2012年12月28日金曜日

田牧大和『散り残る』


 師走の風が吹いて、今年もいよいよ押し詰まったという感がある。空はどんよりと曇り、今にも雨が落ちそうで、これから年末まではあまりすっきりしない予報が出ていて、混乱した2012年の幕引きにはふさわしいのかもしれないと思う。若干、風邪の微熱があるのか、ぼんやりした気分で一日が始まった。

 昨日は田牧大和『散り残る』(2011年 講談社)を読んで、これは読み終わって嬉しくなるような作品だと思った。前にこの作者の作品『身をつくし 清四郎よろず屋始末』(2010年 講談社)を読んで、少し時代考証や背景に難点を感じつつも読みやすい作品だと思っていたが、『散り残る』は、登場人物といい、構成や展開といい、また文章も洗練されて、優れた作品だった。

 本書には三人の主人公がいる。その一人は、医師を目指す誠之助という青年で、彼はその名のとおり、誠実に医師を目指して小野寺宗俊という名医のしたで修行している。彼は杉田玄白らが表した「解体新書」を読みたいと願っていたが、それを許されないばかりか、弟弟子にはそれが許され、しかも宗俊のもとを出て「藤家」という薬種問屋の薬草園に一年ほど行ってそこで学ぶようにと言い渡されるのである。彼の中にどこか鬱屈したものが残り、彼は止むなく「藤家」の薬草園に出かけるのである。

 もう一人の主人公は、その薬草園の用心棒をしている柿沢左近という青年武士で、彼は元町奉行所の同心であったが、ある事情があって藤屋の薬草園の用心棒をしているのである。物語は、その事情を巡って展開されていくが、彼の中にもある葛藤があり、その葛藤が柔らかい筆ながら鮮明に描かれていく。

 三人目の主人公は、「早苗」という藤屋の娘で、薬草園を一手に引き受けて仕切っているしっかり者で、明るい女性であるが、右手が不自由で、そのことで彼女もまた葛藤を抱いて生きているのである。彼女は左近に想いを寄せているが、負い目も感じているのである。

 本書は、この三人がそれぞれに抱えている葛藤が克服されていく姿が描かれるのだが、それが、誠之助の人間としての成長と、左近と早苗が抱えている負い目の克服が、それぞれの葛藤や負い目に真摯に向き合うことでなされていくのである。誠之助と左近は共に早苗に想いを寄せ、早苗は左近に想いを寄せているが、それは決して陰湿なものではなく、それぞれの葛藤の克服の過程で三人は深い信頼と絆で結ばれていくのである。

 こういう明瞭なテーマが中心に据えられていて、いくつかの出来事が記されていくから、物語に深みがあり、しかも描写が柔らかいので、それぞれの思いやりがあふれて、何かほっこりとするものを感じることができるのである。

 物語は、弟弟子との確執や尊敬する師匠から追い出された格好になった誠之助が、鬱屈した気持ちのままで、上野寛永寺の枝垂れ桜の下にいる「桜の精」とも思えるような女性に出会うところから始まる。その女性が、彼がこれから向かわなければならなかった薬種問屋の藤家の娘「早苗」であったのである。

 彼の気分は鬱屈していたが、藤屋の人々は彼に温かく接する。人が良くてのんびりとしているが芯はもっている藤屋の主と長男、しっかりと藤屋を取り仕切っている女将と「早苗」、そして、早苗が想いを寄せているように見える元は切れ者の同心であった左近。その中での彼の生活が始まり、やがて、早苗の右腕は左近が斬ったものであることが分かっていくのである。早苗と左近の葛藤はそこにあったのである。しかし、誠之助の鬱屈は、彼らの温かさの中で氷解し、彼の人間的な成長が彼らとの交わりを通して行われていく。

 左近は切れ者の南町奉行所定町廻り同心だった。そして、同じ剣術道場の仲間で旗本の次男坊だった者が浪人たちを集めて大店の商家を襲うことを企んでいることに気づき、その旗本の次男坊と対決するのである。その時、左近に陰ながら想いを寄せていた早苗が対決の現場に現れて、左近が振り下ろした刀が流れて、早苗の右腕を斬ってしまったのである。そのことで、左近は同心を辞め、剣術道場の師匠は自分の門下生から強盗を働く者が出たこともあって、道場をたたみ、隠息したのである。

 左近は、その後、償いのために藤家に出かけ、藤屋の主が、それならばと彼を薬草園の用心棒に雇ったのである。その藤屋の主の懐の大きさが、やがて彼を徐々に変えていくが、自分が早苗の右腕を斬ったことを背負い、早苗は早苗で、自分が軽薄な思いで対決の場にでたことの浅はかさを感じていたのである。

 そうした負い目を持ちながらも、明るく生きている早苗や藤屋の人々の温かさ、まっすぐ誠実に生きていこうとする姿などから、誠之助は徐々に変えられていき、藤屋を強請ろうとする人間が現れて、その対処をしたりしていくうちに、彼の持ち前の真っ直ぐさが発揮されるようになるのである。

 そして、早苗が、右腕を斬られた時と同じような大店を強盗するという文書が届けられる事件が発生し、それを解決するために左近も、自分と真っ直ぐに対峙していくようになるのである。こうして、それぞれがそれぞれの葛藤を克服していくようになるのである。

 描写が丁寧で、互いに思いやりにあふれた人々が描き出されて、全体が、まるで暖かい春風に揺られている枝垂れ桜のように描かれ、包まれている。この作者は、やわらかさの中で鋭さもあり、強請や強盗、嫉妬や妬みなどが織り交ぜられて物語を展開させる力を持っていると感じた。「育ちの良さ」のようなものが作品にある気がする。一服の清涼剤と成りうる作品だった。作者の技量は相当に進んだものとなっている。精進の賜物かもしれない。

2012年12月26日水曜日

上田秀人『斬馬衆お止め記 破矛』


 24日のクリスマスイブの夜あたりから少し喉の痛みを感じて、万全の体調ではないが、年内に片づけておかなければならないことがいくつかあって、仕事に励む日々になっている。今年も、考えていた事は僅かしかできなかったなあ、と思ったりする。このところ日常生活のあれこれがおざなりになり、書斎の机の上は、ものの見事に散乱状態で、机上が散乱すると思考も散乱する。

それでも、昨日は少し仕事の手を休めて、ゆっくりと上田秀人『斬馬衆お止め記 破矛(はほう)』(2010年 徳間文庫)を読んだ。これは、信州上田藩の初代藩主となった真田信之(15661658年)と、なんとか真田家を取り潰そうとする幕府の幕閣との闘いを描き出したもので、具体的には、真田信之を守る先鋭として、「斬馬衆」というあまり聞かない役割である仁旗伊織と、「神祇衆(しんぎしゅう)」と呼ばれる歩き巫女で真田家の忍びとして活躍する霞とが、幕閣から送り出される伊賀者や軍団と対決していく姿をとおして描かれていく。

よく知られているように、信濃の上田にいた真田昌幸は、真田家の生き残りのための苦渋の選択として次男の幸村と共に西軍につき、長男である真田信之(15661658年)は徳川家康の東軍についた。真田信之の妻は、家康の重臣中の重臣であった本田忠勝の娘で、家康が彼女を養女として嫁がせたもので、家康は信之を親類として取り込もうとするほど真田家を恐れていたとも言える。真田家は北条の大軍にも徳川秀忠の大軍にも破れなかったのであり、昌幸は智将、策将で名を馳せていた。

大阪夏の陣の際には、それが負け戦になると承知の上で大阪方についた幸村は、稀代の武将ぶりを発揮して徳川家康に肉薄し、あわや家康の首を取る寸前にまで家康を追い詰めたこともあったが、そこで力尽き倒れた。信之は大坂の陣の際には病気のために参戦しなかったが、長男の信吉と次男の信政が代理として参戦した。

