2010年2月26日金曜日

諸田玲子『かってまま』(1)

 昨日は温かい日差しの中で春一番が吹いて、朝から相模大野を経て町田まで出かけなければならず、コートを着ていると汗ばむほどだった。

 町田は多摩丘陵と相模原台地に位置し、江戸時代中期からは韮山代官が統括した農村地帯であったが、近年、小田急線が開発されるにしたがい、私立大学や学校が移転したり設立されたりして学生が多く住むようになり、人口が爆発的に増加して、都内の繁華街である新宿と同じような開発がなされてきた。新宿は歓楽街としての盛衰が激しいが、町田は学生街の感がある。駅近郊の建物や商店など、町田はミニ新宿のようであるが、近郊が農村であり、都内の都市とはまた異なった趣があるし、雑多な感じが漂っている。しかし、小田急線沿線や田園都市線沿線は、どこでも画一的な都市計画がされて、都市そのものには面白みはない。

 今朝は曇って、黒い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうである。予報では雨と出ていた。気温が少し高く、それだけはありがたい。

 昨日、町田までの往復で諸田玲子『かってまま』(2007年 文藝春秋社)を読んでいた。これは「かげっぽち」、「だりむくれ」、「しわんぼう」、「とうへんぼく」、「かってまま」、「みょうちき」、「けれん」と、それぞれ人を形容する形容詞がひらがらで記された七編からなる短編小説集で、それぞれの形容詞で表わされる、七人の女性の姿を描いた作品集となっている。

 まだ第一話の「かげっぽち」しか読んでいないが、これは、いつも旗本家の美貌の娘の「お古」を下げ渡されて生活していた女性が自分自身の幸せを見出していく物語である。彼女が厄介になっている旗本家の娘が父親の知れない子を妊娠した。旗本家の娘は婚約をしているが相手はだれかわからない。そこでそれを隠ぺいするために、旗本家の娘が産んだ子を自分の子どもとして押しつけられ、その旗本家の郎党と結婚させられる。娘は、その郞党に思いを寄せていたのだが、自分の亭主となった郞党が子どもの実の父親で、旗本家の娘の不義の相手であり、それも自分に押しつけられたのだと思い込んでいる。

 彼女はそれでも自分なりの幸を探し出そうとするが、いつも旗本家の娘が不幸の影のように付きまとう。旗本家の娘は火事で焼け出されて、彼女の家に転がり込み、夫の様子も変だ。彼女の悩みは深まる。

 しかし、その悩みが極まった時、真相を知る。旗本家の娘の相手が自分の夫ではなく、娘が通っていた寺の修行僧であったという。「かげっぽち」というのは、「身代り」とか「人の影になっている人間」とかいう意味なのだろう。彼女は、自分が決してその「かげっぽち」ではなく、自分の人生を歩んでいくものであることに気がついて行くのである。

 物語のプロットもいい。主人公の女性が旗本家の娘の「かげっぽち」として生きなければならない必然性もよく描かれているし、彼女の心情もよく描き出されている。しかし、わたしにはどうしてもどこかねちねちしているように感じられて理解に苦しむところがある。彼女には、言ってみれば「素直さ」がない。信頼がない。こういう女性の心情は、本当に理解に苦しむ。

 事柄は単純で、彼女が自分の気持ちを素直に夫に語ることができ、夫もまた自分の妻となった女性に事情を打ち明ければ済むことである。お互いの深い信頼があれば、事柄は違った展開となる。もちろん、作者はそのことを承知の上で、それができない人間の姿を描いているのだろうが、真相を知る結末が、不義の相手が修行僧であるというのは「凡庸」のような気がする。

 ただ、こういう感想は多分に読者の心情を反映しているものだから、今のわたしの心情が、おそらく、もっとスカッとしたものと接したいと思っているからではあるだろうし、物事は単純化して見るのが一番わかりやすいと思っているからだろう。「複雑な現象を全部はぎ取って、自分は本当は何をどうしたいのか」を心底探ってみるのが一番いい。もちろん、現実には「忍耐」を要求される。しかし、ただ、「素直であることと素朴であることが人を救う」ことは疑いえない。

 ともあれ、この作者は多面的で、期待するところも大きいから、収められている他の作品も読み進めよう。今日もまた、なんとなくあわただしく過ぎるような気がする。しなければならないこともたくさんあるし、洗濯機も「終わりましたよ」という信号音を出してくれている。忘れずに干そう。

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