事柄が、徳川将軍家に関わる謎に迫るものであるということが示されているのである。
さて、物語は主人公の鷹垣暁が目付として抜擢され、綱吉から特別に声をかけられて「隼人正」という名前をもらって、目付の仕事を始めるところから始まる。その仕事の中で、書院番となったひとりの旗本が駿府勤務中の悪行で斬首され、幼い三人の子どもたちも切腹になる場面に目付として立ち会うことになる。だが、鷹垣暁は、その処分に疑念を持ち調べ始める。しかし、彼の調査を阻止しようとするものが現れ、やがて、それが綱吉の右腕であった大老の堀田正俊が稲葉正休に殿中で刺殺された事件の謎と繋がり、綱吉の父親であった家光の出生と乳母であった春日局、そして家康との関係にまで繋がるような将軍職そのものを巡る問題と関連していくのである。
将軍職を巡る暗闘の中で、綱吉とその側室である「お伝の方(瑞春院)」の意を受けて暗躍する黒鍬者たち、幕府の実権を握ろうとする老中の意を受けて探索する主人公を襲う伊賀者たち、将軍職を狙う甲府藩主徳川綱重(家光の三男)の長男である徳川綱豊(第六代将軍徳川家宣となる)の意を受けて活動する甲斐者たち、家康が残した秘密を守ろうとする「上野寛永寺慈眼衆」と名乗る僧兵たちという忍者集団が「家康の秘密」を巡って次々と登場し、主人公たちとの死闘を繰り返したりする。もちろん、その背後にある政治的な思惑と欲望が渦巻いているのである。こうした活劇的展開も本書の面白さの一つとなっている。
従って、「背面の虎、前面の狼」ではないが、主人公は幾重もの敵に囲まれながら、友人の御家人であり剣客である五百旗平太郎(いおき へいたろう)の助けを得て、真相の探索へと進んで行くのである。
そして、これだけの構成と作者の丹念さがあるのだから、当然、物語としては長編にならざるをえないだろう。文庫本書き下ろしという制約だから、物語の中核である徳川将軍家の謎をめぐる『神君の遺品』は途中で終わり、次ぎに『錯綜の系譜 目付鷹垣隼人正裏録(二)』へと繋がるが、本来は長編となる作品だろうと思う。
この作品には、権力に使われる側の人間の哀しみがあって、それが全体を薄く覆っている。その哀しみの響きがある中で、使われる側の人間にはそれなりの矜持があることが伝わってくる。そのことについては、続きを読んでからまた書き記しておくことにしよう。 主人公には、体制の中で生きなければならない悲哀があるので、これは特筆すべきことだろうと思っている。
だが、昨夜読んだ上田秀人『神君の遺品 目付鷹垣隼人正裏録(一)』(2009年 光文社文庫)はすっきりしている。現役の歯科医師でありつつ凝った時代小説を発表されている作者の作品は、『闕所物奉行 裏帳合』というシリーズの作品を以前に読んで、物語の設定と着想のすばらしさに目を見張ったことがあり、本書も、歴史の謎への奇抜な着想と物語の展開、主人公の設定などに卓越したものを感じる作品だった。
まず、「目付」という武家を監察した役職のものを主人公に設定すること自体が奇抜である。江戸時代の「目付」は、武家に対してほぼ絶対的な権力を有し、主に旗本・御家人を監察したが、政務も監察し、上司である若年寄や大目付を告発することもあったし、疑義のある場合は老中を飛び越えて直接将軍に意見を言うことも可能であった。また、三千はあると言われた城中儀礼の指揮監督にもあたり、たとえば畳の縁を踏んだというだけで告発したりもした。
そのために、恐れられる存在ではあっても、決して好まれる存在ではなかった。「目付」は、いくつかの役務を歴任した人物が選ばれ、勤め上げれば奉行にもなっていく旗本の出世コースだったが、後の鳥居耀蔵に見られるように、役職柄、気質的には権謀術策に富んだだ陰湿な印象を免れ得ない存在のような気がするのである。体制の保持に神経を使いながら、しかも、その体制の中での権力の掌握と上昇志向に満ちた役職が「目付」ではなかったかと思ったりする。
こういう役職にあるものを主人公にし、しかも魅力ある人物として描き出すためには、矛盾を抱えたものとしての人間への洞察が必要で、その点では、江戸時代の学問の第一人者であった林羅山が開いた私塾で抜群の成績を収めて、将軍の目にとまり、将軍による直接の推挙で「目付」となった頭脳明晰な青年という設定は、なかなかのものだと思ったりする。また、主人公自身が武芸に疎いために、剣の腕と変わらぬ友情によって彼の探索を助ける幼馴染みの友人や、その妹で彼の妻となった女性の愛情と凛とした姿など、主人公の真摯な姿を爽やかに描き出す上で重要な役割を果たすものとなっていることなど、この作品を面白くするために巧みな工夫がされているように思う。
