週末から今日にかけて陽射しが差す比較的温かい天気になっている。ただ、月曜日の朝というものは、いつもだいたい何となく身体の怠さを覚えるので、どこかに出かけたいと思いつつも億劫さを感じたりする。やはり、体力勝負のようなところがあるなぁ、と思ってしまう。コーヒーでも入れて、気分を変えてみよう。
先日、坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き 狩り蜂』(2010年 徳間文庫)を気楽に読んでいたので記しておくことにする。このシリーズには『十手綴り』と『十手裁き』の二つのシリーズがあり、『十手裁き』の方は、『十手綴り』の続編になっていて、あまり役に立たずに歩き廻ることだけが能であることから「うぽっぽ」と渾名されている主人公の長尾勘兵衛の、欲もなく情に厚い姿が結構気に入っていて、よく読んでいる。
『十手綴り』の方は、主人公の長尾勘兵衛は奉行所の定町廻り同心であり、妻の靜は幼い娘を残して理由がわからないままに出奔し、勘兵衛はその苦悩を抱えているが、『十手裁き』では、定町廻りから臨時廻りで、還暦間近であり、出奔した妻の靜がある日突然帰って来て、その妻の心情をいたわりながら関わっていく事件の解決を図っていくというもので、一人娘の綾乃も彼の後輩で好人物の同心と結婚し、孫の綾をそれこそ「目の中に入れても痛くない」ほど可愛がる好々爺ぶりを発揮する設定になっている。
本書では、往来で人目も憚らずに地蔵を抱いて嗚咽するひとりの女性を見かけたことから、この女性が後添えとして入った料理屋で亭主が何者かに殺されるという事件に勘兵衛がかかわっていくという「狩り蜂」と、義賊として強盗に入った者が無惨に殺されたことから、裏で窩主(けいず)買い(盗品の売買)をしている骨董商の存在があることを明らかにし、その骨董商と奉行所同心の結託も明らかにしてそれを討ち取っていくという「あやかり神」、災害の時などに出されるお救い小屋の献上金の一部を私腹していた奉行所の町会所見廻り与力とそれに絡んだ高利貸しの跡目争いの事件に巻き込まれた子だくさんの貧乏武士を救って不正をただしていく「弓煎筋の侍」の三話が収められている。
いずれも、欲と権力が引き起こしていく出来事の中で巻き込まれていく弱者の側に立って、その欲と権力の正体を暴いていくという筋書きであるが、日常の「うぽっぽぶり」が巧みに描かれながら、どうしようもないところで生きている人間お姿もあり、面白く読めるものになっている。このシリーズの作品は、大体において権力にあぐらをかいて強欲ぶりを発揮する人間に対して、「うぽっぽ」と呼ばれながらもその悪を暴いていくという構図が取られているが、どの作品でも、その作品の良さが、複線の良さにあって、たとえば「狩り蜂」では、地蔵を抱いて泣いていた女性が、実はかつて尾張の御金蔵破りをするために手引きとして使われた女性で、強盗の手引きのために鍵番の役人と夫婦になったが、夫を愛するようになり子どもまでもうけ、しかもその子どもを強盗団の一味によって殺すように強要され、その失った子への業火に焼かれ続けている女性であったり、義賊として腹黒い骨董商に忍び込んで殺された強盗の家族が、かつて勘兵衛に助けられて裏店の家作をもって徳の高い人物になっている強盗の友人で、友人を殺した骨董商に一泡吹かせるのを勘兵衛が見逃したりしている。
また、「弓煎筋の侍」では、事件に巻き込まれる侍が、上役が押しつける娘との縁談を断って、愛する者と結婚したために、上役ににらまれ、お役御免となり、多くの子どもたちを抱えながら貧しい生活を余儀なくされ、矜持をもっていながらも刀を質に出し、娘を売らざるを得なくなり、それを勘兵衛が止めて、家族が住めるように裏店を世話したりする。
こういう展開が、本書の妙味で、このシリーズ全体の面白さを醸し出しているし、出奔し、ようやく帰って来た妻を案じ、おろおろしながらも大事にしていこうとする勘兵衛の姿が描き出されて、妙味を加えているのである。ただ、よけいなお世話ではあるが。シリーズも長くなっているので、そろそろ完結してもいい気がしないでもない。
2011年11月14日月曜日
2011年11月11日金曜日
芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 雪消水』
立冬を過ぎて、このところ寒い日々が続いている。今日は冷たい雨が降り続いて、気温が低く、まさに冬の到来を感じさせる日になっている。その内、小春日和とかインディアンサマーとか呼ばれる暖かい日も訪れるだろうが、冬に向かっての歩みが一歩ずつ進んでいる気がする。このところ外出が多かったのと急激な気温の低下に身体がついていかないのだろう、少々風邪気味の気配がある。まあ。毎年今頃一度は風邪を引くのだから、通常通りであるに違いない。
硬質の葉室麟を読んでいたので、昨夜は少し軽いものをと思って、芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 雪消水(ゆきげみず)』(2010年 双葉文庫)を読んだ。この作者のこのシリーズの作品は前に『猫の匂いのする侍』(2009年 双葉文庫)と『惜別の剣』(2009年 双葉文庫)の2冊だけを読んでいたが、これはこのシリーズの完結編で、作者によるあとがきも記されている。
のんびりと春の日だまりのような気性故に「おいらか」と渾名される主人公の若い滝沢俊作が、藩の内紛に絡んで浪人となり、江戸の裏店で同じ浪人である荒垣助左衛門とともに用心棒稼業などをして糊口を潤しながら、自らが巻き込まれた藩の内紛に決着をつけていくというもので、想いを寄せていた女性が藩の権力を握ろうとした家老が使う隠密であったり、その女性が命をかけて彼を守ろうとして、やがて自害したり、主人公の新しい恋の行くへが展開されたりするという、最近の時代小説の浪人ものの典型のような作品である。
本書では、盗みに入った武家屋敷で殺されかけていた子どもを助けた人のよい盗人が、主人公の滝沢俊作や荒垣助左衛門の噂を聞きつけて、子どもの救済を頼むために彼らが住む長屋の屋根から落ちて来るところから始まり、殺されようとした子どもの武家屋敷では、祈祷師が幅を利かせて、このままでは災難が起こると脅して母親に子どもを殺させてお家の乗っ取りを謀ろうとすることが明らかになって、滝沢俊作と荒垣助左衛門、そして剣術道場を隠居して彼らの用心棒稼業の世話などをしている桑山茂兵衛らと一計を案じてその祈祷師を討ち取り、子どもが無事に育てられるようにしていくという第一章「千里眼」や、桑山茂兵衛を逆恨みした男の計略や、滝沢俊作が藩の内紛騒ぎで倒した隠密の復讐やらが記されている。
話の展開に少しリアリティーを欠くところがあって、たとえば、第一章「千里眼」で、祈祷師にたぶらかされて武家の母親が我が子に手をかけようとするということなど、いくら江戸時代の人々が信心深かったとは言え、呪いを信じて我が子を手にかける母親の姿などは、どうもいまひとつ足りない気がしないでもない。たとえば、祈祷師が美男で、母親を手籠めにして、手籠めにされた母親がその愛欲に狂っていくというストーリー展開だとまだいいのに、と思ったりする。そうでなければ武家屋敷に祈祷師が居着くということが少し考えられず、また、いかに気弱な主人であろうとも武家の後継ぎである子を母親が手にかけるような事態になるには、もうすこし陰湿なものがあった方がよいと思ったりする。あるいは、主人公の滝沢俊作は、お世話になった医者の手助けなどをし、その医者の娘に想いを寄せていくようになり、やがて医者の弟子となって人生を歩み始めるのだが、かつて想いを寄せていた女性が彼を守るために自死したことの重みが当然あるはずなのだが、まるでそのことがなかったかのように恋が展開されるところなど、どこか軽さを感じてしまうのである。俊作の「おいらかぶり」も何か物足りなくて、ただまっすぐな性格を持つ青年武士という筆致で描かれている気がしないでもない。
重荷を抱え、問題を抱えつつも、なお「おいらか」であること、そういう姿を期待するが、娯楽作品としても、やはり人間に対する洞察の深みと感動が必要で、シリーズの完結としてはいささか不満が残った。
作者はあとがきで、別の作品に取り組む旨を記しておられるので、また、主人公が全く異なるような別の作品に取りかかられることを期待するし、時代小説であるのだから背景となる歴史と社会についての深い洞察のある作品を期待する。出版社の意図もあるだろうが、時流に乗った設定はもういいのではないだろうか。ただ、この作品は、風邪気味の弱った体力の中で読むには、気骨もいらないし、ちょうどよいのかも知れない。きょうはちょっと辛口になってしまった。
硬質の葉室麟を読んでいたので、昨夜は少し軽いものをと思って、芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 雪消水(ゆきげみず)』(2010年 双葉文庫)を読んだ。この作者のこのシリーズの作品は前に『猫の匂いのする侍』(2009年 双葉文庫)と『惜別の剣』(2009年 双葉文庫)の2冊だけを読んでいたが、これはこのシリーズの完結編で、作者によるあとがきも記されている。
のんびりと春の日だまりのような気性故に「おいらか」と渾名される主人公の若い滝沢俊作が、藩の内紛に絡んで浪人となり、江戸の裏店で同じ浪人である荒垣助左衛門とともに用心棒稼業などをして糊口を潤しながら、自らが巻き込まれた藩の内紛に決着をつけていくというもので、想いを寄せていた女性が藩の権力を握ろうとした家老が使う隠密であったり、その女性が命をかけて彼を守ろうとして、やがて自害したり、主人公の新しい恋の行くへが展開されたりするという、最近の時代小説の浪人ものの典型のような作品である。
本書では、盗みに入った武家屋敷で殺されかけていた子どもを助けた人のよい盗人が、主人公の滝沢俊作や荒垣助左衛門の噂を聞きつけて、子どもの救済を頼むために彼らが住む長屋の屋根から落ちて来るところから始まり、殺されようとした子どもの武家屋敷では、祈祷師が幅を利かせて、このままでは災難が起こると脅して母親に子どもを殺させてお家の乗っ取りを謀ろうとすることが明らかになって、滝沢俊作と荒垣助左衛門、そして剣術道場を隠居して彼らの用心棒稼業の世話などをしている桑山茂兵衛らと一計を案じてその祈祷師を討ち取り、子どもが無事に育てられるようにしていくという第一章「千里眼」や、桑山茂兵衛を逆恨みした男の計略や、滝沢俊作が藩の内紛騒ぎで倒した隠密の復讐やらが記されている。
話の展開に少しリアリティーを欠くところがあって、たとえば、第一章「千里眼」で、祈祷師にたぶらかされて武家の母親が我が子に手をかけようとするということなど、いくら江戸時代の人々が信心深かったとは言え、呪いを信じて我が子を手にかける母親の姿などは、どうもいまひとつ足りない気がしないでもない。たとえば、祈祷師が美男で、母親を手籠めにして、手籠めにされた母親がその愛欲に狂っていくというストーリー展開だとまだいいのに、と思ったりする。そうでなければ武家屋敷に祈祷師が居着くということが少し考えられず、また、いかに気弱な主人であろうとも武家の後継ぎである子を母親が手にかけるような事態になるには、もうすこし陰湿なものがあった方がよいと思ったりする。あるいは、主人公の滝沢俊作は、お世話になった医者の手助けなどをし、その医者の娘に想いを寄せていくようになり、やがて医者の弟子となって人生を歩み始めるのだが、かつて想いを寄せていた女性が彼を守るために自死したことの重みが当然あるはずなのだが、まるでそのことがなかったかのように恋が展開されるところなど、どこか軽さを感じてしまうのである。俊作の「おいらかぶり」も何か物足りなくて、ただまっすぐな性格を持つ青年武士という筆致で描かれている気がしないでもない。
重荷を抱え、問題を抱えつつも、なお「おいらか」であること、そういう姿を期待するが、娯楽作品としても、やはり人間に対する洞察の深みと感動が必要で、シリーズの完結としてはいささか不満が残った。
作者はあとがきで、別の作品に取り組む旨を記しておられるので、また、主人公が全く異なるような別の作品に取りかかられることを期待するし、時代小説であるのだから背景となる歴史と社会についての深い洞察のある作品を期待する。出版社の意図もあるだろうが、時流に乗った設定はもういいのではないだろうか。ただ、この作品は、風邪気味の弱った体力の中で読むには、気骨もいらないし、ちょうどよいのかも知れない。きょうはちょっと辛口になってしまった。
2011年11月9日水曜日
葉室麟『いのちなりけり』(4)
気温の低い肌寒い日になった。書きかけている葉室麟『いのりなりけり』を書き終えようと慌ただしい時間の中でパソコンの前に坐っている。書けば書くほど様々なことが思い浮かんでくる。それだけ良質の作品だと言うことだろう。
