2012年7月30日月曜日

西條奈加『はむ・はたる』


 異常なくらい暑い日が続いているが、湿度も高く、どうにもやる気が起きなくて困るなあ、と思いながら日々を過ごしている。夏休みは欧州並みにせめてひと月ぐらいはならないかなあ。働き過ぎてもろくなことにはならないと思いつつも、つい仕事を引き受けて働いてしまう。

 ロンドンで始まったオリンピックも、まあ、見るとはなしに見ているが、自分の中では、今ひとつ盛り上がらない。スポーツが別世界になったからかなあ。

 そんな思いの中で、懸命に生きている子どもたちの姿を中心に描いた西条奈加『はむ・はたる』(2009年 光文社)を面白く読んだ。

 これは以前に大変面白く読んだ『烏金』(2007年 光文社)の続編のような作品で、前作の主人公であった頭脳明晰な人情家の「浅吉」によって助けられた、それぞれに訳が有り頼る者が誰もなくて集団で盗みを働いて生活していた子どもたちの物語である。彼らは、「浅吉」によって稲荷寿司の販売という生活の道を見出し、「浅吉」が江戸所払いとなったあとは、旗本の長谷部家に身元保証人になってもらって、「勝平」という利発な子どもを中心にして自分たちの手で生活をしているのである。

 長谷部家は、役料百俵という貧乏御家人で、そこの祖母と妻が手内職に稲荷寿司を作り、それを子どもたちが振り売りしていくというもので、十五人の子どもたちは、雨風で商売に出られないときは、祖母からしつけや礼儀、読み書きなども教えられている。その祖母が凛とした女性で、厳しい躾をするが、その奥には子どもたちに対する深い愛情があり、いざという時にはしっかり子どもたちを守っていくのである。

 十五人の子どもたちは、それぞれ三つの長屋に分散して暮らしているが、彼らの中心にいるのは勝平で、彼は、見捨てられたり途方にくれたりしている子どもがいると、これを放っておけずに次々と仲間に入れて、これだけの人数になってしまったのである。子どもたちは勝平には絶対的な信頼を置き、勝平もそれを裏切ることはないし、優れた洞察力と明晰な頭脳で問題を解決していく。勝平はまだ十二歳である。

 物語は、その勝平が住む長屋で、親なしとか泥棒とかの悪口を言っていた長治という子どもがいなくなるところから始まる。長治の親や長屋の大人たちは、喧嘩をして勝平たちが長治をどこかにやったのではないかと疑いはじめ、勝平たちは、その疑いを晴らすために長治の行き先を探すのである。

 そこへ、長い間諸国を放浪していた長谷部家の次男である「柾(まさき)」がひょっこり帰って来た。柾は、自分が通って慕っていた剣術道場の師範が、師範代によって殺されたために、その仇を討とうと諸国を巡っていたのである。人なつっこい笑顔をする柾は子どもたちも気に入り、絵の腕も達者で、さっそくいなくなった長治の似顔絵を書いて、それをもとに子どもたちは長治の探索をはじめるのである。この柾の仇討ちが本書の複線となって物語が展開されていく。

 勝平たちは子どもたちの情報を頼りに、結局、備中の大貫藩の継子問題に絡んで、継子として迎えられる子どもに長治が似ていることから、これを拐かして大貫藩から大金を取ろうとした浪人によって監禁されていることが分かり、みんなで協力して彼を助け出していくことになるのである。それが第一話「あやめ長屋の長治」である。

 第二話「猫神さま」は、争いを起こした父親が牢で死に、母親にも捨てられて寺に預けられていたが、さらにそこから江戸にやられて行くあてもなくなっていた時に、勝平たちと出会って仲間になった十二歳の三治という子どもを語り手にして、繭玉問屋に奉公に出されていた少女の盗みの疑いを、勝平たちを中心にした子どもたちが晴らしていくという話である。

 少女は、彼女の父親が病気の弟の薬代のために庄屋の金に手をつけてつかまり、一家が散り散りになったところを繭玉問屋の手代の世話で奉公にでることができるようになったのだが、その奉公先の繭玉問屋で崇められていた「猫神さま」という猫の像がなくなって、彼女に疑いがかかり、店を飛び出して濡鼠のようになっていたところを三治が見つけて事情を聞いたのである。

 勝平たちは、そのなくなった「猫神さま」を探し出すという約束で、娘の濡れ衣を晴らしていく。結局、その繭玉問屋の幼い病弱な子どもが二十日鼠をひそかに飼い、その二十日鼠が飾ってあった「猫神さま」の耳をかじってしまったために、知恵を使ってうまく隠してしまったことがわかっていく。勝平たちは、誰も傷つけないようにうまく知恵を使って事を処理して、繭玉問屋の主人に少女を疑ったことを謝ってもらって、一件が落着していくのである。

 第三話「百両の壺」は、大飢饉でひとりぼっちとなり、吹雪の中で泣いていたところを煙管などの小間物を行商する男に助けられ、育てられているうちに算盤や銭勘定を覚えるようになっていったが、その男が旅の途中で病気にかかり死んでしまったために、江戸の小間物問屋を尋ねることになったが、どうにもそこのお内儀が苦手で、ひとり橋の上でぽつねんとたっていた時に勝平たちに出会って仲間になった「テン」と呼ばれる天平という十一歳の子どもを語り手にして、旗本の詐欺で苦しめられている鰻屋を助けていくという話である。

 「天平」という名前も、長谷部家が身元引受人になった時につけてもらった名前であり、彼は真面目で小心であるが、銭勘定ができることから、金貸しの「お吟」(前作の中心人物)の手助けをするようになっていたのである。「テン」は、浅吉(前作の主人公)がやっていたように、ただ金を貸すだけではなく、相手の問題を解決し、それによって借金の返済ができるようにしてやるという方法で人の信用を勝ち得て、ひたすら懸命に働くような善良な子どもである。

