2010年2月26日金曜日

諸田玲子『かってまま』(1)

 昨日は温かい日差しの中で春一番が吹いて、朝から相模大野を経て町田まで出かけなければならず、コートを着ていると汗ばむほどだった。

 町田は多摩丘陵と相模原台地に位置し、江戸時代中期からは韮山代官が統括した農村地帯であったが、近年、小田急線が開発されるにしたがい、私立大学や学校が移転したり設立されたりして学生が多く住むようになり、人口が爆発的に増加して、都内の繁華街である新宿と同じような開発がなされてきた。新宿は歓楽街としての盛衰が激しいが、町田は学生街の感がある。駅近郊の建物や商店など、町田はミニ新宿のようであるが、近郊が農村であり、都内の都市とはまた異なった趣があるし、雑多な感じが漂っている。しかし、小田急線沿線や田園都市線沿線は、どこでも画一的な都市計画がされて、都市そのものには面白みはない。

 今朝は曇って、黒い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうである。予報では雨と出ていた。気温が少し高く、それだけはありがたい。

 昨日、町田までの往復で諸田玲子『かってまま』(2007年 文藝春秋社)を読んでいた。これは「かげっぽち」、「だりむくれ」、「しわんぼう」、「とうへんぼく」、「かってまま」、「みょうちき」、「けれん」と、それぞれ人を形容する形容詞がひらがらで記された七編からなる短編小説集で、それぞれの形容詞で表わされる、七人の女性の姿を描いた作品集となっている。

 まだ第一話の「かげっぽち」しか読んでいないが、これは、いつも旗本家の美貌の娘の「お古」を下げ渡されて生活していた女性が自分自身の幸せを見出していく物語である。彼女が厄介になっている旗本家の娘が父親の知れない子を妊娠した。旗本家の娘は婚約をしているが相手はだれかわからない。そこでそれを隠ぺいするために、旗本家の娘が産んだ子を自分の子どもとして押しつけられ、その旗本家の郎党と結婚させられる。娘は、その郞党に思いを寄せていたのだが、自分の亭主となった郞党が子どもの実の父親で、旗本家の娘の不義の相手であり、それも自分に押しつけられたのだと思い込んでいる。

 彼女はそれでも自分なりの幸を探し出そうとするが、いつも旗本家の娘が不幸の影のように付きまとう。旗本家の娘は火事で焼け出されて、彼女の家に転がり込み、夫の様子も変だ。彼女の悩みは深まる。

 しかし、その悩みが極まった時、真相を知る。旗本家の娘の相手が自分の夫ではなく、娘が通っていた寺の修行僧であったという。「かげっぽち」というのは、「身代り」とか「人の影になっている人間」とかいう意味なのだろう。彼女は、自分が決してその「かげっぽち」ではなく、自分の人生を歩んでいくものであることに気がついて行くのである。

 物語のプロットもいい。主人公の女性が旗本家の娘の「かげっぽち」として生きなければならない必然性もよく描かれているし、彼女の心情もよく描き出されている。しかし、わたしにはどうしてもどこかねちねちしているように感じられて理解に苦しむところがある。彼女には、言ってみれば「素直さ」がない。信頼がない。こういう女性の心情は、本当に理解に苦しむ。

 事柄は単純で、彼女が自分の気持ちを素直に夫に語ることができ、夫もまた自分の妻となった女性に事情を打ち明ければ済むことである。お互いの深い信頼があれば、事柄は違った展開となる。もちろん、作者はそのことを承知の上で、それができない人間の姿を描いているのだろうが、真相を知る結末が、不義の相手が修行僧であるというのは「凡庸」のような気がする。

 ただ、こういう感想は多分に読者の心情を反映しているものだから、今のわたしの心情が、おそらく、もっとスカッとしたものと接したいと思っているからではあるだろうし、物事は単純化して見るのが一番わかりやすいと思っているからだろう。「複雑な現象を全部はぎ取って、自分は本当は何をどうしたいのか」を心底探ってみるのが一番いい。もちろん、現実には「忍耐」を要求される。しかし、ただ、「素直であることと素朴であることが人を救う」ことは疑いえない。

 ともあれ、この作者は多面的で、期待するところも大きいから、収められている他の作品も読み進めよう。今日もまた、なんとなくあわただしく過ぎるような気がする。しなければならないこともたくさんあるし、洗濯機も「終わりましたよ」という信号音を出してくれている。忘れずに干そう。

2010年2月24日水曜日

佐藤雅美『町医 北村宗哲』

 今日もよく晴れて、比較的暖かな日となった。こういう穏やかな日和が続くと、つくづく嬉しい。昨日見かけた花屋さんの店先は春の花でいっぱいである。クロッカスが大きな芽を出していた。

 昨夜から佐藤雅美『町医 北村宗哲』(2006年 角川書店)を読んでいる。これは昨年末ごろに読んだ『啓順地獄旅』と『啓順純情旅』に続くような作品で、前作では、医学館でも学んだことがある医者の啓順が、ふとしたことから渡世人の世界に入り、そこで江戸の顔役の娘を殺したかどで顔役から追われることになって各地を遍歴して行くというもので、最後は江戸にもどって顔役と対決し、江戸で落ち着くという筋立てだったが、今作では、その江戸での町医者としての生活の姿が、「北村宗哲」と言う名前で描かれている。だから、宗哲の前歴は「啓順」とほとんど変わらず、宗哲は渡世人の前歴をもつ町医者として、医院を開業しており、しかもなお江戸の顔役たちの間ではよく知れ渡った人物であり、医院を訪れる患者や持ちこまれる相談事に当たっていくというものである。

 前作同様、作者は江戸の医学界の事情に精通しており、当時の漢方の処方の仕方や病にも精通していて、その知識を駆使して物語が展開されるので、独自の醍醐味があるし、主人公の人柄も前作同様、情もあり、頼まれるといやとも言えず、金持ちや権高な人物からは大金をもらうが貧しい者には手弁当でも面倒をみるという姿勢が貫かれている。また、作者は、どの作品でも、「生活者」の視点で書いているので、生活感もあふれている。だからと言って、人情噺では終わらない。物語の結末も、悲劇は悲劇のままで記される。

 こうした作品は、時代小説の中でも、しっかりした資料に基づいたリアリティのある独自の作風をもつ作品だと言えるだろう。資料を駆使した作風としては司馬遼太郎が著名だが、佐藤雅美は資料を物語の中で使って展開しようとする。その意味で文学作品としてはよくできた作品ではないだろうか。作者の円熟味を感じさせる作品である。

 今日は、車も少し動かさなければまた故障しそうだから、夕方、TUTAYAにでも行って『スターゲイト』というアメリカのSFテレビドラマのDVDでも借りてこよう。アメリカのSFドラマは、本当に傑作が多いと思うし、映像がとても凝っているという気がする。そういえば、子どもの頃に『宇宙家族ロビンソン』というテレビドラマをよく見ていたし、たぶん中学生のころではなかったかと思うが、『タイムトンネル』というドラマも見ていた。『タイムトンネル』は、「タイムトンネル」を使って過去の様々な事件に遭遇して行くというもので、詳細な歴史教育の要素もあった。『スターゲイト』は、その『タイムトンネル』の宇宙版で、「スターゲイト」というワームホールで宇宙空間を瞬時につなぐものが発見され、それを駆使して宇宙の各惑星に出かけていくというものである。使われる科学用語や発想は、物理学や生物学などの諸自然科学にしっかり基づいているので、それもおもしろい。人間模様や行動には現代アメリカの気風がうかがえて、それもおもしろい。

 ともあれ、まずは仕事を片づけよう。

2010年2月23日火曜日

白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』(2)

 これまでの寒さが嘘のように気温が上がり、晴れて、早春ののどかさが少し感じられるような日差しが暖かい。こんな日はのんびりと外を歩くのが一番だろう。歩いて30分くらいのところの鶴見川上流に植えられている何本かの梅の木も花を咲かせている。

 昨日、白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』を爽快な気分で読み終わった。この作品の良いところは、無理に勧善懲悪で事件が解決されず、主人公の十時半睡が、いわゆる「大人の判断」をするところである。

 第五話「駆落ち者」は、十時半睡の伝馬船に赤ん坊が捨てられ、乳母として雇った女が実はその赤ん坊の実の母親であり、母親は福岡(黒田)藩の藩士の嫁であったが、夫と婚家のひどい仕打ちに耐えかねて幼馴染と駆け落ちし、江戸に来たが、人足をしていた夫が事故で働けなくなり、赤ん坊を、かつて福岡で著名であった十時半睡の船に捨てたのである。赤ん坊は今の夫の子ではなく、前夫の福岡藩士の子である。半睡は「女敵討ち(妻を奪われた武士が妻と男を殺す)」というのがあることを母親に話し、今の夫と赤ん坊とで暮らしていくようにと赤ん坊を母親に返す。

 第六話「おんな宿」は、共同生活をしている家出娘たちが、「助っ人」と呼んでいる男たちと「愛人契約」を結んで生活をしているという、まことに「愛人クラブ」とか「援助交際」とかをする現代の若い女性たちの生態を反映したような話である。そのうちの一人が、半睡が贔屓にしている小料理屋の女将の知り合いで、そのつてで、ひとりは小料理屋に雇われ、もうひとりが半睡の屋敷の下働きに雇われ、その実態を知っていくという話である。娘たちと「助っ人」との間のごたごたも起こる。だが、娘たちは極めてドライに割り切っている。半睡の家で働く女も、気心もよく素直でよく働くが、「助っ人」をもちたいと思っている。そして、事柄が明るみに出て娘たちは姿を消す。

 半睡は言う。
 「およねという娘(家出娘)、そなたに似てなかなか良い娘であった。仕合わせになってくれればよいがのう」・・・「むりじゃろうな」(文庫版 227ページ)

