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2013年7月29日月曜日

鳥羽亮『鱗光の剣 深川群狼伝』

 昨夜半から雨が降っている。昨日は山口県や島根県で集中豪雨があり、昔よく行った津和野が水に浸かっている様子がニュースで放映されて、このところの天気の異常性を改めて感じたりした。人は弱い。つくづくそう思う。

 週末は、気楽に読めるものをと思って、鳥羽亮『鱗光の剣 深川群狼伝』(1996年 講談社 1999年 講談社文庫)を読んだ。これは、1996年に『深川群狼伝』の書名で講談社から出されたものを文庫化にあたって改題されたもので、この後、シリーズ化されて現在までに6冊が出ている。

 物語は、深川で様々な揉め事を密かにうまく解決する商売をしている始末屋である「鳴海屋」の始末人たちを巡って展開されるもので、主人公の蓮見宗次郎は、渋沢念流という剣の流派の道場の次男でありつつ、いわば裏稼業に生きる剣の達人である。

 作者は、始末屋の「鳴海屋」を「払えなくなった遊興費の始末を付けるだけでなく、客商売にありがちな客との揉め事や雇人の不始末、同業者とのいざこざなどを、月二分の『万揉め事始末料』とか『御守料』と称して定期的に口銭をもらって始末をつけていた」と設定する。それは、いわば岡っ引きと地回り(やくざ)の中間のような商売といってもいいかもしれない。

 こうした設定や主人公の設定が示すように、これは揉め事を主人公の剣の技で解決に導いていく剣劇、もしくは活劇小説だが、当然、揉め事には背景があり、その背景を探っていくミステリーの要素やサスペンスの要素が含まれている。その意味では、同じように裏稼業として物事の結末をつけていく池波正太郎の「仕掛け人・梅安」とか、テレビドラマの「仕事人」などの設定と同類のものと言えるかもしれないが、「始末屋」は、定期的に口銭をもらっているということで、信用第一であるというところが面白い設定になっているし、描かれる主人公の蓮見宗次郎は、朴訥で明るい。そして、それが本書の面白さを倍加させている。

 物語は、「鳴海屋」に属する始末人の一人が全裸で殺されるという事件から始まる。どうやら女性と交わっている最中に殺されたらしく、そうした殺し方をする女が浮かび上がってくる。それと同時に、「鳴海屋」に持ち込まれた揉め事を始末しようとしていた者たちが次々と狙われだし、蓮見宗次郎も命を狙われる。どうやらそこには「鳴海屋」の始末人たちを殺して鳴海屋の信用を落とさせ、その縄張りを奪い取ろうとする者たちがいるようである。そして、その背後に、土地の地回りや、それを利用しようとした大店の呉服商の思惑が働いているようである。

 そこで、鳴海屋に属する始末人たちは一致協力して、彼らを始末して新しく始末屋を始めようとする者たちと対決していくのである。相手には「人斬り忠佐」の異名をもつ実践剣の達人もいる。蓮見宗次郎はその人斬り忠佐と命がけの対決をしていくのである。

 登場する始末人たちがなかなか個性的に描かれているし、鳴海屋の娘の宗次郎に対する幼い恋心や、落ちそうで落ない小料理屋の女将と宗次郎の関係などが織り込まれ、生活の匂いを漂わせながら物語が展開していくので、緊張感のある激しい闘いがテンポよく描写されていく中で真に絶妙な呼吸をもって物語が進行している。

 生活のリアリティを盛り込みながら進むというような、こういう活劇小説は現代の活劇小説のひとつの姿だろうと思う。ともあれ、面白い。

 また、文庫版の巻末に菊池仁という人の解説が収められ、それが単なる作品の解説ではなく、それぞれの時代の中で剣客ヒーローがどのように描かれ、それがどのような世相を反映したものかが丹念に述べられていて、なかなか味わい深い解説だった。

 彼によれば、吉川英治の『宮本武蔵』に見られる求道者型から『大菩薩峠』の机龍之介から柴田錬三郎の眠り狂四郎へと続くニヒル型や山手樹一朗が描いた自然児型で明朗闊達なヒーロー、そうした変遷から、組織に属し保守と確信のバランスをとるような池波正太郎の『鬼平犯科帳』で描かれた長谷川平蔵が1970年度以降に生まれてきたと言う。そして、組織と個人の論理の板挟みの中で次第に時代小説のヒーローも等身大化されてきたが、ヒーローがもつ思想性に作家の関心が集まるようになったと分析する。

 こういう分析は、なかなか社会学的でもあり、読んでいて小気味がいい。小説をはじめとする文学作品は多かれ少なかれ作家が置かれた社会の産物でもある。

 ただ、この解説がいつごろ書かれたのかはわからないが、今は、思想ではなく生活、哲学ではなく経済が主流となり、作家の思想性に出会うような作品は少なくなっている。もちろん、娯楽作品なのだから、それを求めなくても面白ければそれで良いのだが、小説である限り、「人間」が描かれなければ面白くないし、意味のない単なる読み物は面白くない。本書は、それがほどよく混ざっている娯楽作品であると思う。

2012年7月23日月曜日

鳥羽亮『剣客同心』


 朝方は晴れ間も見えていたが、今は、空がどんよりと曇り、雨模様で湿度も高い。気象庁の予報によれば、この天気も今日までで、明日からは夏日になるらしい。いささか疲れを覚えて月曜日の朝を迎えたこともあり、身体が重い。もっとも、年齢を重ねてくると身体が軽いという感覚は失われるのかもしれない。

 そんな中で、どこかスカットした気分を持ちたいと鳥羽亮『剣客同心』(2006年 角川春樹事務所)を読んでいた。これは後にシリーズ化されているものの第一作目の作品であるが、2004年から2006年にかけていくつかの新聞に掲載された作品で、新聞小説らしく話の展開が丁寧でゆっくりと進められている分、主人公の長月隼人の人物像や彼が陥った苦境と、それをはねのけていく姿がよくわかって気楽に面白く読める一冊になっている。

 物語の発端は、南町奉行所の隠密廻り同心をしていた長月隼人の父親が、商家の手代と娘の相対死(心中事件)に何か大きな裏があるのではないかと探索していた途中で、何者かに斬り殺されるという事件である。長月隼人は、ようやく見習い同心として出仕したばかりであった。

 父親の惨殺事件は、上役の同心や吟味与力の手によって、あっさり辻斬り事件として処理されたし、続いて起こった別の町人と娘の死も、あっさりと相対死(心中)として片付けられ、父親の仇を討とうとして犯人を探索していた長月隼人にも上からの弾圧がかかり、嫌がらせも始まっていく。

 こういう中で、孤立しながらも長月隼人は父親を殺した犯人と事柄の真相の探索を黙々と始めていくのである。彼を助けるのは、父親がときおり手先として使っていた八吉で、やがて、父親を殺したのが陸奥国高津藩(架空)の使い手であることがわかり、高津藩には、権力闘争が起こっており、それが跡目相続の問題とも絡んで内紛が起こっていることが分かっていく。藩を牛耳る一方の家老は、自分の娘を藩主の側女とし、そのあいだに生まれた子を後継にして藩政を牛耳ろうと幕閣にまで賄賂の手を伸ばしていたのである。

 また、その家老を使って藩の御用商人の座を狙い、大奥の女中を使って事柄を優位に運ぼうとした商人が家老と結託して、大奥女中に色男を提供してその秘密を握り、供された色男たちを口封じのために相対死に見せかけて殺していたことが分かっていく。

 事件を相対死や辻斬りとして封じ込めようとした奉行所の与力や同心は、その商人から大量の賄賂をもらっていたのである。

 事柄は大名家や幕閣までも含まれた大事件であり、奉行所の与力や同心も関わっているので、主人公の長月隼人は薄氷を踏む思いで、幾度かの弾圧や脅しにあいながらも、事件を探り、真相に肉薄していくのである。主人公の長月隼人は、十七歳で見習い同心となり、やがて高積み見廻り同心になるが、上役の画策で無役の同心に格下げされていく。それでもまだ二十歳前後の青年なのだが、このあたりの主人公の活躍は老練の域で描かれているのが気にはなるが、事件の真相に肉薄していく展開は丁寧である。

 そして、事件を画策した商人と家老が、再び大奥女中を招いて饗宴をはろうとした時、家老を正そうとする高津藩の藩士たちと協力して、父親を斬殺した凄腕の男と対峙し、これをかろうじて退け、事件に関わった商人を捕縛し、終結を迎えるのである。高津藩を牛耳ろうとした家老の企みも発覚し、改易となり、商人も処刑され、長月隼人は無役の同心から定町廻り同心となる。

 これが本書の大筋であるが、主人公が苦しみながらも事件の真相にひとつひとつたどり着いていく姿が描き出され、また、千葉周作なども登場しての剣の技についての展開もあって、捕物帳ものだけでなく剣術小説としても楽しめるものになっている。そして、傲慢な者、欲深い者は、いずれは滅びの道をたどるという展開は、「水戸黄門の印籠」のように安心して読めるものになっている。加えて、主人公に長月隼人は決して清廉潔白な正義の士ではなく、必要とあれば死をも厭わない人物であり、「情」に流されるということもない。後のシリーズでは、彼は「八丁堀の鬼」と渾名されることになる。

 個人的に、あまり剣客物と呼ばれる作品は触手が動かないのだが、これまでも鳥羽亮の作品をいくつか読んできて、本書もまた作者らしい作品で、作者の代表作の一つと言えるかもしれないと思いながら読み終えた。

2012年2月22日水曜日

鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』

今日は少し曇っているが、このところ寒さが緩み、嬉しい限りである。青年のころに『若者たち』という映画を見て、その中で田中邦衛さんだったかが「春になると嬉しくって仕方がない。もう寒さに震えなくてすむから」というような台詞を語られていたのが妙に頭に残っていて、日々の生活に追われる中で、今頃の季節によく思い出す。

 1970年代、多くの青年たちが「自立」を求めていた時代だった。だが、この国は、いつから至極当たり前のように「他人のふんどしで相撲を取る」ような貧しい発想をするようになってきたのだろうかと、今の政府の動きを見ながら思ったりする。全体的に寄生虫のような発想しかしなくなり、「自立の思想」の影さえ見えなくなった気がする。貧しいけれども自分の足で凜と立つ姿勢をとることを思い知ったのではないか。