関ヶ原の合戦の際、信濃路を通って家康と合流しようとした徳川秀忠(2代将軍)の三万余に及ぶ大軍を、わずか三千ほどの手勢で足止めさせた真田昌幸の戦いぶりはよく知られていて、そのために秀忠が合戦に遅れを取るという失態にまで至ったが、大坂の陣後にその恨みもあってからか、また、豊臣方についた弟の幸村に幕府軍がさんざん苦しめられたこともあってか、秀忠は、加増という名目で真田家を上田から松代に移封した。信之は秀忠に恐れられて睨まれることを避けるために幕府の公用を献身的に努めたが、真田家への幕閣の嫌がらせは執拗に続いた。

本書は、家康から破格の寵愛を受けて(家康の落胤という説もあり、本書はその説を採用している)秀忠の側近となり、ついには老中として絶大な権力をもった土井利勝(大炊守 15731644年)が、関ヶ原の戦いの際に秀忠とともに真田家に煮え湯を飲まされ、何とかしてその報復をして真田家を取り潰そうと様々な画策をすることに対して、真田信之がそれを阻止しようと苦慮する展開となっている。おそらく、前作では、酒井忠世(雅楽守 15721636年)が行う真田家取り潰し策との対決が描かれているのではないかと思われる。

真田家が江戸幕府初期の幕閣内で厳しい状況に置かれていたのはよく知られており、真田家の命運はすべて信之の肩にかっかっており、それだけに信之は苦慮していくが、昌幸の子であり、幸村の兄だけあって、知力も胆力も十分に持ち合わせた人物であった。

作者は、その真田信之を具体的な攻撃から守る人物として、「斬馬刀」という戦場で馬の前足を切り落とすほどの長さと剛を備えた剛刀の使い手である仁旗伊織と忍びの術を心得た霞(「神祇衆と呼ばれる」を登場させ、土井利勝によって次々と放たれる伊賀者のとの対決を展開するし、江戸城御殿坊主を刺客として描き出す。

真田信之を守ろうとする仁旗伊織と霞が土井利勝から次々と放たれる刺客と対決していく緊迫した場面が次々と描かれ、剣技と策略の応酬の中で、信之が持っていた胆力が示されたりする。

真田家は、上田から松代に移封された際に、幕閣の真田家分裂策として信之の長男の信吉が沼田城主として三万石の分領となっていたが、四十歳で死去(本作では、幕府の真田家への仕打ちを知って自殺とされている)し、信吉の子の熊之助が幼くして後を継いだために信之は後見人とされた。本作では、その信吉の死にまつわる秘密があるのではないかと疑い、それを理由に真田家の力をそごうとする土井利勝の執念が燃える展開になっている。

なお、沼田では熊之助も夭折し、信吉の次男の信利が後を継いだが、本藩である松代藩の後継をめぐってのお家騒動に発展していく。松代藩では、信之が隠居して次男の信政が2代目藩主となったが、藩主となってわずか2年で病死し、その跡目をめぐる争いになったのである。だが、松平信綱(伊豆守)などの尽力を得て、ようやく信政の子の幸道の相続が認められた。しかし、その時、幸道はまだ2歳で、幕府は後見として隠居した信之を指定し、信之は老体に鞭打って藩政に携わらなければならなかった。その後も、心身ともに消耗させるような骨肉の争いが続いて、真田家存続のための信之の苦労は並大抵ではなかったのである。

本書の結末として、「神祇衆」の霞も腕の筋を切られて、もはや真田忍びとしての働きができなくなるし、伊織の妻として送り込まれる女性が幕府の「草(その土地に根を下ろして内情を探る)」などであることが記されて、その後の真田家と幕府の確執を暗示するものとなっているが、最後に、その真田家の顛末が記されている。

それが記されているということは「斬馬衆」という特異な役割を負う人物を通しての真田家と幕府の確執の物語は、これで終わるということであろう。

いずれにしても、作者の作品は、いずれも独特の緊迫感がある。それは闘いが中心に描かれるからであるが、その中での人間観がしっかりしているので、作品に幅と面白みがあると思う。剣劇小説以上のものがあるのは確かである。

図書館が年末年始のお休みに入るだろうから、その前には行こうと思っている。すべてを趣味にして、「好きだから行う」、これがわたしの生活原理で、今年はお正月にどこにも出かける予定がないので、読書に浸りたい。

2012年12月24日月曜日

乙川優三郎『霧の橋』


 晴れてはいるが、ひどく寒いクリスマスイブになった。ホワイトクリスマスかもしれないという予報もある。寒さや貧しさはクリスマスにふさわしいと思うが、どことなく堪えるなあという気がしている。人々が愛を語り、感じるのはいいことで、わたし自身は心を澄ませて過ごそうと思っている。黙することの大切さを改めて感じている。

 閑話休題。乙川優三郎『霧の橋』(1997年 講談社 2000年講談社文庫)を、これも良質の作品だと思いながら読んだ。この作者の作品は、『五年の梅』(2000年 新潮社)を読んで、かなり質の高い作風だと思っていたが、本作も、人間の「綾」を描き出したいい作品だった。本書は第7回時代小説大賞の受賞作である。描かれているのは、武士を捨てて商人となった主人公が、彼が持つ武士らしさのために壊れかけた夫婦の愛情を取り戻していく過程である。しかし、その背景や過程は、武士の仇討ちや商人どうしの争いと葛藤があり、決して単純なものではない。

 本書は、最初に主人公紅屋惣兵衛の父親の江坂惣兵衛が殺される場面から始まる。江坂惣兵衛は陸奥一関藩の勘定組頭で、四十五~六の中年で、妻女は二男を生んで亡くなっており、通いの小料理屋の女将「紗綾」に想いを寄せている。「紗綾」は武家の出を思わせる清楚な女性で、惣兵衛は「紗綾」との再婚も考えている。そして、同僚の林房之助に「紗綾」を紹介しようと小料理屋に伴っていたのである。

 林房之助は惣兵衛の次男与惣次の養子縁組の話を持ち出し、与惣次が相当の剣の使い手であることを聞いたりしていたが、彼の妻が彼を馬鹿にしているなどの鬱屈した気持ちを持っていた。林房之助は、自分が弱くて、人の機嫌をとって生きてきたと卑屈になっているのである。そして、江坂惣兵衛が「紗綾」を紹介したとき、房之助は彼女に見覚えがあり、彼女が元一関藩普請奉行の娘であったことに気づく。彼女の父親は城の外堀工事の際に不正を働いたかどで領外追放となっており、その不正の証拠を提出したのが林房之助だった。房之助は惣兵衛と「紗綾」の婚儀に強く反対し、惣兵衛は「紗綾」の前身がどうであれかまわぬ、と言い出し、房之助が持ち込んだ次男の養子先に問題があることなどを指摘し、二人は口論となる。その小料理屋に来る前に林房之助は、自分の妻が息子の私塾の師匠と人目をしのびながら茶屋に入っていくのを見かけ、彼の気分は散々に鬱屈していたのである。林房之助は次第に狂気を帯びていくようになり、「紗綾」を斬るとまで言い張るようになる。彼は刀を抜いて「紗綾」に襲いかかる。そして、惣兵衛はその「紗綾」をかばって、背中に刀を刺されて絶命するのである。林房之助はその場から逐電する。

 これが最初の章で語られ、場面は一変して、紅屋惣兵衛の話になる。紅屋惣兵衛は紅だけを扱う自分の小さな店を乗っ取ろうとする小間物問屋の大店との闘いの中に置かれている。小間物問屋の勝田屋は、実に巧妙に商人らしい仕掛けをして紅屋を乗っ取ろうと画策してくるのである。

