2011年2月28日月曜日

高橋義夫『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』

 所用で小田原まで出かけ、一本の紅梅が可憐な花を咲かせているのを目にした。なんだかほっこりしたような光景で、「小さくは小さく咲かん、小さきままに」という言葉を思い出したりした。今日は初春の冷たい雨が降っている。

 帰宅して、高橋義夫『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』(2009年 中公文庫)を読んだ。出羽の新庄藩(現:山形県新庄市)で次男の部屋住みであった主人公の花輪大八が、私闘の責任を負う形で勘当され、日本有数の豪雪地帯で知られる山深い肘折温泉(ひじおれおんせん)の湯守りとなり、そこでの人々との交わりを通じて、湯治客などが持ち込む事件などに関わって、時にそれが新庄藩全体を巻き込むものであったりする出来事を解決していく顛末を描いた本書は、シリーズ化されており、これはその三作目の作品である。

 「湯守り」とは、本来、温泉湯治場のお湯の管理をする者のことだが、江戸時代から月山などの登山口で湯治場として知られていた肘折温泉では、入り札(入札)で決められる村役で、温泉場全体を管理する役務として位置づけられていたことから、主人公の花輪大八は、そこで起こるあらゆる事件や揉め事に関与するのである。

 この主人公は、正義感が強くて生一本で、どこか夏目漱石の『坊ちゃん』を思わせるような人物なのだが、父祖伝来の具足術(柔術)を身につけ、無鉄砲なところもあるが「分をわきまえる」ところもあって、温泉郷の人々から親しまれ信頼されていく人物で、池波正太郎が『鬼平犯科帳』で描いた若い頃の長谷川平蔵の姿を彷彿させるところもある。池波正太郎は、長谷川平蔵の若い頃の姿を、善も悪も、酸いも甘いもかみ分ける剛胆な人物として描いているが、この主人公の花輪大八も、そういうところがあるのである。

 本書は、その主人公の花輪大八が湯守りをする肘折温泉の湯治客として、「思庵」という医者に引き連れられた一団の女性たちが訪れ、様々な婦人病の湯治による治療をするところから始まるのだが、夫に淋病を移されて婚家を出てきた女性を連れ戻そうとする出来事などが起こっていく中で、その女性たちの一団の中に新庄藩全体を二分するような城主の跡継ぎとなる子を懐妊した女性がいて、それを巡る争いの顛末を山場として展開したものである。

 そこに、婦人病への無理解や蔑視を抱えて生きなければならなかった女性の姿や山間の湯治場で暮らす人々の姿が盛り込まれ、あるいはまた、武家の次男の悩みや恋模様などもあり、「書き下ろし」のために文章や表現にほんの僅かだが推敲が必要だと思えるところもあるが、しっかりしたリアリティーに裏づけられた作品になっている。だから、主人公と彼を巡る人間模様は、作品が書き進められるうちにさらに深まったものになっているだろうと思われる。

 本書の最後に、湯につかった主人公が湯治客の老人が唄う「大津絵節」の一節を聞く場面が描かれ、
 「げに定めなき 浮雲の 月の光を 見やしゃんせ 晴れては曇り 曇りては 晴れ渡る みな何事も かくあらむ」(295-296ページ)という言葉が記されて終わるが、「晴れ・曇り・雨・嵐」の繰り返される人間模様が「何事もかくあらむ」として描かれたのが、この作品だと言えるかも知れない。

 直木賞受賞作家でもある作者の作品を読むのは、これが初めてのなのだが、江戸が舞台ではなく、地方の湯治場を舞台にした作品は、特に山形にはあまり縁のないわたしにとって、情景の妙味もあって面白く読むことが出来た。

 それにしても肘折温泉は、なかなか風情がある温泉郷らしい。江戸時代はもちろん混浴なのだが、今はどうなのだろう。そこにある露天の石抱温泉は炭酸成分が多くて体が浮くので石を抱いて入ることからこの名があるそうだが、行ってみたい気がする。

2011年2月26日土曜日

南原幹雄『付き馬屋おえん 女郎蜘蛛の挑戦』

 昨日は春を思わせる陽気で、何か徳をしたような気分さえ与えられたが、今日は風が冷たく、近くのクリーニング屋の旗がはためいている。

 昨夜は少し遅くまで起きていて、南原幹雄『付き馬屋おえん 女郎蜘蛛の挑戦』(1997年 双葉社 2004年 角川文庫)を読んでいた。この作者の作品も初めて読むのだが、これはシリーズ化されていて、本書はその三作品目らしい。

 「付き馬屋」というのは、遊郭であった吉原の焦げついいた借金を取り立てる取り立て代行をする稼業で、吉原で遊んだ客の後に付いていってその代金を回収することから「付き馬」と呼ばれたものである。本書では、亡くなった父親の後を継いで、若くしてその「付き馬稼業」をする弁天屋の「おえん」という美貌の女性の小気味のいい活躍が、一話完結の連作として描き出されている。

 遊郭の吉原での話が中心なのだから、当然、彼女が扱う事柄は、男と女、そしてお金にまつわる話であり、表面の装いに隠された、いわば「意地汚い」裏を暴くことが作品のテーマであり、本書でも、潰された海苔問屋の娘が吉原に身売りされ、元の店の奉公人で、その海苔問屋を潰して自分の海苔問屋をもった男に買われ続け、その代金さえ踏み倒されるという状況の中で、「おえん」を初めとする付き馬稼業の弁天屋の手代たちが、海苔問屋の乗っ取り事件を暴き出して、遊興代金を回収するという第一話「おいらん地獄」や、人格者で大店の主人として治まっていた男が、どうしても昔の枕探し(泥棒)の癖が止められずに、吉原で枕探しをしてしまうことを暴き出す第二話「吉原枕探し」など、人間には表と裏があって、その裏を暴き出すというような形で物語が展開されている。

 本書では、こうした作品が七話収められており、その中で、表題作ともなっている第四話「女郎蜘蛛の挑戦」では、網を張ってそこにかかった餌を食べる女郎蜘蛛に似た美貌の女性「おとよ」が、「おえん」に男を使って挑戦してくる好敵手として登場し、この「おとよ」と「おえん」の確執が、シリーズの中で何度か描かれているようで、既に一度、二人の対決が行われ、本書では、そこで破れた「おとよ」が「おえん」に復讐を企てるという筋立てになっている。

 全体的にこういう作品は、「人には隠された裏がある」というだけの話なのだが、一話完結の連作として、人のよこしまな意地汚い裏が様々に描き出され、そこに遊郭という苦界で苦しむ女の姿やそれなりの情をもつ姿があり、娯楽小説として読ませるものがある。

 幕切れが、「おえん」を中心にした弁天屋の手代たちが、悪意をもって遊興代金を踏み倒そうとする男たち(あるいは女)のところに踏み込んで行き、そこで「おえん」が啖呵を切って悪行を暴露し、代金を回収するという同じパターンであるとはいえ、そうしたパターンも、ちょうど『水戸黄門』の印籠のように、作品の妙味といえば言えないこともないし、代金さえ回収できればそれでいいという付き馬屋稼業に徹した姿も爽快感を残すものとなっている。