 その「テン」の下に、九歳になる長谷部家の嫡男の佐一郎が預けられることになる。気の強い佐一郎は、貧乏御家人の父親や放浪する叔父の柾を見て、侍に嫌気がさして商人になると言い出し、長谷部家の「婆さま」からひどくしかられ、商売の辛さを体験させようと「テン」に預けられることになたのである。

 ところが、二人が借金の取立てに行った先の鰻屋で、その鰻屋の娘が奉公に出た先の旗本家の家宝の壺を壊してしまい、それが百両もする値打ち物ということで、鰻屋は百両の借金をし、「テン」たちに返済が不可能になっていることが分かる。

 その話を聞いた勝平は、それが騙り(詐欺)ではないかと見破り、同じようにして金を取られている人たちがいることを探し出し、柾の手を借りて、これを解決していくのである。そして、この事件をきっかけにして、佐一郎は再び長谷部家に戻ることになるのである。 

 第四話「子持稲荷」の語り手は十一歳になる「登美」という少女である。登美は、両親とともに田舎から江戸に出てきたが、厄介払いで親類に預けられ、そこから他所に売られる途中で勝平たちに助けられて仲間になった少女である。

 その登美が、ふとしたことで大きな仕出し屋の息子の由次郎と出会う。由次郎は、仕出し屋の後添いに来た継母から立派な跡取りにするということで厳しく躾けられ、習い事もたくさんさせられて、それが嫌になってひとりぽつねんと川べりに立っていたのである。登美は、その由次郎を見て声をかけ、さぼって飯を抜かれた由次郎に稲荷寿司を分け与えるのである。

 ところが、その仕出し屋のお内儀が何者かに強請られていることがわかる。勝平はお内儀がなぜ強請られているのかを探るために登美の掏摸の腕を使って強請っている男から強請の種となっているものを奪う。それはお内儀が往来で落としてしまったもので、由次郎の両親の名前と臍の緒であった。お内儀は仕出し屋の主人との間に由次郎を設けたが、由次郎の将来のために由次郎を仕出し屋に出し、親子の名乗りをしないできていたのであった。そして、仕出し屋の先妻が亡くなった後で後妻として入ったが、由次郎が甘やかされて育っていたために、懸命になって跡取りとしての躾をしていたのであった。

 由次郎はそのことを知るが、勝平は、自分が知っていることを一切明らかにせずに、手習いに励めと由次郎を説得して丸く収めていくのである。強請っていた男は柾によって懲らしめられ、二度と強請らなくなる。そうして、由次郎が登美のために稲荷寿司の中にもうひとつ油で揚げたものを入れる「子持稲荷」を考案して、ほのかな慕情を残しながら話が終わる。

 第五話「花童」は、回向院の門前で母親に捨てられていたところを勝平たちに助けられて仲間になった九歳になる「伊根」が語り手となって、医者の妻女の拐かし事件に絡んで拐かされてしまった口がきけない三歳の「花」をみんなで助け出していく話である。

 「伊根」は、同じ仲間で役者のような顔をしているハチが好きで、「花」はそのハチの妹である。ハチは幼い頃に陰間茶屋に売られたこともあり、ほとんど口を聞かないが、「花」のことになると命懸けになる。「花」は口が全く聞けないが、実は利発で、難しい字も覚えることができるし、算勘も達者にできる。物覚えも良い。だが、ハチと「花」は実の兄妹ではないと知って、「伊根」は嫉妬を覚えたりする。

 そういう中で、「花」がいなくなる。「花」は、実は長谷部柾が敵として描いた浪人を見つけ、その後をつけているうちに、その仇を含む浪人たちがある藩の大名の御典医に雇われ、藩主の外科手術を失敗するように蘭方医を脅す手段として、その蘭方医の内儀を拐かした事件に遭遇してしまい、一緒に監禁されていたのである。勝平たちは町方役人に頼んで二人を救出する。だが、柾が仇と追い続けた浪人はその中にはいなかった。その仇討ちの話が第六話「はむ・はたる」である。

 表題作ともなっている第六話「はむ・はたる」は、柾が師と仰いでいた剣術道場の師範を殺し、その財産を奪い取って逃げた「お蘭」という女と師範代に柾が仇討ちをする話である。「お蘭」は、男を騙しては金を取る稀代の悪女で、「はむ・はたる」というのは、「ファム・ファタル」(惑わす女)のことである。その「お蘭」が、ついに病を得て余命幾ばくもない状態にあることを勝平が探り出してきた。

 柾は、「お蘭」の正体を知らずに、先妻がなくなった道場主に紹介するような形になってしまい、その後、師範代だけでなく、幾人もの門弟や親類縁者、道場に出入りしている商人までも手玉にとって、道場を売り払って師範代と江戸を逐電し、行く先々でも男を食い物にして生きてきた女だった。その「お蘭」と師範代が見つかったのである。

 だが、仇討ちが許されるのは、血縁があれば血縁だけであり、柾には仇討免状がなく、これを討てば単なる人殺しとなるために、勝平は柾にそうなってほしくないと思っていた。おまけに剣の腕の差もあって、柾は師範代に一度も勝ったことがなかった。しかし、柾は師範代に果し合いを望み、肉を切らして骨を断つという仕方でこれに勝つのである。柾は無駄に年月を過ごしたのではなかったのである。そして、見守っていた勝平を人質にして「お蘭」が逃げようとし、勝平を助けるために「お蘭」も斬るのである。だが、「お蘭」は自ら殺されることを望んでいたところがあったのである。

 こうして柾は本懐を遂げるが、勝平の機転によって、重罪とはならずに江戸所払いとなる。柾が江戸を離れていくところで本書は終わる。つまり、長谷部柾が登場し、彼が江戸を去るまでが大筋となり物語が展開されている次第である。

 しかし、おそらくはそれぞれがそれぞれの人生の主人公という考えで、一話ずつの語り手が変わる構成がとられながら、その大筋が展開されていると思うが、やはり、主人公が多様すぎるきらいがあって若干、一人一人が描ききられていない気がしないでもない。だが、作者の姿勢や文体、人間に対する視点などはどこまでも優しくて、物語としても面白く読めた。この作者の作品はこれからも注目していきたいと思っている。

