一日の寒暖の差が激しいが、日中は本当に過ごしやすくなって、新緑が美しく映え始めてきた。このところ日々が怒涛のように過ぎて、肉体的な疲労は覚えるが、緩やかに広がった空を仰いだりしていた。ようやく、よたよたとではあるが日常を営む環境が整いつつある。普段を取り戻すのは連休明けくらいになるだろう。だが、今年の連休は都内での連続した会議が予定され、さて、どうなるだろうかと思ったりもする。
さて、神坂次郎『およどん盛衰記 南方家の女たち』(1994年 中央公論社 1997年 中公文庫)に関連して、南方熊楠の結婚後の生活であるが、生活が落ち着くと採集と研究に没頭していく。熊楠は多汗症の質であったためか、薄着が真っ裸で過ごすことが多く、妻となった松枝も、「およどん(女中)」として雇われた少女たちも、最初はこれにはびっくりしたが、やがて慣れていった。しかし、田辺周辺で採取活動をしていた時に、山の中で道に迷いながらも珍しい植物を発見してブリキ缶を担いで山を駆け下り、田植えをしていた女性たちが、裸で駆け下りてくる熊楠の姿を見て「天狗が出た」と思って逃げ去ったというエピソードが残っている。熊楠は、目鼻立ちがはっきりした好男子であったが、自分の身の回りのことや服装などには全くの無頓着であった。
彼はまた方向音痴で、街中でもよく迷ったと言われるが、その奇天烈振りが、本書の第一話の「雀のおうめ」で紹介されている。それは、「おうめ」(熊楠家の猫はすべて「チョボ六」、犬は「ポチ」、奉公人は「おうめ」と呼ばれたが、この「おうめ」は本名も「おうめ」)が「およどん」として雇われてまだ二日目のことで、田舎から出てきたばかりに「おうめ」は西も東も分からない状態であったが、熊楠は自分が道に迷うために「およどん」に道案内してもらうのが常で、この「おうめ」を連れて歯医者に行き、二人してあちこちで道に迷ってしまい、「いつになったら家に帰り着くのかのう」となったらしい。
この「おうめ」も田舎育ちの天衣無縫のようなところがあり、熊楠とは気性があったのか、彼のエピ―ソードを良く伝え、熊楠が研究に没頭すると、文字通り寝食を忘れて、「わしゃあ、飯をくったか」と言ったりしたことを妻の松枝や娘の文枝と笑い会ったようで、妻の文枝が熊楠を良く理解して、鷹揚にこれを受け止めている姿などが本書で描かれている。ちなみに、南方家に奉公に来た「およどん(女中)」たちは、ほとんどが南方家の世話で良縁を結ぶことができ、南方家で丁重に嫁支度までしてもらっている。「およどん」たちもまた愛すべき女性たちだったのである。
熊楠は、友人の毛利清雅(紫庵)が県会議員に立候補したときの応援をしているが、「おうめ」も一役買って反対派の切り崩しなどをしている。熊楠は、田辺で、生涯変わらぬ友情で結ばれた医師の喜多幅武三郎、素封家で熊楠の初恋の人と言われた「たか」の父親の多屋寿平次、石工の親方で侠客を任じていた佐武友吉や鈴木新五郎、画家の川島草堂、牟婁(むろ)新報の社主で県会議員となった毛利紫庵(清雅)、料亭の女将で女傑と言われた「お富」、芸者たちや熊楠を師とも親分ともしていた漁師たちなど、そういう人々を友人として、金があればみんなで飲みまくって騒ぎ廻った日常を送っていた。熊楠は、「ネイチャー」誌に論文を発表したり、粘菌の標本を大英博物館に寄贈してこれが植物学誌に掲載されたりして、世界的な粘菌学者としてもよく知られていたが、彼は誰一人分け隔てすることなく、みんなでワイワイするのが好きで、妻の松枝はそういう彼を良く理解していたのである。
時に1906年(明治39年)、明治政府は「神社合祀令」を発布し、神社の統廃合を行って一定水準以上の神社として継続的な経費の維持が可能になるようにした(ちなみに、これは、神社を国家の宗祀として地方公共団体から維持費の公費供進を行い、神社を地方自治の中心に据えることが目的であった)。この政策で7万社ほどの神社が取り壊されたが、和歌山県下でも3700ほどあった神社が600に統合される事態になった。廃棄された神社の境内の森は容赦なく伐採されて売られた。