 個人的な好みからいえば、どちらかといえばお金が絡んだ男と女の話はあまり触手が伸びる話ではないが、比較的作品数の多い作者の作品を一度くらいは読んで見ようと思っていたところであった。

2011年2月24日木曜日

鳥羽亮『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』

 天気が一転して、雨を含んだような重い空が広がっている。夕方から降り出すとの予報が出ている。芽吹き始めた草花にとっては恵みの雨になるだろう。雨を「恵みの雨」と受け取るのか、それとも心身を震わすような「過酷な雨」ととるのかは、その状況や心持ちしだいなのだが、如月の雨はまだ冷たい。

 昨夜は遅くまであることで相談を受けていたのだが、それでも鳥羽亮『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』(2004年 双葉社)を一気に読んだ。相談の内容が少し重かっただけに、この作品の明瞭さが一服の清涼剤ともなった。

 内容は、東北のある藩の藩士であり剣の遣い手でもあった長岡平十郎が藩の内紛に絡んで、病んでいた妻の薬代の為に一方の側に与することとなり、その内紛が相手側の勝利で終わったために、上意討ち(主君の命令で討たれること)となり、六歳の娘の「千紗」を連れて江戸まで逃れ、追っ手と貧苦に苦しみながらも、江戸の剣術道場に拾われ、そこで敵対する剣術道場が引き起こす争いと、それに絡んだ追っ手に対峙していくというものである。

 長岡平十郎は、上意討ちとなっても、ただ幼い娘のためだけに生きていこうとする。娘の「千紗」も追われる父親の身を案じ、そういう父親を深く信頼して健気についていこうする。陸奥から江戸までの長い旅程でも、安い木賃宿や荒れ寺に泊まり、愚痴一つ言わずに過酷な逃亡の旅を続ける。追っ手が雇った牢人者が襲ってきた時も、父親の平十郎から「先に行け」と言われるが、遠くまで行かずに路傍に座り込んで父親が来るのをじっと待っている。江戸でも、糊口のために道場破りをする父親の後にじっと従い、汚れきりぼろを纏いながらも泣き言一つ言わずについていく。

 そういう父と娘の深い愛情で、いつしか平十郎は「子連れ侍」と言われるようになり、道場破りで訪れた一刀流の景山信次郎の人柄によって、ようやく景山道場で暮らすことになる。景山信次郎には出戻りの娘の「佳江」がいて、なにくれと「千紗」を可愛がってくれる。だが、景山道場を潰そうと企む別の剣術道場である塚原道場があり、その道場によって門弟が斬り殺される事件が起こる。相手は徒党を組み、奸計を用いて、しかも実戦をくぐり抜けてきた剣の遣い手でもあった。そして、その奸計によって景山信次郎も殺されてしまう。平十郎の追っ手もまた、それをかぎつけ、景山道場を潰そうとする者たちを使って平十郎を討とうとする。

 武士の一分と道場と「佳江」を守るために、長岡平十郎はそれらと対峙し、自ら手傷を負いながらも、「千紗」と「佳江」が待つところに雪の降りしきる中を一歩一歩進みながら歩んでいく。「子どものために生きる、それが自分の生き方だ」ということに徹しようとするのである。

 個人的に、幼い少女や子どもが、自分が与えられた世界で健気に生きている姿が描き出されると、様々な事柄が走馬燈のように思い返されて、感涙を禁じ得ずに涙が棒太のように流れてしまうが、この作品でも、父と子の懸命な姿が伝わってきて、何度もティッシュを使いながら読み進めた。

 それにしても、やはり鳥羽亮の作品には一気に読み進ませる力がある。剣の闘いのシーンは作者が得意とするお定まりのものだが、「子連れ」というのは作者にしては珍しい作品かも知れない。小池一夫の原作で小島剛夕が劇画で描いた『子連れ狼』も、柳生家との対立の話は別にして、親子の情愛の深さがあり、しみじみとした妙味があったが、主人公が連れているのが幼い女の子で、父親の袂を握りしめて眠る姿など、細かな描写が冴えている。

 子どもに苦労をかけている、と言って父親が密かに泪する。最近、二度ほどそういう場面に立ち会ったこともあって、胸に去来するものが多い読後感だった。

2011年2月23日水曜日

泡坂妻夫『からくり東海道』

 ニュージーランドの地震災害、リビアの社会情勢、食料と原油価格の高騰、国内の政局といったニュースが矢継ぎ早に飛び込んでくる中で、天気は春の兆しを思わせる好天となり、空が青い。風はまだ冷たいが、チューリップが芽を出し、蕗のとうが大きく成長している。「すべからく、世はかくありなん」と思ったりもする。

 このところ何だか疲れを覚えているのか、昨夜は午後7時頃から眠ったり起きたりしていた。そういう中で、推理作家である泡坂妻夫(1933-2009年)の時代小説『からくり東海道』(1996年 光文社)を読んでいた。

 読み終わって、これは消化不良を起こしそうな作品だ、というのが最初の印象だった。物語は、徳川幕府初期の財務体制の一切を担当し、死後に家康によって取り潰された大久保長安(1545-1613年)の隠し金が、江戸北西の13万坪以上という広大な敷地の「戸山山荘」とも呼ばれた尾張徳川家の下屋敷にあるのを、その「戸山山荘」に隠されていた謎を解き明かして、探し出し、幕末が近い時代の第十一代尾張徳川家城主であった徳川斉温(なるはる-1819-1939年)の御落胤問題や尾張徳川家内部の勤王派と佐幕派の問題とも絡み合わせ、その隠し金の争奪戦を描いたものである。

 尾張徳川家の下屋敷である「戸山山荘」は、三代将軍徳川家光の娘が尾張城主に嫁ぐ時に与えられ、以後造園され続け、七代目の尾張徳川家の城主であった徳川宗春が吉原の遊女春日野を身請けして住まわせた際に、春日野を楽しませるために東海道五十三次を模して造園され、それと箱根にあると伝承されている大久保長安の隠し金を絡ませ、箱根というのが戸山山荘で模された箱根ではないかと突きとめていくのである。

 それを突きとめていくのが、かつては角兵衛獅子の児であった男女と徳川斉温の側室の子で、斉温の側室であった「おまん」(お里津)が、実はベトナムの滅亡したタイソン王朝の姫で、難を逃れて海上を漂流していたのを助けられた女性であったということまで加わり、物語は江戸時代の長い歴史と地理的な広がりを見せていく。

 だが、物語は、母親がベトナムのタイソン王朝の姫であったという証拠の品を「戸山山荘」に探しに行って、そこで、保身と金欲で斉温の御落胤の暗殺から大久保長安の隠し金の争奪まで企てた男の死と、江戸市中に起こった火事の飛び火で「戸山山荘」も火事となり、それに主人公たちが巻き込まれるところで終わる。