2012年7月27日金曜日

池端洋介『養子侍ため息日記 たそがれ橋』


 今週は晴れ間が続くということで、火曜日から部屋の壁を塗り替え、4日間ほどかけてようやく終了した。かなりの筋肉痛にもなっているのだが、仕上がりがなかなか良くて自分でも満足しているので、汗を流した甲斐があったと思っている。家具を動かしたついでに床のワックスがけもして、これでしばらくは快適だろう。それにしても、異常なくらいに暑い。

 そういう中で、夜は池端洋介『養子侍ため息日記 たそがれ橋』(2007年 学研M文庫)を面白く読んでいた。前作の『養子侍ため息日記 さすらい雲』(2006年 学研M文庫)が素晴らしく面白かったので、続編となる本書を読んだ次第である。

 前作で、越後里村藩の藩政を巡る争いに巻き込まれ、養父である平木弥太郎ともども密命をおびて脱藩した形で江戸の長屋住まいとなった主人公の平木又右衛門は、無一文ではあるが楽天的な性格もあって次第に長屋住まいにも慣れてきてところであるが、里村藩の跡目争いに巻き込まれていく。

 里村藩奥祐筆で、かつて平木又右衛門が野犬から助けたこともある五十嵐掃部(かもん)と息子が、国元からやってきて、彼の息子が書院番をしているときに、藩主の日記が何者かに盗まれ、その日記には江戸幕府に対する批判も書かれていて、それが発覚すると里村藩が取り潰しにあう危険があるという。それを盗んだのは、藩主の弟で、藩政に欲を出そうとして、日記を材料に脅しをかけてきて、藩主を隠居させて嫡男の貢献にせよと言い出したというのである。

 養父の平木弥太郎は又右衛門に、「お紋」たち隠密を使ってその日記を取り戻すことを命じ、日記をもっていると思われる武士の隠れ家の探索を命じるのである。職にあぶれた浪人者の姿になり、養父の弥太郎と住んでいた長屋よりもはるかにひどい怪しげな長屋に移り住んで、様子を探れと言われ、やむなく、みすぼらしい格好の浪人となり、意味も分からぬままに長屋での生活を始めるのである。

 しかし、金はないし、無聊を囲う日々が続き、又右衛門はその日の糧を得るために釣り竿をかついで、小魚を釣りに出かけたりする。このあたりの描写が、主人公の人柄をよく表しているので、少し抜書しておこう。

 「当初は臭くてかなわぬと思った海の臭いであったが、こうして大海原を眺めながら竿を振っていると、何だかとても良い臭いのように思われてきた。石組みの上から下をのぞくと、小さな黒い魚影が、糸の周りにたくさん集まってきているのが見える。――これで今日も食いっぱぐれ無しだの。
 又右衛門はほくそ笑んだ。家主の家で七輪を借り、塩焼きにして持って帰るのだ。朝から粥しか食っていない又衛門は、思わず涎が出そうになるのを堪えた」(3839ページ)

 主人公の楽天性をこういうふうに表わされると、それが天性のものであることがよく伝わり、何とも言えない面白みが醸し出されてくる。こういう箇所は随所にあって、隠密である「お紋」から「お役目を、忘れてはおられませんね」と叱責され、「忘れてなどおらぬ」と答えたりする(54ページ)。あるいは、「最初はあれほど嫌がっていたはずの又右衛門だったが、何だか最近、この浪人生活が気に入り始めている。まるで昔の自分にもどったような、いわば双六の振り出しに戻ったような気分なのである」(62ページ)と語られて、主人公が、なんの欲得もなく自由で気ままな生活をいかに望んでいるかが巧みに記されている。

 彼は、人が人を騙し、術策を練って、いかに自分が有利な立場になるかを考えている人間が多すぎると思い、自ら「ずるい人間」になろうとするが(135136ページ)、結局はできずに、「――結局俺は、ずるくもなれず、したたかにもなれず、ただ悶々として生を終えるのかも知らんの」(138ページ)と思ったりするのである。

 だが、彼が置かれている境遇は物語の展開とともに厳しいものになっていき、藩政を奪取しようとする藩主の弟と私腹を肥やす家老が手を結んで、藩主や彼の養父の平木弥太郎は厳しい状況に置かれていくし、又右衛門もどうすることもできなくなっていく。しかし、養父の平木弥太郎も能天気で、長屋の隣に住む女性を懇ろになったりし、加えて、元許嫁であった国元の「香苗」が突然訪ねてきて、又右衛門は、「お紋」と「香苗」の板挟みになったりもする。又右衛門は用心棒家業をしながら、なんとか藩主の日記を取り戻そうとするがうまくいかないのである。

 こうして、藩主は病気を理由に隠居させられ、嫡男は適性に欠けるということで廃嫡され、まだ幼い次男が藩主となり、後見人として藩主の弟、家老として私腹を肥やしていた家老が就任し、反対派には厳しい処分が加えられ、平木家も改易のままに置かれることになったのである。又右衛門の境遇は、正真正銘の浪人の境遇となる。

 だが、天網恢恢疎にして漏らさずで、ある日、藩主の後見人になって藩政をほしいままにしていた藩主の弟が何者かに殺されるという事態が起こるのである。それによって、隠居した藩主が後見人となり、形勢は一気に逆転して、私腹を肥やしていた家老は蟄居、日記も又右衛門のところに届けられ、全てが明らかになっていく、そして、後見人となった藩主は、又右衛門を家老に引き立てていくのである。

 こうして物語が終わるが、一つ一つの場面が主人公の人柄と合わさって山場を持ち、展開の妙が感じられるし、何よりもまず、主人公の人格が物語の展開と重なって、とにかく面白いのである。

 この物語は、主人公が家老になるところで終わるのだが、二冊だけではもったいないような設定とだと思う。作者の筆運びは、実にうまい。『養子侍ため息日記』の「さすらい雲」と「たそがれ橋」は、読んで楽しくなる二冊だった。

