昨日は一日中雨と風が吹いて寒さに震えるような日だったが、今日は一転して碧空が広がり、日中の気温も20度を超える温かさになっている。ここでは、もう桜の季節が終わろうとしているが、「静心なき花の散るらむ」で、どことなくせわしい日常が続いている。今のところ、だいたい10分刻みで仕事を処理しなければならないが、じっくりと構える姿勢は崩さないでおこうと思ったりもする。
さて、先日、上田秀人『表御番医師診療禄1 切開』(2013年 角川文庫)を読んだ。これは江戸幕府の表御番医師を主人公にした作品で、江戸城には表御番医師と呼ばれる城中での医療行為にあたる医師と将軍と将軍家のための医療行為を行う奥医師というのが置かれていたが、表御番医師は、いわば城内の診療医師のようなものである。徳川家康は天下の実権を握るためにできる限り長生きをすることを望んで、自分で薬を調合するほどの薬草に関する知識もあり、医学に対しては特別の関心を持ち、医師を側に置いて厚遇した。奥医師は幕府に仕える医師の最高位とされていた。
本書の主人公、矢切良衛は、代々が御家人(下級武士)であったが、戦場に於ける怪我人の応急手当をする金創医を兼ねていた家の長男で、父親が、十五歳になった良衛を和蘭院流外科術の医師であった杉本忠恵のもとに修行に出し、さらに京都随一と言われた名古屋玄医の下で修行を重ね、江戸にもどって家督を継いだ青年医師である。父親は隠居後に得度して青梅の寺に移り、母親は既になく、薬箱持ちの老爺の三造と台所仕事をする女中の三人で暮らしていた。
そして、医師としての評判が上がる中で、幕府の典薬頭である今大路兵部太輔親俊(ちかとし)に目を留められて、無理矢理に彼の妾腹の娘である弥須子と結婚させられ、その代わりに表御番医に引き上げられて禄(給与)も加増され、身分もお目見え以下からお目見えへと格上げされた(お目見えとは、将軍の前に出ることがゆるされた格式で、下級役人である御家人はそれが許されないお目見え以下であった)。今大路親俊は、医家の名家としての立場を保つために新式の和蘭医術を学んだ矢切良衛を一族の中に加えることを目論んで、良衛に白羽の矢を立てたのである。こうして、良衛と弥須子は結婚し、二人の間には四歳になる男子の一弥が生まれていた。彼はまた、父祖伝来の戦場剣法を習得していた。
作品の中で取り扱われている時代は、五代将軍徳川綱吉の時代で、本書では特に、貞享元年(1684年)に江戸城中で起こった刃傷事件が取り扱われている。時の大老であった堀田筑前守正俊が従兄弟で若年寄りの稲葉石見守正休に懐刀で斬られるという事件が起こったのである。殿中での刃傷事件は、このほか、赤穂浪士で有名な播州赤穂の藩主であった浅野内匠頭が吉良上野介に斬り掛かった事件があるが、江戸幕府初期の堀田正俊が受けた刃傷事件は、相手が幕府の実権を握っていた大老であっただけに、その後の幕府の政治体制を一変させるほどの事件であったのである。そして、堀田正俊は落命し、事件を起こした稲葉石見守正休も、その場に居合わせた老中の大久保加賀守忠朝(ただとも)や戸田山城守、阿部豊後守、稲葉美濃守らにその場で斬り殺された。ただ、この事件には謎が多い。本書はその謎解きを一本の柱としたものである。
この事件に主人公が関わっていくのは、斬られた堀田正俊の治療のために若い寄合医師(奥医師の家柄の跡継ぎや御番医師でその腕を認められた者が属して、奥医師の席の空き待ちをする医師たち)で本道(内科)が主である奈須玄竹が呼ばれたからである。刀傷なら外道(外科)の表御番医の自分が呼ばれてもよいはずだった。しかも、最新式の和蘭外科を身につけている良衛が呼ばれても当然だったが、何故か本道(内科)の奈須玄竹が呼ばれ、しかも治療の施しようもなく、堀田正俊は駕篭で自宅まで運ばれて絶命している。
奈須玄竹の祖父は希代の名医と言われ、当代の玄竹はその名と家督を継いだ者であったが、まだ若く、しかも今大路親俊の娘婿でもあった。その典薬頭である今大路親俊から医師の技量を認められて、同じように娘婿に選ばれたという自負を強くもっていた矢切良衛は、事件の日に江戸城にいた外道医師のなかでは自分が最も優れた腕をもっていると自認していたので、いわばプロとしての嫉妬の情を抱いたのである。
こうして、この事件の謎に関心を持っていた良衛は、幕府内の勢力争いの中に巻き込まれていくことになり、大目付の松平対馬守との間に、利用し利用される関係が生じていく。もっとも松平対馬守は大目付(大名を取り締まる役)であり、身分の差は歴然としているので、良衛は対馬守から命令を受ける形になっていくのだが、良衛は諾々とそれに従っているのではない。
事件の裏には、綱吉が将軍になる時から問題となっていた御三家、二代将軍徳川秀忠の血筋である甲府の松平家、加賀の松平家、それに堀田家自身の跡目相続を巡る問題、大老職を狙う老中たちなどがあり、この事件が江戸幕府内での勢力争いの側面から描かれていく。矢切良衛も何者かに命を狙われるようになる。こうして、事件の謎解きが「権力争い」の視点で展開され始めるところで、本書は終わる。
それらは殺伐とした争いであり、矢切良衛の妻となった弥須子もまた息子の一弥を一流の名医にして、兄弟姉妹を見返してやるという争心をもっている。その意味では、本書は、「人間の闘争」を情に絡めて展開するこれまで読んで来た作者の作品らしい作品の一つで、主人公を表御番医師という設定にすることによって、医家の立場からの闘争録になっている。
しかも、それだけではなく、良衛が医師として治療に当たって来た貧乏御家人の、今では美貌の未亡人となっている井田美絵とのそこはかとない情愛が描かれていく。心身ともに闘いに明け暮れてしまう良衛が心を休める場所として設定されており、それが本書の一本の横糸を構成している。
改めて見てみると、本書は実によく構成されており、いくつかの伏線が絡み合って本筋を作るような展開がされている。描かれる人物像は、作者のほかの作品とも似通ったものではあるが、伏線の張り方の巧みさが光っている。巧い作品だと思う。
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