その『いのちなりけり』の続きであるが、中院通茂のもとで働くことになった雨宮蔵人は、否応なく霊元天皇の後継者争いで起こった小倉事件に巻き込まれていくことになる。本書では小倉事件の詳細が述べられているのではないが、公然と天皇と幕府を罵倒した中院通茂を江戸幕府は快く思わず、老中柳沢保明がかつて蔵人を追いかけていた剣客の巴十太夫らの手の者を隠密として送り込んできたりして、雨宮蔵人は中院邸の警護を任じられたりするのである。そこには、公家どうしの勢力争いもあり、幕府と朝廷の微妙な関係が影を落としていくのである。また、徳川綱吉が母親の桂昌院(徳川家光の側室お玉)のために叙位を受けることを願い出て、それを朝廷側が渋ったこととも関係してくる。
他方、江戸では水戸光圀の側近藤井紋太夫が徳川綱吉の光圀嫌いを案じて隠居を勧め、その裁可が下りるように光圀と対立していた老中柳沢保明に会ったりして、光圀は、遂に隠居し、隠棲する。
また、柳沢保明は、水戸光圀を排除するために、光圀と親しい佐賀藩主鍋島光茂が幕府を批判した中院通茂から古今伝授を受けることに、それが朝廷と結びつき幕府に謀反することになるという言いがかりの噂を出したりする。さらに、柳沢保明は、小城藩で起こった家老の天源寺行部が暗殺された事件を表沙汰にして、これを幕府評議所にかけ、鍋島光茂の古今伝授とあわせて謀反の企みとして暴き、中院通茂と親交の深い水戸光圀がその手配をしているということで水戸光圀を糾弾する企みをもっていたのである。そして、将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」に対して辛らつな批判をした光圀の立場はますます悪くなり、藤井紋太夫は、それを押さえるために柳沢保明に賄賂を贈る。そして、水戸藩を救ったが光圀の意を損なったということで光圀が断罪するのである。
そのため、柳沢保明は、小城藩の不祥事の証人である雨宮蔵人を捕らえようとするし、柳沢保明の陰謀を砕くために、水戸光圀と鍋島元武は、証人となる雨宮蔵人をなきものにしようと巴十太夫を使うことにする。巴十太夫は、かつての剣術師範の地位を得るために、ある時は柳沢に、またあるときは水戸光圀の意を受けた鍋島元武に使われていくが、雨宮蔵人はすべてを敵に囲まれた四面楚歌の状態に置かれるのである。光圀は、自分の奥女中として仕える咲弥の想い人が雨宮蔵人であることを知って、彼女を使って雨宮蔵人を江戸におびき寄せようとする。
水戸光圀が咲弥を使って雨宮蔵人を江戸におびきよせようとしていることを知った光圀の家臣である佐々介三郎(宗淳-助さん)と安積覚兵衛(格さん)は、咲弥とも親しいし、光圀が鍋島藩の内情に関与してひとりの武士を抹殺したということになれば、大変な事態になると考え、相談して、水戸藩邸ではなく上野の寛永寺に来るように手配することにする。その書状を飛脚問屋の亀屋のお初に依頼する。
お初は、かつて摂津湊川で雨宮蔵人に助けられた娘で、あの事件以来、父親の小八兵衛とともに江戸に出てきて飛脚問屋を営んでいるのであった。このお初が、蔵人と咲弥のために一役買っていくが、雨宮蔵人を江戸で待ち受けているのは、ただ窮地の罠である。柳沢側からも水戸光圀や鍋島家からも狙われる。しかし、蔵人は、ただ、自分が愛する咲弥に会うためだけに、窮地に陥ることを十分に承知の上で江戸へと向かうのである。咲弥も光圀の意図を知っていた。しかし、武家には守らなければならないものがあるし、蔵人が江戸で死を迎えることになるなら自分も死ぬ覚悟でいた。
雨宮蔵人はひたすら咲弥に会うために江戸へ向かう。途中、何度も巴十太夫が放った刺客に襲われるが、窮地を脱して、ようやく江戸の飛脚問屋亀屋へたどり着く。亀屋の女主人のお初は、なんとかして咲弥と会わせようとするが、咲弥がいる水戸藩邸に出向いたときに人質として巴十太夫に捕らわれてしまい、蔵人と咲弥が会うことになっている前日の夜に蔵人は、両国橋に呼び出される。
蔵人は両国橋に赴き、お初を助け、巴十太夫と死闘を繰り広げる。そして、背中を槍で刺され、大川(隅田川)に転落してしまう。約束の刻限が来ても、蔵人の姿は上野の寛永寺には現れない。寛永寺の門前には蔵人を討つ命を受けた水戸藩士が見張っている。もはや、蔵人が寛永寺に来ることは不可能に思える。だが、咲弥は待ち続ける。そして、ようやく、独りの武士が足を引きづりながら現れる。
ここが、本書の一番の山場であるから、抜き出しておこう。
「蔵人の姿はひどくみすぼらしかった。水に濡れ、よく乾かぬままの着物には返り血らしいものがとんでいた。さらに着物や袴のあちこちが避けている。
しかも蔵人は頭に血が滲んだ白い布を巻いていた。着物の下にも傷口を押さえるためにか布を巻いているようだった。腰には脇差しを差しているだけだった。蔵人が激しい戦いを行ってきたことは誰の目にも明らかだった。
蔵人の顔は出血のために青ざめていた。ゆっくり一歩ずつ歩いてくるが、待ち構えていた水戸家の武士たちも、気を飲まれたように動くことができなかった。
蔵人にはそんな武士たちの姿が目に入らぬようである。
門に立つ咲弥の姿を見て微笑した。
・・・・・・・・・
蔵人にもはや戦う力が残っていないことは明らかだった。それでも蔵人の歩みは止まらないのだ。
・・・・・・・・・
蔵人は男達の前をゆっくりと咲弥に向かって歩いていった。咲弥の前に立った蔵人は苦しげだったが頭を下げて、
「遅くなりました、申し訳ござらぬ」
「本当に、十七年は待たせすぎです」
咲弥の目には光るものがあった。
「されど、咲弥殿との約束は果たせましたぞ」
蔵人は嬉しげに笑った。
「さよう-」
咲弥はうなずいて口にした。
春ごとに花のさかりはありなめど
蔵人が手紙に書いてきた和歌の上の句である。
・・・・・・蔵人はあえぎながらも咲弥に続いて詠じた。
あひ見むことはいのちなりけり
蔵人は崩れ落ちるように倒れた。
「蔵人殿―」
咲弥が蔵人を抱えた。咲弥の胸に抱かれた蔵人は穏やかな微笑を浮かべていた。
寛永寺の桜はこの日、真っ盛りである。上野の山を春霞と見紛う桜が覆っていた」(文庫版277-279ページ)。
まさに圧巻という他はない。作者はこの場面が描きたくて、長い物語を書いたのではないかと思われるほど、この場面は感動的である。ふと、五味川純平の『人間の条件』のラストシーンを思い起こした。『人間の条件』の主人公は、敗戦後の凍てつく荒涼とした満州の原野の中を、飢えと疲労と寒さで死にかけつつも、もはや凍りついてしまった一握りの饅頭を、「みちこ、みちこ」と愛する者の名を呼びながら、「お土産だ」と握りしめて、ただひたすらに愛する者に向かって歩みを続けていくのである。そして、原野の中で倒れ、その上を白い雪が覆っていく。
『いのちなりけり』の雨宮蔵人も、彼を討ち取ろうとする武士たちの中を傷つきよれよれになりながら、ただひとり愛する者にむかって歩んでいく。そして、穏やかに微笑して倒れるのである。それは、まさに「いのちなりけり」以外の何ものでもない。
この後、少し事後譚が記され、京都の中院通茂から寛永寺の輪王寺宮に元へ蔵人の庇護を願う手紙をもった佐々介三郎の計らいで、蔵人と咲弥は寛永寺で庇護され、その後、蔵人と咲弥は京都へ向かい、柳沢保明の命を受けて動いていた黒滝五郎兵衛が京へ向かう途中の雨宮蔵人を待ち受けて、蔵人と対決し、蔵人は五郎兵衛の命を受け取ると語って五郎兵衛を倒すのである。島原の乱以来佐賀藩に恨みを抱いていた五郎兵衛は雨宮蔵人のような人間に討たれて死を迎えたことに満足するのである。
この物語は、どちらが正義とはいえないような醜い権力争いに否応なく巻き込まれて人生を変転させながらも、矜持をもってただひたすらに愛する者への愛を貫いた人間の物語である。歴史上の人物と事件に中に主人公を置いて、その中を翻弄されながらも、ひたむきに生きる人間の姿を描いた物語であり、貫くものが愛する者への深い愛情であるだけに、まことに尊い生き方を示した物語になっていて、深い感動をもって読み終わった。葉室麟の代表的作品になるだろうと思う。
その『いのちなりけり』の続きであるが、中院通茂のもとで働くことになった雨宮蔵人は、否応なく霊元天皇の後継者争いで起こった小倉事件に巻き込まれていくことになる。本書では小倉事件の詳細が述べられているのではないが、公然と天皇と幕府を罵倒した中院通茂を江戸幕府は快く思わず、老中柳沢保明がかつて蔵人を追いかけていた剣客の巴十太夫らの手の者を隠密として送り込んできたりして、雨宮蔵人は中院邸の警護を任じられたりするのである。そこには、公家どうしの勢力争いもあり、幕府と朝廷の微妙な関係が影を落としていくのである。また、徳川綱吉が母親の桂昌院(徳川家光の側室お玉)のために叙位を受けることを願い出て、それを朝廷側が渋ったこととも関係してくる。
他方、江戸では水戸光圀の側近藤井紋太夫が徳川綱吉の光圀嫌いを案じて隠居を勧め、その裁可が下りるように光圀と対立していた老中柳沢保明に会ったりして、光圀は、遂に隠居し、隠棲する。
また、柳沢保明は、水戸光圀を排除するために、光圀と親しい佐賀藩主鍋島光茂が幕府を批判した中院通茂から古今伝授を受けることに、それが朝廷と結びつき幕府に謀反することになるという言いがかりの噂を出したりする。さらに、柳沢保明は、小城藩で起こった家老の天源寺行部が暗殺された事件を表沙汰にして、これを幕府評議所にかけ、鍋島光茂の古今伝授とあわせて謀反の企みとして暴き、中院通茂と親交の深い水戸光圀がその手配をしているということで水戸光圀を糾弾する企みをもっていたのである。そして、将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」に対して辛らつな批判をした光圀の立場はますます悪くなり、藤井紋太夫は、それを押さえるために柳沢保明に賄賂を贈る。そして、水戸藩を救ったが光圀の意を損なったということで光圀が断罪するのである。
そのため、柳沢保明は、小城藩の不祥事の証人である雨宮蔵人を捕らえようとするし、柳沢保明の陰謀を砕くために、水戸光圀と鍋島元武は、証人となる雨宮蔵人をなきものにしようと巴十太夫を使うことにする。巴十太夫は、かつての剣術師範の地位を得るために、ある時は柳沢に、またあるときは水戸光圀の意を受けた鍋島元武に使われていくが、雨宮蔵人はすべてを敵に囲まれた四面楚歌の状態に置かれるのである。光圀は、自分の奥女中として仕える咲弥の想い人が雨宮蔵人であることを知って、彼女を使って雨宮蔵人を江戸におびき寄せようとする。
水戸光圀が咲弥を使って雨宮蔵人を江戸におびきよせようとしていることを知った光圀の家臣である佐々介三郎(宗淳-助さん)と安積覚兵衛(格さん)は、咲弥とも親しいし、光圀が鍋島藩の内情に関与してひとりの武士を抹殺したということになれば、大変な事態になると考え、相談して、水戸藩邸ではなく上野の寛永寺に来るように手配することにする。その書状を飛脚問屋の亀屋のお初に依頼する。
お初は、かつて摂津湊川で雨宮蔵人に助けられた娘で、あの事件以来、父親の小八兵衛とともに江戸に出てきて飛脚問屋を営んでいるのであった。このお初が、蔵人と咲弥のために一役買っていくが、雨宮蔵人を江戸で待ち受けているのは、ただ窮地の罠である。柳沢側からも水戸光圀や鍋島家からも狙われる。しかし、蔵人は、ただ、自分が愛する咲弥に会うためだけに、窮地に陥ることを十分に承知の上で江戸へと向かうのである。咲弥も光圀の意図を知っていた。しかし、武家には守らなければならないものがあるし、蔵人が江戸で死を迎えることになるなら自分も死ぬ覚悟でいた。
雨宮蔵人はひたすら咲弥に会うために江戸へ向かう。途中、何度も巴十太夫が放った刺客に襲われるが、窮地を脱して、ようやく江戸の飛脚問屋亀屋へたどり着く。亀屋の女主人のお初は、なんとかして咲弥と会わせようとするが、咲弥がいる水戸藩邸に出向いたときに人質として巴十太夫に捕らわれてしまい、蔵人と咲弥が会うことになっている前日の夜に蔵人は、両国橋に呼び出される。
蔵人は両国橋に赴き、お初を助け、巴十太夫と死闘を繰り広げる。そして、背中を槍で刺され、大川(隅田川)に転落してしまう。約束の刻限が来ても、蔵人の姿は上野の寛永寺には現れない。寛永寺の門前には蔵人を討つ命を受けた水戸藩士が見張っている。もはや、蔵人が寛永寺に来ることは不可能に思える。だが、咲弥は待ち続ける。そして、ようやく、独りの武士が足を引きづりながら現れる。
ここが、本書の一番の山場であるから、抜き出しておこう。
「蔵人の姿はひどくみすぼらしかった。水に濡れ、よく乾かぬままの着物には返り血らしいものがとんでいた。さらに着物や袴のあちこちが避けている。