 第七話「叩きのめせ」は、町屋に住んでもあまり面白いことがないという半睡に、屋根船で江戸湾に出て釣りをすることを勧めた家臣が準備した船宿が、急死した旧友の後妻で、後妻は旧友から金をもらって弟と二人でその船宿を営んでいるという。しかし、実はその後妻と弟は姉弟ではなく情人関係であることを知り、旧友の死にもそのことが影を落としていたことを知る。

 半睡はその出来事を明るみに出すことについて、それを追求しても「失うものはあっても、得るものは何もない。鈴木甚太夫殿(旧友)は世間に笑われ、甚三郎殿(旧友の息子)も鈴木家の面目を失う」(文庫版 259ページ)といい、「放っとこう」と言う。一方で、迷い込んだ猫を飼うことになったことで、猫がいたずらをするという理由で幕府の御家人が半睡の家を強請る。その御家人が強請りに来た時、小石を懐紙に入れてつかませ、戻ってきたところを木刀で叩きのめせ、と待ちかまえる。

 この第七話では、事柄の結果を充分に予測して、「人を生かす」ことを第一義に考えて合理的な判断を下す半睡の人柄がよく表わされている。

 第七話の後半で、そろそろ福岡に戻ろうかと思っているところが描かれているので、舞台がまた福岡に戻るのかもしれないが、このシリーズの作品は、なかなか含蓄があって面白い。本のカバーに「珠玉の連作時代小説」という宣伝文句が書かれていたが、本当にそうだと思った。

 昨夕、訪ねて来てくれた中学生のSちゃんに数学の二次方程式の話をしたが、二次方程式には必ず解があるように、この作品は「解」のある作品である。そして、「解」があるということは、すっきりとして嬉しいことに違いない。今週は少し予定が詰まっていたので、こういう爽快な小説を読むのはとてもいい。

2010年2月22日月曜日

白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』(1)

 気温が少し上がって晴れ間が見える。昨日、洗濯をしたまま干すのを忘れて都内での会議に出たので、今朝はもう一度洗い直して干したり、いくぶん溜っている疲れもあって、少しゆっくりとコーヒーを入れて早春が感じられ始めている景色を眺めたりしていた。

 19日(金)に記した六道慧『径に由らず』の表題となっている言葉は、『論語』の中の「行くに径に由らず」という言葉から取られたものであることが、237ページに記してあり、「近道や抜け道を行かず、正々堂々と本道を行く」の意であることが記されて、主人公の姿を現すものとなっているが、作品の中での主人公のその描写はともかく、妙にこの言葉が記憶に残った。そして、孔子は「宇宙(天)の大きさと広がりを人間に体現させようとしたのかもしれない」などと思ったりした。『論語』は、儒教的解釈は別にして、人に天の大きさを示してくれる書物のような気がする。

 昨日(21日)の午後行われた都内での会議の往復の電車の中で、白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』(1997年 講談社 2000年 講談社文庫)を読み始めた。

 奥付によれば、作者の白石一郎は、1931年生まれで、主として海を舞台にした作品を書き、1987年『海狼伝』で直木賞、1992年『戦鬼たちの海』で柴田錬三郎賞、1999年『怒涛のごとく』で吉川英治文学賞などを受賞した作家としての輝かしい実績をもつ人らしい。そして時代小説としての『十時半睡事件帖』もテレビドラマ化されて放映されたようだ。この『おんな舟』も、このシリーズの六作目となっている。

 残念ながら、わたしはこの人の作品にこれまで一度も触れることがなかったし、この作者についても無知であったが、このシリーズの主な舞台が、わたしの郷里でもある福岡と江戸で、主人公の十時半睡(ととき はんすい)は黒田藩(福岡)の総目付(今でいえば検察庁長官)であり、「半分眠って暮らす」という「半睡」という名前が、なんとなく「半眼で生きよう」と思ってきたわたしに面白く感じられて、図書館で目について借りてきた次第である。

 主人公の十時半睡の本名は十時一右衛門で、黒田藩の寺社奉行、郡奉行、勘定奉行、町奉行を歴任した切れ者であるが、出世欲もなく、妻と死別して齢六十を過ぎて隠居の身で、自ら「半分眠って暮らす」という意味で「半睡」と号していた。黒田藩が、彼の進言を入れて「十人目付」という警察・検察制度を敷いた際、適任者がいないために彼がそれを取りまとめる総目付として再任され、様々な事件に「人を生かす」という視座の「大岡裁き」並みの名判断をしていくのである。

 半睡は総目付という重職についているが、目付部屋へは月に二三度しか行かずに、気ままに過ごすことを信条とし、尊大さも堅苦しさもなく、江戸藩邸では、堅苦しい藩邸を避けて気楽な町屋に住んだりするが、持ちこまれる相談事も多く、難事件や珍事件に関わっていくのである。この『おんな舟』で半睡は深川の小名木川に面した所に藩邸から移り住むくだりが描かれているので、前作までの舞台は主として福岡であろう。

 半睡が福岡から江戸に出てくる事情は本作では触れられていないが、福岡で総目付として働いていた半睡は、謹厳実直そのものであった息子が女性関係で不始末を仕出かしたために責任を取って総目付を辞めていたが、江戸藩邸で起こった刃傷沙汰のために江戸藩邸でも十人目付の制度を採用することとなり、筆頭家老に強引に説得されて、江戸の総目付として就任したのである。半睡は、自分に厳しく人にやさしい。

 第一話「突っ風」は、福岡藩主に災厄の兆候があるから厄除けの加持祈祷をさせてくれと申し出た修験者が藩主の生母を使って申し出たため、事柄が政治的判断を必要とすることになり、判断がつきかねた藩の重役たちの依頼で、半睡がそれを解決していくという話である。半睡は盲信に対して客観的・合理的精神をもっている。

 第二話「御船騒動」は、福岡から江戸に向かった藩主の御用船と毛利家の御用船が海難事故を起こし、その責任を問われる事件で、半睡は、その両者も責任を問われることなく済むように事件を処置して行くのである。ここには、「人を生かす」という半睡の見事な姿勢が貫かれている。そのために、負担しなければならないものを負担するという見事な覚悟がこの難題を解決してくことへと繋がっていることが描き出される。

 第三話「小名木川」では、藩主の江戸詰(参勤交代)で江戸へやって来た勤番の若い藩士が無聊を慰めるために行っていた赤坂溜池での釣りに乗じて、彼をたぶらかして江戸藩邸での強盗を計画していた盗人たちが捕えられるという事件で、半睡が風紀の乱れを感じてこれを引き締めるという顛末が描かれている。

 表題作ともなっている第四話「おんな川」は、赤坂溜池近くの中屋敷から深川の小名木川沿いに転居した半睡が、伝馬船を作って藩邸への往復を行おうとして、同じように小名木川を猪牙舟(ちょっきぶね)で自宅と黒江町の小料理屋を往復する女将と知り合い、この女将の奇抜な行動を知らされていく話で、やがて半睡はこの女将の経営する小料理屋を贔屓にするようになっていく。

 昨日はここまでしか読むことができなかったが、面白いシリーズに出会ったと思っている。また、現在は福岡市としてひとつになっているが、わたしの感覚でも、福岡と博多は違うし、歴史的にも、そして街の気風も異なっている。そこには軋轢もある。そのあたりも、前の作品では明瞭に記されているだろうから楽しみである。福岡城(舞鶴城)のある大濠公園の近辺は、本当に懐かしい。

2010年2月19日金曜日

六道慧『径に由らず 御算用日記』

 少し晴れ間も見えた空が、今は薄墨色の雲に覆われている。昨日までの寒さは少し緩んだかもしれないが、変わらずに寒く感じる。ただ時折、陽が差してありがたい。

 昨夜遅く、フジテレビで放映されている『のだめカンタービレ フィナーレ(アニメ)』を見ながら、六道慧(りくどう けい)『径に由らず(こみちによらず) 御算用日記』(2008年 光文社文庫)を読んでいた。この作者の作品は初めて読むし、作者についても、東京両国生まれでSFファンタジーなどを執筆後に時代小説を書いているぐらいしかわからなかったが、村上豊という人のカバーの絵が気に入っているので手にした次第である。

 この作品は、『御算用日記』というシリーズの八作目で、文化・文政の頃(1800年代の初期)に、能州(能登-現:石川県)から出て来て二人の個性的な姉と暮らしながら、その姉たちの多額の借金のために幕府御算用者とならなければならなかった主人公「生田数之進」とその友人である「早乙女一角」とが、幕府目付(検察)の依頼を受けて、各藩の内情を調べていくというものである。

 「御算用者」というのは、要するに勘定方(経理)で、歴史的には、この名前を使っていた加賀藩の「御算用者」が著名で、たぶん作者もそこから主人公を能登の出身としたのだろうと思われるが、作中では、「幕府御算用者」として、幕府目付役の指示のもとで、各藩の不正を暴く密命を受けて取潰しの証拠を集める役割を果たす者として使われている。

 主人公の「生田数之進」は、姉たちに頭が上がらずに茫洋とした性格であるが、物事を見抜く目と知恵のひらめきをもち、彼の知恵は「千両智恵」と呼ばれるほどで、同じ長屋に住む人たちや周囲の人たちからも頼りにされている。友人の「早乙女一角」は、物事にこだわらないさっぱりした性格で、武芸百般の歌舞伎役者顔負けの色男であり、二人はそれぞれ認めあい、助け合って、深い信頼で結ばれており、上司となった目付も、できるなら諸藩を取り潰したくないという人情家である。

 主人公の上の姉ふたりのひとりは着るものに目がなく、もう一人は食べるものに目がない。自意識も高く、弟の生田数之進に厳しく辛らつである。かろうじて惣菜を作って売っているが、商売敵もあり、その商売敵が数之進に夜這いをかけたりもする。姉の惣菜を売っている娘や大食いの姉を利用しようとする商人、その姉に惚れている友人の早乙女一角の舅など、それぞれ多彩で特徴あふれる人物たちが脇役で物語を進展させる。生田数之進は身分違いの姫に恋をし、腑抜けのようになったりもする。