 江戸初期の大久保長安が隠した金を安政の時代に探し出すという長い歴史を背景に、ベトナム王朝の話まで絡んだ壮大な謎解きだが、結末はあっけなく物足りない気がするように感じたのである。最後に、主人公たちが飛翔してベトナムに向かうという幻が描かれているが、主人公たちの「自由」というのがそういう形で描かれるのも味気ないような気がした。

 作者は自ら奇術に凝るほどトリックや謎解きに詳しく、ここでも「戸山山荘」の謎解きが奇抜な発想で面白いし、文章も途中の展開も、さすがに直木賞作家の作品だと思っていたのだが、終わりまで読んで、正直、「えっ、これで終わるのか」と思ってしまった。作者には『宝引の辰捕者帳』という時代小説のシリーズがあるので、今度、それを読んでみようとは思っている。

2011年2月21日月曜日

米村圭伍『紅無威おとめ組 かるわざ小蝶』

 風の強い薄曇りの日になった。昨日、二つの悲しい知らせに接していた。一つは、昨秋、沖縄に同行した酒好きの明るいD氏が癌で倒れたという知らせで、もう一つは、つまらない矮小な理想像を押しつけられて、それに応えることが出来ずに挫折して郷里に帰るというO氏の知らせである。O氏は本当に苦労した。彼を支えたご家族も苦労した。だが、昨夜遅くまで彼と話をしても、彼が郷里に帰るという決断をした以上、その決断を尊重する以外に術がない。人は細い綱の上を微妙なバランスをとりながら生きているが、そのバランスは壊れやすいとつくづく思う。

 閑話休題。土曜日(19日)の夜に、米村圭伍『紅無威(くれない)おとめ組 かるわざ小蝶』(2005年 幻冬舎)を、またまた、史的事実を充分に踏まえながらも、風刺を交えて面白おかしく物語を展開する手法に感心しながら読んだ。米村圭伍の作品に触れた際に、ある方が「中世史をおさえておかないと、作者に煙に撒かれそうですね」というコメントを寄せて下さったが、作者はどうもそのことに快感を覚えているようで、「もっともらしく作り話を語る」という戯作の妙味をこの作品でも感じた。

 物語は、田沼意次を退けて寛政の改革(1787-1893年)を行った松平定信(1759-1829年)の時代、田沼意次が隅田川の中州を埋めて造成して歓楽街になっていた中州新地が、松平定信が進める改革によって寛政元年(1789年)に取り潰される際、中州新地で軽業曲芸をして評判をとっていた「小蝶」が、その取り潰しで自分の面倒見てくれていた親方が殺されたと思い込み、親方の仇を討とうと松平定信の屋敷に忍び込んだりして、松平定信が田沼置き次の孫である意明に川欠普請御用という名目で出させた六万両を狙ったり、幕府御金蔵破りを企んだりする一団と関わり、その一団の中にいた発明に凝る「萩乃」、女だてらに侍の格好をして武芸の腕を磨こうとしている「桔梗」と知り合い、「小蝶」、「萩乃」、「桔梗」のそれぞれ個性溢れる三人がそれぞれの特技を発揮して「紅無威おとめ組」を作っていく話である。

 水も滴るようなすこぶるつきのいい男であり、豪商として名を残して一代限りで消え去った紀伊国屋文左衛門の血を引く「幻之介」の企みで松平定信の六万両を奪うために集められた「萩乃」、「桔梗」、「小蝶」は、「幻之介」の色香と好言で、田沼家の残党と共にその計画を進めていくが、「幻之介」が自分たちをだまして、実際は幕府の御金蔵を破ろうとしていることを知り、女をだまして働かせ、役目がすんだら消し去り、天下を騒がす大事件を起こしておもしろがろうとする「幻之介」を、それぞれの特技を発揮して懲らしめるのである。

 ふとしたことで自分たちのことを「紅無威おとめ組」と名乗った三人はそれぞれ個性的で、身軽で軽業をし、幻術さえも身につけた乙女である「小蝶」、平賀源内顔負けの発明をする「萩乃」、そして、秘剣を鍛錬する「桔梗」という設定は、いかにも作者らしい設定である。また、「桔梗」は、実は松平定信の妾腹の妹であり、そこにひねりも加えられている。

 さらに、物語の中で、池波正太郎の『剣客商売』の主人公である秋山小兵衛の息子である秋山大二郎が「冬山大二郎」として登場するなど、遊び心満点の作品になっている。『剣客商売』の中で、秋山大二郎は田沼意次の妾腹の娘と結婚するが、そのあたりのことがちゃんと述べられているのである。こうした遊び心は、それと気づけば、読んでいて面白いものである。

 なんでも、この作品は、江戸城御金蔵破りとして捕縛された「幻之介」が巧妙に縛を逃れ、その後「紅無威おとめ組」のシリーズとして書かれているらしいので、娯楽小説として面白いシリーズになっているだろうと思う。作者の歴史を逆手にとった戯作姿勢や遊び心は、何とも言えない味がある。

2011年2月19日土曜日

藤原緋沙子『橋廻り同心・平七郎控 蚊遣り火』

 雨模様を感じさせる寒空が広がっている。春は行きつ戻りつのとぼとぼしかやって来ないので、ここしばらくはこんな感じで天気が繰り返されるのだろう。八方ふさがりの政治や経済の春はまだ遠いし、気分的には重いものがあるなぁ、と思ったりもする。

 昨夜、藤原緋沙子『橋廻り同心・平七郎控 蚊遣り火』(2007年 祥伝社文庫)を読んだ。文庫本のカバーによれば、これはシリーズで7作品目ということだった。

 藤原緋沙子の作品は、以前、『見届け人秋月伊織事件帖』(講談社文庫)や『渡り用人 片桐弦一郎控』(光文社文庫)、『浄瑠璃長屋春秋記』(徳間文庫)のシリーズなどの何冊かを読んでいて、プロット(筋書き構成)のうまさがあると思っていたが、この作品に限ってかも知れないが、粗さが目立つ作品だった。

 内容は、かつては凄腕の北町奉行定町廻り同心だったが、上役の失敗をかぶる形で、江戸市中の橋の管理をする閑職の橋廻り同心になった主人公の活躍を描くもので、第一話「蚊遣り火」では、指物大工の親方の娘との縁談話に絶望して博打で身を持ち崩し、押し込み強盗の一員にさせられる男を主人公が助け助け出したり、第二話「秋茜」では、屋敷内で賭場を開き、いくつかの商家の乗っ取りを企む火盗改めの旗本が起こした事件を解決したり、また第三話「ちろろ鳴く」では、子殺しの嫌疑をかけられて岡っ引きに脅されていた女性を事件の真相を突きとめて助けていったりする話である。

 しかし、状況の設定や人物がどこか上滑りをして薄い気がしてならなかった。たとえば、第一話「蚊遣り火」では、指物大工に弟子入りした一人の男が、相愛していた親方の娘との結婚がだめになり、絶望して賭場に出入りし、その賭場の借金の為に賭場を開いていた押し込み強盗団に利用されて、強盗団の証人殺しを引き受けることになるのだが、結末の部分で、事件が解決した後、その男が、主人公の橋廻り同心からその娘がわびていたと聞いて涙を流し、その娘のところに飛んで行くという場面がある。しかし、指物大工の娘が、親の言うとおりに取引先と結婚し、その結婚がうまくいかずに出戻って蚊遣り火を炊いているのを声もかけられずに橋影からじっと見つめ続けていた男が、ただそれだけで娘のところに飛んで行くことができるだろうか、と思ったりする。また、結婚がだめになって身を持ち崩して賭場に出入りして、さらに身を持ち崩していくような気弱な男が強盗団の証人殺しを引き受けるだろうか、とも思う。