しかも蔵人は頭に血が滲んだ白い布を巻いていた。着物の下にも傷口を押さえるためにか布を巻いているようだった。腰には脇差しを差しているだけだった。蔵人が激しい戦いを行ってきたことは誰の目にも明らかだった。
蔵人の顔は出血のために青ざめていた。ゆっくり一歩ずつ歩いてくるが、待ち構えていた水戸家の武士たちも、気を飲まれたように動くことができなかった。
蔵人にはそんな武士たちの姿が目に入らぬようである。
門に立つ咲弥の姿を見て微笑した。
・・・・・・・・・
蔵人にもはや戦う力が残っていないことは明らかだった。それでも蔵人の歩みは止まらないのだ。
・・・・・・・・・
蔵人は男達の前をゆっくりと咲弥に向かって歩いていった。咲弥の前に立った蔵人は苦しげだったが頭を下げて、
「遅くなりました、申し訳ござらぬ」
「本当に、十七年は待たせすぎです」
咲弥の目には光るものがあった。
「されど、咲弥殿との約束は果たせましたぞ」
蔵人は嬉しげに笑った。
「さよう-」
咲弥はうなずいて口にした。
春ごとに花のさかりはありなめど
蔵人が手紙に書いてきた和歌の上の句である。
・・・・・・蔵人はあえぎながらも咲弥に続いて詠じた。
あひ見むことはいのちなりけり
蔵人は崩れ落ちるように倒れた。
「蔵人殿―」
咲弥が蔵人を抱えた。咲弥の胸に抱かれた蔵人は穏やかな微笑を浮かべていた。
寛永寺の桜はこの日、真っ盛りである。上野の山を春霞と見紛う桜が覆っていた」(文庫版277-279ページ)。
まさに圧巻という他はない。作者はこの場面が描きたくて、長い物語を書いたのではないかと思われるほど、この場面は感動的である。ふと、五味川純平の『人間の条件』のラストシーンを思い起こした。『人間の条件』の主人公は、敗戦後の凍てつく荒涼とした満州の原野の中を、飢えと疲労と寒さで死にかけつつも、もはや凍りついてしまった一握りの饅頭を、「みちこ、みちこ」と愛する者の名を呼びながら、「お土産だ」と握りしめて、ただひたすらに愛する者に向かって歩みを続けていくのである。そして、原野の中で倒れ、その上を白い雪が覆っていく。
『いのちなりけり』の雨宮蔵人も、彼を討ち取ろうとする武士たちの中を傷つきよれよれになりながら、ただひとり愛する者にむかって歩んでいく。そして、穏やかに微笑して倒れるのである。それは、まさに「いのちなりけり」以外の何ものでもない。
この後、少し事後譚が記され、京都の中院通茂から寛永寺の輪王寺宮に元へ蔵人の庇護を願う手紙をもった佐々介三郎の計らいで、蔵人と咲弥は寛永寺で庇護され、その後、蔵人と咲弥は京都へ向かい、柳沢保明の命を受けて動いていた黒滝五郎兵衛が京へ向かう途中の雨宮蔵人を待ち受けて、蔵人と対決し、蔵人は五郎兵衛の命を受け取ると語って五郎兵衛を倒すのである。島原の乱以来佐賀藩に恨みを抱いていた五郎兵衛は雨宮蔵人のような人間に討たれて死を迎えたことに満足するのである。
この物語は、どちらが正義とはいえないような醜い権力争いに否応なく巻き込まれて人生を変転させながらも、矜持をもってただひたすらに愛する者への愛を貫いた人間の物語である。歴史上の人物と事件に中に主人公を置いて、その中を翻弄されながらも、ひたむきに生きる人間の姿を描いた物語であり、貫くものが愛する者への深い愛情であるだけに、まことに尊い生き方を示した物語になっていて、深い感動をもって読み終わった。葉室麟の代表的作品になるだろうと思う。
2011年11月8日火曜日
葉室麟『いのちなりけり』(3)
暦の上では今日は立冬で、今日から初冬の季節に入ることになる。昨日と同じように曇り時々晴れといった天候だが、少し肌寒くなっている。今日は夕方に都内で会議があるので、葉室麟『いのちなりけり』について思いもかけない長さになったこともあり、それまでと思ってこれを書いている。
葉室麟の作品は、漢詩や和歌、あるいは古典が随所に良質に取り入れられて、この『いのちなりけり』も古今和歌集の読み人知らずの作品である「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」という歌を基にして物語が展開されているのだが、その「あひ見むことはいのちなりけり」の神髄が現れていくのは、主人公の雨宮蔵人と咲弥が離れ離れになって暮らす16年間と、最後に出会う瞬間が綴られる物語の後半で感動的に記されている。
水戸藩の水戸光圀に預けられ、奥女中として働くことになった咲弥は、これまでの蔵人への自分の誤解を払拭し、ひたすら自分を愛してくれた蔵人への想いを抱いたまま、奥女中を取り仕切っていた老女(奥女中取締役)の「藤井」の元で働くことになる。咲弥の教養も深いことから、光圀の『大日本史』編纂の作業などに携わっていた学者や藩士などからも信頼されていき、やがて、「藤井」の後を受けて奥女中の取締りをするようになっていくのである。咲弥は仕えている光圀から側女になるように求められたりするが、自分には想う人があると明言してこれを断ったりする。主人の命を断ることは命がけであるが、蔵人が自分のために命をかけてくれたように、彼女もまた蔵人への想いを命をかけて守るのである。そして、そういう咲弥の姿を光圀も認めて行くようになる。
この老女「藤井」が養子としたのが藤井紋太夫で、光圀の側近として仕えていた藤井紋太夫は、やがて光圀から奸臣として処断される。それが冒頭に描かれた出来事だった。藤井紋太夫は、水戸光圀と老中柳沢保明の争いの中で、光圀のために良かれと思ってしたことが光圀の人格を傷つけることになってしまい、光圀はやむを得ずに彼を処罰するのである。『三国志』の「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の出来事を思い起こすような展開を作者はここでしている。
他方、咲弥と摂津湊川で別れ、片腕を失った深町京介の治療のために京都へ向かった雨宮蔵人は、右京に医師の手当てを受けさせて、目薬売りと灸をしながら糊口をしのぎつつ、ただひとつの和歌を探し出すために和歌の学びをはじめていた。そのただひとつの歌というのは、かつて咲弥と縁組みした際、咲弥から心を表す歌があるかと問われ、その歌が見つかるまでは閨を共にしないと宣告されたことに応えるための自らの心を表す歌である。運命の変転と長い時間をかけて、蔵人は咲弥の問に答えようとするのである。その時の咲弥は、蔵人の家格と風貌を軽んじて、蔵人を夫として受け入れることができなかったのである。咲弥は、蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて胸を突かれる思いがする。
片腕を失った深町京介は、傷が癒えると円光寺を訪ねて得度し、仏門に入る。徳川家康が建立した円光寺には古書が蔵書されており、蔵人はこの円光寺を訪ねて、深町京介との親交をもちながら、古今和歌集を初めとする古書を読んでいたのである。
それから5年の月日が流れ、蔵人は、播州明石で訪ねた熊沢蕃山の弟子であった中院通茂(なかのいん みちしげ 1631-1710年)を訪ねる。中院通茂は、天皇家に仕えた公卿で、歌人としても名高かったが、権大納言で武家伝奏者でもあり、水戸光圀と親交が深く、佐賀藩主鍋島光茂の正室の兄でもあり、脱藩者である雨宮蔵人が訪ねるには大物過ぎたのである。
ちなみに、この中院通茂は、通称小倉事件と呼ばれる天皇家の皇位継承問題の争いで、霊元天皇(1663-1687年)を目の前にして、天皇と将軍徳川綱吉を公然と罵倒したりするような剛直な人物であった。天皇家の皇位継承を巡る小倉事件は、雨宮蔵人も巻き込む事件として本書で展開されている。
この中院通茂が、訪ねて来た蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて気に入り、無給だが蔵書の和歌の書物を読むということで屋敷に通うことを許し、蔵人は中院通茂に仕えていくようになるのである。
そのころ江戸では、将軍徳川綱吉の命を受けて稲葉正休が大老堀田正俊を殿中で斬り殺すという事件が勃発していた。堀田正俊は綱吉が将軍になるときに擁立した人物であったが、やがて綱吉は堀田正俊を疎ましく思うようになって、自分が幕政を掌握するために堀田正俊を殺害する意図を持ち、それを側近であった柳沢保明が画策したと言われている。そして、水戸光圀も徳川綱吉に対しては憚ることなく辛言を言っていたので、光圀の命も狙われるのではないかと江戸の水戸藩屋敷にも緊張が走ったのである。光圀の側近であった藤井紋太夫は水戸藩を守るために光圀に隠居させようとする。また、柳沢保明は、光圀を毒殺するために策略をもうけたりする。だが、光圀毒殺の計略は咲弥の機転で失敗し、柳沢保明は、彼に仕えるようになっていた島原の乱の生き残りである黒滝五郎兵衛に光圀の暗殺を相談するのである。
黒滝五郎兵衛は、越後高田藩の小栗美作に仕えていたが、高田藩の後継者を巡る争いで小栗美作が切腹させられ、自分を信頼してくれていた小栗美作を切腹に追い込んだのが老中の堀田正俊であったことから、野心を持つ柳沢保明に近づき、それによって主君の仇を討とうと考えていたのである。黒滝五郎兵衛は柳沢保明から策士として信頼を得、光圀が現職のままでは面倒などで、光圀を引退させた後に水戸藩の内通者と手を結ぶことを画策していくのである。
徳川綱吉は、なにかと五月蠅かった堀田正俊を排除した後、自分に敵対する水戸光圀と同時に京都の朝廷も警戒するよう柳沢保明に命じ、柳沢保明は高家(京の朝廷との関係を持ち、幕府の諸儀式を取り締まる)の吉良上野介義央(よしひさ)を通じて公家対策を行っていく。綱吉と将軍位を争っていた甲府の徳川綱豊の正室が京都の公家の近衛基煕(このえ もとひろ)の娘であり、将軍家の争いは京都の公家の争いでもあった。
ここまで書いて、もう出かける時間になってしまった。なにせ、本書で取り扱われている背景となっている出来事が複雑な歴史的事件と密接に関係しているため、その事件についての概略を記すだけでも相当の分量がいることになり、『いのちなりけり』の本筋である「あひ見むこと」に至るまでにはまだ至らないでいる。人は歴史の中で、様々なものに翻弄されながら生きているのだから、歴史の中に人物を置くという作者の姿勢に、まず、敬意を表したいと思って、つい長くなるのである。
葉室麟の作品は、漢詩や和歌、あるいは古典が随所に良質に取り入れられて、この『いのちなりけり』も古今和歌集の読み人知らずの作品である「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」という歌を基にして物語が展開されているのだが、その「あひ見むことはいのちなりけり」の神髄が現れていくのは、主人公の雨宮蔵人と咲弥が離れ離れになって暮らす16年間と、最後に出会う瞬間が綴られる物語の後半で感動的に記されている。
水戸藩の水戸光圀に預けられ、奥女中として働くことになった咲弥は、これまでの蔵人への自分の誤解を払拭し、ひたすら自分を愛してくれた蔵人への想いを抱いたまま、奥女中を取り仕切っていた老女(奥女中取締役)の「藤井」の元で働くことになる。咲弥の教養も深いことから、光圀の『大日本史』編纂の作業などに携わっていた学者や藩士などからも信頼されていき、やがて、「藤井」の後を受けて奥女中の取締りをするようになっていくのである。咲弥は仕えている光圀から側女になるように求められたりするが、自分には想う人があると明言してこれを断ったりする。主人の命を断ることは命がけであるが、蔵人が自分のために命をかけてくれたように、彼女もまた蔵人への想いを命をかけて守るのである。そして、そういう咲弥の姿を光圀も認めて行くようになる。
この老女「藤井」が養子としたのが藤井紋太夫で、光圀の側近として仕えていた藤井紋太夫は、やがて光圀から奸臣として処断される。それが冒頭に描かれた出来事だった。藤井紋太夫は、水戸光圀と老中柳沢保明の争いの中で、光圀のために良かれと思ってしたことが光圀の人格を傷つけることになってしまい、光圀はやむを得ずに彼を処罰するのである。『三国志』の「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の出来事を思い起こすような展開を作者はここでしている。
他方、咲弥と摂津湊川で別れ、片腕を失った深町京介の治療のために京都へ向かった雨宮蔵人は、右京に医師の手当てを受けさせて、目薬売りと灸をしながら糊口をしのぎつつ、ただひとつの和歌を探し出すために和歌の学びをはじめていた。そのただひとつの歌というのは、かつて咲弥と縁組みした際、咲弥から心を表す歌があるかと問われ、その歌が見つかるまでは閨を共にしないと宣告されたことに応えるための自らの心を表す歌である。運命の変転と長い時間をかけて、蔵人は咲弥の問に答えようとするのである。その時の咲弥は、蔵人の家格と風貌を軽んじて、蔵人を夫として受け入れることができなかったのである。咲弥は、蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて胸を突かれる思いがする。
