2012年7月11日水曜日

火坂雅志『軍師の門』(1)


 昨日、今日と、暑い夏の日差しが降り注いでいる。近くの小学校でプールの授業でもあっているのだろうか、子どもたちの歓声が響いてくる。こういう光景は本当にいい。

 先に「軍師」と呼ばれた黒田官兵衛孝高を描いた上田秀人『月の武将 黒田官兵衛』(2007年 徳間文庫)を読んだ際に、同じように黒田官兵衛を取り扱った火坂雅志『軍師の門 上下』(2008年 角川学芸出版)を読んでみたいと思っていたが、先日、図書館に行った際にこれが書架に並べてあったので借りてきた。

 火坂雅志は、この書物の中で、まず、竹中半兵衛重治(15441579年)の姿を描くことから始めている。竹中半兵衛重治は、美濃(現:岐阜県南部)の斎藤氏(応仁の乱で美濃の実権を掌握し、戦国時代に斎藤道三が継承した)の家臣で、大野郡大御堂(現:岐阜県揖斐郡)の城主であった竹中重元の子として生まれ、父の死後に家督を継いで、菩提山城主(菩提山に居を移して城を築いたのは父の重元)となり、美濃の国主であった斎藤義龍(義龍は父の道三とはうまくいかずに、父親と兄弟を殺している)に仕え、義龍の死後は、その子の斎藤龍興に仕えた。

 時代は織田信長が台頭してきて美濃攻略を始めた頃だが、斎藤勢は竹中半兵衛重治の戦術などでこれを退けていったりしている。だが、主君の斎藤龍興は凡庸な人間で、酒色に溺れ、一部の気に入った側近だけを重用して、竹中半兵衛重治などは遠ざけられていた。

 『太閤記』や『常山紀談』によれば、竹中半兵衛は、体が弱く、体格も見た目が痩身で女性のようで、出陣するときも痩せ馬に静かに乗っているだけのような人で、そのために主君の龍興や家臣団から侮られて、嘲弄され、櫓の上から顔に小便をかけられたこともあったと言う。

 だが、そうしたことが重なる中で、竹中半兵衛は主君の斎藤龍興や家臣団を見限り、弟や舅の安藤守就(もりなり)とともに、わずか1617人の手勢で龍興の居城であった稲葉山城(後の岐阜城)を奪い取るという離れ業をやってのけた。何度も攻撃したがついに稲葉山城を陥すことができなかった織田信長がそのことを知って美濃の半国と引き換えに稲葉山城を譲るように交渉してきたが、竹中半兵衛は断固としてこれを拒否し、その年(1564年-永禄7年-)の八月には、逃げのびていた斎藤龍興にあっさりと城を返している。

 後々のエピソードでも、竹中半兵衛の功績に報いようと秀吉(豊臣秀吉)が加増を申し出たのを、竹中半兵衛はあっさりと断ったと言われる(『武功雑記』)ほど、執着心がない人で、せっかく奪い取った城を元の城主に返すには、それなりの理由があったと思われるが、彼が世人とは全く違う価値観をもっていた人であったのは事実であろう。本書では、そのあたりを「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」の格言のように「名を立てる」ということに置いていたとして展開していくが、わたしには、竹中半兵衛という人は世の常識では測り知ることができない全く違う価値観を生きた人のように思える。半兵衛の価値観は、やはり、信義にあった。彼が稲葉山城を奪ったのは、斎藤龍興がその信義に値しなかった人にすぎなかっただけではないだろうか。

 その後、竹中半兵衛は、北近江の浅井長政の客分として、浅井家の下で一年余を過ごすが、おそらく、温厚ではあったがそれ以上のものを浅井長政に見い出せなかったのか、そこを引き払って郷里で隠棲する。浅井家でも、竹中半兵衛の武功を知りつつも、見た目が婦人のようで、小さくひ弱に見える竹中半兵衛を重用することはなかったのかもしれない。歴史に「もし」はありえないが、もし、竹中半兵衛が浅井家に残っていたら、後に浅井家が滅亡することにはならなかったのではないかと思ったりもする。人の真価を見抜き、これを用いることができなかった者たちは、ことごとく滅亡している。

 竹中半兵衛の真価を見抜いていたのは織田信長である。織田信長は、1657年(永禄10年)に美濃の斎藤氏を攻略し、竹中半兵衛を家臣に加えたいと考えて、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に命じて彼を勧誘し、後の創作的なエピソードではあるが、秀吉はこれを『三国志』の劉備玄徳が諸葛亮孔明を招いた時のように「三顧の礼」をつくし、竹中半兵衛はその時に秀吉の才能を見抜いて、信長に直接仕えるのではなく、秀吉の家臣になることを了承したと言われる。

