昨夜激しく降り続いた雨脚も少し弱まって、ただ鬱陶しい梅雨空が広がる日になっている。このところ月曜日はひどく疲れを覚えるようになってきているのだが、今日のような鬱陶しい天気の中ではなおさらである。ただ、近所の道路脇に植えられた一株の紫陽花が色鮮やかな清涼感を醸し出してくれている。紫陽花には、妙に人の悲しみを癒す力があるような気がする。
昨夜、半分眠りながら降り続く雨音を聞きつつ、佐藤雅美『魔物が棲む町 物書同心居眠り紋蔵』(2010年 講談社)を読んだ。読んだというよりも、正確には字面を辿っていただけかもしれない。
作者の作品は、これまでにもかなりの数を読んでおり、「物書同心居眠り紋蔵」のシリーズも、主人公の南町奉行所の例繰方同心を務める藤木紋蔵が、時ところかまわず突然居眠りに陥るという奇病のため「居眠り紋蔵」と呼ばれ、そのため出世や評価というところからは縁遠いところにあるが、実は、過去の判例(例繰方はその判例を調べて事件の判決を導く)に関する知識と推理力は抜群で、その知識と観察眼を用いて事件を解決していく人物として設定され、奇病のためにいつ首になってもおかしくない状況を戦々恐々としながらも卓越した推理を発揮していく姿が描かれているので、これまでにもこのシリーズを何冊か読んで来た。
この作品を読んで改めて感じたのだが、以前から、佐藤雅美の文体は事実を淡々と述べていくような文体で、文章の艶というものからは遠いところにあったのだが、この作品ではますます枝葉をそぎ落として冬木立のようになった武骨な文体で出来事が淡々と語られるようになっている。ある意味で、まるで刑事調書のような観さえある。主人公の描き方も、どこか冷めたところがある。
ここには「十四の侠客岩吉の本音」、「独断と偏見と冷汗三斗」、「親殺し自訴、灰色の決着」、「御三家付家老五家の悲願」、「魔物が棲む町」、「この辺り小便無用朱の鳥居」、「仁和寺宝物名香木江塵の行方」、「師走間近の虎が雨」の八作が収められているが、それぞれの顛末があまりにも淡々と綴られているので、特にこれといった記憶には残りにくいものとなっている。
もっとも、「居眠り紋蔵」自身も、あまり事件には関わりたくないと思っているので、こうした記述は主人公にあった記述の仕方ではあるだろう。しかし、このシリーズの初期の頃に比べれば、少なくともわたしにとっては面白味がなくなったような気がする。
こうした感想は、読者であるわたしの状態や状況にもよるのだが、設定や主人公像が面白いだけに、枯れすぎていて、ちょっと残念な気がした。
2011年6月13日月曜日
2011年3月19日土曜日
佐藤雅美『揚羽の蝶 半次捕物控』(上・下)
東日本全体が陥っている未曾有の危機的状況の収拾は、徐々に救援の手が差し伸べられているとは言え、未だに目途すら立たない状態が続いている。ここでも東京電力による計画停電は続いているし、福島の原子力発電所から漏れ出ている放射能被害についての無知から起こる風評被害や、食料品の売り切れ、ガソリンの手に入れにくさなどがあるし、ほとんどの経済活動も止まっている感すらある。ようやく体制が整い始めたので救援物資を送ることにしたが、関東でこんなに経済活動が停滞したら半年先に困難が予想される危惧もある。
わたし自身の個人的体調も行きつ戻りつで、咳がなかなか止まらない。もっとも咳が止まらないのは愚かな喫煙の習慣を止めないからだろうが、いくつかの仕事をキャンセルして自宅に籠もる日々が続いている。昨日、少し出かけた方がよいと思って、あざみ野の山内図書館まで行ったら、計画停電で休館中だった。ここは停電していなかったので大丈夫かと思っていたが、浅はかだった。
夜は、テレビのニュースを見て、時折入る緊急地震速報に目をやりながら、少し買い置いていた文庫本を読み続けているが、集中して読んでいるわけではない。それでも、日常を粛々と営むことが大切だと思い返して、これを記している。
そういう中で、佐藤雅美『揚羽の蝶 半次捕物控』(1998年 講談社 2001年文庫版上下巻)を読んだ。これは、このシリーズの2作目で、現在まで出されている7冊のうち、第4作の『疑惑』を除いて、第1作『影帳』、第3作『命みょうが』、第5作『泣く子と小三郎』、第6作『髻塚不首尾一件始末』、第7作『天才絵師と幻の生首』の6作品を読んだことになる。これらの作品の中で、本作は最も長い作品になっている。
本作は、江戸中期(家斉の時代)に北町奉行所の定町廻り同心岡田伝兵衛から岡っ引きとしての手札をもらっている半次が、大店の娘が痺れ薬を飲ませられて強姦された事件の犯人が備前岡山藩の中にいるらしいということで、奉行の密命を帯びて、備前岡山藩の参勤交代の人足にまぎれて岡山まで行かなければならないというところから始まり、やがては岡山藩松平家のお家騒動にまで巻き込まれていくというもので、半次自身の出生の秘密とも絡んで、孤軍奮闘していく様が克明に描き出されている。
江戸時代の中期ともなると、武家の家制度が形骸化し初め、跡継ぎのいない武家は断絶の憂き目を見なければならなくなるので、諸藩でも跡継ぎを巡るお家騒動が頻発してきた。また、特に将軍徳川家斉は、別名「オットセイ将軍」とも呼ばれたほどの子だくさんの将軍で、生まれた子どもを次々と各藩に押しつけたことなどもあり、参勤交代や江戸屋敷(徳川幕府は各藩の妻子を江戸に一種の人質の形で置くことを命じた)の維持などに莫大な費用がかかるようになり、財政の逼迫も起こり始めた。藩主そのものは実政とは無縁のものとなり始めたが、それでも藩主の問題は藩の存亡の問題でもあったので、いくつもの藩で藩主を巡るお家騒動が藩の存亡をかける形で起こってきたのである。
制度が形骸化されると経済が逼迫するのは必然で、大名家のお家騒動は、ほとんどが経済的問題に左右されて起こってきていたのである。
作者はこうした状況をよく調べ、参勤交代の実像も明白にした上で、備前岡山藩松平家の中で起こった巧妙に仕組まれた跡目相続を巡る争いを、岡っ引きである主人公の半次の関わりと姿を通して物語として展開しているのである。半次は、このお家騒動にていよく利用されていくのである。そのことに対する反骨と武家の理不尽さに孤軍奮闘して立ち向かっていくのである。
半次自身も、生命の危機を経験したり、娘が誘拐されるという事態を迎えたりしながら、娘の救出に生命をかけつつ、自分の出生が備前岡山藩松平家と関わりがあることを知り、お家騒動の決着へと向かっていく。跡目相続を巡るお家騒動を起こす人間たちは、それぞれが自分の我欲と思惑だけで動いているのであり、そのあたりの身勝手さも明瞭に示されていく。これは、このシリーズの作品の中でも傑作に類する作品だろう。
この世の多くのことは、それぞれの思惑が複雑に絡み合いながら動いていく。そのあたりの機微が絶妙に描き出される。ただいまの状況も、日本政府や各政党、企業としての東京電力のそれぞれの思惑が異なって展開されていることに変わりはない。
それにしても、自分の不平不満を関係各所に殺到させる人たちの精神構造はどうなっているのだろうかと思ったりもする。一方で、被災地の中学生や高校生たちが、自分も被災しながらも懸命に身体を動かして助けあう姿に胸を打たれる。彼らの忍耐と純朴さや素直さが今の状況を救うと痛感している。忍耐し、分かち合い、励まし合う人間の豊かな姿を彼らから教えさせられる思いがする。
わたし自身の個人的体調も行きつ戻りつで、咳がなかなか止まらない。もっとも咳が止まらないのは愚かな喫煙の習慣を止めないからだろうが、いくつかの仕事をキャンセルして自宅に籠もる日々が続いている。昨日、少し出かけた方がよいと思って、あざみ野の山内図書館まで行ったら、計画停電で休館中だった。ここは停電していなかったので大丈夫かと思っていたが、浅はかだった。
夜は、テレビのニュースを見て、時折入る緊急地震速報に目をやりながら、少し買い置いていた文庫本を読み続けているが、集中して読んでいるわけではない。それでも、日常を粛々と営むことが大切だと思い返して、これを記している。
そういう中で、佐藤雅美『揚羽の蝶 半次捕物控』(1998年 講談社 2001年文庫版上下巻)を読んだ。これは、このシリーズの2作目で、現在まで出されている7冊のうち、第4作の『疑惑』を除いて、第1作『影帳』、第3作『命みょうが』、第5作『泣く子と小三郎』、第6作『髻塚不首尾一件始末』、第7作『天才絵師と幻の生首』の6作品を読んだことになる。これらの作品の中で、本作は最も長い作品になっている。
本作は、江戸中期(家斉の時代)に北町奉行所の定町廻り同心岡田伝兵衛から岡っ引きとしての手札をもらっている半次が、大店の娘が痺れ薬を飲ませられて強姦された事件の犯人が備前岡山藩の中にいるらしいということで、奉行の密命を帯びて、備前岡山藩の参勤交代の人足にまぎれて岡山まで行かなければならないというところから始まり、やがては岡山藩松平家のお家騒動にまで巻き込まれていくというもので、半次自身の出生の秘密とも絡んで、孤軍奮闘していく様が克明に描き出されている。
江戸時代の中期ともなると、武家の家制度が形骸化し初め、跡継ぎのいない武家は断絶の憂き目を見なければならなくなるので、諸藩でも跡継ぎを巡るお家騒動が頻発してきた。また、特に将軍徳川家斉は、別名「オットセイ将軍」とも呼ばれたほどの子だくさんの将軍で、生まれた子どもを次々と各藩に押しつけたことなどもあり、参勤交代や江戸屋敷(徳川幕府は各藩の妻子を江戸に一種の人質の形で置くことを命じた)の維持などに莫大な費用がかかるようになり、財政の逼迫も起こり始めた。藩主そのものは実政とは無縁のものとなり始めたが、それでも藩主の問題は藩の存亡の問題でもあったので、いくつもの藩で藩主を巡るお家騒動が藩の存亡をかける形で起こってきたのである。
制度が形骸化されると経済が逼迫するのは必然で、大名家のお家騒動は、ほとんどが経済的問題に左右されて起こってきていたのである。
作者はこうした状況をよく調べ、参勤交代の実像も明白にした上で、備前岡山藩松平家の中で起こった巧妙に仕組まれた跡目相続を巡る争いを、岡っ引きである主人公の半次の関わりと姿を通して物語として展開しているのである。半次は、このお家騒動にていよく利用されていくのである。そのことに対する反骨と武家の理不尽さに孤軍奮闘して立ち向かっていくのである。
半次自身も、生命の危機を経験したり、娘が誘拐されるという事態を迎えたりしながら、娘の救出に生命をかけつつ、自分の出生が備前岡山藩松平家と関わりがあることを知り、お家騒動の決着へと向かっていく。跡目相続を巡るお家騒動を起こす人間たちは、それぞれが自分の我欲と思惑だけで動いているのであり、そのあたりの身勝手さも明瞭に示されていく。これは、このシリーズの作品の中でも傑作に類する作品だろう。
この世の多くのことは、それぞれの思惑が複雑に絡み合いながら動いていく。そのあたりの機微が絶妙に描き出される。ただいまの状況も、日本政府や各政党、企業としての東京電力のそれぞれの思惑が異なって展開されていることに変わりはない。
それにしても、自分の不平不満を関係各所に殺到させる人たちの精神構造はどうなっているのだろうかと思ったりもする。一方で、被災地の中学生や高校生たちが、自分も被災しながらも懸命に身体を動かして助けあう姿に胸を打たれる。彼らの忍耐と純朴さや素直さが今の状況を救うと痛感している。忍耐し、分かち合い、励まし合う人間の豊かな姿を彼らから教えさせられる思いがする。
2010年8月20日金曜日
佐藤雅美『口は禍の門 町医北村宗哲』
昨日は、予報では久方ぶりの雨と出ていたのだが、結局は降らずに、蒸し暑さだけが漂う日となった。今日も、午前中は少し曇っていたが、暑い日差しが差し始めている。昨日、お隣の「TAYA」という美容室で3ヶ月ぶりに髪を切り、ナジル人ではないが少し弱体化しているのを感じたりした。
佐藤雅美『口は禍の門 町医北村宗哲』(2009年 角川書店)を読んだ。巻末の書物広告によれば、このシリーズでは、先に読んだ『町医 北村宗哲』(2006年)との間に、もう一冊『やる気のない刺客 町医北村宗哲』(2008年)というのが書かれているらしいが、そちらはまだ読んでいない。
これらは、佐藤雅美の作品の中で『啓順凶状旅』(2000年 幻冬舎)以来の一つの流れを作っており、医者であると同時にやくざ(破落戸)の世界にも足を踏み入れている人物が主人公で、江戸時代の医療(漢方や本草学)と公事(訴訟事件)に詳しい著者の知識を駆使して、様々な状況の中でやくざ渡世に身を置かなければならなくなった過去のある人間が、どこまでも市井の町医として幕末の動乱期を生きようとする姿を比較的シリアスに描いたものである。
だから、作品には常に3つの世界が描かれる。一つは、漢方医療の世界で、当時起こり始めていた蘭学医療(西洋医療)との問題で、主人公の北村宗哲は当時の医学会の権威でもあった御典医(江戸幕府-徳川家のお抱え医者)とも関係していることから、医療を巡る政治的な問題や、町医としての市井の中での医療事情などに直接的に関係している。そういう中で、宗哲はどこまでも一介の町医としての姿勢を貫こうとするのである。
二つ目は、当時勃興してきたやくざ渡世に生きる人間同士の抗争に絡む世界で、まさに社会の閉鎖状況が重く垂れ込めた時代の中で、次第に、食べることもできずに増加してきた無宿人の世話をし始めて、町の顔役となり始めていた渡世人の世界の勢力争いに絡む世界である。宗哲の前身の啓順は、竹居の吃安(たけいのどもやす)(1811-1862年)とも関係しており、この時代の侠客としては清水の次郎長が後に出てきて社会事業を行うなどなっていくが、そうした世界が描き出されるのである。
そして、三つ目は、町医であることから刃傷沙汰を含む様々な事件と関係し、とくに公事にまつわった事件の顛末が医者としての客観的な視点で述べられていく世界である。そこには、人と人との欲と争いが渦巻いている。
本書では、市中で蘭学医療が流行り初め、江戸幕府が蘭学医療を表医療(江戸城での医療)で禁止し、江戸市中での渡世人の世界でも代替わりが起こり始め、抗争が活発化し、時代がますます混乱期に入っていく時の状況が、それぞれの人物を通して描き出されている。
こういう中で、宗哲は、どこまでも自分の本分を漢方医と定め、どの世界からも一歩身を引いたような客観的な姿勢を保とうと気を使いながら過ごしていく。文体も、心情的な表現がどこにもなくて、枯れたように淡々と事件が述べられていくようで、それでいて人の嘘や飾りが見抜かれていくような、どこか主人公の人間味を感じさせる空気を放っている。
考えてみれば、佐藤雅美の作品には『物書同心居眠り紋蔵』のシリーズでもそうだが、様々な事件に巻き込まれながらも、どこか身を引いた人物を描いた作品が多いような気がする。それは、権威や権力とは無縁ではあるが有能である人間のひとつの身の処し方の知恵でもあるだろう。事件の渦中や狭間の中で客観性を冷静に保つことには意味がある。問題は、その人がどこに価値を見出すかであり、居眠り紋蔵は人の情と家族との絆の中に、北村宗哲は、町医に徹しようとするところに、その姿が描かれているのである。
だから、こういう作品を読むと、翻ってわたし自身がどこに本当に価値を見出そうとしているのかを考えさせられたりもする。
そのことはともかくとして、佐藤雅美が独自の世界をその知識と文体で作っていることに間違いはなく、一つの独自の姿勢をもつ作家ではあるだろうと思う。
佐藤雅美『口は禍の門 町医北村宗哲』(2009年 角川書店)を読んだ。巻末の書物広告によれば、このシリーズでは、先に読んだ『町医 北村宗哲』(2006年)との間に、もう一冊『やる気のない刺客 町医北村宗哲』(2008年)というのが書かれているらしいが、そちらはまだ読んでいない。
これらは、佐藤雅美の作品の中で『啓順凶状旅』(2000年 幻冬舎)以来の一つの流れを作っており、医者であると同時にやくざ(破落戸)の世界にも足を踏み入れている人物が主人公で、江戸時代の医療(漢方や本草学)と公事(訴訟事件)に詳しい著者の知識を駆使して、様々な状況の中でやくざ渡世に身を置かなければならなくなった過去のある人間が、どこまでも市井の町医として幕末の動乱期を生きようとする姿を比較的シリアスに描いたものである。
だから、作品には常に3つの世界が描かれる。一つは、漢方医療の世界で、当時起こり始めていた蘭学医療(西洋医療)との問題で、主人公の北村宗哲は当時の医学会の権威でもあった御典医(江戸幕府-徳川家のお抱え医者)とも関係していることから、医療を巡る政治的な問題や、町医としての市井の中での医療事情などに直接的に関係している。そういう中で、宗哲はどこまでも一介の町医としての姿勢を貫こうとするのである。
二つ目は、当時勃興してきたやくざ渡世に生きる人間同士の抗争に絡む世界で、まさに社会の閉鎖状況が重く垂れ込めた時代の中で、次第に、食べることもできずに増加してきた無宿人の世話をし始めて、町の顔役となり始めていた渡世人の世界の勢力争いに絡む世界である。宗哲の前身の啓順は、竹居の吃安(たけいのどもやす)(1811-1862年)とも関係しており、この時代の侠客としては清水の次郎長が後に出てきて社会事業を行うなどなっていくが、そうした世界が描き出されるのである。
そして、三つ目は、町医であることから刃傷沙汰を含む様々な事件と関係し、とくに公事にまつわった事件の顛末が医者としての客観的な視点で述べられていく世界である。そこには、人と人との欲と争いが渦巻いている。
本書では、市中で蘭学医療が流行り初め、江戸幕府が蘭学医療を表医療(江戸城での医療)で禁止し、江戸市中での渡世人の世界でも代替わりが起こり始め、抗争が活発化し、時代がますます混乱期に入っていく時の状況が、それぞれの人物を通して描き出されている。
こういう中で、宗哲は、どこまでも自分の本分を漢方医と定め、どの世界からも一歩身を引いたような客観的な姿勢を保とうと気を使いながら過ごしていく。文体も、心情的な表現がどこにもなくて、枯れたように淡々と事件が述べられていくようで、それでいて人の嘘や飾りが見抜かれていくような、どこか主人公の人間味を感じさせる空気を放っている。
考えてみれば、佐藤雅美の作品には『物書同心居眠り紋蔵』のシリーズでもそうだが、様々な事件に巻き込まれながらも、どこか身を引いた人物を描いた作品が多いような気がする。それは、権威や権力とは無縁ではあるが有能である人間のひとつの身の処し方の知恵でもあるだろう。事件の渦中や狭間の中で客観性を冷静に保つことには意味がある。問題は、その人がどこに価値を見出すかであり、居眠り紋蔵は人の情と家族との絆の中に、北村宗哲は、町医に徹しようとするところに、その姿が描かれているのである。
だから、こういう作品を読むと、翻ってわたし自身がどこに本当に価値を見出そうとしているのかを考えさせられたりもする。
そのことはともかくとして、佐藤雅美が独自の世界をその知識と文体で作っていることに間違いはなく、一つの独自の姿勢をもつ作家ではあるだろうと思う。
2010年6月22日火曜日
佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』
雨模様ではないが湿気のある重い空気と灰色の雲が広がって、梅雨の何とも言えない中途半端な気怠さを感じる日となった。首から左肩の痛みが残っていて睡眠がうまくとれないのか、よけい気怠さを感じてしまう。昨日は、少し事務的な仕事をしながら、先日話をした「カフカ論」の草稿に手を入れたり、加筆をしたりしていたが、中途半端な天気は、人間存在の中途半端な姿を描いたカフカ的な天気だと言えるかも知れない。