片腕を失った深町京介は、傷が癒えると円光寺を訪ねて得度し、仏門に入る。徳川家康が建立した円光寺には古書が蔵書されており、蔵人はこの円光寺を訪ねて、深町京介との親交をもちながら、古今和歌集を初めとする古書を読んでいたのである。
それから5年の月日が流れ、蔵人は、播州明石で訪ねた熊沢蕃山の弟子であった中院通茂(なかのいん みちしげ 1631-1710年)を訪ねる。中院通茂は、天皇家に仕えた公卿で、歌人としても名高かったが、権大納言で武家伝奏者でもあり、水戸光圀と親交が深く、佐賀藩主鍋島光茂の正室の兄でもあり、脱藩者である雨宮蔵人が訪ねるには大物過ぎたのである。
ちなみに、この中院通茂は、通称小倉事件と呼ばれる天皇家の皇位継承問題の争いで、霊元天皇(1663-1687年)を目の前にして、天皇と将軍徳川綱吉を公然と罵倒したりするような剛直な人物であった。天皇家の皇位継承を巡る小倉事件は、雨宮蔵人も巻き込む事件として本書で展開されている。
この中院通茂が、訪ねて来た蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて気に入り、無給だが蔵書の和歌の書物を読むということで屋敷に通うことを許し、蔵人は中院通茂に仕えていくようになるのである。
そのころ江戸では、将軍徳川綱吉の命を受けて稲葉正休が大老堀田正俊を殿中で斬り殺すという事件が勃発していた。堀田正俊は綱吉が将軍になるときに擁立した人物であったが、やがて綱吉は堀田正俊を疎ましく思うようになって、自分が幕政を掌握するために堀田正俊を殺害する意図を持ち、それを側近であった柳沢保明が画策したと言われている。そして、水戸光圀も徳川綱吉に対しては憚ることなく辛言を言っていたので、光圀の命も狙われるのではないかと江戸の水戸藩屋敷にも緊張が走ったのである。光圀の側近であった藤井紋太夫は水戸藩を守るために光圀に隠居させようとする。また、柳沢保明は、光圀を毒殺するために策略をもうけたりする。だが、光圀毒殺の計略は咲弥の機転で失敗し、柳沢保明は、彼に仕えるようになっていた島原の乱の生き残りである黒滝五郎兵衛に光圀の暗殺を相談するのである。
黒滝五郎兵衛は、越後高田藩の小栗美作に仕えていたが、高田藩の後継者を巡る争いで小栗美作が切腹させられ、自分を信頼してくれていた小栗美作を切腹に追い込んだのが老中の堀田正俊であったことから、野心を持つ柳沢保明に近づき、それによって主君の仇を討とうと考えていたのである。黒滝五郎兵衛は柳沢保明から策士として信頼を得、光圀が現職のままでは面倒などで、光圀を引退させた後に水戸藩の内通者と手を結ぶことを画策していくのである。
徳川綱吉は、なにかと五月蠅かった堀田正俊を排除した後、自分に敵対する水戸光圀と同時に京都の朝廷も警戒するよう柳沢保明に命じ、柳沢保明は高家(京の朝廷との関係を持ち、幕府の諸儀式を取り締まる)の吉良上野介義央(よしひさ)を通じて公家対策を行っていく。綱吉と将軍位を争っていた甲府の徳川綱豊の正室が京都の公家の近衛基煕(このえ もとひろ)の娘であり、将軍家の争いは京都の公家の争いでもあった。
ここまで書いて、もう出かける時間になってしまった。なにせ、本書で取り扱われている背景となっている出来事が複雑な歴史的事件と密接に関係しているため、その事件についての概略を記すだけでも相当の分量がいることになり、『いのちなりけり』の本筋である「あひ見むこと」に至るまでにはまだ至らないでいる。人は歴史の中で、様々なものに翻弄されながら生きているのだから、歴史の中に人物を置くという作者の姿勢に、まず、敬意を表したいと思って、つい長くなるのである。
2011年11月7日月曜日
葉室麟『いのちなりけり』(2)
午前中は晴れ間が見えていたが、夕方にかけて雲が広がり、変化の多い秋らしい天気といえば秋らしい天気になった。今日は家事に精を出した後、山積みしていた仕事を少し片づけたりしていたが、まったくもって意欲が湧いてこない気がしている。脳細胞が死にかけているのではないかと我ながら思ってしまう。
さて、葉室麟『いのちなりけり』の続きであるが、主人公の雨宮蔵人は、小城藩継嗣の鍋島元武から鍋島家とは少なからぬ因縁がある龍造寺家の流れをもつ家老で、義父であもある天源寺行部の暗殺を命じられたまま帰国する。そして、しばらくして、天源寺行部が何者かに斬殺され、蔵人が出奔するという出来事が起こった。同じ頃、天源寺家の家臣として仕えていた波野権四郎も殺されていた。
人々は、波野権四郎を殺し、天源寺行部を殺したのが雨宮蔵人だと思い、特に天源寺家では仇討ちを行うことになって、彼の従姉妹である深町右京に助太刀を依頼する。深町右京は、御歌書役に任じられ、藩主が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかることになっており、咲弥の新しい婿となることがとりざたされていた。咲弥もその仇討ちに同行することになる。蔵人が行部を殺したことが確かになり、その仇を討ったあかつきには、深町右京と咲弥は夫婦になるということになる。
また、蔵人に天源寺行部の暗殺を命じた鍋島元武も、事柄を隠蔽するために雨宮蔵人をなきものにしようと柳生新陰流の師範であった巴十太夫に蔵人の行くへを探させていた。こうして、雨宮蔵人は、妻の咲弥と従姉妹の深町京介、そして巴十太夫の両方から追われることになるのである。
雨宮蔵人は、実は、帰国して義父である天源寺行部と会い、先の鎧揃えの際に親藩である佐賀藩主に向かって矢を射かけたのが、天源寺家の家臣であった波野権四郎で、それを命じたのが行部であることを告げ、波野権四郎は自分が処理するから、公になる前に腹を切って責任を取れと話していたのであった。そして、波野権四郎を彼が倒したとき、行部は、蔵人の言葉通り自決するつもりであった。だが、これは後で明白にされることではあるが、天源寺行部を斬ったのは深町京介で、蔵人はすべての罪を自分で引き受けるために逐電したのであった。
逐電した蔵人は、まず、少年のころに通っていた儒学者の石田一鼎(いってい 1629-1693年 鍋島光茂の相談役であったが、勘気に触れ蟄居。『葉隠れ』を表した山本常朝の師)の元に身を寄せる。しかし、一鼎のもとに出入りし、蔵人を真の武士として尊敬していた山本権之丞(常朝)から追っ手の様子を聞いて、人を斬らないために逃げ、播州明石の熊沢蕃山(ばんざん 1619-1691年 陽明学者)に会おうと思って摂津湊川(元:神戸市中央区)に行くのである。蕃山の思想に自分の考えが似ているような自覚をもっており、たとえ明日死ぬことになろうとも、その学びをしたいと願ったのである。
他方、蔵人が逃げたとの知らせを聞いて、咲弥と深町京介は追っ手の準備をする。その時、咲矢は深町京介から、あの桜狩りの時に助けてくれた少年が、実は雨宮蔵人であることを聞いたりして、少しずつ蔵人に対する自分の思い違いを知っていったりする。
摂津湊川近くの坂本村で、雨宮蔵人は駕籠かきにいたずらされそうになった娘を助け、その娘が水戸光圀の隠密御用を勤める小八兵衛の娘であったことから、ちょうど水戸光圀の『大日本史』編纂の史料集めのために佐々介三郎宗淳(水戸黄門の助さんのモデル)の道案内として同道して京都まで来ていた小八兵衛は、その娘が自分を助けてくれた武士の世話をしているが、その武士が、追っ手が来るのを待つ敵持ちらしいと聞いて、娘を案じて佐々介三郎を連れて坂本村まで出かけていく。
坂本村の荒れ寺にいた雨宮蔵人は、追ってきた巴十太夫から深町京介と咲弥がもうすぐ追いつくと聞かされ、湊川の河原で待つことにする。彼は咲弥に討たれる覚悟をしている。そしてそこで、深町右京と咲弥とに対峙する。ところがその時、右京が咲弥の父である天源寺行部を斬ったのは、実は自分であると語り出す。それは本藩である佐賀藩藩主の鍋島光茂から支藩である小城藩が増長している原因が天源寺行部にあるので、その行部を斬るように命じられたからだと告げる。そして、その命のとおりに行部を斬ったとき、雨宮蔵人から「お主は咲弥殿を助けてわしを討て」、「咲弥殿の婿にふさわしいのは、わしではなくてお主だ」と言われていたと言うのである。そしてさらに、そのことを佐賀藩主の鍋島光茂に報告すると、その暗殺命令を隠すためと天源寺家を断絶させるために、雨宮蔵人を殺した後に咲弥も殺せと命じられていたと語るのである。
右京も咲弥に想いを寄せていたが、蔵人を討てば咲弥を守る者はいなくなる。そう言いながらも右京は、主命に従って、蔵人に剣を向けていく。それを聞いた蔵人も剣を抜き、蔵人は遂に右京の右腕を斬り落とす。蔵人は右京に、天源寺行部は既に死を覚悟していたのだと告げる。
そこへ、もうひとりの追っ手である巴十太夫が六人の武士を連れて襲いかかる。石礫を飛ばして蔵人を襲う。蔵人は命をかけて咲弥を守ろうとする。彼は咲弥に言う。「咲弥殿、わしはすでに天源寺家を去った身だ。よき婿殿を迎えられよ。されど、わしは何度生まれ変わろうとも咲弥殿をお守りいたす。わが命に代えて生きていただく」(文庫版135ページ)。
蔵人の咲弥に対する愛はひたむきである。報われることがなくとも、ただ一筋に愛し抜こうとする。そして、彼を否み続けてきた咲弥のために命を捨てようとする姿を見て、咲弥は、あの幼い日に桜の枝を切ってくれて自分を助けてくれた少年の姿を思い浮かべるのである。咲弥は、自分のために命をかける蔵人に対して思いを変えていくのである。だが、その蔵人は、巴十太夫の手によって死を迎えようとする。
その危機の時に、水戸藩の佐々介三郎らが駆けつけ、蔵人らは助けられ、咲弥は佐賀へ帰り、蔵人は深町京介を療養させるために京都へ向かう。そして、咲弥は佐賀藩と関係が深かった水戸藩の水戸光圀の元に預けられることになる。咲弥は、摂津湊川での蔵人の姿に心を打たれ、「離れ離れになり、生涯会うことができなくても心で添うことはできるのではないでしょうか」(文庫版179ページ)と語り、蔵人への想いを強く固めていくのである。
二人は、ようやくここで、互いが想う夫婦となるのである。だが、それは心で添う夫婦である。しかし、以後、この二人の想いは変わることがない。二人の愛情はそこで強められたのである。
ここまでが、おそらく前半の山場であり、結末であるだろう。この後、二人は水戸光圀と老中柳沢保明の闘いに巻き込まれていくことになる。そのくだりについては、次回、また記すことにしよう。
さて、葉室麟『いのちなりけり』の続きであるが、主人公の雨宮蔵人は、小城藩継嗣の鍋島元武から鍋島家とは少なからぬ因縁がある龍造寺家の流れをもつ家老で、義父であもある天源寺行部の暗殺を命じられたまま帰国する。そして、しばらくして、天源寺行部が何者かに斬殺され、蔵人が出奔するという出来事が起こった。同じ頃、天源寺家の家臣として仕えていた波野権四郎も殺されていた。
人々は、波野権四郎を殺し、天源寺行部を殺したのが雨宮蔵人だと思い、特に天源寺家では仇討ちを行うことになって、彼の従姉妹である深町右京に助太刀を依頼する。深町右京は、御歌書役に任じられ、藩主が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかることになっており、咲弥の新しい婿となることがとりざたされていた。咲弥もその仇討ちに同行することになる。蔵人が行部を殺したことが確かになり、その仇を討ったあかつきには、深町右京と咲弥は夫婦になるということになる。
また、蔵人に天源寺行部の暗殺を命じた鍋島元武も、事柄を隠蔽するために雨宮蔵人をなきものにしようと柳生新陰流の師範であった巴十太夫に蔵人の行くへを探させていた。こうして、雨宮蔵人は、妻の咲弥と従姉妹の深町京介、そして巴十太夫の両方から追われることになるのである。
雨宮蔵人は、実は、帰国して義父である天源寺行部と会い、先の鎧揃えの際に親藩である佐賀藩主に向かって矢を射かけたのが、天源寺家の家臣であった波野権四郎で、それを命じたのが行部であることを告げ、波野権四郎は自分が処理するから、公になる前に腹を切って責任を取れと話していたのであった。そして、波野権四郎を彼が倒したとき、行部は、蔵人の言葉通り自決するつもりであった。だが、これは後で明白にされることではあるが、天源寺行部を斬ったのは深町京介で、蔵人はすべての罪を自分で引き受けるために逐電したのであった。