 そんなことをぼんやり考えながら、他方では鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』(2009年 朝日新聞出版朝日文庫)を気楽に面白く読んだ。「ももんじや」というのは、江戸時代に猪や鹿、あるいは鳥や兎といった獣肉を食べさせた小料理屋で、そこを人助けの商売の拠点として集う御助人たちの活躍を描いたものである。

 御助宿でもある「ももんじや」を営むのは、元は深川州崎で地回り(やくざ)をしていたといわれる還暦を過ぎた茂十で、茂十は十五歳になる孫娘の「おはる」と「ももんじや」を切り盛りしながら、御助宿の元締めとして御助商売に携わっているのである。

 この「ももんじや」に居候し、御助人の中心になっているのは、百地十四郎という二十五歳の若侍である。百地十四郎は、元は二百石の旗本家の三男だったが、妾腹で、子どものころから家臣のような扱いを受けてきていた。だが、不憫に思った父親が剣道だけは習わせ、剣の才能もあり、北辰一刀流の遣い手として剣名をあげるほどの腕前になった。しかし、兄弟子に誘われて賭け試合をし、打ち負かした相手に恨まれて襲われ、はずみで斬り殺してしまい、破門されて自堕落な生活を続け、「ももんじや」に入り浸るようになって、ついには居候のようになってしまったのである。

 物語は、この「ももんじや」の前の通りで、年端もいかない十五、六の少年と妹と見られる十三、四の少女が四人の武士に取り囲まれて斬り合いをしているところから始まる。「ももんじや」に出入りし、膏薬売りをしながら御助人の仕事もしている助八がその斬り合いを知らせに百地十四郎のもとに駆け込み、十四郎が武士に取り囲まれていた少年と少女を助けるところから始まっていくのである。

 少年は出羽国滝園藩(作者の創作だろう)の井川泉之助と名乗り、少女はその妹の「ゆき」と名乗る。二人は殺された父親の仇を討つために江戸に出てきたのである。だが、そこには滝園藩における権力争いが絡んでいて、藩の大規模な普請工事に絡んで豪商と結託して私腹を肥やそうとしていた国許の次席家老の権力掌握の野望が渦巻いていたのである。

 井川兄妹が江戸で身を寄せた叔父は、彼らを助けたのが御助人であることを知り、御助宿である「ももんじや」に二人の仇討ちの助力を願い出る。「ももんじや」では、その依頼を受けて、百地十四郎や同じ御助人である牢人の波野平八郎、助八や廻り髪結いをしている佐吉、元は修験者だったという坊主頭の伝海、女掏摸であった簪を使う「お京」らによって、二人の仇を捜し出していくのである。

 百地十四郎は二人に仇を討たせるために、二人に剣を教え、二人は「ももんじや」の御助人によって見事に仇を果たし、それによって内紛していた藩の騒動も収まっていくという結末となる。

 物語の展開そのものや登場人物たちの設定などは、数多の時代小説のどこでも見かけるものであるが、鳥羽亮のこなれた文章と兄妹の修行や剣を交えての争いの場面などは、なるほど剣道を知る者の作だと思わせられ、娯楽小説として気楽に読めるものとなっている。

2011年5月7日土曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 長屋あやうし』

 雨の土曜日になった。5日(木)の午後に同級生のT氏が美味しい珈琲と手製のコーヒーカップを手土産に訪ねてくれた。数十年ぶりで再会し、懐かしい話に花を咲かせた。卒業後、お互いに苦労は重ねたのだが、T氏は、演歌などの作詞も手がけておられて、そういう方面に無縁なわたしには、その話も興味深く伺うことができた。テレビドラマ用の「忠臣蔵」を多方面から捕らえた脚本を執筆中ということであった。

その夜、テレビドラマ向きと思われる少し軽いものをと思って、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 長屋あやうし』(2008年 双葉文庫)を読んだ。


 気づいてみれば、けっこうこのシリーズの作品は読んでいて、第一作の『はぐれ長屋の用心棒』、二作目の『袖返し』、五作目の『深川しぐれ』、七作目の『黒衣の刺客』、九作目の『父子凧』、十作目の『孫六の宝』、十二作目の『瓜ふたつ』、15作目の『おっかあ』の八作品を読み、この『長屋あやうし』は第十三作目の作品である。

 世の中の「はぐれ者」ばかりがすむ「はぐれ長屋」の住人である傘張り牢人の老剣客の華町源九郎を中心に、居合いの達人でありながら大道芸で生活を糊口している将棋好きの菅井紋太夫、還暦を過ぎて岡っ引きを引退し、娘夫婦の世話になっている孫六、親方と喧嘩をしてしがない包丁研ぎをしている茂次、砂絵を描いて見物料を取ることで暮らしを立てている三太郎の五人が、それぞれの特質を生かしながら市井の人間として諸悪と闘っていく姿を描いたこのシリーズは、第一作の初版が2003年だから精力的に書き続けられた息の長いシリーズになっている。

 この『長屋あやうし』は、彼らが住んでいる通称「はぐれ長屋」と呼ばれる貧乏棟割り長屋である「伝兵衛長屋」が、深川の闇世界を牛耳る男に目をつけられて、地回り(やくざ)を使った乱暴狼藉によって立ち退きを迫られるという危機に直面した話である。闇世界を牛耳る男の正体は不明で、正体を巧妙に隠しながら、「伝兵衛長屋」の家主である材木問屋の息子を博打でつって誘拐し、家主の材木問屋を脅して巧妙に長屋に入り込み、乱暴狼藉を働いて住人たちの追い出しを図るのである。

 住民たちが不安と恐怖を覚える中で、華町源九郎ら五人は、それぞれ手分けして、事柄の真相と陰で操る闇世界を牛耳る男の正体を暴き出し、住民追い出しに雇われていた乱暴者の破落戸や凄腕の牢人たちと対峙し、「はぐれ長屋」を救っていく。

 このシリーズには、ひとつのパターンがあって、巧妙に仕組まれた悪と、その悪に雇われた凄腕の牢人といったものに「はぐれ長屋の用心棒」たちが対峙し、その悪を暴いて、孫六を初めとする茂次や三太郎が探索をし、剣客である華町源九郎や居合いの達人である菅井紋太夫が剣客として悪に雇われた凄腕の牢人と立ち会い、かろうじて勝利していくというもので、勧善懲悪の思想の問題もあって、通常はこういうパターンが繰り返されるとシリーズの途中で飽きがくるのだが、それぞれの人物描写や物語の展開があり、作者の手法もあって、「水戸黄門の印籠」のように、ある意味では安心して読めるものになっている。

 そうした意味では娯楽時代小説としては気軽に読みやすく読める作品群と言える。また、長いシリーズになるとそれぞれの人物たちの背景や物語があって、人物がそれぞれに浮かび上がってくるので、それぞれの主人公たちの抱えている問題が描き出され、人はそれぞれに喜怒哀楽を抱えながら、それぞれに生きているということが示され、それが面白味を出すものになっている。勧善懲悪はリアリティーを欠くのだが、それを避けるために、主人公たちが斬られたり傷つけられたりしていくという工夫が施されているところも作者ならではではないかと思う。

 最近の小説は、文学作品も含めてなのだが、映像ということが意識されているのか、人の思いや心情、思想というものを深く掘り下げるような作品が少ないが、娯楽物ということでは、それはそれでいいのかも知れないと思っている。そうなると、読ませる展開と作者の力量というものが作品の出来不出来に大いに関係してくるのだが、鳥羽亮にはその力量があると読みながら感心したりした。

2011年4月27日水曜日

鳥羽亮『子連れ侍平十郎 おれも武士』

 晴れてはいるが、上空を風がごうごと唸りを上げて吹き抜けているのが分かる日になった。午後から明日にかけて天気がくずれるとの予報が出ているし、東北地方でも豪雨が予想されている。雨は地震で緩んだ地盤では災害ももたらすし、放射能の土壌への染み込みが案じられし、復興の作業にも困るだろうが、舞い上がった粉塵を鎮め、すべてを洗い流してくれる気もする。

 昨夜は爽風に身を委ねながら、鳥羽亮『子連れ侍平十郎 おれも武士』(2009年 双葉社)を一息に読んだ。これは、先に読んだ『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』(2004年 双葉社)の続編で、やはり、読ませる力量があって面白いと同時に、家族を大切にする現代的な視点もあると感じたりした。

 東北のある藩の政権争いに巻き込まれて、六歳になる娘の「千紗」のために娘を連れて江戸に出奔し、江戸で自分たち親子の窮乏を救ってくれた町道場の争いにも巻き込まれ、殺された道場主のひとり娘「佳江」の願いもあって道場を引き継いだ長岡平十郎は、上意討ち(主君の命によって討ち果たすこと)が降った執拗な藩の追手と、町道場の争いで破った男の凄腕の弟の両方から命を狙われるという二重の危機に直面する。

 長岡平十郎の命を狙う二組は、それぞれに剣の遣い手であり、町道場の争いに敗れた男の弟は、平十郎の道場の門弟たちを次々に殺していくし、藩の追手は、互いに思いを寄せ合うようになった「佳江」と娘の「千紗」を人質にとって、平十郎を争いの場に引きづり出そうとする。その危機の中で、それぞれに緊迫した争いが展開され、平十郎は「平常心」を取り戻すための修練を重ねて、これと対峙する。剣客どうしの争いが展開されていくのである。

 長岡平十郎は、彼を慕う門弟や元の藩の武士たちの助けもあって、何とかこの危機を乗り越えていく。そして、やがて国元の藩でも、彼を上意討ちにしようとした家老の衰退や状況の変化によって、彼への上意討ちが取り消され復藩が可能になる。だが、長岡平十郎は、初めの思いを貫いて、藩に戻らずに娘の「千紗」と相愛になった「佳江」を守って生きる道を選んでいくのである。

 作品の中で、病で母を亡くした娘の「千紗」(この作品では七歳になっているが)と、先の婚家で娘を亡くして出戻りとなっていた「佳江」が、互いに母娘としてお互いの絆を、特に人質とされた不安の中で強めていく話や、長岡平十郎と「佳江」の互いの思慕が深まっていく姿が丁寧に描かれて、このもまた物語の展開に深く味を添えるものとなっている。