また、彼を「目付」として直接推挙した将軍というのが徳川綱吉というのも、なかなか味わい深いものである。江戸幕府五代将軍徳川綱吉は、三代将軍家光の四男で、家光の長男であった四代将軍徳川家綱に継嗣がなかったことから家綱の養嗣子となり、五代将軍となった人である。前将軍である家綱は、幼くして将軍となり(10歳)、性格的に温厚で絵画や釣りなどに関心を寄せるだけで、政治に関しては「寛永の遺老」と言われ徳川幕藩体制を築いていった保科正之や酒井忠勝、酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋といった名臣たちの言うとおりで「左様せい」と言うだけの「左様せい将軍」であった。いわば、家綱は幕府老中の思うままの操り人形に過ぎなかったのである。
そのため、家綱の後を受けて五代将軍となった学問好きで利発な綱吉は、将軍の実権を老中から取り戻すことに苦労し、細部にわたって手腕を発揮することを望んだといわれる。そして、綱吉の初期の頃は、大老であった堀田正俊を片腕にして、幕府の会計監査のための勘定吟味役を設置したり、戦国時代の殺伐とした風潮を一掃して徳を重んじる文治政治を推進し、学問の中心として湯島大聖堂を建立したりした。
しかし後に、大老の堀田正俊が稲葉正休に刺殺された後、儒教の「孝」を重んじるために母親の勧言を入れ、悪法と言われる「生類憐れみの令」などの悪政を次々と行うようになっていった。彼の利発さと表層だけの学問は独善となり、その独善が人々を苦しめることになるとは思いも寄らなかったのである。
こういう徳川綱吉の人物像を、作者は良く踏まえた上で、主人公の鷹垣暁(たかがき あきら)を「目付」として登用し、幕府の実権を掌握するために用いていくという筋立てにしているのである。
また、表題の『神君の遺品』というのも、本書の内容をよく表していて、「神君」というのは徳川家康で、「遺品」というのは、ようやく晩年になって徳川幕府の基を築くことができた徳川家康が残した幕府体制、特に総軍家に関わる意志そのものをさすものである。事柄が、徳川将軍家に関わる謎に迫るものであるということが示されているのである。
さて、物語は主人公の鷹垣暁が目付として抜擢され、綱吉から特別に声をかけられて「隼人正」という名前をもらって、目付の仕事を始めるところから始まる。その仕事の中で、書院番となったひとりの旗本が駿府勤務中の悪行で斬首され、幼い三人の子どもたちも切腹になる場面に目付として立ち会うことになる。だが、鷹垣暁は、その処分に疑念を持ち調べ始める。しかし、彼の調査を阻止しようとするものが現れ、やがて、それが綱吉の右腕であった大老の堀田正俊が稲葉正休に殿中で刺殺された事件の謎と繋がり、綱吉の父親であった家光の出生と乳母であった春日局、そして家康との関係にまで繋がるような将軍職そのものを巡る問題と関連していくのである。
将軍職を巡る暗闘の中で、綱吉とその側室である「お伝の方(瑞春院)」の意を受けて暗躍する黒鍬者たち、幕府の実権を握ろうとする老中の意を受けて探索する主人公を襲う伊賀者たち、将軍職を狙う甲府藩主徳川綱重(家光の三男)の長男である徳川綱豊(第六代将軍徳川家宣となる)の意を受けて活動する甲斐者たち、家康が残した秘密を守ろうとする「上野寛永寺慈眼衆」と名乗る僧兵たちという忍者集団が「家康の秘密」を巡って次々と登場し、主人公たちとの死闘を繰り返したりする。もちろん、その背後にある政治的な思惑と欲望が渦巻いているのである。こうした活劇的展開も本書の面白さの一つとなっている。
従って、「背面の虎、前面の狼」ではないが、主人公は幾重もの敵に囲まれながら、友人の御家人であり剣客である五百旗平太郎(いおき へいたろう)の助けを得て、真相の探索へと進んで行くのである。
そして、これだけの構成と作者の丹念さがあるのだから、当然、物語としては長編にならざるをえないだろう。文庫本書き下ろしという制約だから、物語の中核である徳川将軍家の謎をめぐる『神君の遺品』は途中で終わり、次ぎに『錯綜の系譜 目付鷹垣隼人正裏録(二)』へと繋がるが、本来は長編となる作品だろうと思う。