 秀吉は信長の家臣であるから、おそらく、竹中半兵衛が秀吉の寄騎として仕えることを了承したのだろうと思われる。1658年(永禄11年)に織田信長は足利義昭を室町幕府第14代将軍に就任させ、「天下布武」を実行しようとしたが、将軍となった足利義昭は次第に増上慢になり、各地に密書を送るなどして自己の権力掌握へと動きを見せ、越前の朝倉、三好三人衆を中心にした摂津の三好家、そして後に大阪の石山本願寺(一向宗=浄土真宗)の顕如らによって織田信長包囲網が形成されるようになっていく中で、1570年(元亀元年)、信長が美貌の妹のお市を妻にやった浅井長政が裏切り、織田軍と朝倉・浅井軍が姉川(現:滋賀県長浜市)の川原で決戦することになる(「姉川の戦い」)。この合戦の後に、秀吉は竹中半兵衛と共に押さえとして横山城(現:滋賀県長浜市)に置かれることになる。このあたりで、竹中半兵衛ははっきりと秀吉のもとで働くようになったのではないかと思われる。

 しかし、本書ではエピソードに従い、秀吉が信長の名を受けて「三顧の礼」を尽くして竹中半兵衛のもとに自ら通い、その時に竹中半兵衛が秀吉の人柄と才能に惹かれていった次第を物語っていくのである。そして、そのころに、黒田官兵衛(この時はまだ小寺姓)が竹中半兵衛に憧れて、彼を訪れるが、半兵衛に「悪くなれ。智者は悪者」と言われてすごすごと帰っていったという展開になっている。

 実は、竹中半兵衛と黒田官兵衛がいつ最初の出会いをしたのかは記録になく、記録にないということは作者が自分の想像力を自由に発揮できるということでもあり、このあたりの出会いの物語が作者の人物観をよく表していると言えるかもしれない。ただ、黒田官兵衛が竹中半兵衛を訪ねた際に、偶然、竹中半兵衛の助けを何としても得たいと思っていた豊臣秀吉(この時ままだ木下姓)と会い、黒田官兵衛が秀吉の人物性に驚嘆していく出来事が描かれるが、これはあまりに史実とかけ離れたものではないかと思ったりはする。また、黒田官兵衛と竹中半兵衛が最初に出会った時に、自分が思い描いていた智者の姿とは異なっていたことや自分と半兵衛の違いに愕然としていく姿が描かれるが、いかに黒田官兵衛がまだ若い頃であったにせよ、創作しすぎのような気がしないでもない。

 個人的な所感を言えば、こういう書き出しの部分には、竹中半兵衛と黒田官兵衛という二人の傑出した人物を描くことに対する作者の「気負い」のようなものが感じられたのである。しかし、物語は、史的な事実に即しながらも面白く展開され、上巻は、秀吉の播磨攻めと二人の智者の活躍、そして、黒田官兵衛が荒木村重によって長い間監禁され、ついには不具を得てしまったことや、その間に、信長に人質として出していた黒田官兵衛の子の松寿丸(長政)を自分の信義や命までも賭して守ったこと、お温和で穏やかな中に燃えるような思いを秘めて生きた竹中半兵衛の死で終わる。竹中半兵衛が秀吉に言い残したことは「寛容の心をもってことに当たれ、仁愛をもって徳政を行え」ということであったと作者は記す。竹中半兵衛は、享年三十六で、秀吉の三木城攻めの中で死を迎える。半兵衛の墓は、今、陣地があった兵庫県三木市平井山観光ぶどう園と志染町の栄運寺にある。黒田官兵衛は、その子の松寿丸だけでなく、囚われの身となった自らの命も半兵衛によって救われたのである。黒田官兵衛という人は、生涯、そのことを忘れなかった。

 この中で、労咳(結核)の病を得て、自らの死を覚悟した竹中半兵衛が医師であった徳運軒全宗と次のように会話する場面は、特に優れていたので、抜書きしておく。

 「わたしの診立てでは、竹中どのの肺腑は・・・」
 「言うな」
 と、半兵衛は全宗をさえぎった。
 「おのれのことは、おのれ自身が一番よくわかっている」
 「ならば・・・」
 「頼む、徳運軒。わしの病のこと、羽柴家の者たちには洩らしてくれるな」
 「竹中どの」
 「人の命にはかぎりがある。誰にも、いつか終わりのときはやってくる。かぎりあるものならば、短くとも華やかに、悔いの残らぬよう花を咲かせたい。千年は望まぬが、せめてあと三年・・・。わしに時をくれ」
 「・・・・」
 諦念と生への執着にふちどられた竹中半兵衛の貌(かお)を、徳運軒全宗はしばし何も言わず、鷹のような目つきで擬視していた。
 ややあって、
 「わかりました」
 医者は深くうなずいた。
 「陽の気を高める、加減瀉白散(かげんしゃはくさん)を調合しておきましょう」
 軒を吹きすぎる風の音が寂しい。(上巻 320321ページ)

 「軒を吹きすぎる風の音が寂しい」という表現に、竹中半兵衛の人と成りがすべて表現しきれているように思われたのである。

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