 子どものために武士の一分を捨て、「子連れ侍」と揶揄されても、自分が愛し、大切に思うもののために生きることこそ「武士」という思いが、この表題となっていて、少なくてもわたしのような人間にとっては、それが読ませる力となっている。ただただ愛する者のために生きる、それは絶大な力と豊かさを持つ。剣の争いの場面でも、「平常心」をもつことの重要性が強調されているところが、すこぶるよい。もっとも、こういう武士の姿は最近の時代小説ではおなじみのものになっている感はあるが。

この作品は、先の『江戸の風花』との二作で完結しているのだが、またシリーズとなって書かれるかもっしれない。父親を慕い、案じ、またしっかり自分を保とうとする「千紗」の成長を見てみたい気もする。

2011年2月24日木曜日

鳥羽亮『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』

 天気が一転して、雨を含んだような重い空が広がっている。夕方から降り出すとの予報が出ている。芽吹き始めた草花にとっては恵みの雨になるだろう。雨を「恵みの雨」と受け取るのか、それとも心身を震わすような「過酷な雨」ととるのかは、その状況や心持ちしだいなのだが、如月の雨はまだ冷たい。

 昨夜は遅くまであることで相談を受けていたのだが、それでも鳥羽亮『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』(2004年 双葉社)を一気に読んだ。相談の内容が少し重かっただけに、この作品の明瞭さが一服の清涼剤ともなった。

 内容は、東北のある藩の藩士であり剣の遣い手でもあった長岡平十郎が藩の内紛に絡んで、病んでいた妻の薬代の為に一方の側に与することとなり、その内紛が相手側の勝利で終わったために、上意討ち(主君の命令で討たれること)となり、六歳の娘の「千紗」を連れて江戸まで逃れ、追っ手と貧苦に苦しみながらも、江戸の剣術道場に拾われ、そこで敵対する剣術道場が引き起こす争いと、それに絡んだ追っ手に対峙していくというものである。

 長岡平十郎は、上意討ちとなっても、ただ幼い娘のためだけに生きていこうとする。娘の「千紗」も追われる父親の身を案じ、そういう父親を深く信頼して健気についていこうする。陸奥から江戸までの長い旅程でも、安い木賃宿や荒れ寺に泊まり、愚痴一つ言わずに過酷な逃亡の旅を続ける。追っ手が雇った牢人者が襲ってきた時も、父親の平十郎から「先に行け」と言われるが、遠くまで行かずに路傍に座り込んで父親が来るのをじっと待っている。江戸でも、糊口のために道場破りをする父親の後にじっと従い、汚れきりぼろを纏いながらも泣き言一つ言わずについていく。

 そういう父と娘の深い愛情で、いつしか平十郎は「子連れ侍」と言われるようになり、道場破りで訪れた一刀流の景山信次郎の人柄によって、ようやく景山道場で暮らすことになる。景山信次郎には出戻りの娘の「佳江」がいて、なにくれと「千紗」を可愛がってくれる。だが、景山道場を潰そうと企む別の剣術道場である塚原道場があり、その道場によって門弟が斬り殺される事件が起こる。相手は徒党を組み、奸計を用いて、しかも実戦をくぐり抜けてきた剣の遣い手でもあった。そして、その奸計によって景山信次郎も殺されてしまう。平十郎の追っ手もまた、それをかぎつけ、景山道場を潰そうとする者たちを使って平十郎を討とうとする。

 武士の一分と道場と「佳江」を守るために、長岡平十郎はそれらと対峙し、自ら手傷を負いながらも、「千紗」と「佳江」が待つところに雪の降りしきる中を一歩一歩進みながら歩んでいく。「子どものために生きる、それが自分の生き方だ」ということに徹しようとするのである。

 個人的に、幼い少女や子どもが、自分が与えられた世界で健気に生きている姿が描き出されると、様々な事柄が走馬燈のように思い返されて、感涙を禁じ得ずに涙が棒太のように流れてしまうが、この作品でも、父と子の懸命な姿が伝わってきて、何度もティッシュを使いながら読み進めた。

 それにしても、やはり鳥羽亮の作品には一気に読み進ませる力がある。剣の闘いのシーンは作者が得意とするお定まりのものだが、「子連れ」というのは作者にしては珍しい作品かも知れない。小池一夫の原作で小島剛夕が劇画で描いた『子連れ狼』も、柳生家との対立の話は別にして、親子の情愛の深さがあり、しみじみとした妙味があったが、主人公が連れているのが幼い女の子で、父親の袂を握りしめて眠る姿など、細かな描写が冴えている。

 子どもに苦労をかけている、と言って父親が密かに泪する。最近、二度ほどそういう場面に立ち会ったこともあって、胸に去来するものが多い読後感だった。

2010年11月2日火曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 黒衣の刺客』

 久しぶりに朝から晴れ、朝焼けが、葛飾北斎が描いた「東海道五十三次の日本橋」に描かれているような茜色の一筋の線になっているのがまだ開けきれない早朝の東の空に見えた。

 昨夜、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 黒衣の刺客』(2006年 双葉社 双葉文庫)を読んだ。これはこのシリーズの7作目だが、読み進めていくうちに、これは前に読んだことがあるのではないかと思って読書歴を調べてみたが、まだ読んでいない作品だった。つまり、このシリーズの作品の大まかな構成がほとんど変わらず、世のはぐれ者が住むことから「はぐれ長屋」と呼ばれている貧乏長屋の住人の五人が、老年期に差しかかった華町源九郎という貧乏傘張り牢人だが剣の遣い手を中心に、諸悪と闘い、その相手の中にも相当の剣の遣い手がいて、これと死闘を演じ、事件を解決していくという物語の展開の骨子がどの作品でも展開されていて、錯覚を起こしたというわけである。シリーズ物だから、それでもいいと思っている。

 この作品では、「はぐれ長屋」の住人で、半人前の手間賃稼ぎをしている大工の房吉が何者かに殺され、住人たちがその犯人を探索していく過程で、江戸市中を騒がせている盗賊一味が背景にあって、房吉がその盗賊の一人の顔を見てしまったことから口封じのために殺されたことがわかってくる。

 他方、第2作『袖返し』で華町源九郎と男女の関係になり、お互いに思いを寄せ合っている親子ほども歳の離れた浜乃屋という小料理屋の「お吟」に、大きな料理屋をもたせてやると言い寄ってくる男が現れた。お吟は元掏摸で、父親が殺され、自分の身も狙われているときに華町源九郎に匿われ、助けられて源九郎といい仲になったのであるが、大きな料理屋をもつというのは魅力的な話であった。お吟とその男は浜乃屋で親密な様子を見せる。お吟もまんざらではなさそうである。

 華町源九郎は、歳も離れているし、自分のような貧乏浪人ではお吟を幸せにはできないので、ひとり淋しく、悋気を感じながらも、その判断をお吟に委ねようとするが、お吟に言い寄ってきた古手屋(古着などを扱う店)の主人がどうもおかしいと思い、密かに調べていくうちに、その男が江戸市中を騒がせている盗賊の頭であることを知っていく。大工の房吉もその強盗団のひとりに殺されていたのだった。

 こうして、強盗団との対決を決意するが、強盗団に雇われている剣の遣い手が一筋縄ではいかない。だが、はぐれ長屋の住人たちは、計画を練って、奉行所の捕り方も使って強盗団を捕らえ、房吉の仇も討ち、剣の遣い手とも紙一重の差で勝負に勝って一件は落着する。華町源九郎とお吟との仲も深まる。

 この作品の中では、老年期を迎えた華町源九郎が、若いお吟のことを案じて、ひとり淋しく孤独をかこおうとする場面が光っているように思えた。彼は夜陰をとぼとぼと歩く。老年期の男の悲哀がにじみ出る。この光景が何とも言えない。

 物語の展開そのものも剣劇の場面も、一つのパターン化されたようなものがあるのだが、こうしたちょっとしたことがこの作品の魅力になっていると思う。

2010年10月23日土曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒』

 奄美大島の水害のニュースが伝わるが、ここでは、昨日まで垂れ込めていた雲が嘘のように晴れて、気持ちの良い秋空が広がっている。気温はそんなに高くはないが、過ごしやすい.少し苦しめられた咳もだいぶ治まって、それも今日の気分の一つだろう。今朝は比較的ゆっくり起き出して、いつものようにコーヒーを飲み、新聞を読み、シャワーを浴びて、仕事に取りかかった。

 熊本のSさんや久留米のJさんなどに「元気でいますか」とメールを書こうと思っていたのだが、何やかにやで書きそびれてしまった。またの気分の時に、と思っている。

 昨夜、宇宙の果ての小さな惑星でサバイバルをしなければならなくなり、大きな建造物の上まで梯子を恐怖にかられながら昇り降りしているという奇妙な夢を見た。2000年から2001年にかけて書いた『逍遙の人-S.キルケゴール』という小さな文をまとめる作業が昨日終わったので、寝る前に、S.キルケゴールが使った「梯子」を意味する仮名について考えていたからかも知れない。

 その前に、昨夕は鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒』(2003年 双葉文庫)を読んだ。このシリーズは2作目からランダムに読んでいたし、だいたいにおいてシリーズ物の1作目はシリーズの中で最も充実しているものだから、その1作目を読んで見たのだが、改めて1作目を読んで見て、作品の質がほとんど変わらず維持されていることに、まず敬意を表したいと思った。

 これは、世のはぐれ者ばかりが住んでいるので通称「はぐれ長屋」と呼ばれる本所相生町の棟割り長屋に住む中年の傘張牢人である華町源九郎を中心に、居合抜きの大道芸で暮らしを立てている菅井紋太夫、元岡っ引きで還暦を過ぎて隠居し娘夫婦の世話になっている孫六、一流の研ぎ師のもとに弟子入りしたがうまくいかずに出て、包丁やはさみを研いで糊口をしのいでいる茂次、そして第1作では出てこないが砂絵を描いて見せることで日々の暮らしを何とかやりくりしている三太郎の五人が団結して諸悪と闘う物語である(1作目には、まだ三太郎は登場せずに、四人の活躍となっている)。

