2013年12月9日月曜日

花家圭太郎『八丁堀春秋 日暮れひぐらし』

 本格的な寒さが訪れそうな日々になっている。師走というからではないが、何冊かの本は読んでいても、このところ少しいろいろなことが詰まってきてなかなかこれが書けないでいる。まあ、これでも身過ぎ、世過ぎをしなければならないから、仕方がないことかもしれない。

 そんな中で、花家圭太郎『八丁堀春秋 日暮れひぐらし』(2009年 集英社文庫)を気楽に読んでいたので記しておこう。作者の名前は明らかにペンネームだと思い、少し調べてみたら、本名は村岡末男、1946年秋田県生まれで、1998年に『暴れ影法師』でデビューされたとあるから、作家としてのデビューは52歳と遅く、残念ながら2012年に死去されている。

 本書は、2005年に出された『八丁堀春秋』(集英社)の続編で、『八丁堀春秋』が春、本書が夏となり、おそらく秋と冬が書かれる予定だったのかもしれない。文体も展開もゆったりして、いわゆるミステリー仕立ての同心物ではあるが、主人公は元北町奉行所定町廻り同心の小山田采女で、家督を息子の伊織に譲って隠居している人物である。彼は、現役の時には「おとぼけ同心」と呼ばれていたと記されているが、どういう「おとぼけ」かは本書を読んだだけでは、今ひとつピンと来なかった。物事に拘らずに明朗な性格を「おとぼけ」と表されているのだろうとは思う。ただ、同心をやめたあと、彼は年若い妻の「おしゅん」と一緒に小間物屋をしながら暮らしているという設定になっており、そのあたりも「おとぼけ」なのかもしれない。

 主人公にまつわるいくつかの事情が説明されて、まず、彼の息子の伊織であるが、伊織は彼の実の子ではない。采女が出入りしていた薬種商の「手嶋屋」が失火で火事を出した時に、ちょうど捕縛され、死罪になる押し込み強盗と取引をして、「手嶋屋」の失火をその押し込み強盗による放火として「手嶋屋」に失火の咎めがもたらさないようにする代わりに、押し込み強盗が唯一気がかりだった彼の息子を預かって育てることにしたのである。その息子が伊織なのである。その伊織は結婚したが、伊織の妻は一年前に左利きの何者かに惨殺された。

 そして、伊織がその犯人を見つけやすいように、采女は家督を伊織に譲り、何とかして彼を定町廻り同心にし、影から彼を支え、彼が一人前の同心になるようにいろいろなことを教えようとしているのである。

 年の離れた采女の妻となった「おしゅん」は、生まれてすぐに父親を亡くし、母親がある罪(何かは不明)を犯したところを采女に助けられ、「手嶋屋」で奉公するようになり、「手嶋屋」とその女将に育てられて、素直で明るい娘となり、采女と夫婦になったのである。

 こうして見ると、それぞれの人生は重いのだが、作者の本質的な人間観なのか、文体のなせる技なのか、登場人物たちのいささか甘ったるい会話が繰り広げられていく。「いろいろなことがあっても生きることは楽しいことだということを示したい」ということではあろうが。

 物語は、両国の花火見物に出かけた時に、女掏摸が掏摸とった財布が「おしゅん」の着物の袖に投げ込まれ、その財布の中に、娘を拐かしたという一文があったことから事件が始まり、その財布の持ち主、つまり、娘を拐かされたのが誰かを突き止めていくところから始まっていく。小山田采女は、長年の同心の勘から、娘の誘拐事件が実際に起こっているという実感を持っていた。

 こうして、采女の同僚であり、伊織の上司でもある同心や岡っ引きなどを動員しての地道な探索が始まっていく中で、誘拐で要求された金をもっていった兄が何者かに惨殺される事件が起こる。殺したのは左利きの侍で、伊織の妻が左利きの侍に殺されたことと重なって、伊織をはじめとして懸命な探索が続けられていく。そこには拐かされた娘の恋やその兄の恋などが事件の鍵となっていくが、伊織の明察が事件を紐解いていくことになるのである。その探索の展開は、ゆっくり丁寧に一つ一つ進んでいくミステリー仕立てになっている(途中で、読者には事件のあらすじが見えてしまうものではあるが、それを辿る姿が丁寧に描かれる)。

 まあ、こういう展開は推理というほどのものではないし、気恥ずかしくなるほどの処世訓や相手を持ち上げるような甘い言葉が続いては行くが、気楽に楽しめるものではある。そして、この作家の作品をほかにも読んでみたいと思わせるような作品だった。

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