この作品には、権力に使われる側の人間の哀しみがあって、それが全体を薄く覆っている。その哀しみの響きがある中で、使われる側の人間にはそれなりの矜持があることが伝わってくる。そのことについては、続きを読んでからまた書き記しておくことにしよう。 主人公には、体制の中で生きなければならない悲哀があるので、これは特筆すべきことだろうと思っている。
2011年8月8日月曜日
高橋義夫『江戸鬼灯』
焦がすような陽射しが照りつけ、うだる夏の暑さが戻ってきた。湿度もかなりあって戸外でちょっと体を動かすだけで汗が滴る。やはり、夏は何もしないで休むに限る、と思ったりする。
週末にかけて、高橋義夫『江戸鬼灯(えどほおずき)』(1998年 廣済堂出版)を、かなり時間をかけて読んだ。江戸時代の文化・文政から天保にかけて、紫式部の『源氏物語』を下敷きにした『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)で流行作家となった柳亭種彦(りゅうていたねひこ-1783-1842年)が作家として名をなしていく過程を描いたもので、病弱な御家人の息子として生まれ、狂歌や歌舞伎に懲り、古典文学の研鑽を積みながら作品を書いていく姿がいくつかの色合いをもたせながら綴られていくので、かなり味わい深い作品だった。
柳亭種彦(高屋彦四郎)は、二百俵の旗本の家に生まれ、病弱だったためか武芸にはいっさい関心がなく、少年の頃から漢籍などに親しみ、歌舞伎や浄瑠璃を好んで井原西鶴や近松門左衛門に傾倒し、狂歌や国学などを学んでいった人で、当時の小普請(無役)の旗本・御家人は、たいていは、金はないが暇だけはうんざりするほどあって、武を頼んで放蕩無頼をするか、狂歌や三味線、唄、浄瑠璃などの遊芸に精を出すかのどちらかだった。
少年の頃から漢籍に親しみ、古典文学や狂歌、俳句を学んできて考証を重ね、性格的に真面目な柳亭種彦が、やがて文学の世界で身を立てたいと望んだのは、彼の自然な成り行きだっただろう。そのあたりについて、高橋義夫は「何かを書き、版木に刷って世に問いたいという気持ちが年をおって強いものになる。それがなにか、狂歌、狂詩、狂文か、あるいは随筆、考証のたぐいか、自分にもはっきりわからなかった。ともかく、なにかを世に問いたい。ここに高屋彦四郎ありと、世に訴えたいのである」(15ページ)と適切に述べている。
この作品では、こうした柳亭種彦の姿を、武士を捨てて高利貸しになった友人の「豆彦」や、女遊びが過ぎて旗本から三味線芸人になった「好也」、小普請の境遇から何とか脱しようとする隣人、そして、彼の妻の勝子や浮気相手の「りく」などの姿を交えながら描き出すし、当時の江戸の文壇ともいうべき烏亭焉馬や山東京伝、滝沢馬琴、そして絵師の葛飾北斎、歌川国貞らとの交流、版元との関係なども丹念に描かれている。そこには、世相の息苦しさの中で巧みに政治の弾圧をかいくぐりながら作品を発表していく反骨精神もある。
柳亭種彦は、やがて彼の『田舎源氏』が大奥の内密を暴くものであるとの言いがかりをつけられて天保の改革の時に水野忠邦によって弾圧を受けるが、本書は、彼が作家として発心し、やがてその作品が流行作品となっていき、次々と作品を発表していくところまでを描いたものである。
それにしても、この時代の文人たちの洒落っ気にはつくづく感心する。1787-1793年に松平定信が行った寛政の改革で手鎖の刑を受けた山東京伝が出した書物の題名は『手前勝手御存知商売物(てまえがってごぞんじのしょうばいもの)』というのや『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)』というものだったり、柳亭種彦を世に出した烏亭焉馬(江戸の落語の中興の祖といわれる立川談州楼)の別号は「桃栗山人柿発斎(ももくりさんじんかきはっさい)」だったりする。この時代の狂歌をした文人たちの名前も洒落ている。
こういう粋で洒落た姿は、今ではもう廃れてしまったのが何とも残念で、「遊び心」の質が変わって、今では「遊び心」も大らかさがない気がする。今では、自己主張ばかりが謳歌されすぎるきらいがある。「遊び心」には、「どうせたいしたことはない」という自戒があって、江戸時代の戯作者たちの姿を見ると、文学に限らず、芸術には「遊び心」があったほうがよいように思ったりするのである。