 今回は、源九郎と紋太夫が無聊をかこって将棋を指しているときに、土左衛門(溺死体)があがったというニュースを茂次が伝えるところから物語が始まる。好奇心旺盛な源九郎たちはその死体を見に行くが、どうやら手ひどく痛めつけられて殺され、川に流されたようである。

 その事件は彼らには無関係の事件であったが、次の日、華町源九郎がその川の側を通ると、ひとりの五~六歳の男の子がそこに佇んでいた。気になって声をかけると、どうやら殺された男と関係があるらしく、しかも「家はない」という。源九郎は仕方なしにその子を自分の長屋に連れてきて面倒を見て、その子の家を探そうとする。だが、探そうとすると二人の武士から襲われることがあった。そこにひとりの女が訪ねてきて、20両の金と共にその子を守って欲しいという手紙を置いて帰る。

 源九郎たち四人は、その子と土左衛門の事件には複雑な事件があることを察して、その子が旗本の妾腹の子で、旗本家のお家騒動に絡んで追ってから見を隠していたことを知る。旗本のお家乗っ取りを企んでいたのは、病弱な主の弟で、好色で強欲な男であった。主の弟は主の妻とも関係し、妾腹の子をなきものにして、五千石の家を乗っ取ろうとしていたのである。

 神道無念流の凄腕の剣客である深尾という侍も、旗本の弟から剣術道場開設の資金を出してもらうということで源九郎たちに敵対してくる。

 華町源九郎たちは知恵を使い、何とか旗本の弟一味をやっつけ、子どもを守ることができたが、華町源九郎は剣客として凄腕の剣客との対決をしなければならなくなる。老いを感じ始めた源九郎には難敵である。だが、彼に対峙した剣客は、愛する妻を病でなくし死に急ぎ、源九郎はようやくその勝負に勝つ。

 このシリーズは、概ねこうした物語の展開がその後開示されていくのである。事件の内容はそれぞれ異なっているが、まず、手ひどい悪があって、その悪行にはぐれ長屋の住人たちが巻き込まれたり、関わったりする。あるいはそういう悪から守って欲しいとの依頼を受ける。だがそこには難敵が登場し、中年の剣客である華町源九郎が剣客としての矜持を発揮していくのである。

 こうした類型があるのだが、長屋に住む庶民の日常がいきいきと描かれ、無理のない流れるような文章で情景と状況が描かれるので、物語として読みやすい。最近は、こういうパターンで描かれる「長屋物」がいろいろな作家の作品で出されているが、酸いも甘いもかみ分けたような中年から老年期の男が中心となって物語が展開される娯楽小説としては面白い。

 鳥羽亮の他の作品でもそうだが、剣の試合を描く際に、彼は「斬気」というものを頂点にして闘いを描く。「斬気」というのは、気が最も高くなった瞬間で、剣道でも他の柔術でも、多くの場合、特に真剣の場合はその気の高まりで勝敗が決まるから、主人公が「斬気」を見極めていく姿は納得できる。

 ただ、勝ち負けというのがあまり好きではないわたしとしては、個人的に、華町源九郎のような主人公には、たとえそれが悪との対決であったとしても、「斬気」も何もなく、のんべんだらりと、あるいはのらりくらりとやってもらうといいように思ったりもする。物語の展開や構成上はそうもいかないだろうが、もうすこし「だらしない」方がいいと思うのである。わたし自身、もう少しだらしなく生きたいと思っているからだろう。

 今日は土曜日で、相変わらず仕事は山積みしているが、天気もいいことだし、のんべんだらりと過ごそうと思っている。

2010年9月23日木曜日

鳥羽亮『極楽安兵衛剣酔記 とんぼ剣法』

 昨日は季節外れとも思える真夏日だったが、今朝方から急に気温が下がり、予報通り雨が滝つせと降り始めた。台風の接近も予報されているので、これから2~3日はぐずついた天気になるだろう。だが、昨夜はよく晴れた中秋の名月で、久しぶりにきれいな満月を見たような気もする。満月の明かりは、やはり、どことなく神秘を感じる。

 昨夜は鳥羽亮『極楽安兵衛剣酔記 とんぼ剣法』(2006年 徳間文庫)を読んだ。鳥羽亮の作品の中で、このシリーズは4冊が出され、これは2作目である。彼の文庫本作品は、以前に読んだ『はぐれ長屋の用心棒』もそうであるが、書き下ろし作品が多く、書き下ろしが多くなると、主人公や設定が異なっていても、どうしても物語の展開が類似したものになりがちで、市井に生きる剣客が悪徳商人や地回り、あるいは画策を練る強欲な旗本や武家と、彼らに雇われている凄腕の剣客との対決という図式がどこでも展開されるように感じてしまう。

 『極楽安兵衛剣酔記 とんぼ剣法』では、主人公の長岡安兵衛は三百石の旗本長岡重左衛門と料理屋の女中との間に生まれた長岡家の三男で、母親が病死したために長岡家に引き取られて育てられ、長男が家を継ぎ、次男が婿養子として出て、牢人暮らしをしている人物である。

 彼は父親の勧めもあって斉藤弥九郎の練兵館で神道無念流を修め、俊英と謳われるようになったが、酒好きで、「飲ん兵衛安兵衛」と揶揄されるようになり、飲み屋で無頼牢人を斬り殺して道場を破門され、長岡家からも追い出されて、浅草の「笹川」という料理屋の居候として牢人暮らしをしているのである。料理屋「笹川」の女将とはわりない仲となっており、「笹川」の用心棒を兼ねながらも女将の連れ子の父親のような存在にもなっている。

 酒が好きで、酒で身を持ち崩したが、本人はいたって平気で、「極楽とんぼの安兵衛」とも言われたりする気質をもつ人物である。飲んだくれで気ままな生活をしているのである。

 物語は、安兵衛が寝起きしている「笹川」のある浅草で凄腕の武士が関わっていると思われる辻斬りが横行するところから始まる。辻斬りは、浅草の料理屋から帰る大店の主人などを狙って、彼らを見事な腕で斬り殺して金品を奪っているのである。人々は辻斬りに恐れをなし、浅草から遠ざかり、「笹川」にも客足が途絶えるようになる。

 安兵衛は、客足が途絶えた「笹川」の行く末を案じ、また、剣客としての関心からも、辻斬りの正体を暴いて退治するために、一刀流の遣い手であり八卦見を生業としている博奕好きの笑月斎(野間八九郎)や、元は腕利きの岡っ引きだったが追っていた盗人を殺したことから岡っ引きを止め、子ども相手に蝶々売りをしている玄次、魚のぼて振り(行商)をして探索好きの叉八らと共に、辻斬りの正体や背後にいる人間を突きとめていくのである。そして、凄腕の辻斬りと対決していく。

 『はぐれ長屋の用心棒』も四人組であるが、ここでも同じような組み合わせの四人組であるし、剣客としての戦い方の展開も似ているが、設定や展開に無理がないし、牢人としての日常も周囲の人々との関係もこなれた描写がしてあるので、これはこれで面白く読める。もっとも、『はぐれ長屋の用心棒』の方は主人公の大半が老人であり、『極楽安兵衛剣酔記』は、いわば中年である。そして、主人公の極楽とんぼぶりが随所で描かれている。

 こういう主人公の姿は、ある意味では中年期の男の理想かも知れない。力を持っているがそれをあまり表に出さずに、あまり物事に頓着せずに日々の暮らしを営んでいく。必死になって自分の将来を開拓しようとするのとは縁遠く、だからといって決して不真面目でもなく、自分流の生き方を通していく。そして、周囲の人々を大切にし、思いやりも情も持ち合わせていく。そういう姿を、作者は様々な作品の中で描こうとしているのではないかと思う。

 個人的な好みから言えば、丁々発止と剣で闘うような剣客物や戦略を重ねるような野心家を描く戦記物の時代小説はあまり好きではないが、どこか間の抜けたような主人公が市井で生きる姿を描いたものには、つい手が出て読んでしまう。この類の小説はどれも似たようなものだが、それも時代小説の一つの楽しみ方ではあるだろう。現代という時代の中で、どういう姿が理想として考えられているのかを知る上でも、なるほど、と思うところはある。

 今日はお彼岸の中日で、異常気象が続いているが、「暑さ寒さも彼岸まで」ではあるだろう。もちろん、彼岸の月が旧暦と新暦で異なってはいるが。

2010年9月2日木曜日

鳥羽亮『剣客春秋 青蛙の剣』 

 今日も暑い日差しが降り注いでいる。熱気が肌にまとわりついて、じっとしていても汗が滴る。出先で読んだ3冊目は、鳥羽亮『剣客春秋 青蛙の剣』(2008年 幻冬舎)で、できるだけ気楽に読めるものをと思って持っていった小説のひとつである。

 これも、昨日の『はぐれ長屋の用心棒』シリーズと同じように、このシリーズの8作目の作品で、神田豊島町に一刀流の町道場を開いている千坂藤兵衛とその娘夫婦である里美と彦四郎を中心にして、市井の剣客として老いを覚えつつ生きる姿を描いたものである。千坂藤兵衛には、孫娘が生まれ、藤兵衛は好々爺ぶりを発揮していく。

 本作では、道筋でいじめを受けていた少年を助けたことから、その少年が千坂藤兵衛の道場に入門し、彼をいじめていた近くの道場との全面対決となり、それが大身の旗本家内での勢力争いと絡まって、旗本の御前での試合をすることとなり、藤兵衛は少年を鍛え、勇気を持って困難に立ち向かっていく術を教えようとする展開となっている。

 千坂藤兵衛の道場と対決する近くの道場は、あの手この手を使って、自分の道場を拡張していくことを画策し、少年のいじめをそそのかしたり、凄腕の牢人を雇って彦四郎を襲わせたりする。凄腕の牢人には欲はないが、一人の剣客としての矜持から、藤兵衛との対決を望んでいくのである。

 いじめを受けていた気弱な少年は、藤兵衛の指導の下で、勇気を持って立ち向かうことを学び、試合に勝つ。そして、藤兵衛に敵対していた道場は、さまざまな画策をしても、まっすぐな藤兵衛や彦四郎、そして少年の姿勢の前に破れていくのである。理不尽な「いじめ」に対して、まっすぐに相手を見ることは一つの有効な対応である。