 あるいは第二話「秋茜」は、贅沢をして暮らすことを夢見て、子どもを捨てて旗本の妾となり、その旗本が賭場を利用して商家の乗っ取りを企むのに一役買っていた女が、主人公の活躍によって事件が暴かれた後に、子どもとの対面をし、その子どもから「おいらには、おっかさんなんていないんだ」と言われて、その子どもの後を追うところで終わる。文意からすれば、その母親と子どもは親子の絆をその後強めて生きたような余韻で語られている。しかし、それは、そういう性悪な女には似つかわしい結末ではない、と思ったりする。彼女は自分が楽をして贅沢をするために何度も子どもを捨てているのだし、旗本の乗っ取りのために商家の主人をたらし込んだりしているのだから。

 第三話「ちろろ鳴く」で、五歳の女の子が殺される状況が語られていくが、五歳というのは数え歳だろうから、実年齢は三歳から四歳だろう。その歳の子どもが「何よ、その目は・・・おふさは女中でしょ。女中のくせして何よ!」(260ページ)という言葉を使うだろうか。

 全体においても、主人公の橋廻り同心である立花平七郎と、彼を助けるて手先となって働く読売屋の「おこう」は互いに恋心を抱いている設定になっているが、両者のやりとりや振る舞いにそれが伝わってこない気がする。二人のやりとりに恋する人間のふくらみがない気がするのである。

 文章表現も少し粗くて、第三話「ちろろ鳴く」の197ページに「どうやら平七郎たちが案じていたように、長次郎はおふさ相手に我が身の不運を訴え、悲嘆にくれていたようだ。そこにおふさがやって来て」とあるが、「そこに」というのは、前の文章を受けているのだから「長次郎がおふさ相手に我が身の不運を訴え、悲嘆にくれていた」ところで、そこに「おふさがやって来る」とはどういうことだろうか、と思う。そういうふうに読める文章ではないだろうか。あるいは、265ページに「秀太はへべれけに酔っ払って、番屋の土間に尻餅をつき、ゆらゆらと揺れている浪人を指した」とあるのだが、この文章からすれば、秀太がへべれけに酔っ払いながら土間に尻餅をついているように読み取れてしまう。

 他にも「?」と思うちぐはぐなところや、「果たしてそういうことをするだろうか」と思うようなところがあって、人間のとらえ方も甘く、ずいぶん粗い作品だと思った次第である。「書き下ろし作品」の粗さが目立つような気がした。これがシリーズ作品であるなら、もう少し味わいをもたせてじっくりと展開した方がよいのではないかと老婆心ながら思った次第である。

2011年2月17日木曜日

宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』

 14日の月曜日の夜、ちょうどある研究会のために小石川まで出かけていき、帰りに大きな牡丹雪がふわふわとひっきりなしに降ってきて、見る間に積もり、世界を白く変えていく光景の中にいた。しばらく舞い落ちる雪の空を眺めていると、頭から肩、腕と全身が雪に覆われ、その一種の荘厳な光景と寒さで身震いしながら帰ってきた。こちらの駅に着くと、あたりはもう真っ白で、冬景色特有の静けさが世界を覆っていた。

 火曜日・水曜日と日中は気温も上がったのだが、まだ物陰には風に吹き寄せられた雪が凍って残っており、夜の冷え込みの厳しさを物語っていた。だが、今日はそれも溶けてしまい、薄曇りの空が広がっている。

 日曜日から今日まで、比較的長い時間をかけて、上巻630ページ、下巻658ページの上下巻合わせて1288ページにわたる長編である宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー(上・下)』(2003年 角川書店)読んでいた。

 これは歴史時代小説ではないが、表現力が豊かで物語構成がしっかりしている作品を読みたいと思って、今のところ思い当たる作家としては宮部みゆきしか思い浮かばなかったので、かなりの長編だと思いつつも読み始めた次第である。そして、少年少女向けのような、極めて現代的なファンタジーではあるが、期待を裏切らない作品だった。

 これは、尊敬していた父親が他に好きな女性ができ、母親と自分を捨てて出ていくという泥沼のような不幸に見舞われた小学校五年生の少年が、自分の心を反映するテレビゲームさながらの「幻界(ヴィジョン)の世界」を旅し、その旅の途中で経験した葛藤の中で自分の生きる姿を見出していく物語で、宮部みゆきは、それを壮大なファンタジーとして展開しているのである。

 父親と女性との間には子どもまでできており、母親との間は泥沼化し、母親は絶望のあまりガス自殺まで試みてしまう。それまで平穏に暮らしていた小学校五年生の亘(ワタル)は、両親の不和によって自分の存在すら否定された思いになり、為す術もなく震えているだけだが、自分のそうした運命を変えたいと願って、偶然開いた「幻界(ヴィジョン)の世界」に飛び込み、そこを旅する「旅人」として自分の運命を変える道を示す宝玉を求めて旅をしていくのである。

 ここには、単に人間の心にある憎しみや復讐心、悲しみや辛さを嘆く心や、弱さがあるだけではなく、人種差別の問題や社会形成の問題、目的のために手段を選ばずに自分の力を発揮してしまう問題も盛り込まれ、その中で、友情や愛や思いやりを自分の生き方として選択していく姿が映し出され、ちょうどテレビゲームのように、ひとつひとつの場面をクリアーしていく度に主人公の亘(ワタル)が、すべてを受け入れて強くなっていくように、「幻界(ヴィジョン)の世界」の各地を旅していくのである。そして、運命を変えることが大切なのではなく、弱さに嘆くだけだった自分自身を変えることこそが大事なことだと気づいていくのである。

 描き出されるヴィジョンの世界は、作者が好きで没入するというテレビゲームそのものではあるが、そこに現代社会の深厚な多くの問題とその中を生き抜く人々の姿を盛り込んで壮大なファンタジーに仕上げるところは目を見張るものがある。細かな場面の設定やエピソード、表現は、本当に豊かで、もしこれをアニメなどの映像として描き出すなら、相当に面白い、また内容のあるものになるだろうと思わせるものがある。と思っていたら、既にアニメや漫画、ゲームなどが制作されているらしいが、その類のものにあまり縁がなくて知らなかった。

 こういう壮大なファンタジーは、日本ではなかなか生まれないと思っていたが、ミヒャエル・エンデの『モモ』や『はてしない物語(ネバー・エンディング・ストーリー)』に匹敵する内容と深みがある。もっともエンデの作品は、時間論やニヒリズムといった極めて哲学的な色彩が濃いものではあるが、この『ブレイブ・ストーリー』も哲学的に研究する価値が充分にあるような気がする。わたしが知らないだけで、もうすでにされているのかも知れないが。