週末にかけて、高橋義夫『江戸鬼灯(えどほおずき)』(1998年 廣済堂出版)を、かなり時間をかけて読んだ。江戸時代の文化・文政から天保にかけて、紫式部の『源氏物語』を下敷きにした『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)で流行作家となった柳亭種彦(りゅうていたねひこ-1783-1842年)が作家として名をなしていく過程を描いたもので、病弱な御家人の息子として生まれ、狂歌や歌舞伎に懲り、古典文学の研鑽を積みながら作品を書いていく姿がいくつかの色合いをもたせながら綴られていくので、かなり味わい深い作品だった。
柳亭種彦(高屋彦四郎)は、二百俵の旗本の家に生まれ、病弱だったためか武芸にはいっさい関心がなく、少年の頃から漢籍などに親しみ、歌舞伎や浄瑠璃を好んで井原西鶴や近松門左衛門に傾倒し、狂歌や国学などを学んでいった人で、当時の小普請(無役)の旗本・御家人は、たいていは、金はないが暇だけはうんざりするほどあって、武を頼んで放蕩無頼をするか、狂歌や三味線、唄、浄瑠璃などの遊芸に精を出すかのどちらかだった。
少年の頃から漢籍に親しみ、古典文学や狂歌、俳句を学んできて考証を重ね、性格的に真面目な柳亭種彦が、やがて文学の世界で身を立てたいと望んだのは、彼の自然な成り行きだっただろう。そのあたりについて、高橋義夫は「何かを書き、版木に刷って世に問いたいという気持ちが年をおって強いものになる。それがなにか、狂歌、狂詩、狂文か、あるいは随筆、考証のたぐいか、自分にもはっきりわからなかった。ともかく、なにかを世に問いたい。ここに高屋彦四郎ありと、世に訴えたいのである」(15ページ)と適切に述べている。
この作品では、こうした柳亭種彦の姿を、武士を捨てて高利貸しになった友人の「豆彦」や、女遊びが過ぎて旗本から三味線芸人になった「好也」、小普請の境遇から何とか脱しようとする隣人、そして、彼の妻の勝子や浮気相手の「りく」などの姿を交えながら描き出すし、当時の江戸の文壇ともいうべき烏亭焉馬や山東京伝、滝沢馬琴、そして絵師の葛飾北斎、歌川国貞らとの交流、版元との関係なども丹念に描かれている。そこには、世相の息苦しさの中で巧みに政治の弾圧をかいくぐりながら作品を発表していく反骨精神もある。
柳亭種彦は、やがて彼の『田舎源氏』が大奥の内密を暴くものであるとの言いがかりをつけられて天保の改革の時に水野忠邦によって弾圧を受けるが、本書は、彼が作家として発心し、やがてその作品が流行作品となっていき、次々と作品を発表していくところまでを描いたものである。
それにしても、この時代の文人たちの洒落っ気にはつくづく感心する。1787-1793年に松平定信が行った寛政の改革で手鎖の刑を受けた山東京伝が出した書物の題名は『手前勝手御存知商売物(てまえがってごぞんじのしょうばいもの)』というのや『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)』というものだったり、柳亭種彦を世に出した烏亭焉馬(江戸の落語の中興の祖といわれる立川談州楼)の別号は「桃栗山人柿発斎(ももくりさんじんかきはっさい)」だったりする。この時代の狂歌をした文人たちの名前も洒落ている。
こういう粋で洒落た姿は、今ではもう廃れてしまったのが何とも残念で、「遊び心」の質が変わって、今では「遊び心」も大らかさがない気がする。今では、自己主張ばかりが謳歌されすぎるきらいがある。「遊び心」には、「どうせたいしたことはない」という自戒があって、江戸時代の戯作者たちの姿を見ると、文学に限らず、芸術には「遊び心」があったほうがよいように思ったりするのである。
2011年8月4日木曜日
北原亞以子『あんちゃん』
今日も雨模様で、このところずっと天気が優れない。こんなに続くと農作物への日照不足が起こるかもしれないと思ったりもする。
もうずいぶん以前にオランダのV.ピュアソンという人が、人間の思考形態が神話論的思考から存在論的思考、そして機能的思考へと変わってきたことを指摘していたことを思い出し、機能を求める思考は有効的で実効的だが、本来的には非機能的でもある人間の存在を損ねてしまう危険性があることをぼんやり考えたりしていた。
というのは、最近、「もっと効率を上げましょう」ということを、一般に「やり手」といわれる優秀な人たちから聞かされることが多かったからで、機能的効率を思考するところには精神の豊かさが宿らないように思えてならなかったからである。