2012年7月23日月曜日

鳥羽亮『剣客同心』


 朝方は晴れ間も見えていたが、今は、空がどんよりと曇り、雨模様で湿度も高い。気象庁の予報によれば、この天気も今日までで、明日からは夏日になるらしい。いささか疲れを覚えて月曜日の朝を迎えたこともあり、身体が重い。もっとも、年齢を重ねてくると身体が軽いという感覚は失われるのかもしれない。

 そんな中で、どこかスカットした気分を持ちたいと鳥羽亮『剣客同心』(2006年 角川春樹事務所)を読んでいた。これは後にシリーズ化されているものの第一作目の作品であるが、2004年から2006年にかけていくつかの新聞に掲載された作品で、新聞小説らしく話の展開が丁寧でゆっくりと進められている分、主人公の長月隼人の人物像や彼が陥った苦境と、それをはねのけていく姿がよくわかって気楽に面白く読める一冊になっている。

 物語の発端は、南町奉行所の隠密廻り同心をしていた長月隼人の父親が、商家の手代と娘の相対死(心中事件)に何か大きな裏があるのではないかと探索していた途中で、何者かに斬り殺されるという事件である。長月隼人は、ようやく見習い同心として出仕したばかりであった。

 父親の惨殺事件は、上役の同心や吟味与力の手によって、あっさり辻斬り事件として処理されたし、続いて起こった別の町人と娘の死も、あっさりと相対死(心中)として片付けられ、父親の仇を討とうとして犯人を探索していた長月隼人にも上からの弾圧がかかり、嫌がらせも始まっていく。

 こういう中で、孤立しながらも長月隼人は父親を殺した犯人と事柄の真相の探索を黙々と始めていくのである。彼を助けるのは、父親がときおり手先として使っていた八吉で、やがて、父親を殺したのが陸奥国高津藩(架空)の使い手であることがわかり、高津藩には、権力闘争が起こっており、それが跡目相続の問題とも絡んで内紛が起こっていることが分かっていく。藩を牛耳る一方の家老は、自分の娘を藩主の側女とし、そのあいだに生まれた子を後継にして藩政を牛耳ろうと幕閣にまで賄賂の手を伸ばしていたのである。

 また、その家老を使って藩の御用商人の座を狙い、大奥の女中を使って事柄を優位に運ぼうとした商人が家老と結託して、大奥女中に色男を提供してその秘密を握り、供された色男たちを口封じのために相対死に見せかけて殺していたことが分かっていく。

 事件を相対死や辻斬りとして封じ込めようとした奉行所の与力や同心は、その商人から大量の賄賂をもらっていたのである。

 事柄は大名家や幕閣までも含まれた大事件であり、奉行所の与力や同心も関わっているので、主人公の長月隼人は薄氷を踏む思いで、幾度かの弾圧や脅しにあいながらも、事件を探り、真相に肉薄していくのである。主人公の長月隼人は、十七歳で見習い同心となり、やがて高積み見廻り同心になるが、上役の画策で無役の同心に格下げされていく。それでもまだ二十歳前後の青年なのだが、このあたりの主人公の活躍は老練の域で描かれているのが気にはなるが、事件の真相に肉薄していく展開は丁寧である。

 そして、事件を画策した商人と家老が、再び大奥女中を招いて饗宴をはろうとした時、家老を正そうとする高津藩の藩士たちと協力して、父親を斬殺した凄腕の男と対峙し、これをかろうじて退け、事件に関わった商人を捕縛し、終結を迎えるのである。高津藩を牛耳ろうとした家老の企みも発覚し、改易となり、商人も処刑され、長月隼人は無役の同心から定町廻り同心となる。

 これが本書の大筋であるが、主人公が苦しみながらも事件の真相にひとつひとつたどり着いていく姿が描き出され、また、千葉周作なども登場しての剣の技についての展開もあって、捕物帳ものだけでなく剣術小説としても楽しめるものになっている。そして、傲慢な者、欲深い者は、いずれは滅びの道をたどるという展開は、「水戸黄門の印籠」のように安心して読めるものになっている。加えて、主人公に長月隼人は決して清廉潔白な正義の士ではなく、必要とあれば死をも厭わない人物であり、「情」に流されるということもない。後のシリーズでは、彼は「八丁堀の鬼」と渾名されることになる。

 個人的に、あまり剣客物と呼ばれる作品は触手が動かないのだが、これまでも鳥羽亮の作品をいくつか読んできて、本書もまた作者らしい作品で、作者の代表作の一つと言えるかもしれないと思いながら読み終えた。

2012年7月20日金曜日

池端洋介『養子侍ため息日記 さすらい雲』


 昨日までの猛暑が嘘のように、一転して雨模様の重い空が広がり気温も上がらない。こういう天気は、昔なら間違いなく冷害を生じただろう。北海道や東北では20度を下回る気温となり、オリンピックが開催されるイギリスでも、今年はまだ寒いと報道されている。

 昨日、あざみ野の図書館に行き、文庫本の棚を眺めていて、ふと目についたので借りてきた池端洋介『養子侍ため息日記 さすらい雲』(2006年 学研M文庫)を大変面白く読んだ。作者についての詳細は知らないが、文庫本カバーの著者紹介では、1957年に東京で生まれ、雑誌の編集者や業界紙の記者などをされたあとで執筆活動に入られたらしく、主に書下ろし時代小説を書かれているらしい。茅ヶ崎在住のようだ。

 読んだ『養子侍ため息日記 さすらい雲』は、書き下ろし作品とはいえ、かなりうまい筆運びがなされているし、作者が描く主人公像も特徴があって実に生き生きしている。通常の最近の書き下ろし時代小説の主人公の多くが、性格がのんびりしているとか、人から役立たずと見られているとかが記されて、その実、優れた明晰な頭脳と剣の腕を持っているという設定がされていて、その明晰さで主人公の性格として記されていることの実感が薄いのだが、本書では、主人公の姿が言葉ではなく事柄で描かれているのである。だから、主人公の姿がより鮮明に浮かび上がる。