 ともあれ、面白かったので、アニメになっているという作品を、今度、レンタルビデオ屋にでも行ったら借りてこようとは思う。

2011年2月12日土曜日

山本一力『はぐれ牡丹』

 昨日は朝から横なぐりの雪が降り、夜にはうっすらと積もっていたし、今日も重い空が広がっているが、1936年(昭和11年)の「2.26事件」の時は大雪だったのだから、今の季節には不思議なことでも何でもないだろう。ただ、「如月の風は冷たき」で、寒いのは身体的にも精神的にもこたえる。

 このところ、ある組織の100年に及ぶ歴史を検証して考察をするという作業を夜中にしていて、いささか疲れを覚えたが、衛星放送が昨日は無料だと聞いて、藤田まこと主演で池波正太郎原作の『剣客商売』を見たりしていた。講談社から出されている『完本池波正太郎大成 全30巻』はずいぶん前に読んでいて、『剣客商売』も面白い作品だったので、放映されたもののストーリーはわかっていたのだが、映像はまた別の妙味があった。特に、藤田まことが演じた主人公の老剣客である秋山小兵衛が孫のような少女と夫婦になって隠棲する家が、人里離れた藁葺きの農家として設定されており、何とも言えない味わいで、やがては隠棲したいと思っている今のわたしにとっては、ひとつの「憧れ」を感じさせるものであった。静かに朽ちていきたいと思い続けているからだろう。

 閑話休題。その放送を見ながら、山本一力『はぐれ牡丹』(2002年 角川春樹事務所)を読んだ。これは両替商のひとり娘として育った「一乃」が、惚れた男と所帯を持つために家を飛び出し、裏店に住み、野菜の担ぎ売りをしながら、寺子屋の師匠をしている夫の「鉄幹」と四歳になるひとり息子の「幹太郎」と共に、持ち前の明るさと機転、直感力の鋭さや気っぷの良さを発揮して、ふとしたことで関わってしまった江戸幕府の貨幣改鋳に絡む大詐欺事件で詐欺を計画した人間に捕らわれてしまった娘たちを助け出していくという、ある種の冒険譚である。

 「一乃」は、苦労を苦労とも思わずに明るく裏店の生活に馴染みながら、直感力も鋭いし頭脳も明晰なのだが、何事でも結論から先に言ってしまい、突っ走っていくところがあり、夫の「鉄幹」は、非力であるだけに冷静に、そんな「一乃」を補助していき、四歳の息子「幹太郎」は「おいらが付いていないと、かあちゃんはないをするか分からない」(120ページ)というような子どもで、一味も二味もあるような家族になっている。

 その「一乃」が野菜の仕入れ先である農家の竹藪で一分金を拾う。両替商の娘であった「一乃」は、それが贋金ではないかと疑い、結婚によって勘当されて疎遠になっていた父親に、あえて調べてもらうと、やはり贋金だったことから、贋金事件に関わることになるのである。そして、その贋金には大がかりな詐欺事件が絡んでいたのである。

 江戸幕府は、特に第11代将軍の徳川家斉の時代(在位1787-1837年)に、財政逼迫の救済策として貨幣の改鋳を行い、金・銀貨の質を落とし続けていた。その貨幣改鋳の際に、新貨幣があまり市中に出回っていないことを機に金の含有量を少なくした贋金を作って利ざやを稼ごうとする企みが起こる。松前藩の御用商人がロシアの船団と結託してその企てをするが、贋金を作ってもあまり儲けに繋がらないことが分かり、次にそれを利用して五万両にも及ぶ詐欺を画策するのである。
 
 松前藩の御用商人は、その話を江戸の賭場の親分の所に持ち込み、巧妙に話を作って五万両を集め、それを持ち逃げしようとするのである。また、ロシアの船団との取引のために女性たちを拐かしてロシア人にあてがおうとするのである。「一乃」が住んでいる裏店の少女がその拐かしにあう。

 「一乃」は松前藩の御用商人の企みを見抜き、だまされた賭場の親分と持ち前の度胸で渡り合って、真相を告げ、拐かされた少女を、夫の「鉄幹」や花火職人、川船の船頭、野菜の仕入れ先の農家などの人たちと協力し、知恵を働かせて助け出していくのである。

 こうした物語が、ほぼ一直線に進んで行くので、冒険譚としての面白さがあるが、欲を言えば、もう少し「ふくらみ」が欲しい気がした。いくつかの設定の妙味が急転していく物語の展開の中で解消されてしまっていて、たとえば、料理屋の息子であったが、親も妻も何かの毒に当たって死んでしまったために料理屋をやめて寺子屋の師匠をしている夫の「鉄幹」と「一乃」の夫婦のこと、後半に出てくる花火職人と「一乃」が住む裏店で産婆をしている女性とのこと、そうしたことに「ふくらみ」が欲しい気がしたのである。

 表題の「はぐれ牡丹」というのは、その花火職人が拐かされた少女を救い出すために、彼がかつて愛した産婆を通しての「一乃」の依頼を受けて、自分の職と人生を賭けて打ち上げる花火のことであり、その産婆が遠くから打ち上げられた花火を眺める場面が事件の結末の場面として描かれるだけに、そこにもう少し「ふくらみ」があって、二人の姿がさらに深く描き出されればいいのに、と思うのである。

 ともあれ、作品の主人公と同じように、作品も一直線で突っ走り、明快に終わる。作者の作品の中では特異な作品でもあるだろう。それにしても、今日は底冷えのする日になった。

2011年2月10日木曜日

米村圭伍『おたから蜜姫』

 昨日あたりから再び寒さが戻ってきて、夜は雪になるという予報も出ている。三寒四温というにはあまりにも寒さが厳しい気もするが、そこはかと春の近さを感じないわけではない。

 三日間ほどかけて米村圭伍『おたから蜜姫』(2007年 新潮社)を読んでいた。これは『おんみつ蜜姫』に続く「蜜姫」シリーズとでも言うべきものの2作目に当たる作品だが、米村圭伍らしい、かなりしっかりした歴史考証に基づきながらも、そこから自由奔放に「噺」として面白おかしく展開して、ある場合には風刺を効かし、ある場合には奇想天外な発想をして冒険譚のようにして語っていく作品で、本書では「かぐや姫」として名高い『竹取物語』の解釈が重要な要素となっている。

 主人公は九州豊後の小藩である温水藩(ぬくみずはん-作者が創作したもので、温水藩は作者がこれまで描いてきた風見藩と海を隔てて隣接しているという設定になっており、蜜姫は風見藩主の後妻になるという設定になっている)の「蜜姫」で、女ながらに剣士の格好をして剣を振るい、冒険好きのおてんば姫である。この姫の母親の「甲府御前」がまた一風変わっていて、甲斐の武田家の血筋を引き、学識豊かで頭脳明晰でありつつ、自由奔放で、蜜姫を使って難問を解決していくという母娘の名コンビを作っていく魅力的な女性である。