それはともかく、北原亞以子『あんちゃん』(2010年 文藝春秋社)を読んだ。北原亞以子は『慶次郎縁側日記』や『深川澪通り木戸番小屋』という作品の柔らかい筆使いが好きで比較的よく読む作家の一人だが、『あんちゃん』は、昨年出されたばかりの短編集である。
ここには、「帰り花」、「冬隣」、「風鈴の鳴りやむ時」、「草青む」、「いつのまにか」、「楓日記 窪田城異聞」、「あんちゃん」の7編の短編が収められており、いずれもが自分の幸せを求めて生きる人間の切なさを描いたものである。
「帰り花」は、ひもじい思いをして暮らしていた少女の頃に、自分に親切にしてくれた手習い所の師匠への思いを抱き続けた女性が、夫を失い、内職などで細々と子どもを養いながらも、その師匠を忘れられずに境遇が変わった師匠を捜し回り、訪ねて、変わらぬ優しさに涙していく話である。
「冬隣」は、夫に浮気された女性の葛藤を描いたもので、「風鈴の鳴りやむ時」は、結婚を言い交わした男を寝取られて、寝取った女の企みで深川の娼婦に身を落とした女性と勘当されて質屋の帳付け(会計)をしている旗本の次男坊の、いわばやるせない寝屋物語のような話である。また、「草青む」は、老いた味噌問屋の主に囲われている妾の、死を迎える主をも守っていく愛情を描いたもので、「いつのまにか」は、結婚して幸せに暮らしている女性が、自分の幸せがいつか壊れるのではないかと不安を抱き、その不安どおりに破落戸になってしまった弟が訪ねて来て居着く中で、弟に対する愛情はあるがしっかりと自分の家を守ろうとする女性の話である。
「楓日記 窪田城異聞」は、これらの作品の中では毛色が変わっていて、古い家から見つかった古文書から、戦国から江戸初期にかけての武将であった秋田の佐竹義宣(1570-1633年)の、関ヶ原合戦前後で人が変わったような有様から、家老であった渋江政光による替え玉策があったのではないかと、それに関わりのあった自分の先祖の女性の日記を読み解いていく話である。
そして、表題作でもある「あんちゃん」は、貧しい水呑の小作人の家に生まれた男が江戸に出てきて、運よく高利貸しに出会い、懸命に働き、やがて炭問屋を営むようになって金を稼ぐことにあくせくしていたが、信頼していた兄が郷里から出てきた時に金を差し出して、「何でもかんでも金じゃあねぇ」と怒りをかい、女房からも囲った女からも捨てられ、生きる力を失ってしまった時に、ずっと自分を支えてくれた番頭に郷里に帰って兄と和解することを勧められる話である。
これらの7つの短編は、文学作品としての短編のきれや鋭さはないし、登場人物たちを通しての人間への洞察の深みもない。だが、人がそれぞれにやりきれない思いを抱きながら暮らしている姿が、ここにはあって、人の温もりの切なさがある。そして、人の温もりを描くところには甘さがあり、下手をすれば少女趣味的な結末となることがあるにしても、人の温もりほど人を幸せな気分にしてくれるものはないのだから、素朴に描かれるのも悪くはないと思う。
作品としての物足りなさを若干感じるところがあるのだが、考えてみれば、北原亞以子は、ずっと、この人の温もりを描き続けてきているのだから、こういう作品も生まれてくるのだろうと思う。
このところ柴田錬三郎を読んだ後で北原亞以子を読むなど、時代小説でも傾向がばらばらの作品を読んでいるので、こんな感想を持ったのかもしれない。
もうずいぶん以前にオランダのV.ピュアソンという人が、人間の思考形態が神話論的思考から存在論的思考、そして機能的思考へと変わってきたことを指摘していたことを思い出し、機能を求める思考は有効的で実効的だが、本来的には非機能的でもある人間の存在を損ねてしまう危険性があることをぼんやり考えたりしていた。
というのは、最近、「もっと効率を上げましょう」ということを、一般に「やり手」といわれる優秀な人たちから聞かされることが多かったからで、機能的効率を思考するところには精神の豊かさが宿らないように思えてならなかったからである。
それはともかく、北原亞以子『あんちゃん』(2010年 文藝春秋社)を読んだ。北原亞以子は『慶次郎縁側日記』や『深川澪通り木戸番小屋』という作品の柔らかい筆使いが好きで比較的よく読む作家の一人だが、『あんちゃん』は、昨年出されたばかりの短編集である。
ここには、「帰り花」、「冬隣」、「風鈴の鳴りやむ時」、「草青む」、「いつのまにか」、「楓日記 窪田城異聞」、「あんちゃん」の7編の短編が収められており、いずれもが自分の幸せを求めて生きる人間の切なさを描いたものである。