 本書の主人公は、越後の里村藩(架空の藩)の平藩士の三男として遇されている加山又右衛門である。加山又右衛門は、父親が行儀見習いにきていた娘に手をつけて産ませた子で、母親は彼を身ごもるとすぐに家を出され、彼は父親の顔も知らずに母の手で育てられていたが、加山家の後を継いだ兄が病弱だったために万一に備えて再び加山家の養子として「貧乏金なし」の部屋住みの生活をしている身分である。しかし、加山家の家族からは歓迎されておらずに冷遇されている。

 彼が毎日することといえば、剣術の道場に通うことと近くの川で鮎釣りをして、その鮎の開きを作って売り、小銭を稼いだり、畑仕事をして、作った野菜を漬物にして売ったりすることであるが、その鮎釣りや畑仕事に生きがいを感じているのである。彼が小銭を稼ぐのは、加山家の下僕の老夫婦と一人残してきた老いた母親に仕送りをするためでもあった。実直で朴訥な人物なのである。

 その彼が、剣術道場で師範代から三本に二本の勝ちを得て喜んで家路につくところから物語が始まる。その帰路に野犬の群れに襲われている老武士を助ける。だが、彼としては、自分の剣術の腕が野犬に負けないくらいに上がったことを喜び、家では老夫婦に託した鮎の干物が全部売り切れたことを聞いて、顔がぱっと明るくなるようなくらいで、ささやかな喜びを感じたに過ぎなかった。彼の頭の中にあったのは裏山を開梱して畑とし、そこに大根を植えて漬物を作り、売る、ということだけだった。

 しかし、そこから彼の日常が少しずつ変わり始める。事の起こりは、他藩の家老の紹介状を持ったある浪人が里村藩に剣術指南の職を求めてきたことことから始まり、藩主の命によって藩主の剣術指南が立ち会ってみるが、その浪人に敗れてしまい、剣術道場の師範代までもが敗れてしまうという事態になってしまうのである。その時に、加山又右衛門に野犬の襲撃から助けられた老武士で、奥祐筆であった老人が加山又右衛門のことを思い出し、浪人との立会に彼を推挙するのである。

 そして、藩主の命を受けて、やむなく加山又右衛門は浪人と立会い、かろうじてこれを負かしてしまう。それがかれの運命を変えていくことになるのである。加山又右衛門が勝ったことを喜んだ藩主は、彼をとりたてるが、しかし、それはわずか十五俵一人扶持の小人組に過ぎなかった。小人組というのは、警備や奥女中の供、使い走りの雑事をこなす端役である。又右衛門としては窮屈なお役など御免こうむりたく、鮎釣りや畑仕事をして小銭を稼いだほうがはるかにいいと思っていた。

 しかし、藩主の命令は絶対で、又右衛門はやむなく毎日出仕していく日々を送るようになり、同僚たとち小人組の仕事をしていく。そうしているうちに彼と一緒に鮎のひもの造りや畑仕事をしていた加山家の老下僕が病んでしまう。加山家では薬代もださないし、老下僕の病には大金がかかることになり、又右衛門は、そのためにあっさり自分の両刀を質入して、老下僕の薬代を捻出したりするのである。窮屈な思いをしていた自分に何かと世話を焼いてくれた老下僕を見捨てるわけにはいかない。それがその行動をとらせていくのである。彼は老下僕の妻が喜ぶ顔を思い浮かべて満足するのである。しかし、竹光で登城することになり、ばれないかとひやひやして日々を過ごす。彼の「情け深さ」がこうしたことで示され、しかもそれをあっさりとしていく人物として描かれるのである。

 だが、彼の両刀が竹光であることを見抜かれる。しかし、幸い、藩主が、又右衛門が貧しくて刀も買えないのだろうと、家宝の刀を与えたことでその話には決着がつく。だがそのこともあって、藩主の覚えがめでたいということから次第に藩内の勢力争いに巻き込まれていくようになるのである。

 里村藩では、藩財政を握り、商人と結託して私腹を肥やして藩政をほしいままにしようとする家老の柿崎典膳とこれを正そうとする家老の渡辺主水の争いが起こっていたのである。どちらの陣営も、藩主の覚えもめでたく剣の腕も立つ加山又右衛門を取り込もうとする。柿崎典膳は奥女中頭を使ったり、町一番の美女の誉れの高い「香苗」との婚約を整えたりするし、渡辺主水は彼の上役を使って彼を政争に巻き込もうとするのである。

 加山又右衛門としては政争などまっぴら御免で、小人組の役も御免被りたいと思っていた。そこに加山家の後継が誕生することになり、これを幸いにして養子縁組を解消して、お役御免になろうとするが、柿崎典膳は彼を江戸勤番にし、渡辺主水は、大番頭の平木弥太郎の養子となるよう進める。大番頭の平木弥太郎の息子が何者かに殺されたことで平木家を継ぐことが必要で、彼が想いを寄せいていた「香苗」との家格も整うと言うのである。

 こうして彼は、念願の「香苗」とも婚約し、平木又右衛門となって藩主の参勤交代に合わせて江戸へ向かうが、江戸でもまた藩政をめぐる争いが熾烈を極め、密偵である「お紋」が彼に近づいて、ついに柿崎典膳が結託している商人の正体がわかっていく。許嫁の「香苗」のことを思いつつも、「お紋」と一夜を共にしたあとで、彼女が密偵であることが分かったり、養父である平木弥太郎が渡辺主水と一計を案じて、自ら浪人したりして、彼の境遇は変わっていく。養家である平木家が改易されたことで「香苗」との婚約も取り消されてしまい、こうして、浪人となった平木弥太郎と又右衛門が裏長屋に居を移したところで終わるが、里村藩には藩主の後継を巡る陰謀が渦巻くようになり、それが今後に展開されていくことになっている。

