2011年11月1日火曜日

葉室麟『秋月記』(2)

 葉室麟『秋月記』(2009年 角川書店)の続きであるが、主人公の間小四郎らが行った「織部くずれ」と呼ばれる藩政の改革には、次第に福岡藩中老の村上大膳の出世を目論んだ画策があったことが明らかになっていく。「織部くずれ」の後、間小四郎は、宮崎織部に無理やり女中奉公に出させられていた「いと」に出会い、無理を強いたのが姫野三弥であり、宮崎織部は「いと」には手をつけずに、ただ女中奉公させていただけだったことを知り、また、秋月藩の意向を無視して、福岡藩の指導が強くなっていくことに不信を感じて、幽閉されている宮崎織部を密かに訪ねる。

 そして、宮崎織部の口からすべては秋月藩を乗っ取ろうとする福岡藩の思惑があったことを聞かされ、福岡藩が「伏影」と呼ばれる隠密の姫野三弥を送り込み、藤田伝蔵はその姫野の正体を探ろうとして「伏影」に殺されたということを聞く。藩には金がなく借財ばかりで、宮崎織部はその藩の借財を福岡藩に負ってもらうことで借財の帳消しを考えていたと言う。そしてさらに、自分が糾弾を甘んじて受けたのは、自分が捨て石になって藩の立て直しを図らせようとしたものだとも言う。宮崎織部は、その藩の立て直しを間小四郎らに委ねると語るのである。

 宮崎織部を訪ねた帰りに、間小四郎と海賀藤蔵は、宮崎織部を見張っていた福岡藩の「伏影」に襲われ手傷を負うが、帰藩して、これまでのすべてが姫野三弥の画策によったことや恩師の藤田伝蔵を殺されたこと、また真相を書いた藤田伝蔵の手紙を届けようとして医師の香江良介が「伏影」と思われる隠密から殺されたこと、次第に姫野三弥が傲慢な振る舞いをするようになったことなどから、姫野三弥と対決し、決闘をして彼を討ち果たす。死に際に、姫野三弥は、福岡藩の中老村上大膳が家老になるためにばらまく金が必要で秋月藩を私物化しようとしたことを告げるのである。

 ちなみに、「伏影」に殺された医師の香江良介と原古処の娘「猷(はら みち 原采蘋)」との間に縁談があったと本書ではされている。本書の中では、猷(みち)がまだ少女の頃、最初に石橋が崩れ落ちたときに石橋の上で詩を考えていた猷(みち)を偶然その場にいた間小四郎が助け、それ以来、猷(みち)は小四郎に思慕を抱いていたが、小四郎には愛妻の「もよ」があることから諦めて、その縁談に応じていたとされている。だが、香江良介が殺され、ついに結婚することなく、女流漢詩人として生涯を送ることになるとされている。猷(みち)の間小四郎に対する思慕は密かに抱かれたままになっているとされているのである。もちろん、この辺りは作者の創作であろうが、味のある展開になっている。

 間小四郎と姫野三弥の決闘は、体面をおもんばかる福岡藩によって不問に伏され、間小四郎は、福岡藩から監督に来ていた沢木七郎から郡奉行に任命される。この郡奉行として百姓の生活を目の当たりにした経験が、民百姓のために藩政があるという自覚へと繋がり、彼の生き方を変えていくようになっていく。

 その二年後、秋月藩に江戸幕府から京都の中宮御所造立と仙洞御所修復の命が下されてしまう。藩財政は窮乏を極めており、その金を福岡藩から引き出すために、間小四郎は、秋月藩の家老を説得し、監督役であった福岡藩の沢木七郎に代わって井出勘七が来ることになる。福岡藩からの借財は認められるが、井出勘七は半知(俸禄が半分になること)を命じ、藩士たちの生活はますます窮乏していくことになる。

 そうした中で、間小四郎は、郡奉行として見廻りに出た際に、姫野三弥に殺された石工を慕っていた「いと」に出会う。「いと」は実家にもどっていたが、殺された石工と恋仲になり、宮崎織部の手がついた噂されて村人から蔑視され、一家の厄介者として山仕事をしていた。村人から疎外されていたが、山に群生していた寒根葛(かんねかずら)から葛(くず)を作ることを祖母から聞き、葛ができれば村人が助かることを一念にして葛を造る方法を模索していたのである。苦労して葛作りを成功させ、郡奉行である間小四郎に見せ、これは秋月の名産になるかもしないと喜ぶ。しかし、「いと」は労咳を患っている。小四郎は養生するようにと幾ばくかの金を渡す。