「帰り花」は、ひもじい思いをして暮らしていた少女の頃に、自分に親切にしてくれた手習い所の師匠への思いを抱き続けた女性が、夫を失い、内職などで細々と子どもを養いながらも、その師匠を忘れられずに境遇が変わった師匠を捜し回り、訪ねて、変わらぬ優しさに涙していく話である。
「冬隣」は、夫に浮気された女性の葛藤を描いたもので、「風鈴の鳴りやむ時」は、結婚を言い交わした男を寝取られて、寝取った女の企みで深川の娼婦に身を落とした女性と勘当されて質屋の帳付け(会計)をしている旗本の次男坊の、いわばやるせない寝屋物語のような話である。また、「草青む」は、老いた味噌問屋の主に囲われている妾の、死を迎える主をも守っていく愛情を描いたもので、「いつのまにか」は、結婚して幸せに暮らしている女性が、自分の幸せがいつか壊れるのではないかと不安を抱き、その不安どおりに破落戸になってしまった弟が訪ねて来て居着く中で、弟に対する愛情はあるがしっかりと自分の家を守ろうとする女性の話である。
「楓日記 窪田城異聞」は、これらの作品の中では毛色が変わっていて、古い家から見つかった古文書から、戦国から江戸初期にかけての武将であった秋田の佐竹義宣(1570-1633年)の、関ヶ原合戦前後で人が変わったような有様から、家老であった渋江政光による替え玉策があったのではないかと、それに関わりのあった自分の先祖の女性の日記を読み解いていく話である。
そして、表題作でもある「あんちゃん」は、貧しい水呑の小作人の家に生まれた男が江戸に出てきて、運よく高利貸しに出会い、懸命に働き、やがて炭問屋を営むようになって金を稼ぐことにあくせくしていたが、信頼していた兄が郷里から出てきた時に金を差し出して、「何でもかんでも金じゃあねぇ」と怒りをかい、女房からも囲った女からも捨てられ、生きる力を失ってしまった時に、ずっと自分を支えてくれた番頭に郷里に帰って兄と和解することを勧められる話である。
これらの7つの短編は、文学作品としての短編のきれや鋭さはないし、登場人物たちを通しての人間への洞察の深みもない。だが、人がそれぞれにやりきれない思いを抱きながら暮らしている姿が、ここにはあって、人の温もりの切なさがある。そして、人の温もりを描くところには甘さがあり、下手をすれば少女趣味的な結末となることがあるにしても、人の温もりほど人を幸せな気分にしてくれるものはないのだから、素朴に描かれるのも悪くはないと思う。
作品としての物足りなさを若干感じるところがあるのだが、考えてみれば、北原亞以子は、ずっと、この人の温もりを描き続けてきているのだから、こういう作品も生まれてくるのだろうと思う。
このところ柴田錬三郎を読んだ後で北原亞以子を読むなど、時代小説でも傾向がばらばらの作品を読んでいるので、こんな感想を持ったのかもしれない。
2011年8月1日月曜日
柴田錬三郎『御家人斬九郎』
雨模様の天気が続き、今朝も薄く雲が垂れ込めている。土・日と八王子まで出かけていた。日曜日の朝、小糠雨の中で駅前のスターバックスで珈琲を飲んでいる時に、紙コップいっぱいの珈琲をこぼしてしまい、ズボンに珈琲のシミができたままで集まった人たちにお話しをするという失態を演じてしまった。わたしのような不注意の人間に良くあることとはいえ、「あ~あ」という感じだった。
それはともかく、週末にかけて、もうずいぶん前に読んでいたような気もしたが、柴田錬三郎『御家人斬九郎』(1984年 新潮文庫)を読んだ。
柴田錬三郎は『眠狂四郎』シリーズで一時代を風靡した作家であり、その作風に文学的素養と知識にあいまって鋭い時代の感覚と問題意識を盛り込んだものが多く、淡々とした描写の中で描かれる人間にも人を惹きつける魅力を与えていくような書き方をする作家だった。
彼は、無頼の侍を描くことにかけては、おそらく、もっとも優れた作家だろう。その無頼さが、ただの無頼さではなく、何ものにも縛られない自由さを意識した無頼さで、それゆえに、周囲の人たちから好かれ、とくに困窮に陥った者たちや弱い者たちから支持されるような優しさを深くもった無頼さである。言い換えれば、優しく、かつ自由であることが大きな意味をもった無頼であった。
柴田錬三郎がそうした主人公を描いた時代は、まさに、人間が自由であるということがいったいどういうことであるかが模索された時代であったとも言える。人々は、彼が描いた自由な無頼の侍に、ある種のあこがれのようなものを感じた。そして、それはいま読んでみても、充分に魅力ある人間の姿でもある気がする。