 凄腕の牢人は、自分の剣客としての矜持で藤兵衛と対決し、破れ、江戸を離れることになる。

 こうした物語の展開も、剣客シリーズではおなじみのものであるが、作者の剣道の心得が生きて、目を見て対峙し、一瞬の動きを逃さないようにして立ち向かう姿が、いじめられていた少年にしろ、彦四郎にしろ、そして藤兵衛にしろ、件の対決の場面でよく描き出されている。そして、それと同時に、無欲なままで、孫をかわいがり、娘夫婦を心配し、手伝いのおくまに気を使いながら生きている姿が描かれていく。

 鳥羽亮のこうした作品には、市井に生きる姿と剣客として生きる姿の二重の姿が描き出され,それが身近なものを大切にする姿や「無欲」な姿として描き出されるものが多いような気がする。生活人であることと専門家であることの二つの側面がそこで無理なく一致しているところに、彼が描く人物の魅力があるのだろう。だから、対峙する悪はたいていが強欲である。

 人間の強欲は、現実にはあからさまな形では現れないが、人の心の奥底に常に潜んでいて、ある時には正義の仮面をかぶって画策をしたりする。そして、その姿は、鳥瞰的に見れば、どんなに姿形が立派で美しい装いをしていようと、やはり醜いものである。それを見破ることができるのは、ただ、素直で素朴な心だけだろう。素直で素朴な心は、常に生き難さの中に置かれてしまい、強欲でひねり潰されてしまうことが多いのは確かであるが。

2010年9月1日水曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 瓜ふたつ』 

 相変わらずうんざりするような暑さが続いている。今日から外壁の補修工事をするので、昨日は近隣の方々への挨拶などをし、朝から工事関係者の方々の出入りもあり、少々気も使うし、面倒くささも覚えている。しかし、この暑さの中で工事の人たちには、本当にご苦労を強いていると案じもする。

 暑さの中で脳も機能を低下させているのか、あれもこれもと仕事もなかなか片付かないが、今日は切れかけているコーヒーを買いにあざみ野まで出かけ、ついでに山内図書館にも本の返却と借り出しに行こうかと思っている。

 先日、幼稚園のM先生から連絡があり、久しぶりで会って話をした。M先生はとてもすてきな先生で、デパートのイタリア料理の店で食事をしながら話を聞いた。幼児教育は大きな曲がり角に来ており、経済効率を優先させる風潮と、この国の政策自体がどうも幼児教育を軽んじるような方向に向かっているように思えてならない。社会全体のとげとげしい雰囲気が幼児教育の従事者や保護者の中に蔓延し、そこで良心的な先生方が苦労することになる。

 出先で、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 瓜ふたつ』(2008年 双葉文庫)も読んだ。これはこのシリーズの12作目の作品で、隠居して傘張牢人としてはぐれ長屋に住む主人公の華町源九郎の孫娘は2歳となり、好々爺ぶりが剣客としての姿とともに描かれていく。

 本作では、源九郎の昔の剣術道場の同門で、源九郎とよく似た向田武左衛門が訪ねて来て、やがて一人の若侍を連れてはぐれ長屋に住むことになる。事情を探れば、向田武左衛門が仕える旗本のお家騒動に絡んで、主家の次男が長男夫婦を毒殺して家督を奪い、長男の子である若侍を狙っていることがわかる。

 源九郎をはじめとするはぐれ長屋の住人たちは、向田武左衛門の頼みを受けて、旗本家のお家騒動の問題にかかわり、次男と悪徳医者に雇われた牢人たちと対決しながら、これを解決していくのである。

 物語の展開そのものは、雇われた牢人たちは凄腕であり、悪徳医者も家督を奪った次男も、力で自分の欲を満たそうとする姿も、このシリーズではおなじみのもので、それに対峙するはぐれ長屋の住人たちの市井に生きる姿が対照的であるのもひとつのパターン化されたものとして、いつもと同じようなものだが、それぞれに牢人や貧乏町人として生きつつも、人々の「用心棒」として生きる姿が巧みに描き出されるので、変わらずに面白く読める。

 シリーズ化されたものはどうしてもパターンができて定着したものになってしまうきらいがあるが、物語の格子がしっかりしていれば、それだけに気楽に読めるようになる。鳥羽亮のシリーズ化された作品には、そうした作品が多いように感じられる。

 今日から九月で、今月は日常の仕事の他に、沖縄に行ったり、箱根で友人が出した本の講演会でのリアクターをしたりと、何かと気ぜわしい気がする。外壁の補修工事も今月いっぱいかかる。それにしても、早くこの異常な夏の暑さが引いてくれないかと、つくづく思う。熱帯夜が延々と続いている。

2010年8月9日月曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 深川袖しぐれ』

 昨夜、久しぶりに雨が降った。樹々が生き返るような気配を感じながら、ただ遅くまで雨をぼんやり眺めていた。書斎のエアコンが故障してしまったので、居間に置いていたノートパソコンを久しぶりに開いて、これを記している。パソコンもしばらく使わないとソフトの更新やセキュリティの設定など、使用するまでの準備にかなり時間がかかってしまう。便利なようだがなかなか手がかかるし、保存しているデーターも多いので、データーの移動も気を使ってしまう。けっこう容量が大きいUSBメモリーでも入りきれなかった。早く書斎のエアコンが修理されて、そのパソコンが使えるようになればいいが、この暑さで、業者への修理の依頼が多く時間がかかるとのこと。やむを得ない。

 昨夜遅くではあるが、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 深川袖しぐれ』(2005年 双葉文庫)を読み終えた。これはこのシリーズの5作目である。全18作品のうち、2作目の『袖返し』、9作目の『父子凧』、10作目の『孫六の宝』、15作目の『おっかあ』がこれまで読んだ作品で、回向院裏手の通称「はぐれ長屋」と呼ばれる貧乏棟割長屋に住む傘張牢人の華町源九郎を中心にした長屋の住人たちが悪徳商人や悪行を働く人間たちと立ち向かっていく姿を描いたこのシリーズは、登場人物たちの設定のユニークさとその働きの爽快感に満ちたものである。

 本書では、あまりの手の込んだ極悪さと強さのために町方も手を出せないでいた賭場や金貸し、借金の方に娘を奪い取って遊女屋で働かせていた「相撲の五平」と呼ばれる男が相手で、手下や凄腕の牢人を使い、町方を脅したり、殺したり、長屋の住人を脅したりと、力で抑えつけようとする悪の元締めが相手になっている。力をもつものは力で滅びるが、彼の力は圧倒的で、手下を使って探索をする町方を殺して、ほかの町方を脅えさせたり、奉行所の同心や与力に賄賂を贈って圧力をかけたり、長屋の住人たちに怪我を負わせたり、住居を打ち壊したりして、手を引かせようとするのである。

 ことの発端は、長屋の住人である包丁砥の茂次の幼馴染であった娘が父親の博打の借金のかたに連れ去られようとするところに茂次が行き合わせて、これを助けたところから始まる。娘の父親は「相撲の五平」の賭場で借金をさせられ、五平はその手で何人もの娘を自分の遊女屋に強奪しては働かせていたのである。そのことで茂次は五平から狙われるところとなり、娘はいつの間にか五平に連れ去られて監禁されることになった。

 「はぐれ長屋」の住人たちは、茂次の意をくんで娘を助け出すために立ち上がるが、五平の手下や牢人たちから散々な脅しをかけられる。華町源九郎は、町方の手を借りて五平を捕えようとするが、脅された町方も次々と手を引くようになる。だが、五平に苦しめられている深川の料理茶屋や妓楼から資金を出させ、同心を説得し、娘の居場所を探し出して、五平に雇われている牢人たちと対決して、娘を救出し、五平を捕えるのである。

 その過程が、力に屈しなければならない人間の悲哀とともに描かれていく。だが、「はぐれ長屋」の住人たちは、源九郎と結束し、力に対してまっすぐに立ち向かっていくのである。ちなみに表題の「袖しぐれ」というのは、時雨のように涙が袖にかかることをいうらしい。さめざめと泣かざるを得ない人間の悲しみの素敵な表現だと思う。

 この作品で茂次は助け出された娘と結婚し、源九郎には二番目の孫が誕生する。その喜びが結末部分で語られて、日常の救いを語ることによって、「はぐれ長屋」の住人たちの爽快な姿を醸し出すものとなっている。

 世の中には、持っている力を振いたがる人間と、できるなら力など振るわないほうがよいと思っている人間がいる。このシリーズは、そうした両方の人間が対決せざるを得なくなって、力を誇示する人間が結局は滅びていくという主題のもので、本書では、それが対比的によく顕わされている作品だと思う。
もちろん、鳥羽亮の作品らしく、一刀流の使い手である華町源九郎と手錬の牢人たちの対決の様子は細にいっているし、源九郎は50歳前後なので、息を切らしてしまうこともきちんと描かれ、息を切らしながらも対決していく姿勢が物語に妙を添えている。娯楽時代小説としての面白みは十分にあると思う。

 今日は月曜日で、午前中は少し雨模様だったのだが、たまっていた洗濯をし、エアコンの修理業者に修理の依頼をし、少し事務的な仕事を片づけていた。高温で湿度が高いのですぐに汗が滴り落ちる。天気予報では台風が北上しているらしい。

2010年7月28日水曜日

鳥羽亮『剣客春秋 初孫お花』

 文字通りに「うだる」ような暑さが続いている。今朝、3月に注文していた新しい車が届けられたので、車内の荷物を引っ越したり、車の操作方法を調べたりしていた。これまでの車は平成元年のものだったから、22年間も使用われ、自分で修理しながら乗ったりしていたが、新しい車は便利になったとはいえ、自分では何もできないような仕様になっている。排気量がこれまでの半分ほどになり、小さくなったと思っていたが、外観に比して実寸はそうでもなかった。やがて乗り慣れるだろう。

 それはそれとして、昨日、鳥羽亮『剣客商売 初孫お花』(2007年 幻冬舎)を読んだ。これは、一昨日に記した『里美の涙』に続くシリーズの7作目で、夫婦になった町道場の娘里美と吉野彦四郎の間に子どもができ、主人公の千坂籐兵衛にとって初孫が誕生する。

 そういう中で、陸奥国高垣藩の江戸勤番の藩士たちが千坂道場に入門してきて、高垣藩から剣術指南役の話が持ち込まれる。ちなみに、陸奥国高垣藩というのは実在しないのではないかと思う。その藩からの要請の裏には、どうも藩の内紛に絡む問題があるようで、入門してきた藩士たちが襲われ、千坂道場の若い門弟も殺される。