 藩の政権を巡る争いとお家騒動は、お定まりといえばお定まりの展開なのだが、なにせ主人公の茫洋として状況に流され、人に利用されて行くようでいながら、心根は、お役など御免こうむりたく、鮎釣りや畑仕事をしたいという願いをもったまま、しかも、自分の運命を受け入れていく姿が、なんともユーモラスな出来事として描き出されているので、読みながら「面白い」と思えるような作品になっている。何より、主人公に作者が心を入れているのを感じられて、主人公の茫洋さが出来事として描かれるのがいい。これはシリーズ化されているから、このシリースはぜひ楽しみながら読んでみたいと思う。これを書いている間に、激しい雨が降り始めた。

2012年7月18日水曜日

葉室麟『星火瞬く』


 とてつもなく暑い猛暑日が訪れて、梅雨が上がった。だが、今日は曇空で湿度が高い。九州の西岸を通過している台風の影響もあるだろう。

 一昨日から昨夜にかけて、葉室麟『星火瞬く』(2011年 講談社)を、作者にしては珍しく焦点が曖昧な作品だと思いながら読んでいた。これは、1859年(安政6年)の風雲急を告げ始めた日本に再来日したシーボルト(フィリップ・フォン)が連れてきた長男のアレクサンダー・フォン・シーボルト(18461911年)を語り手として、当時の横浜を舞台に、ロシアによる対馬占拠や諸外交に奔走した小栗忠順(おぐり ただまさ 18271868年)、勝麟太郎(勝海舟)ら、あるいは1861年に監禁されていたロシアを脱走して日本に立ち寄っていたミハイル・バクーニン(18141876年)などの姿を描いたものである。

 アレクサンダー・フォン・シーボルトが来日したのは、彼が12歳の時で、1861年に水戸藩脱藩者を中心にした攘夷志士たちがイギリス公使館であった高輪の東禅寺を襲撃した事件などが起こり、加えて、ロシアの軍艦が対馬の一部を占領して基地を作ろうとする動きが起こっている。

 本書は、この事件の背後にミハイル・バクーニンがいるのではないかということで、彼を巡っての様々な画策や、当時のイギリス、ロシア、フランスなどの思惑と小栗忠順や勝麟太郎の思惑などが述べられていくが、結局、ミハエル・バクーニンという革命家が、人間として最も大切にしたのが「愛」であったことがわかっていくという筋立てになっている。

 バクーニンは、今から考えれば、「連邦主義」という極めて自由な国家のあり方を考えていた人で、後に、いささか権威主義的でもあったカール・マルクスの思想と対立して、無政府主義者と呼ばれたが、いってみれば「夢追い人」であったと言えるだろう。

 アレクサンダー・フォン・シーボルトは『シーボルト最後の日本旅行』という書物を残し、来日してからのことを記録しており、本書は、おそらくそれに基づいて執筆されていると思われ、本書は、彼が1862年(文久2年)に15歳でイギリス公使館特別通訳生として雇用されるまでの三年間を取り上げたものである。なお、彼はその後もずっと日本のために働き、明治政府にも雇用されて、以後40年に渡って日本の外交政策などに協力した人である。また、彼の弟のハインリッヒも日本の考古学を始め諸学問に貢献した人で、シーボルトの日本人娘であったイネ(楠本イネ)は日本で最初の産婦人科医となった人である。シーボルト一家が日本に貢献した功績は大きく、近代日本の幕開けに立ち会った人々であった。

 ただ、文学作品としてこれを見たとき、わたしとしては、卓越した力量を持つ葉室麟には、もう少し深い思想性や人間の姿を描いて欲しい気がしないでもない。葉室麟らしさが現れるのが後半のそれぞれの人生の結末を簡潔に述べるところにあるにはあるが、もう少し、「シーボルト事件」で国外追放されながらも二度目の来日をしたフィリップ・フォン・シーボルトの姿が深く描き出されてもいいような気がした。

2012年7月16日月曜日

火坂雅志『軍師の門』(3)


 「夏日」になった。窓を開け放ち、湿気を追い払い、洗濯をして寝具を干し、ゆっくりと日常を取り戻していく。今年の夏は、もう少し晴れ間が続くようになったら部屋の壁塗りをしようかと思っているので、今日はそのためにいくつかの道具を準備したりしていた。

さて、火坂雅志『軍師の門 上下』(2008年 角川学芸出版)の続きであるが、物語の後半は秀吉の天下取りに合わせて急速に進んでいく。

秀吉は、尾張の小牧で膠着状態にあった徳川家康との戦いを避けるために黒田官兵衛の献策を入れて、織田信雄と和議を結び、戦の大義名分をなくすことで家康を引き下がらせ、かねてから懸案であった四国の平定へと向かう。

中国地方の毛利との交渉を成功裏に収めた黒田官兵衛は、その命を受け、淡路、讃岐の地侍たちを陣営に引き入れることに成功し、四国を支配していた長宗我部元親との争いへと展開していく。それによって長宗我部元親率いる軍勢は、圧倒的な数の有利を誇る秀吉の前に敗れて降伏する。黒田官兵衛の城攻めの工法がここでも光っていくが、秀吉は、他の者たちに比べてほとんど恩賞もない状態に黒田官兵衛を置いたままである。人に報いることで天下を掌握してきた秀吉だが、官兵衛にだけは、その働きを報いることはなかったのである。

この時期に、黒田官兵衛の父親の宗円が死去するが、本書で、その死の床を見舞った官兵衛と宗円の会話が次のように記されている。

「讃岐十万石は仙石、同じく二万石を十河(そごう)。伊予は毛利軍の小早川隆景と安国寺恵瓊、村上水軍の来島康親に与えられたそうだな。それに引きかえ、そなたはまたしても恩賞の御沙汰なしとか」
「よくご存じですな」
・・・・・・
「腐っておるか」
・・・・・・
「これも、それがしに与えられた宿世でありましょう。天を恨まず、運命から逃げずに肚をくくり、堂々とおのが道をゆく所存」(下巻 282283ページ)