『御家人斬九郎』は、そうした自由な無頼人をもっとも端的に体現させるような松平淺九郎という下級旗本(御家人)を主人公にした物語である。主人公の松平淺九郎こと斬九郎は、最下級の御家人として三十俵二人扶持(今でいえば年収100万円以下)をもらっているが、それではとても食べていくことができないために、剣の腕を使って大名家などで内密に処理したい自決を手助けする介錯を内職としていたために「斬九郎」と呼ばれる人物である。
彼は、徳川家と同じ松平姓をもつ由緒ある家柄の末裔だが、御家人の最下級に属する家の四男五女の末子で、上の二人の兄は剛胆な父親との剣術の稽古中に死亡し、三男はその父親を嫌って早くから養子に出て、姉たちがそれぞれに嫁いで家を出て実家を嫌って寄りつきもしないために、家督を継いで本所のぼろ家に七十九歳になる老いた母親と二人暮らしをしている。
ところがその母親は、気が強く、武家の矜持一筋で、そればかりでなく並外れて食欲旺盛で、美食家であり、口達者で、美食を得るために息子の尻をたたいて内職の首切りをさせて金を稼がせ、時には得意の薙刀で一撃を加えるほどの気丈さをもつユニークぶりを日々発揮する。 母親と息子の日々の言い争いは絶えないが、息子に対する信頼は大きいものがある。
浅九郎こと斬九郎は、その母親のことを口では「くそ婆あ」と罵りながらも、母親のためにせっせと首切りの内職に励んでいくような男である。そうしながらも、内職の礼金を手に入れるとすぐに遊蕩に費やしてしまい、毎度、母子の争いが繰り返されるのだが、本書は、そういう彼が手がけた事件の顛末が連作の形で綴られているものである。
第一編の「片手業十話」は、彼が手がけた十の事件の顛末を描いた短編で、小大名家での不義密通の始末を頼まれた斬九郎が、事件をよく調べてみると事実とは異なることを知って、首の代わりに髷を切って事件の処理をする話や、岡っ引きが持ち込んできた事件、あるいは幕府の目付が依頼する事件などが描かれている。目付は彼の裏業(内職)の腕を見込んで、内密に処理しなければならない事件の探索を彼に依頼したりするのである。
第二編の「箱根の山は越えにくいぜ」は、同じ松平姓をもち友人でもある北町奉行所与力に協力を依頼されて、豊臣家遺臣に関わる事件を追って、食欲旺盛で我が儘な老いた母を連れて東海道を下り京都まで行く話で、第三編「あの世で金が使えるか」は、その京都で仏像の密貿易に絡む事件に関わっていく話である。
第四編「美女は薄命だぜ」は、友人の北町奉行所与力に依頼されて公儀の御用金横領事件を解決する話で、第五編「座敷牢に謎があるぜ」は、幕府内部の政争に絡んで近所の同じ御家人が徳川家斉の替え玉として使われる事件で、第六編「青い肌に謎があるぜ」は、清国との密貿易に絡む豪商の争いに関わっていく話である。
斬九郎は酒と女に溺れる日々で、関わる事件も礼金が目当てであり、それを少しも悪びれることなくやってのける無頼の侍だが、老いた母親はもちろんのこと、関わる人間の思いを大切にしながら事件の真相を暴いていくのである。彼はどこまでも自由であり、身分にも地位にも左右されないし、拘泥も執着もしない。妙な正義感もないし、気ままに、しかし、ある矜持をもって生きている。
こうした人物が相当の筆力と知識をもって描かれるので、作品として面白くないわけがない。作者の代表作ともなった「眠狂四郎」は、一種の影を背負った人間として描かれているが、御家人斬九郎は、その母親の自由さも合わせて、無頼の自由人の典型でもあるだろう。ロマンといえばロマンの典型のような気もする。
それにしても、今改めて読み直してみると柴田錬三郎の歴史知識には驚嘆するところがある。やはり、時代小説の作家というのはそういうものがしっかりしていないと面白くないと思ったりもする。
それはともかく、週末にかけて、もうずいぶん前に読んでいたような気もしたが、柴田錬三郎『御家人斬九郎』(1984年 新潮文庫)を読んだ。
柴田錬三郎は『眠狂四郎』シリーズで一時代を風靡した作家であり、その作風に文学的素養と知識にあいまって鋭い時代の感覚と問題意識を盛り込んだものが多く、淡々とした描写の中で描かれる人間にも人を惹きつける魅力を与えていくような書き方をする作家だった。
