雨模様の天気が続き、今朝も薄く雲が垂れ込めている。土・日と八王子まで出かけていた。日曜日の朝、小糠雨の中で駅前のスターバックスで珈琲を飲んでいる時に、紙コップいっぱいの珈琲をこぼしてしまい、ズボンに珈琲のシミができたままで集まった人たちにお話しをするという失態を演じてしまった。わたしのような不注意の人間に良くあることとはいえ、「あ~あ」という感じだった。
それはともかく、週末にかけて、もうずいぶん前に読んでいたような気もしたが、柴田錬三郎『御家人斬九郎』(1984年 新潮文庫)を読んだ。
柴田錬三郎は『眠狂四郎』シリーズで一時代を風靡した作家であり、その作風に文学的素養と知識にあいまって鋭い時代の感覚と問題意識を盛り込んだものが多く、淡々とした描写の中で描かれる人間にも人を惹きつける魅力を与えていくような書き方をする作家だった。
彼は、無頼の侍を描くことにかけては、おそらく、もっとも優れた作家だろう。その無頼さが、ただの無頼さではなく、何ものにも縛られない自由さを意識した無頼さで、それゆえに、周囲の人たちから好かれ、とくに困窮に陥った者たちや弱い者たちから支持されるような優しさを深くもった無頼さである。言い換えれば、優しく、かつ自由であることが大きな意味をもった無頼であった。
柴田錬三郎がそうした主人公を描いた時代は、まさに、人間が自由であるということがいったいどういうことであるかが模索された時代であったとも言える。人々は、彼が描いた自由な無頼の侍に、ある種のあこがれのようなものを感じた。そして、それはいま読んでみても、充分に魅力ある人間の姿でもある気がする。
『御家人斬九郎』は、そうした自由な無頼人をもっとも端的に体現させるような松平淺九郎という下級旗本(御家人)を主人公にした物語である。主人公の松平淺九郎こと斬九郎は、最下級の御家人として三十俵二人扶持(今でいえば年収100万円以下)をもらっているが、それではとても食べていくことができないために、剣の腕を使って大名家などで内密に処理したい自決を手助けする介錯を内職としていたために「斬九郎」と呼ばれる人物である。
彼は、徳川家と同じ松平姓をもつ由緒ある家柄の末裔だが、御家人の最下級に属する家の四男五女の末子で、上の二人の兄は剛胆な父親との剣術の稽古中に死亡し、三男はその父親を嫌って早くから養子に出て、姉たちがそれぞれに嫁いで家を出て実家を嫌って寄りつきもしないために、家督を継いで本所のぼろ家に七十九歳になる老いた母親と二人暮らしをしている。
ところがその母親は、気が強く、武家の矜持一筋で、そればかりでなく並外れて食欲旺盛で、美食家であり、口達者で、美食を得るために息子の尻をたたいて内職の首切りをさせて金を稼がせ、時には得意の薙刀で一撃を加えるほどの気丈さをもつユニークぶりを日々発揮する。 母親と息子の日々の言い争いは絶えないが、息子に対する信頼は大きいものがある。
浅九郎こと斬九郎は、その母親のことを口では「くそ婆あ」と罵りながらも、母親のためにせっせと首切りの内職に励んでいくような男である。そうしながらも、内職の礼金を手に入れるとすぐに遊蕩に費やしてしまい、毎度、母子の争いが繰り返されるのだが、本書は、そういう彼が手がけた事件の顛末が連作の形で綴られているものである。
第一編の「片手業十話」は、彼が手がけた十の事件の顛末を描いた短編で、小大名家での不義密通の始末を頼まれた斬九郎が、事件をよく調べてみると事実とは異なることを知って、首の代わりに髷を切って事件の処理をする話や、岡っ引きが持ち込んできた事件、あるいは幕府の目付が依頼する事件などが描かれている。目付は彼の裏業(内職)の腕を見込んで、内密に処理しなければならない事件の探索を彼に依頼したりするのである。
第二編の「箱根の山は越えにくいぜ」は、同じ松平姓をもち友人でもある北町奉行所与力に協力を依頼されて、豊臣家遺臣に関わる事件を追って、食欲旺盛で我が儘な老いた母を連れて東海道を下り京都まで行く話で、第三編「あの世で金が使えるか」は、その京都で仏像の密貿易に絡む事件に関わっていく話である。
第四編「美女は薄命だぜ」は、友人の北町奉行所与力に依頼されて公儀の御用金横領事件を解決する話で、第五編「座敷牢に謎があるぜ」は、幕府内部の政争に絡んで近所の同じ御家人が徳川家斉の替え玉として使われる事件で、第六編「青い肌に謎があるぜ」は、清国との密貿易に絡む豪商の争いに関わっていく話である。
斬九郎は酒と女に溺れる日々で、関わる事件も礼金が目当てであり、それを少しも悪びれることなくやってのける無頼の侍だが、老いた母親はもちろんのこと、関わる人間の思いを大切にしながら事件の真相を暴いていくのである。彼はどこまでも自由であり、身分にも地位にも左右されないし、拘泥も執着もしない。妙な正義感もないし、気ままに、しかし、ある矜持をもって生きている。
こうした人物が相当の筆力と知識をもって描かれるので、作品として面白くないわけがない。作者の代表作ともなった「眠狂四郎」は、一種の影を背負った人間として描かれているが、御家人斬九郎は、その母親の自由さも合わせて、無頼の自由人の典型でもあるだろう。ロマンといえばロマンの典型のような気もする。
それにしても、今改めて読み直してみると柴田錬三郎の歴史知識には驚嘆するところがある。やはり、時代小説の作家というのはそういうものがしっかりしていないと面白くないと思ったりもする。
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