2014年6月5日木曜日

清水義範『会津春秋』(1)

 例年になく暑い夏日が続いた後で、少し早く梅雨入りし、雨模様の湿度の高い日々になている。熊本は思った以上に湿度が高い。だが、紫陽花が鮮やかに咲いて清涼感を醸し出してくれている。雨にぬれるグランドを高校生たちが駆け抜けていく。

 先日来、清水義範『会津春秋』(2012年 集英社文庫)を読んでいた。これは2009年から2011年にかけて『小説すばる』で『会津の月、薩摩の星』と題されて発表されたものに加筆、修正がくわえられて、改題されて出されたと奥付に記されており、元の表題が示す通り、会津と薩摩という幕末の激動した藩の中で生きる二人の人間の藩という枠を超えた友情を著わしたものである。特徴的なことは、徳川親藩として辛苦をなめた会津藩に生きる青年と、雄藩として維新を起こすものの西南戦争で敗れていく薩摩藩士の姿を描き、その二人が友人であるという、これまでの幕末を題材にとった小説の中では描かれなかったような人物設定がされている点である。

 主人公の一人である秋月新之助は、12歳の時に会津藩の世嗣となった松平容保の近習となり、藩命によって西洋砲術を学ぶために佐久間象山の塾に入塾し、習ったことを容保に伝えるという役を仰せつかった。彼は、おっとりとした性格で、剣術の腕はないが、あまり拘りのない素朴さを持ち合わせた人物だった。そして、その象山の塾で、砲術に必要な算術(詳証術)には頭を抱える状態であったが、様々な有為の青年たちと出会うのである。

 実際、佐久間象山の塾には、実に多種多彩な人物たちが集まっていた。長州の吉田寅次郎(松陰)、福井の橋本左内、越後長岡の河井継之助などがいたし、後には坂本竜馬も籍を置いていた。それらの人々の中で、自分と同じように算術(詳証術)が苦手である薩摩藩の橋口八郎太という青年と出会う。この橋口八郎太がもう一人の主人公となる人物である。

 橋口八郎太は、世に名君と謳われた島津斉彬の配下の者で、斉彬を信奉し、同じように西洋砲術を学ぶために佐久間象山の塾に入塾していた者だった。体つきもがっしりし、示現流の相当な遣い手でもあった。象山が行った大砲の試射で、この橋口八郎太が怪我をし、秋月新之助が彼を見舞ったことが縁で、二人の間に友情が芽生えていくのである。

 やがて象山の塾で、雑用をして手伝い仕事をしていた「お咲」という娘に二人とも惚れてしまう。「お咲」は、塾頭の一人の妹で、数学が好きで、数学を学びたいと思って下働きを志願してきた女性だった。そして、数学が苦手な秋月新之助に数学の手ほどきをし、砲弾の軌道を計算する二次方程式(放物線)の理屈を教えたりするのである。新之助はその利発さに目を見張り、彼女に惚れていく。だが、友人となった橋口八郎太も「お咲」に惚れ、そのことを先に新之助に打ち明ける。新之助は友情と恋の板挟みに悩んだりするし、数学がだめだからオランダ語の習得に熱心になったりする。そんな青春期を過ごしていくのである。

 そして、嘉永6年(1853年)、ペリーが米国艦隊を率いて浦賀沖にやってきて、時流は大きく流れ始める。会津藩も浦賀に警護に派兵されるが、新之助は、手持ちの槍や刀でどうして黒船に立ち向かえるだろうと疑念に思ったりする。だが、ペリーはいったん帰国し、次の年の一月に七隻の艦隊を率いて江戸湾に再来し、三月に日米和親条約を結ばされてしまう。かくして日本の鎖国政策は終わるが、象山門下生の吉田寅次郎(松陰)の密出国の事件が発覚し、象山も咎めを受け、象山塾も閉じわれることとなる。新之助は「お咲」に自分の恋心を伝え、橋口八郎太との友情から彼も「お咲」に惚れていることを告げ、「お咲」にどちらを選ぶかを任せることにする。橋口八郎太は西郷隆盛に心酔し、西郷隆盛の意を受けて活動を開始していた。