これを見て熊楠は激怒し、樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔や粘菌が多く、伐採されるとそれらが絶滅する恐れがあったのである。熊楠は、この時、日本で初めて「エコロジー(生態学)」という言葉を使って、生物が互いに繋がっており、全生命は結ばれていて、その生態系は守らなければならないと訴えて、明治政府に反対した。また、神社の森はただの木々ではなく、森の破壊は心の破壊であると訴えて、舌鋒鋭く意見を新聞に発表したりした(彼のこの反対のおかげで、現在の熊野古道が残されていると言ってもいい)。
そして、1910年(明治43年 44歳)の時、合祀政策を推し進める県の役人が教育委員会に招かれて田辺高校の教育講習の演説をするということになり、熊楠は直談判するために会場を訪れて面会を望んだが、これを拒否されたために、酩酊して乱入し、植物標本の入った袋を投げつけたために、「家宅侵入罪」で逮捕され、18日間警察に拘留されている。この時、彼を師とも親分とも慕う人々が「儂らの先生をなっとぞするか!」と駆けつけて大騒ぎになっている。しかし、熊楠は拘置所の中で珍しい粘菌を見つけ、釈放を告げられても、「もう少し置いて欲しい」となかなか拘置所を出ようとしなかったらしい。こうした熊楠らの反対運動が功を奏して、この法令は10年後には無効とされた。
また、これをきっかけにして、当時は内閣法制局の参事官であった柳田国男と知り合いになり、日本の民俗学に大きく寄与することになっていく。本書では、柳田国男との交流についてはあまり触れられないが、熊楠が柳田国男に最初に会ったときは、緊張のあまりに酒を痛飲して泥酔状態であったらしい。
南方熊楠は、その後、「南方植物研究所」の設立構想を練って資金集めに奔走する。この時に寄付を集めるために書いた履歴書が、実に、巻紙で7m70㎝、5万5千字にも及ぶ長大なもので、世界最長の履歴書と言われている。そして、資金造りのために1926年(大正15年/昭和元年 59歳)で、『南方閑話』、『南方随筆』、『続南方随筆』を出版した。これは国内に向けた最初の一般著作であった。また、その年、イタリアのプレサドラ大僧正の菌図譜出版に際しての名誉委員に推薦されている。
圧巻なのは、1929年(昭和4年 62歳)の紀南行幸で昭和天皇が田辺湾沖合の神島を訪問された際に、熊楠は、戦艦長門の船上で菌類や海中生物について御前講義を行い、昭和天皇は熊楠の講義に深い関心を寄せられて予定時間を超えても受講されたという。熊楠はその時、粘菌標本を天皇に献上した。しかし、通常は天皇への献上物は桐の箱などの最高級のものに納められるのが普通であったが、熊楠はキャラメルの箱に標本を入れて献上している。周囲は、一瞬、驚いたが、その場は無事に収まり、熊楠が亡くなったときに、昭和天皇が「あのキャラメルの箱のインパクトは忘れられない」と語られたという。まさに、熊楠の真骨頂であろう。
1937年(昭和12年 70歳)の日中戦争勃発あたりから、熊楠は体調を壊し、それでも「日本産菌類の彩色生態図譜」の完成に尽力し、4500種15000枚に及ぶ図譜を完成させている。そして、1941年(昭和16年)、日本海軍による真珠湾攻撃に絶句しながら、死去についた。74年の波瀾に満ちた、そして実に楽しい生涯であった。
その熊楠の破天荒ぶりの日常を描いた本書は、抱腹絶倒で読むお面白いものであった。南方家の「およどん(女中)」たちもまた、それぞれに個性を発揮するし、周囲の人々も個性豊かである。おそらく、熊楠のような人の側では、人が生き生きと自分を発揮できるようになっていったのではないかと思う。
彼は、ほとんどの学校を中退や放校されて学歴もなく、どこにも属さずに、ほとんど独学で、国家の支援も受けず、定職もつかずに経済的に苦労したが、全く意に介さずに「面白き世を面白く」生きた人であろう。「肩書きがなくては己が何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と語っている。毎日を楽しく突き進んで生きていく。そういう熊楠の日常が本書には溢れていて、しかも、その人情の温かさがあり、非常に面白く読んだ一冊だった。南方熊楠は「巨星」の名にふさわしく、器の大きな人間だったのである。