 『径に由らず』は、女色にふけり芸事を好むどうしようもない藩主をいだく丹後の鶴川藩が、それにも関らずに五年の間に借財を半分に減らすということの裏側に隠されたものを、数之進と一角が探索を命じられて暴いていくというもので、物語の展開には荒唐無稽の面白さがある。

 ただ、文章は荒い。日本語の美文の中に込められている「情」もあまり感じられない。時代や社会背景に対する考察にも少し曖昧なところがある。しかし、物語の展開と登場人物たちは、それぞれが誇張された姿であるとはいえ、面白い。作者は青少年向けの伝記小説やSFファンタジーを書いてきたそうだが、そういう一面が時代小説の中でも生かされているのだろう。今のこの国のファンタジーには思想性が欠けていて、この作品がそうだとは言えないし、この作者の作品はほかにも多くあるから、少なくともこのシリーズだけは読み終えた後でしか言えないことではあるが、そうした現代に書かれたひとつの時代小説のファンタジーと言えるかもしれない。

 今日は、陽も差す時が時折あるので、山積みしている仕事を早く片付けて、散策にでも出よう。

2010年2月18日木曜日

藤原緋沙子『潮騒 浄瑠璃長屋春秋記』

 昨夜半から降り出した雪が積もり、再び雪景色が広がった。朝のうちは曇って寒かったが、午後からは予報のとおり陽が差して来ている。姪が仕事の研修でこちらに来たので寄りたいという連絡があって、部屋を少し片づけたり書物を整理したりして、夕方までに今日の予定の仕事を済ませようとPCに向かっていた。

 昨日の夜、「あざみ野」の山内図書館から数冊の本を借りて来ていたので、昨夜は藤原緋沙子『潮騒  浄瑠璃長屋春秋記』(2006年 徳間文庫)を読んだ。この作者の作品は、『見届け人秋月伊織事件帖』のシリーズや『渡り用人 片桐弦一郎控』のシリーズなどを何冊か以前に読んでおり、プロットのうまさがあったので読んでみることにしたのである。『潮騒 浄瑠璃長屋春秋記』は、このシリーズの二作目だろうが、徳間文庫のカバーではシリーズの何作目かの数字がない。

 このシリーズは、理由もわからないままに失踪した妻を探して主人公「青柳新八郎」が浪人の身となり、口入れ屋(仕事斡旋所)の仕事をしたり、長屋の住まいに「よろず相談」の看板を掛けて相談事を引き受けたりして糊塗をしのぎながら、様々な事件を解決しつつ、少しずつ愛妻の失踪の理由と行くえ探っていくという筋立てで物語が展開されている。

 『潮騒』には表題作のほかに「雨の声」、「別れ蝉」の二話、合計三話が収められているが、第一話「潮騒」は、貧乏御家人の養女となった娘が、養家からひどい仕打ちを受け、とくに養母の金策のために茶屋奉公に出されたり、結納金目当てに意に沿わない男のところに嫁に出されようとしたりするのを主人公の青柳新八郎が救っていくという話であり、第二話「雨の声」は、青柳新八郎の郷里から出てきた百姓の依頼で、殺人事件を目撃した娘を救出して、その娘の縁談を無事に進ませていくというもので、第三話「別れの蝉」は、事情があって浪人している青年武士が浪人しなければならなかった事情の真相を突きとめていくというものである。

 いずれも主人公に仕事を世話する口入れ屋、その口入れ屋の仕事をする友人、長屋に住んで主人公に密かな思いを寄せいている女性、また、それぞれの事件の複雑な人間模様と背景などが描かれて、面白くは読める。

 『潮騒』では、失踪した妻が、禁書令によって捕縛されて死んだ蘭学者の実の子どもで、妻は江戸を逃れてきたその父である蘭学者の世話をするために失踪したのではないか、そして夫に類が及ぶのを恐れて捕縛を逃れるために身を隠しているのではないか、ということが暗示されている。

 しかし、辛口になるかもしれないが、こうした設定は、たとえば藤沢周平の『用心棒日月妙』での設定や登場人物、新しいところでは佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』などの設定と類似していて、あまり新鮮味がないし、前に読んだ彼女の『見届け人秋月伊織事件帖』などと比べると文章も荒く、人物の描写も通り一遍のような気がしてならない。登場人物たちの生活感も、もちろん書かれてはいるが、あまり実感がない。いくつものシリーズを同時に書いて作品を量産しているということも目にするので、少し残念な気がする。

2010年2月16日火曜日

平岩弓枝『新・御宿かわせみ』

 どうも今週は金曜日までひどく気温の低い日が続くらしい。今日もどんよりとした寒空が広がっている。

 今朝は広島のMさんからラ・トゥールの『大工の聖ヨセフ』の部分を模写した葉書が届けられた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652年)は、確か小さなパン屋の息子として生まれたが、フランスのルイ13世から「国王付画家」の称号などをもらった人で、『いかさま師』などの風俗画を生き生きと描いたものと、聖書に題材を取った『悔い改めるマグダラのマリア』や『聖トマス』、『大工の聖ヨセフ』などの作品があったと思う。

  『いかさま師』では、カードゲームをする人たちの真中に描かれた女性の狡猾そうな眼が人間の狡さをよく象徴していて特徴的で、他方、聖書に題材を取ったものは、ほとんどの背景が暗闇でその中で光を放つたいまつやろうそくに照らし出された人物によって深い精神性が表わされていたように記憶していた。確か、『聖トマス』は、国立西洋美術館が所蔵していたと思う。

 記憶を確かにするために調べてみたら、『大工の聖ヨセフ』は1640年ごろの作品で、現在ルーブル美術館が所蔵しているらしい。送ってくださった模写は、大工仕事をするヨセフの手元を子どものイエスがろうそくで灯りを燈している部分で、光のぬくもりがよく表わされていた。

 「光」を大切にしたレンブラント(1606-1669年)も同時代の人であり、改めて、17世紀のヨーロッパは人間の精神性が深められた時代だったのかもしれないと思ったりした。この頃の哲学者として著名なのはデカルト(1596-1650年)であり、その少し後の時代にはスピノザ(1632-1677年)がいて、真に多彩な時代だったような気がする。スピノザは、その哲学は別にしても好きな哲学者のひとりではある。ともあれ、Mさんにはいつも何かの精神性を与えられて感謝している。

 ところで、昨日は図書館に行くことができなかったので所有している書物の中で平岩弓枝『新・御宿かわせみ』(2008年 文藝春秋社)を書架から取り出して再読した。これは昨夏に福岡の実家に行った際に実家の隣にある本屋に姪の子どもである優美ちゃんの手を引いて行って買い求めたものである。飛行機の搭乗チケットの半券が栞かわりに挟まれていた。そして再読して、改めて、物語の展開のうまさに脱帽した次第である。

 『御宿かわせみ』シリーズは、幕末にかかる頃の時代背景の中で、与力の次男「神林東吾」と「かわせみ」という宿の女主人「るい」、そして、東吾の友人であり同心である「畝源三郎」を中心に様々な事件を解決していくというシリーズで、描き出されるどの人物もとても魅力的で、全巻を読んでいたが、新たにそれらの主人公たちの子どもたちを中心にして「明治編」とも呼ぶべきものが書き始められて、楽しみに読み続けているシリーズのひとつである。

 前シリーズの主要な人物であった「神林東吾」は、榎本武揚の依頼で江戸から函館に向かう幕府軍艦「美加保丸」に乗り込むが、銚子沖で台風にあい、「美加保丸」は破船沈没して行方不明となっている。東吾の妻であり「かわせみ」の女主人「るい」と愛娘の「千春」は東吾が生きていると堅く信じて待ち続けている。「千春」は母の「るい」に代わって「かわせみ」を切り盛りするようになっている。

 一方、神林東吾の母方の父であり幕府の御典医であった麻生家は維新の混乱の中で何者かに襲われて一家皆殺しにあい、外出していて生き残った新進気鋭でさっぱりした気質をもつ麻生宗太郎と娘の花世は、宗太郎が元南町奉行所与力で東吾の兄である神林通之進の住む家の隣で医院を開設し、天真爛漫で鋭さをもつが情にも厚い花世が「かわせみ」に下宿しながら築地居留地にあるA6番女学校に通いながらその居留地にあるイギリス人医師バーンズの手伝いをする境遇になっている。花世は、やがてA6番女学校の教師となる。ちなみにA6番女学校は現在の女子学院に繋がっている。

 神林東吾の友人で共に数々の事件を解決していた元南町奉行所同心の「畝源三郎」は、麻生家の事件を調べている途中で何者かによって銃撃されて非業の死を遂げ、その子「畝源太郎」はひとり畝家に残ってそれらの事件を調べている。東吾の子ではあるが神林通之進の養子となっている神林麻太郎や千春、麻生花世とは深い友情で結ばれており、探偵稼業をしながら司法を学んでいく。

 神林麻太郎は、自分の実の父が東吾であるとは知らないが、東吾によく似て行動力も好奇心も旺盛で、さっぱりした気性と鋭い思索をもち、殺された麻生家の息子の代わりにイギリスに留学して医学を学び、築地居留地のバーンズ医師のもとに下宿して、新進気鋭の医者として働きながら畝源太郎を手伝っていく。それは、父の神林東吾と畝源三郎との関係を彷彿させるものである。

 明治編の物語は、その神林麻太郎がイギリス留学から帰国するところから始まるが、神林麻太郎、畝源太郎、神林千春、麻生花世、そして「るい」や麻生宗太郎、神林通之進、かつての畝源三郎の下働きをしていた蕎麦屋の長助、「かわせみ」の人たち、バーンズ医師やその家族など多彩な、そしてそれぞれ特徴のある人物たちによって物語が織りなされていく。維新後という変化の激しい時代を背景として、変わっていく世相の中でそれらの人々がどのように生きていくかということも大きなテーマとなっている。