 千坂籐兵衛は、藩の内紛に絡む問題には立ち入らないようにしながらも、門弟や師範が襲われたために、彼らを襲った高垣藩の一派が使う剣客らと対決していく。

 藩の内紛には、経済的に窮乏を喫した藩で、改革派と商人に癒着した保守派が血で血を争う抗争を繰り広げていた。そして、襲撃してきた者たちは、刀を横に払って顔面や首をはねる飛猿斬りと呼ばれる剣法の名手たちだったため、千坂道場の師範や彦四郎たちは傷を負い、彦四郎は千坂籐兵衛に手を引かせるために捕らわれたりする。

 この作品には、剣客小説の本領を発揮して、その飛猿斬りの名手と一刀流の千坂籐兵衛の激突の様が克明に描かれていく。もちろん、飛猿斬りというのも作者の創作だろうが、もし、俊敏な動きが可能なら不可能ではない秘剣となっている。

 こうして、籐兵衛の活躍によって藩の内紛騒動は解決していくし、藩から道場を広げるなら資金を出しても良いという提供を、自分はこのままでいいし、不要といって断る籐兵衛の無欲で質素な、ただ、家族や弟子たちに思いやりをもった姿が描かれていく。

 江戸時代も末期のこのあたりになると、どこの藩でも経済的にも政治的にも行き詰まって、どうにもならない状態が続き、改革派と保守派といった内紛もあちらこちらで起こっていくが、保守派が保身のために悪徳商人と結託したものでなくても、行き詰まりの中での内紛は起こっていた。そこには社会構造そのものの問題があったのであり、武家社会の構造そのものが歪みを是正できなくなっていたのである。明治維新は、そうした武家社会の状態が行き詰まってしまって、どうのもならなくなった果てに起こったもので、一部の英雄的な志士たちが先見の明をもって事を起こした以上に、そうした行き詰まりの切羽詰まった状況が引き起こしたものだと思っている。

 小説では、藩内の改革派と保守派の争いを明確にして面白くするために、保守派の商人と結託した姿として描かれているが、社会に対する思想的な対立の方が、リアリティーがあっただろうし、悪を悪として出現させる安易さを感じないわけではないが、主眼は剣客小説として、欲も何もなく、ただ初孫の誕生を心底嬉しがる人間としての籐兵衛の姿を描いているのだから、これはこれで十二分に面白いのである。籐兵衛は、どこまでも市井の人間として生きていく。

 人には、社会的に自分の存在を確立する必要などどこにもない。家族や周囲の人々を慈しみ、大切にして、日々の喜怒哀楽の中で、子どもや孫の誕生を喜び、人生の同伴者があることを無上のこととして、貧しくても日々の暮らしが営んでいければ、それでいい。そこには社会正義を大上段に振りかざす必要もなければ、つまらない批判精神なども発揮する必要もないし、自分の能力を誇示する必要もない。そんなことを感じながら、この作品を読み終えた。

 今日は、暑くてやりきれないが、これからシャワーを浴びて、車の保険の切り替え手続きなどが終わったら、少し買い物がてらに新しい車の慣らし運転でもしてみよう。これで車を買い換えることも、もうないだろう。

2010年7月23日金曜日

鳥羽亮『剣客春秋 里美の恋』

 「酷暑」とか「猛暑」とかいう夏の暑さを表すあらゆる言葉でも表しきれないほどのひどい暑さの日々が続いている。夜になっても暑さが去らず、湿気も多い。ますます動摩擦係数が大きくなって動くのが億劫になる。

 だが、読書の方は、宮部みゆきに続いて鳥羽亮『剣客春秋 里美の恋』(2002年 幻冬舎)を気楽に読み進めた。これは前に読んだこのシリーズの『女剣士ふたり』や『恋敵』の第1作目の作品で、神田豊島町に一刀流の道場を開く千坂籐兵衛とその娘里美の活躍を描いたものだが、父と娘という取り合わせが良いし、事件や出来事への関わり方も剣客らしい筋を通したものとなっている。

 既に、2作品を読んでいたので、娘の里美が料理屋の美貌の息子で北町奉行の妾腹の子である吉野彦四郎と恋仲であることは承知し、その出会も、ぐれていた彦四郎が暴漢に襲われているところを里美が助けたということが度々触れられるので承知していたが、この1作目の『里美の恋』でその詳細がかなり複雑なものであったことが記されている。

 吉野彦四郎は、料理屋の息子であるが母親から武士として育つことを期待され、その理由が自分の父親にあるらしいことを知って、顔も見せない父親への反発からぐれて、博打場に出入りし、自堕落な生活をし、借金を抱えると同時に、博打場を取り仕切る市蔵の罠の中で、逃れられない状態に陥っていた。

 だが、里美に助けられ、剣術の稽古の清々しさも知って立ち直ろうとする。しかし、市蔵は罠をかけ、彼を人殺しの下手人にしたて、監禁する。市蔵は彦四郎が奉行の妾腹の子であることを知って、彼を手中に収めることで身の安全を図ろうとしたのである。そのしつこさと粘着性は反吐が出るようなしつこさである。だいたい悪意をもつ者は粘着性が高い。欲のない籐兵衛や里美の爽やかさと対照的になっている。

 千坂籐兵衛は、彦四郎の母や父親の奉行、そして里美の気持ちを知って、彦四郎を救出していく。その際、市蔵に雇われた凄腕の牢人との剣の対決を覚悟し、最後に牢人と対決して、わずかの差で勝つのである。

 剣道にしても他の柔術にしても、あるいはそのほかのすべてのことにおいて、この「僅かの差」というのが、実はかなり大きな差となる。「僅かの差」は無限のひらきがあるのである。こういうことを作者は本当によく知って作品が書かれているので、作者の頭の中で想定された剣の対決ではあるが、リアリティーがある。

 千坂籐兵衛と里美から助けられた彦四郎は、無頼の徒から立ち直って、千坂の道場で剣の修行を始めることになる。娘の里美も、恋する里美になっていく。

 こういう作品は、本当に肩のこらない作品で、情景描写も優れていて読みやすい。池波正太郎の『剣客商売』も面白かったが、これも面白く読めるものである。脇役の同心や千坂家の食事の世話などをしている「おくま」という名前のとおりの女性も物語に妙味を沿えている。

 今日は出かけなければならず、炎天下を歩き回るのもどうかと思って車を使うことにした。新しい車が来週納車されるというので、この車に乗るのもあと僅かになった。長年使ってきたのでやはり少しもったいない気もするが、故障も多くなっているからやむを得ない。『剣客春秋』のシリーズは、他にも図書館から借りてきているので、今夜もその続編を読むことにする。

2010年7月12日月曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 孫六の宝』

 梅雨特有の重い空が広がり、ときおり湿気にこらえきれずに雨となったり、雲の切れ間が見えたりする。昨日参議院選挙が終わり、大方の予想通り政権与党の民主党の惨敗が報じられた。政治に哲学も高い精神性もなく、それゆえにまた方策もないというもっともらしい批評を下すことは簡単だが、問題の根は深く、また深刻でもある。人間の「暮らし方」の根本が問われているのに、表面的な、あるいは場当たり主義的な現象しか問われない。本当の意味でのリアリティーがなくなってしまって、これほど人間がその精神性を失った時代はなかったのかも知れない。

 それはともかく、今日、掃除をしながらずっとF.カフカが描いた「不幸な状態」について考えていた。カフカの主人公たちは、真綿で首を絞められるようにして追い詰められて行き、悪戦苦闘の末、結局、自分の居場所をどこにも見出せなくなって終わっていくが、現代の人間の不幸はそんな状態に置かれているところにあるのかも知れないと思っていたのだ。「存在の喪失の不幸」はじわじわと追い詰め、人を狂わせていく。何ともやりきれない思いを抱かなければならないこと、それが不幸の正体かも知れない。

 再び、それはともかくとして、昨夜、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 孫六の宝』(2007年 双葉文庫)を読んだ。先日読んだ『父子凧』に続く第十作目の作品で、今回は、「はぐれ長屋」の住人で、還暦を過ぎて引退した元岡っ引きの孫六に待望の孫が誕生する話が基線となり、その孫六の娘婿で魚のぼてふり(天秤棒に担いで売り歩く)をしている叉八が辻斬りに襲われるところから事件が始まる。

 叉八を襲った辻斬りたちは、執拗に叉八をねらい、ついには「はぐれ長屋」にまで襲ってくる。事態を受けて、「はぐれ長屋」の華町源九郎、菅井紋太夫、茂次、三太郎が動き、なぜ叉八が狙われるのかの真相を探っていく。

 そこには太物問屋と材木問屋の乗っ取りを企む高利貸しと彼に雇われた剣鬼のような牢人たちが暗躍しており、叉八は、彼が襲われた時に、高利貸しと牢人たちに繋がりがあることを知ったために付け狙われていることが判明する。

 「はぐれ長屋」の住人たちは、手分けして探索をはじめ、源九郎と紋太夫は剣鬼のような凄腕の牢人たちと対決していく。

 その中で、華町源九郎は、かつて鏡新明智流の道場の同門であり、「籠手切り半兵衛」と呼ばれていた安井という武士と出会う場面がある。安井は源九郎のあまりにもみすぼらしい格好を見て、
 「おぬしに、その気があれば、その腕を生かす仕事もあるのだがな」と言う。
 源九郎は
 「この歳になると、腰の刀でさえ、重くてな、それに隠居暮らしはわしの性に合っておる」
 と言って断る。
 安井は声に力を込めて言う
 「華町、まだ、老いるのは早いぞ。もう一花咲かせねば」
 それに対して、源九郎は「そうだな」と同意を示すものの、胸の内で「わしの花は、好きなことをして呑気に暮らすことだ」とつぶやくのである。(87-88ページ)