 「いと」を案じて、翌春、小四郎が「いと」を訪ねてみると、薄暗い納屋の奥に藁を敷き、粗末な夜具の中に痩せ衰えた「いと」が横たわっていた。

 「どうしたことだ。わたしが与えた金で薬は購わなかったのか」・・・
 「御奉行様-」と「いと」はかすれた声で応える。
 「百姓は貧しいのです。治らない病人に高い薬を使うのはもったいないから、薬はいらない、とわたしが申したのです」
 「そなたという女は-」
 「わたしは葛を作ることができたから、幸せです。思い残すことはありません。きっと久助さんが立派な葛を作ってくれて、皆の暮らしの助けになります」
 「ならば、なおのこと養生すればよいではないか」
 「いえ、もうよいのです」
 「なにー」
 「わたしは、もう人の役に立ちましたから」
いとは静かに目を閉じた。小四郎の背後で久助が忍び泣いた。いとが息を引き取ったのはそれから一月後であった(195ページ)。

 「いと」の最後を語るこの場面は、目に浮かぶような場面である。秋月の葛は本当に美味しい。わたしは秋月を訪れる度にくず餅を美味しくいただいた。「いと」は、もちろん作者の創作上の人物だろうが、もし秋月を再び訪れ、くず餅を食べるときがあれば、わたしは必ずこの場面を思い起こすだろう。たぶん、涙ながらにくず餅を食べるだろう。そんな気がする。

 さて、文政4年(1821年)、間小四郎は郡奉行と町奉行を兼務することになる。35歳の時である。秋月藩は相変わらず福岡藩の指導監督の下に置かれ、藩の財政は逼迫して借財はふくれる一方で、半知(俸給の半減)が続いていた。そして、この年、秋月の監督に当たっていた福岡藩の井出勘七は、もはや半知に秋月藩士が耐えられなくなっているので、半知をやめる代わりに借金をしている大阪商人に返済の12年停止を申し入れるよう間小四郎に命じる。大阪商人は本藩である福岡藩の保証がなければそれに応諾しないだろう。それによって秋月藩の支配をますます強めようとする意向があることも明白である。なんとか福岡藩の支配から独立したいと願っていた間小四郎は、「織部くずれ」の際に一緒に働いた友人たちに相談するが、福岡藩の支配もやむを得ないと考えるようになっていた友人たちとは次第に齟齬が生まれてきていることを感じざるを得なかった。間小四郎は、次第に孤立していく。

 藩の監督者である井出勘七と共に大阪に出向いた間小四郎は、藩財政のすべてを暴露し、「いと」が考案した名産となるかもしれない葛を示したり、福岡藩の保証がなくても、福岡藩は秋月藩を見捨てることができないという論陣を張ったりして、大阪商人を説得する。秋月の独立、それが間小四郎の念願となり、それが、かつて自分が糾弾した家老の宮崎織部の願いでもあったことを感じていくのである。

 この辺りから、間小四郎は宮崎織部と同じ道を進んでいくことになる。帰藩した間小四郎を待ち受けていたのは、借財返済停止の功ではなく、藩財政を大阪商人にすべて明かしたことに対する非難であった。記録が引用され、「意ニ任セテ弛緩ス。遂ニ国計ノ大本ヲ洩ラス」という非難の渦の中に置かれて孤立していくのである(213ページ)。

 それと同時に、かつて福岡藩から暗躍者として送られてきた隠密「伏影」の姫野三弥と決闘して彼を討ったことで、「伏影」の統領である父親の姫野弾正らが仇討ちと称して乗り込んでくる。福岡藩に敵対する者をそれによって排除しようという狙いがある。間小四郎はかつての盟友たちとの齟齬がある中で、ひとりそれに立ち向かおうとするが、小四郎に想いを寄せている原猷(みち)が友人たちを説得し、その助けを借りて彼はその企てをようやく退けることができる。原猷(みち)は、男装をして諸国を巡り歩き、女流漢詩人としての名声を高めていたが、この時、仇討ちの噂を聞いて急きょ秋月に帰って来ていたのである。