 第一作の『おんみつ蜜姫』では、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗(1684-1751年)の時に吉宗の御落胤を語った「天一坊事件」を解決し、甲府御前が武田家の家宝である「大鎧(おおよろい)」を発見した展開になっているらしい。この武田家家宝の大鎧は、実際に甲府市の菅田天神社の所蔵として現存する。

 本作では、その甲府御前の知恵と蜜姫が、仙台の伊達家から蜜姫の婚約者である風見藩主に申し出られた結婚話に絡んで、『竹取物語』に記されたかぐや姫の求婚者への要求であった五つの宝、「仏の石の鉢」、「蓬莱の玉の枝」、「火鼠の皮衣」、「龍の顎の五色に光る玉」、「燕の子安貝」の謎を探っていき、ついには武田家の隠し金や、江戸幕府の初期に幕府の財政体制を確立し金本位制を敷く功績を挙げ、勘定奉行や老中にまでなりながらも、死後に家康によって断罪された大久保長安(1545-1613年)の隠し遺金の探索にまでたどり着く壮大な歴史ドラマを演じていくのである。

 甲府御前は、数々の古典を探り、『竹取物語』が、大陸渡来の金属製錬技術をもった独立を重んじる迦具夜(かぐや)一族と、それを支配して金属製錬技術を手に入れようとした大和朝廷との闘いを描いたものであり、その迦具夜一族が自分たちに手を出すとひどい目にあうという警告の意味をこめて語った物語であるという解釈にたどり着くというのである。

 それは一見、荒唐無稽の解釈のように見えるが、古事記や国造り物語などに秘されていた地方豪族と大和朝廷との間の争いや、日本書紀の解釈などでもかなりの地方豪族や渡来人の反抗があったことが伺い知れるので、作者はその延長に『竹取物語』を置いて、こうした話を展開しているのであり、もちろん、「お噺」としての『竹取物語』にこうした歴史的解釈を持ち込むことは無理なことだが、それを承知の上でこうした展開をしていくのである。

 そして、徳川幕府の財務体制を築き、栄華を誇った大久保長安が、流浪の民であった猿楽師の出身であったことから、金山や銀山などを見つけて掘り出すために諸国を流浪する金山衆の頭で、金山衆は迦具夜一族の子孫であり、伊達政宗と結託して徳川幕府の転覆を企み、察知された家康から死後に断罪されて、反逆の芽を摘み取られたのではないかという結論にいたるのである。これも、日本には実際にどこの支配にも入らない「山の民」というのがあったのだから、無謀なこじつけとは言えないところもあるのであるし、実際に長安には幕府転覆の謀反の疑いもあったので、決してこじつけとは言えないところがある。

 実際、大久保長安という人は謎の多い人物だったらしい。彼は武田家の家臣として金山管理や税務などを担当し、武田家滅亡以後に家康に仕え、甲府の治水や新田開発、金山の採掘などに功を収め、やがては家康から佐渡金山などの全国の金銀山の統括や交通網の整備などを任され、里程(尺貫法)を整え、一時は家康の直轄領の実質的な支配を任されるほどだった。彼は病死したが、死後、不正蓄財をしたという理由で彼の7人の男児は処刑され、大久保家は改易されて、家康は、埋葬されて腐敗しかけていた遺体を掘り起こして安倍川のほとりで斬首し、晒し首にしている。この家康の長安に対する激変ぶりの理由には諸説があり、今も謎とされている。彼の墓の所在も不明である。

 こうした歴史を背景に、蜜姫と甲府御前は、『竹取物語』の謎を解いて大久保長安の遺金を探し当てるのだが、遺金探しを企んでいた伊達吉村や徳川吉宗の思惑とは異なり、大久保長安が秘匿していたものは武田家の家宝である御旗であったというオチになっている。

 物語の展開の中で、『古事記』や『日本書紀』はもちろん、『今昔物語』や『源氏物語』は出てくるわ、『宇津保物語』は出てくるわ、道教や除福伝説、埋蔵金秘話まで飛び出し、日本の金山史や江戸幕府の書庫であった紅葉山文庫の言及まで、実に多彩な話が織り込まれ、盛りだくさんで、その中を、蜜姫を巡る人々の姿が滑稽に描かれ、それらが複走しているので、人ごとながら執筆にはかなりの時間を要しただろうと思ったりもする。

 それにしても、『竹取物語』は考えてみれば不思議な物語ではある。本書の『竹取物語』の解釈は、もちろん作者特有の荒唐無稽なものではあるが、なかなか妙味のあるものであった。

2011年2月7日月曜日

坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き まいまいつむろ』

 昨日は曇って、夕方から小雨も降り出す寒い日だったが、今日はよく晴れて、日中は初春の気配が漂う日になっている。窓を開け放って、植物に水をやり、溜まっている事務処理に精を出していた。

 昨夜、休む前にぼんやりテレビを見ながら(「トランスポーター2」が放映されていた)、坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き まいまいつむろ』(2010年 徳間文庫)を読んだ。『うぽっぽ同心十手綴り』に続く、「十手裁き」のシリーズの2作目ではないかと思うが、読んでいて、ところどころに文章が荒れて表現が粗雑になっている箇所があり、「?」と思うところもあった。しかし、表題作にもなっている第三話「まいまいつむろ」の結末部分は、なかなか妙味のある圧巻だった。

 出世や、袖の下を取って金を稼ぐことにも全く関心がなく、ただのんびり浮かれ歩いているように見えるところから「うぽっぽ」と綽名されている南町奉行所臨時廻り同心の長尾勘兵衛は、情けをかけていた掏摸の名人が殺された事件から、眺望がよいことで高値を見込まれた旗本拝領地の権利書を巡る争いがあることを知り、献上品などを安く買い取ってそれを他の大名や旗本に売る「献残屋」が裏で画策していたことを知っていく(第一話「冥土の鳥」)。

 また、見込みのある若い同心が、手柄を焦るあまりに、魚問屋の金蔵に強盗が入ったというでっちあげ事件を仕組んだ魚問屋とその魚問屋を金蔓にしていた上役の与力に利用されているのを、犯人とされた男の人柄をかっていた長尾勘兵衛が、その事件の真相を丹念に探り出して、厳しく、そして温かく見守っていくのが第二話「夜鰹」である。

 そして、第三話「まいまいつむろ」は、上役の密貿易の収賄事件に連座して改易され、息子を養子に出さざるを得ずに幇間となり、人柄のよさと「まいまいつむろ(蝸牛)」の格好をするのがうまくて慕われていた男が、養子に出した息子が養子先の藩内で手ひどいいじめにあうのを知り、息子を助けるためにいじめていた藩士たちを密かに殺していく事件を綴ったもので、長尾勘兵衛は、丹念な捜査からその事件の真相を知っていくのである。殺された藩士たちは素行もひどく、殺されても当然の人間たちだったように思われる。

 だが、息子を手ひどくいじめていた藩士たちを殺していた幇間は、長尾勘兵衛の人柄に打たれて、彼に事件の手がかりを残していき、二人のそうした呼吸の中で、最後には捕縛されることを望んでいたふしがあるので、勘兵衛は、その望どおりに彼を捕縛する。