先日から佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』(2008年 講談社)を読んでいた。これはこのシリーズの七作目で、今のところこのシリーズでは一番新しい物で、本書には「膏薬と娘心」、「柳原土手白昼の大捕り物」、「玉木の娘はドラ娘」、「真田源左衛門の消えた三十日」、「殺人鬼・左利きの遣い手」、「奇特の幼女と押し込み強盗」、「取らぬ狸の皮算用」、「天才絵師と幻の生首」の八編の短編が収められた連作集で、岡っ引きの半次を引き回し役にしてそれぞれの事件の顛末が述べられたものである。
枯れて乾いたような行為や事情だけを淡々と述べた文章によって、火付けとして捕らえられた娘の事情を明らかにした「膏薬と娘心」、兄弟の犯罪を次々と半次によって暴かれた男が逆恨みして半次を狙ったが、柳原土手で捕まえられた男の事件、「玉木の娘はドラ娘」という囃子詞でうわさ話を振りまいた事件、真田源左衛門という浪人を敵として果たし合いを申し入れたが、仇討ちの場に現れなかった双方の事情を明らかにした「真田源左衛門の消えた三十日」、左利きの遣い手と思われる殺人事件の顛末を暴いた事件、押し込み強盗に入ったが十歳の幼女の勇気によって助かった商家の事件、幼なじみの戯作者と絵師の争いの顛末を記した「取らぬ狸の皮算用」、子どもが描いた生首の絵にまつわる事件、などが語られていく。
作者の佐藤雅美は、以前から、事柄のリアリティーを大事にする作家で、勢い、人間の心情や思い以上に事柄の客観的なことが語られる傾向があったが、本書では、その傾向がますます強くなり、たとえば、このシリーズの初期の頃には、半次の岡っ引きとしての苦労や、生活の苦労、彼自身の女性にまつわる話によって半次が反問していく姿が描かれていたが、本書では、事件の顛末が半次の推理と共に淡々と客観的に述べられるだけになっている。
そのために、わたしのような人間にとって、それぞれの事件に関わる人間の「深み」が描かれずに少々の物足りなさを感じるし、シリーズの重要な脇役として登場する奇異な人物である蟋蟀小三郎の存在にも、彼が金好きで女好き、自分勝手で思い込みが激しいがかなりの剣の使い手で、半次と腐れ縁のようにしてもつれていることが語られはするが、また、ユーモアを添える人物として描かれるが、もう一つ膨らみがあってもいいように思われるのである。
現実性(リアリティー)や客観性を重んじると、なるほど人間の姿は、その行為と彼が語る言葉によってしか表すことができない。その意味では作者がたどり着いている地平は、一つの地平ではあるだろう。行為が存在を規定するあり方は現代の特徴でもある。しかし、人間は行為がすべてではない。また、文学が行為の記録だけとなるなら、それは記録や歴史書であって、文学作品とはならないのではないだろうか。実際の作品では、そのあたりの兼ね合いが難しいところだろうが、枯れた文章に魅力を感じつつも、どこか文学作品としての読後感に薄さを感じてしまう気がするのである。
この作品は、それはそれとして面白く読めるのだが、あまりにも淡々とした記述にそんなことを感じさせられていた。
今日はあざみ野の山内図書館に本を返却しなければならない。昨日が整理日とかで休館だったので、本当は昨日返却予定だったが、いくつかの薬を薬局で買う必要もあり、今日出かけることにした。昨日の夕方は、訪ねてきてくれた中学生のSちゃんに数学の「相似」の話をするついでではあったが、古代ギリシャの初期の哲学たちについて話をした。「相似」は古代ギリシャの初期の哲学者タレスによって使われた方法で、タレスは数学的な「相似」を用いることで、実際に測ることができないピラミッドの高さを測った人だが、この時代の哲学者たちの「観察眼」には恐れ入る。タレスは「観察」による学問の方法を確立した人だと言える。物事をよく観察すること、これが方法と結果を生むということを改めて思う。
先日から佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』(2008年 講談社)を読んでいた。これはこのシリーズの七作目で、今のところこのシリーズでは一番新しい物で、本書には「膏薬と娘心」、「柳原土手白昼の大捕り物」、「玉木の娘はドラ娘」、「真田源左衛門の消えた三十日」、「殺人鬼・左利きの遣い手」、「奇特の幼女と押し込み強盗」、「取らぬ狸の皮算用」、「天才絵師と幻の生首」の八編の短編が収められた連作集で、岡っ引きの半次を引き回し役にしてそれぞれの事件の顛末が述べられたものである。
枯れて乾いたような行為や事情だけを淡々と述べた文章によって、火付けとして捕らえられた娘の事情を明らかにした「膏薬と娘心」、兄弟の犯罪を次々と半次によって暴かれた男が逆恨みして半次を狙ったが、柳原土手で捕まえられた男の事件、「玉木の娘はドラ娘」という囃子詞でうわさ話を振りまいた事件、真田源左衛門という浪人を敵として果たし合いを申し入れたが、仇討ちの場に現れなかった双方の事情を明らかにした「真田源左衛門の消えた三十日」、左利きの遣い手と思われる殺人事件の顛末を暴いた事件、押し込み強盗に入ったが十歳の幼女の勇気によって助かった商家の事件、幼なじみの戯作者と絵師の争いの顛末を記した「取らぬ狸の皮算用」、子どもが描いた生首の絵にまつわる事件、などが語られていく。
作者の佐藤雅美は、以前から、事柄のリアリティーを大事にする作家で、勢い、人間の心情や思い以上に事柄の客観的なことが語られる傾向があったが、本書では、その傾向がますます強くなり、たとえば、このシリーズの初期の頃には、半次の岡っ引きとしての苦労や、生活の苦労、彼自身の女性にまつわる話によって半次が反問していく姿が描かれていたが、本書では、事件の顛末が半次の推理と共に淡々と客観的に述べられるだけになっている。
そのために、わたしのような人間にとって、それぞれの事件に関わる人間の「深み」が描かれずに少々の物足りなさを感じるし、シリーズの重要な脇役として登場する奇異な人物である蟋蟀小三郎の存在にも、彼が金好きで女好き、自分勝手で思い込みが激しいがかなりの剣の使い手で、半次と腐れ縁のようにしてもつれていることが語られはするが、また、ユーモアを添える人物として描かれるが、もう一つ膨らみがあってもいいように思われるのである。
現実性(リアリティー)や客観性を重んじると、なるほど人間の姿は、その行為と彼が語る言葉によってしか表すことができない。その意味では作者がたどり着いている地平は、一つの地平ではあるだろう。行為が存在を規定するあり方は現代の特徴でもある。しかし、人間は行為がすべてではない。また、文学が行為の記録だけとなるなら、それは記録や歴史書であって、文学作品とはならないのではないだろうか。実際の作品では、そのあたりの兼ね合いが難しいところだろうが、枯れた文章に魅力を感じつつも、どこか文学作品としての読後感に薄さを感じてしまう気がするのである。
この作品は、それはそれとして面白く読めるのだが、あまりにも淡々とした記述にそんなことを感じさせられていた。
今日はあざみ野の山内図書館に本を返却しなければならない。昨日が整理日とかで休館だったので、本当は昨日返却予定だったが、いくつかの薬を薬局で買う必要もあり、今日出かけることにした。昨日の夕方は、訪ねてきてくれた中学生のSちゃんに数学の「相似」の話をするついでではあったが、古代ギリシャの初期の哲学たちについて話をした。「相似」は古代ギリシャの初期の哲学者タレスによって使われた方法で、タレスは数学的な「相似」を用いることで、実際に測ることができないピラミッドの高さを測った人だが、この時代の哲学者たちの「観察眼」には恐れ入る。タレスは「観察」による学問の方法を確立した人だと言える。物事をよく観察すること、これが方法と結果を生むということを改めて思う。
2010年4月29日木曜日
佐藤雅美『向井帯刀の発心 物書同心居眠り紋蔵』
二日間降り続いた雨も上がって、今日は気持ちの良い良く晴れた日になった。一昔前は昭和天皇の「天皇誕生日」として祝われ、今は「みどりの日」となった今日は、父の命日でもある。そのせいかどうかは分からないが、昨夜、老いた父と母が遠方の大学に転勤するというわたしを心配している夢を見た。夢の中でわたしは老いた父と母の食事のことを心配していた。そして、時間がなくて飛行場に向かうバス停で老いた父と母を振り返りながらバスに乗り込む所で目が覚めた。
こんな夢にもちろん意味はない。フロイトを用いた心理学的判断もあまり信用していない。最近は眠りが浅いのでこんな夢を見たのだろうが、あまり親孝行もしなかったわたしの幾分の後悔があるのかもしれないと思ったりはする。
それはともかくとして、先ほど気持ちの良い日差しの中で、佐藤雅美『向井帯刀の発心 物書同心居眠り紋蔵』(2007年 講談社)を読み終えた。これは全部で九作あるこのシリーズの八作目で、三作目『密約』、四作目『お尋者』、五作目『老博奕打ち』、そして七作目『白い息』は前に読んで、ここにも記したとおりで、『向井帯刀の発心』は、「与話情浮貸横車(よはなさけうきがしのよこぐるま)」、「歩行新宿旅籠屋」、「逃げる文吉」、「黒川静右衛門の報復」、「韓信の股くぐり」、「どうして九両(くれよう)三分二朱」、「旗本向井帯刀の発心」の7作からなる連作である。
ここに収められているのは「居眠り」という奇病をもつ例繰方同心(判例を調べる同心)である紋蔵の身内、とくに子どもたちにまつわるやっかいな事件を、紋蔵が、父として、その知識と知恵を駆使して収めていく話が全体を貫く筋として置かれ、例によって当時の判例集を基にした江戸市井の公事事件(民事)が描き出されていく。
紋蔵には妻里との間に、紋太郎、紋次郎、稲、麦、妙の五人の子どもたちの他に、父親が旗本の用人で事件を起こして遠島になったためにひとりぼっちになってしまった文吉という子どもがいる。この文吉の養い親になる事情は『密約』ですこぶる感動的に描かれている。長男の紋太郎は、与力の婿養子に出し、長女の稲は、上役の次男と相思相愛となり嫁に出している。そして、今度は学問塾で優秀な次男の紋次郎が、老いて引退を考えている養子にと請われ、これを断ることができずに養子に出すことになる。また、残った男の子の内、文吉は、男儀のある子どもで、江戸の演劇界の顔役である博徒のところへ行くと言う。次女の麦も紋蔵の義父・義母がやっているお茶問屋の跡取りとして婿を迎える話が進んでいく。紋蔵は寂しさを隠しきれない。
そういう中で、火事や風水害が続いたために借金をして悪事に走ることがないように奉行所の与力や同心の内情を探るように密かに命じられ、ふとしたことから、町会所の金を浮貸しして利を図っていた与力のことが発覚していったり、罪を犯した相撲取りの身分を巡っての調べに関わったり、与力の養子となった紋次郎を妬む子どもによるいじめ事件が起こったり、それを巡っての切れ者と噂される与力との確執が起こったり、隠し金のねこばば事件が起こったり、お金がつけられていた捨子をお金目当てで引き取った親が、その子どもに手ひどい仕打ちをして、紋蔵がその子を預かることになったが、その養父母が何者かに殺される事件が起こり、それに重ねて、父親が盗人だったことを知っていた旗本が、何気なく飾っていた掛け軸が盗品であったことがわかって、発心(武家を捨てて僧になること)したが、昔の父親の手先で下男として匿っていた老僕が、実はその子の父親で、安ない親のあまりの仕打ちに腹を立てて殺したことが分ったりして、紋蔵の身辺は大忙しである。
藤木紋蔵は、決して我を張ることはしない。曲げられないことは曲げないし、相手が信じて打ち明けた秘匿しなければならないことは、自分がお役御免になろうとも貫くが、子どもたちにも自分の思いを強制するということはない。「向井帯刀の発心」では、旗本向井帯刀が紋蔵に打ち明けたことを秘匿したために紋蔵の立場は悪くなり、そのためにあれこれと今後のことを悩むが、「知らない」と通し続ける。結局、息子のことで確執していて、紋蔵を窮地に追いやった上役は、文吉を世話することになった演劇界の後ろ盾の博徒に身から出た錆を脅され、閑職に着かされることになるが、紋蔵は、子どもや弱いものを守るためには奔走するが、自らを守るためには決して自ら手を下さない。紋蔵は、損な、不器用な生き方をしている。しかし、紋蔵は飄々と生きていく。
こういう主人公が、魅力がないわけはない。お金に苦労し、役所で仕事上の苦労があり、人間関係での苦労があり、家庭での重荷がある。紋蔵は一つ一つその苦労を彼なりに処理していこうとする。しかし、子どもや家族を思い、捨てられた者を助け出し、愛情を注ぎ、筋を通していく。決して「ずる」をしない。そして、飄々と日々を過ごす。
だから、事件の判例の説明に少し煩わしいところもあるが、このシリーズは面白い。春の気持ちの良い陽だまりの中で読むには最適である。
こんな夢にもちろん意味はない。フロイトを用いた心理学的判断もあまり信用していない。最近は眠りが浅いのでこんな夢を見たのだろうが、あまり親孝行もしなかったわたしの幾分の後悔があるのかもしれないと思ったりはする。
それはともかくとして、先ほど気持ちの良い日差しの中で、佐藤雅美『向井帯刀の発心 物書同心居眠り紋蔵』(2007年 講談社)を読み終えた。これは全部で九作あるこのシリーズの八作目で、三作目『密約』、四作目『お尋者』、五作目『老博奕打ち』、そして七作目『白い息』は前に読んで、ここにも記したとおりで、『向井帯刀の発心』は、「与話情浮貸横車(よはなさけうきがしのよこぐるま)」、「歩行新宿旅籠屋」、「逃げる文吉」、「黒川静右衛門の報復」、「韓信の股くぐり」、「どうして九両(くれよう)三分二朱」、「旗本向井帯刀の発心」の7作からなる連作である。
ここに収められているのは「居眠り」という奇病をもつ例繰方同心(判例を調べる同心)である紋蔵の身内、とくに子どもたちにまつわるやっかいな事件を、紋蔵が、父として、その知識と知恵を駆使して収めていく話が全体を貫く筋として置かれ、例によって当時の判例集を基にした江戸市井の公事事件(民事)が描き出されていく。
紋蔵には妻里との間に、紋太郎、紋次郎、稲、麦、妙の五人の子どもたちの他に、父親が旗本の用人で事件を起こして遠島になったためにひとりぼっちになってしまった文吉という子どもがいる。この文吉の養い親になる事情は『密約』ですこぶる感動的に描かれている。長男の紋太郎は、与力の婿養子に出し、長女の稲は、上役の次男と相思相愛となり嫁に出している。そして、今度は学問塾で優秀な次男の紋次郎が、老いて引退を考えている養子にと請われ、これを断ることができずに養子に出すことになる。また、残った男の子の内、文吉は、男儀のある子どもで、江戸の演劇界の顔役である博徒のところへ行くと言う。次女の麦も紋蔵の義父・義母がやっているお茶問屋の跡取りとして婿を迎える話が進んでいく。紋蔵は寂しさを隠しきれない。
そういう中で、火事や風水害が続いたために借金をして悪事に走ることがないように奉行所の与力や同心の内情を探るように密かに命じられ、ふとしたことから、町会所の金を浮貸しして利を図っていた与力のことが発覚していったり、罪を犯した相撲取りの身分を巡っての調べに関わったり、与力の養子となった紋次郎を妬む子どもによるいじめ事件が起こったり、それを巡っての切れ者と噂される与力との確執が起こったり、隠し金のねこばば事件が起こったり、お金がつけられていた捨子をお金目当てで引き取った親が、その子どもに手ひどい仕打ちをして、紋蔵がその子を預かることになったが、その養父母が何者かに殺される事件が起こり、それに重ねて、父親が盗人だったことを知っていた旗本が、何気なく飾っていた掛け軸が盗品であったことがわかって、発心(武家を捨てて僧になること)したが、昔の父親の手先で下男として匿っていた老僕が、実はその子の父親で、安ない親のあまりの仕打ちに腹を立てて殺したことが分ったりして、紋蔵の身辺は大忙しである。
藤木紋蔵は、決して我を張ることはしない。曲げられないことは曲げないし、相手が信じて打ち明けた秘匿しなければならないことは、自分がお役御免になろうとも貫くが、子どもたちにも自分の思いを強制するということはない。「向井帯刀の発心」では、旗本向井帯刀が紋蔵に打ち明けたことを秘匿したために紋蔵の立場は悪くなり、そのためにあれこれと今後のことを悩むが、「知らない」と通し続ける。結局、息子のことで確執していて、紋蔵を窮地に追いやった上役は、文吉を世話することになった演劇界の後ろ盾の博徒に身から出た錆を脅され、閑職に着かされることになるが、紋蔵は、子どもや弱いものを守るためには奔走するが、自らを守るためには決して自ら手を下さない。紋蔵は、損な、不器用な生き方をしている。しかし、紋蔵は飄々と生きていく。
こういう主人公が、魅力がないわけはない。お金に苦労し、役所で仕事上の苦労があり、人間関係での苦労があり、家庭での重荷がある。紋蔵は一つ一つその苦労を彼なりに処理していこうとする。しかし、子どもや家族を思い、捨てられた者を助け出し、愛情を注ぎ、筋を通していく。決して「ずる」をしない。そして、飄々と日々を過ごす。
だから、事件の判例の説明に少し煩わしいところもあるが、このシリーズは面白い。春の気持ちの良い陽だまりの中で読むには最適である。
2010年4月13日火曜日
佐藤雅美『浜町河岸の生き神様 縮尻鏡三郎』
昨日一日中降り続いた雨が上がって、日中は初夏を思わせる暖かい日になった。しかし、明日からまた二日ほど寒くなるという。寒暖の差が激しくて、また季節が狂っていっているような気がする。晴れ間が久しぶりだったので、朝からシーツを洗濯したり掃除をしたり、途中で入る電話やFAXへの応対を挟み、銀行と証券会社へ出かけ、ついでにレンタルビデオショップへも行ってきた。
金曜日(9日)に作家の井上ひさし氏の訃報を聞いて、とても残念に思う。確かつい最近執筆中の作品の延期が申し出られたはずだったが、やはり病が相当重かったのだろう。初期の『モッキンポット師の後始末』(1972年 講談社)や『吉里吉里人』(1981年 新潮社)、『腹鼓記』(1985年 新潮社)など、本当に面白く、また意味深く読んだ。中でも圧巻は『吉里吉里人』だったし、地域が独立できるという夢を与えた。まさに、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」の作品だった。作品への執念も相当強く、それが晩年離婚した奥さんによって「家庭内暴力」となっていたことが暴露されたりしたが、彼が描いた作品の世界は、意味深いものであった。
同じ日に召天されたK氏の「お別れ式」を5月の中旬にもつという連絡が入ったので、5月にまた九州に行くことにした。
それらの事柄は別にして、昨日、佐藤雅美『浜町河岸の生き神様 縮尻鏡三郎』(2005年 文藝春秋社 2008年 文春文庫)を読んだ。これは、このシリーズの3作目で、懸命に努力して御勘定留役(大蔵・財務省高級官僚)にまでなった主人公の拝郷鏡三郎が、政争の側杖を食って失職し、閑職の大番屋元締(仮牢-留置場-の責任者)として日々を過ごす中で、江戸市中で起こる争いや事件、身内の出来事などに関わっていくというもので、主人公が活躍して事件を解決するというのでもなく、また事件が明快に勧善懲悪で解決されるというのでもなく、人の世の「色と欲」に絡む出来事が主人公の日常の中で語られていく。「縮尻」は「しくじり」と読み、人生に失敗した人間という意味である。
しかし、これが絶妙なペーソスで語られ、一応の安定と太平を見せた天保年間(1830-1843年)の封建制度の中での江戸の社会背景を的確に踏まえたうえで人々の暮らしとして述べられていくところに面白みがあり、作者は江戸時代の公事訴訟(民事裁判)に詳しく、それらの判例から事件がとられているので、「生きた人間」のリアリティーがよく現れている。
