暦の上では今日は立冬で、今日から初冬の季節に入ることになる。昨日と同じように曇り時々晴れといった天候だが、少し肌寒くなっている。今日は夕方に都内で会議があるので、葉室麟『いのちなりけり』について思いもかけない長さになったこともあり、それまでと思ってこれを書いている。
葉室麟の作品は、漢詩や和歌、あるいは古典が随所に良質に取り入れられて、この『いのちなりけり』も古今和歌集の読み人知らずの作品である「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」という歌を基にして物語が展開されているのだが、その「あひ見むことはいのちなりけり」の神髄が現れていくのは、主人公の雨宮蔵人と咲弥が離れ離れになって暮らす16年間と、最後に出会う瞬間が綴られる物語の後半で感動的に記されている。
水戸藩の水戸光圀に預けられ、奥女中として働くことになった咲弥は、これまでの蔵人への自分の誤解を払拭し、ひたすら自分を愛してくれた蔵人への想いを抱いたまま、奥女中を取り仕切っていた老女(奥女中取締役)の「藤井」の元で働くことになる。咲弥の教養も深いことから、光圀の『大日本史』編纂の作業などに携わっていた学者や藩士などからも信頼されていき、やがて、「藤井」の後を受けて奥女中の取締りをするようになっていくのである。咲弥は仕えている光圀から側女になるように求められたりするが、自分には想う人があると明言してこれを断ったりする。主人の命を断ることは命がけであるが、蔵人が自分のために命をかけてくれたように、彼女もまた蔵人への想いを命をかけて守るのである。そして、そういう咲弥の姿を光圀も認めて行くようになる。
この老女「藤井」が養子としたのが藤井紋太夫で、光圀の側近として仕えていた藤井紋太夫は、やがて光圀から奸臣として処断される。それが冒頭に描かれた出来事だった。藤井紋太夫は、水戸光圀と老中柳沢保明の争いの中で、光圀のために良かれと思ってしたことが光圀の人格を傷つけることになってしまい、光圀はやむを得ずに彼を処罰するのである。『三国志』の「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の出来事を思い起こすような展開を作者はここでしている。
他方、咲弥と摂津湊川で別れ、片腕を失った深町京介の治療のために京都へ向かった雨宮蔵人は、右京に医師の手当てを受けさせて、目薬売りと灸をしながら糊口をしのぎつつ、ただひとつの和歌を探し出すために和歌の学びをはじめていた。そのただひとつの歌というのは、かつて咲弥と縁組みした際、咲弥から心を表す歌があるかと問われ、その歌が見つかるまでは閨を共にしないと宣告されたことに応えるための自らの心を表す歌である。運命の変転と長い時間をかけて、蔵人は咲弥の問に答えようとするのである。その時の咲弥は、蔵人の家格と風貌を軽んじて、蔵人を夫として受け入れることができなかったのである。咲弥は、蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて胸を突かれる思いがする。
片腕を失った深町京介は、傷が癒えると円光寺を訪ねて得度し、仏門に入る。徳川家康が建立した円光寺には古書が蔵書されており、蔵人はこの円光寺を訪ねて、深町京介との親交をもちながら、古今和歌集を初めとする古書を読んでいたのである。
それから5年の月日が流れ、蔵人は、播州明石で訪ねた熊沢蕃山の弟子であった中院通茂(なかのいん みちしげ 1631-1710年)を訪ねる。中院通茂は、天皇家に仕えた公卿で、歌人としても名高かったが、権大納言で武家伝奏者でもあり、水戸光圀と親交が深く、佐賀藩主鍋島光茂の正室の兄でもあり、脱藩者である雨宮蔵人が訪ねるには大物過ぎたのである。
ちなみに、この中院通茂は、通称小倉事件と呼ばれる天皇家の皇位継承問題の争いで、霊元天皇(1663-1687年)を目の前にして、天皇と将軍徳川綱吉を公然と罵倒したりするような剛直な人物であった。天皇家の皇位継承を巡る小倉事件は、雨宮蔵人も巻き込む事件として本書で展開されている。
この中院通茂が、訪ねて来た蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて気に入り、無給だが蔵書の和歌の書物を読むということで屋敷に通うことを許し、蔵人は中院通茂に仕えていくようになるのである。
そのころ江戸では、将軍徳川綱吉の命を受けて稲葉正休が大老堀田正俊を殿中で斬り殺すという事件が勃発していた。堀田正俊は綱吉が将軍になるときに擁立した人物であったが、やがて綱吉は堀田正俊を疎ましく思うようになって、自分が幕政を掌握するために堀田正俊を殺害する意図を持ち、それを側近であった柳沢保明が画策したと言われている。そして、水戸光圀も徳川綱吉に対しては憚ることなく辛言を言っていたので、光圀の命も狙われるのではないかと江戸の水戸藩屋敷にも緊張が走ったのである。光圀の側近であった藤井紋太夫は水戸藩を守るために光圀に隠居させようとする。また、柳沢保明は、光圀を毒殺するために策略をもうけたりする。だが、光圀毒殺の計略は咲弥の機転で失敗し、柳沢保明は、彼に仕えるようになっていた島原の乱の生き残りである黒滝五郎兵衛に光圀の暗殺を相談するのである。
黒滝五郎兵衛は、越後高田藩の小栗美作に仕えていたが、高田藩の後継者を巡る争いで小栗美作が切腹させられ、自分を信頼してくれていた小栗美作を切腹に追い込んだのが老中の堀田正俊であったことから、野心を持つ柳沢保明に近づき、それによって主君の仇を討とうと考えていたのである。黒滝五郎兵衛は柳沢保明から策士として信頼を得、光圀が現職のままでは面倒などで、光圀を引退させた後に水戸藩の内通者と手を結ぶことを画策していくのである。
徳川綱吉は、なにかと五月蠅かった堀田正俊を排除した後、自分に敵対する水戸光圀と同時に京都の朝廷も警戒するよう柳沢保明に命じ、柳沢保明は高家(京の朝廷との関係を持ち、幕府の諸儀式を取り締まる)の吉良上野介義央(よしひさ)を通じて公家対策を行っていく。綱吉と将軍位を争っていた甲府の徳川綱豊の正室が京都の公家の近衛基煕(このえ もとひろ)の娘であり、将軍家の争いは京都の公家の争いでもあった。
ここまで書いて、もう出かける時間になってしまった。なにせ、本書で取り扱われている背景となっている出来事が複雑な歴史的事件と密接に関係しているため、その事件についての概略を記すだけでも相当の分量がいることになり、『いのちなりけり』の本筋である「あひ見むこと」に至るまでにはまだ至らないでいる。人は歴史の中で、様々なものに翻弄されながら生きているのだから、歴史の中に人物を置くという作者の姿勢に、まず、敬意を表したいと思って、つい長くなるのである。
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