2010年2月8日月曜日

松井今朝子『三世相 並木拍子郞種取帳』

 時々陰っては来るが、おおむね冬晴れの日となり、少々風邪気味なのだが、朝から「炭酸ソーダ(重槽)」を使って掃除をしたりして「あっ」という間に時間が過ぎてしまった。粉末の「炭酸ソーダ」を薬局で買ってきてお湯で溶きスプレー容器に入れて使うのだが、その威力が本当にすごくて、煙草のヤニがとれて雑巾が真っ黄色になるほどだった。

 土曜日の夜と日曜日の夜、松井今朝子『並木拍子郞種取帳』シリーズの三作目となる『三世相(さんぜそう) 並木拍子郞種取帳』(2007年 角川春樹事務所)を金曜日の一作目『一の富』に続いて読んだ。表題作となる「三世相」は第四話に収められているが、「三世相」とは、「干支と易占いに仏教の因縁説を取り交ぜた占術書のことで、概ね迷信と俗説が中心」(148ページ)で、先祖(前世)の因果が現世の人間に現れ、それがまた子孫に現れていくということで、前世・現世・来世の「三世」による占いのことである。

 その表題作のほかに四話が収められているが、一つ一つの事件そのものよりも、主人公の並木拍子郞と料理茶屋の娘「おさわ」の関係が、ある種の緊迫した糸となって全体に流れている。並木拍子郞は北町奉行所同心の次男で狂言作家になることを志しているが、同心である兄夫婦に子どもはなく、その兄が自分の実の父親ではないかという出生への疑いもあり、あまり体が丈夫でない兄の家督を継いで武士(同心)として生きる道を迫られているし、他方では、狂言作家として師匠の五瓶や「おさわ」との町屋暮らしも捨てがたい狭間にある。また、「おさわ」は料理茶屋のひとり娘であり、もし拍子郞が武家に戻れば、その関係は断たれてしまう。そういう二人のどうにもならない状況の中で、お互いの思いだけが空回りしていくのである。拍子郞は、なかなか決断できないでいる。この二人の関係がこれからどう展開していくのかが、この三作目の山場となっているのである。

 第一話「短い春」は、武家奉公している女が宿下がりして、拍子郞のいる芝居小屋に芝居見物に来て、役者に貸した笄(こうがい-髪止め)が壊れて見つかったのを縁に、拍子郞がその宿下がりしている武家女中のところを訪ねていくという話で、子だくさんの貧しい武家の家に生まれ、家計を助けるために武家女中として奉公に出て自分の運命を毅然として堪えてきた女性の姿が切なく描かれる。

 第二話「雨の鼓」は、太物問屋の江戸出店の番頭(支店長)が大阪から連れてきていた妾が殺され、その妾と恋仲で上方から女を追ってきた鼓打ちが、女に惚れてはいるがここままでは自分が深い泥沼にはまり込んでしまうことを思い殺してしまったという事件で、鼓打ちが自分のアリバイ証明として殺人を犯す夜に鼓の音をさせていたということについて、「おあさ」の知恵で、雨水を利用した「鹿威し」を使ったものであることを解き明かしていくものである。身勝手な思いが人を狂わせる。そして、人はその自分の身勝手さから逃れられない。

 第三話「子ども屋の女」は、大店の呉服屋の主人が深川の芸者に入れあげているのではないかということを心配した家人と「おあさ」の父親の話を聞いた拍子郞が、芸者の置屋である「子ども屋」の世話をする娘が、実はその主人の娘であることを明らかにしていく話であるが、文化・文政の頃の役者瀬川路考や中山富三郎の芸の話や俳諧の月例会の話、拍子郞の早合点によって呉服屋の主人を強請る芸者の話などが盛り沢山で、善悪合わせ飲む狂言作家並木五瓶の見事な処置などが鮮やかに描かれていく。そして、こういう五瓶のもとにいる拍子郞と「おあさ」が次第に人生の機微を知っていくのである。

 第四話「三世相」は、よく当たると言われていた占い師の言葉によって、表面はよい医者といわれていたが家庭内では暴力をふるっていた医者を、その医者の妻の身を案じていた従僕が殺すという事件で、その占い師も、そのことで医者の妻を強請るというおまけまでついて、そうした事件を拍子郞が暴いていくという話である。

 人はなぜ占いや予言に頼ろうとするのか。そのことについて、五瓶の女房は「私(わて)らのような阿呆が物事を決めようと思たら、これがええ頼りになりますのや」(148ページ)と言い、前世という信憑性のないものをもちだすことについて、「おあさ」は「人はどんなに踏ん張ってみても、どうにもならないことだってあるんだよ。何もかも自分のせいだといわれたら、立つ瀬がないじゃないか。・・・前世のせいにしたって、なんだっていい。とにかく納得したいんだよ。まったく自分は何故いつもこうついていないんだろう。どうしてこんなふうになっちまったんだろうかと考えてね」(154ページ)と言う。

 「頼りなき者」、「寄る辺なき者」として人は生きていかなければならない。占いや最近の「癒し」はその間隙に入り込む。それを信じようとする人間の心情には弱さがあるが、それを行おうとする人間には「ズル」さがある。人の弱みにつけ込む人間はいやらしい。その「いやらしい人間」がマスコミを通してもてはやされる世情とは何なんだろう。近代以後の人間はその「いやらしさ」から解放されているはずであるが、相変わらずの世相があるなぁ、と思ったりする。

 第五話「旅芝居」は、「旅まわり(地方巡業)」をすることになった役者のために、その巡業先をしらべに並木拍子郞が下総にまで行く話で、その時に、シリーズの二作目で出てきた「おあさ」に結婚を申し込んだ酒問屋の若旦那が勘当されて銚子にいることを聞いた「おあさ」から、その酒問屋の主人が病に倒れたことを伝えてほしいと頼まれ、拍子郞が銚子で醤油屋に働いている若旦那のもとを探し訪ねていく話である。

 若旦那は出生があいまいで、そのことによって酒問屋に後継騒動が起こるのを避けるために自ら勘当を申し入れ、銚子で醤油屋の下働きとして働き、その醤油屋の孫娘と恋仲となり、そこに根を下ろそうとする。しかし、拍子郞と会い、父親の見舞いに行くことを決心する。その二人の姿を見ながら、拍子郞は「おあさ」とのことを思っていく。

 はて、さて、並木拍子郞と「おあさ」はどうなるだろうか。その行く末はこれから書かれていくだろう。

 初めに書いたように、このシリーズには、まず設定に無理がない。武家でありながら狂言作家を志す主人公の行く末、そして料理茶屋という町屋の娘との恋の行く末、それらが背骨のように走って、それぞれの事件の顛末がそうした人物の要としての拍子郞の師匠である五瓶との絡みで明らかとなり、そこに当時の芝居の状況や世相が反映され、それらが横糸となって物語が織りなされていく。作者の展開の仕方も作を重ねるごとに見事になっていく。続きが待たれるシリーズになっているのが心憎い。とにもかくにも面白く読める作品である。

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