本書には、「破鍋に綴蓋」、「さりとはの分別者」、「お構い者の行く末」、「思い立ったが吉日」、「似た者どうしの放蕩の血」、「踏み留まった心中者の魂魄」、「浜町河岸の生き神様」、「御家人花房菊次郎の覚悟」の八編が収められているが、第一話の「破鍋に綴蓋」で手習い所の師匠として生きている主人公のひとり娘と「脇が甘い」と思われているその夫のことが述べられているほかは、江戸市中で起こった家の普請にまつわる公事、妻と娘を殺された武士の復讐にまつわる話、商家の主が死んだと思って夫婦になったのに、その主人が生きていたという話、放蕩して家を潰し、蔵書を売りさばいて放蕩を続ける男たちの話、心中に見せかけた殺人が発覚する話、貧苦にあえぐ大名家の借金踏み倒しの話、家の売買を利用した取り込み詐欺事件の話など、それぞれが裁判所や勘定所で取り扱われていた話の顛末が述べられ、それらはまさに「色と欲」に翻弄される人間の話である。
こうした生臭い話を、主人公は行きつけの「ももんじ屋」(肉を食べさせる店)で、友人の同心や剣道場主と、うまい肉鍋をつつきながら話をしたり、解決のヒントをえたりしていくのである。主人公は外食と梯子酒が過ぎるので、奥方から外食は3日に一度と釘を刺されているが、中年を過ぎて老年期に差し掛かった「縮尻(しくじり)」人生を歩む姿も独特なペーソスを生んでいる。
このシリーズは、何らかの思想的な意図があるわけでも、「情」が語られるのでもないが、どこか飄々と生きる主人公に共感がもてる作品である。
昨日、雨の中をひとり歩きながら、今年は初から何となく気ぜわしい日々が続いて、どこか自分自身を失って、自分が決して望んではいない生活を送っていることを少し暗い気持ちで考えたりしていたが、飄々と生きることに変わりはなく、それでもいいか、と思ったりしながら、この作品を読み終わった。
金曜日(9日)に作家の井上ひさし氏の訃報を聞いて、とても残念に思う。確かつい最近執筆中の作品の延期が申し出られたはずだったが、やはり病が相当重かったのだろう。初期の『モッキンポット師の後始末』(1972年 講談社)や『吉里吉里人』(1981年 新潮社)、『腹鼓記』(1985年 新潮社)など、本当に面白く、また意味深く読んだ。中でも圧巻は『吉里吉里人』だったし、地域が独立できるという夢を与えた。まさに、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」の作品だった。作品への執念も相当強く、それが晩年離婚した奥さんによって「家庭内暴力」となっていたことが暴露されたりしたが、彼が描いた作品の世界は、意味深いものであった。
同じ日に召天されたK氏の「お別れ式」を5月の中旬にもつという連絡が入ったので、5月にまた九州に行くことにした。
それらの事柄は別にして、昨日、佐藤雅美『浜町河岸の生き神様 縮尻鏡三郎』(2005年 文藝春秋社 2008年 文春文庫)を読んだ。これは、このシリーズの3作目で、懸命に努力して御勘定留役(大蔵・財務省高級官僚)にまでなった主人公の拝郷鏡三郎が、政争の側杖を食って失職し、閑職の大番屋元締(仮牢-留置場-の責任者)として日々を過ごす中で、江戸市中で起こる争いや事件、身内の出来事などに関わっていくというもので、主人公が活躍して事件を解決するというのでもなく、また事件が明快に勧善懲悪で解決されるというのでもなく、人の世の「色と欲」に絡む出来事が主人公の日常の中で語られていく。「縮尻」は「しくじり」と読み、人生に失敗した人間という意味である。
しかし、これが絶妙なペーソスで語られ、一応の安定と太平を見せた天保年間(1830-1843年)の封建制度の中での江戸の社会背景を的確に踏まえたうえで人々の暮らしとして述べられていくところに面白みがあり、作者は江戸時代の公事訴訟(民事裁判)に詳しく、それらの判例から事件がとられているので、「生きた人間」のリアリティーがよく現れている。
本書には、「破鍋に綴蓋」、「さりとはの分別者」、「お構い者の行く末」、「思い立ったが吉日」、「似た者どうしの放蕩の血」、「踏み留まった心中者の魂魄」、「浜町河岸の生き神様」、「御家人花房菊次郎の覚悟」の八編が収められているが、第一話の「破鍋に綴蓋」で手習い所の師匠として生きている主人公のひとり娘と「脇が甘い」と思われているその夫のことが述べられているほかは、江戸市中で起こった家の普請にまつわる公事、妻と娘を殺された武士の復讐にまつわる話、商家の主が死んだと思って夫婦になったのに、その主人が生きていたという話、放蕩して家を潰し、蔵書を売りさばいて放蕩を続ける男たちの話、心中に見せかけた殺人が発覚する話、貧苦にあえぐ大名家の借金踏み倒しの話、家の売買を利用した取り込み詐欺事件の話など、それぞれが裁判所や勘定所で取り扱われていた話の顛末が述べられ、それらはまさに「色と欲」に翻弄される人間の話である。
こうした生臭い話を、主人公は行きつけの「ももんじ屋」(肉を食べさせる店)で、友人の同心や剣道場主と、うまい肉鍋をつつきながら話をしたり、解決のヒントをえたりしていくのである。主人公は外食と梯子酒が過ぎるので、奥方から外食は3日に一度と釘を刺されているが、中年を過ぎて老年期に差し掛かった「縮尻(しくじり)」人生を歩む姿も独特なペーソスを生んでいる。
このシリーズは、何らかの思想的な意図があるわけでも、「情」が語られるのでもないが、どこか飄々と生きる主人公に共感がもてる作品である。
昨日、雨の中をひとり歩きながら、今年は初から何となく気ぜわしい日々が続いて、どこか自分自身を失って、自分が決して望んではいない生活を送っていることを少し暗い気持ちで考えたりしていたが、飄々と生きることに変わりはなく、それでもいいか、と思ったりしながら、この作品を読み終わった。
2010年3月23日火曜日
佐藤雅美『影帳 半次捕物控』
春めいたかと思うと気温が下がって、「花冷え」がことのほか厳しく感じられたりする。このところなにやかやと気ぜわしい日々が続いて、昨日は会議のために早朝から出かけなければならなかったりして、生活時間も乱れ、のどが痛んで微熱も感じるので風邪をひきかけているかもしれない。
先日から佐藤雅美『影帳 半次捕物控』(1992年 講談社 1995年 講談社文庫)を読んでいた。これはこのシリーズの一作目で、既にこのシリーズのいくつかの作品を読んでいたが、さすがに一作目は主人公半次の岡っ引きとしての生活形態や彼が関係している人物たちとの背景、活動する深川周辺の地理が詳細に描かれ、また説明されている。物語で語られる地理だけでも、当時を知る地図が出来上がるだろう。作者が丹念に地図を見ながら主人公たちの人物を動かしていることが分かる。もちろん、それは、この作者が重要に思っている作品のリアリティーを表わすためである。作品の中で金銭がらみの話が多いのも、そうしたリアリティーを生活感覚として表わすもので、こうしたところに作者の現実感覚と人間観がよく表わされている。
もっとも、これはシリーズの第一作目であるから、その説明がいささか多くて、地理を巡るだけでも若干の煩わしさがあるのは免れ得ないように思われる。
しかし、物語の展開は、主人公半次のどこまでも事実を追求しようとする気質と相まって、いくつかの山場が繋がって、次第に真相が明らかになる展開となっており、その間に、たとえば主人公が関係をもっている「引合茶屋(岡っ引きが互いの交渉をするために用いる茶屋)」の女主人の浮気を知って、その魔性性を垣間見て、惚れてはいても断念していく話や、彼の手下や奉行所の同心たちとの関係などが絡んで「情」を大事にしている主人公の姿などが絡んで、内容豊かなものとなっている。
物語は、ふとしたことで引合(軽犯罪の罪を見逃すことで、犯罪にかかる費用を軽減するための手数料を得ていくこと)を抜かないちょっとした盗みの事件に関わった半次が、その裏にある何かを感じて調べ始め、また自分と兄弟のようにして育てられた男の行く末を案じて調べを頼んだかつての手下が殺された事件を調べていくうちに、その二つが絡み合って、米相場に絡んで尾張家で行われていた大掛かりな帳合米取引(米の先物相場)とその私的運用(影帳)にまつわる事件であることを明らかにしていくというものである。
何かと付け届けをしてくれて得意先でもあり、主人公の半次があんな風に年をとりたいとも思っていた米問屋の主人が、実は、帳合米取引の大元締めであり、事件の核心を握った人物であることがわかり、人間が表の顔と裏の顔をもち、特に「欲」に絡んでそのことが起こることを、この物語は明瞭に示す。気一本の半次は、なかなかそこに行きつかないが、そこにも気一本で生きる人間と大欲をもって巧みに表裏を使い分ける人間の姿が描き出されて、筋の骨子となっている。
結局、主人公は、自分を頼りにする手下や自分の身を案じる同心、奉行者内部の事柄などから、かつての手下の殺人事件を事故として処理することに従うが、企みをもっていた米問屋とは縁を切り、その米問屋の主人も遅かれ早かれ自滅していくだろうという同心の言葉を受け入れていく。
歴史の審判というものは目には見えないが、「悪を悪に委ね」ても、歴史の審判はあるだろう。善悪についての人間の価値判断というものは、結局、さかしらなもので、肝心なことは、自分がそこで納得して生活できるかどうかなのだろう。
ところで、これを掲載しているブログに広告が載っていたので、あまり気の進まない広告で、どういう広告だろうかと思って見ていたら、どうも自分のブログを自分でクリックするのはよくないらしく、ブログの運営サイトからメールを受けとり、この機会にブログの機能をよく認識して、やはりこういうことは自分の性にあわないようなので、これからは一切他の人の手になるものは掲載しないように気をつけようと反省したりした。
それはともかく、土曜日(20日)、引退して京都に在住しておられた石井正己先生が召天されたという訃報を受け取った。わたし自身は不遜な学究徒であったが、神学の研究でずい分お世話になった。先生が弟子を作る人間関係をお持ちにならなかったが残念だが、研究資料をずい分紹介もしてくださったので、突然の訃報に驚いてもいる。昨日の会議が遅く、前夜式にも間に合わなかったので、影ながら天来の慰めを祈っている。土曜日から日曜日にかけて弟夫婦が訪ねて来てくれた。
ようやく、日常が戻ってきた感がある。ふだんものんびりしているが、さらにのんびりと日々を過ごすこと、これが心がけの第一だろう。仕事は山積みし、木曜日までは寒いらしいが、やがて春ののどかさを感じるだろう。
先日から佐藤雅美『影帳 半次捕物控』(1992年 講談社 1995年 講談社文庫)を読んでいた。これはこのシリーズの一作目で、既にこのシリーズのいくつかの作品を読んでいたが、さすがに一作目は主人公半次の岡っ引きとしての生活形態や彼が関係している人物たちとの背景、活動する深川周辺の地理が詳細に描かれ、また説明されている。物語で語られる地理だけでも、当時を知る地図が出来上がるだろう。作者が丹念に地図を見ながら主人公たちの人物を動かしていることが分かる。もちろん、それは、この作者が重要に思っている作品のリアリティーを表わすためである。作品の中で金銭がらみの話が多いのも、そうしたリアリティーを生活感覚として表わすもので、こうしたところに作者の現実感覚と人間観がよく表わされている。
もっとも、これはシリーズの第一作目であるから、その説明がいささか多くて、地理を巡るだけでも若干の煩わしさがあるのは免れ得ないように思われる。
しかし、物語の展開は、主人公半次のどこまでも事実を追求しようとする気質と相まって、いくつかの山場が繋がって、次第に真相が明らかになる展開となっており、その間に、たとえば主人公が関係をもっている「引合茶屋(岡っ引きが互いの交渉をするために用いる茶屋)」の女主人の浮気を知って、その魔性性を垣間見て、惚れてはいても断念していく話や、彼の手下や奉行所の同心たちとの関係などが絡んで「情」を大事にしている主人公の姿などが絡んで、内容豊かなものとなっている。
物語は、ふとしたことで引合(軽犯罪の罪を見逃すことで、犯罪にかかる費用を軽減するための手数料を得ていくこと)を抜かないちょっとした盗みの事件に関わった半次が、その裏にある何かを感じて調べ始め、また自分と兄弟のようにして育てられた男の行く末を案じて調べを頼んだかつての手下が殺された事件を調べていくうちに、その二つが絡み合って、米相場に絡んで尾張家で行われていた大掛かりな帳合米取引(米の先物相場)とその私的運用(影帳)にまつわる事件であることを明らかにしていくというものである。
何かと付け届けをしてくれて得意先でもあり、主人公の半次があんな風に年をとりたいとも思っていた米問屋の主人が、実は、帳合米取引の大元締めであり、事件の核心を握った人物であることがわかり、人間が表の顔と裏の顔をもち、特に「欲」に絡んでそのことが起こることを、この物語は明瞭に示す。気一本の半次は、なかなかそこに行きつかないが、そこにも気一本で生きる人間と大欲をもって巧みに表裏を使い分ける人間の姿が描き出されて、筋の骨子となっている。
結局、主人公は、自分を頼りにする手下や自分の身を案じる同心、奉行者内部の事柄などから、かつての手下の殺人事件を事故として処理することに従うが、企みをもっていた米問屋とは縁を切り、その米問屋の主人も遅かれ早かれ自滅していくだろうという同心の言葉を受け入れていく。
歴史の審判というものは目には見えないが、「悪を悪に委ね」ても、歴史の審判はあるだろう。善悪についての人間の価値判断というものは、結局、さかしらなもので、肝心なことは、自分がそこで納得して生活できるかどうかなのだろう。
ところで、これを掲載しているブログに広告が載っていたので、あまり気の進まない広告で、どういう広告だろうかと思って見ていたら、どうも自分のブログを自分でクリックするのはよくないらしく、ブログの運営サイトからメールを受けとり、この機会にブログの機能をよく認識して、やはりこういうことは自分の性にあわないようなので、これからは一切他の人の手になるものは掲載しないように気をつけようと反省したりした。
それはともかく、土曜日(20日)、引退して京都に在住しておられた石井正己先生が召天されたという訃報を受け取った。わたし自身は不遜な学究徒であったが、神学の研究でずい分お世話になった。先生が弟子を作る人間関係をお持ちにならなかったが残念だが、研究資料をずい分紹介もしてくださったので、突然の訃報に驚いてもいる。昨日の会議が遅く、前夜式にも間に合わなかったので、影ながら天来の慰めを祈っている。土曜日から日曜日にかけて弟夫婦が訪ねて来てくれた。
ようやく、日常が戻ってきた感がある。ふだんものんびりしているが、さらにのんびりと日々を過ごすこと、これが心がけの第一だろう。仕事は山積みし、木曜日までは寒いらしいが、やがて春ののどかさを感じるだろう。
2010年3月8日月曜日
佐藤雅美『当たるも八卦の墨色占い 縮尻鏡三郎』
昨日から冬の寒さが戻って来てしまって、昨夜は雪になるかもしれないという予報の中で氷雨が降っていた。今朝は、晴れたり曇ったりの天気で、寒さも厳しい。しかし、ときおり差す陽の光に微かな春の気配がする。
昨夜、夕食の時、ビールを片手にしたまま、まるで赤ん坊のようにそのままの姿勢で眠りに陥り、気づいた時にはコップのビールはこぼれてしまい、箸はあちらこちらに飛んで、食卓が悲惨な状態だった。こういうことが時々起きるようになった。あまりに度々だと、前後不覚の人生ではあるが、困ったことになるなあ、と思ったりもする。
突然眠りに陥る人物を主人公にした佐藤雅美『物書同心 居眠り紋蔵』シリーズの主人公よろしく、会議中でも突然眠ってしまうことがあり、人と話をしている最中でも、ふっと眠りに陥ることがある。人生は半眼で生きればちょうどいいわけだが、思考が飛ぶのはなんともやりきれない。
佐藤雅美と言えば、土曜の夜から読み続けていた佐藤雅美『当たるも八卦の墨色占い 縮尻鏡三郎』(2008年 文藝春秋社)を、覚醒の後で読み終えた。
これは、以前に読んだ『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』(2004年 文藝春秋社)などのシリーズの一冊で、シリーズとしては五作目の作品であり、「縮尻」というのは、人生が尻すぼみになっている人間のことで、主人公の「拝郷鏡三郎」は、懸命に努力して学問と武芸に励んで勘定所(今で言うなら財務省)の役人になったが、ある事件をきっかけにお役御免(失職)となり、家督を娘夫婦に譲って、町方の大番屋(仮牢)の責任者として過ごしている人物である。
この作品では家督を譲った娘夫婦の間に何事かが起こって、娘は家を出て手習い所の女師匠となっているから、その間の出来事については、三作目か四作目で触れられているのだろう。
このシリーズの作品の良いところは、大番屋に持ちこまれる事件や主人公の友人で飲み友だちでもある北町奉行所同心や剣術道場を開いている友人が、「ももんじ屋(猪や鹿、鳥などの肉を食べさせる所)」で鍋をつつき一杯やりながら話をする事件が、それぞれの事件が彼らの活躍によって解決されるというわけでもなく、偶然や未決のまままで、それぞれの結末を迎えていくという顛末が描かれるところであり、その結末は決してハッピーエンドではなく、作者は、江戸時代の判例に詳しいので、事件の顛末が時代と状況に即して述べられていくところである。作者はリアリティーを大事にし、それを作品の中で貫いている。
第一話「元表坊主加納栗園の大誤算」は、当時ようやくわずかに使われ始めた機械時計をめぐる詐欺事件の相談に訪れた時計師の話を探っていくうちに、時計を盗んだ男が捕まり、盗まれた時計が出て来て、その時計の盗難によって詐欺を働こうとした元表坊主たちの目論見が見事にはずれて大損をすることになったというものであり、第二話「当たるも八卦の墨色占い」は、墨字の色での占いのとおりに「色深い」女が、持っている「髪結い床の株(権利)」を餌にして次々と男を変えていき、ついには男から騙されて多額の借金を抱えるようになったという話である。人は、色と金に振り回される、とつくづく思う。
第三話「不義密通のふしだらな女」は、人々から不義密通のふしだらな女と言われていた女性が、実は、自分の子どものことを思ってその噂を甘受して生きるというもので、第四話「吉剣栗田口康光がとりもつ縁」は、主人公の鏡三郎の持っている剣が凶剣で、吉剣に変えた方がよいと言われ、四十両もの大金をはたいて購入した剣が、実は盗品であり、その売り主も盗品とは知らずに売ったことで、鏡三郎は大損しそうになるし、売り主も裁かれることになる話である。友人の同心が調べてみると、売り主は下総の大金持ちの道楽息子だという。道楽息子は気のいい男で、困った人がいれば何も言わずに盗品でも何でも買って助けていたという。そして、結局、道楽息子の生家の番頭の手配で、道楽息子も引き取られ、鏡三郎も吉剣を手に入れるというものである。この道楽息子が手習い所の師匠をしている鏡三郎の娘に惚れて、交際を申し出るという以後の顛末へ続いていく。
第五話「おさまらない知穂の怒り」は、昔友人と「引責の欠落(店の金を使いこんで逃げる)」をした道具屋の主人の所に、その昔の友人がやって来て強請り、あげくは、道具屋の主人の女房が内藤新宿の岡場所での友人のなじみ客でもあったことから、友人に手ごめにされたりしてしまうことが起こる。ところが、その昔の友人が殺され、道具屋の主人が疑われる。正月に鏡三郎の家にみんなが集まって飲んでいる所に鏡三郎の娘が、第四話で出てきた金持ちの道楽息子をしばらくつきあいますと言って連れて来て、その道楽息子が、またもや道具屋が昔の友人に手渡した小物を買ったと言い、そこから道具屋の事件の真犯人がわかっていくというものである。鏡三郎の娘はつきあうことにした道楽息子がまたもや「困っています」の一言だけで小物を買い取ったことに怒るという「おまけ」つきの話であるが、人は過去の罪を暴かれることに弱い。その弱さに悪がまた入り込み、地獄のような悪循環へと落ち込むことを思う。罪を罪としていくことは難しい。