 最初の事件は、バーンズ診療所の患者である貿易商のスミス家で高価なダイヤの指輪が紛失し、疑いをかけられた中国人の下女を助けるために花世が畝源太郎と神林麻太郎に助力を求めているうちに、もう一人のイギリス人下女が殺され、その事件の真相を暴いていくというのもで、第二話「蝶丸屋降りん」は、本妻の子と妾の子がいた「蝶丸屋」という大店で、妾の子が死んだ事件の謎を麻太郎の新しい医学の知識などを用いて解決していく話である。

 そして、第三話「桜十字の紋章」は、明治政府がとった「神仏分離令」などによって起こった混乱に乗じて宗教の名を借りて老人を殺して財産を巻き上げていた擬似宗教集団の事件を解決して行くというもので、ここでは聡明で冷静な神林通之進も大活躍をする。第四話「花世の縁談」は、縁談が起こっても見向きもしないで我が道を行っている花世が親しくしているローランドという若い医者が処方した薬を飲んでいた患者が毒物中毒にかかった事件で、それはかつてその患者を診ていた医者が知識を誤ったものであることを突きとめていくものである。いずれも、政治も知識も、何もかにもが中途半端な状態が続いた明治期に、確かな知識と目をもって事柄にあたっていく麻太郎や花世、畝源太郎によって事件の真相が明らかになり、それを「るい」や神林通之進らが助けていく展開である。

 第五話「江利香という女」は、「かわせみ」に止まっていた絵師夫婦の「江利香」という女が殺された。その事件を調べてみると、実は、江利香の妹と弟が借金のかたに女衒(ぜげん-女を売買する者)に捕らわれそうになったのを助けるために夫婦を装い、彼女が奔走していたことが分かり、源太郎と麻太郎がその妹と弟を助けだしていくという話である。

 そして、最後の「天が泣く」は、長い間苦労して麻生家の事件と畝源三郎の死の真相を探っていた花世、源太郎、麻太郎たちが、それぞれの持ち味を生かして、ついに事柄の真相を暴きだしていく話である。ここには、当時の青山にあった牧場などが細かな背景として置かれている。あえて詳細は記さないが、「天が泣く」というのは、真に見事な表題で、それぞれの青年たちがその悲劇を乗り越えて、ここからまた新しく出発して行く。

 『御宿かわせみ』も『新・御宿かわせみ』も、この作品の優れて感動的なところは、それぞれに登場する主人公たちとそれらをめぐる人々が深い信頼と情で結ばれているところである。そして、それが温かい。文章に一つ一つが洗練されて、その温かみが伝わる。俵万智さんの歌を借りていえば、「寒いねと語りかければ 寒いねと こたえる人のいるあたたかさ」の「温かさ」があるのである。それが確かな時代と社会背景への視点の中で生き生きと描かれているのである。読んでいて本当に嬉しくなる。

2010年2月15日月曜日

諸田玲子『末世炎上』

 冷たい小糠雨が降っている。このところ冷えて気温が低く、天気も目まぐるしく変わっている。13日の土曜日からカナダのバンクーバーで冬季オリンピックが開かれ、その開会式での先住民族の人たちの踊りをテレビで見たりしていた。オリンピックの競技そのものには以前のような関心はなくなっているが、昨夏に友人がカナダに行ったということを聞いていたので、バンクーバーの町の人々の様子などを眺めたりしていた。

 諸田玲子『末世炎上』(2005年 講談社)を面白く読んだ。以前、平安期を取り扱った『髭麻呂 王朝捕物控え』(2005年 集英社文庫)を読んで、作者の時代考証の確かさに裏づけられた展開のうまさを感じていたが、この作品も、11世紀の半ばの平安末期が舞台となった作品で、藤原家が権勢を握り、官職が特定の家系に世襲される家職化が進んで、身分が固定され、貧富の差が拡大して、一方で贅を尽くした貴族たち、他方で、飢えで餓死していく貧民層たちに明瞭に区別され、「末法思想」が世情で支配的となった時代を背景としている。

 物語は後冷泉天皇(1045-1068年)から後三条天皇(1068-1072年)への変遷を背景としながら、貧民層出身で青年貴族たちから凌辱されたショックで、200年前の「吉子-小野小町」となる黒髪の美少女「髪奈女」と、彼女を助けて謎に挑むことになる下級役人(左衛門府の大志-だいさかん-門衛)で中心人物となる「橘音近」、美貌の青年貴族で「今業平」と噂される在原業平の子孫である在原風見、紀貫之の子孫である紀秋実、大伴氏の末裔である伴信人、優れた青年学者である藤原匡房、などが登場し、小野小町と在原業平を巻き込んで藤原家の台頭のきっかけとなった「応天門の変」(866年)の事件と重ね合わせながら、末法思想を利用して作り上げた「怨堕羅夜叉明王(おんだらやしゃみょうおう)」を導師とするカルト集団とそれを利用して政権を握ろうとする藤原家との対決が展開されていく。

 歴史的に見れば、この作品には二つの大きな前提があり、ひとつは「応天門の変」が藤原家によって仕組まれたものであることと、もうひとつは在原業平と小野小町が互いに思いを寄せあった者どうしであるということである。

 そうした歴史的前提を抜きにしても、それぞれの登場人物たちが、それぞれの歴史的に知られた人物を背景として描かれるので生き生きとしている。

 主人公のひとりであり、見事な黒髪をもつ美少女で小野小町を映し出す貧民の「髪奈女」は、貧しい生活ではあるが、「足るものを知る者は富む。髪奈女の心は豊かだった」(15ページ)と描かれるし、物語の後半で小野小町から貧しい髪奈女に戻った時も、「ふんだんな餞別を賜ったのに見向きもしなかった」(420ページ)女性で、「『おれは粥がいいよ。粥が食べたかったんだよ』髪奈女は明るい声で叫んだ。他に何を食べるというのか。家族そろって食べる粥以外に・・・」(425ページ)という女性である。

 いつも彼女を助け、彼女の味方となって事件を解決していく主人公の「橘音近」は、下級役人として出世欲もなく、たいだで退屈な日々を過ごしているが、そのために妻や子どもたちから馬鹿にされている人物である。しかし、底抜けに人がいい。そして、この事件と関わる中で自分の生きる目標を見出していく。

 「烏羽玉(東宮-後三条天皇-のために密命を帯びて働くうちに音近と契りを結び、やがて髪奈女-吉子-小野小町-を守るためにカルト集団の導師と戦い、相撃ちで命を落とす)恋しさに悶々とし、吉子のいない寂しさに鬱々とする。吉子に出会うまでの音近は、やる気のない中年男だった。仕事といえば居眠りばかり、妻子からはつれなくされ、これといった趣味もなく、日々だらけきっていた。ところが、吉子のお陰ですべてが変わった。
 吉子の素性を知るために、骨身を惜しまず駆けまわり、歴史を学び、和歌に親しみ、侘しく暮らす早子(音近の叔母)と親交を深め、烈しい恋に身を焦がし・・・さらには東宮のために働くという大きな目標を得た。自分が吉子を救ったのではない。吉子が自分を救ってくれたのだ。今ならわかる」(421ページ)という人物である。

 無聊の中で悪事ばかりを働くことで気を紛らわせていた青年貴族たちも、それぞれの悪事を悔いて、自らの生き方を見出していく。

 時代と状況は「末法の世」である。「現世は破滅の一途をたどっている。だから貴族はせっせと寺社を建立して極楽浄土を祈願する。官人は仕事を放り出して賭けごとに興じ、庶民は念仏三昧。貧民は悪事に奔る。それが当節の世相である」(124ページ)と述べられ、悪事を企むカルト集団の導師は「愚衆には盲信を、為政者には猜疑を植え付ける、それが肝要、・・・愚衆は盲信によって地獄の魑魅魍魎となる。為政者は猜疑を飼い育て、昨日の味方と争い、身内縁者と殺し合い、神仏に唾を吐きかけ、帝を地べたに引きずり降ろし、果ては自滅する」(187ページ)と嘯く。登場人物の一人であり、後に音近と共に真相の解明にあたる在原風見の名前が「風見」であるのも、そうした世相を表す。
 
 だから、こういう中で無欲な「髪奈女」と「橘音近」の姿が光る。事件そのものは政争に関わる生臭い事件であるにもかかわらず、この主人公たちの姿がその生臭さに勝っていくのは、作者の好ましいひとつの姿勢であろう。

 読みごたえのある作品である。構想も平安期の200年の時を越えるものであり、こまごまとした展開や会話も生き生きとしている。ただ、もちろん意図的な構造で、作品としても大胆な実験的な要素ではあろうが、それぞれの章が登場人物を中心に目まぐるしく変わっていくので、読者として物語の展開を辿っていく者にとってはそれを追いにくいのが若干の難点にもなっているような気がする。しかし、小野小町は、今でも謎の多い人物であり、彼女を中心に据えた着想は素晴らしく、秀作である。

 物語の中で使われる小野小町の有名な歌「花の色はうつりにけりないたずらに、わが身世にふるながめしままに」は、その心情の哀れさもあって胸に響く。「わが身世にふるながめしままに」は、まことに今のわたしの心情に近いものがあると、つくづく思ったりもする。しかし、「ながめしままに」でもいいかもしれないと思ってはいるが。

 今日は相談事が入ったので、都内に出る予定をキャンセルしてこれを書いている。「げに悩みの種は尽きまじ」が人の世ではある。夜はフルートの練習をすることにした。

2010年2月12日金曜日

山本一力『深川駕籠』

 雨が夜更けすぎには雪に変わるかもしれないとの予報が出ていたが、しんしんと冷え込むだけで雪にはならなかった。今朝も寒さが厳しい。だが、この寒さもあとひと月もないだろう。梅の便りも聞こえている。