彼は、無頼の侍を描くことにかけては、おそらく、もっとも優れた作家だろう。その無頼さが、ただの無頼さではなく、何ものにも縛られない自由さを意識した無頼さで、それゆえに、周囲の人たちから好かれ、とくに困窮に陥った者たちや弱い者たちから支持されるような優しさを深くもった無頼さである。言い換えれば、優しく、かつ自由であることが大きな意味をもった無頼であった。
柴田錬三郎がそうした主人公を描いた時代は、まさに、人間が自由であるということがいったいどういうことであるかが模索された時代であったとも言える。人々は、彼が描いた自由な無頼の侍に、ある種のあこがれのようなものを感じた。そして、それはいま読んでみても、充分に魅力ある人間の姿でもある気がする。
『御家人斬九郎』は、そうした自由な無頼人をもっとも端的に体現させるような松平淺九郎という下級旗本(御家人)を主人公にした物語である。主人公の松平淺九郎こと斬九郎は、最下級の御家人として三十俵二人扶持(今でいえば年収100万円以下)をもらっているが、それではとても食べていくことができないために、剣の腕を使って大名家などで内密に処理したい自決を手助けする介錯を内職としていたために「斬九郎」と呼ばれる人物である。
彼は、徳川家と同じ松平姓をもつ由緒ある家柄の末裔だが、御家人の最下級に属する家の四男五女の末子で、上の二人の兄は剛胆な父親との剣術の稽古中に死亡し、三男はその父親を嫌って早くから養子に出て、姉たちがそれぞれに嫁いで家を出て実家を嫌って寄りつきもしないために、家督を継いで本所のぼろ家に七十九歳になる老いた母親と二人暮らしをしている。
ところがその母親は、気が強く、武家の矜持一筋で、そればかりでなく並外れて食欲旺盛で、美食家であり、口達者で、美食を得るために息子の尻をたたいて内職の首切りをさせて金を稼がせ、時には得意の薙刀で一撃を加えるほどの気丈さをもつユニークぶりを日々発揮する。 母親と息子の日々の言い争いは絶えないが、息子に対する信頼は大きいものがある。
浅九郎こと斬九郎は、その母親のことを口では「くそ婆あ」と罵りながらも、母親のためにせっせと首切りの内職に励んでいくような男である。そうしながらも、内職の礼金を手に入れるとすぐに遊蕩に費やしてしまい、毎度、母子の争いが繰り返されるのだが、本書は、そういう彼が手がけた事件の顛末が連作の形で綴られているものである。
第一編の「片手業十話」は、彼が手がけた十の事件の顛末を描いた短編で、小大名家での不義密通の始末を頼まれた斬九郎が、事件をよく調べてみると事実とは異なることを知って、首の代わりに髷を切って事件の処理をする話や、岡っ引きが持ち込んできた事件、あるいは幕府の目付が依頼する事件などが描かれている。目付は彼の裏業(内職)の腕を見込んで、内密に処理しなければならない事件の探索を彼に依頼したりするのである。
第二編の「箱根の山は越えにくいぜ」は、同じ松平姓をもち友人でもある北町奉行所与力に協力を依頼されて、豊臣家遺臣に関わる事件を追って、食欲旺盛で我が儘な老いた母を連れて東海道を下り京都まで行く話で、第三編「あの世で金が使えるか」は、その京都で仏像の密貿易に絡む事件に関わっていく話である。
第四編「美女は薄命だぜ」は、友人の北町奉行所与力に依頼されて公儀の御用金横領事件を解決する話で、第五編「座敷牢に謎があるぜ」は、幕府内部の政争に絡んで近所の同じ御家人が徳川家斉の替え玉として使われる事件で、第六編「青い肌に謎があるぜ」は、清国との密貿易に絡む豪商の争いに関わっていく話である。
斬九郎は酒と女に溺れる日々で、関わる事件も礼金が目当てであり、それを少しも悪びれることなくやってのける無頼の侍だが、老いた母親はもちろんのこと、関わる人間の思いを大切にしながら事件の真相を暴いていくのである。彼はどこまでも自由であり、身分にも地位にも左右されないし、拘泥も執着もしない。妙な正義感もないし、気ままに、しかし、ある矜持をもって生きている。
こうした人物が相当の筆力と知識をもって描かれるので、作品として面白くないわけがない。作者の代表作ともなった「眠狂四郎」は、一種の影を背負った人間として描かれているが、御家人斬九郎は、その母親の自由さも合わせて、無頼の自由人の典型でもあるだろう。ロマンといえばロマンの典型のような気もする。
それにしても、今改めて読み直してみると柴田錬三郎の歴史知識には驚嘆するところがある。やはり、時代小説の作家というのはそういうものがしっかりしていないと面白くないと思ったりもする。
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