第六話「御家人田岡元次郎殺しの真相」は、御家人株を餌にして、それを買った男を養子にして殺し、そのもっていた金銭を奪い取る話である。第七話「寺田将監御呼出吟味の顛末」は、元中間奉公していた男がその仕えていた旗本の妾とねんごろになり、怒った旗本との間で争ったはずみで旗本を殺してしまった。そしてさらに、事が公になると大事になるので、その旗本の本家筋を強請るが、強請りが度重なって、旗本の本家「寺田将監」が彼を殺す。ことは内々で済まされようとするが、今度はそれを知った旗本の妾が寺田将監を強請りに来て、頭にきた寺田将監が往来にまで追いかけてその妾を殺すという事件で、寺田家は改易されるという話である。
この第七話で、鏡三郎の娘がしている手習い塾の土地家屋が売りに出されるのでどうしたものかと案じていたら、彼女に惚れている道楽息子がそっと裏から手をまわしてそれを買い取り、娘に手習い塾を続けさせるように手配したという挿話が書かれていて、それが第八話に繋がる。
第八話「命取りになった二本の張形」は、火事で焼け出されて、間違って持って来られた大金と張形の入った柳行李(収納箱)の持ち主として現れた浪人が、実は、盗人を働いた友人を殺して金を自分のものにしていたことが分かる事件である。そして、この八話で、鏡三郎の娘が結婚してもいいといった金持ちの道楽息子が、人助けで面倒を見ていた娘から逆恨みされて殺されるという事件も描かれる。鏡三郎の娘は、せっかく決めた相手をまた失うことになる。親の身として、鏡三郎は娘の行く末を案じる。
この作品に収められている八話の事件や出来事は、おそらく、江戸時代に日常的に起こっていた事件として扱われ描かれている。この作品には、事件を起こした人々の心情や思いなどが追及されるわけではなく、事件の顛末が客観的に述べられていくだけで、事件そのものも特別なものではなく日常の事件の顛末であるが、「縮尻」である鏡三郎の何とも言えない人柄や心配事など、なかなか面白いし、事件にきちんと世相が反映されているので、「こういうことはあり得る」ともわせるし、現代でも起こっていることである。たんたんと、そしてさっぱりと描かれるところがいい。
昨夜、夕食の時、ビールを片手にしたまま、まるで赤ん坊のようにそのままの姿勢で眠りに陥り、気づいた時にはコップのビールはこぼれてしまい、箸はあちらこちらに飛んで、食卓が悲惨な状態だった。こういうことが時々起きるようになった。あまりに度々だと、前後不覚の人生ではあるが、困ったことになるなあ、と思ったりもする。
突然眠りに陥る人物を主人公にした佐藤雅美『物書同心 居眠り紋蔵』シリーズの主人公よろしく、会議中でも突然眠ってしまうことがあり、人と話をしている最中でも、ふっと眠りに陥ることがある。人生は半眼で生きればちょうどいいわけだが、思考が飛ぶのはなんともやりきれない。
佐藤雅美と言えば、土曜の夜から読み続けていた佐藤雅美『当たるも八卦の墨色占い 縮尻鏡三郎』(2008年 文藝春秋社)を、覚醒の後で読み終えた。
これは、以前に読んだ『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』(2004年 文藝春秋社)などのシリーズの一冊で、シリーズとしては五作目の作品であり、「縮尻」というのは、人生が尻すぼみになっている人間のことで、主人公の「拝郷鏡三郎」は、懸命に努力して学問と武芸に励んで勘定所(今で言うなら財務省)の役人になったが、ある事件をきっかけにお役御免(失職)となり、家督を娘夫婦に譲って、町方の大番屋(仮牢)の責任者として過ごしている人物である。
この作品では家督を譲った娘夫婦の間に何事かが起こって、娘は家を出て手習い所の女師匠となっているから、その間の出来事については、三作目か四作目で触れられているのだろう。
このシリーズの作品の良いところは、大番屋に持ちこまれる事件や主人公の友人で飲み友だちでもある北町奉行所同心や剣術道場を開いている友人が、「ももんじ屋(猪や鹿、鳥などの肉を食べさせる所)」で鍋をつつき一杯やりながら話をする事件が、それぞれの事件が彼らの活躍によって解決されるというわけでもなく、偶然や未決のまままで、それぞれの結末を迎えていくという顛末が描かれるところであり、その結末は決してハッピーエンドではなく、作者は、江戸時代の判例に詳しいので、事件の顛末が時代と状況に即して述べられていくところである。作者はリアリティーを大事にし、それを作品の中で貫いている。
第一話「元表坊主加納栗園の大誤算」は、当時ようやくわずかに使われ始めた機械時計をめぐる詐欺事件の相談に訪れた時計師の話を探っていくうちに、時計を盗んだ男が捕まり、盗まれた時計が出て来て、その時計の盗難によって詐欺を働こうとした元表坊主たちの目論見が見事にはずれて大損をすることになったというものであり、第二話「当たるも八卦の墨色占い」は、墨字の色での占いのとおりに「色深い」女が、持っている「髪結い床の株(権利)」を餌にして次々と男を変えていき、ついには男から騙されて多額の借金を抱えるようになったという話である。人は、色と金に振り回される、とつくづく思う。
第三話「不義密通のふしだらな女」は、人々から不義密通のふしだらな女と言われていた女性が、実は、自分の子どものことを思ってその噂を甘受して生きるというもので、第四話「吉剣栗田口康光がとりもつ縁」は、主人公の鏡三郎の持っている剣が凶剣で、吉剣に変えた方がよいと言われ、四十両もの大金をはたいて購入した剣が、実は盗品であり、その売り主も盗品とは知らずに売ったことで、鏡三郎は大損しそうになるし、売り主も裁かれることになる話である。友人の同心が調べてみると、売り主は下総の大金持ちの道楽息子だという。道楽息子は気のいい男で、困った人がいれば何も言わずに盗品でも何でも買って助けていたという。そして、結局、道楽息子の生家の番頭の手配で、道楽息子も引き取られ、鏡三郎も吉剣を手に入れるというものである。この道楽息子が手習い所の師匠をしている鏡三郎の娘に惚れて、交際を申し出るという以後の顛末へ続いていく。
第五話「おさまらない知穂の怒り」は、昔友人と「引責の欠落(店の金を使いこんで逃げる)」をした道具屋の主人の所に、その昔の友人がやって来て強請り、あげくは、道具屋の主人の女房が内藤新宿の岡場所での友人のなじみ客でもあったことから、友人に手ごめにされたりしてしまうことが起こる。ところが、その昔の友人が殺され、道具屋の主人が疑われる。正月に鏡三郎の家にみんなが集まって飲んでいる所に鏡三郎の娘が、第四話で出てきた金持ちの道楽息子をしばらくつきあいますと言って連れて来て、その道楽息子が、またもや道具屋が昔の友人に手渡した小物を買ったと言い、そこから道具屋の事件の真犯人がわかっていくというものである。鏡三郎の娘はつきあうことにした道楽息子がまたもや「困っています」の一言だけで小物を買い取ったことに怒るという「おまけ」つきの話であるが、人は過去の罪を暴かれることに弱い。その弱さに悪がまた入り込み、地獄のような悪循環へと落ち込むことを思う。罪を罪としていくことは難しい。
第六話「御家人田岡元次郎殺しの真相」は、御家人株を餌にして、それを買った男を養子にして殺し、そのもっていた金銭を奪い取る話である。第七話「寺田将監御呼出吟味の顛末」は、元中間奉公していた男がその仕えていた旗本の妾とねんごろになり、怒った旗本との間で争ったはずみで旗本を殺してしまった。そしてさらに、事が公になると大事になるので、その旗本の本家筋を強請るが、強請りが度重なって、旗本の本家「寺田将監」が彼を殺す。ことは内々で済まされようとするが、今度はそれを知った旗本の妾が寺田将監を強請りに来て、頭にきた寺田将監が往来にまで追いかけてその妾を殺すという事件で、寺田家は改易されるという話である。
この第七話で、鏡三郎の娘がしている手習い塾の土地家屋が売りに出されるのでどうしたものかと案じていたら、彼女に惚れている道楽息子がそっと裏から手をまわしてそれを買い取り、娘に手習い塾を続けさせるように手配したという挿話が書かれていて、それが第八話に繋がる。
第八話「命取りになった二本の張形」は、火事で焼け出されて、間違って持って来られた大金と張形の入った柳行李(収納箱)の持ち主として現れた浪人が、実は、盗人を働いた友人を殺して金を自分のものにしていたことが分かる事件である。そして、この八話で、鏡三郎の娘が結婚してもいいといった金持ちの道楽息子が、人助けで面倒を見ていた娘から逆恨みされて殺されるという事件も描かれる。鏡三郎の娘は、せっかく決めた相手をまた失うことになる。親の身として、鏡三郎は娘の行く末を案じる。
この作品に収められている八話の事件や出来事は、おそらく、江戸時代に日常的に起こっていた事件として扱われ描かれている。この作品には、事件を起こした人々の心情や思いなどが追及されるわけではなく、事件の顛末が客観的に述べられていくだけで、事件そのものも特別なものではなく日常の事件の顛末であるが、「縮尻」である鏡三郎の何とも言えない人柄や心配事など、なかなか面白いし、事件にきちんと世相が反映されているので、「こういうことはあり得る」ともわせるし、現代でも起こっていることである。たんたんと、そしてさっぱりと描かれるところがいい。
2010年2月24日水曜日
佐藤雅美『町医 北村宗哲』
今日もよく晴れて、比較的暖かな日となった。こういう穏やかな日和が続くと、つくづく嬉しい。昨日見かけた花屋さんの店先は春の花でいっぱいである。クロッカスが大きな芽を出していた。
昨夜から佐藤雅美『町医 北村宗哲』(2006年 角川書店)を読んでいる。これは昨年末ごろに読んだ『啓順地獄旅』と『啓順純情旅』に続くような作品で、前作では、医学館でも学んだことがある医者の啓順が、ふとしたことから渡世人の世界に入り、そこで江戸の顔役の娘を殺したかどで顔役から追われることになって各地を遍歴して行くというもので、最後は江戸にもどって顔役と対決し、江戸で落ち着くという筋立てだったが、今作では、その江戸での町医者としての生活の姿が、「北村宗哲」と言う名前で描かれている。だから、宗哲の前歴は「啓順」とほとんど変わらず、宗哲は渡世人の前歴をもつ町医者として、医院を開業しており、しかもなお江戸の顔役たちの間ではよく知れ渡った人物であり、医院を訪れる患者や持ちこまれる相談事に当たっていくというものである。
前作同様、作者は江戸の医学界の事情に精通しており、当時の漢方の処方の仕方や病にも精通していて、その知識を駆使して物語が展開されるので、独自の醍醐味があるし、主人公の人柄も前作同様、情もあり、頼まれるといやとも言えず、金持ちや権高な人物からは大金をもらうが貧しい者には手弁当でも面倒をみるという姿勢が貫かれている。また、作者は、どの作品でも、「生活者」の視点で書いているので、生活感もあふれている。だからと言って、人情噺では終わらない。物語の結末も、悲劇は悲劇のままで記される。
こうした作品は、時代小説の中でも、しっかりした資料に基づいたリアリティのある独自の作風をもつ作品だと言えるだろう。資料を駆使した作風としては司馬遼太郎が著名だが、佐藤雅美は資料を物語の中で使って展開しようとする。その意味で文学作品としてはよくできた作品ではないだろうか。作者の円熟味を感じさせる作品である。
今日は、車も少し動かさなければまた故障しそうだから、夕方、TUTAYAにでも行って『スターゲイト』というアメリカのSFテレビドラマのDVDでも借りてこよう。アメリカのSFドラマは、本当に傑作が多いと思うし、映像がとても凝っているという気がする。そういえば、子どもの頃に『宇宙家族ロビンソン』というテレビドラマをよく見ていたし、たぶん中学生のころではなかったかと思うが、『タイムトンネル』というドラマも見ていた。『タイムトンネル』は、「タイムトンネル」を使って過去の様々な事件に遭遇して行くというもので、詳細な歴史教育の要素もあった。『スターゲイト』は、その『タイムトンネル』の宇宙版で、「スターゲイト」というワームホールで宇宙空間を瞬時につなぐものが発見され、それを駆使して宇宙の各惑星に出かけていくというものである。使われる科学用語や発想は、物理学や生物学などの諸自然科学にしっかり基づいているので、それもおもしろい。人間模様や行動には現代アメリカの気風がうかがえて、それもおもしろい。
ともあれ、まずは仕事を片づけよう。
昨夜から佐藤雅美『町医 北村宗哲』(2006年 角川書店)を読んでいる。これは昨年末ごろに読んだ『啓順地獄旅』と『啓順純情旅』に続くような作品で、前作では、医学館でも学んだことがある医者の啓順が、ふとしたことから渡世人の世界に入り、そこで江戸の顔役の娘を殺したかどで顔役から追われることになって各地を遍歴して行くというもので、最後は江戸にもどって顔役と対決し、江戸で落ち着くという筋立てだったが、今作では、その江戸での町医者としての生活の姿が、「北村宗哲」と言う名前で描かれている。だから、宗哲の前歴は「啓順」とほとんど変わらず、宗哲は渡世人の前歴をもつ町医者として、医院を開業しており、しかもなお江戸の顔役たちの間ではよく知れ渡った人物であり、医院を訪れる患者や持ちこまれる相談事に当たっていくというものである。
前作同様、作者は江戸の医学界の事情に精通しており、当時の漢方の処方の仕方や病にも精通していて、その知識を駆使して物語が展開されるので、独自の醍醐味があるし、主人公の人柄も前作同様、情もあり、頼まれるといやとも言えず、金持ちや権高な人物からは大金をもらうが貧しい者には手弁当でも面倒をみるという姿勢が貫かれている。また、作者は、どの作品でも、「生活者」の視点で書いているので、生活感もあふれている。だからと言って、人情噺では終わらない。物語の結末も、悲劇は悲劇のままで記される。
こうした作品は、時代小説の中でも、しっかりした資料に基づいたリアリティのある独自の作風をもつ作品だと言えるだろう。資料を駆使した作風としては司馬遼太郎が著名だが、佐藤雅美は資料を物語の中で使って展開しようとする。その意味で文学作品としてはよくできた作品ではないだろうか。作者の円熟味を感じさせる作品である。
今日は、車も少し動かさなければまた故障しそうだから、夕方、TUTAYAにでも行って『スターゲイト』というアメリカのSFテレビドラマのDVDでも借りてこよう。アメリカのSFドラマは、本当に傑作が多いと思うし、映像がとても凝っているという気がする。そういえば、子どもの頃に『宇宙家族ロビンソン』というテレビドラマをよく見ていたし、たぶん中学生のころではなかったかと思うが、『タイムトンネル』というドラマも見ていた。『タイムトンネル』は、「タイムトンネル」を使って過去の様々な事件に遭遇して行くというもので、詳細な歴史教育の要素もあった。『スターゲイト』は、その『タイムトンネル』の宇宙版で、「スターゲイト」というワームホールで宇宙空間を瞬時につなぐものが発見され、それを駆使して宇宙の各惑星に出かけていくというものである。使われる科学用語や発想は、物理学や生物学などの諸自然科学にしっかり基づいているので、それもおもしろい。人間模様や行動には現代アメリカの気風がうかがえて、それもおもしろい。
ともあれ、まずは仕事を片づけよう。
2010年2月11日木曜日
佐藤雅美『老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵』(2)
昨夕遅くに雨が降り、今朝もどんよりした天気が続いている。今朝はゆっくり起きて不協和音の多いJ.S.バッハの「ピアノ協奏曲」などを聞いて過ごした。バロック調の旋律なのだが、ちょっといびつな感じもする。気温が低く寒いので、こういう日は身体に堪えて頸椎も痛むが、読み続けている佐藤雅美『老博奕打ち』が面白くて、ひとりで腹を抱えて笑ったりした。バッハと居眠り紋蔵は合わないが、その取り合わせもなかなかではある。
『老博奕打ち』の第六話「呪われた小袖」は、ある旗本の内儀が凌辱されて殺され、その際に盗まれた小袖をめぐって、その小袖に関わった者たちが次々と罪に定められ、紋蔵と同心の金吾が真相を探っていくというもので、結局、旗本が自分の妻の殺害を友人の旗本に依頼し、それをごまかすために強盗を装っていたことが判明する。盗品である小袖をさらに盗んだり、売ったりして小利を謀った者たちが次々と発覚して、まるで凌辱されて殺された内儀の怨みが乗り移ったようにして事件が明るみに出ていく筋立てが流れるようでうまい。
第七話「烈女お久万」は、饅頭屋の若後家が囲った役者の家が、近所の者のやっかみで火事騒動に似せて壊され、それが侠客と火消しの双方の親分のところに持ち込まれ、侠客と火消しが一色触発の状態となり、紋蔵の知恵によって、家の持ち主である饅頭屋の若後家「お久万」を説得して解決するという話で、紋蔵が預かって育てている文吉(第三作『密約』で登場)が子どもながらに度胸の座っていることを買われて侠客の家に出入りし、小博奕をしていることが分かり、紋蔵がそれをやめさせようと侠客と関わることも絡んで展開されている。
第八話「伝六と鰻切手」は、第七話の事件の解決によって鰻をごちそうされ、鰻切手(鰻の商品券)をもらったが、そこに伝六という就職の保証人になることで手数料をもらった男が、斡旋した奉公人が欠落ち(かけおち)したという問題をもちこみ、この奇妙でずうずうしい男に翻弄されて、欠落ち事件の決着をつけなければならなくなった紋蔵が、家族で鰻を食べに行くことを楽しみにしていたのに、その鰻切手を使わせられる羽目になるというものである。
およそ人間の事件というものは、人間の「欲」から生まれてくる。「欲」は、生物学的な生存欲求も含めて、その社会の状況や環境、それぞれの関係の中で様々な姿を取るが、人間は決して「無欲な存在」ではありえないので、その機微が『物書同心居眠り紋蔵』の中で描き出されていくのである。作者の佐藤雅美は、その「欲の状態」を生活レベルの状態で時代の社会背景を詳細に検討しながら展開する。そして、主人公の居眠り紋蔵もまたその一人として描き出されているので、単純な善悪の判断がされないところがこの作品を上質なものに仕上げている。こういうところが気に入っているのである。
今日は、本来なら、近くの人たちから誘われて朝の6時からスキーに行くこともできたのだが、時間もとれないし、あまり気乗りもしなかったので比較的のんきに過ごしている。「家庭論」という1999年に発表した倫理学の論文の整理もしよう。食料品の買い出しにも行かなければ、と思ったりしている。
『老博奕打ち』の第六話「呪われた小袖」は、ある旗本の内儀が凌辱されて殺され、その際に盗まれた小袖をめぐって、その小袖に関わった者たちが次々と罪に定められ、紋蔵と同心の金吾が真相を探っていくというもので、結局、旗本が自分の妻の殺害を友人の旗本に依頼し、それをごまかすために強盗を装っていたことが判明する。盗品である小袖をさらに盗んだり、売ったりして小利を謀った者たちが次々と発覚して、まるで凌辱されて殺された内儀の怨みが乗り移ったようにして事件が明るみに出ていく筋立てが流れるようでうまい。
第七話「烈女お久万」は、饅頭屋の若後家が囲った役者の家が、近所の者のやっかみで火事騒動に似せて壊され、それが侠客と火消しの双方の親分のところに持ち込まれ、侠客と火消しが一色触発の状態となり、紋蔵の知恵によって、家の持ち主である饅頭屋の若後家「お久万」を説得して解決するという話で、紋蔵が預かって育てている文吉(第三作『密約』で登場)が子どもながらに度胸の座っていることを買われて侠客の家に出入りし、小博奕をしていることが分かり、紋蔵がそれをやめさせようと侠客と関わることも絡んで展開されている。