 元は御船手の武士であった幇間は、市中引き回しの磔の裁きを受け、市中を引き回されていくが、途中の泪橋で、父親の思いを知った息子が正座してこれを見送っていく。そこには子を思う父親の姿と、それを知った息子の姿が、幇間の人柄をしたっていた人たちの潮来節の流れる中で描き出されている。その場面は圧巻と言える気がする。場所が、刑場に向かう者が最後の別れをする「泪橋」というのもいい。

 作者は、その場面を描くために、通常では、ある藩の藩士が事件を起こした場合には、藩の体面から事件が公になることはないが、あえて、こうした展開にしたのではないかと思う。

 全体的に、物語の展開は変わらずに丁寧なのだが、少し描写に粗雑さを感じながら読み進めていたところ、最後の第三話「まいまいつむろ」で、主人公の「うぽっぽ同心」の情け深い生き方と、子を思って殺人を犯す「まいまいつむろのおっちゃん」との間の目に見えない心情の交流があって、それが描かれ、そして、最後の市中引き回しの場面があり、人情時代小説の妙味を感じることができた。

 ちなみに、「うぽっぽの旦那」である長尾勘兵衛には孫娘ができて、雛人形を買いにいったりするが、そのとき、雛人形屋の主人が「可愛いお孫さんのためならば、ここはひとつ、最上級のお品を割安にてご提供いたしましょう」と言ったとき、「気もちはありがてえが、値引いた雛を買ったところで御利益はねえ。人には身の丈ってもんがある。三十俵二人扶持で買える品を選んで欲しい」と言うくだりなど(21ページ)、この主人公を素晴らしく明瞭に描き出していて、それがこの主人公を魅力的な人物にしているように思われた。

 自分の身の丈にあったものを買う。それは自分に厳しい生き方からしか生まれてこない姿勢であるに違いないので、これはこの主人公の生き方を明瞭に表していると言えるだろう。もっとも、そのあとに続けられる説明的な言葉は抜きにしてだが。

 今日は天気もいいので、予定を少しキャンセルして散策に出よう。陽の光を浴びることは素敵なことだと思っている。どこかの庭先で梅が開いているかも知れない。

2011年2月5日土曜日

井川香四郎『御船手奉行うたかた日記 風の舟唄』

 立春の声を聞いて、日中は少し春を感じさせる陽気になって梅がちらほらと咲き始めている。寒さが厳しい中で清楚な花をつける一重の白梅が好きで、枝垂れ梅を鉢植えにしていたのだが、我が家の梅はなかなか花をつけてくれない。植え替えたり肥料をやったりする手入れを怠ったせいだろう。

 昨日、図書館に行って目についた井川香四郎『船手奉行うたかた日記 風の舟唄』(2010年 幻冬舎時代小説文庫)を借りてきて読んだ。

 「船手奉行」もしくは「船奉行」は、江戸時代の徳川幕府では「船手頭」と呼ばれ、元々は徳川の水軍で、軍艦の管理と海上輸送の任についていた。しかし、太平が続く中で水軍としての役割がなくなり、たとえば世襲が認められていた船手頭の筆頭である向井家は、将軍が乗船する御召船の管理・運営などの役職をしていた。船手頭の下には、普通は船手同心30名、船頭などの水主50人がつけられており、海上輸送の荷改めなども船奉行の管轄であった。もちろん、各藩にも船手奉行(船奉行)が置かれていたが、組織構造と役割は概ね幕府の組織を踏襲したものとなっていった。

 江戸は河川も多く、堀割などの水路が発達し、現在のベネチア以上の海上都市でもあり、水路を利用した輸送手段が活発に取られていたので、船奉行の役割は重要であったが、太平が続く中で荷改めなどもほとんど形骸化し、船手同心の質も悪く、町奉行所の同心よりも下位に見られていた。下位の御船手は囚人の海上輸送などにも携わっていたので、「不浄役人」と蔑まれたりもした。

 こうした船手同心に着目し、それを主人公に設定した作者の着想はなかなかのもので、しかも、純真で正義感が強く、いささか青臭い青年が新人同心としてそれまでの因習を破りながら、その真っ直ぐさを発揮して事件に当たっていき、徐々に成長していく姿として物語を展開しているので、シリーズ物としての妙味があると言えるような気がした。

 巻末に収録されている出版社の広告を見れば、本書はこのシリーズの6作目で、『いのちの絆』(第1作)、『巣立ち雛』(第2作)、『ため息橋』(第3作)、『咲残る』(第4作)、『花涼み』(第5作)に続くものだということがわかるが、前作を全く読んでいないので、作品の登場人物の人間関係が、いまひとつ把握しがたい気がしないでもない。

 本書では「帆、満つる」(第一話)、「にが汐」(第二話)、「せせなげ」(第三話)、「風の舟唄」(第四話)が収められ、豪商の手を借りて幕府の若年寄(幕臣の支配)となった傲慢な大名が花火見物のために幕府御用船を出して船上で宴を催していたところ、地震があって津波を受け、船が転覆しそうになり、傲慢さに業を煮やしていたにも関わらず、護衛を命じられていた主人公の船手同心である早乙女薙左(さおとめ なぎさ)の、何事にも公平で生命を重んじる働きで助けられ、改心していく話(第一話)から始められている。

 第二話「にが汐」は、手柄を焦ったために強盗に女房を殺された岡っ引きが、その復讐のために、その強盗の昔の友人ではあったが何の関係もない男たちを罠に嵌めて復讐心を満たそうとしていたのを早乙女薙左が、持ち前の正義感と情けで見破っていく話であり、第三話「せせなげ」は、盗んだ金を貧しい者に配っていた「竜宮の辰蔵」と呼ばれる強盗が両替商から大金を盗み出したということで、町方がその犯人を捕らえるが、薙左がよく調べてみると、そこには裏がありそうで、両替商は旗本からの借り入れを断るために贋金を作り、強盗事件をでっちあげようとしたことがわかり、町方もそれに一枚かんで犯人をでっちあげようとしていたことがわかっていく話である。表題の「せせなげ」は小さな溝の下水の流れを表す言葉で、「せせなげ」のようにして生きている人々の側に立って真相を突きとめ、傲慢な町方と渡り合っていく主人公の姿が描かれていくのである。

 第四話「風の舟唄」は、川船で行商をしている子どもが、遊女が監禁されたようにして暮らしていかなければならない「雪蛍」と呼ばれる岡場所の遊女を逃がすことが事件の発端として語られる。遊女は少年の手によって逃れようとするが、追いかけてきた忘八(遊女屋の仕事をしている男衆)に捕まる。しかし、その忘八が殺され、逃げた遊女が犯人として町方に捕らえられてしまうのである。川船で行商をしている子どもと親しかった早乙女薙左は、真相究明に立ち上がり、ついには遊女屋に単身で乗り込んでいく。そしてそこで「竜宮の辰蔵」と呼ばれる強盗もいて、彼が逃れるために火をつけ、それを見逃して「雪蛍」という岡場所を壊滅させていくのである。