逐電した蔵人は、まず、少年のころに通っていた儒学者の石田一鼎(いってい 1629-1693年 鍋島光茂の相談役であったが、勘気に触れ蟄居。『葉隠れ』を表した山本常朝の師)の元に身を寄せる。しかし、一鼎のもとに出入りし、蔵人を真の武士として尊敬していた山本権之丞(常朝)から追っ手の様子を聞いて、人を斬らないために逃げ、播州明石の熊沢蕃山(ばんざん 1619-1691年 陽明学者)に会おうと思って摂津湊川(元:神戸市中央区)に行くのである。蕃山の思想に自分の考えが似ているような自覚をもっており、たとえ明日死ぬことになろうとも、その学びをしたいと願ったのである。
他方、蔵人が逃げたとの知らせを聞いて、咲弥と深町京介は追っ手の準備をする。その時、咲矢は深町京介から、あの桜狩りの時に助けてくれた少年が、実は雨宮蔵人であることを聞いたりして、少しずつ蔵人に対する自分の思い違いを知っていったりする。
摂津湊川近くの坂本村で、雨宮蔵人は駕籠かきにいたずらされそうになった娘を助け、その娘が水戸光圀の隠密御用を勤める小八兵衛の娘であったことから、ちょうど水戸光圀の『大日本史』編纂の史料集めのために佐々介三郎宗淳(水戸黄門の助さんのモデル)の道案内として同道して京都まで来ていた小八兵衛は、その娘が自分を助けてくれた武士の世話をしているが、その武士が、追っ手が来るのを待つ敵持ちらしいと聞いて、娘を案じて佐々介三郎を連れて坂本村まで出かけていく。
坂本村の荒れ寺にいた雨宮蔵人は、追ってきた巴十太夫から深町京介と咲弥がもうすぐ追いつくと聞かされ、湊川の河原で待つことにする。彼は咲弥に討たれる覚悟をしている。そしてそこで、深町右京と咲弥とに対峙する。ところがその時、右京が咲弥の父である天源寺行部を斬ったのは、実は自分であると語り出す。それは本藩である佐賀藩藩主の鍋島光茂から支藩である小城藩が増長している原因が天源寺行部にあるので、その行部を斬るように命じられたからだと告げる。そして、その命のとおりに行部を斬ったとき、雨宮蔵人から「お主は咲弥殿を助けてわしを討て」、「咲弥殿の婿にふさわしいのは、わしではなくてお主だ」と言われていたと言うのである。そしてさらに、そのことを佐賀藩主の鍋島光茂に報告すると、その暗殺命令を隠すためと天源寺家を断絶させるために、雨宮蔵人を殺した後に咲弥も殺せと命じられていたと語るのである。
右京も咲弥に想いを寄せていたが、蔵人を討てば咲弥を守る者はいなくなる。そう言いながらも右京は、主命に従って、蔵人に剣を向けていく。それを聞いた蔵人も剣を抜き、蔵人は遂に右京の右腕を斬り落とす。蔵人は右京に、天源寺行部は既に死を覚悟していたのだと告げる。
そこへ、もうひとりの追っ手である巴十太夫が六人の武士を連れて襲いかかる。石礫を飛ばして蔵人を襲う。蔵人は命をかけて咲弥を守ろうとする。彼は咲弥に言う。「咲弥殿、わしはすでに天源寺家を去った身だ。よき婿殿を迎えられよ。されど、わしは何度生まれ変わろうとも咲弥殿をお守りいたす。わが命に代えて生きていただく」(文庫版135ページ)。
蔵人の咲弥に対する愛はひたむきである。報われることがなくとも、ただ一筋に愛し抜こうとする。そして、彼を否み続けてきた咲弥のために命を捨てようとする姿を見て、咲弥は、あの幼い日に桜の枝を切ってくれて自分を助けてくれた少年の姿を思い浮かべるのである。咲弥は、自分のために命をかける蔵人に対して思いを変えていくのである。だが、その蔵人は、巴十太夫の手によって死を迎えようとする。
その危機の時に、水戸藩の佐々介三郎らが駆けつけ、蔵人らは助けられ、咲弥は佐賀へ帰り、蔵人は深町京介を療養させるために京都へ向かう。そして、咲弥は佐賀藩と関係が深かった水戸藩の水戸光圀の元に預けられることになる。咲弥は、摂津湊川での蔵人の姿に心を打たれ、「離れ離れになり、生涯会うことができなくても心で添うことはできるのではないでしょうか」(文庫版179ページ)と語り、蔵人への想いを強く固めていくのである。
二人は、ようやくここで、互いが想う夫婦となるのである。だが、それは心で添う夫婦である。しかし、以後、この二人の想いは変わることがない。二人の愛情はそこで強められたのである。
ここまでが、おそらく前半の山場であり、結末であるだろう。この後、二人は水戸光圀と老中柳沢保明の闘いに巻き込まれていくことになる。そのくだりについては、次回、また記すことにしよう。
2011年11月4日金曜日
葉室麟『いのちなりけり』(1)
昨日一日、特別の行事があって、いささかの疲れを覚えていたが、なぜか素敵な女性を背負って中華料理を食べに行く夢を見たりして、われながらおかしく、ふふ、と笑いながら今朝は目覚めた。朝方は曇っていた空が晴れ渡ってきている。
葉室麟『秋月記』に続いて、『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社、2011年 文春文庫)を大きな感動を持って読み終わっていたので、記しておくことにする。この作品も極上の作品だった。
この作品について、作者自身が「江戸に人々が羨むほどの仲の良い夫婦がいるんですが、実は彼らは長い間、離れ離れに暮らしていたんです。夫は若い頃、人を殺めて流罪にされていた。妻は三十年以上も夫を待ち続け、年老いてようやく一緒に暮らせるようになった。思いを繋いだまま、『巡りあう夫婦』というものをいつか描きたいと思っていました」と語られたそうだが、元禄の頃(五代将軍綱吉-1688-1708年)、島原の乱(1637年)以来の深い関係がある水戸藩と佐賀鍋島藩を背景に、天下の副将軍として名高い水戸光圀と老中柳沢保明との争いを絡ませながら、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の藩士雨宮蔵人と小城藩の重職であった天源寺行部の娘であった咲弥の離れ離れになりながらも互いの愛情を深めていく物語である。二人は、夫婦といっても、互いに契りを交わした夫婦ではなく、その思いはひたすら純粋である。
物語は、隠居した水戸光圀が、家臣で中老であった藤井紋太夫を小石川の水戸藩上屋敷(現:後楽園)で誅殺した(1694年-元禄7年)場面から始まるが、その水戸藩上屋敷の奥女中として16年もの長きに渡って光圀に仕えてきた咲弥は、小城藩鍋島家から光圀が預かった女性で、その年38歳になるが、美貌は少しも衰えず、才識豊かで、「水府(水戸)に名花あり」と言われるほどの女性だった。その咲弥が光圀に預けられる経過がこれから語られるのであるが、咲弥がひたすら思いを寄せ続けていた男からの手紙に書かれていた歌が最初に記されている。
それは、古今和歌集に記されている読み人しらずの次のような歌である。
「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」
そして、この歌が、咲弥と彼女の想い人雨宮蔵人を繋ぐ全編を通しての響きとなっている。この歌そのものが、涙が出るほど感動的な歌であるが、こういう構成を取ることができる作者の良質な知性に敬服する。
咲弥は、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の重臣である天源寺家に生まれ、才媛の誉れが高い女性であった。兄たちが死去したために藩の家老の四男で将来を嘱望された男を婿に迎えたが、子ができないままで病に倒れて死去してしまった。そして、天源寺家の跡取りを望む父親の天源寺行部の要望で、新しくわずか70石の軽格の部屋住みであった雨宮蔵人を婿として迎えることにしたのである。咲弥二十歳、蔵人二十六歳の時である。
雨宮蔵人は、取り柄と言えば、角蔵流と呼ばれる組み討ちの流派を使うくらいで、凡庸で、猛犬の前を通るときなどは、「脛を噛まれても薬を塗れば治りますが、袴を食いちぎられたら買いなおさねばなりませんから」と言って、裾をからげて走り抜けたり、「眼病を治療する薬をつくるのは人の道にはずれてはおりません」と言って、目薬を作って売る内職をしたりして、人々の人々のひんしゅくを買ったりしていた男だった。色黒で、鼻が大きく顎が張って、大柄で、とても美男とは言えないような人物だった。
だが、暴れ馬を諫めるときに、丸腰で馬の周りをぐるぐる回り、暴れ馬が根負けしておとなしくなった様子を見ていた天源寺行部が、蔵人が見かけとは違う人物だと見抜いて婿と決めたのである。天源寺家は、佐賀藩では特別な立場である龍造寺家の家系で、もともと佐賀藩鍋島家の祖である鍋島直茂は龍造寺家の家臣に過ぎなかった。戦国時代に龍造寺隆信は九州全体を制圧するほどの勢いであったが、薩摩の島津家との争いに敗れ、豊臣秀吉が隆信の孫に当たる五歳に過ぎなかった龍造寺高房を当主として鍋島直茂を家政者とし、朝鮮出兵の際に鍋島直茂を肥前国主と認め、また龍造寺高房が狂乱のうちに死去することがあって龍造寺家が断絶し、以後、鍋島家が龍造寺家の家督を相続していたのである。
江戸幕府も龍造寺家を認めなかったが、鍋島家が肥前の領主となる際、本家以外の龍造寺一族も鍋島直茂を支持し、そのために鍋島家の中では、特別に力を持つ家柄として存続していたのである。それによって鍋島家の中では龍造寺一族は代々重職をもつ家柄となったが、裏では、鍋島家と龍造寺家は積年の確執をもった存在でもあった。それゆえ、龍造寺家の流れを持つ小城藩の天源寺行部は、嗣子がどうしても必要だったのである。そして、美男子で才媛豊かな人物よりも、体格が良くて病など無縁のような雨宮蔵人を咲弥の婿として選んだのである。
だが、婚礼の夜、咲弥は、前夫は学問教養が高く、和歌をたしなみ、「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」という西行の歌を好み、「花」は桜を意味し、咲弥の名前の由来である桜にちなんで歌った歌に自分の想いを籠めていたと語り、蔵人もその心を表す歌を示すまでは寝屋を共にしないと宣言する。和歌など親しみのなかった蔵人は困惑し、愕然としてしまう。咲弥は蔵人を自分の夫と認めなかったばかりか、彼が目薬を売っているということを聞いて軽蔑さえしてしまうのである。
咲弥と蔵人は夫婦になったが、それは形ばかりで、そのことが藩内に知られてしまい、蔵人の従姉妹で咲弥にふさわしいと噂されていた美男子の深町右京も心配して訪ねてくる。だが、蔵人は、「わしが嘲られておるだけで、咲弥殿の評判が上がったのならよいではないか」「わしは望まれたことに応えられなかった」と言うだけであった(文庫版 30-31ページ)。
そうしているうちに、佐賀藩主鍋島光茂と嗣子綱茂、小城藩主鍋島直能の前で行われる鎧揃えの儀式の時に、何者かが矢を射かけるという事件が起こってしまった。この時、主君の直能の前ではなく、本藩の鍋島綱茂の前に立ちふさがって鎧に矢を受けて防いだのが雨宮蔵人で、続けて放たれた矢を切り払ったのが従姉妹の深町右京だった。だが、矢を防いだ功績ではなく、主君ではなく本藩の世子を守ったということで、蔵人の評判はがた落ちし、矢を斬り落とした従姉妹の深町京介の名は上がった。義父である天源寺行部がそのことを問い糾したとき、蔵人は矢筋を見極めるために矢の面前に立ったのだと応える。蔵人は愚直なまでにまっすぐに振る舞う。
このことを見抜いたもうひとりの人物がいた。それは、小城藩江戸屋敷で剣術師範をしていた柳生新陰流の巴十太夫で、やがて、この巴十太夫と蔵人は死闘を演じることになるが、小城藩はこの柳生新陰流をお家流儀としていた。小城藩にはもう一つ小太刀を得意とする戸田流があり、雨宮蔵人はこの戸田流を学んでいたのである。お家流儀の柳生新陰流ではなく、戸田流を学んでいたというところも、この雨宮蔵人の生き方を示す重要な鍵となっている。
参勤交代で江戸に出てきた雨宮蔵人は、小城藩の継嗣であった鍋島元武の前でこの巴十太夫と試合をさせられ、巴十太夫はわざと負け、それを見ていたまだ十四歳に過ぎなかった元武から、先の鎧揃えの時に本藩の鍋島綱茂に矢を射かけたのが義父の天源寺行部で、天源寺行部は、先の島原の乱で先駆けし、鍋島藩を苦境に追いやったことで分家の家老に追いやられた恨みを持っていたと告げられ、その天源寺行部を討つように密命を受けるのである。
島原の乱の際、農民が立て籠もった原城攻めは2月28日と決められていたが、27日の夜に状況を見極めた天源寺行部と江戸留守居心得の鍋島大膳亮が先駆けして原城に乗り込んでしまうということが起こったのである。幕府軍も予定を繰り上げて総攻撃を行うことになったが、このことで佐賀藩は軍令違反で咎められることになった。鍋島大膳亮は墊居させられ、天源寺行部は支藩の小城藩に追いやられた。
本書では、彼ら二人が先駆けして原城に乗り込んだ際、そこにいた小西家の牢人黒滝左兵衛と闘い、大膳亮が背後から槍で刺して殺したが、その時に黒滝左兵衛と一緒にいた六歳の男の子を見逃し、この男の子がやがて成長して、佐賀藩に恨みを抱きつつ、幕府老中柳沢保明の用人となり、水戸光圀の思惑をくじいて佐賀藩を窮地に陥れようとするという遠大な構想の一つの要となっている。