第八話「伝六と鰻切手」は、第七話の事件の解決によって鰻をごちそうされ、鰻切手(鰻の商品券)をもらったが、そこに伝六という就職の保証人になることで手数料をもらった男が、斡旋した奉公人が欠落ち(かけおち)したという問題をもちこみ、この奇妙でずうずうしい男に翻弄されて、欠落ち事件の決着をつけなければならなくなった紋蔵が、家族で鰻を食べに行くことを楽しみにしていたのに、その鰻切手を使わせられる羽目になるというものである。
およそ人間の事件というものは、人間の「欲」から生まれてくる。「欲」は、生物学的な生存欲求も含めて、その社会の状況や環境、それぞれの関係の中で様々な姿を取るが、人間は決して「無欲な存在」ではありえないので、その機微が『物書同心居眠り紋蔵』の中で描き出されていくのである。作者の佐藤雅美は、その「欲の状態」を生活レベルの状態で時代の社会背景を詳細に検討しながら展開する。そして、主人公の居眠り紋蔵もまたその一人として描き出されているので、単純な善悪の判断がされないところがこの作品を上質なものに仕上げている。こういうところが気に入っているのである。
今日は、本来なら、近くの人たちから誘われて朝の6時からスキーに行くこともできたのだが、時間もとれないし、あまり気乗りもしなかったので比較的のんきに過ごしている。「家庭論」という1999年に発表した倫理学の論文の整理もしよう。食料品の買い出しにも行かなければ、と思ったりしている。
2010年2月10日水曜日
佐藤雅美『老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵』(1)
昨日の天気は、この時季としては異常なほどの高温で、生暖かい風が吹いて春の陽気となったが、今日は曇った空から冷たい風が吹き下ろしている。朝から気ぜわしい感じで幕が開け、しようと思っていたことができないままに時が過ぎていく。わたしの今の日常はこんな日が多いのだが、いつになっても慣れないなぁ、と思ったりもする。
昨夜から、佐藤雅美『老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵』(2001年 講談社)を読んでいる。これはこのシリーズの5作目で、以前に『密約』と『白い息』を読んでおり、面白く読んでいるシリーズである。
南町奉行所の例繰方同心を務める藤木紋蔵は、当然居眠りに陥るという奇病のため「居眠り紋蔵」と呼ばれているが、過去の判例(例繰方はその判例を調べて事件の判決を導く)に関する知識と推理力は抜群で、その知識と観察眼を用いて事件を解決していく人物で、奇病のためにいつ首になってもおかしくない状況を戦々恐々としながらも卓越した推理を発揮していく。
『老博奕打ち』には「早とちり」、「老博奕打ち」、「金吾の口約束」、「春間近し」、「握られた弱み」、「呪われた小僧」、「烈女お久万」、「伝六と鰻切手」の8編が収められている。
第一話「早とちり」は、やり手の薬種問屋「奈良屋」の家の出格子が規定以上だったのをとがめられ、藤木紋蔵が親しくしている料理屋の包丁人頭から何とかならないかと依頼されて、過去の事例から無理だと言いつつも気になって調べた藤木紋蔵が、その家の近くで起きた殺人事件と薬種問屋への脅迫事件との関連で、薬種問屋が広東人参の盗品買いをしていたことを突きとめていく話である。
第二話「老博奕打ち」は、藤木紋蔵が親しくしている「六尺手回り(口入屋-就職斡旋)」の頭「捨吉」から、捨吉が尊敬している老博奕打ちが殺しを示唆したかどで北町奉行所に捕えられ、老博奕打ちはそんな人間ではないから冤罪だと訴えられ、紋蔵が事件の真相を探っていくと、捕えた北町奉行所の出世頭の同心と悪知恵を働かせていた大名家の弟が結託して私腹を肥やすために仕組んだことが分かり、冤罪を晴らすが、放免された老博奕打ちが自分をはめた北町奉行所同心と大名家の弟に怨みを晴らしていくという話である。
第三話「金吾の口約束」は、襲われて怪我をしたと訴えた事件で、訴えられた相手が自分のアリバイを話せないということになり、それを調べることになった紋蔵が、実はアリバイを証明しない男が大名家の不始末(当主の三男が女中に手をつけ、捨てた)を種に大名家を強請っていたことを突きとめ、それを明らかにしていくが町奉行はそれを老中水野出羽守に伝え、事件を暴露せずに大名家の弱みを握っていくことになったということ結末となる。ここには、その事件のほかに安い地酒にブランド銘酒のラベルを貼って荒稼ぎをしていた事件を紋蔵の観察から察した同僚の同心「金吾」が、酒問屋組合からの礼金のために解決していくという事件も描かれており、金吾は紋蔵にお礼をすると口約束するという話もあって、第三話の表題となっている。
作者の佐藤雅美は、どの作品でも実際の生活のレベルから物語を進めるので、当時の同心たちが貧しい扶持(給料)の中で、付け届けなどによって生活を成り立たせていた実情をいかんなく記し、それが物語を展開させていく。「金吾の口約束」もそうした背景が巧みに取り入れられている。
第四話「春間近し」は、70歳を越える掏摸(すり)の元締めを逮捕し、これを石抱き(石を抱かせて自白させる)にすることを問い合わせた吟味与力に対して秀才の目付が知識をひけらかせて中止にし、捕えられた男も掏摸の元締めなどではないということになって、吟味与力は責任を取って職を辞そうとするのが話の骨格である。しかし、藤木紋蔵の名推理で、逮捕された男は本当に掏摸の元締めであることが判明する。彼を捕えた同心の責任を取って辞めようとした吟味与力は意地を通してやめようとするが、紋蔵の上役で紋蔵のよき理解者である峰屋鉄五郎の情のある説得を受け入れていくのである。
ここには「人を生かす」という姿勢をもつ紋蔵の理解者の峰屋鉄五郎と紋蔵の姿がよく描かれている。
第五話「握られた弱み」は、美人で有名な糸屋の娘が惚れて関係した鳶職の男が喧嘩で相手を傷つけた罪で投獄され、その罪を減じるために放火をするが(火事の時に一時囚人は釈放され、戻って来ると罪が減じられた)、6歳の子どもに目撃される。その目撃の信憑性をめぐって議論が起こったりするが、証言した6歳の子どもとその父親の行状が暴かれ、娘は無罪となり、鳶職の男も冤罪だということが分かる。しかし、実際は6歳の子どもの証言どおり娘は放火しており、その子どもに弱みを握られて娘は過ごさなければならないという結末となる。
昨夜はここまでしか読んでいないが、この時代の判例集などをよく調べて、その実情が反映されており、それらが生活者の目を通して語られているので、読んでいて「なるほど」と思うところもあり、また、主人公の人柄も、観察眼や推理力は鋭く、真直ぐに事件に関わってはいくが、物事に拘泥しないさっぱりとしたところがあって、事件の顛末もあっさりと描かれるので、読んでいて面白い。
このシリーズは全部で9作品あるので、ほかの作品も一読したいと思っている。
昨夜から、佐藤雅美『老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵』(2001年 講談社)を読んでいる。これはこのシリーズの5作目で、以前に『密約』と『白い息』を読んでおり、面白く読んでいるシリーズである。
南町奉行所の例繰方同心を務める藤木紋蔵は、当然居眠りに陥るという奇病のため「居眠り紋蔵」と呼ばれているが、過去の判例(例繰方はその判例を調べて事件の判決を導く)に関する知識と推理力は抜群で、その知識と観察眼を用いて事件を解決していく人物で、奇病のためにいつ首になってもおかしくない状況を戦々恐々としながらも卓越した推理を発揮していく。
『老博奕打ち』には「早とちり」、「老博奕打ち」、「金吾の口約束」、「春間近し」、「握られた弱み」、「呪われた小僧」、「烈女お久万」、「伝六と鰻切手」の8編が収められている。
第一話「早とちり」は、やり手の薬種問屋「奈良屋」の家の出格子が規定以上だったのをとがめられ、藤木紋蔵が親しくしている料理屋の包丁人頭から何とかならないかと依頼されて、過去の事例から無理だと言いつつも気になって調べた藤木紋蔵が、その家の近くで起きた殺人事件と薬種問屋への脅迫事件との関連で、薬種問屋が広東人参の盗品買いをしていたことを突きとめていく話である。
第二話「老博奕打ち」は、藤木紋蔵が親しくしている「六尺手回り(口入屋-就職斡旋)」の頭「捨吉」から、捨吉が尊敬している老博奕打ちが殺しを示唆したかどで北町奉行所に捕えられ、老博奕打ちはそんな人間ではないから冤罪だと訴えられ、紋蔵が事件の真相を探っていくと、捕えた北町奉行所の出世頭の同心と悪知恵を働かせていた大名家の弟が結託して私腹を肥やすために仕組んだことが分かり、冤罪を晴らすが、放免された老博奕打ちが自分をはめた北町奉行所同心と大名家の弟に怨みを晴らしていくという話である。
第三話「金吾の口約束」は、襲われて怪我をしたと訴えた事件で、訴えられた相手が自分のアリバイを話せないということになり、それを調べることになった紋蔵が、実はアリバイを証明しない男が大名家の不始末(当主の三男が女中に手をつけ、捨てた)を種に大名家を強請っていたことを突きとめ、それを明らかにしていくが町奉行はそれを老中水野出羽守に伝え、事件を暴露せずに大名家の弱みを握っていくことになったということ結末となる。ここには、その事件のほかに安い地酒にブランド銘酒のラベルを貼って荒稼ぎをしていた事件を紋蔵の観察から察した同僚の同心「金吾」が、酒問屋組合からの礼金のために解決していくという事件も描かれており、金吾は紋蔵にお礼をすると口約束するという話もあって、第三話の表題となっている。
作者の佐藤雅美は、どの作品でも実際の生活のレベルから物語を進めるので、当時の同心たちが貧しい扶持(給料)の中で、付け届けなどによって生活を成り立たせていた実情をいかんなく記し、それが物語を展開させていく。「金吾の口約束」もそうした背景が巧みに取り入れられている。
第四話「春間近し」は、70歳を越える掏摸(すり)の元締めを逮捕し、これを石抱き(石を抱かせて自白させる)にすることを問い合わせた吟味与力に対して秀才の目付が知識をひけらかせて中止にし、捕えられた男も掏摸の元締めなどではないということになって、吟味与力は責任を取って職を辞そうとするのが話の骨格である。しかし、藤木紋蔵の名推理で、逮捕された男は本当に掏摸の元締めであることが判明する。彼を捕えた同心の責任を取って辞めようとした吟味与力は意地を通してやめようとするが、紋蔵の上役で紋蔵のよき理解者である峰屋鉄五郎の情のある説得を受け入れていくのである。
ここには「人を生かす」という姿勢をもつ紋蔵の理解者の峰屋鉄五郎と紋蔵の姿がよく描かれている。
第五話「握られた弱み」は、美人で有名な糸屋の娘が惚れて関係した鳶職の男が喧嘩で相手を傷つけた罪で投獄され、その罪を減じるために放火をするが(火事の時に一時囚人は釈放され、戻って来ると罪が減じられた)、6歳の子どもに目撃される。その目撃の信憑性をめぐって議論が起こったりするが、証言した6歳の子どもとその父親の行状が暴かれ、娘は無罪となり、鳶職の男も冤罪だということが分かる。しかし、実際は6歳の子どもの証言どおり娘は放火しており、その子どもに弱みを握られて娘は過ごさなければならないという結末となる。
昨夜はここまでしか読んでいないが、この時代の判例集などをよく調べて、その実情が反映されており、それらが生活者の目を通して語られているので、読んでいて「なるほど」と思うところもあり、また、主人公の人柄も、観察眼や推理力は鋭く、真直ぐに事件に関わってはいくが、物事に拘泥しないさっぱりとしたところがあって、事件の顛末もあっさりと描かれるので、読んでいて面白い。
このシリーズは全部で9作品あるので、ほかの作品も一読したいと思っている。
2010年1月28日木曜日
佐藤雅美『百助嘘八百物語』
薄墨を流したような雲が広がって流れていく。午後からは雨の予報も出ているが、洗濯物がたまってしまっているので朝から洗濯機を回した。そろそろ散髪もしなければあまりにひどい状態になっている。
仙台までの往復で佐藤雅美『百助嘘八百物語』(2000年 講談社 2004年 講談社文庫)を読んだ。金もないし能力もない、うだつの上がらない鳶人足で日雇稼ぎをしている「辰次」という青年が腹痛に苦しむ「百助」という老人を助けたことから、この老人の指示に従って江戸から長崎、そして大坂で一攫千金を夢見て詐欺まがいの行為をしながら、ついに大阪の米相場で大金を手にするまでを描いた痛快な作品である。
作者の佐藤雅美は、江戸時代の市場システムと社会構造、そして「金」で動く人間の心理に対する明快な洞察を背景としてもっているので、一獲千金を得る夢物語にもかかわらずリアリティをもった作品になっている。
「辰次」に助けられた「百助」は、実は大阪の大手の両替商の別家の息子だったのだが、米相場に手を出し、失敗したために大阪所払となり、江戸へ出てくる途中で美貌の女雲助から持ち金を盗られ、一文なしで日雇仕事をしていたが、「辰次」と出会うことによって、まず、無尽講でいかさまをして大金を作り、次にそれを元手に金儲けばかりを企む札差し(今で言えば金融機関)の「儲け心」を利用してさらに大金を稼ぎ、大名家の国替えにからむ経済変動を利用したり、両替商と飛脚問屋(今で言えば運送会社)が企んだ詐欺事件を暴いてその上前を強請り取ったり、大名家の家督相続に絡む御家騒動の真相をつかんで城代家老を強請ったりして大金を稼いでいく。
また為替相場で、銭座(銀行)の企みを暴いて大儲けをしたかと思うと、長崎まで出かけて賄賂で肥っていた長崎奉行の家老と悪徳商人を脅して大金をせしめる。そして、ついに大阪での米相場に乗り込み、見事に数万両もの金を稼ぐのである。
「百助」が大金をせしめていくのは、いずれも強欲な商人や自分の利のために企みを謀る武家であり、表には出せない金であって、そういう「ゼニの種」を探して、それをかすめ取っていく手腕と知恵を働かせ、作戦を練り、痛快に振る舞っていく。ただ、最後の大勝負と出た米相場では、うだつの上がらない鳶人足であった「辰次」が自分にとっての「福の神」であると信じる心と「天災による米相場の上昇」という神頼みである。こうしたところが、知恵と行動力をもち合わせている「百助」という老人の人間味を作って、「辰次」との関係や彼に仕えていく浪人たちや商家の下働きや手代などの関係を豊かなものにしている。
「ゼニ儲けを夢み、ゼニがすべて」ではあるが、こうした人情味なしには「ゼニは働かない」。百助の機敏がそれを生かしていくのである。商品相場で金儲けを企む小説としては松本清張の『告訴せず』(1974年 光文社)や企業小説を描いている清水一行という人の作品などがあるが、佐藤雅美の『百助嘘八百物語』は、人情味あふれる物語になっている。
人間が貨幣経済を生みだして以来、人間は貨幣に支配され、「ゼニがゼニを生む」仕組みを作り上げてそれに翻弄されてきて、経済支配社会を形成しているが、金銭を取り巻く状況は現代も少しも変りなく、そこではシビアな物質主義が横行する。それを利用し、それに立ち向かう「百助」が、最後が「信じる心と神頼み」であるというのも、あまりにうまくいきすぎて「夢物語」ではあるが、いい。そして、「世の中はゼニでっせ」と言い切るところが、胡散臭くなくていい。現実には、「金は儲けようと思わないと儲けることができないが、金儲けを企むものは必ず人生を失う」ことも事実ではある。
本書の文末、
「二万両の金とお美津・新太郎母子(「辰次」が貧にあえぐ母子と知り合い、これを助け、思いを寄せる母子)――。
夢だろうと辰次は思った。ほっぺたをつねったら、覚めるに違いないとも。つねってみようかと、辰次はほっぺたにそっと手をやったが、覚めたらまずいと引っ込めた。」(文庫版 343ページ)
という結末の言葉が味わい深い。
仙台までの往復で佐藤雅美『百助嘘八百物語』(2000年 講談社 2004年 講談社文庫)を読んだ。金もないし能力もない、うだつの上がらない鳶人足で日雇稼ぎをしている「辰次」という青年が腹痛に苦しむ「百助」という老人を助けたことから、この老人の指示に従って江戸から長崎、そして大坂で一攫千金を夢見て詐欺まがいの行為をしながら、ついに大阪の米相場で大金を手にするまでを描いた痛快な作品である。
作者の佐藤雅美は、江戸時代の市場システムと社会構造、そして「金」で動く人間の心理に対する明快な洞察を背景としてもっているので、一獲千金を得る夢物語にもかかわらずリアリティをもった作品になっている。
「辰次」に助けられた「百助」は、実は大阪の大手の両替商の別家の息子だったのだが、米相場に手を出し、失敗したために大阪所払となり、江戸へ出てくる途中で美貌の女雲助から持ち金を盗られ、一文なしで日雇仕事をしていたが、「辰次」と出会うことによって、まず、無尽講でいかさまをして大金を作り、次にそれを元手に金儲けばかりを企む札差し(今で言えば金融機関)の「儲け心」を利用してさらに大金を稼ぎ、大名家の国替えにからむ経済変動を利用したり、両替商と飛脚問屋(今で言えば運送会社)が企んだ詐欺事件を暴いてその上前を強請り取ったり、大名家の家督相続に絡む御家騒動の真相をつかんで城代家老を強請ったりして大金を稼いでいく。
また為替相場で、銭座(銀行)の企みを暴いて大儲けをしたかと思うと、長崎まで出かけて賄賂で肥っていた長崎奉行の家老と悪徳商人を脅して大金をせしめる。そして、ついに大阪での米相場に乗り込み、見事に数万両もの金を稼ぐのである。
「百助」が大金をせしめていくのは、いずれも強欲な商人や自分の利のために企みを謀る武家であり、表には出せない金であって、そういう「ゼニの種」を探して、それをかすめ取っていく手腕と知恵を働かせ、作戦を練り、痛快に振る舞っていく。ただ、最後の大勝負と出た米相場では、うだつの上がらない鳶人足であった「辰次」が自分にとっての「福の神」であると信じる心と「天災による米相場の上昇」という神頼みである。こうしたところが、知恵と行動力をもち合わせている「百助」という老人の人間味を作って、「辰次」との関係や彼に仕えていく浪人たちや商家の下働きや手代などの関係を豊かなものにしている。
「ゼニ儲けを夢み、ゼニがすべて」ではあるが、こうした人情味なしには「ゼニは働かない」。百助の機敏がそれを生かしていくのである。商品相場で金儲けを企む小説としては松本清張の『告訴せず』(1974年 光文社)や企業小説を描いている清水一行という人の作品などがあるが、佐藤雅美の『百助嘘八百物語』は、人情味あふれる物語になっている。
人間が貨幣経済を生みだして以来、人間は貨幣に支配され、「ゼニがゼニを生む」仕組みを作り上げてそれに翻弄されてきて、経済支配社会を形成しているが、金銭を取り巻く状況は現代も少しも変りなく、そこではシビアな物質主義が横行する。それを利用し、それに立ち向かう「百助」が、最後が「信じる心と神頼み」であるというのも、あまりにうまくいきすぎて「夢物語」ではあるが、いい。そして、「世の中はゼニでっせ」と言い切るところが、胡散臭くなくていい。現実には、「金は儲けようと思わないと儲けることができないが、金儲けを企むものは必ず人生を失う」ことも事実ではある。
本書の文末、
「二万両の金とお美津・新太郎母子(「辰次」が貧にあえぐ母子と知り合い、これを助け、思いを寄せる母子)――。
夢だろうと辰次は思った。ほっぺたをつねったら、覚めるに違いないとも。つねってみようかと、辰次はほっぺたにそっと手をやったが、覚めたらまずいと引っ込めた。」(文庫版 343ページ)