 紅屋惣兵衛は、実は、殺された江坂惣兵衛の次男で、事件の後、病弱な兄に変わって仇討ちの旅に出て、十年に及ぶ放浪の旅をし、偶然に江戸で仇の林房之助に出会い、これを見事に討ち果たした。そして、国元に帰ってみれば、彼の兄は公金横領で処刑されて、家族は離散し、彼もまた追放処分となって、再び江戸で窮乏生活をしていたのである。彼の生活は困窮を極めたが、あるとき、一人の娘が浪人者に襲われているところを助け、その娘の父親から人柄を見込まれて、刀を捨てて商人となり、その家と娘を引き受けたのである。その店が、紅を扱う紅屋で、彼の妻となった娘は「おいと」であり、与惣次という名前を改めて紅屋惣兵衛を名乗ったのである。

 「おいと」は、控えめでありながら商売のコツをよく掴んだ、よくできた妻で、彼は「おいと」を可愛がり、夫婦仲はよく、小さな店ながら平穏でかけがえのない日々を送っていたのだが、大店の勝田屋が乗っ取りを企んできたのである。

 江戸の商人の世界が展開されていく。勝田屋は、あの手この手の絡め手で自分の企みを進め、紅屋惣兵衛は幾度の危機にさらされながらも、商人としての闘いを繰り広げて紅家を守り、新しい商品の開発などにも尽力を注いでいく。このあたりの展開は、その駆け引きを巡る緊張感をもって、詳細に描かれていく。それはまさに商人と商人の駆け引きの世界であり、策謀の世界である。

 闘いは精神的な緊張感を生んでいく。それが緊迫感を持って描かれていくが、それだけに、その闘いの中で紅屋惣兵衛が元は侍であったことが出てきたりする。闘いの仲では人の本性がでる。妻の「おいと」は、そのことに不安を覚え始める。惣兵衛がいつか商人であることをやめて武士に戻るのではないか、そういう不安を惣兵衛は「おいと」に抱かせてしまい、夫婦仲が微妙にずれ始めるのである。

 そういう中で、一関藩の奥女中をしている美しい女性が紅屋惣兵衛を訪ねてくる。彼女は、紅屋惣兵衛の父親が殺された時に一緒にいた「紗綾」の姪であった。そして、江坂惣兵衛が殺された時の真相を語る。

 「紗綾」は、確かに元普請奉行の娘で、藩の重臣たちの策謀と林房之助にぬれ衣を着せられて追放されて無念のうちに死んだ父親の仇を討つために、一関藩に戻ってきて、林房之助が精神的に不安になるように、彼の女房に化けて私塾の師匠と密会する現場を見せたりして、様々に活動していたのである。だが、江坂惣兵衛に出会い、彼に想いを寄せるようになっていて、林房之助が剣を抜いたときに、思わず惣兵衛をかばい、それによって逆に「紗綾」をかばった惣兵衛が殺されたのである。だから、惣兵衛を死に追いやったのだから、惣兵衛の本当の仇は自分であると告げるのである。そして、自分は紅屋惣兵衛に討たれてもいいと思っていた。

 紅屋惣兵衛は、その話を聞いて悩む。父は「紗綾」に惚れて、その「紗綾」のために死んだのだから本望だったのではないかとも思うし、父の本当の仇を討つことは、自分の務めだとまで思い込む。そして、密かにしまっていた刀を取り出して「紗綾」を討つために出かけていってしまうのである。

 しかし、「紗綾」と対峙したとき、彼の口からは思いもかけなかった言葉が出てきて、父は本望だったと語り、あなたは父が妻にしたいと願った女性だ。「夫が妻を守るのは当然のことで、その結果たとえ命を失ったとしても妻に死なれるよりはましだということです」(本書318ページ)と言い、「商人のわたくしにはもう用がないものです」と言って、持っていた刀を父親の形見として「紗綾」に渡すのである。こうして、紅屋惣兵衛は、きっぱりと侍を捨てるのである。そのを物陰から見ていた彼の女房の「おいと」が見ていて、惣兵衛は「おいと」のところに駆け寄るところで終わる。

 その最後の描写は巧みだし、まことに胸を打つものがあるので、記しておきたい。
 「ふみ(「紗綾」の本名)と別れ、深い霧の中を戻りかけて間もなく、不意に力強い日の光が差してきた。日は惣兵衛の背後から霧を射るかのように照らしてい、夜が明けたらしかった。何気なしに空を仰ごうとして、惣兵衛はそこから二間と離れていない先に仄かな人影が浮かんでいるのに気がついた。・・・・
 ・・・・咄嗟に感じたのは驚駭に近いものであったが、霧に濡れ、朝の光を浴びながら身じろぎもしないその姿は、まるで幻を見ているように美しかった。・・・
 ・・・薄い寝間着の上に赤い綿入れを羽織り、足下は裸足だった。胸の前で祈るように組んだ手を握りしめ、凍え切った顔でこちらを見つめている。
 惣兵衛は堪りかねて歩き出した。
 ・・・・・・
 「おいと」
 惣兵衛がひとこと呼びかけると、涙が雫のように零れ落ちた」(本書323324ページ)。

 本作は、父親が殺されたり、その仇討ちが行われたり、商人どうしの熾烈な駆け引きがあったりする中で、何ということはない平穏な暮らしの大切さが描かれているのである。それをこういう形で物語って描き出すところに、この作者の優れた力を感じる。これままた、本当にいい作品だった。

2012年12月21日金曜日

滝口康彦『一命』(3)

 寒い日々になっている。いよいよクリスマスや年末が近づき、流石に少し慌ただしくなっているのだが、この忙しなさも、あと一週間ほどだろう。

 滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)について3回目になるが、作者が作家デビューした「高柳親子」が書かれた1957年頃は、ちょうど、日本が敗戦の混乱から抜け出そうとした時で、朝鮮戦争によってもたらされた経済成長が始まりかけた頃であった。世を上げて上昇志向が席巻していった時代で、状況に合わせて考え方や生き方をころころと変えていく人々も幅を利かせ始めていた。

 おそらく、滝口康彦は佐賀の炭鉱労働者として働きながら、この作品の執筆に取り掛かっていたのではないかと思うが、炭鉱労働者という過酷な生活の中でこれだけの質の高い作品を書いたことに、わたしは、まず深い敬意を表したいと思っている。

 物語は、第二代小城藩主であった鍋島直能(なおよし 16231689年)の臨終の場面から始まる。小城藩は、初代佐賀藩主鍋島勝茂(勝茂は戦国武将として著名な鍋島直茂の長男)の長男であった鍋島元茂が肥前領内の佐嘉郡・小城郡・松浦郡の七万三千石を与えられたことから始まる佐賀藩の支藩であった。元茂の母親が女中であったことから、彼は、長男でありながらも佐賀藩を継げずに、祖父の直茂の領地を分けられ、分家となったのである。

 その元茂の長男であった直能は、文人肌の人物で、和歌などにも堪能であり、京都の公家たちとも親交があった人であるが、本藩である佐賀藩の干渉を受けて、1679年(延宝7年)に次男の元武に家督を譲って隠居させられた。そして、1681年(天和元年)に出家している。

 その直能の臨終に際して、高柳外記が追腹を切って殉死すると主張するのである。江戸時代の初期頃まで、武家社会の「忠」の証として主君の死に殉死するということが、まるで当たり前にようにして、異常にもてはやされていた。大名間で殉死者の数を誇ったりすることも起こったし、殉死した家は加増されて生活が保証されていたので、特に主君の側近たちは「忠義」の証の殉死を重んじたのである。殉死が強要される風潮があり、有為な若者が死んでいくことも度々起こった。殉死は武家の美徳としてもてはやされたのである。

