今にも雨が落ちてきそうな空模様になってきた。昨日からキリスト教の暦で「アドベント」と呼ばれる季節になり、アメリカの絵本作家で園芸家でもあったターシャ・テューダーの平凡な生活の中で嬉しいことをたくさん見出すという靜かで満ち足りた自給自足の生活を思い起こしたりした。普段以上にゆっくりと日々を過ごすこと、それがこの季節の日々かも知れない。
ここ数日、明治維新前後の作品を読んでいたが、昨日は、江戸中後期の戯作者十返舎一九を取り扱った諸田玲子『きりきり舞い』(2009年 光文社)を読んだ。
作者には比較的軽妙な文体で描かれた作品とシリアスな人間模様を描いた作品があるが、これは表題からも推測されるような軽妙な文体で綴られた作品の部類に入るだろう。『東海道中膝栗毛』で著名な十返舎一九の娘「舞」を主人公にし、破天荒だった父親や彼以上に破天荒だった葛飾北斎とその娘「お栄」などを登場させて、その絡みの中で十返舎一九の娘としての、その父親や彼女の恋などを描き出し、健気で明るく生きる姿を描いたものである。題材からして文体が軽妙になるのは理に適っていることだろう。
十返舎一九(1765-1831年)は、駿府(静岡県)の府中で駿府奉行所の同心の子として生まれ、本名を重田貞一(さだかつ)といい、武家育ちで、やがて駿府の町奉行であった小田切土佐守直年に仕え、小田切土佐守の江戸や大阪への移動に従って江戸や大阪に赴いたが、大阪で理由が不明のままに侍を捨てて材木商の入り婿となり、浄瑠璃作者の道を歩み始めている。近松門左衛門に影響を受けて近松余七の名で浄瑠璃を書いたりしていた。この辺りの十返舎一九を描いた松井今朝子『そろそろ旅に』(2008年 講談社)を前に面白く読んだことがある。『そろそろ旅に』では、十返舎一九はなかなかの人物として描かれている。
だが、そのころから破天荒で、やがて、放蕩が過ぎたのか、婿先の材木商から離縁され、江戸へ出てきて黄表紙や洒落本で有名な版元でもあった蔦屋重三郎の食客となり、そこで挿絵や浮世絵、版下、黄表紙を書き、また新たに入り婿に入って暮らしながら数々の作品を書いている。しかし、吉原での放蕩がたたり、ここでも入り婿先から離縁され、旅に出たりした。その後、滑稽本や洒落本を書きまくり、三度目の妻「お民」と結婚して、亀戸、橘町、深川佐賀町を転居しながら著作に専念し、通油町にあった地本問屋の会所(出版元が寄り合って出版のための寄り合い場所を作った)で暮らし、晩年もそこで過ごしている。46歳で眼病を病み、58歳の時に中風を病んだが、貧苦にあえぎながらも破天荒の生活は変わらず、日本で最初に文筆のみで生活し、年間の執筆量も20部以上という相当なものであった。三番目の妻「お民」との間に一女をもうけている。
本書では、その一九の娘の名前が「舞」とされる美女で、離縁された前妻の子となっており、その子を抱えて一九が「お民」のところに転がり込んで、「舞」は「お民」に育てられたことになっている。また、一九が、実は、武家として仕えた小田切土佐守の妾腹の子で、奉行職であった父親を助けるために、侍を捨てる格好で諸国を旅したりしてきたとされている。この辺りの詳細は、実はよくわからないところがあって、作者の想像も捨てたものではないのである。
物語は、その一九の娘「舞」が、小町娘と評判を取ってきたが、なかなか縁遠く、玉の輿に乗ることを夢見ている女性として登場するのである。そして、父親の一九がことごとく「舞」の縁談をぶちこわすところから始まり、地本問屋の会所で破天荒な生活を送りながらも娘の本当の幸せを願う父親としての一九と、ちゃきちゃきの江戸っ子娘である「舞」の姿が描かれていくのである。そして、謎の多い一九の生涯の秘密が、一九のかつての朋友の息子の仇討ちと関係して描かれていく仕掛けになっている。
一九の朋友の息子は、一九を訪ねて来て、そのまま居候としていつき、加えて北斎の娘の「お栄」が居候となり、それぞれが奇人変人で、自分勝手な暮らし方をしているので、同じ地本問屋の会所で暮らす「舞」はてんてこ舞いになるのである。
こういう中で、商家の若旦那や旗本の子息から縁談が持ち込まれ、「舞」も結婚を焦ったりするが、一九はことごとくぶちこわしてしまうのである。そして、それが実は、娘を真実に思う親心であることが次第にわかっていくし、女絵師として生きようとする北斎の娘「お栄」も、北斎がめちゃくちゃなことをしながらも自分の娘のことを大事にしていることがわかっていくというものである。
もちろん、洒落本を多作した一九を取り扱うのだから、先にも記したように、その破天荒ぶりを描く文体は、当然軽妙になるのだが、この作品では、それを醸し出そうとする無理が若干感じられるような気がした。「おかしさ」を文章や物語ですることは、もともと難しいことだが、仇討ちや一九の生涯の謎に迫るというシリアスな面をもつ内容なだけに、軽妙さがすこし浮いた感じがしたのである。
だが、作者の作品は、大体において好きな作品で、面白いことには変わりない。楽天的に生きることは江戸庶民の知恵でもあり、その知恵が発揮されて、物事を受け入れ、また受け流していくという姿勢は見上げたものだと思っているから、こうした作品でそれが描かれるのはわたしの好みでもある。「たくましく、したたかに、そして楽天的に」これが庶民の知恵というものだろう。
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