「天を恨まず、堂々とおのが道をゆく」それが、作者が描く黒田官兵衛の姿であり、また、実際、彼はそういう人だっただろう。それをこういう会話の中で、黒田官兵衛の生き様を盛り込むと、それが生きた言葉になることを感じながら、黒田官兵衛が「富貴を望まず」と語ったことを改めて考えたりする。

やがて、秀吉は四国平定のあとで九州へと向かう。九州の最大の敵は島津家であるが、秀吉は黒田官兵衛に毛利家が先鋒を取るように計らわせ、九州を平定していくのである。

ここで作者は、同じように「智将」と言われた毛利家の小早川隆景と黒田官兵衛のやりとりの場面で、二人の違いを次のように記す。小早川景隆は毛利元就の息子で、毛利家を支えてきた人物である。

「-智将
 言われているが、その知恵にはゆったりとした余裕があり、“善”と“悪”あわいでぎりの智略を働かせる官兵衛とはまったく異なっていた。
 官兵衛が即断即決で動くのに対し、小早川景隆はじっくりと思慮を重ねてから行動を起こす。毛利家の御曹司として生まれた者と、智恵一つで必死にいまの地位を築いてきた者の違いかもしれない」(下巻 295ページ)。

この観点はなるほどと思う。

やがて秀吉は九州を平定するが、その時も、黒田官兵衛には恩賞らしい恩賞は与えなかった。そして、小田原の北条家攻略へと向かい、前代未聞の大部隊で包囲しての戦となり、北条が滅んで秀吉の天下となっていくのである。秀吉は、このころ絶頂で、次第に黒田官兵衛のような人物ではなく、自分におもねる石田三成らのような者を側近として重用していく。そして、朝鮮出兵が起こる。

本書では、黒田官兵衛はこの朝鮮出兵には何の意味も見い出せなかったと記されていくが、秀吉の家臣の中では次第に世代交代が起こり、しかも、石田三成の台頭によって、中央集権化による権力集中を目指す石田派と加藤清正や福島正則らとの対立の溝が深くなり、豊臣政権に亀裂が入り始めていくのを黒田官兵衛はじっくり眺めていく。黒田官兵衛は、このころ、四十四歳で隠居し、家督を黒田長政に譲っている。朝鮮出兵によって官兵衛の心は秀吉から離れることが決定的となったと言えるかもしれない。

そして、秀吉が死去し、その後の石田三成の行動と徳川家康の行動が展開するのを官兵衛は静かに見守りながら、関ヶ原の合戦を迎える。家督を譲った長政は徳川陣営についている。官兵衛は九州中津に戻り、ここで初めて官兵衛は、自分のための戦としての九州平定の戦いをはじめるのである。しかし、関ヶ原の決戦は、官兵衛の予想に反して一日で終わり、官兵衛も九州平定を途中で断念せざるを得なくなっていくのである。作者は、その断念のくだりを、官兵衛の夢の中に竹中半兵衛があらわれて、「もうようかろう」と語ったと伝えている。

徳川家康の天下の下で、黒田長政はその武功によって筑前福岡五十二万石を与えられ、官兵衛は隠居として福岡城の築城に才を発揮させながら、まさに「流れる水の如く(如水)」過ごしていくのである。慶長9年(1604年)、官兵衛は福岡城下の伏見屋敷で死去する。享年59

その最後のところで、自分は軍師として生き、秀吉や家康のような政治家ではなかったが「これでよかった」と自らに語る場面で本書は終わる。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の二人の軍師を描いた本作は、二人とも「欲」や「利」で動くのではなく、信義を大切にし、状況と人間をよく観察した上で、しかも信頼していくということがいかに傑出したものであるかを語り、その主題が一貫しているので、感動もあり、読ませる一冊になっていると改めて思った。

まだ二十歳前の頃に、わたしは黒田官兵衛のことを知り、大いに感動したことを覚えている。「流れる水の如く、人に媚びず、富貴を望まず」これは、今も変わらずに自分の生き方を考えるときに思うことである。

2012年7月13日金曜日

火坂雅志『軍師の門』(2)


 九州で大雨による被害が報じられ、以前にわたしが住んでいた近郊でもあるので心配しながらテレビのニュースを見ていた。昨夜半にはここでも激しい雨が降った。今日は少し晴れ間も見えるが、湿度が高くベタベタしている。エアコンの除湿機能がつくづく有難いと思う。

 さて、火坂雅志『軍師の門 上下』(2008年 学芸出版)の下巻は、裏切った荒木村重によって摂津(現:大阪府北部と兵庫)の有岡城地下の穴蔵に閉じ込められて監禁されていた黒田官兵衛の救出劇と有岡城の戦いから始まる。

 長い間、地下の狭い穴蔵に閉じ込められていたために黒田官兵衛は気力、体力ともに相当弱っていくが、「生き延びること」を心に刻みつつ、深い自省を続けていく。その中で、荒木村重がなぜ織田信長を裏切ったのかということについて、敵対する者をすべて皆殺しにするような織田信長のやり方に荒木村重がついていけないものを感じ、反発したからではないかと官兵衛が考えていったことが本書で記されていく。

 信長のように「力」を誇示して脅えさせて従わせるのでもなく、また「利」をぶらさげてそれで人を動かそうとするのでもなく、もっと別のもの、信義や愛情、そういうものによって真実に動いていくのではないか、そういう展開が官兵衛の救出劇で展開されていく。

 竹中半兵衛が示した黒田官兵衛への深い信頼、何とかして黒田官兵衛を救出したいと奔走する家臣の栗山善助(四郎右衛門)、官兵衛の人柄に惚れ抜いて無償で官兵衛救出の手助けをした妓楼の朝霞といいう女性の設定、そういう人たちを通して、人が動くのが、「力」でも「利」でもなく、深い信頼と愛であることに黒田官兵衛が気づいていったことが物語られていくのである。