 その安井は、高利貸しと結託して、辻斬りと乗っ取りの手先となっているのである。そして、無欲の源九郎と対決して敗れる。

 これを読みながら、ふと、この国の人々が上昇志向というものに取り憑かれるようになってどのくらいたつだろうかと思ったりした。この国の住人の多くは、どこを見ても上昇志向だらけになった感さえある。以前、NHKの紀行ドキュメンタリーで、ベネチィアで何代も何代もゴンドラの船手をしている人が紹介されていたのを思い起こす。彼もまたゴンドラの船手としての生涯を過ごし、人生を終わるという。彼は、自分お仕事と生活に誇りを持ってそう語っているように見えた。そこに、この国の人々との大きな違いを感じたような気がした。

 うらぶれた貧乏長屋である「はぐれ長屋」の傘張り牢人として過ごす華町源九郎の姿は、どこか爽快で、作者がこれをシリーズ物として多くの作品を書いた理由も、そこにあるように思えた。

2010年7月10日土曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 父子凧』

 東北と九州南部では大雨が予想されているが、昨日の雨が嘘のように晴れ上がった夏の日差しが注いでいる。頸椎の痛みはほとんど薄らいできたが、体力の低下はいかんともしがたく、何をするにも時間がかかるようになってきた。もっとも、一つのことをするのに時間がかかるということは、人生をもてあまさない身体的機能工夫の働きだろう。決して悪いことではないと思っている。

 昨夜、鳥羽亮の『はぐれ長屋の用心棒』シリーズの第九作目『はぐれ長屋の用心棒 父子凧』(2007年 双葉文庫)を読んだ。

 貧乏御家人だったが、家督を息子に譲って「はぐれ長屋」の住人となり、傘張りをしながら暮らしている華町源九郎と、居合いの大道芸で糊口を潤している菅井紋太夫、還暦を過ぎて岡っ引きを引退し、娘夫婦と暮らしている孫六、包丁研ぎをしている茂次、砂絵を描いて見物料を取ることで暮らしを立てている三太郎の五人が、今回も町方(奉行所)が手を焼くような事件に関わって、これを解決していく話である。中心人物の源九郎、紋太夫、孫六は、いずれも高齢で、「老いぼれ」と呼ばれ、あとの二人はしがないその日暮らしの住人である。

 今回は、華町家の家督を継いだ息子が、幕府御納戸係(将軍家が必要とする物資を調達する係)の下役である御納戸同心となったが、その一つ上役の御納戸衆と共に将軍家御用達でもある呉服屋の老舗の供応を受けた帰りに、何者かに襲われ、上役の御納戸衆は殺され、彼は命からがら逃げるという事件が起こる。

 華町源九郎は父親として息子の危機を救おうとする。また、息子の上司に当たる御納戸頭から、その事件の真相を探って欲しいとの依頼を受ける。

 「はぐれ長屋」の五人が事件を探っていくと、どうもその事件の影には、老舗の呉服店の追い落としを企む新興の呉服店ともうひとりの御納戸頭との賄賂を絡む不正の匂いがする。新興の呉服店は金貸しのやくざ上がりの主人で、凄腕の牢人を雇い、老舗の呉服店の手代を殺し、源九郎の息子たちを襲ったのである。源九郎の息子家族は、その牢人たちの夜襲を受けたりして、再三に渡って命を狙われる。

 源九郎は息子家族を破れ貧乏長屋である「はぐれ長屋」に匿い、事件の解決に奔走し、新興の呉服店が雇っている凄腕の牢人たちと対決していく。源九郎は自らも傷つきながらも息子を助け、また助けられながら必死に対決する。かくて、事件は無事解決する。その過程では、はじめは貧乏長屋になじめなかった息子の嫁も、長屋の思いやりのある明るい住人たちによって次第に打ち解けていく。そういう姿が、挿話として丁寧に描かれている。

 この物語の展開は、このシリーズではなじみのものだが、なんといってもそれぞれの登場人物たちが個性的であり、ここでも華町源九郎が、「何よりも息子の命が大事」とする視点が貫かれて、貧しいその日暮らしの生活ではあるが何よりも身近なものを大切にしていこうとする姿が小気味いいし、「はぐれ長屋」の住民たちの信頼関係も、それぞれの思いやりを基にして成り立っているところが作品を盛り上げている。それが、思想の言葉ではなく、生活から滲み出る雰囲気として描かれるところが気に入っている。

 今日は土曜日で、朝から千客万来の感があって、何とはなしに一日が終わりそうではあるが、少しゆっくり散策でもしよう。食料も買い出さなければならないし、夏物衣料も買う必要がある。掃除は月曜日にでも回すことにしよう。

2010年7月8日木曜日

鳥羽亮「はぐれ長屋の用心棒 袖返し』

 30度を超える暑い日差しが降り注ぐ日となった。むんむんと湿気も多いのでちょっと忍びがたい。

 昨夜、寝苦しさを覚えながらではあるが、鳥羽亮『袖返し はぐれ長屋の用心棒』(2004年 双葉文庫)を読んだ。これは、先に読んだこのシリーズの2作目で、15作目の『おっかあ』では主人公の華町源九郎は58歳であったが、ここでは55歳となっており、同じ「はぐれ長屋」に住んで居合いの達人でありながら居合抜きの大道芸で暮らしを立てている友人の菅井紋太夫は48歳となっている。

 この『袖返し』では、主人公の華町源九郎と、かつては女掏摸であり小さな料理屋の女将をしながら源九郎に惚れて親子ほども歳が離れているにもかかわらず男女の関係を持っている「お吟」との出会とその顛末が描かれている。華町源九郎は、貧乏御家人であったが、家督を息子に譲り、息子夫婦との同居の気詰まりさ避けて、回向院裏手の通称「はぐれ長屋」と呼ばれる貧乏長屋で傘張りをして糊口をしのぎながら独り暮らしをしている。「老いぼれ」と呼ばれる歳ではあるが、鏡新明智流の達人であり、その腕を買われてときおり用心棒のような仕事の依頼を引き受けているのである。

 その源九郎の許に、かつて剣術道場の同僚であり大身の旗本の家臣をしている男が、主人が重要な書類を掏られたようだから、それを取り戻して欲しいという依頼をもってくる。「はぐれ長屋」の住人たち、菅井紋太夫、名岡っ引きだったが還暦を過ぎて隠居している孫六、包丁研ぎで暮らしを立てている茂次の手を借りて探索に乗り出すが、その過程で、かつての女掏摸の「お吟」と掏摸の元締めをしていた父親の栄吉が営む小さな料理屋を訪ねる。

 父親の栄吉は、昔、娘の「お吟」が掏摸を働いた時に、華町源九郎に捕らえられたが、それを見逃してもらったことを恩にきて、掏摸家業を辞めて料理屋を始めていたのだが、源九郎を助けようとして、昔の掏摸仲間を訪ねたりしているうちに、何者かに惨殺されてしまう。「お吟」の命もめら割れているようだから、華町源九郎は「お吟」を自分の長屋に匿うのである。

 事件は、大身の旗本が料理屋の女将に惚れて差し出した艶文と結婚の約束をした起請文が掏られ、上司の娘との結婚が決まっていたために、それを種に脅されるというもので、脅迫をする者たちの中には凄腕の牢人もおり、旗本の家臣で主人を裏切って脅迫者とつるんでいるものや、旗本の出世を蹴落とそうと企むライバルの旗本もいる。大身の旗本は「目付(検察)」をしており、醜聞が世間に漏れると困ることになる。

 「はぐれ長屋」の住人たちは、源九郎を中心にして一歩一歩探索を進め、その間に命を狙われたりしながらも、脅迫をしている牢人たちを撃退していく。そのくだりが本書のクライマックスとなっているが、華町源九郎は、大身の旗本がどうなるのかということではなく、ただ、「お吟」といっしょに、殺された栄吉の仇を晴らすことを念願にして、事件の解決を進めていくのである。

 こういう、たとえば社会や世の中が、あるいは社会の上層部がどうなのかということではなく、徹底して自分の身の回りにいる人間たちのことを思って過ごしていくあり方は、ありきたりの社会分析や批評にうんざりしているわたしのような人間にとって、物語はもちろん作者の想像力の産物ではあるが、ある種の根についたリアリティーと清々しささえ感じる。

 昔、まだ若い頃、理論や思想、正義や世界という遠くばかりを見つめて、「生活をする」とか、身近にいる人たちのことをあまり顧みなかった自分自身を深く反省したことが蘇ってくる。人は、自分の身近にいる人々との「暮らし」を第一に考えるべきなのだ。

 先日、図書館に行った際にこのシリーズのものをあと2冊借りてきているので、娯楽時代小説として楽しみながら読みたいと思っている。

2010年7月2日金曜日

鳥羽亮『はくれ長屋の用心棒 おっかあ』

 今日も晴れたり曇ったりの蒸し暑い日になった。夜は雨かも知れない。昨日、寝室に置いているサンセベリアが新しい株を作って芽を出しているに気づいた。以前、葉が広がりすぎていたので植え替えていたのが効を出したのかも知れない。

 昨夜、あまりよく寝付けないままに鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 おっかあ』(2009年 双葉文庫)を読み始め、面白くなって一気に読み終えた。巻末の書店の広告からこのシリーズがたくさん書かれており、既に18冊が出版されているようだ。『おっかあ』は、その15作目である。

 このシリーズは、まだこれ一冊しか読んでいないのだが、物語の「爽快感」というのが全編にみなぎっているように思われる。

 娯楽時代小説の「爽快感」は、まず、主人公が一見したところ弱々しく見えるのだが実は凄腕の持ち主で、いざとなった時にその力が見事に発露していくことと、主人公が対峙する悪が、本当にどうしようもなく巧妙で狡猾、欲の塊のような人間であること。そして、主人公を取り巻く人間模様が爽やかで「情」に厚いことである。

 本書の主人公は、傘張り牢人の貧乏暮らしをしている58歳の高齢の華町源九郎と、これもまた50歳を過ぎた居合抜きを大道芸にして糊口を潤している菅井紋太夫、元岡っ引きで還暦を過ぎて隠居している酒好きの孫六、包丁研ぎなどをしている茂次と砂絵描きの三太郎といったその日暮らしの町人である。いずれも世の中の役に立ちそうもない人間たちである。源九郎たちは、回向院の裏手の相生町にある通称「はぐれ長屋」に住んでいる。

 源九郎と紋太夫は、いずれも高齢であり、その日の暮らしにも困る貧乏暮らしで、「ジジイ」と罵られたりするが、源九郎は鏡新明智流の達人であり、紋太夫は田宮流居合いの達人である。また、還暦を過ぎて老いぼれてはいるが孫六は探索名人の名岡っ引きである。