 昨日、図書館から借りてきている山本一力『深川駕籠』(2002年 祥伝社)を手にとって読み始めた。奥付によれば、作者は1948年生まれで、2002年に『あかね空』で直木賞を受賞した作家で、市井の人々を描いた文体にも定評があり、『深川駕籠』も、よく練られた文体で、粋で男儀のある「駕籠かき」の姿を描いたものだが、どうも、男儀を競ったり、意地を通したりする展開は、今のわたしにはつまらなく思えて仕方がない。

 主人公は元火消しの纏(まとい)持ちという男儀を示す花形だったのだが、雷に打たれて屋根に上るのが怖くなり、火消しを辞め、同じように力士くずれと「駕籠かき」となって江戸市中を走り回り、行きがかりでさびれた町の町おこしのためにもほかの「駕籠かき」とトライアスロンに似た競技をすることで賭けを起こし、それを邪魔する同心たちのいやがらせなどの中で、意地と男儀でそれを成し遂げていくというもので、主人公も駕籠かきの相方も深い友情があり、また周囲の人たちの彼らを認めた温かみのある姿が描かれている。

 だが、物語を支える根本が「競争」であり、「勝負」であり、とうとう初めの二話だけを読んで、途中でやめてしまった。「男儀」とか「意地」というものも、何の魅力もない。今まで手にした書物を読了しないということはほとんどなかったのだが、「限られた時間の中で限られた書物しか読めない」と思うと、気乗りのしない書物を読み続ける気力がなくなって、自分で自分に驚いたりした。

 ただ、この作者のほかの書物は、以前何冊か読んでいて、この作者の思想というのが決してそういうものだけではないと思うので、これは、たぶん「食あたり」のようなものかもしれない。

 図書館からもう一冊、諸田玲子『末世炎上』(2005年 講談社)を借りてきているので、今夜はこれを読み始めよう。

2010年2月11日木曜日

佐藤雅美『老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵』(2)

 昨夕遅くに雨が降り、今朝もどんよりした天気が続いている。今朝はゆっくり起きて不協和音の多いJ.S.バッハの「ピアノ協奏曲」などを聞いて過ごした。バロック調の旋律なのだが、ちょっといびつな感じもする。気温が低く寒いので、こういう日は身体に堪えて頸椎も痛むが、読み続けている佐藤雅美『老博奕打ち』が面白くて、ひとりで腹を抱えて笑ったりした。バッハと居眠り紋蔵は合わないが、その取り合わせもなかなかではある。

 『老博奕打ち』の第六話「呪われた小袖」は、ある旗本の内儀が凌辱されて殺され、その際に盗まれた小袖をめぐって、その小袖に関わった者たちが次々と罪に定められ、紋蔵と同心の金吾が真相を探っていくというもので、結局、旗本が自分の妻の殺害を友人の旗本に依頼し、それをごまかすために強盗を装っていたことが判明する。盗品である小袖をさらに盗んだり、売ったりして小利を謀った者たちが次々と発覚して、まるで凌辱されて殺された内儀の怨みが乗り移ったようにして事件が明るみに出ていく筋立てが流れるようでうまい。

 第七話「烈女お久万」は、饅頭屋の若後家が囲った役者の家が、近所の者のやっかみで火事騒動に似せて壊され、それが侠客と火消しの双方の親分のところに持ち込まれ、侠客と火消しが一色触発の状態となり、紋蔵の知恵によって、家の持ち主である饅頭屋の若後家「お久万」を説得して解決するという話で、紋蔵が預かって育てている文吉(第三作『密約』で登場)が子どもながらに度胸の座っていることを買われて侠客の家に出入りし、小博奕をしていることが分かり、紋蔵がそれをやめさせようと侠客と関わることも絡んで展開されている。

 第八話「伝六と鰻切手」は、第七話の事件の解決によって鰻をごちそうされ、鰻切手(鰻の商品券)をもらったが、そこに伝六という就職の保証人になることで手数料をもらった男が、斡旋した奉公人が欠落ち(かけおち)したという問題をもちこみ、この奇妙でずうずうしい男に翻弄されて、欠落ち事件の決着をつけなければならなくなった紋蔵が、家族で鰻を食べに行くことを楽しみにしていたのに、その鰻切手を使わせられる羽目になるというものである。

 およそ人間の事件というものは、人間の「欲」から生まれてくる。「欲」は、生物学的な生存欲求も含めて、その社会の状況や環境、それぞれの関係の中で様々な姿を取るが、人間は決して「無欲な存在」ではありえないので、その機微が『物書同心居眠り紋蔵』の中で描き出されていくのである。作者の佐藤雅美は、その「欲の状態」を生活レベルの状態で時代の社会背景を詳細に検討しながら展開する。そして、主人公の居眠り紋蔵もまたその一人として描き出されているので、単純な善悪の判断がされないところがこの作品を上質なものに仕上げている。こういうところが気に入っているのである。

 今日は、本来なら、近くの人たちから誘われて朝の6時からスキーに行くこともできたのだが、時間もとれないし、あまり気乗りもしなかったので比較的のんきに過ごしている。「家庭論」という1999年に発表した倫理学の論文の整理もしよう。食料品の買い出しにも行かなければ、と思ったりしている。

2010年2月10日水曜日

佐藤雅美『老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵』(1)

 昨日の天気は、この時季としては異常なほどの高温で、生暖かい風が吹いて春の陽気となったが、今日は曇った空から冷たい風が吹き下ろしている。朝から気ぜわしい感じで幕が開け、しようと思っていたことができないままに時が過ぎていく。わたしの今の日常はこんな日が多いのだが、いつになっても慣れないなぁ、と思ったりもする。

 昨夜から、佐藤雅美『老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵』(2001年 講談社)を読んでいる。これはこのシリーズの5作目で、以前に『密約』と『白い息』を読んでおり、面白く読んでいるシリーズである。

 南町奉行所の例繰方同心を務める藤木紋蔵は、当然居眠りに陥るという奇病のため「居眠り紋蔵」と呼ばれているが、過去の判例(例繰方はその判例を調べて事件の判決を導く)に関する知識と推理力は抜群で、その知識と観察眼を用いて事件を解決していく人物で、奇病のためにいつ首になってもおかしくない状況を戦々恐々としながらも卓越した推理を発揮していく。

 『老博奕打ち』には「早とちり」、「老博奕打ち」、「金吾の口約束」、「春間近し」、「握られた弱み」、「呪われた小僧」、「烈女お久万」、「伝六と鰻切手」の8編が収められている。

 第一話「早とちり」は、やり手の薬種問屋「奈良屋」の家の出格子が規定以上だったのをとがめられ、藤木紋蔵が親しくしている料理屋の包丁人頭から何とかならないかと依頼されて、過去の事例から無理だと言いつつも気になって調べた藤木紋蔵が、その家の近くで起きた殺人事件と薬種問屋への脅迫事件との関連で、薬種問屋が広東人参の盗品買いをしていたことを突きとめていく話である。

 第二話「老博奕打ち」は、藤木紋蔵が親しくしている「六尺手回り(口入屋-就職斡旋)」の頭「捨吉」から、捨吉が尊敬している老博奕打ちが殺しを示唆したかどで北町奉行所に捕えられ、老博奕打ちはそんな人間ではないから冤罪だと訴えられ、紋蔵が事件の真相を探っていくと、捕えた北町奉行所の出世頭の同心と悪知恵を働かせていた大名家の弟が結託して私腹を肥やすために仕組んだことが分かり、冤罪を晴らすが、放免された老博奕打ちが自分をはめた北町奉行所同心と大名家の弟に怨みを晴らしていくという話である。

 第三話「金吾の口約束」は、襲われて怪我をしたと訴えた事件で、訴えられた相手が自分のアリバイを話せないということになり、それを調べることになった紋蔵が、実はアリバイを証明しない男が大名家の不始末(当主の三男が女中に手をつけ、捨てた)を種に大名家を強請っていたことを突きとめ、それを明らかにしていくが町奉行はそれを老中水野出羽守に伝え、事件を暴露せずに大名家の弱みを握っていくことになったということ結末となる。ここには、その事件のほかに安い地酒にブランド銘酒のラベルを貼って荒稼ぎをしていた事件を紋蔵の観察から察した同僚の同心「金吾」が、酒問屋組合からの礼金のために解決していくという事件も描かれており、金吾は紋蔵にお礼をすると口約束するという話もあって、第三話の表題となっている。

 作者の佐藤雅美は、どの作品でも実際の生活のレベルから物語を進めるので、当時の同心たちが貧しい扶持(給料)の中で、付け届けなどによって生活を成り立たせていた実情をいかんなく記し、それが物語を展開させていく。「金吾の口約束」もそうした背景が巧みに取り入れられている。

 第四話「春間近し」は、70歳を越える掏摸(すり)の元締めを逮捕し、これを石抱き(石を抱かせて自白させる)にすることを問い合わせた吟味与力に対して秀才の目付が知識をひけらかせて中止にし、捕えられた男も掏摸の元締めなどではないということになって、吟味与力は責任を取って職を辞そうとするのが話の骨格である。しかし、藤木紋蔵の名推理で、逮捕された男は本当に掏摸の元締めであることが判明する。彼を捕えた同心の責任を取って辞めようとした吟味与力は意地を通してやめようとするが、紋蔵の上役で紋蔵のよき理解者である峰屋鉄五郎の情のある説得を受け入れていくのである。

 ここには「人を生かす」という姿勢をもつ紋蔵の理解者の峰屋鉄五郎と紋蔵の姿がよく描かれている。

 第五話「握られた弱み」は、美人で有名な糸屋の娘が惚れて関係した鳶職の男が喧嘩で相手を傷つけた罪で投獄され、その罪を減じるために放火をするが(火事の時に一時囚人は釈放され、戻って来ると罪が減じられた)、6歳の子どもに目撃される。その目撃の信憑性をめぐって議論が起こったりするが、証言した6歳の子どもとその父親の行状が暴かれ、娘は無罪となり、鳶職の男も冤罪だということが分かる。しかし、実際は6歳の子どもの証言どおり娘は放火しており、その子どもに弱みを握られて娘は過ごさなければならないという結末となる。