という結末の言葉が味わい深い。
2010年1月26日火曜日
佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』(2)
昨日しなかった掃除を朝から初めて、柱や壁まで拭きあげて、一息入れ、午後に出かけなければならない仙台までの新幹線の時刻を調べ、少しの時間があるのでパソコンを開いてこれを書いている。よく晴れた冬の日で、少々寒いが窓を開け放つと気持ちがいい。
昨夜、佐藤雅美『半次捕物帳 髻塚不首尾一件始末』を読み終えた。表題作ともなっている第六話「髻塚不首尾一件始末」は、あまり質の良くない町火消しと植木職人の喧嘩に半次が巻き込まれ、危ういところを風鈴狂四郎に助けられたりするが、結局、町火消しがその喧嘩を利用して金集めのために「髻塚」なるものを作って、そのことが当時の林大学頭衡(はやしだいがくのかみ たいら)の知るところとなり、町奉行を通してとがめられることになって、事なきを得ていくという話である。
「髻」というのは、頭上で頭髪を束ねたもので、ひらたく言えば「ちょんまげ」そのもので、「髻を切る」ことは、本来は生命をかけたことであるか出家することを意味した。町火消しが言いがかりをつけた喧嘩でこれを利用して、塚や記念碑を作り、法要を営むことで商家から多額の御布施をもらおうと画策したのである。
ここには、当時の町火消しの置かれた状況や彼らが何で生計を立てていたかがきちんとした背景となっており、生きるためにはあの手この手を考えなければならない事情は現代も同じで、そうした作者の生活経済に対する感覚が江戸の市井を生き延びていく人々の姿に反映されている。
一方、物語の方は、「第一話」で蟋蟀小三郎と風鈴狂四郎によって煮え湯を飲まされた大名が二人を立ち会わせるために画策して江戸城吹上御殿での「御前試合」なるものを計画し、功名を考える蟋蟀小三郎と再仕官によって国元で貧しい暮らしをしている母との暮らしを考える風鈴狂四郎が、共に、その「御前試合」の計略を知りながらも、その試合に出ていくことを決心していくという展開を見せる。
第七話「小三郎岡惚れのとばっちり」は、「第五話」で登場した蟋蟀小三郎に無理やり弟子にされた男の姉に、女好きの小三郎が「岡惚れ」し、その姉に起こっている縁談の相手を調べてくれるように半次に依頼する。半次が調べていくと、姉の縁談相手のもとの雇い主が、旗本家の養子縁組によって金銭をだまし取っていたことが判明し、それを恐れた雇い主が縁談相手を殺すという事件の顛末が描かれていく。
第八話「命あっての物種」は、いよいよ「御前試合」が開催されることになり、それに出場する一組の武芸者が互いに遺恨を抱くものであり、「御前試合」が「遺恨試合」となって、ついに途中で取りやめになるという出来事を描いたもので、当時(家斉の時代)におかれていた武芸者の顛末が描き出されていく。風鈴狂四郎と蟋蟀小三郎は、結局は立ち会うことはなかったが、風鈴狂四郎は、その腕が見込まれ、再仕官して国元に変えるし、蟋蟀小三郎は「何事も命あっての物種」と思っていく。
こうした八話の連作であるが、作者は、人が生きる上で不可欠な経済、つまり金(ゼニ)で人間が生きている姿を、それぞれ、町火消しや浪人、武芸者、そしていうまでもなく岡っ引き、博徒の事情を描き出すことで、より現実的な人間の姿を描いており、作品のリアリティということからいえば、まさにリアリティにあふれた、しかも娯楽味の大きい作品に仕上げている。
それに、描き出される主人公の半次や蟋蟀小三郎、風鈴狂四郎といった人物にも味があって、それぞれの立場は異なっているが、物事に捕らわれずに飄々と自分の生き方をしている姿は、「金」を中心に動くとはいえ、読んでいてすがすがしくさえある。
今日はこれから新幹線で、また別の佐藤雅美の作品を読もうと思っている。
昨夜、佐藤雅美『半次捕物帳 髻塚不首尾一件始末』を読み終えた。表題作ともなっている第六話「髻塚不首尾一件始末」は、あまり質の良くない町火消しと植木職人の喧嘩に半次が巻き込まれ、危ういところを風鈴狂四郎に助けられたりするが、結局、町火消しがその喧嘩を利用して金集めのために「髻塚」なるものを作って、そのことが当時の林大学頭衡(はやしだいがくのかみ たいら)の知るところとなり、町奉行を通してとがめられることになって、事なきを得ていくという話である。
「髻」というのは、頭上で頭髪を束ねたもので、ひらたく言えば「ちょんまげ」そのもので、「髻を切る」ことは、本来は生命をかけたことであるか出家することを意味した。町火消しが言いがかりをつけた喧嘩でこれを利用して、塚や記念碑を作り、法要を営むことで商家から多額の御布施をもらおうと画策したのである。
ここには、当時の町火消しの置かれた状況や彼らが何で生計を立てていたかがきちんとした背景となっており、生きるためにはあの手この手を考えなければならない事情は現代も同じで、そうした作者の生活経済に対する感覚が江戸の市井を生き延びていく人々の姿に反映されている。
一方、物語の方は、「第一話」で蟋蟀小三郎と風鈴狂四郎によって煮え湯を飲まされた大名が二人を立ち会わせるために画策して江戸城吹上御殿での「御前試合」なるものを計画し、功名を考える蟋蟀小三郎と再仕官によって国元で貧しい暮らしをしている母との暮らしを考える風鈴狂四郎が、共に、その「御前試合」の計略を知りながらも、その試合に出ていくことを決心していくという展開を見せる。
第七話「小三郎岡惚れのとばっちり」は、「第五話」で登場した蟋蟀小三郎に無理やり弟子にされた男の姉に、女好きの小三郎が「岡惚れ」し、その姉に起こっている縁談の相手を調べてくれるように半次に依頼する。半次が調べていくと、姉の縁談相手のもとの雇い主が、旗本家の養子縁組によって金銭をだまし取っていたことが判明し、それを恐れた雇い主が縁談相手を殺すという事件の顛末が描かれていく。
第八話「命あっての物種」は、いよいよ「御前試合」が開催されることになり、それに出場する一組の武芸者が互いに遺恨を抱くものであり、「御前試合」が「遺恨試合」となって、ついに途中で取りやめになるという出来事を描いたもので、当時(家斉の時代)におかれていた武芸者の顛末が描き出されていく。風鈴狂四郎と蟋蟀小三郎は、結局は立ち会うことはなかったが、風鈴狂四郎は、その腕が見込まれ、再仕官して国元に変えるし、蟋蟀小三郎は「何事も命あっての物種」と思っていく。
こうした八話の連作であるが、作者は、人が生きる上で不可欠な経済、つまり金(ゼニ)で人間が生きている姿を、それぞれ、町火消しや浪人、武芸者、そしていうまでもなく岡っ引き、博徒の事情を描き出すことで、より現実的な人間の姿を描いており、作品のリアリティということからいえば、まさにリアリティにあふれた、しかも娯楽味の大きい作品に仕上げている。
それに、描き出される主人公の半次や蟋蟀小三郎、風鈴狂四郎といった人物にも味があって、それぞれの立場は異なっているが、物事に捕らわれずに飄々と自分の生き方をしている姿は、「金」を中心に動くとはいえ、読んでいてすがすがしくさえある。
今日はこれから新幹線で、また別の佐藤雅美の作品を読もうと思っている。
2010年1月25日月曜日
佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』(1)
昨日の午後は、出かけようと思っていたところにも出かけず、うだうだと、借りてきていた『スターゲイト』(宇宙空間をワームホールでつないで探索をするSF)という米国TVドラマのDVDを見たり、本を読んだり、うとうと眠りこんだりして過ごしてしまい、夕食もありあわせで「雑煮」を作って簡単に済ませ、なんとなく日が暮れるという午後だった。ただ、日暮れの時間が、やはり少しずつ遅くなっているのを西の空をぼんやり眺めて感じていた。
夕暮れ時から、佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末(もとどりづかふしゅびいっけんしまつ)』(2007年 講談社)を読んでいる。これはこのシリーズの6作目の作品で、江戸中期(家斉時代)の江戸の岡っ引き「半次」を主人公に、金と女に目がない凄腕で人間味あふれる侍「蟋蟀小三郎」などを引き回し役にして物語が展開されていくものであるが、時代や社会考証がきちんと織り込まれているので、生身の人間がよく描かれて生活臭があり、事柄が錯綜して、しかもそれぞれに取り扱われている事件が面白く、「捕物帳」物の時代小説としては優れた作品だと思っている。
この6作目の『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』では、いずれも「蟋蟀小三郎」が関わる事件で、第一話「ちよ殿の知恵」では、拝領地(本来は江戸幕府が大名や家臣に貸し与えている土地)の売買をめぐっての争いに、一方の側に「蟋蟀小三郎」が用心棒として雇われ、もう一方の側に「蟋蟀小三郎」と同等の剣の腕を持つ「風鈴狂四郎」という浪人が雇われ、この二人の侍は、剣を抜きあうことになればいずれもけがをするか命を落とすことになるのを知っているので、争いたくなく、しかも用心棒代だけは欲しいという状態で、業を煮やした雇い主側が、二人の決着で争いを決めようとしたところ、「蟋蟀小三郎」が惚れて一緒になっている「ちよ」が知恵を働かせ、火事騒ぎを利用して拝領地に建てられている建物を壊して売買された拝領地に居座っていた側の転居をさせて無事に決着をつけるという話である。
結末は荒唐無稽なのだが、拝領地の売買をめぐる争いは当時の公事(民事)訴訟に基づくものであるし、金目当てに働いているがどこか憎めない蟋蟀小三郎と半次との「かけあい」や、蟋蟀小三郎が惚れている「ちよ」との蟋蟀小三郎との関係、お互いに生き伸びる知恵を働かせる風鈴狂四郎の姿など、抱腹絶倒の感がある。
第二話「助五郎の大手柄」は両国にあった幕府の御米蔵でこぼれおちた米を集めて売買する権利を持った人間の戸籍査証にからむ事件(人別が厳しかったので、人別の売買が行われていた)と大名家の妾腹にからんで当主の叔父と名乗る与太者から大名家が脅されるという事件が取り扱われており、大名家の脅しにからむ事件は第一話に登場した風鈴狂四郎が半次に始末を持ちこむのである。半次はこの二つの事件の探索にあたるが、第一の事件は風鈴狂四郎が行きつけの居酒屋に半次と行った時にそこの主人が人別売買をして偽戸籍を作っている人物であることが判明して、解決され、第二の事件は、第三話「強請の報酬」で、蟋蟀小三郎と昵懇になった風鈴狂四郎の知恵によって、大名家を強請っていた与太者を、その言い分通り大名家に迎え入れる格好で半監禁状態にするということで決着がつく。
この第三話で、蟋蟀小三郎は主家に御暇願いをし、晴れて浪人となって「ちよ」と結婚し、町道場を開いていくが、それが第四話へと繋がる。蟋蟀小三郎は奉行所からも主家からもいろいろな嫌疑を受けていくのだが、そんなものは「どこ吹く風」で、自分のやりたいことを貫いていく。もとより深い思惑があるとは思えないように振舞うし、その姿が小気味よくさえある。半次も、そのことを十分わかっていく。
第四話「銘水江戸乃水出入」は、新たに拝領屋敷を買った吝嗇家の公事宿の主人の吝嗇(けち)によって侮辱を受けた家主と蟋蟀小三郎が、その意趣返しに、酒樽に「銘水江戸乃水」と名札を張って公事宿の主人に届け、公事宿の主人がそれを「酒」と思って旗本のもとに届けたところ、それがただの「水」であるということで失態をしでかし、それを訴訟したことによって蟋蟀小三郎が取り調べを受けるという事件の顛末が描かれている。事件は、訴訟によって市中の噂の種となった旗本が公事宿の主人のあまりに横柄な態度に腹を立て、これを斬り殺すことで、訴訟人がいなくなったことにより蟋蟀小三郎が無罪となる結末となる。
町奉行所は日ごろから蟋蟀小三郎に目をつけており、しかも、奉行はこれを機に拝領屋敷の売買問題を明るみに出したいという思惑があってのことであるが、事件は思わぬ方向でうやむやとなり、蟋蟀小三郎は今回もすれすれのところで事なきを得ていく。
第五話「鬼も目にも涙」は、無理やりに道場の弟子にした悪ガキの姉が嫌な男に無理強いをされていること知った蟋蟀小三郎が、その男から箱訴(目安箱に訴えられる)されたことにからんで、その事件を半次が調べて明らかにしていく話である。
昨夜はここまで読んだが、作者の佐藤雅美は、公事訴訟の一件を描いた『恵比寿屋喜兵衛手控え』(1993年 講談社)で直木賞を受賞しており、公事訴訟についてはかなり綿密な知識があるので、この作品でもそれが見事に生かされて、昇華された形で物語が展開されている。だから、この「捕物帳」でも、それぞれの訴訟人の姿が蟋蟀小三郎という天衣無縫の人物をとおして詳細に描かれ、リアリティをもっている。それぞれの事件そのものの結末は平易すぎるとこともあるように思われるのだが、半次や蟋蟀小三郎の姿が生き生きとしているし、人間が微妙なバランスの上で生きていることが危うい中を飄々と生きていく蟋蟀小三郎の姿を通して描かれている。
知識がこういう姿で昇華されて作品の中で生きているのを見るのは本当に楽しいので、このシリーズは、彼がこれまで書いてきたものが凝縮されているようにも思える。知識は、むき出しのままでは、ただの知識としてしか意味を持たないが、人間の中で昇華されて初めて意義をもつ。この作品はそんなことも感じさせる作品である。
今日は午後から都内で会議が一つある予定だったが、体調がすぐれずに欠席することにした。毎年、この時期はこういうことがあるようになってきた。明日は仙台にまで行かなければならないが、どうだろうか。
夕暮れ時から、佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末(もとどりづかふしゅびいっけんしまつ)』(2007年 講談社)を読んでいる。これはこのシリーズの6作目の作品で、江戸中期(家斉時代)の江戸の岡っ引き「半次」を主人公に、金と女に目がない凄腕で人間味あふれる侍「蟋蟀小三郎」などを引き回し役にして物語が展開されていくものであるが、時代や社会考証がきちんと織り込まれているので、生身の人間がよく描かれて生活臭があり、事柄が錯綜して、しかもそれぞれに取り扱われている事件が面白く、「捕物帳」物の時代小説としては優れた作品だと思っている。
この6作目の『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』では、いずれも「蟋蟀小三郎」が関わる事件で、第一話「ちよ殿の知恵」では、拝領地(本来は江戸幕府が大名や家臣に貸し与えている土地)の売買をめぐっての争いに、一方の側に「蟋蟀小三郎」が用心棒として雇われ、もう一方の側に「蟋蟀小三郎」と同等の剣の腕を持つ「風鈴狂四郎」という浪人が雇われ、この二人の侍は、剣を抜きあうことになればいずれもけがをするか命を落とすことになるのを知っているので、争いたくなく、しかも用心棒代だけは欲しいという状態で、業を煮やした雇い主側が、二人の決着で争いを決めようとしたところ、「蟋蟀小三郎」が惚れて一緒になっている「ちよ」が知恵を働かせ、火事騒ぎを利用して拝領地に建てられている建物を壊して売買された拝領地に居座っていた側の転居をさせて無事に決着をつけるという話である。
結末は荒唐無稽なのだが、拝領地の売買をめぐる争いは当時の公事(民事)訴訟に基づくものであるし、金目当てに働いているがどこか憎めない蟋蟀小三郎と半次との「かけあい」や、蟋蟀小三郎が惚れている「ちよ」との蟋蟀小三郎との関係、お互いに生き伸びる知恵を働かせる風鈴狂四郎の姿など、抱腹絶倒の感がある。
第二話「助五郎の大手柄」は両国にあった幕府の御米蔵でこぼれおちた米を集めて売買する権利を持った人間の戸籍査証にからむ事件(人別が厳しかったので、人別の売買が行われていた)と大名家の妾腹にからんで当主の叔父と名乗る与太者から大名家が脅されるという事件が取り扱われており、大名家の脅しにからむ事件は第一話に登場した風鈴狂四郎が半次に始末を持ちこむのである。半次はこの二つの事件の探索にあたるが、第一の事件は風鈴狂四郎が行きつけの居酒屋に半次と行った時にそこの主人が人別売買をして偽戸籍を作っている人物であることが判明して、解決され、第二の事件は、第三話「強請の報酬」で、蟋蟀小三郎と昵懇になった風鈴狂四郎の知恵によって、大名家を強請っていた与太者を、その言い分通り大名家に迎え入れる格好で半監禁状態にするということで決着がつく。
この第三話で、蟋蟀小三郎は主家に御暇願いをし、晴れて浪人となって「ちよ」と結婚し、町道場を開いていくが、それが第四話へと繋がる。蟋蟀小三郎は奉行所からも主家からもいろいろな嫌疑を受けていくのだが、そんなものは「どこ吹く風」で、自分のやりたいことを貫いていく。もとより深い思惑があるとは思えないように振舞うし、その姿が小気味よくさえある。半次も、そのことを十分わかっていく。
第四話「銘水江戸乃水出入」は、新たに拝領屋敷を買った吝嗇家の公事宿の主人の吝嗇(けち)によって侮辱を受けた家主と蟋蟀小三郎が、その意趣返しに、酒樽に「銘水江戸乃水」と名札を張って公事宿の主人に届け、公事宿の主人がそれを「酒」と思って旗本のもとに届けたところ、それがただの「水」であるということで失態をしでかし、それを訴訟したことによって蟋蟀小三郎が取り調べを受けるという事件の顛末が描かれている。事件は、訴訟によって市中の噂の種となった旗本が公事宿の主人のあまりに横柄な態度に腹を立て、これを斬り殺すことで、訴訟人がいなくなったことにより蟋蟀小三郎が無罪となる結末となる。
町奉行所は日ごろから蟋蟀小三郎に目をつけており、しかも、奉行はこれを機に拝領屋敷の売買問題を明るみに出したいという思惑があってのことであるが、事件は思わぬ方向でうやむやとなり、蟋蟀小三郎は今回もすれすれのところで事なきを得ていく。
第五話「鬼も目にも涙」は、無理やりに道場の弟子にした悪ガキの姉が嫌な男に無理強いをされていること知った蟋蟀小三郎が、その男から箱訴(目安箱に訴えられる)されたことにからんで、その事件を半次が調べて明らかにしていく話である。
昨夜はここまで読んだが、作者の佐藤雅美は、公事訴訟の一件を描いた『恵比寿屋喜兵衛手控え』(1993年 講談社)で直木賞を受賞しており、公事訴訟についてはかなり綿密な知識があるので、この作品でもそれが見事に生かされて、昇華された形で物語が展開されている。だから、この「捕物帳」でも、それぞれの訴訟人の姿が蟋蟀小三郎という天衣無縫の人物をとおして詳細に描かれ、リアリティをもっている。それぞれの事件そのものの結末は平易すぎるとこともあるように思われるのだが、半次や蟋蟀小三郎の姿が生き生きとしているし、人間が微妙なバランスの上で生きていることが危うい中を飄々と生きていく蟋蟀小三郎の姿を通して描かれている。
知識がこういう姿で昇華されて作品の中で生きているのを見るのは本当に楽しいので、このシリーズは、彼がこれまで書いてきたものが凝縮されているようにも思える。知識は、むき出しのままでは、ただの知識としてしか意味を持たないが、人間の中で昇華されて初めて意義をもつ。この作品はそんなことも感じさせる作品である。
今日は午後から都内で会議が一つある予定だったが、体調がすぐれずに欠席することにした。毎年、この時期はこういうことがあるようになってきた。明日は仙台にまで行かなければならないが、どうだろうか。
2010年1月15日金曜日
佐藤雅美『恵比寿屋喜兵衛手控え』(2)
昨日は38歳で生涯を終えなければならなかったTさんの葬儀が行われた。よく晴れてはいたが風が刺すように冷たい寒い日だった。