 しかし、こういう風潮を一掃したかった江戸幕府は、まず、1663年に禁止し、五代将軍綱吉の時代に武家諸法度を改訂した「天和令」によって正式に文書として殉死の禁止を発令した。佐賀藩では、これに先駆けて初代藩主の鍋島勝茂が殉死の禁止を打ち出して、江戸幕府の殉死禁止令に影響を与えたと言われているが、それだけに、小城藩では殉死は忌避すべきことであったのである。殉死者を出すことは藩の取り潰しにも繋がることであった。

 だが、鍋島直能の死に際して、高柳外記は殉死することを主張し、臨終の間に詰めるのである。そこには、高柳外記の壮烈な思いがあった。

 外記の父の高柳織部は、初代小城藩主鍋島元茂に仕え、島原の乱にも出陣し、才色兼備の気骨のある者として元茂に高く評価され、元茂の寵愛を受けていた。柳生宗矩に剣を学んでいた鍋島元茂は、高柳織部にその兵法を教えたりもしていた。織部は「剛の者」だったのである。そして、その元茂が死去した際、追腹を切っての殉死はまだ美徳とされており、側近の数名が割腹して殉死した。だが、もっとも篤く藩主の覚えが目出度かった高柳織部は殉死の道を選ばずに生きていた。織部三十歳である。織部は、まだ若い頃に「追腹を喜ばれるような殿ならば、ご奉仕はご免こうむる」と豪語していた。

 高柳織部は、殉死を考えなかったわけではない。否、むしろ、元茂に殉じることは自然のことだと思っていた。しかし、高柳織部が殉死しないことを騒ぎ出している連中がいることを知り、その軽挙妄動が有為の人間を殺していることに腹を立てて、あえて殉死の道を選ばなかったのである。

 しかし、考えもなしに世の風潮に踊らされて殉死を強要する人々は、高柳織部を激しく非難し、ついには夜襲をかけてきた。そこには藩の老臣たちの意向も働いており、彼は言っても仕方がないことだと悟って、塀にもたれて立ったまま「これは殉死ではない」と語って腹を切るのである。しかし、夜襲をかけてその壮絶な最後を見たはずの者たちは、なお、主君の厚恩を忘れ、武士道を踏みはずして、詰め腹を切らされた不覚者として、織部に汚名を着せたのである。織部の子高柳外記は「不覚者の子」として蔑まれた。織部を襲った者の中には、妻の兄も含まれていたし、後の藩の重臣となった者もいた。

 その彼らが、藩主鍋島直能の死に際して追腹を切って殉死すると言い張る高柳外記を、今度は、殉死は武家諸法度の中で禁じられていると主張して彼の殉死を止めようとするのである。父織部への行為を「時世がそうさせた」と言い放つのである。

 外記には妻もなく、母と二人暮らしであり、自ら胸を病んでいた。彼の脳裏に老いた母の不安げな顔が思い浮かぶが、いよいよ直能が死去した時に、隣室に詰めて見事に腹を切るのである。藩の体裁上、彼の死は乱心として取り扱われた。「外記の死骸は、乱心として下げ渡された」(本書184ページ)の一文で終わる。

 この作品は、戦争体験をした作者の戦後の変節ぶりに対する痛烈な批判でもある。しかし、それだけではなく、時流に流され、あたかも時代や社会状況を分析して、それに応じて生きることを是とするような在り方に対する深い反省を促すものでもある。転身が意味を持つのは、ただ悔い改めが行われた場合だけであって、それは変節とは異なる。しかし、今も「時流を読む、状況を判断する」という美名のもとで安々と変節を行うような変節漢が多いのも事実であろう。

 「拝領妻始末」は、美しい物語である。本作も『上意討ち 拝領妻始末』と題して、小林正樹監督、橋本忍脚本、三船敏郎主演で映画化された作品で、会津藩保科松平家の第3代藩主の松平正容(まさかた 16691731年)の側室であった「いち」を巡る物語である。

 ちなみに、松平正容は、第3代将軍徳川家光の異母弟で、最も優れた人物であった保科正之の六男であったが、長男、次男、三男と早世したために第2代藩主となった四男の保科正経に子がなく、正経の養嗣子となり、第3代藩主となり、徳川家から松平姓の永代使用を許された。

 その正容の側室「いち」は、容貞(かたさだ 17241750年 第4代藩主)を生むが、正容の寵愛が他の新しい側室に移ったために、家臣の笹原与五郎に下げ渡される。主君の側室が家臣の妻として下げ渡されるということは度々起こっていた。権力者はそれを横暴なこととか非人間的なこととかは思わなかったのである。下げ渡された妻は「拝領妻」と呼ばれたが、たいていは主君の側室であったという見高な思いをもっていたために、家臣の家でも同じように振舞ってしまい、夫婦仲というものさえなかったのが普通であった。

 正容は「いち」の以前にも側室を「拝領妻」として家臣に下げ渡し、その下げ渡された妻がことあるごとに夫を軽蔑して罵り、ついには破綻したということが起こっていた。それゆえ、笹原家ではそれを固く辞退しようとしたが、藩命であり、しかも与五郎自身が「いち」を妻として迎えることを承諾した。

 「いち」は与五郎の妻となり、笹原家の予想に反して慎ましやかであり、謙虚であった。しかし、与五郎の母は、それが気に入らずに陰湿な嫁いびりを繰り返した。「いち」はそれにも文句ひとつ言わずに耐えた。

「いち」は、十六歳の時に、突然、五十を過ぎた藩主の正容がその美貌に執心し、男の子をもうけるために無理やり側室に上げられたのである。「いち」には許嫁がいたが、許嫁は加増されるために「いち」を捨て、また、「いち」の父親も出世のために「いち」が側室になることを望み、それ以外の道を塞がれて側室となった。そして、悲しみを胸に秘めたたま一子を生んだ。だが、正容に新しい側室ができ、彼女はお払い箱となったのである。

 しかし、与五郎は妻となった「いち」に「そなたが殿にあいそづかしをされたおかげで、、わたしはよい女房がもらえた」と言う(本書197ページ)。「いち」は、そんな与五郎の妻となって、初めて深い愛情に包まれるのである。与五郎との間に一女が与えられ、幸せが続いた。

 だが、正容の世子が夭折し、「いち」が生んだ容貞が保科松平家の嗣子となった。「いち」は世子の母となるわけで、次期藩主の母が家臣の妻であるのは具合が悪いことになる。藩主の用人たちや家老などが、「いち」を返上するように笹原家に迫る。与五郎の母は、相変わらず嫁いびりをするが、与五郎の父は、「いち」に味方し、与五郎もまた、その藩の意向を拒否し、たとえ家が潰されようとも「いち」を守ると言う。

 藩から笹原家へ圧力がかかり、与五郎の母も弟も、与五郎にはやく「いち」を返上するように言う。親戚一同も、「いち」の父親も、「いち」の返上を強く求めるが、与五郎と与五郎の父は家を取り潰しても「いち」を守ろうとする。「いち」もまた行く気はない。

 しかし、与五郎の弟が「いち」を騙して連れ出し、「いち」はそのまま家老の家の奥座敷に監禁されるのである。そして、与五郎の元に戻るならば、与五郎を切腹させると脅す。「いち」は泣く泣く戻ることを承諾する。そして、家老の申しつけで与五郎に「いち」の返上願いを書くように与五郎に迫る。それがすべてを丸く収める道だという。だが、与五郎は断固としてこれを断る。