雨宮蔵人が江戸にいる間、蔵人の従姉妹の深町右京が天源寺家に足げく通うようになり、人々は、行部が、何の取り柄もないような蔵人を離縁させて、前夫に似て才豊かで見目も良い深町右京を婿に取るつもりではないかと噂しはじめたりする。咲弥は蔵人に対しては愛情を抱くことができなかったし、まだ子どものころに桜狩りに出かけたときに道に迷っていたところ、桜の木の上で雲を見ていた少年から助けられたという話を聞き、それが深町右京ではないかと思ったりする。右京は咲弥から西行の歌で好きなものがあるかと聞かれ、即座に答えることができるほどの教養もあり、やがて、御歌書役に任じられ、藩主の鍋島光茂が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかり、その際には才豊かな咲弥を嫁として連れて行ったらどうかという話も出る。だが、右京の心中は、蔵人の人柄をよく知っており、なんとかして咲弥の蔵人に対する誤解を解きたいと願っていただけである。
他方、江戸の蔵人は義父の天源寺行部の暗殺を小城藩継嗣の鍋島元武に命じられ、自分の父親が桜狩りの際の天現寺家の姫(咲弥)が道に迷ったことの失態を咎められて役を解かれ、傷心の中で病死したことなど思い起こし、天源寺行部とは少なからぬ因縁があったのだが、近習として仕える元武が疱瘡を患ったときも寝ずの看病をし、薬湯を作ったり藻草で灸をすえたりしながら、自分は「天地に仕える」ということを公言したり、あるいは、苛められていた鍋島綱茂の近侍が苛めていた先輩格の人間たちを斬り殺す事件に関わったりしていた。そして、越後牢人黒滝五郎兵衛とひょんなことから出会うのである。
黒滝五郎兵衛は、島原の乱の時に原城から逃げのびた少年で、やがて細川家の家臣に拾われて育てられ、武術を学んでいたが、育ての親の妾と懇ろになり、「キリシタンは外道だな」と罵倒されて、育ての親を殺してしまい、出奔し、越後まで流れ、雪の中で倒れていたところを助けられ、越後高田藩小栗家の小栗美作(みまさか)に気に入られて、仕えていたが、高田藩の内紛騒ぎで小栗美作から幕府の状勢を探るように命じられて、江戸に出てきていたのだった。
雨宮蔵人は、自分は天地に仕えると語り、黒滝五郎兵衛は、島原の乱で絶望を見てきていた自分はそういうことが大嫌いだと語っていく。二人は奇妙な縁であるが、その後、水戸光圀と柳沢保明の争いや佐賀鍋島藩への工作などで微妙に絡まっていくのである。やがて、元武から義父の天源寺行部を暗殺する密命を帯びたまま、参勤交代が開けて国元に帰国することになるのである。
前半だけで、これだけの話の展開が重層的に語られ、その中で雨宮蔵人のまっすぐで開かれた公然性をもつ人柄が語られているのだが、何ものにも動じないでどっしりと立ち向かう姿は、「天地」という「いのち」に誠実であろうとする姿であり、それがさりげなく示されている。彼はただ、天地とその命を大切にしようと心がける。不器用なまでに武人である。自分でどうすることもできない運命もあるが、その中を歩み続ける。こういう主人公が真面目に生きようとする人の心を打たないわけがない。しばらく瞑目して、この主人公の姿を考えたりした。
物語は、これから次第に頂きに向かって上っていくが、続きはまた次回に書くことにする。
葉室麟『秋月記』に続いて、『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社、2011年 文春文庫)を大きな感動を持って読み終わっていたので、記しておくことにする。この作品も極上の作品だった。
この作品について、作者自身が「江戸に人々が羨むほどの仲の良い夫婦がいるんですが、実は彼らは長い間、離れ離れに暮らしていたんです。夫は若い頃、人を殺めて流罪にされていた。妻は三十年以上も夫を待ち続け、年老いてようやく一緒に暮らせるようになった。思いを繋いだまま、『巡りあう夫婦』というものをいつか描きたいと思っていました」と語られたそうだが、元禄の頃(五代将軍綱吉-1688-1708年)、島原の乱(1637年)以来の深い関係がある水戸藩と佐賀鍋島藩を背景に、天下の副将軍として名高い水戸光圀と老中柳沢保明との争いを絡ませながら、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の藩士雨宮蔵人と小城藩の重職であった天源寺行部の娘であった咲弥の離れ離れになりながらも互いの愛情を深めていく物語である。二人は、夫婦といっても、互いに契りを交わした夫婦ではなく、その思いはひたすら純粋である。
物語は、隠居した水戸光圀が、家臣で中老であった藤井紋太夫を小石川の水戸藩上屋敷(現:後楽園)で誅殺した(1694年-元禄7年)場面から始まるが、その水戸藩上屋敷の奥女中として16年もの長きに渡って光圀に仕えてきた咲弥は、小城藩鍋島家から光圀が預かった女性で、その年38歳になるが、美貌は少しも衰えず、才識豊かで、「水府(水戸)に名花あり」と言われるほどの女性だった。その咲弥が光圀に預けられる経過がこれから語られるのであるが、咲弥がひたすら思いを寄せ続けていた男からの手紙に書かれていた歌が最初に記されている。
それは、古今和歌集に記されている読み人しらずの次のような歌である。
「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」
そして、この歌が、咲弥と彼女の想い人雨宮蔵人を繋ぐ全編を通しての響きとなっている。この歌そのものが、涙が出るほど感動的な歌であるが、こういう構成を取ることができる作者の良質な知性に敬服する。
咲弥は、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の重臣である天源寺家に生まれ、才媛の誉れが高い女性であった。兄たちが死去したために藩の家老の四男で将来を嘱望された男を婿に迎えたが、子ができないままで病に倒れて死去してしまった。そして、天源寺家の跡取りを望む父親の天源寺行部の要望で、新しくわずか70石の軽格の部屋住みであった雨宮蔵人を婿として迎えることにしたのである。咲弥二十歳、蔵人二十六歳の時である。
雨宮蔵人は、取り柄と言えば、角蔵流と呼ばれる組み討ちの流派を使うくらいで、凡庸で、猛犬の前を通るときなどは、「脛を噛まれても薬を塗れば治りますが、袴を食いちぎられたら買いなおさねばなりませんから」と言って、裾をからげて走り抜けたり、「眼病を治療する薬をつくるのは人の道にはずれてはおりません」と言って、目薬を作って売る内職をしたりして、人々の人々のひんしゅくを買ったりしていた男だった。色黒で、鼻が大きく顎が張って、大柄で、とても美男とは言えないような人物だった。
だが、暴れ馬を諫めるときに、丸腰で馬の周りをぐるぐる回り、暴れ馬が根負けしておとなしくなった様子を見ていた天源寺行部が、蔵人が見かけとは違う人物だと見抜いて婿と決めたのである。天源寺家は、佐賀藩では特別な立場である龍造寺家の家系で、もともと佐賀藩鍋島家の祖である鍋島直茂は龍造寺家の家臣に過ぎなかった。戦国時代に龍造寺隆信は九州全体を制圧するほどの勢いであったが、薩摩の島津家との争いに敗れ、豊臣秀吉が隆信の孫に当たる五歳に過ぎなかった龍造寺高房を当主として鍋島直茂を家政者とし、朝鮮出兵の際に鍋島直茂を肥前国主と認め、また龍造寺高房が狂乱のうちに死去することがあって龍造寺家が断絶し、以後、鍋島家が龍造寺家の家督を相続していたのである。
江戸幕府も龍造寺家を認めなかったが、鍋島家が肥前の領主となる際、本家以外の龍造寺一族も鍋島直茂を支持し、そのために鍋島家の中では、特別に力を持つ家柄として存続していたのである。それによって鍋島家の中では龍造寺一族は代々重職をもつ家柄となったが、裏では、鍋島家と龍造寺家は積年の確執をもった存在でもあった。それゆえ、龍造寺家の流れを持つ小城藩の天源寺行部は、嗣子がどうしても必要だったのである。そして、美男子で才媛豊かな人物よりも、体格が良くて病など無縁のような雨宮蔵人を咲弥の婿として選んだのである。
だが、婚礼の夜、咲弥は、前夫は学問教養が高く、和歌をたしなみ、「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」という西行の歌を好み、「花」は桜を意味し、咲弥の名前の由来である桜にちなんで歌った歌に自分の想いを籠めていたと語り、蔵人もその心を表す歌を示すまでは寝屋を共にしないと宣言する。和歌など親しみのなかった蔵人は困惑し、愕然としてしまう。咲弥は蔵人を自分の夫と認めなかったばかりか、彼が目薬を売っているということを聞いて軽蔑さえしてしまうのである。
咲弥と蔵人は夫婦になったが、それは形ばかりで、そのことが藩内に知られてしまい、蔵人の従姉妹で咲弥にふさわしいと噂されていた美男子の深町右京も心配して訪ねてくる。だが、蔵人は、「わしが嘲られておるだけで、咲弥殿の評判が上がったのならよいではないか」「わしは望まれたことに応えられなかった」と言うだけであった(文庫版 30-31ページ)。
そうしているうちに、佐賀藩主鍋島光茂と嗣子綱茂、小城藩主鍋島直能の前で行われる鎧揃えの儀式の時に、何者かが矢を射かけるという事件が起こってしまった。この時、主君の直能の前ではなく、本藩の鍋島綱茂の前に立ちふさがって鎧に矢を受けて防いだのが雨宮蔵人で、続けて放たれた矢を切り払ったのが従姉妹の深町右京だった。だが、矢を防いだ功績ではなく、主君ではなく本藩の世子を守ったということで、蔵人の評判はがた落ちし、矢を斬り落とした従姉妹の深町京介の名は上がった。義父である天源寺行部がそのことを問い糾したとき、蔵人は矢筋を見極めるために矢の面前に立ったのだと応える。蔵人は愚直なまでにまっすぐに振る舞う。
このことを見抜いたもうひとりの人物がいた。それは、小城藩江戸屋敷で剣術師範をしていた柳生新陰流の巴十太夫で、やがて、この巴十太夫と蔵人は死闘を演じることになるが、小城藩はこの柳生新陰流をお家流儀としていた。小城藩にはもう一つ小太刀を得意とする戸田流があり、雨宮蔵人はこの戸田流を学んでいたのである。お家流儀の柳生新陰流ではなく、戸田流を学んでいたというところも、この雨宮蔵人の生き方を示す重要な鍵となっている。
参勤交代で江戸に出てきた雨宮蔵人は、小城藩の継嗣であった鍋島元武の前でこの巴十太夫と試合をさせられ、巴十太夫はわざと負け、それを見ていたまだ十四歳に過ぎなかった元武から、先の鎧揃えの時に本藩の鍋島綱茂に矢を射かけたのが義父の天源寺行部で、天源寺行部は、先の島原の乱で先駆けし、鍋島藩を苦境に追いやったことで分家の家老に追いやられた恨みを持っていたと告げられ、その天源寺行部を討つように密命を受けるのである。
島原の乱の際、農民が立て籠もった原城攻めは2月28日と決められていたが、27日の夜に状況を見極めた天源寺行部と江戸留守居心得の鍋島大膳亮が先駆けして原城に乗り込んでしまうということが起こったのである。幕府軍も予定を繰り上げて総攻撃を行うことになったが、このことで佐賀藩は軍令違反で咎められることになった。鍋島大膳亮は墊居させられ、天源寺行部は支藩の小城藩に追いやられた。
本書では、彼ら二人が先駆けして原城に乗り込んだ際、そこにいた小西家の牢人黒滝左兵衛と闘い、大膳亮が背後から槍で刺して殺したが、その時に黒滝左兵衛と一緒にいた六歳の男の子を見逃し、この男の子がやがて成長して、佐賀藩に恨みを抱きつつ、幕府老中柳沢保明の用人となり、水戸光圀の思惑をくじいて佐賀藩を窮地に陥れようとするという遠大な構想の一つの要となっている。
雨宮蔵人が江戸にいる間、蔵人の従姉妹の深町右京が天源寺家に足げく通うようになり、人々は、行部が、何の取り柄もないような蔵人を離縁させて、前夫に似て才豊かで見目も良い深町右京を婿に取るつもりではないかと噂しはじめたりする。咲弥は蔵人に対しては愛情を抱くことができなかったし、まだ子どものころに桜狩りに出かけたときに道に迷っていたところ、桜の木の上で雲を見ていた少年から助けられたという話を聞き、それが深町右京ではないかと思ったりする。右京は咲弥から西行の歌で好きなものがあるかと聞かれ、即座に答えることができるほどの教養もあり、やがて、御歌書役に任じられ、藩主の鍋島光茂が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかり、その際には才豊かな咲弥を嫁として連れて行ったらどうかという話も出る。だが、右京の心中は、蔵人の人柄をよく知っており、なんとかして咲弥の蔵人に対する誤解を解きたいと願っていただけである。
