2012年7月18日水曜日

葉室麟『星火瞬く』


 とてつもなく暑い猛暑日が訪れて、梅雨が上がった。だが、今日は曇空で湿度が高い。九州の西岸を通過している台風の影響もあるだろう。

 一昨日から昨夜にかけて、葉室麟『星火瞬く』(2011年 講談社)を、作者にしては珍しく焦点が曖昧な作品だと思いながら読んでいた。これは、1859年(安政6年)の風雲急を告げ始めた日本に再来日したシーボルト(フィリップ・フォン)が連れてきた長男のアレクサンダー・フォン・シーボルト(18461911年)を語り手として、当時の横浜を舞台に、ロシアによる対馬占拠や諸外交に奔走した小栗忠順(おぐり ただまさ 18271868年)、勝麟太郎(勝海舟)ら、あるいは1861年に監禁されていたロシアを脱走して日本に立ち寄っていたミハイル・バクーニン(18141876年)などの姿を描いたものである。

 アレクサンダー・フォン・シーボルトが来日したのは、彼が12歳の時で、1861年に水戸藩脱藩者を中心にした攘夷志士たちがイギリス公使館であった高輪の東禅寺を襲撃した事件などが起こり、加えて、ロシアの軍艦が対馬の一部を占領して基地を作ろうとする動きが起こっている。

 本書は、この事件の背後にミハイル・バクーニンがいるのではないかということで、彼を巡っての様々な画策や、当時のイギリス、ロシア、フランスなどの思惑と小栗忠順や勝麟太郎の思惑などが述べられていくが、結局、ミハエル・バクーニンという革命家が、人間として最も大切にしたのが「愛」であったことがわかっていくという筋立てになっている。

 バクーニンは、今から考えれば、「連邦主義」という極めて自由な国家のあり方を考えていた人で、後に、いささか権威主義的でもあったカール・マルクスの思想と対立して、無政府主義者と呼ばれたが、いってみれば「夢追い人」であったと言えるだろう。

 アレクサンダー・フォン・シーボルトは『シーボルト最後の日本旅行』という書物を残し、来日してからのことを記録しており、本書は、おそらくそれに基づいて執筆されていると思われ、本書は、彼が1862年(文久2年)に15歳でイギリス公使館特別通訳生として雇用されるまでの三年間を取り上げたものである。なお、彼はその後もずっと日本のために働き、明治政府にも雇用されて、以後40年に渡って日本の外交政策などに協力した人である。また、彼の弟のハインリッヒも日本の考古学を始め諸学問に貢献した人で、シーボルトの日本人娘であったイネ(楠本イネ)は日本で最初の産婦人科医となった人である。シーボルト一家が日本に貢献した功績は大きく、近代日本の幕開けに立ち会った人々であった。

 ただ、文学作品としてこれを見たとき、わたしとしては、卓越した力量を持つ葉室麟には、もう少し深い思想性や人間の姿を描いて欲しい気がしないでもない。葉室麟らしさが現れるのが後半のそれぞれの人生の結末を簡潔に述べるところにあるにはあるが、もう少し、「シーボルト事件」で国外追放されながらも二度目の来日をしたフィリップ・フォン・シーボルトの姿が深く描き出されてもいいような気がした。

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