かなりの疲労感を覚え、あまりよく眠れないままに、佐藤雅美『恵比寿屋喜兵衛手控え』を読み続けた。公事宿(訴訟人が泊まる宿)である恵比寿屋の主人喜兵衛は、彼のもとに越後の田舎から出てきた金公事(金銭をめぐる民事訴訟)で訴えられた男の手伝いをすることになり、その訴訟が金銭をだまし取るために巧妙に仕組まれたものであることを明白にしていく。越後の田舎から出てきた男の兄が巧妙な罠にはめられており、その背後には、喜兵衛の営む「旅人宿」と敵対する「百姓宿」の主人の陰謀があったり、公事(訴訟)によって金銭をかすめ取っていく「公事師」の巧妙な策略があったりしたのである。
歴史・時代小説の中で、こうした民事裁判の事例が詳細に取り扱われるのは極めて稀なことであろうが、作者の佐藤雅美は、当時の公事(訴訟)の取り扱いや方法、法令などを丹念に調べ(文庫版の巻末にあげられている参考文献だけでも相当なものである)、それに従った形で物語を展開していきながら、この訴訟の黒幕であった「百姓宿」の主人が、実は、喜兵衛の妻をめぐる恋仇であったことの恨みと嫉妬をもっていたり、彼の妻がその「百姓宿」の主人と不貞を働いたことがあったりすることが次第に分かっていき、喜兵衛の複雑な思いが記されていく。喜兵衛の妻は、病に倒れており、彼女の不貞を種に金だけで動く厚顔の不良御家人から金銭を脅し取られたりしている。
喜兵衛には一男一女の子どもがいるが、いずれも親の意に反して家を出ており、長男は錠前職人となっているし、長女はヤクザな男と所帯をもっている。喜兵衛の家族は崩壊している。そして、喜兵衛には深川に世話をしている女がおり、その間に一男を設けていて、彼はその女性のところでだけ安らぎを覚えている。こういう主人公の人物像には、当然、「深み」が必要とされるが、佐藤雅美はそれを見事に、無理なく描き出している。
この作品の中に、この複雑に仕組まれた公事の真相を見事に裁いていく名与力が登場する。この与力の丁寧な調査と眼力によって事件の真相が八割ほど明らかになっていくが、彼もまた町奉行の移動によって役を離れさせられた元の内与力(町奉行付き与力)によって冤罪の過ちを犯させられそうになるが、喜兵衛の機転と推理によって事なきを得、さらに真相を暴いていく。与力という仕事に従事しなければならない人間の苦悩も描き出されている。非創造的な仕事には、いつも仕事そのものによる喜びが少ない。名与力は聡明なだけに、そのことを深く感じていくのである。
そして、陰謀をたくらんだ「百姓宿」の主人は家財没収となり、喜兵衛はその家族や彼の使用人たちのために没収された宿を買い取ることになっていくが、その心境は複雑で、最後は、次のように記されている。
「六十六部は滅罪の功徳を得るため諸国の寺社を巡礼して歩くのだという。
喜兵衛は六十六部に自分の姿を重ねてみた。」(文庫版 401ページ)
この終わり方も、また、味のある終わり方ではないだろうか。人は様々なことを背負って生きているのだから、その重荷を暗示するこうした表現で、主人公の生身の姿が見事に結実していると言えるであろう。
綿密な考察と展開、錯綜している人物たちの姿が丹念につづられた読みごたえのある秀作で、直木賞受賞作品であることをうなずくことができる作品である。
かなりの疲労感を覚え、あまりよく眠れないままに、佐藤雅美『恵比寿屋喜兵衛手控え』を読み続けた。公事宿(訴訟人が泊まる宿)である恵比寿屋の主人喜兵衛は、彼のもとに越後の田舎から出てきた金公事(金銭をめぐる民事訴訟)で訴えられた男の手伝いをすることになり、その訴訟が金銭をだまし取るために巧妙に仕組まれたものであることを明白にしていく。越後の田舎から出てきた男の兄が巧妙な罠にはめられており、その背後には、喜兵衛の営む「旅人宿」と敵対する「百姓宿」の主人の陰謀があったり、公事(訴訟)によって金銭をかすめ取っていく「公事師」の巧妙な策略があったりしたのである。
歴史・時代小説の中で、こうした民事裁判の事例が詳細に取り扱われるのは極めて稀なことであろうが、作者の佐藤雅美は、当時の公事(訴訟)の取り扱いや方法、法令などを丹念に調べ(文庫版の巻末にあげられている参考文献だけでも相当なものである)、それに従った形で物語を展開していきながら、この訴訟の黒幕であった「百姓宿」の主人が、実は、喜兵衛の妻をめぐる恋仇であったことの恨みと嫉妬をもっていたり、彼の妻がその「百姓宿」の主人と不貞を働いたことがあったりすることが次第に分かっていき、喜兵衛の複雑な思いが記されていく。喜兵衛の妻は、病に倒れており、彼女の不貞を種に金だけで動く厚顔の不良御家人から金銭を脅し取られたりしている。
喜兵衛には一男一女の子どもがいるが、いずれも親の意に反して家を出ており、長男は錠前職人となっているし、長女はヤクザな男と所帯をもっている。喜兵衛の家族は崩壊している。そして、喜兵衛には深川に世話をしている女がおり、その間に一男を設けていて、彼はその女性のところでだけ安らぎを覚えている。こういう主人公の人物像には、当然、「深み」が必要とされるが、佐藤雅美はそれを見事に、無理なく描き出している。
この作品の中に、この複雑に仕組まれた公事の真相を見事に裁いていく名与力が登場する。この与力の丁寧な調査と眼力によって事件の真相が八割ほど明らかになっていくが、彼もまた町奉行の移動によって役を離れさせられた元の内与力(町奉行付き与力)によって冤罪の過ちを犯させられそうになるが、喜兵衛の機転と推理によって事なきを得、さらに真相を暴いていく。与力という仕事に従事しなければならない人間の苦悩も描き出されている。非創造的な仕事には、いつも仕事そのものによる喜びが少ない。名与力は聡明なだけに、そのことを深く感じていくのである。
そして、陰謀をたくらんだ「百姓宿」の主人は家財没収となり、喜兵衛はその家族や彼の使用人たちのために没収された宿を買い取ることになっていくが、その心境は複雑で、最後は、次のように記されている。
「六十六部は滅罪の功徳を得るため諸国の寺社を巡礼して歩くのだという。
喜兵衛は六十六部に自分の姿を重ねてみた。」(文庫版 401ページ)
この終わり方も、また、味のある終わり方ではないだろうか。人は様々なことを背負って生きているのだから、その重荷を暗示するこうした表現で、主人公の生身の姿が見事に結実していると言えるであろう。
綿密な考察と展開、錯綜している人物たちの姿が丹念につづられた読みごたえのある秀作で、直木賞受賞作品であることをうなずくことができる作品である。
2010年1月12日火曜日
佐藤雅美『恵比寿屋喜兵衛手控え』(1)
寒い朝になった。雨の予報が出ているがまだ降ってはいない。こういう天気の時の雨は、もし降れば絹のような細くて冷たい雨だろう。山沿いでは雪になるかもしれない。
昨夜、これまで佐藤雅美のいくつかの作品を乱読してきていたので、この作家の良さをもう少し知りたいと思って、彼が1993年に直木賞を受賞した作品である『恵比寿屋喜兵衛手控え』(1993年 講談社 1996年 講談社文庫)を少し丁寧に読み始めた。
この作品は馬喰町(ばくろうちょう)の通称「旅人宿」と呼ばれる公事宿(奉行所での訴訟のために宿泊する宿)の主人である恵比寿屋の喜兵衛を主人公として、江戸時代における訴訟事件を取り扱った作品で、決してきれい事では済まない生身の人間としての登場人物たちが描かれている秀作である。
佐藤雅美は、これまでも見てきたように時代や社会に対する歴史考証がかなり厳密で、この作品では、それが物語に展開の中で見事に生かされており、人間に対する見方も、市井に生なましく生きる人間を重んじる視点をもっており、この作品は、さらに、文章の構成もかなり推敲が重ねられたと思われる箇所が随所にあって、物語の構造も、一つのことが全体に繋がっていくような構成の中で登場人物たちの姿が掘り下げられていく構造をもっている。
まず、最初の書き出しからして、
「障子ごしに日が斜めにさしこみ、部屋がぱっと明るくなった。
日の傾きかげんから察するに、そろそろ七つ(午後四時)になろうかという、客引きに表に出なければならない頃あいだ。
喜兵衛は下駄をつっかけて表にでた」(文庫版 9ページ)
となっており、この書き出しによって、季節が秋で、喜兵衛という人物が夕暮れ時に客引きをしなければならない仕事をしていることが分かるし、鳥瞰的な視点ではなく、ひとりの人間の目を通しての視点で物語が進行していくことを伺わせるものとなっている。
こういう書き出しは、物語の視点がきちんと定まっていないと出来ない書き出しであり、作者の力量が無理のない相当なものであることを伺わせるものである。
こういうことを思いながら読んでいると、突然、Tさんの訃報の連絡が御主人から入った。まだ38歳の若さで、急性心不全ということだが、何とも痛ましい。人は限りある生命を生きている以上、その終わりも迎えなければならないし、それぞれの命には「時」があるのだが、人の生の終わりは、人知では計りしれないとつくづく思う。昨年のクリスマスに少し長く個人的な話を伺っていて、状態の回復を祈念していたが、突然の死の訪れに愕然とした。人はただ祈ることしかできない。地から取り去られたが、天に一人が加えられたのだ。祈ることができることを信じよう。
昨夜、これまで佐藤雅美のいくつかの作品を乱読してきていたので、この作家の良さをもう少し知りたいと思って、彼が1993年に直木賞を受賞した作品である『恵比寿屋喜兵衛手控え』(1993年 講談社 1996年 講談社文庫)を少し丁寧に読み始めた。
この作品は馬喰町(ばくろうちょう)の通称「旅人宿」と呼ばれる公事宿(奉行所での訴訟のために宿泊する宿)の主人である恵比寿屋の喜兵衛を主人公として、江戸時代における訴訟事件を取り扱った作品で、決してきれい事では済まない生身の人間としての登場人物たちが描かれている秀作である。
佐藤雅美は、これまでも見てきたように時代や社会に対する歴史考証がかなり厳密で、この作品では、それが物語に展開の中で見事に生かされており、人間に対する見方も、市井に生なましく生きる人間を重んじる視点をもっており、この作品は、さらに、文章の構成もかなり推敲が重ねられたと思われる箇所が随所にあって、物語の構造も、一つのことが全体に繋がっていくような構成の中で登場人物たちの姿が掘り下げられていく構造をもっている。
まず、最初の書き出しからして、
「障子ごしに日が斜めにさしこみ、部屋がぱっと明るくなった。
日の傾きかげんから察するに、そろそろ七つ(午後四時)になろうかという、客引きに表に出なければならない頃あいだ。
喜兵衛は下駄をつっかけて表にでた」(文庫版 9ページ)
となっており、この書き出しによって、季節が秋で、喜兵衛という人物が夕暮れ時に客引きをしなければならない仕事をしていることが分かるし、鳥瞰的な視点ではなく、ひとりの人間の目を通しての視点で物語が進行していくことを伺わせるものとなっている。
こういう書き出しは、物語の視点がきちんと定まっていないと出来ない書き出しであり、作者の力量が無理のない相当なものであることを伺わせるものである。
こういうことを思いながら読んでいると、突然、Tさんの訃報の連絡が御主人から入った。まだ38歳の若さで、急性心不全ということだが、何とも痛ましい。人は限りある生命を生きている以上、その終わりも迎えなければならないし、それぞれの命には「時」があるのだが、人の生の終わりは、人知では計りしれないとつくづく思う。昨年のクリスマスに少し長く個人的な話を伺っていて、状態の回復を祈念していたが、突然の死の訪れに愕然とした。人はただ祈ることしかできない。地から取り去られたが、天に一人が加えられたのだ。祈ることができることを信じよう。
2010年1月11日月曜日
佐藤雅美『半次捕物控 泣く子と小三郎』
今にも雨か雪が降り出しそうな空が広がっている。昨夜、夕食を食べてすぐから12時間余りも眠ってしまった。途中何度かトイレに起きたほかは、いくつかの脈絡のない夢を見ていたので、眠りは浅かったのだろう。月曜日は「家事の日」と決めてはいたが、8時ごろ起き出して、何もせずにぼんやり過ごしていた。冬眠の季節は、時々こういうのがあるなぁ。
一昨日の夜と昨日の夕方、佐藤雅美『半次捕物控 泣く子と小三郎』(2006年 講談社)を読んだ。これはこのシリーズの5作目で、8日(金)に記したシリーズの3作目『命みょうが 半次捕物控』(2002年 講談社との間には4作目『疑惑』があるが、3作目に登場した蟋蟀小三郎が、主人公半次の妻の働きによって国表である越前丸岡藩に無事に帰された後、再び、江戸勤めとなって江戸に帰って来たところから物語が始まっており、彼と半次の遠慮のない絶妙なやりとりからすれば、3作目の続きとも言える作品となっている。
ただ、表題からして、前々作は『命みょうが 半次捕物控』であったものが、この作品は『半次捕物控 泣く子と小三郎』になっており、より主人公の半次の捕物帳が詳しくなって、一つ一つの事件が詳細に描かれ、蟋蟀小三郎も味のある脇役ぶりにとどめられている。
その代わりに、蟋蟀小三郎が世話をしてくれと半次のもとに連れてきた小坊主の素性が、物語を追うに従って次第に明らかにされていくという線が一本通されていく構成がとられていて、この辺りはさすがに巧みと言わなければならないだろう。
この小坊主は、本名が久保恒次郎といい、対馬藩のお家騒動にからんで、敗北した父親が遠島となり、母親が死んでいることが分かる。恒次郎は半次の家に厄介になりながらその家の幼い養女とも仲良くなり、手習所にも通い、秀才と誉れが高くなり学問にはげんでいく。半次は、そうした恒次郎を温かく見守っていく。この恒次郎という少年もきちんとしたけじめと矜持をもった少年で、無遠慮な蟋蟀小三郎に対しても小気味よく対応する少年である。
本作品には全部で八話が収録されているが、いずれも半次の推理がさえていく話であり、贋作をめぐっての町奉行を巻き込んだ騒動を描いた「第一話 御奉行の十露盤」から蟋蟀小三郎が惚れて一緒暮らすことになった「ちよ」という武家の後家の「仇打ち」をめぐっての元夫の置かれた状況や同僚の手当の二重搾取の事件を取り扱った「第八話 ちよ女の仇」まで、事件の顛末と謎ときが見事に展開されている。この作品は、作者の脂が乗り切った作品のひとつではないだろうか。
一昨日の夜と昨日の夕方、佐藤雅美『半次捕物控 泣く子と小三郎』(2006年 講談社)を読んだ。これはこのシリーズの5作目で、8日(金)に記したシリーズの3作目『命みょうが 半次捕物控』(2002年 講談社との間には4作目『疑惑』があるが、3作目に登場した蟋蟀小三郎が、主人公半次の妻の働きによって国表である越前丸岡藩に無事に帰された後、再び、江戸勤めとなって江戸に帰って来たところから物語が始まっており、彼と半次の遠慮のない絶妙なやりとりからすれば、3作目の続きとも言える作品となっている。
ただ、表題からして、前々作は『命みょうが 半次捕物控』であったものが、この作品は『半次捕物控 泣く子と小三郎』になっており、より主人公の半次の捕物帳が詳しくなって、一つ一つの事件が詳細に描かれ、蟋蟀小三郎も味のある脇役ぶりにとどめられている。
その代わりに、蟋蟀小三郎が世話をしてくれと半次のもとに連れてきた小坊主の素性が、物語を追うに従って次第に明らかにされていくという線が一本通されていく構成がとられていて、この辺りはさすがに巧みと言わなければならないだろう。
この小坊主は、本名が久保恒次郎といい、対馬藩のお家騒動にからんで、敗北した父親が遠島となり、母親が死んでいることが分かる。恒次郎は半次の家に厄介になりながらその家の幼い養女とも仲良くなり、手習所にも通い、秀才と誉れが高くなり学問にはげんでいく。半次は、そうした恒次郎を温かく見守っていく。この恒次郎という少年もきちんとしたけじめと矜持をもった少年で、無遠慮な蟋蟀小三郎に対しても小気味よく対応する少年である。
本作品には全部で八話が収録されているが、いずれも半次の推理がさえていく話であり、贋作をめぐっての町奉行を巻き込んだ騒動を描いた「第一話 御奉行の十露盤」から蟋蟀小三郎が惚れて一緒暮らすことになった「ちよ」という武家の後家の「仇打ち」をめぐっての元夫の置かれた状況や同僚の手当の二重搾取の事件を取り扱った「第八話 ちよ女の仇」まで、事件の顛末と謎ときが見事に展開されている。この作品は、作者の脂が乗り切った作品のひとつではないだろうか。
2010年1月8日金曜日
佐藤雅美『命みょうが 半次捕物控』
今日もこちらはよく晴れている。寒いことは寒いが、晴れているとなんだか温かそうな気がしてくるから、人の感覚というのは不思議なものだと思ったりする。水仙が顔を出しそうな気配がする。
昨夜、佐藤雅美『命みょうが 半次捕物控』(2002年 講談社 2005年 講談社文庫)を抱腹絶倒とまではいかないけれども、楽しく読んだ。
この作品は江戸中期の岡っ引き「半次」を主人公とする捕物帳もので、佐藤雅美が、いわゆる歴史経済小説というような『大君の通貨』や『薩摩藩経済官僚』、『主殿の税』といった作品の後で挑戦した時代小説の第一弾のシリーズ「半次捕物控」の第三作目の作品である。
このシリーズの第一作目は、些細な盗難事件(雪駄の盗難)から大きな陰謀へと繋がっていった『影帳』で、第二作目は、江戸町奉行の密命を受けて主人公が備前岡山まで行く『揚羽の蝶』であり、第二作目は、昨年バザーで手に入れているが、いずれもまだ読んではいない。
書物の名前から明白に推量されるように、このシリーズは、岡本綺堂(1872-1939)の名作『半七捕物帳』を意識したものだろうが、岡本綺堂の「半七」が「弱気を助け、強きをくじく」正義派の人間だったのに対し、佐藤雅美の「半次」は、犯罪を揉み消しにすること(引合)や付け届け(厳密に現代で言うなら贈収賄だろう)で糊塗を稼ぐ生身の人間であり、場合によっては奉行所の命令で真実を闇に葬ることもあし、恰好よく立ち回りもしない。自らかつては犯罪に手を染めたこともある、と言う。
佐藤雅美の時代や社会に対する考証は、やはり確かなもので、このシリーズでもそれがいかんなく発揮され、細かなこともしっかりとした裏付けがされている。
『命みょうが』は、茅場町の薬師堂の縁日で若い娘の尻をさわった嫌疑で捕えられた田舎侍の身柄を預かることになった半次が、この汚らしい恰好をしているが剣の腕が桁外れている田舎侍の素性を探っていく中で、やがては彼の背景に越前丸岡有馬家の家督相続に絡む争いがあることを突き止めていくことが一本の線として貫かれ、その中にそれぞれが一話完結の形で、銅物屋(かなものや)の主人が殺された事件(「博多の帯」)、土左衛門(水死人)の入れ歯から事件の真相が暴かれていく事件(「斬り落とされた腕」)、江戸市中の御留場(鳥の捕獲の禁止区域)で鳥の捕獲をしていた旗本を脅したことで遠島になり、島抜け(脱走)してきた脅迫犯が絡んだ事件(「関東のツレション」)、大名家の家臣の商家への脅しや太物屋(木綿問屋)の江戸支配人が殺された事件(「命みょうが」)、常磐津(小唄)の「名弘メ」(襲名披露)を利用して悪銭を稼ごうとしたヤクザが殺された事件(「用人山川頼母の陰謀」)、御数寄屋坊主(城中における茶の接待をする坊主)による詐欺事件に絡んで、事の顛末が芝居になってしまった事件(「朧月夜血塗骨董(おぼるづきよちぬりのなまくび)」)、などが描かれている。
これらの事件そのものは、あっけないほどの幕切れで、もう少し事件が込み入った方が面白いかとも思ったが、これらの事件に半次が引き取った田舎侍「蟋蟀小三郎(こおろぎ こさぶろう)」が小気味がいいほど関係していて、平然と半次の女房や常磐津の師匠を口説いたり、詐欺を働いた茶坊主を逆に脅して大金を巻き上げたり、事件の犯人ではないかと疑われる中で半次の家に平然と出入りしたり、寄食することをなんとも思わなかったり、度胸が据わって腕も知恵もある魅力的な浪人として登場し、彼が抱えるもとの主家の御家騒動の実態が暴かれていく大筋へと繋がっていくのである。