 これを聞いて藩主の正容は、「君命に従わなかった」ということで、与五郎と父に対して、知行召しあげ、永押し込め(監禁)の刑を下すのである。そしてまた、世子の母として奥に引き戻されたが、「いち」は、そのような扱いを受けず、母子の名乗りをすることもなく、老女(奥女中)として扱われる。正容が世子の母としての扱いをゆるさなかったのである。

 やがて、その正容が死に、「いち」も血を吐いて奥づとめから身を引き、ついに死を迎えたのである。そして、彼女の黒髪が押し込められている与五郎のもとに届けられたのである。

 こういう内容をもつ「拝領妻始末」は、政治的、あるいは社会的なことで振り回される中で、人としての意地を貫き通し、そしてそのことによって愛を高めた人間の物語なのである。与五郎と「いち」は、ほんの短い間しか一緒にいることができなかったが、彼らは決して不幸ではなかった。与五郎の父もそうである。彼らが受けた処遇は酷かったが、彼らには命を充実させるものがずっとあったからである。人は、それがあれば「生きた」と言えるのである。

 本書に収められている短編は、いずれも、政治や社会や周囲の人々に翻弄される状況の中で人として失ってはならない矜持を貫き、一瞬の光を放っていった人の姿である。短編がその「一瞬の光」を描ききっているとき、それを優れた短編と言う。本作はその優れた短編集である。

2012年12月19日水曜日

滝口康彦『一命』(2)


 朝方は重い雲が広がって寒かったが、ようやく晴れ間が見え始めている。だが、気温が低い。国政を決める衆議院選挙が行われて、政権与党であった民主党が惨敗した。政権を取った時の政策が何一つ実行されず、暮らし向きは以前より悪くなったのだから当然の結果とも言える。新しく政権を復活させた自民党もこれといった打開策があるわけではなく、現状が厳しいだけに政治への期待感が大きくなっているのは、ある意味で危険な兆候ではないかと思ったりもする。

 閑話休題。滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)の続きであるが、「謀殺」は、戦国末期の肥前(佐賀)の覇者でもあった龍造寺隆信(15291584年)による柳川城主蒲池鎮漣((かまち しげなみ 鎮並とも表され、本書では鎮並 15471581年)の謀殺事件を取り扱ったものである。

 蒲池鎮漣は、猿楽を楽しむなどの文武ともに優れた武将で、筑後十五城の筆頭大名であった。父の蒲池鑑盛(かまち あきもり)は豊後(大分)の大友宗麟の幕下で筑後を統括し、掘割を縦横に巡らせる難攻不落の柳川城を築城して、現在の水郷柳川の基礎を築き、信義に篤い優れた統治者であり、龍造寺隆信が家臣団の反乱にあった時も、彼をかくまって保護し、彼の復帰にも力を貸していた。しかし、龍造寺隆信が大友宗麟と並ぶ戦国大名へとのし上がっていったとき、佐嘉(佐賀)と柳川の距離的な近さもあって、家督を継いだ蒲池鎮漣は、大友氏を離れて、龍造寺氏に接近した。

 佐賀の龍造寺隆信は、自分の娘の玉鶴姫を蒲池鎮漣に嫁がせ、鎮漣の義父として彼を筑後侵攻に協力させるのである。そして、やがて柳川の領有化も図っていく。蒲池鎮漣は、柳川城主として、こうした龍造寺隆信の野望を認めることはできないし、隆信の冷酷非情な行為に反感を抱いていたこともあり、ついに龍造寺隆信との離反を決意する。これに怒った龍造寺隆信は、かつての恩顧も無視して、柳川城を2万の大軍で包囲するが、難攻不落の柳川城は落ちず、鎮漣の叔父の田尻鑑種(鎮漣の母の弟)の仲介で和睦を結ぶ。

 しかし、柳川は龍造寺隆信が九州中央へ進出するための要の場所であり、龍造寺氏を離れた蒲池鎮漣が薩摩の島津氏との接近を図っていたという動きもあって、再度柳川侵攻を行うことにして、難攻不落の柳川城を責めることは難しいから、城主の蒲池鎮漣を謀殺することを画策したのである。

 龍造寺隆信は、龍造寺家と蒲池家の和睦の印として、鎮漣が好んだ猿楽の宴を催すとして、柳川に使者を送り、鎮漣を誘い出そうとしたのである。龍造寺隆信の腹黒さをよく知っている蒲池鎮漣は、初めこれを頑なに拒否するが、使者は、鎮漣の母や重臣を説得してまわり、母親思いの鎮漣はついに断りきれなくなって、万一の場合に備えて屈強な家臣団をつれて肥前に向かう。しかし、与賀神社参拝の際に圧倒的多数の軍団に取り囲まれて、家臣団は討ち死にし、鎮漣はそこで自害した。龍造寺隆信の娘で鎮漣の妻となっていた玉鶴姫は、父が夫を謀殺したことを知ると、鎮漣の後を追って自害している。

 龍造寺隆信は、蒲池鎮漣を謀殺すると、直ちに兵を柳川城に向けて出陣させ、鎮漣一族を抹殺させた。しかし、そのあまりに非道な仕打ちで、筑後の有力者たちの反発を招き、それが以後の龍造寺家の没落に繋がっていった。

 本書は、その龍造寺隆信の使者として、正直者であると知られていた西岡美濃と田原伊勢が選ばれ、彼らが柳川に向かって、謀殺を隠しながら嘘をついて鎮漣の母の千寿を説得していく姿を描いたものである。彼らは、主君から嘘をつくことを命じられ、苦渋のうちに説得をしつつも、夜伽に差し出された娘に手をつけないことで、なんとか密かに謀殺の計画を知らせ、謀殺を未然に防いで、蒲池鎮漣の命を救おうとした。しかし、手をつけられなかった娘が、手をつけられなかったのは自分に魅力がないことだと恥じて、嘘をついて手をつけられたと言ってしまったことから、母の千寿が謀殺はないものと考えて、鎮漣を肥前に送り出してしまった、というのである。「皮肉」な結末は、ほんのささやかな嘘から生じる。でもそれが人の世の事実だろう。

 思うに、蒲池鎮漣は優れた武将であり才覚のある人であったが、彼の悲運は、彼がもっていた才覚によって情勢判断をし、自らの身をその判断に従わせて右往左往させたところにあるのかもしれないと思ったりもする。あるいは、武将としてではなく人として、母親や妻への思いやりに流されて、表面的な優しさをもってしまったところにあるようにも思われる。情勢判断は極めて大事だが、自分を見失ってその情勢に身を委ねると、人は滅びの道を行くしかなくなる、とわたしは思う。蒲池は滅び、蒲池を滅ぼした龍造寺も滅ぶ。それが歴史だろう。主家に命じられた不本意なことをしなければならない家臣の苦渋が本書では優れて描かれている。

 「上意討ち心得」は、真田増誉という人が、徳川幕府が成立する慶長から元和、そして五代将軍綱吉に至るまでの徳川家に関係にあった人の事跡をまとめた『明良洪範』という書物に記載されているエピソードのひとつを基にして書かれた作品である。ちなみにこの『明良洪範』は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で全巻を読むことができる。

 徳川御三家の一つである紀州藩は、家康の第十男徳川頼宣が藩祖であるが、頼宣が紀州五十五万五千石を成立させたとき、彼は多くの浪人を召抱えた。その時召抱えられた浪人の中には有象無象の人間がおり、本書に登場する浅香大学もその一人として描かれ、彼は藩内屈指の剣の手練であるが、狷介な性質で、些細なことから頼宣お気に入りの近習を斬り捨てて、城下を出奔したのである。怒った頼宣は、上意討ちの命令をくだし、追っ手を選りすぐって向かわせるが、6名のうち4名までが彼に返り討たれ、残り2名が大和郡山の町家に潜む浅香大学の居場所を探し出して戻ってきた。

