2012年7月16日月曜日

火坂雅志『軍師の門』(3)


 「夏日」になった。窓を開け放ち、湿気を追い払い、洗濯をして寝具を干し、ゆっくりと日常を取り戻していく。今年の夏は、もう少し晴れ間が続くようになったら部屋の壁塗りをしようかと思っているので、今日はそのためにいくつかの道具を準備したりしていた。

さて、火坂雅志『軍師の門 上下』(2008年 角川学芸出版)の続きであるが、物語の後半は秀吉の天下取りに合わせて急速に進んでいく。

秀吉は、尾張の小牧で膠着状態にあった徳川家康との戦いを避けるために黒田官兵衛の献策を入れて、織田信雄と和議を結び、戦の大義名分をなくすことで家康を引き下がらせ、かねてから懸案であった四国の平定へと向かう。

中国地方の毛利との交渉を成功裏に収めた黒田官兵衛は、その命を受け、淡路、讃岐の地侍たちを陣営に引き入れることに成功し、四国を支配していた長宗我部元親との争いへと展開していく。それによって長宗我部元親率いる軍勢は、圧倒的な数の有利を誇る秀吉の前に敗れて降伏する。黒田官兵衛の城攻めの工法がここでも光っていくが、秀吉は、他の者たちに比べてほとんど恩賞もない状態に黒田官兵衛を置いたままである。人に報いることで天下を掌握してきた秀吉だが、官兵衛にだけは、その働きを報いることはなかったのである。

この時期に、黒田官兵衛の父親の宗円が死去するが、本書で、その死の床を見舞った官兵衛と宗円の会話が次のように記されている。

「讃岐十万石は仙石、同じく二万石を十河(そごう)。伊予は毛利軍の小早川隆景と安国寺恵瓊、村上水軍の来島康親に与えられたそうだな。それに引きかえ、そなたはまたしても恩賞の御沙汰なしとか」
「よくご存じですな」
・・・・・・
「腐っておるか」
・・・・・・
「これも、それがしに与えられた宿世でありましょう。天を恨まず、運命から逃げずに肚をくくり、堂々とおのが道をゆく所存」(下巻 282283ページ)

「天を恨まず、堂々とおのが道をゆく」それが、作者が描く黒田官兵衛の姿であり、また、実際、彼はそういう人だっただろう。それをこういう会話の中で、黒田官兵衛の生き様を盛り込むと、それが生きた言葉になることを感じながら、黒田官兵衛が「富貴を望まず」と語ったことを改めて考えたりする。

やがて、秀吉は四国平定のあとで九州へと向かう。九州の最大の敵は島津家であるが、秀吉は黒田官兵衛に毛利家が先鋒を取るように計らわせ、九州を平定していくのである。

ここで作者は、同じように「智将」と言われた毛利家の小早川隆景と黒田官兵衛のやりとりの場面で、二人の違いを次のように記す。小早川景隆は毛利元就の息子で、毛利家を支えてきた人物である。

「-智将
 言われているが、その知恵にはゆったりとした余裕があり、“善”と“悪”あわいでぎりの智略を働かせる官兵衛とはまったく異なっていた。
 官兵衛が即断即決で動くのに対し、小早川景隆はじっくりと思慮を重ねてから行動を起こす。毛利家の御曹司として生まれた者と、智恵一つで必死にいまの地位を築いてきた者の違いかもしれない」(下巻 295ページ)。

この観点はなるほどと思う。

やがて秀吉は九州を平定するが、その時も、黒田官兵衛には恩賞らしい恩賞は与えなかった。そして、小田原の北条家攻略へと向かい、前代未聞の大部隊で包囲しての戦となり、北条が滅んで秀吉の天下となっていくのである。秀吉は、このころ絶頂で、次第に黒田官兵衛のような人物ではなく、自分におもねる石田三成らのような者を側近として重用していく。そして、朝鮮出兵が起こる。

本書では、黒田官兵衛はこの朝鮮出兵には何の意味も見い出せなかったと記されていくが、秀吉の家臣の中では次第に世代交代が起こり、しかも、石田三成の台頭によって、中央集権化による権力集中を目指す石田派と加藤清正や福島正則らとの対立の溝が深くなり、豊臣政権に亀裂が入り始めていくのを黒田官兵衛はじっくり眺めていく。黒田官兵衛は、このころ、四十四歳で隠居し、家督を黒田長政に譲っている。朝鮮出兵によって官兵衛の心は秀吉から離れることが決定的となったと言えるかもしれない。

そして、秀吉が死去し、その後の石田三成の行動と徳川家康の行動が展開するのを官兵衛は静かに見守りながら、関ヶ原の合戦を迎える。家督を譲った長政は徳川陣営についている。官兵衛は九州中津に戻り、ここで初めて官兵衛は、自分のための戦としての九州平定の戦いをはじめるのである。しかし、関ヶ原の決戦は、官兵衛の予想に反して一日で終わり、官兵衛も九州平定を途中で断念せざるを得なくなっていくのである。作者は、その断念のくだりを、官兵衛の夢の中に竹中半兵衛があらわれて、「もうようかろう」と語ったと伝えている。

徳川家康の天下の下で、黒田長政はその武功によって筑前福岡五十二万石を与えられ、官兵衛は隠居として福岡城の築城に才を発揮させながら、まさに「流れる水の如く(如水)」過ごしていくのである。慶長9年(1604年)、官兵衛は福岡城下の伏見屋敷で死去する。享年59

その最後のところで、自分は軍師として生き、秀吉や家康のような政治家ではなかったが「これでよかった」と自らに語る場面で本書は終わる。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の二人の軍師を描いた本作は、二人とも「欲」や「利」で動くのではなく、信義を大切にし、状況と人間をよく観察した上で、しかも信頼していくということがいかに傑出したものであるかを語り、その主題が一貫しているので、感動もあり、読ませる一冊になっていると改めて思った。

まだ二十歳前の頃に、わたしは黒田官兵衛のことを知り、大いに感動したことを覚えている。「流れる水の如く、人に媚びず、富貴を望まず」これは、今も変わらずに自分の生き方を考えるときに思うことである。

0 件のコメント:

コメントを投稿