 昨夜はここまでしか読んでいないが、この時代の判例集などをよく調べて、その実情が反映されており、それらが生活者の目を通して語られているので、読んでいて「なるほど」と思うところもあり、また、主人公の人柄も、観察眼や推理力は鋭く、真直ぐに事件に関わってはいくが、物事に拘泥しないさっぱりとしたところがあって、事件の顛末もあっさりと描かれるので、読んでいて面白い。

 このシリーズは全部で9作品あるので、ほかの作品も一読したいと思っている。

2010年2月8日月曜日

松井今朝子『三世相 並木拍子郞種取帳』

 時々陰っては来るが、おおむね冬晴れの日となり、少々風邪気味なのだが、朝から「炭酸ソーダ(重槽)」を使って掃除をしたりして「あっ」という間に時間が過ぎてしまった。粉末の「炭酸ソーダ」を薬局で買ってきてお湯で溶きスプレー容器に入れて使うのだが、その威力が本当にすごくて、煙草のヤニがとれて雑巾が真っ黄色になるほどだった。

 土曜日の夜と日曜日の夜、松井今朝子『並木拍子郞種取帳』シリーズの三作目となる『三世相(さんぜそう) 並木拍子郞種取帳』(2007年 角川春樹事務所)を金曜日の一作目『一の富』に続いて読んだ。表題作となる「三世相」は第四話に収められているが、「三世相」とは、「干支と易占いに仏教の因縁説を取り交ぜた占術書のことで、概ね迷信と俗説が中心」(148ページ)で、先祖(前世)の因果が現世の人間に現れ、それがまた子孫に現れていくということで、前世・現世・来世の「三世」による占いのことである。

 その表題作のほかに四話が収められているが、一つ一つの事件そのものよりも、主人公の並木拍子郞と料理茶屋の娘「おさわ」の関係が、ある種の緊迫した糸となって全体に流れている。並木拍子郞は北町奉行所同心の次男で狂言作家になることを志しているが、同心である兄夫婦に子どもはなく、その兄が自分の実の父親ではないかという出生への疑いもあり、あまり体が丈夫でない兄の家督を継いで武士(同心)として生きる道を迫られているし、他方では、狂言作家として師匠の五瓶や「おさわ」との町屋暮らしも捨てがたい狭間にある。また、「おさわ」は料理茶屋のひとり娘であり、もし拍子郞が武家に戻れば、その関係は断たれてしまう。そういう二人のどうにもならない状況の中で、お互いの思いだけが空回りしていくのである。拍子郞は、なかなか決断できないでいる。この二人の関係がこれからどう展開していくのかが、この三作目の山場となっているのである。

 第一話「短い春」は、武家奉公している女が宿下がりして、拍子郞のいる芝居小屋に芝居見物に来て、役者に貸した笄(こうがい-髪止め)が壊れて見つかったのを縁に、拍子郞がその宿下がりしている武家女中のところを訪ねていくという話で、子だくさんの貧しい武家の家に生まれ、家計を助けるために武家女中として奉公に出て自分の運命を毅然として堪えてきた女性の姿が切なく描かれる。

 第二話「雨の鼓」は、太物問屋の江戸出店の番頭(支店長)が大阪から連れてきていた妾が殺され、その妾と恋仲で上方から女を追ってきた鼓打ちが、女に惚れてはいるがここままでは自分が深い泥沼にはまり込んでしまうことを思い殺してしまったという事件で、鼓打ちが自分のアリバイ証明として殺人を犯す夜に鼓の音をさせていたということについて、「おあさ」の知恵で、雨水を利用した「鹿威し」を使ったものであることを解き明かしていくものである。身勝手な思いが人を狂わせる。そして、人はその自分の身勝手さから逃れられない。

 第三話「子ども屋の女」は、大店の呉服屋の主人が深川の芸者に入れあげているのではないかということを心配した家人と「おあさ」の父親の話を聞いた拍子郞が、芸者の置屋である「子ども屋」の世話をする娘が、実はその主人の娘であることを明らかにしていく話であるが、文化・文政の頃の役者瀬川路考や中山富三郎の芸の話や俳諧の月例会の話、拍子郞の早合点によって呉服屋の主人を強請る芸者の話などが盛り沢山で、善悪合わせ飲む狂言作家並木五瓶の見事な処置などが鮮やかに描かれていく。そして、こういう五瓶のもとにいる拍子郞と「おあさ」が次第に人生の機微を知っていくのである。

 第四話「三世相」は、よく当たると言われていた占い師の言葉によって、表面はよい医者といわれていたが家庭内では暴力をふるっていた医者を、その医者の妻の身を案じていた従僕が殺すという事件で、その占い師も、そのことで医者の妻を強請るというおまけまでついて、そうした事件を拍子郞が暴いていくという話である。

 人はなぜ占いや予言に頼ろうとするのか。そのことについて、五瓶の女房は「私(わて)らのような阿呆が物事を決めようと思たら、これがええ頼りになりますのや」(148ページ)と言い、前世という信憑性のないものをもちだすことについて、「おあさ」は「人はどんなに踏ん張ってみても、どうにもならないことだってあるんだよ。何もかも自分のせいだといわれたら、立つ瀬がないじゃないか。・・・前世のせいにしたって、なんだっていい。とにかく納得したいんだよ。まったく自分は何故いつもこうついていないんだろう。どうしてこんなふうになっちまったんだろうかと考えてね」(154ページ)と言う。

 「頼りなき者」、「寄る辺なき者」として人は生きていかなければならない。占いや最近の「癒し」はその間隙に入り込む。それを信じようとする人間の心情には弱さがあるが、それを行おうとする人間には「ズル」さがある。人の弱みにつけ込む人間はいやらしい。その「いやらしい人間」がマスコミを通してもてはやされる世情とは何なんだろう。近代以後の人間はその「いやらしさ」から解放されているはずであるが、相変わらずの世相があるなぁ、と思ったりする。

 第五話「旅芝居」は、「旅まわり(地方巡業)」をすることになった役者のために、その巡業先をしらべに並木拍子郞が下総にまで行く話で、その時に、シリーズの二作目で出てきた「おあさ」に結婚を申し込んだ酒問屋の若旦那が勘当されて銚子にいることを聞いた「おあさ」から、その酒問屋の主人が病に倒れたことを伝えてほしいと頼まれ、拍子郞が銚子で醤油屋に働いている若旦那のもとを探し訪ねていく話である。

 若旦那は出生があいまいで、そのことによって酒問屋に後継騒動が起こるのを避けるために自ら勘当を申し入れ、銚子で醤油屋の下働きとして働き、その醤油屋の孫娘と恋仲となり、そこに根を下ろそうとする。しかし、拍子郞と会い、父親の見舞いに行くことを決心する。その二人の姿を見ながら、拍子郞は「おあさ」とのことを思っていく。

 はて、さて、並木拍子郞と「おあさ」はどうなるだろうか。その行く末はこれから書かれていくだろう。

 初めに書いたように、このシリーズには、まず設定に無理がない。武家でありながら狂言作家を志す主人公の行く末、そして料理茶屋という町屋の娘との恋の行く末、それらが背骨のように走って、それぞれの事件の顛末がそうした人物の要としての拍子郞の師匠である五瓶との絡みで明らかとなり、そこに当時の芝居の状況や世相が反映され、それらが横糸となって物語が織りなされていく。作者の展開の仕方も作を重ねるごとに見事になっていく。続きが待たれるシリーズになっているのが心憎い。とにもかくにも面白く読める作品である。

2010年2月5日金曜日

松井今朝子『一の富 並木拍子郞種取帳』

 冬の晴れた空が広がって、空気が冷ややかに澄んでいる。昨日からどうも少し風邪をひいたようで身体が重くむくんでいる気もするが、昨日、「あざみ野」の山内図書館から借りてきた松井今朝子『一の富 並木拍子郞種取帳』(2001年 角川春樹事務所 2004年 角川文庫)が面白くて、昨夜遅くまで読んでいた。

 これは以前に読んだ『二枚目 並木拍子郞種取帳』のシリーズの第1作目で、作者の最初の「捕物帳」ものになるが、この作品の設定のうまさと無理のなさは以前書いた通りで、この作品は1作目だから、北町奉行所同心の次男で、狂言作家並木五瓶の弟子となって、芝居の種となる話を集めるように言われてそれぞれの事件に関係していく主人公の並木拍子郞、彼を弟子とした狂言作家並木五瓶とその妻、近所の料理茶屋のひとり娘で、拍子郞と恋心を育んでいくちゃきちゃきで男まさりの娘などの登場人物がさりげなく紹介されながら、それぞれの事件を通して、親子や夫婦、あるいは人が大切にしなければならない事柄が描かれていく。

 最初の「阿吽(あうん)」は、瀬戸物問屋の大店の跡取り問題を絡めながら、その大店の女将と主人の腹違いの弟の不義、そしてその二人による主人の毒殺という事件を、芝居の種探しを命じられた並木拍子郞が知り、その事件の解決のために並木五瓶がそれを芝居仕立てにして上演して真相を明らかにしていくというもので、さすがに、登場人物たちの背景や人格を描き出すために少し硬い感じで物語が展開されているが、暗号の謎解きといったミステリー仕立てもあり、また、芝居作者としての伍平の推理や事件に真直ぐに突っ込んでいく主人公の姿が物語の独自性を広げていくようになっている。

 第二話「出合茶屋」は、シリーズの重要な登場人物としての料理茶屋の男まさりのひとり娘「おあさ」が登場し、出合茶屋(今でいうラブホテル)の幽霊騒ぎの真相を確かめるために、並木拍子郞と「おあさ」が客を装ってその出合茶屋に行き、幽霊騒ぎが道ならぬ恋をしたその出合茶屋の娘の仕業であったことを突き止めるという話で、第三話「烏金」は、並木拍子郞の近所の金貸し婆の首つり死体が出たことから、悪態をつかれていた金貸し婆が実はそれほど悪い人間ではないことを知って、それが実は孫娘の亭主による殺人であることを明らかにしていくという話である。