 業を煮やした頼宣は、里見主馬という一人の家臣に上意討ちの命を下す。しかし、指名された里見主馬は、武芸も学問も平凡で、とても藩内屈指の腕を持っていた浅香大学の相手になるような人物ではなかった。彼が推挙されたのは、浅香大学と並ぶ藩内屈指の剣客で、妹の小雪と主馬との結婚を望んでいる祇園弥三郎の働きかけがあったのである。弥三郎の助太刀があれば、主馬は主命を果たして浅香大学を討つことも不可能ではないと思えたからである。

 里見主馬はごく平凡で目立たない男であり、男ぶりもあまりよくなく、見栄えもしない男であり、取り柄がなさすぎるということで弥三郎の親類縁者からはふさわしくないともなされていた。ところが、どうしたことか妹の小雪は、その主馬に惚れており、弥三郎は兄として、なんとか主馬に手柄を上げさせて、妹との結婚を実現させたいと思ったのである。藩主の頼宣も「介添えには祇園弥三郎を連れていけ」と命じる。

 しかし、主馬は弥三郎の助太刀を巌として否み、単独で郡山に出かけるのである。案じた小雪は、大学に劣らない腕を持つ兄の助太刀を受け入れるようにと主馬の家に行くが、主馬の母親から、かえって、「あなたがたは侍の心得を知らない」とたしなめられてしまう。上意討ちの命は、いたずらな功名争いを避けるために、必ず一人で受けよ。それが上意討ちの心得なのである。母親は「主馬は立派に死んでくる」と言い放つ。

 ところが、武芸に秀でたところがなく、浅香大学には負けると思われていた里見主馬が見事に大学を破って主命を果たす。主馬には秘策があり、本来の左利きの利点を活かして、慢心していた大学を破るのである。しかも、それが上意討ちであることの証を立てる策まで用い、紀伊藩内に彼が上意討ちを見事に行ったことを証し立てる。

 こうして主馬は見事に役目を果たした者として、これまでの目立たない平凡な男から命がけで武士の面目を果たした者として自らの運命を変える。それは小雪との結婚をも可能にすることであった。

 しかし、小雪は、実は、主馬の人目をひかない平凡さに心を惹かれ、取り柄のないところが好きだったのであり、彼が注目を浴びることに寂しさを感じてしまうのである。

 たいていの男は、自分が立身出世をして有為な人間であることが自分の魅力を高めることだと思っているが、女は、男にそれを求める人もいるが、そうでない細やかでも満たされていることを願う人もいる。いずれにしても確実なことは、人間の幸せは立身出世にはないということである。

 「高柳親子」は、作者が1957年に第10回オール読物新人賞の次席を得た商業誌のデビュー作品で、肥前佐賀藩の支藩であった小城藩を舞台にして武家社会の風潮を痛烈に描ききった作品であり、この作品が生まれた時代背景なども考慮したいので、また、次回に記したい。

2012年12月15日土曜日

滝口康彦『一命』(1)


 久しぶりに篠つく雨の寒い日になった。車の水しぶきを上げる音が、どこか切ない。もはや騒音としか思えないようなお題目ばかりを叫ぶ選挙カーが行き交っていく。生きることのつらさや切なさを政治家は感じているだろうか。そんな思いを、ふともった。

 昨夜は、滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)を同級生で作詞家のT氏が、わざわざ届けてくれて、これが珠玉の作品集であることを痛感しながら読んた。

 滝口康彦(19242004年)は、生涯のほとんどを佐賀で過ごした優れた作家で、下級武士の悲劇などを鮮烈に描ききった人である。先ごろ(2011年)、この人の『異聞浪人記』を原作とした『一命』が、三池崇史監督、市川海老蔵の主演で映画化されている。彼は直木賞を受賞しなかったが、6回も候補としてノミネートされている。しかし、作品のキレということでは極上の作品を書いている。

 本書には、彼の作品の中から、映画の原作ともなった「異聞浪人記」、「貞女の櫛」、「謀殺」、「上意討ち心得」、「高柳父子」、「拝領妻始末」の5編の短編が収められ、いずれも作家の真髄を示すものとなっている。これは映画化されたことで新たに編まれた文庫本である。

 「異聞浪人記」は、短編時代小説の傑作中の傑作で、1958年にサンデー毎日大衆文芸賞を受賞した作品で、既に1962年に小林正樹監督、仲代達矢主演の『切腹』という表題で映画化されており、2011年のものはそのリメイクであるが、1963年に光風社から出され、1982年に講談社で文庫化された『拝領妻始末』に収録されている。

 時は、三代将軍徳川家光の時代である寛永年間で、前将軍徳川秀忠によって改易・取り潰された安芸・備後五十万石の福島正則の家臣で、江戸で浪人生活を送っていた津雲半四郎という5556歳頃の武士が、老中井伊掃部守直孝の屋敷に現れ、呻吟して生活をするよりも、いっそ武士らしく腹を切りたいから玄関先を貸してくれと願うところから物語が始まる。戦国勇壮の武将の一人であった福島正則は、関ヶ原の戦いで反石田三成側として徳川家につき、安芸・備後五十万石の大名となるが、広島城の改築に絡んで、みだりに城を改築したという言いがかりをつけられて改易されたのである。改易された家臣の浪人生活は辛苦を極めた。

 その頃、生活苦に喘ぐ浪人たちが、屋敷の庭先を借りて切腹をしたいと申し出て、相手を困らせて金を脅し取るという狂言切腹するということが時折起こっていた。津雲半四郎が「赤備え(武具をすべて赤く染めた)」の武門で鳴らした井伊家を訪れた時も、屋敷の家老をはじめとする用人たちは、津雲半四郎もまたそのような狂言切腹ではないかと思っていた。彼らは、狂言をゆるさずに、なぶって腹を切らせるように仕向けるのである。

 ところが、津雲半四郎はひるむことなく堂々と切腹に臨み、介錯人を指名する。しかし、彼が指名した介錯人はいずれも出仕していなかった。そして、彼の口から言魂がほとばしり出る。

 津雲半四郎には一人の寵愛の娘がいた。名を「美穂」と言う。妻亡きあとで半四郎は「美穂」を育て、浪々の貧しい生活ながらも「美穂」は美しく育った。そして、半四郎の無二の親友の忘れ形見であり、後事を託された千々岩求女と相愛となり、結婚し、男子が生まれた。貧しくささやかながらも幸せな生活が織りなされてきた。しかし、男子が三歳になった時に、「美穂」が血を吐いて倒れてしまったのである。カツカツの生活では薬代を出すこともできない状態に陥ったのである。そして、彼らの子どもも発熱してしまったのである。求女は医者を呼ぶ金を作ると言って出て行った。

 そして、窮した千々岩求女が向かった先が井伊家であり、彼はやむにやまれずに狂言切腹を行うのである。井伊家は、求女が狂言切腹であることを十分承知の上で、よってたかって彼に腹を切らせる。求女は覚悟して、せめて数日待ってくれというが、井伊家の家老をはじめとする用人たちは聞き入れずに、無理やりそう仕向けたのである。その時、求女が差していた脇差は竹光であった。求女は脇差までも売り払って生活を支えていたのである。井伊家は、それが竹光であることを承知の上で、その竹光で彼に腹を切らせたのである。彼らは求女をなぶり殺しにした。「以後のみせしめ」、それが井伊家の言い分であった。