 全体的に、船手同心という役職に、真っ直ぐ、持ち前の正義感を発揮しながら取り組んでいく青年と、その青年を温かく見守る船手奉行所の奉行を初めとする古参の同心たちや、彼を気に入っている船頭たちや周囲の人々、町方との対決などが骨格としてあり、第一話では、江戸の町政の要として認められ、また権威づけられている町年寄とその娘「おかよ」が登場し、「おかよ」は早乙女薙左を自分の婿にすると言うほど気に入って、彼を助けていくようになり、その恋のいく末なども織り込まれて、なかなか味のあるものになっている。

 しかし、主人公の早乙女薙左が正義感の塊で直進する姿が受け入れられたり、武術の達人であったり、もののわかった奉行や先輩たちがいて、あるいは反対の傲慢な人間の姿が絵に描いたような傲慢さを発揮したり、薙左が主張する正義や情けも、どこか類型的で深みにかけるような気がしないでもない。

 たとえば、些細なことなのだが、第四話「風の舟唄」でも、逃げて捕らえられた遊女が薙左に、「私はただ、普通の幸せを掴みたかった・・・惚れた人と所帯を持って、可愛い子を儲けて、平凡で、親子水入らずで・・・凪いだ海のように、ゆったりした暮らしの中で、年を重ねて、おばあちゃんになって・・・それだけなのに・・・ぜんぶ逃げちまう」(293ページ)と語るが、苦酸を舐めなければならなかった女性の言葉としては、こういう言葉は作者の勝手な推量による陳腐なお涙ちょうだいの言葉のように思えてしまうのである。

 作者は、テレビ時代劇の「銭形平次」や「暴れん坊将軍」の脚本も手がけているそうだが、一般受けするように作品が構成され、描かれているのが気にならないわけではない。せっかく、御船手という新しい着想だから、もう少し深みが欲しいというのが正直な読後感である。

2011年2月3日木曜日

川田弥一郎『江戸の検屍官 闇女』

 節分になり、暦の上では明日から立春で、ようやくここでの日中の気温が10度前後にまで上がるようになってきたが、寒さを感じることには変わりはない。それでもやはり、二十四節気の通り、水仙がつぼみを膨らませて春の訪れの気配が漂い始めた。

 昨夜遅く、川田弥一郎『江戸の検屍官 闇女』(2000年 講談社 2008年 講談社文庫)を読み終えた。文庫版で580ページの長編で、物語の展開がゆっくり進められるので、読み終えるのに少し時間がかかった。

 この作者の作品は初めて読むが、文庫版に収められている細谷正充という人の解説によれば、作者は1948年生まれの現役の外科医で、医学ミステリーを執筆し、1992年に『白く長い廊下』で第38回江戸川乱歩賞を受賞され、1994年『赤い闇』から時代医学ミステリーの作品を発表されているらしい。

 本書は、「江戸の検屍官」というシリーズで、本書の前には『江戸の検屍官』(1997年 祥伝社)、『銀簪(ぎんかんざし)の翳り』(1997年 読売新聞社)の2作があるようで、本書の後にも『江戸の検屍官 女地獄』(2001年 角川春樹事務所)が出されているらしい。

 このシリーズの主人公は、検屍ということに特別にこだわりをもって事件の真相解明に当たる北町奉行所の定町廻り同心北沢彦太郎という人物で、中国の法医学書である『無冤録』を訳した検屍の教典ともいうべき『無冤録述』を手本にして、書名の通り、冤罪を出さないように十二分に死体を調べて真実を明らかにしていくことを心がけている人物である。冤罪を出さないことを、本書ではその「冤」という漢字から「兎に帽子をかぶせない」という表現で語られる。つまり、科学的・客観的捜査方法を可能な限り採っていくという江戸時代の同心の設定としては珍しい設定である。

 彼には、時に彼に重要な助言を与える妻の「お園」(本書では身重になっている)と娘の「お近」があり、娘の「お近」も父親の彦太郎が取り扱う事件に関心を持ったり、意見を言ったりする、そういう家庭である。そして、彼が検屍や事件解決のために頼りにしている医者の玄海と枕絵師の「お月」がいる。医者の玄海は、女好きで、すぐに女性に手を出す人物だが、医者としても検屍の能力は抜群で、そこから様々な推理を彦太郎に語ったりする。「お月」は、男を知らない生娘だが、男女交合の枕絵を描くことを生業として、性器や男女交合の姿態に関心が強く、彦太郎に惚れていて、その依頼で似顔絵などを描いて彦太郎を助けていく。「お月」はことあるごとに彦太郎に処女をささげようと誘いをかけている。

 こうした主要な人物設定の中で、北沢彦太郎が難事件に当たっていくのだが、彼は、毒殺死の可能性を調べるために銀の簪を遺体の口や肛門に差し入れて見ることから「銀簪の旦那」とも呼ばれている。その詳細な検屍方法が、外科医の作者らしく、詳しく何度も描かれている。

 本書で取り扱われる事件の発端は、自殺、他殺のどちらともとれる状態で水茶屋勤めの娘の死体が見つかった事件で、詳細な検屍や可能性をひとつひとつ推理していく中で、彦太郎は、初めはそれを自殺ではないかと思っていたが、その娘と関係を持っていた岡っ引きの鶴次郎が殺され、さらにその鶴次郎が関係を持っていた女性も殺され、彦太郎の捜査が伸びていく度に死人が出ていくという連続殺人事件へと発展していく。

 ふとしたことで彦太郎が助けた「おいね」の行方不明の姉の「お袖」も事件に関係しているように思われ、事件の謎が深まっていく。彦太郎はひとつひとつ地道な捜査を続けていくのである。そして、ようやく事件の真相に行き当たる。そこには、男と女のどろどろとした色欲が渦巻いていた。

 本書で取り扱われるのが、こうした男と女の色欲から出てきた連続殺人事件であるだけに、その展開を綴る表現に重いものがあり、真相に迫る捜査の仕方も地道なだけに、たとえば、せっかく銀簪という独特の検屍道具を使って毒殺を明白にしていくにしては、江戸時代に使われていた毒の種類には限りがあり、しかもなかなか手に入れることができなかったのだから、その毒の入手先を探っていくことで犯人に行き当たっていくというのが常道ではないかと思うが、本書ではその方法は採られずに、ひとりひとりの被疑者と思われる人物に細かく当たる方法が採られ、人間模様を色濃く描き出そうとしているなどがあって、しかもその人間模様が色欲を中心にして描かれるので、事件解明後でも重さが残ってしまうような気がしないでもない。

 ただ、好色だが優れた医学判断をしていく医者の玄海や、目の前で男女を交合させてそれを描いていく枕絵師の「お月」という女性などはなかなか魅力的で、真面目でひたむきに事件の捜査に当たる主人公の彦太郎といいコンビネーションがあって、作品に面白さを増している。それらの始まりを記すと思われる第1作『江戸の検屍官』を読んで見たいと思った。性に対する開放的な姿勢は、作者が医者であるだけに、その視点で描かれるのも悪くない。