 こうして、旧友たちの助力によって福岡藩の思惑を退けることができたが、彼らとの齟齬は避けがたく、特に藩の重職であった伊藤惣兵衛との溝と対立が表面化していく。伊藤惣兵衛は中老となり、伊藤吉左衛門と名を改め、藩政の一派を形成しようとし、また、間小四郎のもとにも人々が集まって一派を形成しようとしていた。そういう中で、日田の掛屋(金貸し)から借りている借金の肩代わりを大阪商人に依頼するために大阪に行くように命じられる。

 大阪で、多くの商人たちは借金の肩代わりを渋ったが、堺屋という大店の呉服商の内儀がそれを引き受けるという。その内儀というのは、かつて織部くずれの時に弾劾した家老の渡辺帯刀に愛する者を殺され、身請けされて秋月に来ていた芸妓の「七與(ななよ)」であった。「七與」は、自分の愛する者を殺した渡辺帯刀を間小四郎が弾劾してくれたことを感謝するが、秋月での人々の自分に対するひどい仕打ちもあり、金を貸す代わりに人別講(領民から特別な人頭税を取ること)で金を集めろ、と言う。間小四郎は人別講で領民を苦しめることを拒絶し、大庄屋からの寄進を集めることを提案する。そこで、「七與」は、それを承諾する代わりに賄賂を受け取り、その金で秋月藩を牛耳れるほどの出世をしろという。

 間小四郎は、藩の財政窮乏の救済のために、毒を食う覚悟をして、「七與」の申し出を受け入れ、賄賂金を受け取り、これを藩内の重役たちに配って、やがて中老に昇進する。孤立はますます深くなり、飢饉に備えて備蓄米を蓄えることを行おうとしたことも、反対派からは人気取りだと受け止められていた。

 そういう中で、秋月は、文政11年(1829年)に大洪水が襲い、続いて大風(台風)が襲うという惨劇に見舞われる。この時、間小四郎をなきものにしようとする福岡藩の隠密の「伏影」が動き、原猷(みち)を人質に取るという事件が発生し、そのことと金を貸して賄賂を送った「七與」との関連が明らかになる。間小四郎は、単身で原猷(みち)を救い出すが、その時に「七與」から自分の企みが福岡藩の差し金で、間小四郎に賄賂を贈って人々の評判を悪くして、かつての宮崎織部のように失脚させる計略があったことを知るのである。

 また、洪水と暴風によって痛めつけられた領民の救済策として減免策が出るが、自分がその減免策に反対することで、反対派によって減免策を行わせようという小細工を行い、そのために間小四郎に対する不満は領内に満ちてしまうようになる。彼はやむを得ずに隠居する。こうして彼は藩政の表舞台からは退き、余楽斎と名乗るが、藩政から退くつもりはなく、陰の権力者としての道を歩み始めるのである。そして、やがて藩を私したことで弾劾されるのである。それは自分が弾劾した宮崎織部と同じ道で、秋月藩の福岡藩からの独立のためと藩の救済のために自らを捨て、汚れてもなお矜持をもって生きた生涯だったと本書は結ぶのである。

 この間小四郎の生涯を原猷(みち-原采蘋)の漢詩で、作者は次のように語る。

 独り幽谷の裏に生じ
 豈(あに)世人の知るを願はんや
 時に清風の至る有れば
 芬芳(ふんぼう)自ら持し難し

 原猷(みち-原采蘋)に「生き方において詩を書いた人」と言わしめて、作者は傲慢に私腹を肥やしたと言われる間小四郎の生き様を描き出したのである。

 わたしは個人的には政治や策略に生きる人間はどうも好きになれないが、思うに、人は、その外的なものが何であれ、あるいはどのような評価や判断が下されようと、ただその人の内実しか残らない。その自分の内実に誠実であること、ただそれだけである。いつの世も、世は度し難いが、ただそれだけあればよい。そして、たった一人でいいから、そのように生きている自分をわかってくれる人が有れば、これに優る幸いはないだろう。その一人を得ることすら極めて難しいことであるが。

 こうして作品の筋を追うだけでも、葉室麟は極上の部類に属する作家だとつくづく思う。彼の作品は、一つの文学で、よく考え抜かれた巧みな構成と主張、あるいは思想性と言ってもいいものがにじみ出ている。わたしは、この作家の作品を同級生で作詞家のM氏から教えてもらったのだが、こういう作品があることを知って深く感謝している。

0 件のコメント:

コメントを投稿