 こういう主人公たちの設定そのものが、何とも嬉しくなる設定であり、それぞれに「人間くささ」も十分に醸し出されている。主人公たちの中心である華町源九郎は、娘のように年の離れた「お吟」と情を通じており、時折その色香にくらくらする。「お吟」は、かつては女掏摸であったが、源九郎に命を助けられ、今は、「浜乃屋」という小さな料理屋の女将で、源九郎に惚れている。

 彼らが住む「はぐれ長屋」の近辺で、少年たちが徒党を組んで粋がり、あげくに商家を強請って金を巻き上げるという事件が頻発した。深川の材木問屋から強請られているので何とかしてほしいと依頼を受けた源九郎は、その依頼を五人で引き受けることにして、強請の現場に立ち会い、少年たちを諫めるが、そのことによって五人がそれぞれに命を狙われるようになる。どうもその裏に、尋常ではない悪が潜んでいるようである。

 少年たちは粋がって町を闊歩しているうちに、やくざに手なずけられ、強請の片棒を担いで次第に抜けられなくなっていくのである。「はぐれ長屋」の住人の息子も、その悪に引きずり込まれていく。彼らの狼藉は次第に度を超すようになっていくが、その裏で暗躍していたのは、悪を悪とも思わず強請りや強盗を当たり前にしている欲の塊であるやくざである。凄腕の用心棒もいる。

 そして、やくざの一員になって悪を働こうとする「はぐれ長屋」の住人の息子を母親が身をもって救い出そうとしたり、主人公たち五人がそれぞれに知恵と力を発揮して、裏で少年たちを操っていたやくざの捕縛に手を貸していったりするのである。

 悪に染まりそうになる少年を救い出すのは母親の必死さであり、一見老いぼれて役に立ちそうもない主人公たちが諸悪の根源を摘み取っていく。彼らは、よたよたとではあるが胸のすく活躍をするのである。「はぐれ長屋」の住人たちの貧乏暮らしの助け合いもある。もちろん、凄腕のやくざの用心棒と源九浪、紋太夫との立ち会いも、作者が自ら剣道をするだけに堂に入っている。こういう人物の設定と物語の展開が、「爽快」でないわけはない。

 この作品が書かれた頃、少年たちが引き起こす理由なき残虐な殺人事件や、徒党を組んでの弱いホームレスの虐待事件が頻発した。そういう現代の時代背景も、この作品の背景にはあるかも知れない。21世紀の初め頃から、青少年を取り巻く状況が閉鎖的になって、まじめに自分の問題や課題に取り組むものと、何となくやけになって世をすねて暴れる者とに世相が二分した嫌いがある。多くが「生きる意味」を探しあぐねている。そういう背景が、この昨品にはあるような気がするのである。

 そしてそれゆえにこそ、貧しく、高齢となり、その日暮らしを余儀なくされている中で、それでも懸命に生きたり、「情」を大事にしたり、爽快に生きたりする本書の主人公たちの姿が光っていくように思われるのである。

 いずれにしろ、「面白く読める」シリーズである。

2010年6月11日金曜日

鳥羽亮『剣客春秋 恋敵』

 ほんの時折薄く陽が差す曇り空の下で、今日も日々の暮らしが営まれる。歪んだ構造の中で政治がきしみを立て、経済が揺れ動く。わたしの左肩と腕の痛みのようにどこかすっきりしない状態が世界全体で続いているが、その中で、鳥羽亮『剣客春秋 恋敵』(2005年 幻冬舎)をすっきりと読んだ。

 これは前に読んだこのシリーズの2作目の『剣客春秋 女剣士ふたり』に続いたシリーズの5作目で、神田で剣術道場を開いている千坂藤兵衛の娘「里美」が思いを寄せている料理屋の一人息子「彦四郎」の料理屋が巧妙な手口で乗っ取られるのを防いでいく展開になっている。

 彦四郎の母「由江」が営む料理屋が、かつてその店の料理人をしていた男「盛蔵」から乗っ取りを謀られる。盛蔵は、傷んできた料理屋の改築の話と自分の娘を彦四郎の嫁にする話をもってくる。その一方で由江の料理屋の料理人を殺し、料理屋を窮地に追い込む。それと同時に、彦四郎が思いを寄せている里美を襲って、自分の娘を押しつけようとする。盛蔵には手荒な手下やごろつきがおり、質屋で悪辣な高利貸しをしている男や手練れの牢人がいて、乗っ取りを画策するのである。

 盛蔵らは、ほかにも同じような手口で乗っ取った料理屋や大店がある。娘「里美」と由江・彦四郎の窮地の中で、千坂藤兵衛は、父親として、また剣客として、弟子の同心や岡っ引きと共に真相を探り、これを助けていく。

 その間に、江戸の各剣術道場を道場破りしている剣の使い手が藤兵衛の道場にもやってきて、藤兵衛は剣客として彼と対峙することになる。腕はほぼ互角で、木刀の試合では相打ちとなり、真剣勝負へと持ち込まれる。剣の使い手は悪計をもっている盛蔵に言葉巧みに乗せられ里美を襲い、藤兵衛も真剣勝負を覚悟し、やりあうことになる。そして、藤兵衛は、ほんのわずかの差で相手の籠手を打って勝つことができ、盛蔵らの企みも露見し、再び由江の店は立ち直っていく。

 そして、娘の里美と彦四郎の縁談も、二人を独立させるということでまとまり、この後の話の展開としてつながっていくのである。

 娯楽小説としての醍醐味は十分にある。そして、人を窮地に追いやり、それを助けるような振りを装って乗っ取っていくような乗っ取りの手口は、現代の企業ではもうあまり見られなくなったが、確かにあるのであり、人を陥れようとする意図を持つ人間は確かにいる。「裏切りはいつも接吻と共にやってくる」のであり、「手ひどい仕打ちは善意の仮面をつけている」のである。

 作中の中で、千坂藤兵衛は、どっしりとした動かない青眼の構えで相手に対峙する。「動かざること山の如し」である。善意の仮面や隠された悪意の渦の中では、それが最も大事だろう。動かなさすぎるのもどうかと自問したりもするが、「動かない」というのは意味のある存在形態だと改めて思ったりもする。そういう意味でも、動きたくないと思ってごろ寝をしているわたしにとって、これは娯楽小説なのである。

2010年6月5日土曜日

鳥羽亮『まろほし銀次捕物帳』

 時折晴れるが少し湿度を感じる日になった。そろそろ梅雨の気配が漂っているのだろう。左肩から腕にかけての痛みはまだあるが、ずいぶんと楽になってきた。宮沢賢治が何かに書いていたような気がするが、「手や足が自由に動かせるということは、それができない人間にとっては奇跡に近い」というようなことを思い起こす。あと2~3週間もすれば、その奇跡に近い状態に戻ってくれるのではないかと希望している。

 今日の午後、少し身体を休める意味で、鳥羽亮『まろほし銀次捕物帳』(2002年 徳間文庫)を読んだ。先日読んだ宇江佐真理の主人公も「銀次」であったが、こちらの「銀次」は、剣豪作家といわれる鳥羽亮の作品らしく、「まろほし」という聞き慣れない小武器を使って犯人を捕縛していく生粋の捕物帳であり,以前、鳥羽亮の作品は娯楽時代小説としては面白く読んだので、読み始めた次第である。

 野村胡堂の名作である『銭形平次捕物控』の平次が投げ銭の名手であったように、鳥羽亮の本作の主人公「銀次」は「まろほし」という武器の使い手である。「まろほし」というのは、作者によれば「折り畳み式の特殊な武器で、一角流十手術で遣われる全長七寸余ほどの捕具と護身を兼ねたもので、握り柄の先に短い槍穂がつき、金具を開き目釘でとめると十字形の刀受けになる」武器だそうで、銀次は岡っ引きをしていた父親からこれを習い、父亡き後に後を継いで岡っ引きとなった容姿端麗の小料理屋の息子である。

 「岡っ引き」という仕事は、雇い主である奉行所の同心からわずかなお金しか出ていなかったので、まともな岡っ引きは、別の糊口をもっていたのであり、銀次も母親が小料理屋をするという設定がされているのである。

 物語は、黒船騒ぎの話が出てくるので江戸末期で、十七~十八歳になる評判の器量よしの娘たちが次々と行くへ不明となり,そのうちの何人かが死体となって発見され、その身体には無数の赤い痣が残され、暴行を受けていた。行くへ不明になっていた娘の捜索を依頼されていた銀次は、それらが一連の連続した事件であることに気づき、捜索に当たるが、共に事件を追っていた岡っ引きが殺され、糸口を見いだしたかと思うと,そのものたちも次々と殺されていく。

 か細い糸をたぐりながら、銀次は捜索を進めていくが、その謎解きの過程が次々と展開され、小さな糸口からようやく黒幕を暴き出していくのである。謎解きは上質のミステリー仕立てになっている。

 この銀次の手助けをする捕り物好きの貧乏道場主で、ひょうきんではあるが、神道無念流の達人である向井籐三郎と、黒幕の刺客で恐るべき一刀流の使い手であり殺人に快感を覚える磯部左馬之助が事件のクライマックスで対峙する場面が次のように描かれている。

 「向井は磯部の八相の構えから、容易ならぬ相手であることを感知した。
 どっしりした大きな構えだった。八相は木の構えともいわれ、大樹が天にそびえるように堂々と構えて敵を威圧することが大事とされている。敵の動きに従って攻撃に転ずる後の先の構えとも言える。
 まさに、磯部の八相は大樹のような構えだった.しかも、前進に気勢がみなぎり、巌で押してくるような威圧があった。」(258-259ページ)

 こういう表現は,剣道三段である作者ならではの表現であるだろう。

 銀次は、色と欲に絡んだ黒幕たちと老人たちの醜悪さを暴き出し、誘拐・監禁されていた娘たちを助け出す。そして、その娘たちも、次第に元気になっていく姿が結末で描き出されるのもいい。銀次は容姿端麗で女性にもてるが、「女なんぞ、わずらわしいばっかりだい」とうそぶくところもいい。なるほど娯楽時代小説とは、と思わせる作品である。