 そして、発熱した男の子は高熱に苛まれて死んでしまい、それから三日後には「美穂」も亡くなってしまった。

 津雲半四郎は、狂言切腹もあさましい所業ではあるが、井伊家の人々の仕打ちも酷い、と言う。「武士たるものが死のどたん場で、恥も外聞もなく、一両日がほどの御猶予を願いたいと訴えたは、よくよくの事情があればこそ、せめて、一言なりとも、いかなる理由あってのことか、問いただすほどの思いやり、方々にはなかったものか」(本書33ページ)と激憤の中で語る。

 半四郎は、求女に竹光で腹を切らせようとよってたかって責め立てた用人たちの髷を切り落として、それから飄然と井伊家に現れたのであった。そして、彼は、それだけを告げると家中の者たちと斬り結び、切り刻まれて死を迎えるのである。それは、あまりにも壮絶である。是も非もない。ただ、武士の一分で一矢報いるだけであるが、わたしには津雲半四郎の口惜しさがよくわかる気がする。

 「貞女の櫛」は、1983年に講談社文庫で出された『葉隠無残』に収められている作品で、『葉隠』の巻九に記載されている田代利右衛門女房という女性に関するエピソードから題材が取られているもので、『葉隠』が貞女の鏡のようにして記している事柄を、不義密通の罪で無礼討ちされた奉公人の純愛として描き出したものである。

 物語は、田代家に奉公人として仕え、機転の利く働き者として重宝されていた巳之吉の遺体が、戸板に乗せられて無残な姿で金立村の実家に運び込まれるところから始まる。無礼討ちをされて首と胴が切り離されたという。田代家に気に入られていた優しい兄が何故こうなったのか。妹の「おくみ」はその理由を知りたいと思った。

 藩内で様々な噂が飛び交う。巳之吉が主人の妻である「夏」に懸想して、主人の留守中に不義密通を迫り、「夏」の機転で物置小屋に閉じ込められ、帰ってきた主人に首をはねられたというのである(『葉隠』巻九はそのように記している)。しかし、兄の巳之吉が不義を働こうとしたことがどうしても信じられない「おくみ」は、田代家を訪れて、「夏」と会い、その真相を聞くのである。「夏」は、藩内でも評判の美人で、溢れるような色気がある女性だった。「夏」は、巳之吉が下男の矩を越えて懸想したと言い張るが、首を切られた巳之吉の顔には満ち足りた安らぎが漂っていた。「おくみ」はその理由を聞く。

 「夏」は、あくまでも奉公人としてではあるが、巳之吉には優しく接していた。その優しさが巳之吉には響いて、一心に「夏」を想うようになっていったのである。そして、巳之吉は、確かに主人の利右衛門が留守の時に、その想いを遂げようとした。そして、「夏」は、貞女として機転を利かせて物置小屋に閉じ込めたのである。だが、閉じ込められた巳之吉は、想いを打ち明け、命を捨てていたのだから、と言い張って、穏便に済ませようとする「夏」の申し出も断り、平然と利右衛門の刀の下に首をさらしたのである。巳之吉は、ただ自分の一途な想いに殉じた。「おくみ」はそのことを知る。不義密通を働こうとした男として噂される巳之吉が、実は、純愛を貫こうとしたことが行間に漂うような作品である。

 短編とは言いながら、ここに収められているのは内容も濃く、また優れた余韻を響かせる作品であり、どれにも切なくてやるせない情景が描かれているので、「謀殺」以降については、また次回に記すことにする。

2012年12月13日木曜日

真野ひろみ『裏葉菊』


 冬晴れの寒い日々が続いている。このところ若干慌ただしい日々になっているが、気分はゆるやかである。ほとんどゆっくりと仕事に向かっているということもあるかもしれない。寒いこともあって机に向かっている時間が長い。

そんな中で、真野ひろみ『裏葉菊』(2001年 講談社)を、ある種の感動を持って読み終えた。この作者の作品は初めてで、奥付によれば、1971年に愛知で生まれて、名古屋大学を卒業後、会社勤務の傍らに小説を書き始められて、講談社が設けていた時代小説大賞の最後の年(1999年)の最終候補となるも、2000年に『雨に紛う』(講談社)で作家デビューされた方らしい。文章は読みやすくて洗練されている。

 『雨に紛う』は、幕末の頃に箱根で散った伊庭八郎の姿を描いたものであるが、『裏葉菊』は、美濃(岐阜県)の郡上藩の「凌霜隊(りょうそうたい)」の姿を背景にして、ひとりの人間の姿を描いたものである。

 「凌霜隊」は、長い間、歴史にその名すら記されることがなかったか、あるいは消されたかしてきた人々で、大正11年(1922年)に発行されている『郡上郡史』には、ただ「佐幕に与する士卒は遂に藩を脱走して他藩の叛徒に党するに至る」とだけしか記されておらず、明治維新の際の反朝廷行動をとった一派としてしか位置づけられていなかった。彼らが転戦した塩原や会津にもその名は記されることがなかったのである。しかし、徐々にその実相が明らかになって、そこには幕末期に置かれた郡上藩四万八千石という小藩の悲劇があったことがわかってきたのである。

 郡上藩(八幡藩ともいう)の最後の藩主青山幸宣(18541930年)が父の幸哉の死去に伴って家督を継いだのは9歳の時で、藩政は国家老の鈴木平左衛門や江戸家老の朝比奈藤兵衛によって行われていた。青山家はもともと徳川幕府の譜代大名で、藩も最初は徳川幕府を支持する佐幕派であったが、大政奉還(1867年 慶応3年)、北辰戦争(1868年)と続く政治の激変の中で、藩内は佐幕か勤王かで二分され、地理的にも京都に近いことから国元では尊王派に傾き、2月には新政府への恭順を示した。藩主の幸宣はまだ14歳に過ぎなかった。しかし、江戸藩邸では徳川家への恩顧を唱える勢力が圧倒的に強かった。ちなみに、現在の東京の青山は、この青山家の上屋敷があったことからこの地名になったのである。

 鳥羽伏見の戦いで薩摩・長州連合軍に錦の御旗が下されたとはいえ、情勢は不鮮明で、小藩に過ぎなかった郡上藩青山家は、生き残りをかけて、表向きは新政府軍への忠誠を示しながらも、幕府が復興したときのために、江戸詰めの藩士たちを脱藩という形で密かに会津へと送って、いわば二股政策を行ったのである。脱藩と会津支援は、いわば藩命であったのであり、この時に会津に向かったのは四十数名で、江戸家老朝比奈藤兵衛の息子の朝比奈茂吉を隊長にして、青山家の家紋が葉菊であることから、葉菊が霜を凌いで花を咲かせるという意味で、隊名を「凌霜隊」としたのである。これは、言うまでもなく苦境の中を忍耐していくという彼らの強い意志を示す隊名である。この時、隊長となった朝比奈茂吉は若干17歳の少年であった。

 本書の表題が「裏葉菊」とされているのは、郡上藩の藩命でありながらも表に出すことができないという「凌霜隊」の存在そのものを適切に表すものだと思われる。

 「凌霜隊」一行は江戸湾から船で海路を北上しようとするが嵐のために千葉の行徳に上陸し、前橋に行き、そこから陸路を辿って会津に向かった。途中、小山で戦い、宇都宮では元幕府歩兵隊長であった大鳥圭介の下で激戦を繰り広げた。大鳥圭介のまずい指揮もあり、苦境に陥ることもしばしばあったが、激戦を繰り返して日光街道から塩原に向かう。そこで会津軍と合流し、塩原温泉守備を行うが、次第に新政府軍に押されて、横川、田島、大内峠で新政府軍と激戦を展開した。

 「凌霜隊」は、弱冠17歳の朝比奈茂吉の下でよく統率され、乱暴や略奪を働くこともなく、特に塩原温泉守備の時は、土地の人たちにも慕われて、祭りの時などは郡上八幡の盆踊りなども披露したりして、町の多くの人々から尊敬もされていたという。しかし、新政府軍は迫り、その塩原温泉も引き払わなければなくなり、会津藩は塩原温泉の家々が新政府軍に使われないために全ての家の焼き討ちをして撤退することを命じるのである。