 第四話「急用札の男」は、芝居の急用札(緊急呼び出し)を利用した誘拐事件が発生し、その真相を暴いていくというもので、この事件で犯人に人質にとられた「おさわ」を助けるために並木拍子郞は衆人の前で誘拐犯と大立ち回りをし、犯人を捕えるという出来事が起こる。そして、この時、「おさわ」を見染めた江戸でも指折りの材木問屋の若旦那から結婚を申し込まれるという第五話「一の富」へと繋がっていく。

 表題作でもある「一の富」は、富くじ(宝くじ)の一等賞のことで、講(仲間)を作って富くじを買い、一獲千金を夢見る芝居の木戸番の姿を背景にしながら、結婚の申し込みによって揺れる「おさわ」の女心を描きながら、「人生の一の富」とは何か、を描き出すものである。

 作品にはユーモアもたっぷり盛り込まれている。人生の機微を知る並木五瓶とまじめな性格をもつ並木拍子郞の掛け合い、「おあさ」との掛け合い、伍平夫婦の姿も含蓄に富んでいる。このシリーズとしては三作目の『三世相』という作品が2007年に出ているので、このシリーズは、「一の富」、「二枚目」、「三世相」と数の順番通りに題名がつけられていて、二作目はさらに面白かったので、三作目も充実しているだろうと思われる。

 『一の富』の中では、第三話「烏金」と第五話「一の富」が、それぞれに苦労して生きている人間の心情が丹念に描かれ、しかも人間にとって大切なことをさりげなく示していく作者の人間に対する眼差しが表れていて好きな作品となっている。

2010年2月4日木曜日

北原亞以子『埋もれ火』(2)

 暦の上で立春になり、これからの寒さは「余寒」と呼ばれるが、このところ雪模様の日があったりして寒い日が続いている。今朝も、空気が刺すように冷たかった。如月は、どちらかといえば人間の精神状態が不安定になりがちな月で、「忍耐力」が失われやすい時でもある。創造力もずっと欠如するような気がする。

 北原亞以子『埋もれ火』の続きを読み終えた。なかなか意欲的な作品集である。第三話「波」と第四話「武士の妻」は、いずれも新撰組局長であった近藤勇に関係する女性の姿を描いたもので、「波」は、近藤勇の妾であった「おさわ」が、流山(江戸)で官軍によって捕えられ処刑された近藤勇の訃に接した時の姿を中心に描き出したもので、当時の権謀術策を張り巡らされた中での近藤勇の処刑と、手のひらを返したようにして去っていく人々の中で、「おさわ」は、ひとり、近藤勇の姿を抱いていく。作品の中では触れられず、「おさわ」が近藤勇の菩提を弔って生涯をすごすことを決意するようなこと匂わせる結末が描かれているが、実際は、「おさわ」は近藤勇の後を追って自害している。自害まで描かないところは作者の優しさだろう。

 第四話「武士の妻」は、近藤勇の正妻「ツネ」の姿を描いたもので、武家の出であった「ツネ」は、比較的安心して暮らすことができる豪農の三男で町道場の主であった近藤勇のもとに嫁いだはずなのに、いつの間にか時局の流れの中ではるかに遠方に行ってしまい、新撰組の局長となり、そして処刑された夫の姿を考える。そして、「武士の妻であるならば」と自害を試みる。実際の近藤ツネは、近藤勇の死後、勇の生家で娘の「タマ」の成長を見守りながら明治25年まで生きている。悩みも多く自殺癖もあったといわれるが、彼女もまた近藤勇という影を抱いて生きなければならなかった女性である。

 第五話「正義」は、幕末の志士のひとりである相楽総三(さがら そうぞう-本名小島四郎)の妻「照」の姿を描いたもので、相楽総三は、西郷隆盛と親交をもち、西郷の命によって江戸市中を混乱に陥れるために放火、略奪、暴行などを繰り返し、「大政奉還」によって徳川幕府への武力討伐の大義名分を失っていた薩長が徳川の幕臣を刺激して武力討伐の口実を作りだすという働きを行った。西郷の姦計は成功し、これが鳥羽・伏見の戦いの先端となった。相楽総三は、その後、戊辰戦争が勃発すると「赤報隊」を組織し、東山道軍先鋒隊として活躍し、新政府軍に民意を汲むための「年貢半減令」の建白書を出し、これが認められて進軍していくが、新政府軍の突然の方針返還によって、かってに「年貢半減」なるものを宣伝した偽官軍とされ、相楽は捕縛されて処刑された。

 作品は、この経過をたどりながら、政治に翻弄され続けた男を夫として持つ妻が、夫の主張を信じ、その夫に惨めな死を与えた者への悲憤の中で自らの命を絶っていく姿を描いたものである。

 私見だが、江戸時代が決して良かったとは思わないが、日本は明治維新でまた間違えた方向に進んだように思われてならない。大勢の、しかも有為な人間が殺されて出来上がったような社会が決していいわけはない。

 第六話「泥中の花」だけは、この短編集では異質の、討幕運動のきっかけを作った清河八郎の妻に横恋慕した男が清河八郎をつけねらっていくという設定で、清河八郎の姿をその妻との関係を含めて描きだしたものである。清河八郎もまた、激動していく時代を知恵と力を尽くしてうまく泳ぎ渡ろうとして、そして挫折しなければならなかった人間のひとりである。彼には大きな欠点もあったが、早く生まれすぎたきらいもある。

 第七話「お慶」は、坂本竜馬の海援隊を支援したりした長崎の豪商「大浦屋のお慶」の維新後の姿を描いたもので、「お慶」が、維新の波に乗れずにうらぶれていく男の影を引きずっていたために詐欺にあって財産を失っていくが、それを切り抜けていこうとする姿を描いたものである。「大浦屋お慶」という女性は、自立心の強い豪胆な女性であったが、それだけに、維新後に偉くなった明治政府の高官たちのつまらなさも見抜いていただろう。彼女の生きざまには、いつも爽快感があって「女竜馬」の思いがしたりもする。

 第八話「炎」は長州の支藩の回船問屋で幕末の志士たちを支え、この人なしでは維新は起こり得なっただろうと思われる白石正一郎の姿をその妻「加寿」の側から描き出したもので、高杉晋作の「奇兵隊」はこの白石家で産声を上げたりしたのだが、とくに薩摩と長州とを結ぶ経済的接点となったくだりが描き出されていく。

 白石正一郎は、幕末のそうした人間たちを支えるために莫大な財産を使い果たしていくが、維新後、竜馬を暗殺し、西郷を賊軍にした明治政府の高官となった人たちは、その恩義に報いることは一切なかった。しかし、「正一郎は、よかったなと言って逝きました。私も後悔しておりません」(259ページ)の「加寿」の言葉が、この夫婦の姿を象徴している。実際も、そうだったかもしれない。「おもしろきこともなき世を おもしろく」と謳った高杉晋作を敬愛していたのだから。

 第九話「呪縛」は、その高杉晋作が愛した女性「うの」が、晋作亡き後、彼の墓を守り、その墓のある「無隣庵」と名づけられた家で、彼を思ってひとり過ごしている姿を描いたもので、晋作の破天荒な日常の姿を愛していた「うの」が、世間の「偉人の思い人」の姿にはなりきれないでいる姿が見事に描き出されていく。

 これら九編の作品は、明治維新という激動の時代をそれぞれ生きてきた人物を、その人物ではなく、彼らを支え、愛し、彼らの大きな影を引きずりながら生きる人の姿を通して描き出した意欲作である。

 時代や社会の激動期には、個性が光る人物がいる。そこ個性はいずれも常識では計り知れない。それだからこそ時代や社会が変わり得る。だが、社会というものは常に保守的で、そうした計り知れない個性を閉じ込めようとする。それらの計り知れない個性に出会った人々は、男であれ女であれ、その狭間で苦労する。そうした社会に納まりきれない個性と社会の狭間で苦労した人々の姿が、この作品で描かれ、それによってまたそれぞれの個性のあり方が浮かび上がって来る。

 この作品は、そうしたことを意欲的に示そうとした作品である。ただ、現代は個性的な人間が生きることが難しい没個性が要求されるつまらない世間というものが出来た社会ではあると、つくづくおもったりもする。マスコミの働きもあって「世間並」というのが人々の価値観を支配してしまっている。

2010年2月2日火曜日

北原亞以子『埋もれ火』(1)

 昨日の午後から降り始めた雨が夕方には雪に変わった。牡丹雪が見る間に積り、今朝は一面の雪景色となった。「何年振りだろう、こういう景色を見るのは」と思いながら遅くまで雪が降りしきっているのを眺めていた。雪の降る夜はとても静かだ。今は、家屋で温められた雪が時折どさりと音を立てて堕ちている。

 昨夜、降り積もる雪を眺めながら北原亞以子『埋もれ火』(1999年 文藝春秋社)の最初の二編だけを読んだ。これは、1996年から1999年までに「オール読物」で発表された九編の作品を収録した短編集だが、最初の二編は、今では誰でもが知っている坂本竜馬の妻「お龍」と、彼が江戸で修業をした時の千葉道場の娘で竜馬と結婚したかもしれないと言われている「佐那」の、竜馬なき後の維新後の二人の姿を描いたものである。

 いずれも、通常の器には入りきれない坂本竜馬という比類のない男を愛し、そのためにその影を引きずって生きなければならない女性の姿を描き出した秀作である。

 「お龍」は、維新後に坂本竜馬とは全く反対に日々の暮らしに細やかな配慮をする小商人と再婚する。しかし、酒に明け暮れ、西郷隆盛や竜馬が創った「海援隊」の隊士であり外務大臣になった陸奥宗光をはじめとする竜馬を慕っていた人々に金を借りまくり、すさんだ生活をしている。「竜馬以上の男はいない。」彼女はいつもそう思い続けている。