 だが、不幸にも、そこに安政の大地震が起こり、「お咲」はその地震で命を落としてしまう。そうしているうちに疾風怒濤の時代の嵐が吹き荒れていった。尊王攘夷の熱波の中で、京都では暗殺が横行した。文久2年(1862年)、会津藩主松平容保は、京都の治安維持のために設けられた京都守護職を無理やり押しつけられ、会津藩士約千名が入京し、容保の近習であった秋月新之助も藩主に従って京都へ入り、公用局という新設の役務の末席に籍を置くことになった。そして、西郷隆盛の意で動いていた橋口八郎太と再会する。

 薩摩藩でも、英明の誉れが高かった島津斉彬が没し、藩の実権を斉彬の母違いの弟の島津久光が握り、安政の大獄後に事情が一変し、西郷隆盛は久光の激怒をかって囚人となり、藩の過激分子を一掃するということで「寺田屋事件」が起こっていた。また、8月(現:9月)には神奈川の生麦村でイギリス人商人たちを殺傷するという事件も起こしていた。橋口八郎太はそういう薩摩藩の激流の中にいた。会津の秋月新之助と薩摩の橋口八郎太は、そうしたそれぞれの藩の状況を屈託なく語り合うし、政治的な状況が二人の友情に影を挟むこともなかった。

 会津藩の傘下に置かれた新撰組の活動も活発化してきたし、当時の江戸幕府がとろうとしていた公武合体策に対する反幕府の旗印を長州が強くして来ていた。そして、薩摩は会津と手を結び、台頭してきた長州勢力の一掃を図るようになっていく。かくして京都の長州勢力とそれに加担していた尊攘派の七人の公家が京都から追い出されるという事件が起こり(七卿落ち)、やがてはそれが長州による京都襲撃の「蛤御門の変」(禁門の変)へと繋がっていく。

 そうした状況下で、島原の料亭で飲んでいた秋月新之助と橋口八郎太のところに、新撰組に追われた坂本竜馬が逃げ込んでくるという設定で、坂本竜馬の姿が、この二人の立場を通して描かれるようになる。竜馬の人を惹きつける魅力に二人とも捕らえられたりするのである。また、新撰組の中でも暴虐無人の振る舞いをしていた芹沢鴨の粛清があったりする。そんな中で、秋月新之助は、時局の対応に疲労し健康を害していた藩主の松平容保の心情の聞き役として仕えたりしていく。

 文久4年(1864年)、元号が元治に改まり、公武合体策を行うために組織された朝議が、各大名の身勝手さで空中分解した後、密かに京都襲撃を企んでいた長州藩士を中心にした浪士たちが新撰組によって惨殺・捕縛されるという「池田屋事件」が勃発し、次いで、秋月新之助と橋口八郎太の師であった佐久間象山が暗殺された。そして長州兵による「蛤御門の変」が勃発する。このとき、薩摩と会津は共同して御所を護る戦いに出て、秋月新之助も橋口八郎太も共に戦う。

 だが、事態はそれから大きく動いていく。第一次長州征伐が行われたころから、幕府の弱体化は隠しようもなくなり、坂本竜馬の働きによって長州と薩摩が手を結んでいくのである。そして、徳川家茂が病没し、孝明天皇が没して、ついに、徳川慶喜によって大政奉還が起こる。そして、大政奉還を建策した坂本竜馬が暗殺された。そして、会津藩は御所から追放され、徳川慶喜は二条城から大阪城へと逃げて行った。どこまでも将軍家を護る宿命を負った会津藩は、やむを得ず慶喜が逃げた大阪城へと移動する。秋月新之助も大阪へと向かう。その時、新之助は薩摩がどうでも将軍家を潰すつもりでいることを橋口八郎太からの手紙で知らされていた。だが、どうにもならず、ついに慶応4年(1968年)の正月に鳥羽伏見の戦いが始まってしまう。そしてこの時、またしても将軍徳川慶喜は、松平容保らを引き連れて密かに船で大阪から脱出し、江戸へ逃げるのである。鳥羽伏見の戦いでは錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍は朝敵の賊軍になり、置き去りにされた幕府軍の兵たちはさんざんの苦労をしながら江戸へと落ち延びていくのである。秋月新之助も苦労を重ねて江戸の会津藩邸へと戻っていく。

 ここから、悲惨を究めた会津戦争を経て、会津の秋月新之助と薩摩の橋口八郎太の人生は大きく変転し、やがて運命のいたずらとも思える道を歩むことになり、物語は佳境に入っていくが、そのことについてはまた次回に記すことにしたい。

 なかなかこれを書く時間も取れなくなっているが、折々にでも読書ノートとして記し続けたいとは思っている。

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