 しかし、朝比奈茂吉以下の「凌霜隊」は、世話になった塩原温泉の家屋を焼き払うにしのびなく、せめて彼らが滞在した和泉屋と丸屋だけは残したいと、後に再建できるように丁寧に解体し、また妙雲寺は塩原の人々が雨露を凌ぐ場所として、この妙雲寺にあった天井板の菊の紋章に×印をつけただけで、近くの畑に薪を積んで焼いて会津藩の目を盗んで残した。この和泉屋と丸屋は後に再建され旅館として現存しているし、この時に妙雲寺を焼かなかったことが、後に彼らの命を救うことにつながっている。

 「凌霜隊」は、その後、激戦を繰り返しながら会津に撤退し、篭城戦に入っていた会津若松鶴ヶ城に入り、白虎隊とともに防戦したが、ついに会津降伏となり、彼らは捕縛されて江戸に送られ、罪人として旧郡上藩に預けられ投獄され、郡上八幡に罪人として護送される。その時、隊長であった17歳の朝比奈茂吉が入れられた唐丸篭には「朝敵之首謀者・朝比奈茂吉」と大書された札がつけられていたという。その時は既に二十数名になっていた。

 郡上八幡に送られた彼らは、罪人同様の厳しい環境の「揚げ屋(牢獄)」に入れられ、やがて全員に死罪の判決が出る。元々、密かにではあったが藩命として会津に転戦したのだが、元国家老で新政府の大参事となっていた鈴木平左衛門は、新政府におもねるために「凌霜隊」が藩意であったのをひた隠して、その罪を江戸家老の朝比奈藤兵衛に負わせ、「凌霜隊」の抹殺を図ったのである。江戸を出て2年に渡る厳しい牢獄での生活が続いた。

 その頃、塩原妙雲寺の住職の塩渓が「凌霜隊」が寺を焼失から守ってくれたことを京都の本山である妙心寺に伝え、妙心寺は隊士たちに礼を言うように郡上八幡の末寺である慈恩寺に伝えた、慈恩寺の住職の淅炊(せきすい)は、「凌霜隊」の隊士たちが罪人として禁錮されていることを知り、本山の妙心寺に後押しを受けて、郡上内の寺に呼びかけ助命嘆願の動きを始め、宗派を越えた支援の輪が広がっていった。藩庁に出向いた淅炊は、鈴木平左衛門の処置を東京の政府にまで言いに行くとまで言う。こうして、明治2年秋に「凌霜隊」の禁錮が解けて自宅謹慎となり、翌明治3年春に彼らは赦免となったのである。

 「凌霜隊」は、郡上藩存続のための犠牲部隊であり、本書ではそれを「人柱」として展開していくが、作者は、この「凌霜隊」の歴史を見事に掘り起こし、それぞれの場での「人柱」となった人間の姿を展開する。作中の主人公森嶋胖之助(もりしま はんのすけ)と彼が手を着けてしまって孕ませた女中の「おつる」以外はすべて実名で登場する。

 物語は、森嶋家の次男としての少年胖之助の中途半端に置かれたやりきれなさから始まる。家督を継いだ兄は、大政奉還後の揺れ動く藩内で勤王派としての活動を始めていたが、胖之助は、徳川家の譜代大名としての郡上藩青山家の「忠」を心に抱いていた。勤王派と佐幕派の幕末を揺るがした対立は、森嶋家の兄と弟の対立でもあった。

 加えて、森嶋家の中で唯一自分を認めてくれていた兄嫁が長女の出産と共に死に、兄は生まれた長女を抱く事もなく冷たい仕打ちをしているように思われた。胖之助はやり場のない憤りを感じて自暴自棄となり、学問所も剣術の修行も途中でやめ、誰にも認められない「鼻つまみ者」としての日々を過ごし、その鬱憤を、女中の「おつる」を無理やり犯すことで晴らしていた。

 時代は大きく揺れ動き、藩内における国元の勤王派と江戸藩邸の佐幕派の対立も激化していく。そして、彼の友人で江戸詰めをしていた山脇鍬橘(くわきち)が国元に帰ってきた。大阪城にいた前将軍の徳川慶喜からの郡上藩青山家への援軍要請に応えるために江戸詰めの藩士と国元の人数を加えて大阪城に向かうためであった。ところが、大阪城の徳川慶喜自身が大阪城から逃げのびたので、彼らは出陣することなく、勤王派の多い国元に宙に浮いた形で留まらざるを得なくなるのである。江戸詰めであった藩士たちは、徳川家への恩顧の「忠義」を唱える熱烈な佐幕派だったのである。

 彼らは国家老の鈴木平左衛門から密かに呼び出されて、脱藩し、江戸に向かう。その時、主人公の森嶋胖之助は、鬱憤晴らしに手篭めにしていた女中の「おつる」から妊娠を告げられ、堕ろしてしまえと言い捨てていた。そして、脱藩組と共に彼も脱藩し、江戸で「凌霜隊」の一員となっていくのである。彼だけが脱藩と「凌霜隊」の結成が藩命によるものとは知らずにいた。こうして、「凌霜隊」での各地ので激戦を経験していくのである。

 そして、この経験によって、森嶋胖之助は自分がいかに「おつる」に対してひどいことをしたのかに気づき、死地の中で「凌霜隊」の仲間たちを失いながら人間としての成長をしていくのである。彼は人間としての柔らかみを取り戻していく。「凌霜隊」の各地での転戦が丁寧に語られ、そして敗れ、彼らは罪人として国元に返されて、過酷な「揚屋(牢獄)」での日々が続く。藩の手のひらを返したような仕打ちの中で、森崎胖之助は、これが判明に由ったことを知らされ、自分たちが「人柱」であったことを知らされていくのである。彼らは獄中死をするように仕向けられていた。

 作品では、森嶋家が胖之助の脱藩と朝敵となったことで減俸され、実家に返されていた「おつる」が野菜売となって彼らが入れられている「揚屋」に来ていることが分かり、事実を記した書面を「おつる」の手を経て密かに慈恩寺の住職の淅炊(せきすい)に届け、そこから彼らの赦免につながっていったことになっている。「おつる」は自分をひどい目に合わせた胖之助のために郡上内の寺々を回り、彼らの赦免のために懸命に動いたのである。

 こうして、彼らは赦免され、胖之助は「おつる」に詫びを入れて、夫婦になろうと言い出すが、「おつる」は一人で生きていく決心をするのである。「おつる」が身篭った子は、胖之助の母親の機転で無事に生まれていた。物語は、自由になった朝比奈茂吉が椋原義彦と名を変えて彦根に向かうところで終わる。

 物語の中で、郡上八幡の日本一美しい山城と言われる八幡城の築城の際に「人柱」が建てられたことが触れられ、森嶋胖之助の「人柱」になった「おつる」、郡上藩の「人柱」になった「凌霜隊」が重ねられていく。しかし、「おつる」も「凌霜隊」も「ただ一筋の道」を歩んでいくのである。

 物語の中で、「凌霜隊」の一員であった岡本文造が自分たちを助けてくれた「おつる」に贈った誌が記され、「梅は白雪を凌ぎて 十分に香し」の言葉が記されている。この言葉が全てを物語っていると思う。

 ちなみに、この言葉で北宋の詩人であった王安石の梅を歌った「寒を凌ぎて独り自ら開く」を思い起こした。この歌は、長く心に留めていたいと思っている。『裏葉菊』は、その文学性以上に優れた作品だと思う。