 再婚した相手は、そんな「お龍」をよくわかり、こまごまとした生活の中で彼女を支えていく。「お龍」の「やるせなさ」と、彼女が再婚相手に坂本竜馬とは全く反対の男を選んだ気持ちがにじみ出ている。

 薩長同盟を成し遂げ、大政奉還という日本の大転換をもたらした坂本竜馬の暗殺については、いまでも謎が多いと、わたしは思っている。彼が提示した「船中八策」は維新後の日本社会の骨格ともなったのだから、だれもが、もし竜馬が生きていたら、と願うが、明治政府の政権を取った人たちにすれば「煙たい存在」であったことは間違いないだろう。特に、戦争を嫌った竜馬は、江戸幕府討幕をどうしてもしなければならないと考えていた人たちにとっては「邪魔な存在」であったに違いない。

 第一篇「お龍」は、そうした竜馬暗殺の謎に触れながらも、「竜馬の妻」であった「お龍」の「その後」の姿を描いているのである。

 第二編「枯野」は、坂本竜馬の許嫁であると思って生涯を送った千葉道場の娘「千葉佐那(子)」のその後の姿を描いたもので、彼女もまた「竜馬以上の男はいない」と思って生きている女性である。「千葉佐那子」は、維新後、華族女学校(学習院女子部)の舎監をしていたが、華族女学校の校長の陰湿さもあってそこを辞め、作品の中では、荒川堤の下の四軒長屋で「鍼灸師」として生計を立てている。

 彼女の所にも、坂本竜馬の影響を受けた人々が訪ねてくる。板垣退助と共に自由民権運動に携わった人物もやってくる。「佐那子」は竜馬と結ばれることはなかったが、婚約のしるしとしての竜馬の紋つきの小袖を宝物のようにしてもっている。そして、竜馬との最後の夜に、自分の逡巡から竜馬の部屋に行くことがでずに、竜馬とついに結ばれなかったことを後悔もする。彼女は竜馬を追うことができなかった。そして、竜馬との糸が切れた。竜馬なきあと25年、彼女はずっとひとりぼっちで暮らしてきた。竜馬への思いを抱きながら。「娘に男ほどの度量があり、捨身になれる勇気があったなら、お龍などという女に竜馬を奪われることはなかったかもしれぬ」(65ページ)と、作者は言う。

 竜馬の「船中八策」の影響を受け、板垣退助の自由民権運動に携わって財産を使い果たし、佐那子のもとへ「お灸」の治療のために訪れた夫婦の姿がそれに重なる。妻は夫のために身を売ろうとしていたのである。この夫婦の夫、小田切謙明が、後に、佐那子なき後、無縁仏になろうとしていたところに彼女の遺骨を自分の墓所に引き取っているので、その佐那子と小田切夫妻の出会いの出来事が佐那子の心情と重ねて描き出されていく。甲府にある小田切家の墓所の佐那子の墓石には「坂本竜馬室(妻)」と刻まれている。

 実際のところ、佐那子と竜馬の関係は決してあいまいなものではなく、土佐の坂本家でも許嫁として認められていたと思われるので、千葉佐那子が、ひとり淋しくではあるが、自分の運命を享受して、竜馬の妻として生涯を全うしていった姿には、当時の武家の凛とした妻の姿もあるのである。

 いずれにしても、「これは」と思える男を愛し、その男があまりにも大きすぎたためにその影を引きずらなければならない女性の心情が、この二編の作品にはあふれている。しかし、「これは」と思える男と出会い、彼を愛することができたのだから、その人生ははるかに重く深い人生だったに違いない。現代(いま)は、ちまちました人間は多いが、「これは」と思えるような人間がほとんどいないのだから。

2010年2月1日月曜日

諸田玲子『山流し、さればこそ』(2)

 今にも泣きだしそうな雲が広がっている。風も冷たくなってきた。「如月の風は冷たき ひゅるひゅると鳴り渡る」と、以前作った詩の一節を思い起こしたりする。昨夜は、山田洋次監督作品で吉永小百合主演の『母べぇ』がテレビで放映されたので、深い感動を覚えながら見ていた。

 これは野上照代という人の『父へのレクイエム』(1984年 2007年『母べぇ』として中央公論社より出版)を原作としたものだが、1940年(昭和15年)から激化していく日中戦争とそれに続く太平洋戦争の時代に治安維持法で思想犯として逮捕されて獄死していく父(「父べぇ」)を敬愛し、信じていく「野上家」の家族の物語である。

 ドイツ文学者であった父(父べぇ)と母(「母べぇ」)、姉妹の四人家族で平穏に愛情豊かに暮らしていた「野上家」に、ある朝、突然に特高警察が踏み込み、父を思想犯として逮捕していくところから「野上家」の悲しみが始まる。

 父は、獄中でどんなにひどい状態にあっても、静かに、しかし決して自分の信条を曲げずに、劣悪な環境の中で獄死していく。そして、母は、その父を信じ、どんなにひどい仕打ちを受けても、のどから手が出るほどの食べ物をぶら下げられても、過労で倒れることがあっても、凛として、父への愛と信頼を貫いて、深い愛情の中で子どもたちを育てていく。世情が「国賊」と非難し、父の恩師も母の父もそれぞれの立場から非難を浴びせるが、そのような「野上家」を支える人たちもある。

 だが、それらの人たちも、天衣無縫で鼻つまみ者として扱われていた叔父さんは吉野の山の中で死に、叔母さんは広島で原爆にあい、父を敬愛して家族を支えていた教え子も戦死する。そのような中で、黙々と子どもたちを守り育てていく「母べぇ」の姿が描き出されていく。

 昨日はちょうど「時流にあった考え方や方法を取るべきだ」との意見をたくさん聞かなければならなかった日だけに、よけいにその「野上家」の姿に涙をぽろぽろこぼして感情移入してしまった。時代や社会の分析はする。しかし、その時代や社会に合わせる気はさらさらない。人が「悪い」と思っていることよりも、「よい」と思っていることの方がいつも問題だから。戦争が善だと思われ、それが叫ばれ、人々がそれを強要する時代があった。人々が大上段に振りかざして「善」だと主張していることは、「明白な悪」よりも性質が悪い。

 そんなことを考えながら夕食を食べるのも忘れて映画に見入っていたために、一息入れて、簡単な野菜炒めを作って、ビールを飲みながら諸田玲子『山流し、さればこそ』の続きを読んだ。

 家を再興するために出世ばかりを考えていた主人公は、同僚の讒言によって「山流し(左遷)」させられ、そこで甲府勤番の下に置かれていた勝手小普請となるが、上位の勤番衆から質の悪いいやがらせを受ける。勤番衆もまた、やり場のない憤りのようなものを抱いて乱暴狼藉に走っていった者たちで、彼らは甲府の豪商と結託して芝居の面をかぶって強盗を働いていたりした。上役は事なかれ主義で、面倒を起こすことを嫌う。主人公が住むことになった勝手小普請衆の長屋の住人たちも鬱屈した心情を抱いている。

 そういう中で、同じ勝手小普請の中に、学問を積んで子どもたちに教えながら、「学問所」の開設を志して飄々と生きている風変りな「武稜(富田富五郎)」と出会い、次第に、江戸で出世ばかりを考えていた頃には見えなかったものが見えていくようになる。

 そして、「武稜」のもとに出入りしていた娘が、ついに狼藉を働いていた勤番衆からかどわかされる事件となり、主人公はその娘を救出するために、芝居の面をかぶり強盗を働いたり、有力商人を殺したりしていた事件の真相に迫って、武稜や同僚の勝手小普請とともに狼藉を働いていた勤番衆と立ち向かう。

 そういう中で、事件を画策していた艶やかな豪商の後妻(実は武稜の思い人で、かどわかされた娘の母)との出会いと彼女との関係、出世をもくろんでその手先となっていた同じ長屋に住む人間、狼藉を働いていた勤番衆の心情、また主人公と妻との関係、家族の姿などが細やかに描かれていく。

 登場する人物たちのほとんどが上昇志向をもった人間たちだが、主人公の妻や武稜は、それらの人々とは対照的に日々の生きることの大切さや喜びを見出す人々である。主人公の周囲には、そういう二重の人々がいて、それらの中で主人公が自分の生き方を深く見つめていくのである。

 作品の中で、武稜(富田富五郎)は実に魅力的な懐の深い人間として描かれており、主人公の妻、武稜を尊敬してかどわかされた娘、妖艶な豪商の後妻で事件の要となるが自分の子どもを思う気持ちはしっかりと持っている女性など、それぞれの仕方で強い生き方をする女性たちが生き生きと描き出される。ちなみに、富田富五郎は歴史上の人物で、彼が開設した「甲府学問所」は、やがて「徽典館」と呼ばれるようになり、現在の山梨大学へと続いている。物語はその甲府学問所が開設されるくだりを巧みに取り入れながら進められている。

 現代でも、上昇志向を強く持っている人たちや挫折を味わっている人たちは山のようにいる。生きる上で何を一番大切にするべきなのかを、この作品はさりげなく提示している。事件が解決し、江戸への復帰を許されるが、嫌だった甲府の地で武稜の甲府学問所を手伝いながら暮らすことを決意し、やがて、妻が亡くなった後でかどわかしにあった娘と結婚し、年老いた二人が穏やかに、そして温かく過ごすという結末が光る。「老妻の後姿に目を移して、数馬(主人公)は温和な笑みを浮かべた」(文庫版 356ページ)という言葉は、冒頭の「笛吹川を渡ったところで雨がきた」という言葉と対として見ると、この作品の展開と主張がよくわかるような気がする。

 午前中、洗濯をしたのに雨が降り出した。車が水しぶきを上げて疾走していく騒音も激しいが、今、近くにある小学校から下校していく子どもたちの声がにぎやかに聞こえる。コーヒーを入れて、また一仕事しよう。夕方、中学生のSちゃんが来ることになっている。数学の話をしよう。何といっても数学には夢があるから。