他方、江戸の蔵人は義父の天源寺行部の暗殺を小城藩継嗣の鍋島元武に命じられ、自分の父親が桜狩りの際の天現寺家の姫(咲弥)が道に迷ったことの失態を咎められて役を解かれ、傷心の中で病死したことなど思い起こし、天源寺行部とは少なからぬ因縁があったのだが、近習として仕える元武が疱瘡を患ったときも寝ずの看病をし、薬湯を作ったり藻草で灸をすえたりしながら、自分は「天地に仕える」ということを公言したり、あるいは、苛められていた鍋島綱茂の近侍が苛めていた先輩格の人間たちを斬り殺す事件に関わったりしていた。そして、越後牢人黒滝五郎兵衛とひょんなことから出会うのである。
黒滝五郎兵衛は、島原の乱の時に原城から逃げのびた少年で、やがて細川家の家臣に拾われて育てられ、武術を学んでいたが、育ての親の妾と懇ろになり、「キリシタンは外道だな」と罵倒されて、育ての親を殺してしまい、出奔し、越後まで流れ、雪の中で倒れていたところを助けられ、越後高田藩小栗家の小栗美作(みまさか)に気に入られて、仕えていたが、高田藩の内紛騒ぎで小栗美作から幕府の状勢を探るように命じられて、江戸に出てきていたのだった。
雨宮蔵人は、自分は天地に仕えると語り、黒滝五郎兵衛は、島原の乱で絶望を見てきていた自分はそういうことが大嫌いだと語っていく。二人は奇妙な縁であるが、その後、水戸光圀と柳沢保明の争いや佐賀鍋島藩への工作などで微妙に絡まっていくのである。やがて、元武から義父の天源寺行部を暗殺する密命を帯びたまま、参勤交代が開けて国元に帰国することになるのである。
前半だけで、これだけの話の展開が重層的に語られ、その中で雨宮蔵人のまっすぐで開かれた公然性をもつ人柄が語られているのだが、何ものにも動じないでどっしりと立ち向かう姿は、「天地」という「いのち」に誠実であろうとする姿であり、それがさりげなく示されている。彼はただ、天地とその命を大切にしようと心がける。不器用なまでに武人である。自分でどうすることもできない運命もあるが、その中を歩み続ける。こういう主人公が真面目に生きようとする人の心を打たないわけがない。しばらく瞑目して、この主人公の姿を考えたりした。
物語は、これから次第に頂きに向かって上っていくが、続きはまた次回に書くことにする。
2011年11月1日火曜日
葉室麟『秋月記』(2)
葉室麟『秋月記』(2009年 角川書店)の続きであるが、主人公の間小四郎らが行った「織部くずれ」と呼ばれる藩政の改革には、次第に福岡藩中老の村上大膳の出世を目論んだ画策があったことが明らかになっていく。「織部くずれ」の後、間小四郎は、宮崎織部に無理やり女中奉公に出させられていた「いと」に出会い、無理を強いたのが姫野三弥であり、宮崎織部は「いと」には手をつけずに、ただ女中奉公させていただけだったことを知り、また、秋月藩の意向を無視して、福岡藩の指導が強くなっていくことに不信を感じて、幽閉されている宮崎織部を密かに訪ねる。
そして、宮崎織部の口からすべては秋月藩を乗っ取ろうとする福岡藩の思惑があったことを聞かされ、福岡藩が「伏影」と呼ばれる隠密の姫野三弥を送り込み、藤田伝蔵はその姫野の正体を探ろうとして「伏影」に殺されたということを聞く。藩には金がなく借財ばかりで、宮崎織部はその藩の借財を福岡藩に負ってもらうことで借財の帳消しを考えていたと言う。そしてさらに、自分が糾弾を甘んじて受けたのは、自分が捨て石になって藩の立て直しを図らせようとしたものだとも言う。宮崎織部は、その藩の立て直しを間小四郎らに委ねると語るのである。
宮崎織部を訪ねた帰りに、間小四郎と海賀藤蔵は、宮崎織部を見張っていた福岡藩の「伏影」に襲われ手傷を負うが、帰藩して、これまでのすべてが姫野三弥の画策によったことや恩師の藤田伝蔵を殺されたこと、また真相を書いた藤田伝蔵の手紙を届けようとして医師の香江良介が「伏影」と思われる隠密から殺されたこと、次第に姫野三弥が傲慢な振る舞いをするようになったことなどから、姫野三弥と対決し、決闘をして彼を討ち果たす。死に際に、姫野三弥は、福岡藩の中老村上大膳が家老になるためにばらまく金が必要で秋月藩を私物化しようとしたことを告げるのである。
ちなみに、「伏影」に殺された医師の香江良介と原古処の娘「猷(はら みち 原采蘋)」との間に縁談があったと本書ではされている。本書の中では、猷(みち)がまだ少女の頃、最初に石橋が崩れ落ちたときに石橋の上で詩を考えていた猷(みち)を偶然その場にいた間小四郎が助け、それ以来、猷(みち)は小四郎に思慕を抱いていたが、小四郎には愛妻の「もよ」があることから諦めて、その縁談に応じていたとされている。だが、香江良介が殺され、ついに結婚することなく、女流漢詩人として生涯を送ることになるとされている。猷(みち)の間小四郎に対する思慕は密かに抱かれたままになっているとされているのである。もちろん、この辺りは作者の創作であろうが、味のある展開になっている。
間小四郎と姫野三弥の決闘は、体面をおもんばかる福岡藩によって不問に伏され、間小四郎は、福岡藩から監督に来ていた沢木七郎から郡奉行に任命される。この郡奉行として百姓の生活を目の当たりにした経験が、民百姓のために藩政があるという自覚へと繋がり、彼の生き方を変えていくようになっていく。
その二年後、秋月藩に江戸幕府から京都の中宮御所造立と仙洞御所修復の命が下されてしまう。藩財政は窮乏を極めており、その金を福岡藩から引き出すために、間小四郎は、秋月藩の家老を説得し、監督役であった福岡藩の沢木七郎に代わって井出勘七が来ることになる。福岡藩からの借財は認められるが、井出勘七は半知(俸禄が半分になること)を命じ、藩士たちの生活はますます窮乏していくことになる。
そうした中で、間小四郎は、郡奉行として見廻りに出た際に、姫野三弥に殺された石工を慕っていた「いと」に出会う。「いと」は実家にもどっていたが、殺された石工と恋仲になり、宮崎織部の手がついた噂されて村人から蔑視され、一家の厄介者として山仕事をしていた。村人から疎外されていたが、山に群生していた寒根葛(かんねかずら)から葛(くず)を作ることを祖母から聞き、葛ができれば村人が助かることを一念にして葛を造る方法を模索していたのである。苦労して葛作りを成功させ、郡奉行である間小四郎に見せ、これは秋月の名産になるかもしないと喜ぶ。しかし、「いと」は労咳を患っている。小四郎は養生するようにと幾ばくかの金を渡す。
「いと」を案じて、翌春、小四郎が「いと」を訪ねてみると、薄暗い納屋の奥に藁を敷き、粗末な夜具の中に痩せ衰えた「いと」が横たわっていた。
「どうしたことだ。わたしが与えた金で薬は購わなかったのか」・・・
「御奉行様-」と「いと」はかすれた声で応える。
「百姓は貧しいのです。治らない病人に高い薬を使うのはもったいないから、薬はいらない、とわたしが申したのです」
「そなたという女は-」
「わたしは葛を作ることができたから、幸せです。思い残すことはありません。きっと久助さんが立派な葛を作ってくれて、皆の暮らしの助けになります」
「ならば、なおのこと養生すればよいではないか」
「いえ、もうよいのです」
「なにー」
「わたしは、もう人の役に立ちましたから」
いとは静かに目を閉じた。小四郎の背後で久助が忍び泣いた。いとが息を引き取ったのはそれから一月後であった(195ページ)。
「いと」の最後を語るこの場面は、目に浮かぶような場面である。秋月の葛は本当に美味しい。わたしは秋月を訪れる度にくず餅を美味しくいただいた。「いと」は、もちろん作者の創作上の人物だろうが、もし秋月を再び訪れ、くず餅を食べるときがあれば、わたしは必ずこの場面を思い起こすだろう。たぶん、涙ながらにくず餅を食べるだろう。そんな気がする。
さて、文政4年(1821年)、間小四郎は郡奉行と町奉行を兼務することになる。35歳の時である。秋月藩は相変わらず福岡藩の指導監督の下に置かれ、藩の財政は逼迫して借財はふくれる一方で、半知(俸給の半減)が続いていた。そして、この年、秋月の監督に当たっていた福岡藩の井出勘七は、もはや半知に秋月藩士が耐えられなくなっているので、半知をやめる代わりに借金をしている大阪商人に返済の12年停止を申し入れるよう間小四郎に命じる。大阪商人は本藩である福岡藩の保証がなければそれに応諾しないだろう。それによって秋月藩の支配をますます強めようとする意向があることも明白である。なんとか福岡藩の支配から独立したいと願っていた間小四郎は、「織部くずれ」の際に一緒に働いた友人たちに相談するが、福岡藩の支配もやむを得ないと考えるようになっていた友人たちとは次第に齟齬が生まれてきていることを感じざるを得なかった。間小四郎は、次第に孤立していく。
藩の監督者である井出勘七と共に大阪に出向いた間小四郎は、藩財政のすべてを暴露し、「いと」が考案した名産となるかもしれない葛を示したり、福岡藩の保証がなくても、福岡藩は秋月藩を見捨てることができないという論陣を張ったりして、大阪商人を説得する。秋月の独立、それが間小四郎の念願となり、それが、かつて自分が糾弾した家老の宮崎織部の願いでもあったことを感じていくのである。
この辺りから、間小四郎は宮崎織部と同じ道を進んでいくことになる。帰藩した間小四郎を待ち受けていたのは、借財返済停止の功ではなく、藩財政を大阪商人にすべて明かしたことに対する非難であった。記録が引用され、「意ニ任セテ弛緩ス。遂ニ国計ノ大本ヲ洩ラス」という非難の渦の中に置かれて孤立していくのである(213ページ)。
それと同時に、かつて福岡藩から暗躍者として送られてきた隠密「伏影」の姫野三弥と決闘して彼を討ったことで、「伏影」の統領である父親の姫野弾正らが仇討ちと称して乗り込んでくる。福岡藩に敵対する者をそれによって排除しようという狙いがある。間小四郎はかつての盟友たちとの齟齬がある中で、ひとりそれに立ち向かおうとするが、小四郎に想いを寄せている原猷(みち)が友人たちを説得し、その助けを借りて彼はその企てをようやく退けることができる。原猷(みち)は、男装をして諸国を巡り歩き、女流漢詩人としての名声を高めていたが、この時、仇討ちの噂を聞いて急きょ秋月に帰って来ていたのである。
こうして、旧友たちの助力によって福岡藩の思惑を退けることができたが、彼らとの齟齬は避けがたく、特に藩の重職であった伊藤惣兵衛との溝と対立が表面化していく。伊藤惣兵衛は中老となり、伊藤吉左衛門と名を改め、藩政の一派を形成しようとし、また、間小四郎のもとにも人々が集まって一派を形成しようとしていた。そういう中で、日田の掛屋(金貸し)から借りている借金の肩代わりを大阪商人に依頼するために大阪に行くように命じられる。
大阪で、多くの商人たちは借金の肩代わりを渋ったが、堺屋という大店の呉服商の内儀がそれを引き受けるという。その内儀というのは、かつて織部くずれの時に弾劾した家老の渡辺帯刀に愛する者を殺され、身請けされて秋月に来ていた芸妓の「七與(ななよ)」であった。「七與」は、自分の愛する者を殺した渡辺帯刀を間小四郎が弾劾してくれたことを感謝するが、秋月での人々の自分に対するひどい仕打ちもあり、金を貸す代わりに人別講(領民から特別な人頭税を取ること)で金を集めろ、と言う。間小四郎は人別講で領民を苦しめることを拒絶し、大庄屋からの寄進を集めることを提案する。そこで、「七與」は、それを承諾する代わりに賄賂を受け取り、その金で秋月藩を牛耳れるほどの出世をしろという。
間小四郎は、藩の財政窮乏の救済のために、毒を食う覚悟をして、「七與」の申し出を受け入れ、賄賂金を受け取り、これを藩内の重役たちに配って、やがて中老に昇進する。孤立はますます深くなり、飢饉に備えて備蓄米を蓄えることを行おうとしたことも、反対派からは人気取りだと受け止められていた。
そういう中で、秋月は、文政11年(1829年)に大洪水が襲い、続いて大風(台風)が襲うという惨劇に見舞われる。この時、間小四郎をなきものにしようとする福岡藩の隠密の「伏影」が動き、原猷(みち)を人質に取るという事件が発生し、そのことと金を貸して賄賂を送った「七與」との関連が明らかになる。間小四郎は、単身で原猷(みち)を救い出すが、その時に「七與」から自分の企みが福岡藩の差し金で、間小四郎に賄賂を贈って人々の評判を悪くして、かつての宮崎織部のように失脚させる計略があったことを知るのである。
また、洪水と暴風によって痛めつけられた領民の救済策として減免策が出るが、自分がその減免策に反対することで、反対派によって減免策を行わせようという小細工を行い、そのために間小四郎に対する不満は領内に満ちてしまうようになる。彼はやむを得ずに隠居する。こうして彼は藩政の表舞台からは退き、余楽斎と名乗るが、藩政から退くつもりはなく、陰の権力者としての道を歩み始めるのである。そして、やがて藩を私したことで弾劾されるのである。それは自分が弾劾した宮崎織部と同じ道で、秋月藩の福岡藩からの独立のためと藩の救済のために自らを捨て、汚れてもなお矜持をもって生きた生涯だったと本書は結ぶのである。