半次もなかなか味のある魅力的な岡っ引きであるなら、蟋蟀小三郎も魅力的な人物であり、これらの両者が絡み合って事件が解決していく姿がずっと描き出されている。半次は、岡っ引きという仕事が強請やたかりめいたことをしなければ成り立たないことを自覚しているし、蟋蟀小三郎も、独りよがりな御家騒動にからんで平然と嘘もつくし、人を斬ることにも抵抗がない。人には嫉妬心もあり、恨みもあり、意地もある。そして、人が生きる上でお金が必要なことも作者は赤裸々に描き出すし、結末に至る伏線もたくさん張られていて、読んでいて嫌味がない。
彼の『物書同心居眠り紋蔵』のシリーズも面白いが、このシリーズも面白い。作者の佐藤雅美の視座については、これまでも折に触れて書いてきたし、彼の立ち位置が非権威主義であるのもいい。
ここまで書いた時、雲が出てきて少し陰って来た。陽のあるうちに、今日は少し歩こう。車のバッテリーがまた上がってしまって、動かないのでちょうどいい。
昨夜、佐藤雅美『命みょうが 半次捕物控』(2002年 講談社 2005年 講談社文庫)を抱腹絶倒とまではいかないけれども、楽しく読んだ。
この作品は江戸中期の岡っ引き「半次」を主人公とする捕物帳もので、佐藤雅美が、いわゆる歴史経済小説というような『大君の通貨』や『薩摩藩経済官僚』、『主殿の税』といった作品の後で挑戦した時代小説の第一弾のシリーズ「半次捕物控」の第三作目の作品である。
このシリーズの第一作目は、些細な盗難事件(雪駄の盗難)から大きな陰謀へと繋がっていった『影帳』で、第二作目は、江戸町奉行の密命を受けて主人公が備前岡山まで行く『揚羽の蝶』であり、第二作目は、昨年バザーで手に入れているが、いずれもまだ読んではいない。
書物の名前から明白に推量されるように、このシリーズは、岡本綺堂(1872-1939)の名作『半七捕物帳』を意識したものだろうが、岡本綺堂の「半七」が「弱気を助け、強きをくじく」正義派の人間だったのに対し、佐藤雅美の「半次」は、犯罪を揉み消しにすること(引合)や付け届け(厳密に現代で言うなら贈収賄だろう)で糊塗を稼ぐ生身の人間であり、場合によっては奉行所の命令で真実を闇に葬ることもあし、恰好よく立ち回りもしない。自らかつては犯罪に手を染めたこともある、と言う。
佐藤雅美の時代や社会に対する考証は、やはり確かなもので、このシリーズでもそれがいかんなく発揮され、細かなこともしっかりとした裏付けがされている。
『命みょうが』は、茅場町の薬師堂の縁日で若い娘の尻をさわった嫌疑で捕えられた田舎侍の身柄を預かることになった半次が、この汚らしい恰好をしているが剣の腕が桁外れている田舎侍の素性を探っていく中で、やがては彼の背景に越前丸岡有馬家の家督相続に絡む争いがあることを突き止めていくことが一本の線として貫かれ、その中にそれぞれが一話完結の形で、銅物屋(かなものや)の主人が殺された事件(「博多の帯」)、土左衛門(水死人)の入れ歯から事件の真相が暴かれていく事件(「斬り落とされた腕」)、江戸市中の御留場(鳥の捕獲の禁止区域)で鳥の捕獲をしていた旗本を脅したことで遠島になり、島抜け(脱走)してきた脅迫犯が絡んだ事件(「関東のツレション」)、大名家の家臣の商家への脅しや太物屋(木綿問屋)の江戸支配人が殺された事件(「命みょうが」)、常磐津(小唄)の「名弘メ」(襲名披露)を利用して悪銭を稼ごうとしたヤクザが殺された事件(「用人山川頼母の陰謀」)、御数寄屋坊主(城中における茶の接待をする坊主)による詐欺事件に絡んで、事の顛末が芝居になってしまった事件(「朧月夜血塗骨董(おぼるづきよちぬりのなまくび)」)、などが描かれている。
これらの事件そのものは、あっけないほどの幕切れで、もう少し事件が込み入った方が面白いかとも思ったが、これらの事件に半次が引き取った田舎侍「蟋蟀小三郎(こおろぎ こさぶろう)」が小気味がいいほど関係していて、平然と半次の女房や常磐津の師匠を口説いたり、詐欺を働いた茶坊主を逆に脅して大金を巻き上げたり、事件の犯人ではないかと疑われる中で半次の家に平然と出入りしたり、寄食することをなんとも思わなかったり、度胸が据わって腕も知恵もある魅力的な浪人として登場し、彼が抱えるもとの主家の御家騒動の実態が暴かれていく大筋へと繋がっていくのである。
半次もなかなか味のある魅力的な岡っ引きであるなら、蟋蟀小三郎も魅力的な人物であり、これらの両者が絡み合って事件が解決していく姿がずっと描き出されている。半次は、岡っ引きという仕事が強請やたかりめいたことをしなければ成り立たないことを自覚しているし、蟋蟀小三郎も、独りよがりな御家騒動にからんで平然と嘘もつくし、人を斬ることにも抵抗がない。人には嫉妬心もあり、恨みもあり、意地もある。そして、人が生きる上でお金が必要なことも作者は赤裸々に描き出すし、結末に至る伏線もたくさん張られていて、読んでいて嫌味がない。
彼の『物書同心居眠り紋蔵』のシリーズも面白いが、このシリーズも面白い。作者の佐藤雅美の視座については、これまでも折に触れて書いてきたし、彼の立ち位置が非権威主義であるのもいい。
ここまで書いた時、雲が出てきて少し陰って来た。陽のあるうちに、今日は少し歩こう。車のバッテリーがまた上がってしまって、動かないのでちょうどいい。
2009年12月24日木曜日
佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2)
It’s Christmas Eve.
朝方かかっていた薄雲が晴れて、蒼碧の空が広がっているが、気温が低いので空気に刺すような冷たさを感じる。
このところ『のだめカンタービレ』にはまっていて、昨夜は、そのアニメ版を見たりしていた。一途な思いは、やはり人を動かす力がある。作品の中で使われているJ.ブラームス(1833-1897年)の「交響曲第1番」を聴いて見ようかと思ったりする。ブラームスはなかなか自分の気持ちを素直に伝えることが苦手で表面に出ることを嫌って、おそらくシューマンの妻クララへの恋心もあっただろうが、質素な生活を好み、自然を愛した人だとも言われている。
わたしは音楽に関してはほとんど無知だが、「無駄なものは何もない」という彼の哲学は、晩年の「クラリネット三重奏」や「クラリネット五重奏」などを聴いているとわかるような気もする。
さて、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』の続きだが、第四話は旗本と町火消しとの争いにからむ事件に絡む話で、紋蔵のゆっくりとした、しかし確実な真実の追求の姿が描かれ、「何事もなかったことにする」結末がこの作品らしくて優れている。第五話は、贋金作りに関わる事件で、紋蔵の手下が播州龍野の脇坂家の家来を誤って捕えたことにより事柄が公となって紋蔵の左遷の噂が流れるが、贋金作りの犯人を捕えることによってなんとか沙汰止み(左遷の中止)となっていく展開になっている。
作品中に登場する脇坂中務大輔は、脇坂安宅(わきさか やすおり 1809-1874年)のことで、安政4年(1857年)に幕府の老中となるが、井伊直弼の桜田門外の変後の文久2年(1861年)4月に隠居し、再び5月に老中として勤めた人である。寺社奉行時代(弘化2年 1845年~)に風紀の乱れを起こしていた僧侶の取り締まりを厳しく行ったことで有名で、その後、自分の妾のことで罷免されたが、再び寺社奉行として登用された経緯がある。
佐藤雅美は、その脇坂安宅の寺社奉行復帰と紋蔵の失敗とを絡めて、双方が丸く収まる出来事としてこの作品を仕立てている。こういうところが作者の歴史通を思わせる。
主人公の紋蔵は、突如眠りに陥る奇病をもちながらも頭脳明晰で人情厚い人物であるが、奉行所の下役人であり、勤め人のつらさを背負っている人物である。彼の生活は、その小さなバランスの上に成り立っているのだから、定廻り同心として少し生活が楽になったが、左遷されるとたちまち家計に響いてくる。そういう危うさの中で、紋蔵は苦慮していく。
何とか左遷は免れたが、しかし、また吹上上聴(将軍の前での各奉行の公開裁判のようなもの)が行われることになり、判例に詳しい紋蔵は、再び例繰方の仕事を手伝うようになる。そして、一見、明白に見えるような事件の裏に隠されている事実を上げて、例繰方としての優秀な働きを示してしまう。そのことによって、収入の多い定廻りから再び例繰方へと戻されるのではないかと戦々恐々とする日々を過ごす。そして、彼の予測通り、彼は再び例繰方に戻されてしまう。彼は再び物書同心に戻るのである。
紋蔵はいつも「損」をする人である。優秀であればあるほど、彼は「損」をする。そういう役割を演じながら、紋蔵はその中を飄々と生きていく。「紋蔵はこの日の朝も弁当を片手に、白い息を吐きながら、背中を丸めて役所に向かった」(309ページ)という言葉で、この作品は終わる。下役人としての勤め人のつらさがにじみ出ている。紋蔵は諦念を抱いて生きる。
しかし、彼は自分の置かれた状況の中で、あくまでも自分のスタイルを貫いていく。こういう主人公の姿がこのシリーズを豊かなものにしている。それはおそらく作者の人生観とも重なっているのだろう。そうして見ると、これはやはりなかなかの作品だと思う。
クリスマスの夜は、いつも独りで静かに過ごしたい。更けゆく夜の中で、「さやかに星はきらめき」の讃美歌を聴き、しみじみと自分の小ささを感じたい。今夜もそうして過ごすだろう。「It’s Christmas Eve」なのだ。
朝方かかっていた薄雲が晴れて、蒼碧の空が広がっているが、気温が低いので空気に刺すような冷たさを感じる。
このところ『のだめカンタービレ』にはまっていて、昨夜は、そのアニメ版を見たりしていた。一途な思いは、やはり人を動かす力がある。作品の中で使われているJ.ブラームス(1833-1897年)の「交響曲第1番」を聴いて見ようかと思ったりする。ブラームスはなかなか自分の気持ちを素直に伝えることが苦手で表面に出ることを嫌って、おそらくシューマンの妻クララへの恋心もあっただろうが、質素な生活を好み、自然を愛した人だとも言われている。
わたしは音楽に関してはほとんど無知だが、「無駄なものは何もない」という彼の哲学は、晩年の「クラリネット三重奏」や「クラリネット五重奏」などを聴いているとわかるような気もする。
さて、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』の続きだが、第四話は旗本と町火消しとの争いにからむ事件に絡む話で、紋蔵のゆっくりとした、しかし確実な真実の追求の姿が描かれ、「何事もなかったことにする」結末がこの作品らしくて優れている。第五話は、贋金作りに関わる事件で、紋蔵の手下が播州龍野の脇坂家の家来を誤って捕えたことにより事柄が公となって紋蔵の左遷の噂が流れるが、贋金作りの犯人を捕えることによってなんとか沙汰止み(左遷の中止)となっていく展開になっている。
作品中に登場する脇坂中務大輔は、脇坂安宅(わきさか やすおり 1809-1874年)のことで、安政4年(1857年)に幕府の老中となるが、井伊直弼の桜田門外の変後の文久2年(1861年)4月に隠居し、再び5月に老中として勤めた人である。寺社奉行時代(弘化2年 1845年~)に風紀の乱れを起こしていた僧侶の取り締まりを厳しく行ったことで有名で、その後、自分の妾のことで罷免されたが、再び寺社奉行として登用された経緯がある。
佐藤雅美は、その脇坂安宅の寺社奉行復帰と紋蔵の失敗とを絡めて、双方が丸く収まる出来事としてこの作品を仕立てている。こういうところが作者の歴史通を思わせる。
主人公の紋蔵は、突如眠りに陥る奇病をもちながらも頭脳明晰で人情厚い人物であるが、奉行所の下役人であり、勤め人のつらさを背負っている人物である。彼の生活は、その小さなバランスの上に成り立っているのだから、定廻り同心として少し生活が楽になったが、左遷されるとたちまち家計に響いてくる。そういう危うさの中で、紋蔵は苦慮していく。
何とか左遷は免れたが、しかし、また吹上上聴(将軍の前での各奉行の公開裁判のようなもの)が行われることになり、判例に詳しい紋蔵は、再び例繰方の仕事を手伝うようになる。そして、一見、明白に見えるような事件の裏に隠されている事実を上げて、例繰方としての優秀な働きを示してしまう。そのことによって、収入の多い定廻りから再び例繰方へと戻されるのではないかと戦々恐々とする日々を過ごす。そして、彼の予測通り、彼は再び例繰方に戻されてしまう。彼は再び物書同心に戻るのである。
紋蔵はいつも「損」をする人である。優秀であればあるほど、彼は「損」をする。そういう役割を演じながら、紋蔵はその中を飄々と生きていく。「紋蔵はこの日の朝も弁当を片手に、白い息を吐きながら、背中を丸めて役所に向かった」(309ページ)という言葉で、この作品は終わる。下役人としての勤め人のつらさがにじみ出ている。紋蔵は諦念を抱いて生きる。
しかし、彼は自分の置かれた状況の中で、あくまでも自分のスタイルを貫いていく。こういう主人公の姿がこのシリーズを豊かなものにしている。それはおそらく作者の人生観とも重なっているのだろう。そうして見ると、これはやはりなかなかの作品だと思う。
クリスマスの夜は、いつも独りで静かに過ごしたい。更けゆく夜の中で、「さやかに星はきらめき」の讃美歌を聴き、しみじみと自分の小ささを感じたい。今夜もそうして過ごすだろう。「It’s Christmas Eve」なのだ。
2009年12月22日火曜日
佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(1)
よく晴れてはいるが、底冷えのする日になった。
先日テレビで見た『のだめカンタービレ』があまりに面白かったので、以前フジテレビで放映された全部のドラマを見たいと思ってネットで検索したら見つかり、全11話を抱腹絶倒しつつ感動しつつ、夜半まで見ていた。若い音楽家たちの歩みを記した物語の展開も、描かれている人物も、出演者の演技も、演出もいい。上野樹里の「のだめ」も素敵だ。一話一話で使われている音楽も素晴らしい。完結編の前編が映画になり公開されたので話題になっているが、ドラマとして本当にいい作品だと思う。
そういうわけで、昨夜はほんの少しだけ、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2005年 講談社)を読んだだけだった。
この作品は、このシリーズの七作目で、主人公の「居眠り紋蔵」は、奉行所の例繰方(判例調査官・記録係)から定廻り同心(現場の刑事といったところか)になっており、江戸市中で起こる蘭の花の売買にからむ民事事件(第一話)や隣家との日照をめぐる争いに絡んだ盗み(第二話)、死罪になることが分かっているのでなかなか盗みを自白しない事件(第三話)などに関わっていく。
そういう中で、主人公の「居眠り紋蔵」は、「根気と人情で吐かせる(自白させる)定廻り同心」(115ページ)として徹しようとする。彼は、根気強く事件を調べていく。そういうところは、おそらく作者の佐藤雅美の一つの姿勢でもあるだろう。佐藤雅美は、おそらくこうした事件を当時の『御定書』や『御定書例書』、あるいは『仕置例書』などの犯罪例を伝える関係資料に丹念にあたりながら物語を構成しているのだろうと思われる。
ただ、このあたりになると取り扱われている事件と主人公には客観的な関係しかなく、ただ事件の解決にあたって主人公の、できる限り罪人を作らないようにするという「情け」が描き出されるだけで、このシリーズの第一作目の作品に比べるとやや作品としての深みにかけるような気もする。
だが、第三話目の「それでも親か」は、なかなか自白しない盗人に手を焼いているころに、主人公の娘が重い病になり、その娘のもとにかけつけたくてもかけつけられない状態に悶々とし、そのことを知った犯人が、ついに「それでも親か」といって涙をこぼして自白する話で、そうして自白した犯人に「死罪」だけは免れさせるという話になっている。昨夜は、この第三話までしか読んでいないので、続きは今夜にでも、と思っている。
今朝は、福岡からK氏が訪ねて来られた。K氏は、銀行を定年退職された後、法人の財務などをボランティアでされていたりしておられる。以前、九州で催していたセミナーでわたしの講義を受講され、それ以来、わたしの著作などを集めておられる方で、10年来の親交がある。コーヒーを入れて飲みながら、午前中いっぱい、いろいろな話をしてくださった。夕方は中学生のSちゃんが来ることになっている。こういう人たちと会うのは楽しい。
先日テレビで見た『のだめカンタービレ』があまりに面白かったので、以前フジテレビで放映された全部のドラマを見たいと思ってネットで検索したら見つかり、全11話を抱腹絶倒しつつ感動しつつ、夜半まで見ていた。若い音楽家たちの歩みを記した物語の展開も、描かれている人物も、出演者の演技も、演出もいい。上野樹里の「のだめ」も素敵だ。一話一話で使われている音楽も素晴らしい。完結編の前編が映画になり公開されたので話題になっているが、ドラマとして本当にいい作品だと思う。
そういうわけで、昨夜はほんの少しだけ、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2005年 講談社)を読んだだけだった。
この作品は、このシリーズの七作目で、主人公の「居眠り紋蔵」は、奉行所の例繰方(判例調査官・記録係)から定廻り同心(現場の刑事といったところか)になっており、江戸市中で起こる蘭の花の売買にからむ民事事件(第一話)や隣家との日照をめぐる争いに絡んだ盗み(第二話)、死罪になることが分かっているのでなかなか盗みを自白しない事件(第三話)などに関わっていく。
そういう中で、主人公の「居眠り紋蔵」は、「根気と人情で吐かせる(自白させる)定廻り同心」(115ページ)として徹しようとする。彼は、根気強く事件を調べていく。そういうところは、おそらく作者の佐藤雅美の一つの姿勢でもあるだろう。佐藤雅美は、おそらくこうした事件を当時の『御定書』や『御定書例書』、あるいは『仕置例書』などの犯罪例を伝える関係資料に丹念にあたりながら物語を構成しているのだろうと思われる。
ただ、このあたりになると取り扱われている事件と主人公には客観的な関係しかなく、ただ事件の解決にあたって主人公の、できる限り罪人を作らないようにするという「情け」が描き出されるだけで、このシリーズの第一作目の作品に比べるとやや作品としての深みにかけるような気もする。
だが、第三話目の「それでも親か」は、なかなか自白しない盗人に手を焼いているころに、主人公の娘が重い病になり、その娘のもとにかけつけたくてもかけつけられない状態に悶々とし、そのことを知った犯人が、ついに「それでも親か」といって涙をこぼして自白する話で、そうして自白した犯人に「死罪」だけは免れさせるという話になっている。昨夜は、この第三話までしか読んでいないので、続きは今夜にでも、と思っている。
今朝は、福岡からK氏が訪ねて来られた。K氏は、銀行を定年退職された後、法人の財務などをボランティアでされていたりしておられる。以前、九州で催していたセミナーでわたしの講義を受講され、それ以来、わたしの著作などを集めておられる方で、10年来の親交がある。コーヒーを入れて飲みながら、午前中いっぱい、いろいろな話をしてくださった。夕方は中学生のSちゃんが来ることになっている。こういう人たちと会うのは楽しい。
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