 やがて、兵糧攻めによって有岡城は落城していく。城主の荒木村重は、妻子も家臣も捨てて逃げ去り、織田信長は残された者たちを無残に処刑していく。信長の仕打ちは極めて残酷なものだった。有岡城落城によって黒田官兵衛は救出される。だが、その姿は、全身が疥癬で覆われ、頭髪が抜け落ち、足は動かなくなっているという無残なものだった。療養のためにしばらく有馬温泉で過ごし、妓楼の主である朝霞の無償の介護で、ようやく、杖をついてではあるが動けるようにまでなる。そして、その時に、竹中半兵衛の死と彼が己の全てをかけて自分の子の松寿丸を救ってくれたことを知り、黒田官兵衛は、ますます、「力」でも「利」でもなく、信義と情を大切にしていくことを覚悟していくのである。竹中半兵衛が示してくれたことの後を継ぐ。それがこの時の黒田官兵衛の決心であり、その後の人生となっていくのである。

 病が癒え、杖をつきながら、黒田官兵衛は三木城を取り囲んでいる羽柴秀吉(豊臣秀吉)のもとへ行く。秀吉は涙を流して官兵衛を歓迎する。長年の兵糧攻めで、ついに三木城も陥落していくが、このとき官兵衛は、竹中半兵衛が言い残していたように、三木城側に温情を与え、城下を復興させて、百姓や商人のために善政を敷くことを秀吉に進言し、秀吉もその通りに実行する。こうして、播磨、但馬が秀吉の手中に収められるようになり、秀吉軍は因幡(鳥取)へと向かうことになる。

 ここで秀吉は、官兵衛の進言を入れて、まず、籠城戦の要となる米を買い占めて、鳥取城内の兵糧を少なくしてから、周囲に陣を敷き、完全な包囲網を作ってから、さらにそこで市を開いたり興行を行ったりして、城の外郭に巨大な町を作り上げていく方法を採る。黒田官兵衛は、いたずらに血を流すことではなく、安定と繁栄を目指す者に人々が喝采を送るようになる、そういう戦のあり方が新しい時代を開いていくことを実感していく。そして、この感覚が高名な備中高松城(現:岡山市北区)の「水攻め」へと繋がっていくのである。

 高松城の水攻めには、黒田官兵衛の周到な現地調査と地形を読み取る力、情勢の判断力が大きな役割を果たした。分析は智者の業であり、正しく観察し、分析する能力のある者だけに道が見えてくる。この時の黒田官兵衛の秘策はそうしたことの結果であるし、それを信頼して採用した秀吉の人物の大きさにも依ることである。

 そいう中で、味方を決して裏切らない信頼に足る人物としての黒田官兵衛の名声が上がっていく。「将たる者は、戦った相手への礼節、情けを忘れてはならぬもの」(下巻 111ページ)が官兵衛の信条となり、「力」の脅威を見せつけようとする織田信長とは異なった道を歩むことを秀吉に勧めていくのである。

 この高松城の水攻めの時に、明智光秀による本能寺の変が勃発し、絶対的覇者であった織田信長が死去する。天正10年(1582年)6月のことである。信長死去の報は各地に動揺を走らせ、高松城を囲んでいた秀吉も、無論、動揺する。だが、その時に、黒田官兵衛が「畢竟、貴公天下の権柄を取り給うべきこと存じ候え」(『黒田家譜』)と進言したと言われている。敵対していた毛利側と急いで講和を結び、いち早く明智光秀を討つように勧め、こうして秀吉の「中国大返し」が起こったのである。

 秀吉は「仇討」を大義名分にして、各地の大名に書を送って明智光秀との決戦に備えながら、昼夜敢行して畿内に帰り、明智軍との戦が始まる。そして、これを打ち破り、光秀は落ち延びる途中で農民によって殺されて、秀吉は一躍天下の主へとのし上がっていく。織田家の家督を信長の孫に当たる三歳の三法師(後の織田秀信)に継がせ、自ら後見となることに成功していく。それもまた、黒田官兵衛の進言に従ったものであった。

 明智光秀討伐に遅れを取った織田家の筆頭家老であった柴田勝家は次第に力を失っていくが、織田家の家督を継ぐことができなかった三男の織田信孝と手を組み、信長の妹である「お市」を妻として迎え、秀吉包囲網を築いていく。そして、秀吉と柴田勝家の戦いが始まるが、秀吉は柴田勝家を撃ち、伊勢長島にいた滝川一益を撃ち、天下平定の要としての大阪城を築いていく。

 この時期頃から、秀吉は次第に黒田官兵衛を遠ざけるようになっていく。そのあまりの智者ぶりに秀吉が恐怖を覚え始めたからと言われている。秀吉はなぜ黒田官兵衛を九州に置いて大きな領地を与えないのかと問われた時に、黒田官兵衛が力をつけると、これほど恐ろしいものはないと語ったと言われている。黒田官兵衛は大阪城の縄張りを任せられるが、これまでの働きに対する恩賞もなく、彼は次第に軍議からも遠ざけられていくようになるのである。黒田官兵衛は、決して人を裏切らないことを自らの信条にしており、秀吉に忍従していくが、この齟齬が後までずっと続いていく。

 自らが不遇に処せられていることを知っていた官兵衛は、高山右近の勧めもあって、イエズス会の宣教師であったオルガティーノと会い、その教えに平安を見出して、キリスト教の洗礼を受ける。彼はそれによって功を求める自分を捨てていくのである。「自分の道を探す」それが黒田官兵衛の歩となっていくのである。

 織田家の家督を継ぐことができなかった次男の織田信雄は、日の出の勢いの中にある秀吉に次第に不満を持つようになり、三河の徳川家康と手を組んで、秀吉を葬りさろうとする。家康と信雄の連合軍は尾張の小牧に陣をしき、秀吉軍と対決するのである。だが、この戦の時に黒田官兵衛は毛利との同盟強化のために領土の取り決めを明瞭にする目的で中国地方へ向かわせられていたのである。

 徳川家康と尾張の小牧で膠着状態のまま、他方では秀吉は着々と天下平定へと動き出す。そのあとの展開は歴史が証するとおりであるが、その後の黒田官兵衛の姿については次回に記すことにする。本書はなかなか読みごたえのある一冊だと思っている。