この間小四郎の生涯を原猷(みち-原采蘋)の漢詩で、作者は次のように語る。
独り幽谷の裏に生じ
豈(あに)世人の知るを願はんや
時に清風の至る有れば
芬芳(ふんぼう)自ら持し難し
原猷(みち-原采蘋)に「生き方において詩を書いた人」と言わしめて、作者は傲慢に私腹を肥やしたと言われる間小四郎の生き様を描き出したのである。
わたしは個人的には政治や策略に生きる人間はどうも好きになれないが、思うに、人は、その外的なものが何であれ、あるいはどのような評価や判断が下されようと、ただその人の内実しか残らない。その自分の内実に誠実であること、ただそれだけである。いつの世も、世は度し難いが、ただそれだけあればよい。そして、たった一人でいいから、そのように生きている自分をわかってくれる人が有れば、これに優る幸いはないだろう。その一人を得ることすら極めて難しいことであるが。
こうして作品の筋を追うだけでも、葉室麟は極上の部類に属する作家だとつくづく思う。彼の作品は、一つの文学で、よく考え抜かれた巧みな構成と主張、あるいは思想性と言ってもいいものがにじみ出ている。わたしは、この作家の作品を同級生で作詞家のM氏から教えてもらったのだが、こういう作品があることを知って深く感謝している。
そして、宮崎織部の口からすべては秋月藩を乗っ取ろうとする福岡藩の思惑があったことを聞かされ、福岡藩が「伏影」と呼ばれる隠密の姫野三弥を送り込み、藤田伝蔵はその姫野の正体を探ろうとして「伏影」に殺されたということを聞く。藩には金がなく借財ばかりで、宮崎織部はその藩の借財を福岡藩に負ってもらうことで借財の帳消しを考えていたと言う。そしてさらに、自分が糾弾を甘んじて受けたのは、自分が捨て石になって藩の立て直しを図らせようとしたものだとも言う。宮崎織部は、その藩の立て直しを間小四郎らに委ねると語るのである。
宮崎織部を訪ねた帰りに、間小四郎と海賀藤蔵は、宮崎織部を見張っていた福岡藩の「伏影」に襲われ手傷を負うが、帰藩して、これまでのすべてが姫野三弥の画策によったことや恩師の藤田伝蔵を殺されたこと、また真相を書いた藤田伝蔵の手紙を届けようとして医師の香江良介が「伏影」と思われる隠密から殺されたこと、次第に姫野三弥が傲慢な振る舞いをするようになったことなどから、姫野三弥と対決し、決闘をして彼を討ち果たす。死に際に、姫野三弥は、福岡藩の中老村上大膳が家老になるためにばらまく金が必要で秋月藩を私物化しようとしたことを告げるのである。
ちなみに、「伏影」に殺された医師の香江良介と原古処の娘「猷(はら みち 原采蘋)」との間に縁談があったと本書ではされている。本書の中では、猷(みち)がまだ少女の頃、最初に石橋が崩れ落ちたときに石橋の上で詩を考えていた猷(みち)を偶然その場にいた間小四郎が助け、それ以来、猷(みち)は小四郎に思慕を抱いていたが、小四郎には愛妻の「もよ」があることから諦めて、その縁談に応じていたとされている。だが、香江良介が殺され、ついに結婚することなく、女流漢詩人として生涯を送ることになるとされている。猷(みち)の間小四郎に対する思慕は密かに抱かれたままになっているとされているのである。もちろん、この辺りは作者の創作であろうが、味のある展開になっている。
間小四郎と姫野三弥の決闘は、体面をおもんばかる福岡藩によって不問に伏され、間小四郎は、福岡藩から監督に来ていた沢木七郎から郡奉行に任命される。この郡奉行として百姓の生活を目の当たりにした経験が、民百姓のために藩政があるという自覚へと繋がり、彼の生き方を変えていくようになっていく。
その二年後、秋月藩に江戸幕府から京都の中宮御所造立と仙洞御所修復の命が下されてしまう。藩財政は窮乏を極めており、その金を福岡藩から引き出すために、間小四郎は、秋月藩の家老を説得し、監督役であった福岡藩の沢木七郎に代わって井出勘七が来ることになる。福岡藩からの借財は認められるが、井出勘七は半知(俸禄が半分になること)を命じ、藩士たちの生活はますます窮乏していくことになる。
そうした中で、間小四郎は、郡奉行として見廻りに出た際に、姫野三弥に殺された石工を慕っていた「いと」に出会う。「いと」は実家にもどっていたが、殺された石工と恋仲になり、宮崎織部の手がついた噂されて村人から蔑視され、一家の厄介者として山仕事をしていた。村人から疎外されていたが、山に群生していた寒根葛(かんねかずら)から葛(くず)を作ることを祖母から聞き、葛ができれば村人が助かることを一念にして葛を造る方法を模索していたのである。苦労して葛作りを成功させ、郡奉行である間小四郎に見せ、これは秋月の名産になるかもしないと喜ぶ。しかし、「いと」は労咳を患っている。小四郎は養生するようにと幾ばくかの金を渡す。
「いと」を案じて、翌春、小四郎が「いと」を訪ねてみると、薄暗い納屋の奥に藁を敷き、粗末な夜具の中に痩せ衰えた「いと」が横たわっていた。
「どうしたことだ。わたしが与えた金で薬は購わなかったのか」・・・
「御奉行様-」と「いと」はかすれた声で応える。
「百姓は貧しいのです。治らない病人に高い薬を使うのはもったいないから、薬はいらない、とわたしが申したのです」
「そなたという女は-」
「わたしは葛を作ることができたから、幸せです。思い残すことはありません。きっと久助さんが立派な葛を作ってくれて、皆の暮らしの助けになります」
「ならば、なおのこと養生すればよいではないか」
「いえ、もうよいのです」
「なにー」
「わたしは、もう人の役に立ちましたから」
いとは静かに目を閉じた。小四郎の背後で久助が忍び泣いた。いとが息を引き取ったのはそれから一月後であった(195ページ)。
「いと」の最後を語るこの場面は、目に浮かぶような場面である。秋月の葛は本当に美味しい。わたしは秋月を訪れる度にくず餅を美味しくいただいた。「いと」は、もちろん作者の創作上の人物だろうが、もし秋月を再び訪れ、くず餅を食べるときがあれば、わたしは必ずこの場面を思い起こすだろう。たぶん、涙ながらにくず餅を食べるだろう。そんな気がする。
さて、文政4年(1821年)、間小四郎は郡奉行と町奉行を兼務することになる。35歳の時である。秋月藩は相変わらず福岡藩の指導監督の下に置かれ、藩の財政は逼迫して借財はふくれる一方で、半知(俸給の半減)が続いていた。そして、この年、秋月の監督に当たっていた福岡藩の井出勘七は、もはや半知に秋月藩士が耐えられなくなっているので、半知をやめる代わりに借金をしている大阪商人に返済の12年停止を申し入れるよう間小四郎に命じる。大阪商人は本藩である福岡藩の保証がなければそれに応諾しないだろう。それによって秋月藩の支配をますます強めようとする意向があることも明白である。なんとか福岡藩の支配から独立したいと願っていた間小四郎は、「織部くずれ」の際に一緒に働いた友人たちに相談するが、福岡藩の支配もやむを得ないと考えるようになっていた友人たちとは次第に齟齬が生まれてきていることを感じざるを得なかった。間小四郎は、次第に孤立していく。
藩の監督者である井出勘七と共に大阪に出向いた間小四郎は、藩財政のすべてを暴露し、「いと」が考案した名産となるかもしれない葛を示したり、福岡藩の保証がなくても、福岡藩は秋月藩を見捨てることができないという論陣を張ったりして、大阪商人を説得する。秋月の独立、それが間小四郎の念願となり、それが、かつて自分が糾弾した家老の宮崎織部の願いでもあったことを感じていくのである。
この辺りから、間小四郎は宮崎織部と同じ道を進んでいくことになる。帰藩した間小四郎を待ち受けていたのは、借財返済停止の功ではなく、藩財政を大阪商人にすべて明かしたことに対する非難であった。記録が引用され、「意ニ任セテ弛緩ス。遂ニ国計ノ大本ヲ洩ラス」という非難の渦の中に置かれて孤立していくのである(213ページ)。
それと同時に、かつて福岡藩から暗躍者として送られてきた隠密「伏影」の姫野三弥と決闘して彼を討ったことで、「伏影」の統領である父親の姫野弾正らが仇討ちと称して乗り込んでくる。福岡藩に敵対する者をそれによって排除しようという狙いがある。間小四郎はかつての盟友たちとの齟齬がある中で、ひとりそれに立ち向かおうとするが、小四郎に想いを寄せている原猷(みち)が友人たちを説得し、その助けを借りて彼はその企てをようやく退けることができる。原猷(みち)は、男装をして諸国を巡り歩き、女流漢詩人としての名声を高めていたが、この時、仇討ちの噂を聞いて急きょ秋月に帰って来ていたのである。
こうして、旧友たちの助力によって福岡藩の思惑を退けることができたが、彼らとの齟齬は避けがたく、特に藩の重職であった伊藤惣兵衛との溝と対立が表面化していく。伊藤惣兵衛は中老となり、伊藤吉左衛門と名を改め、藩政の一派を形成しようとし、また、間小四郎のもとにも人々が集まって一派を形成しようとしていた。そういう中で、日田の掛屋(金貸し)から借りている借金の肩代わりを大阪商人に依頼するために大阪に行くように命じられる。
大阪で、多くの商人たちは借金の肩代わりを渋ったが、堺屋という大店の呉服商の内儀がそれを引き受けるという。その内儀というのは、かつて織部くずれの時に弾劾した家老の渡辺帯刀に愛する者を殺され、身請けされて秋月に来ていた芸妓の「七與(ななよ)」であった。「七與」は、自分の愛する者を殺した渡辺帯刀を間小四郎が弾劾してくれたことを感謝するが、秋月での人々の自分に対するひどい仕打ちもあり、金を貸す代わりに人別講(領民から特別な人頭税を取ること)で金を集めろ、と言う。間小四郎は人別講で領民を苦しめることを拒絶し、大庄屋からの寄進を集めることを提案する。そこで、「七與」は、それを承諾する代わりに賄賂を受け取り、その金で秋月藩を牛耳れるほどの出世をしろという。
間小四郎は、藩の財政窮乏の救済のために、毒を食う覚悟をして、「七與」の申し出を受け入れ、賄賂金を受け取り、これを藩内の重役たちに配って、やがて中老に昇進する。孤立はますます深くなり、飢饉に備えて備蓄米を蓄えることを行おうとしたことも、反対派からは人気取りだと受け止められていた。
そういう中で、秋月は、文政11年(1829年)に大洪水が襲い、続いて大風(台風)が襲うという惨劇に見舞われる。この時、間小四郎をなきものにしようとする福岡藩の隠密の「伏影」が動き、原猷(みち)を人質に取るという事件が発生し、そのことと金を貸して賄賂を送った「七與」との関連が明らかになる。間小四郎は、単身で原猷(みち)を救い出すが、その時に「七與」から自分の企みが福岡藩の差し金で、間小四郎に賄賂を贈って人々の評判を悪くして、かつての宮崎織部のように失脚させる計略があったことを知るのである。
また、洪水と暴風によって痛めつけられた領民の救済策として減免策が出るが、自分がその減免策に反対することで、反対派によって減免策を行わせようという小細工を行い、そのために間小四郎に対する不満は領内に満ちてしまうようになる。彼はやむを得ずに隠居する。こうして彼は藩政の表舞台からは退き、余楽斎と名乗るが、藩政から退くつもりはなく、陰の権力者としての道を歩み始めるのである。そして、やがて藩を私したことで弾劾されるのである。それは自分が弾劾した宮崎織部と同じ道で、秋月藩の福岡藩からの独立のためと藩の救済のために自らを捨て、汚れてもなお矜持をもって生きた生涯だったと本書は結ぶのである。
この間小四郎の生涯を原猷(みち-原采蘋)の漢詩で、作者は次のように語る。
独り幽谷の裏に生じ
豈(あに)世人の知るを願はんや
時に清風の至る有れば
芬芳(ふんぼう)自ら持し難し
原猷(みち-原采蘋)に「生き方において詩を書いた人」と言わしめて、作者は傲慢に私腹を肥やしたと言われる間小四郎の生き様を描き出したのである。
わたしは個人的には政治や策略に生きる人間はどうも好きになれないが、思うに、人は、その外的なものが何であれ、あるいはどのような評価や判断が下されようと、ただその人の内実しか残らない。その自分の内実に誠実であること、ただそれだけである。いつの世も、世は度し難いが、ただそれだけあればよい。そして、たった一人でいいから、そのように生きている自分をわかってくれる人が有れば、これに優る幸いはないだろう。その一人を得ることすら極めて難しいことであるが。
こうして作品の筋を追うだけでも、葉室麟は極上の部類に属する作家だとつくづく思う。彼の作品は、一つの文学で、よく考え抜かれた巧みな構成と主張、あるいは思想性と言ってもいいものがにじみ出ている。わたしは、この作家の作品を同級生で作詞家のM氏から教えてもらったのだが、こういう作品があることを知って深く感謝している。
登録:
投稿 (Atom)